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「新しい事をされる神」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月7日放映「神に会う備え」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=58799&dreamon=Y「新しい事をされる神」 甲斐慎一郎 イザヤ書、43章19節 「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている」(イザヤ43章19節) 私たちは、新年を迎えて新しい計画や目標を立てたり、新年の希望や抱負を語ったりすると、何か新しくなったような気がします。しかし通常の生活に戻ると、昨年や昨年度と少しも変わっていない自分を発見して、愕然とすることがあります。 聖書が教えているように、「日の下には新しいものは一つもな」く(伝道者1章9節)、人は、神による以外に新しくなることはできません(第二コリント5章17節)。 そこで冒頭に記した「見よ。わたしは新しい事をする」という御言葉は、どのような意味であり、何を教えているのかということを学んでみましょう。 一、報いの法則について 私たち日本人は、仏教の強い影響を受けて、過去や前世の行いの善悪に応じて報いがあるという「因果応報」の教えを無意識のうちに信じています。確かに聖書も、「人は種を蒔けば、その刈り取りもする」という報いの法則を教えています(ガラテヤ6章7節)。 しかし現実の世界は、すべての人が善悪の行いにふさわしい報いだけを受けているのではなく、いわゆる「運」とか「つき」に支配されています。聖書も、「競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ」と記し(伝道者9章11節)、この世界は、決して報いの法則だけが支配しているのではないことを教えています。 二、神の恵みについて イスラエルの民は、何度も神にそむいて罪を犯し、神が遣わされた預言者たちの警告にも耳を傾けず、ついに敵国バビロンに滅ぼされ、生き残った者は捕虜となり、バビロンに連れて行かれてしまいました。彼らは、神に対して犯した罪の報いを受けたのです。 ところが神は、ペルシャの王クロスの霊を奮い立たせられたので、王のおふれによってイスラエル人は捕囚の身から解かれ、祖国に帰ることができました(エズラ1章)。 彼らは、「主がシオンの捕らわれ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」と歌っています(詩篇126篇1、2節)。 このバビロンの捕囚からの帰還こそ、冒頭に記した神がなされる「新しい事」です。 神は、彼らの「罪にしたがって」、彼らを「扱うことをせず」、彼らの「咎にしたがって」、彼らに「報いること」をされませんでした(詩篇103篇10節)。これこそ何の働きもなく、受ける資格のない者に与えられる恵みにほかならず(ローマ4章4、5節)、神は、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに」私たちを「義と認め」、その罪を赦して、神の子どもとしてくださるのです(同3章24節)。 三、私たちの応答について このように神は、受ける資格のない者に恵みという「新しい事」をされる方であり、私たちは、その恵みを受けることができます。 しかしそれだからと言って私たちは、罪を犯しても、怠けても、神は祝福してくださるであろうと決して思ってはなりません。それは、神を侮る恐ろしいことです(ガラテヤ6章7節)。 私たちは、この恵みを受けるなら、「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」(詩篇116篇12節)、と感謝にあふれて、神と人に仕えていくことができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.12.31
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「新約聖書にみる降誕の意義」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年8月3日放映「キリスト教の信仰」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57593&dreamon=Y「新約聖書にみる降誕の意義」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章1~18節 私たちは、新約聖書を読むならば、そこに旧約聖書において準備され、芽を吹き、ひな型として示されたキリストとその救いが、ついに完成し、開花し、実体として現されたことを見るのです。 一、真の光--キリストは神が人類に与えられた最高の啓示です(9、18節) 私たちにとって何かが「見える」ためには、次の二つの条件が満たされなければなりません。すなわち「光がある」ということ、そして「目が見える」ということです。私たちの目がどんなによく見えても、もし光がなければ、何も見えません。 神と霊の世界に関することも同じであり、神が啓示の光によって私たちを照らしてくださらない限り、私たちは神に関することは何一つ分からないのです。 神は、まず自然界の光または創造の光によって私たちに神の存在を示し(ローマ1章20節)、次に歴史の光または旧約聖書の光によって神の性質を示しておられましたが、最後に御子イエス・キリストの受肉によって真昼のように明るく神ご自身を示してくださったのです。 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と記されている通りです(18節)。この方こそ、「すべての人を照らす......まことの光」なのです(9節)。 しかしどんなに明るく啓示の光が私たちを照らしても、もし目が見えなければ神を知ることはできません。信仰こそ私たちの目を開かせるものであり、目が見えるための唯一の条件なのです。 二、真の愛--キリストは神が人類に与えられた最上の贈り物です(16、17節) ヨハネは「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」と述べています(16節)。恵みとは「受ける資格のない者に与えられる無代価の賜物」のことであり、いわば神よりの贈り物です。これは神の計り知れない愛の表れであることは言うまでもありません。 私たちは、自然の恵みという神よりの贈り物がなければ、一瞬たりとも生きていくことはできません。しかし神は、この自然の恵みの上にさらに私たちを罪から救うために掛け替えのないひとり子を与えるという恵みを加えられたのです。これ以上のすばらしい贈り物がほかにあるでしょうか。 三、真の生命--キリストは神が人類に与えられた最善の救いです(12、13節) 神がキリストをこの世界に誕生させたのは、何のためでしょうか。ヨハネは、この神よりの最上の贈り物であるキリストを「受け入れた人々......には、神の子どもとされる特権」(12節)が与えられ、「この人々は......神によって生まれたのである」(13節)と述べています。すなわち神は、信じる人々の心の中にキリストを住まわせるために、キリストをこの地上に誕生させたのです。 キリストは、「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」(マタイ1章23節)と呼ばれていますが、罪から救われる真の救いとは、信じる人々の心の中にキリストが宿り、そのキリストの生命にあずかって、私たちが神と永遠に一つになることなのです。 この世の中は、暗黒と憎悪と死の状態にあります。しかし救い主イエス・キリストの降誕は、私たちに暗黒に対して光を、憎悪に対して愛を、死に対して生命を与えるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.12.24
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「旧約聖書にみる降誕の意義」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月23日放映「キリスト教の神髄」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57447&dreamon=Y「旧約聖書にみる降誕の意義」 甲斐慎一郎 創世記、3章1~24節 今年も12月を迎え、2日より救い主の降誕を待ち望む待降節(アドベント)にはいりました。そこでクリスマスの意義について創世記の3章、そして旧約聖書全体から学んでみましょう。 一、罪の悲惨さ--救い主の必要性について(16~19節) この創世記の3章16~19節には、堕落した人類の始祖に対して神が苦しみと呪いを宣告されたことが記されています。ここで注意すべきことは、この人類が受けた苦しみと呪いは、罪に対する刑罰として与えられたということです。 私たちが旧約聖書を読んでいくと、そこに余りにも多くの、しかも目を覆いたくなるような赤裸々な罪の行為が書かれているのに驚くことでしょう。殺人をはじめ、姦淫や盗み、放縦や残虐な行為が次から次へと記され、旧約聖書の至る所に神への背信と不信仰と反逆の行為が満ちているのです。 旧約聖書にこのように多くの罪が記されているのは、私たちに罪を犯すことを奨励するためではありません。それは、この創世記3章にある人類の堕落によって罪が全人類に及んだだけでなく、その罪がどんなに恐ろしいものであり、どんなに残酷なものであるかということを、いやと言うほど教えて、人類には、どうしてもこの罪からの救い主が必要であることを私たちに痛感させるためです。 二、救い主の予表--救い主のひな型について(21節) 「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださ」いましたが(21節)、この皮の衣は動物を犠牲にしてできたものであることは言うまでもありません。彼らの罪のために動物が殺されて「いけにえ」とされたのです。 私たちが旧約聖書を読んでいくと、そこに目を通すのも繁雑なくらいに詳しく牛や羊を殺して「いけにえ」にする宗教的な儀式が書かれているのに気づくでしょう。 旧約聖書にこのように詳しく牛や羊を「いけにえ」とする宗教的な儀式が記されているのは、野蛮で原始的な宗教を教えるためではありません。それは、神は聖なる方ですから、罪は必ず罰せられなければならないこと、また「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦し」(ヘブル9章22節)も救いもないこと、そしてこれらの牛や羊は、「模型」に過ぎず、本物の「いけにえ」はキリストであることを教えるためです。 神は私たちに罪を示して救い主の必要性を自覚させるだけでなく、いけにえの儀式を通して救い主のひな型を示し、罪から救われるための道を予め教えておられるのです。 三、神の約束--救い主に関する預言について(15節) 「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(15節)という言葉は、原福音と呼ばれ、キリストは十字架の苦難を受けるが、悪魔を完全に滅ぼすということを教えている救い主に関する最初の約束であり預言です。 私たちが旧約聖書を読んでいくと、そこにキリストの誕生をはじめ、その生涯から十字架の死と復活、また再臨(キリストが世の終わりに再び来られること)に至るまで詳細に預言されているのに気づくでしょう。 旧約聖書にこのように多くの預言が記されているのは、人々の興味や好奇心を満足させるためではありません。それは、神は私たちに罪を示して救い主の必要性を自覚させ、またいけにえの儀式を通して救い主のひな型を示すだけでなく、具体的に必ず約束通りに救い主を遣わしてくださるということを知らせるためです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.12.17
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「神の愛と人の愛」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57307&dreamon=Y「神の愛と人の愛」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7~16節 聖書は「神は愛です」(16節)と教え、また多くの人々も「キリスト教は、愛の宗教である」と思っています。このこと自体は少しも間違ってはいません。しかしその内容となると、この愛ほど正しく受け取られずに誤解されているものはないでしょう。そこで愛について学んでみましょう。 一、四種類の愛について 新約聖書の原語であるギリシャ語には、愛と訳される言葉が四つあります。 1.エロース(恋愛、夫婦愛) これは初恋から始まり、本格的な恋愛を経て結婚し、夫婦愛となるもので、肉体的には性愛です。 2.ストルゲー(情愛、肉親愛) これは親子、兄弟姉妹などの血縁の極めて近い者に対する愛です。 3.フィリア(友愛、朋友愛) これは自分の好みに合い、自分と共通な場を持つ者に対する愛です。 4.アガペー(聖愛、神的愛) これは人間が神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ尊いものであるゆえに愛する愛です。 二、神の愛について 神の愛は、アガペーです。これに関しては、「神の愛は、愛される価値のない者を愛する愛である」と言われることがありますが、決してそうではありません。知恵に満ちた神は、全く価値のないつまらないものを愛するような不合理な方ではありません。神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)と仰せられました。 神が「そのひとり子をお与えになったほどに」(ヨハネ3章16節)私たちを愛されたということは、神がその御子の尊い血(血はいのちを表します)によって私たちを贖われたほど、神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ人間には価値があるということなのです。 ですから人間は、その罪のために神に愛される資格を失ってしまいましたが、不滅の霊を持っているゆえに神に愛される価値があるのです。 三、人の愛について アガペーが神的な愛であるのに対して、エロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)とフィリア(友愛、朋友愛)は人間的な愛です。この両者の愛を比較するなら、次のような三つにまとめることができます。 1.愛の対象 エロース(夫婦愛)は一人の異性、ストルゲー(肉親愛)は肉親のみ、フィリア(朋友愛)は共通の場を持った特定の人というように、その愛の対象が限定されています。これは当然のことであるとともに必要なことでもあります。これに対してアガペー(神的愛)は、その愛の対象がすべての人です。 2.愛の姿勢 エロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)、そしてフィリア(友愛、朋友愛)という三つの人間的な愛は、その対象が「自分にとって(利用)価値がある」と判断して愛するものであり、ここに人間的な愛の限界があります。これに対してアガペー(聖愛、神的愛)は、「相手に価値がある」と判断して愛するものです。 3.愛の性質 三つの人間的な愛は、教えられなくても生まれつき備わっている本能的なものであるとともに、理屈を抜きにした情的なものです。これに対して神的な愛は、真理に基づいた理性的なものであるとともに、信仰と祈りに基づいた意志的なものです。 このようにエロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)とフィリア(友愛、朋友愛)という三つの人間的な愛は、私たちに生まれつき備わっていますが、様々な限界があるとともに、盲目的であり、そのために暴走したり、脱線したりする危険をはらんでいます。ですからこれらの三つの人間的な愛は、神的な愛によって支配され、正しい方向に導かれることが必要なのです。拙著「聖書の中心的な教え」38「神の愛と人の愛」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.12.11
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「聖書が教える真の人生」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=59006&dreamon=Y「聖書が教える真の人生」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、7章24~27節 キリストは、「山上の説教」の締めくくりにおいて人生を建築にたとえ、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(24節)と「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(26節)のたとえを話されました。 一、人生の土台 人間というものは、岩の上か砂の上に家を建てるのではないでしょうか。 1.「岩」について 同じたとえ話が記されているルカの福音書を読むなら、この「岩」は地表に現れている「むきだしの岩」ではなく、「地面を深く掘り下げ」(ルカ六章48節)なければ到達することができない「地中に隠れた岩」であることが分かります。 岩には次のような三つの特徴があります。 (1)表面的には見ることができず、探り求めなければならないものです。 (2)しかし探り求めるならば、手応えのある堅い確かなものです。 (3)不変、不動のものです。 聖書において「岩」というのは、神およびイエス・キリストを指しています(詩篇18篇2節、第一コリント10章4節)。 神は、表面的には目に見えませんが、探り求めるならば、見いだすことができる手応えのある不変、不動の方です(使徒17章27節を参照)。岩の上に自分の家を建てた賢い人は、この神を信じて罪から救われ、新しく生まれ変わって、神のみこころを行う人です。 2.「砂」について 砂には次のような三つの特徴があります。 (1)目に見えて、探り求める必要がなく、容易に得られるものです。 (2)しかし、つかみ所がなく、すぐに逃げてしまうものです。 (3)移り変わって当てにならないものです。 永遠の岩である神を信ぜず、容易に得られても移り変わり、つかみ所がなく、すぐに逃げてしまう目に見えるものに頼っている人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。主は、このような人は、「土台なしで地面に家を建てた人に似ています」と教えられたのです(ルカ6章49節)。 二、人生の有り様 このように岩または砂の上に家を建てた人に何が起きたでしょうか。主は、両方とも同じように「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を打ちつけ」た、と教えられました(25、27節)。 「雨」とは、何でしょうか。これは、順境を表す「晴れ」の反対で、逆境や苦難や試練を表しています。また「風」は、「教えの風」(エペソ4章14節)という言葉から考えて、異端や誤りや誘惑を教えているのでしょう。「洪水」は、ノアの洪水から分かるように審判を表し、神の審判や最後の審判を象徴しているのでしょう。 岩の上に建てても砂の上に建てても、同じことが襲って来るのが厳しい人生の有り様であり、現実なのです。 三、人生の結末 このような結果は、どうなったでしょうか。岩の上に建てた家は、「びくともしませんでした」(ルカ6章48節)。 1.人格の堅固さ--心の勝利です。 2.人生の堅固さ--人生の勝利です。 3.永遠の堅固さ--永遠の勝利です。 これに対して砂の上の家は「一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました」(ルカ6章49節)。 1.人格の崩壊--心の敗北です。 2.人生の崩壊--人生の敗北です。 3.永遠の崩壊--永遠の滅びです。 私たちの生涯は一度しかない大切な人生です。ですから決して安易に砂の上に建ててはならず、砂を押しのけて、永遠の岩である神を人生の土台としなければならないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.12.03
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