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『インスタント・ニルヴァーナ3』(完結編)▶アマゾンKindle電子書籍 250円*********************************目次(1)スパイ(2)元カルト信者の後遺症(3)AINウルトラの発動(4)POLヒーリングヘブン(5)決断(6)裏切り(7)罠(8)反撃(9)教祖集結(10)陰謀(11)決断(12)再出発(エピローグ)後書き*********************************(1)スパイ びゅうびゅう、北風が耳元で唸る。パン屋の角を狭い路地へと折れた。どんよりと低く垂れ込めた空を背に、2階建てのみすぼらしいアパートが現れる。剥げかけた肌色のペンキ、蛇のような亀裂、錆びた小窓の鉄柱。痩せた裸木が1本、ブロック塀にしがみつくようにして北風に身を縮ませている。 目の前の風景に春日南は違和感を覚えていた。こんな外観だっただろうか? 吐きたいほどに陰鬱な風景だ。「大丈夫?」と、傍らで桜久美子が呟いた。「やっぱり春日さん、帰りましょう」 足元を菓子パンの袋が渦を巻き、風に吹き飛ばされてゆく。外階段の錆びた鉄柱に自転車が1台、チェーンで繋がれていた。これに乗ってコンタクトに、そしてガイアイ販売に毎日通ったのだった。とたんに込み上げた吐気を呑み込み、錆びた階段に足を掛けた。「行く気?」 心配そうな桜の声に、南は振り返らずに頷いた。「じゃあ、私はここで待ってるから。携帯に私の番号も入れておいたからね。何かあったら絶対に電話して」 一段上がるごとに建物が軋むせいか、胃の腑が縮み上がるような気がする。 戻りたくない! 脅える気持ちを振り払い、中程から一息に駆け上がった。〈201号室〉。ベニヤの剥げかけたドアの前で立ち止まる。 扉の向こうはニルヴァーナの世界。これを開けたが最後、その日常に再び捕らえられてしまう。そんな気がして鍵を持つ手が震えてしまう。大丈夫、そんなことはあり得ないからと自分に言い聞かせ、意を決してドアを開けた。 部屋は、だけどひっそりと出たときのまま。いつもと変わらない見慣れた空間を横たえていた。思わず肩の力が抜けてゆく。ダイニングテーブルの上には沙紀のパソコン。その脇にアカーシャのマンダラと大河光の写真が銀の写真立てに飾られている。小さな流しには空になったアルカヘストのボトルが転がっていた。 自分は、何を脅えていたのだろう? 皆は何を心配していたのか? とにかく、ぐずぐずしている時間などなかった。沙紀が戻る前に証拠を、HHCを内部崩壊に追い込めるような何かを見つけ出さなければ…。 早速、沙紀のコンピュータを立ち上げる。アカーシャのマンダラと大河光の写真立ては、監視されているようで落ち着かないので伏せてしまった。 パスワード入力で早くも戸惑った。南が使っていたパソコンはキャンセルしても稼動するのだが、これは正しいパスワードを入力するまで頑として先に進もうとしないのだ。 Nirvana、saki、aoi、hhc、ain、mesia、hikaru、2007…。思いつくままキーを叩いた。けれど入れる傍から撥ね付けられてしまう。半ばやけくそ、出鱈目にボードを打ち捲るうち、薄い壁の向こうから誰かの足音がした。 沙紀! 咄嗟にパソコンの電源を落とし襖の陰に隠れた。息を殺し玄関を見詰め、ドアが開いたとき怪しまれないような、さりげない第一声を探す。お帰り、ニルヴァーナ、久しぶり。 バクバク、心臓が高鳴る。外廊下が軋み、けれど足音はそのまま通り過ぎて行く。 バカみたい。何やってんだろう。自分でもさすがに情けなかった。 とにかく一刻も早く証拠を探さなければ。でもどうやって? 沙紀のパスワードさえわからないのに? いつか沙紀が見せてくれたパスワード・スニファーを思い出した。あのCD―ROMを沙紀はどこに置いていただろう? 押入れを開け、CDやMDやフロッピーディスクが詰った沙紀のカラーボックスを引っ掻き回した。けれどディスクは無記名か、暗号のような数字とアルファベット文字が並ぶばかりでタイトルがない。今度こそ本当に途方に暮れてしまった。 所詮ムリなのだ。コンピュータスキルの〈ス〉もない自分がニルヴァーナの秘密情報を掴み出すなど…。諦めて、今は引き上げるべきなのだ。桜や久藤と一緒に解決策を探るべきなのだ。 そう頭では考えているのだけれど、手はいつまでもぐずぐずと探すことを止めなかった。もしかしたらここに何か隠されているかもしれない。企画書か、明細書か、連絡事項か、証拠になるような書類が何か…。藁にも縋る思いと切羽詰った願望だけで一心不乱にボックスの中をひっ掻き回した。「あれっ、おねえちゃん、帰ってたの!?」 不意を突かれ、ボックスごとひっくり返してしまった。「大丈夫? 良かった、心配したんだよ。あたし実家まで電話したんだからね」と沙紀はにこやかに話しかけてきたが、ふいに顔を顰める。「それ、あたしのおニューのレコーダ。え、ディスクもこんな…。おねえちゃん、あたしのとこで何してんの?」 動揺を悟られないよう、片付ける振りをしながら言い訳を探した。「その…ちょっと気分悪くなっちゃって、薬、そう薬探してたの」「ヤブ医者、薬くんなかったの?」「貰ったんだけど、薬に頼るのって良くないから実家において来ちゃって。でももう大丈夫。久しぶりに電車乗って、疲れたのね」「治ったならいいけど…」 沙紀は肩を竦め、メタリックのボディも新しそうなICレコーダを拾い上げた。擦り切れた畳の上に散乱したディスクを手早く片付け始める。 怪しまれてしまっただろうか?「でもあんまムリしない方がいいよ。過労だったんでしょ」 けれど沙紀は無邪気にそう言うと、押入れを開け、南の布団を敷き始める。「今日は、ゆっくり休みなよ」 ともかく沙紀が敷いてくれた布団に潜り込んだ。アパートの外で北風に震えながら待っているのであろう桜のことが頭を過ったが、仕方ない。 それにしても、どうして沙紀はこんな時間に戻って来たのだろうか? 午後4時、いつもなら未だ仕事をしている時間帯なのに。 布団に横になって、時計の音に耳を傾けていたら益々不安が募ってきた。自分が、救出カウンセリングを受けたことを、既にニルヴァーナを抜けると決めたことを、沙紀に気づかれはしないだろうか?「ああ、おねえちゃん。今夜はあたしがTE作ったげるからね。おうどんでいいかな?」「えっ、夕食! いいわよ、そんな。沙紀こそ早く寝た方がいいよ」「病人は余計な気を遣わないの」 俄に台所が騒がしくなった。ジャージャー野菜か何かを洗う音、トントン包丁と俎板が擦れる音、グツグツ鍋の噴き上げる音。料理などロクにしない沙紀が南の体を気遣い台所に立っていた。 自分は、スパイをしに戻って来たというのに。沙紀は何も知らないのだ。自分の企みも、ニルヴァーナの欺瞞も。「葵さんは、葵山グループのお嬢さんなの」と、桜が言っていた。「私たちはどうしても彼女を押さえたいと思っていた。彼女に関しては通常以上の調査をしたわ。父親は母親の再婚相手で、家庭環境が複雑だったから、それを利用することにしたの。コンタクトのセラピーで、彼女が父親を毛嫌いしていることもわかっていたし」「だから沙紀は義理の父親から受けた性的虐待を思い出したとでも言いたいの! 人の記憶を他人が捏造できるわけがないじゃない」 思わず南は声を荒げたが、久藤が畳みかけるように言った。「退行催眠で思い出す記憶が、必ずしも事実だとは限らないんだ。思い出した記憶の大半が事実であったとしても、部分的に違うことも多い。例えば幼いころに家庭教師から受けた性的虐待を、大人になって父親から受けた虐待として歪んだ形で思い出すこともある。心理療法家はそれを〈偽りの記憶症候群〉と呼んでいる」「沙紀の記憶が偽物だって言いたいの?」「たとえばこれは十年程前、90年代初頭にアメリカで実際に起こった訴訟だが、退行催眠中に子供のころ実の父親から受けた性的虐待を<思い出した>女性が、父親を訴えた。父親は初め無実を主張していたが、裁判が進むうちその〈事実〉を認めて有罪になった。しかし後でそんな事実はなかったことが判明したんだ。今度は精神科医の方が偽の記憶を誘導したとして訴えられたよ」「でも沙紀の場合は…」「催眠意識下では無意識に催眠家の暗示に答えようとする気持ちが働く。ラポール現象と呼ばれるものだ。訴えられたセラピストは故意に誘導したわけじゃないだろう。暗示をかける際の注意が足りなかったんだと思う。けれどニルヴァーナは予め計画を立てて誘導した。葵さんの場合が偽りの記憶症候群である可能性は、極めて高いと思う」「人の記憶なんて、案外いい加減なものなのよ」と、桜。「記憶を変えれば、自然人格も変わってくる。記憶自体を擦り替えてしまうことは難しくとも、歪めたり、意味を変えてしまうことは、そう難しいことじゃないんだよ」と久藤が付け加えた。 記憶― 南も実家を出る直前に、妹が事故に遭ったときのことを両親に尋ねてみたけれど、二人とも自分がその瞬間に居合わせたかどうかはわからないようだった。ただ両親の話では、愛美が車に撥ねられたその夜、二人が家に戻ると、南が一人、気が触れてしまったかのように震えていたそうだ。その話にAZΩThで思い出した記憶は事実だったのだろうと思った。 だからと言って、愛美は自分をニルヴァーナに導くために逝ったのだなどと言おうものなら、両親は憤死し兼ねないのだけれど。思えば、身の毛も弥立つほど手前勝手な意味の彎曲だ。あのときどうして自分はそんな帰結に走ったのだろうか? 考えると自分で自分が恐くなってくる。 救出カウンセリングをしながら何度も久藤は言っていた。「南さん、ニルヴァーナがメンバーに何をしているのか、じっくりと考えてみてほしい」と。「沙紀!」思わず掛け布団を撥ね退けていた。「何、起きた? ちょうどできたとこだよ」 沙紀が湯気の立つ丼を二つ盆に載せ運んで来る。無邪気な笑顔に、南は喉元まで出掛かった言葉を失ってしまった。のろのろと起き出して、布団を畳み、炬燵を広げるスペースを開ける。沙紀が嬉々として食卓の用意を整えてゆく。 なんと説明すれば彼女にわかってもらえるだろうか?「味の方は保証できないけど絶対元気出るよ。ガイアイ食品使ったんだから。なんか久しぶりだね、おねえちゃんと一緒にTEするの。ニルヴァーナ」 ガイアイ食品と聞いただけで、吐き気がした。それでも沙紀に嘘をついているという後ろめたさから無理矢理に詰め込んだ。 沙紀の大きな瞳の下に隈が浮いているのに気がついた。久しぶりに会ったせいだろうか、美しい顔も思いのほかやつれて見えた。「沙紀は、相変わらず忙しいの?」「まあね。徹夜も多いよ。でも1秒だって無駄にできないもんね」「ミッションHHCも遂に発令されたものね」と、さり気なく探りを入れた。「あ、おねえちゃん、倒れてたから知らないんだ。もうHHCじゃないんだよ、信教の自由を守る会に変わったの。12月12日に第1回教祖大会が開かれることになって」「12日って、三日後じゃないの!」「だからもうその準備で大忙し。8人もの教祖をクリスタルピラミッドに迎えるんだから、ほんと前代未聞でしょ」「AINが、いよいよ始まるってこと?」「HHC特別企画室もAIN特別企画室に変わったんだよ。コンタクトの林田幹部も加わってくれたけど、ほとんどもうパニックで」 やはり。カルトSOSを訴えたのは、信教の自由を守る会の教団だった。三日後の教祖大会、AIN特別企画室。久藤と桜に一刻も早く知らせなければ…。自分に何ができるだろうか?「ねえ、その教祖大会って」と南が身を乗り出したのと、「実はあたし」と沙紀が声を上擦らせたのはほぼ同時だった。「ごめん。何、沙紀から言って」 促すと、沙紀はぽっと頬を染めた。そして打ち明け始めた。あろうことか、メサィアとの情事を―「あたしたち、今世でもまた恋人に戻った…」 うっとりと桃色の溜息を漏らし視線を宙に漂わせた沙紀を、南は呆然と見詰めてしまった。信じられなかった。恋する女のエクスタシーに揺れる潤んだ瞳。背筋を悪寒が駆け上がる。 ねえ沙紀、あの男が、自分たちに何をしたか知っているの! 叫び出しそうだった。騙されてるの、操られてるの、利用されているのよ、と彼女の肩を掴んで揺さぶりたかった。あいつは救世主なんかじゃない、詐欺師、ペテン師、犯罪者、最低の人間なの、と例え沙紀が信じなくても、洗いざらいぶちまけたい衝動に駆られる。「どうしたの、なんで泣いてるの?」 沙紀に聞かれてハッとした。「気持ち、悪い? 薬、買ってこようか?」 その手を掴み尋ねる。「沙紀、幸せなの?」「ニルヴァーナ」 沙紀は心底、幸福そうに頷いた。 久藤が言っていた。「大河光やニルヴァーナの欺瞞を打ち明けても、葵さんは聞く耳、持たないだろう。マインドコントロールは、君が思う以上に強力なんだ」と。 たぶん久藤は正しい。例えここで南が話しても沙紀は信じないだろう。プロの療法家の手で救出カウンセリングを受けた自分でさえ、最後の最後までニルヴァーナの方を、メサィアの言葉を信じようとしていたのだ。そのうえ沙紀は大河に恋をしている。 大河光― 突然、突き上げた激しい怒りに胃の腑が捩れ上がる。自分でも信じられないほど凄まじい憎悪だった。全身が火照り、ぶるぶる震えがきた。生まれて初めて誰かを殺してやりたいほど憎いと思う。「おねえちゃん、あたしそろそろ企画室に戻らなきゃ。メサィアと森脇幹部に呼ばれてるの」「企画室に? ねえ、私も、私も行く。一緒に連れて行って」 言うや否や南は沙紀と一緒に立ち上がっていた。沙紀が呆気に取られたように大きな瞳を見開いたが、南自身そう言った自分に驚いていた。それでも説得するように訴えかける。「私、実家で休養しながらずっと考えていたの。自分も何かHHCに貢献したくて、コズミックソウルに祈っていたの。やっとその方法が見つかったのよ。お願い、沙紀。メサィアか、それが無理なら森脇幹部に会わせて」 沙紀は明らかに困惑した顔でじっと天井を見詰めていたが、頷いた。「森脇幹部もおねえちゃんに何か話があるようだったから、大丈夫かもしれない」と。 * * * 沙紀と並んでアパートを出た。風は幾分弱まっていたが、既に日は暮れかけていた。 沙紀に気付かれないよう南は視線だけを動かして桜久美子の姿を探した。角のブロック塀に隠れて、桜が顔を覗かせていた。今にも飛びかかってきそうな形相に、慌てて南は右手を耳元に当て、後で電話をすると合図を送る。桜があんぐりと口を開け、呆れ果てたと言うように大きく頭を振ってみせた。心配しないでと伝えるつもりで前を見たまま後ろ手でVサインを投げた。 駒沢通りに出ると、沙紀は当然のように片手を上げ空車のタクシーを止めた。彼女に続いて乗り込みながら、ニルヴァーナに入信して以来タクシーになど乗ったこともなかったと気づく。たぶん今、沙紀は幹部クラスの待遇を受けているのだろう。 タクシーの中で沙紀は大河光のことばかりを話していた。のろけ話をする女子の華やいだ明るさで、救世主を称える信者の妄信的一途さで。 南は適当に相槌を打ちながら、AIN特別企画室に潜り込む方法を思案していた。貢献の方法に気付いただなんて、咄嗟の出任せだった。どうすればミッションLSの失点を挽回して、特別企画室のメンバーに加わることができるだろうか? 大河光や森脇徹に春日南という人材が必要だと思わせるには…? 沙紀には特殊技能がある。MITを目指すほどの頭脳が、ハッキングするほどのコンピュータスキルが。けれど自分にどんな人より秀でた能力があるというのか? セラピストの資格が幻想であったと知った今、春日南という人物には資格一つ、技能一つないのだから。自分にできることといえば雑誌を作るくらいのことしか思い浮かばない。雑誌作りだけ…。 ふいに、アイディアが閃いた。既に車は246に入っていた。 沙紀に続いてタクシーから降りる。ピラミッドビルの前に立つや足元で地面がぐらりと揺れた気がした。沙紀に背中を押されなかったらそのままUターンして逃げ帰っていただろう。 ホールで数人が立ち話をしていた。ユニフォームを着ているわけでもないのに、一目でニルヴァーナのメンバーだとわかった。エレベータを待つ間、誰とも視線を合わせないように俯いて、どんどん速くなる自分の心臓の音を数えていた。 ドクッ、ドクッ、ドクドクッ…。チャイムとともにドアが開き、グレーのスーツを着た女性が飛び出してくる。「ニルヴァーナ」と擦れ違いざま沙紀に目礼したその女性が一瞬ガイアイ販売の宮本愛子に見えた。心臓が喉元までジャンプした。 エレベータに乗り込むや狭い密室に益々息苦しさを覚えた。他に誰も乗らなかったのが救いだ。①、②、③と、通過フロアを示すランプが一つ上がるたび心臓がバクバク、益々高鳴ってくる。 ガイアイ販売のある⑩のランプから目が離せなかった。宮本愛子の白塗り顔、立野久代のお多福顔、冷たい汗で脇の下がじっとりと濡れた。朝のミーティング、車座、エレクサのボトル。悪夢の記憶は振り払い、今は何も思い出すなと自分に言い聞かせた。両手で拳を握り締め、両足を踏ん張っていた。幸運にもエレベータは10階を素通りして12階へ。踊り場へ出たときには全身が冷や汗でぐっしょりと濡れていた。 まずメサィアの了解を得てくると、沙紀はカードキーを取り出し一人中に入ってゆく。南はガラスの扉越しに沙紀を見送るや、その場に蹲ってしまいそうになる。混乱と恐怖のあまり今にも挫けそうな心を整理して、ここにいる目的を確かめた。 自分は、カルトSOSを潰そうと企むニルヴァーナやカルト教団の野望を阻止するために、AIN内部に潜り込もうとしているのだ。だけど、もしも失敗したら…? 両親や桜、久藤の顔を思い浮かべた。大丈夫だ、失敗したと気付いた時点で逃げ出せばいい。そう、いつだって逃げ出すことはできるのだから。自分に言い聞かせ、何度も何度も呟いていた。「大丈夫だって。会ってくれるって」と戻って来た沙紀が頷く。 12階の扉がまた開いたのだった。沙紀の後に続き南はおどろおどろしくも豪華なホールへと2度目の足を踏み入れた。1番手前のドアが開いた。「ニルヴァーナ」 沙紀と一緒に南も胸の前で〈宇宙の印〉を組み、深深と頭を下げた。 ドク、ドク、ドクドクッ…。心臓が一層激しく騒ぎ出す。それでもそこが『週刊NOW』のスキャンダル記事で悪夢の宣告を受けたあの部屋ではなく、最初に訪れたミッションLSの広報に昇進したときの部屋であることに気付いて、幾分緊張が解れた。 恐る恐る顔を上げれば、薄暗く芝居がかった空間の、長テーブルの向こう側で、黒に身を包んだ大河光がふんぞり返っていた。その頭上でアカーシャのマンダラが揺れている。森脇徹が目元で笑った。「お帰りなさい、ニルヴァーナに」 なんと答えて良いかわからずに「ニルヴァーナ」と印を組んで応えた。沙紀に続いて、窓際の席に腰を下ろす。「春日南、何か私に話があるそうですね。森脇から過労で倒れたと聞いたが、HC革命のためといえ無理はいけませんよ。他者を慈しむがごとく、自身の体と心と魂も慈しみたいものです」 救世主ぶった慈悲深そうな声。見上げれば、大河は静かに微笑んでいる。その白々しい微笑に唾を吐きかけてやりたくなる。以前この男がしたように。 それでも両親や久藤や桜のことを思い、自分を取り戻した。静かにその眼を見据えることさえできた。「ニルヴァーナ。お心遣い、感謝します。自己健康管理が至らず、肝心なときにご迷惑をお掛けして誠に申し訳なく」 視界の端で森脇が怪訝そうに顔を歪めたのに気がついて口篭る。口調が、普通過ぎたのだろうか? 以前の自分ならどんなふうに話しただろう…。「ですがこうして回復できた今、自分の弱い心が吐き出されて魂が浄化され、もう1度リボーンできたような気がしています。今またメサィアの下、ソウルメイトとともに魂のレベルで生きる。宇宙真理を実践できる喜びで胸がいっぱいです」ニルヴァーナ用語を思い出し、言い添えた。 大河が口の端で微笑んでいる。「病床で、ずっと考えていました。自分の何が足りなかったのか、ニルヴァーナの使命を達成するため自分に何ができるのか。答えを求めてコズミックソウルにひたすら祈りつづけていました」 いったん口を開いたら、すらすらと嘘が滑り出してくることに我ながら驚いた。「そうして遂に昨夜、聖なる夢を見ました。私は目映い光の中で偉大なる声を聞いたのです。確かに、メサィアのお声でした。細部は忘れても、そのメッセージだけは鮮やかに心に刻み込まれています」「メッセージ…」と大河は顔を顰めたが、遮ったりはしなかった。「はい。それは、こういうことでした。DFとカルトSOSが私たちの基本的人権を、信教の自由を侵している現実を社会は何も知らない。その現状をニルヴァーナや他の教団の信者に取材して、マスコミで人権侵害の実態を暴いてゆく。これこそ私の使命だと、夢の中でメサィアは言われました。実際カルトSOSの一方的な教団批判は余りにも不公平です。報道の公平性に立つジャーナリズム精神に訴えれば、耳を貸してくれる善意のマスコミも必ずいるはずです。どうか私にもそのお役に立たたせてください」 力み過ぎて声が裏返ってしまった。 森脇が大河の耳元に何か囁いた。緊張する間もなく、大河が微笑を浮かべこちらへと近付いてくる。「逆境こそ魂の試金石。私の声を聞くほどに霊的成長を遂げたとは」 沙紀に肘を突かれ、南は慌てて立ち上がり〈宇宙の印〉を組んだ。大河の前に跪くと、その手が頭上に翳されたのを感じた。「ミッション・メディア・ピューリフィケーション。情報を浄化せよ。春日南、コズミックソウルの名の下に、ミッションMPを託そう。ニルヴァーナ」 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 それでも反射的にニルヴァーナの印を組み、その流儀で応える。頭上から背筋を電流のような衝撃が駆け抜けた。「春日南、カルトSOSの蛮行をどんどんマスコミに暴露なさい。今日からあなたには森脇の率いるAIN特別企画室で活動してもらおう」 驚きの余り返事もできなかった。本当に大河光を騙し、まんまと使命を授かってしまったのだ! 余りにも呆気ない展開に、張り詰めていた緊張感も一気に抜けてゆく。 森脇から何か書類を手渡された。信教の自由を守る会に参加した教団の一覧だった。各教団広報の担当者名と電話番号も添えられている。「それぞれの広報担当と連絡を取り合いながら進めてほしい。POLから始めてください。記事はまず、制作中の『信教の自由を守る会』のホームページ上に掲載します。世間の同情と怒りを煽るレポート、期待してますよ。じゃ、葵さん、彼女を特別企画室に案内して」 ドアのところで森脇は南の耳元に囁いた。「2度とあんな思いはさせない。今度こそ必ず君の力になるから」 思わず足を止め、森脇を見上げてしまう。真剣な眼差しが自分に注がれていた。一瞬、心が竦んでしまう。「ニルヴァーナ! おねえちゃん、おめでとう!」 ホールに出たとたんに沙紀から抱きつかれた。良かったね、良かったね、と喜んでくれる彼女を前に、南は頬が引き攣るのを感じた。二人を騙している現実に、心が鉛になって沈み始めた。*********************************⇒ (2)元カルト信者の後遺症 に続く。にほんブログ村に参加しています。応援クリック、よろしくお願いいたします。にほんブログ村
2018.09.14
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『インスタント・ニルヴァーナ2』▶アマゾンKindle電子書籍 250円 *******************************目次(1)魂のセラピスト(2)カルトSOSへの依頼(3)VN伝道(4)ミッションLS(5)魂の昇進(6)救出カウンセリング協力者たち(7)DFの陰謀(8)聖なるノルマ(9)リ・リボーン(10)コズミック・セックス(11)教祖対決(12)カルマの浄化(13)ホーリー・ハンド・キャンペーン(14)逃避(15)救出カウンセラーの過去(16)マインドコントロールの現実(17)信教の自由を守る会(18)再会(19)決断(20)ニルヴァーナへ*******************************(1)魂のセラピスト 1999年7月6日12時4分― 東横線代官山駅の改札口を抜け、春日南はコンタクト・セラピー・クリニックへと通い慣れた道を走った。弾む息より大きく心が躍る。 遂に、こうの優魅ビューティー・クリニック原宿店がコンタクト・セラピー・クリニックのパンフレットを店頭に置くことを承諾してくれたのだった。足繁く通った成果がやっと実ったのだ! エステティック・サロンに通う暇と金のある客こそ、コンタクトの理想的ターゲット層と言えた。渋谷店や新宿店、他の店舗が取り扱ってくれるのも時間の問題だろう。 ニルヴァーナのミッションにまた一歩近づいた! 興奮を押さえ切れずアタッシュケースを抱き締めた。パンフレットを捌いたぶんだけケースは軽く、そのぶん肩の荷も下りたような気がする。 西暦2007年、破滅の日が来る前にHC革命を成し遂げて、地球を救う。ガイアに地上天国ニルヴァーナを築くのだ! 緩い坂道も全速力で駆け上がれば、白いタイル張りのビルが見えてくる。 12時9分― コンタクト・セラピー・クリニックのロビーでは、ショパンのピアノ協奏曲をBGMに漆黒の丸テーブルを囲んで、セラピーを待つ女性たちが談笑している。ここは、外の茹だるような蒸し暑さとは別世界だった。 オラクル2007。彼女らは未来に迫りつつある本当の危機を未だ知らない。知らないからこそ、夫の浮気や子供のお受験などという些細な問題で呑気に悩んでいられるのだ。無知は現世的幸福の絶対要因ではあるけれど、同時に無知は罪悪だと思う。それでも彼女たちがこのロビーに、覚醒の扉にまで辿りつけたことを祝福するべきなのだろう。 南は盲目のプチ・ブルの群に目礼し、受付嬢に〈魂の印〉を送ってからロビーを通り抜け事務所へと急いだ。〈魂の印〉とは、胸の前でふわりと合わせた両の掌を相手の方に微かに送る、カジュアルな印である。「ニルヴァーナ」 今度は〈宇宙の印〉を組み、奥のデスクでコンピュータ端末を睨んでいるコーディネーターの林田芙美子に駆け寄った。〈宇宙の印〉とは、「無限大」を意味する輪っかにして組んだ両手を胸の真ん中にそっと押し当てる、儀式や目上のメンバーに対して使うフォーマルな印である。 そこは、かつて桜久美子の席だった。桜はAZΩTh最後の夜に倒れて以来、姿を消してしまった。あのときは南はもちろん、スタッフ全員がコンタクトの要を失って混乱したものだった。けれど直にそのポストを桜に劣らぬ優れたセラピスト、林田芙美子が引き継いだのだった。林田から、桜はHC革命のため極秘使命を担って、ある場所に飛んだのだと知らされた。 あのころ林田には随分と助けられた。彼女の支えがあればこそ桜の不在を乗り越え、半年間の集中特訓コースを遣り遂げることができたのだった。その後、半年間のインターン期間を終了できたのも、卒業後準セラピストとしてコンタクトで働けるようになったのも、一月前に無事正式採用されたのも、林田のお陰である。 南は林田に早速、午前中の成果を報告する。ささやかなミッション達成とはいえ声が弾んでしまうのを抑え切れない。「こうの優魅ビューティー・クリニックって言ったら業界でも大手じゃない! おめでとう、春日さん」 心底嬉しそうに、林田は両手で南の手をぎゅっと握ってくる。 おめでとう、春日さん! ふと桜が重なりハッとした。 林田は、その人柄も口調も仕草も外見さえも桜に似ている。確信に満ちた口調、誠意溢れる仕草、励まし方までそっくりだ。時々南は、今も桜がここにいるような気がしてしまう。 その困難な使命を完遂次第、戻ってくると林田から聞いたけど、桜は今どこにいるのだろうか? こうしてセラピストとして活躍する自分の姿を桜に見てもらいたいと、何度思ったことだろう。 ニルヴァーナの〈Re―BORN〉セレモニー、セラピスト養成講座の卒業式、コンタクトのセラピスト就任式。南は、桜が自分を祝うために任務地からひょいと戻ってくれるような気がしていた。極秘使命ともなれば、そんな生易しいものではないのだろうけれども。「春日さん、あなたは優秀なスタッフだわ。メサィアも、私も感心しているのよ。今日もここに素晴らしい成果を記録できるわね」 林田がノートを差し出した。南の『NIRVANAアファメーション』ノートである。毎日ここにその日のミッションと1日の成果を書き留めて、翌朝林田に提出するのが日課となっている。「それからこれ、先月分のお給料。おめでとう、初月給ね」「頂いていいんですか…」「ご苦労さまでした。春日さんもご存じでしょうけど、ウチは銀行振込じゃなくて現金支給なの。お金は様々な人の手に渡る過程でどうしても低い波動にさらされてしまうから。とりわけ紙幣にはDFの邪悪な波動が宿ってしまう。これはメサィアが不浄な波動を浄化してくださった紙幣です。これからも頑張ってね。期待してます。ニルヴァーナ」「ニルヴァーナ」目礼し、自分のデスクに戻る。 セラピーで初めて稼いだお金である。興奮で指先を震わせ南は茶封筒を開けた。万札が、4枚。 4万円だけ…。思わず肩を落としそうになり、慌てて自分を戒めた。 自分は、お金のためにセラピストになったわけじゃない。人々を救うためなのだ。そのうえ準セラピストに毛が生えた程度では学費を払ってもおかしくないのに、給料に不満を抱くなど、どうかしている。まずは未熟な自分のことを信頼して、第一線でバリバリと働かせてくれる林田とコンタクトに感謝して、その期待に応えるのが当然ではないのか。何よりこれは仕事や職業の枠を超えた聖なるミッションなのだから。 ふと給料明細書が入っていないことに気がついた。入れ忘れたのだろうか?林田を窺うが、尋ねるのは控えた。小さなことに拘る霊的に未成熟な人間だと思われたくはなかった。 ニルヴァーナ フォ エヴリバディ、パワー ツー ニルヴァーナ マントラを唱え、内なる自己を清めてから仕事に取り掛かる。 12時58分― 14時から南が主任セラピストを務める前世セラピーのグループセミナーが予定されている。後30分程でスタッフが打ち合わせに来てしまう。慌ててセミナーの準備に掛かった。まずは参加者の情報を集めなければ。 顧客情報が収められた戸棚の鍵を林田から借り、参加者リストを確認しながらクライアントのファイルを抜き取ってゆく。棚のファイルは氏名毎にあいうえお順で整理されている。コンタクトでは個人情報のDF側への漏洩を防ぐため、クライアントに関する情報はすべてコンピュータ管理ではなく書類で保存していた。 参加者は全部で7人。今回初めて参加するクライアントが3人もいる。ファイルが薄いから一目でわかった。初診のときに記入してもらう新規顧客管理情報用紙『クライアント・ノート』が1枚入っているだけだから。かつて自分も記入したその用紙にざっと目を通してゆく。氏名、住所、電話番号、生年月日、職業、それらを素早く頭に入れてゆく。最後の質問〈現在の心理的諸問題〉には特に注意を払った。 残り四つのファイルにも急いで目を通す。こちらは『クライアント・ノート』に加え、セラピストがセッションの度毎に記入する『セラピー・レコード』が延々と続くため、かなり分厚い。 赤字で「AZTΩhへ!」とメモの張られたファイルに目が行った。将来ともにニルヴァーナの使命を担うことになるかもしれない重要な人物である。〈菊菜里佳〉のファイルは注意深く読んだ。『セラピー・レコード』から彼女が「都内の女子大生」であること、「慢性的不安+孤独感、疎外感による鬱状態、躁鬱の気あり」の精神状態であることが読み取れる。具体的な悩みは失恋、サークル仲間との人間関係、将来に対する漠然とした不安。 最後のページに「父、菊菜謙三、中野に4階建てマンション、代々木に8階建てマンションを所有」と記されていた。なるほど、これならセラピストがAZTΩhに押すわけである。 人生に偶然はない、すべてが必然である。根源的宇宙真理の書『NIRVANA SUTRA』にもそう記されている。 菊菜が資産家の娘に生まれたことも、彼女のファイルが今自分の手元にあることも、決して偶然などではないのだ。彼女の魂はニルヴァーナに経済的援助をすべく裕福な家庭を選んで生まれ、今まさに使命を実現しようと動き出した霊性の高い魂なのだ。自分の使命は、魂が中間世で決めたミッションを菊菜の自意識に思い出させること。 すぐさま『NIRVANAアファメーション』ノートを広げ、〈今日の使命〉欄に「菊菜里佳をAZΩThに送り出す!」と書き記した。それから〈今日の達成〉欄には「こうの優魅ビューティー・クリニックPR戦略の成功」と記した。 魂の底から達成感が湧き上がってくる。必ず次なるミッションも成功させると心に誓う。 コンタクトのセラピストとして働く今、AZΩThに参加することがいかに難しく光栄なことか、肌で感じていた。それは霊的レベルの高い優秀な人間にしか許されない。自分はその難関を突破して、宇宙意識に選ばれたメンバーなのだ。「春日さん、3番に森脇幹部からお電話が入ってます」 スタッフに呼ばれ受話器を取る。「ニルヴァーナ、調子はどうですか?」と、今では聞き慣れた低い声。「ニルヴァーナ、お陰様で順調です」「特別に用事ってわけじゃないんだけど、その…何か困っていることは、ないかな?」 吹き出しそうになって、慌てて声を引き締めた。森脇は確か一昨日も同じことを聞いてきた。「いえ、特に。ありがとうございます」「失礼しまぁす。春日さんは…」 色とりどりの服を着た3人のインターン生がぞろぞろと現れた。「森脇幹部、実は私、14時からセミナーで。その打ち合わせが入っていまして」「ああ失敬、邪魔しちゃったみたいだね。じゃあ、セミナー頑張ってください。ニルヴァーナ」「ニルヴァーナ! 全力で臨みます」 受話器を置き、心がほわほわと浮き立った。森脇は、なぜか頻繁に電話を掛けてきては気遣ってくれる。初めてここで会った日の惨めな自分を覚えていて同情しているだけなのかもしれないけれど。いや、もしかすると、自分のセラピストとしての能力を危ぶんで…? 13時31分― そんなことより、今はセミナーの成功である。 南はファイルの束を手に3人を応接セットに座らせた。3人ともニルヴァーナのメンバーで、コンタクト・セラピスト養成講座のインターン生である。まず自己紹介をしてから、セミナーの参加者状況と進行内容を説明した。「と言うわけで、このセッションには初めての参加者が3人います。そこであなた方にはクライアント・セラピストをお願いしますね」「クライアント・セラピストって、何だっけ?」と紺色のワンピースを着た女性が隣を見遣る。「クライアントを装ってセミナーに参加して、担当セラピストの進行を助ける、ほら、サクラ・セラピーよ。忘れちゃったの?」と、黄緑色のパンツスーツを着た女性が囁き返す。「そうです。初めての方は、どうしても警戒心や猜疑心が強くなってしまう。そこであなた方がセラピーに反応することで、彼らも催眠療法の波に乗り易くなるんです。集団心理作用で治療効果も俄然高まる。これもセラピストの大切な役割です。思い出した?」と南は3人を交互に見遣る。「今回のテーマは、〈孤独〉です。参加者全員が孤独感に苛まれて、鬱状態に陥っているの。まず最近孤独を感じた記憶に焦点を当てて、そのときの状況を詳しく思い出してもらいます。それから前世で同じような気持ちを抱いた場面へと進み、その原因となった出来事へ記憶を遡ってゆく」「孤独か。じゃあ私たちは、前世で孤独だった記憶を思い出せばいいんですね。モンゴルの騎馬民族だったとき仲間から逸れちゃった記憶とか?」と黄緑色が小首を傾げれば、「そして大袈裟に騒ぐのよ。治療効果を高めるには派手に演技する方がいいんですよね?」と紺色のワンピースが身を乗り出してくる。 にっこりと頷いてみせた。 インターン・セラピスト特有の一途な瞳が眩しかった。自分も去年までその一人だったのに、今では随分と昔のことのような気がする。「孤独かぁ。私も昔は、孤独だったなぁ。そのセラピー、クライアントとして受けてみたいかも」赤いTシャツの女性がぼそりと呟く。 今度は、笑うことができなかった。 セラピストをしていると、慢性的孤独感を訴える人の多さに驚くことが多い。サンフランシスコ州立大学の哲学教授は、アメリカ人のほぼ全員が根本的に自分は孤独だと感じているのに対して、アフリカには孤独を表す言葉も概念さえも持たない民族があると書いていた。孤独は、やはり先進国病なのだろうか? 『NIRVANA SUTRA』では、大いなる宇宙の源、コズミックソウルから切り離されたとき、人は孤独に陥ると説かれる。クンダリニー覚醒こそがそこから逃れる唯一の道なのだ。「あなたは今も孤独なの?」 南が尋ねると、赤いTシャツの女性は一瞬きょとんとした後に微笑んだ。「まさか。だって私はニルヴァーナに、光の家族に出会えたんですよ。今ではメサィアとコズミックソウルと繋がっていますから」 全く南も同じ気持ちだった。「さあ、会場は205よ。必ず成功させましょう。ニルヴァーナ」「ニルヴァーナ」口々に唱え、3人は〈魂の印〉を組み出て行った。 13時56分― クライアントのファイルを棚に戻し、鍵を林田に返してから、自分も準備を整える。セミナーの後、菊菜と個人的に話そうとAZΩThのちらしをバインダーに滑り込ませた。「ねえ、聞いた、桜さんの話?」 ドアのところで、セミナーから戻って来たセラピストの一群と擦れ違った。桜の名に南は思わず足を止め、耳を欹てる。 桜が、遂に使命を全うして戻ってくるのだろうか!「さっき呉林さんから聞いたんだけど、桜さん、ホームレスになっちゃったんだってよ! ガイアイ支部の子が、六本木を薄汚い格好でふらふら歩いてる桜さん、見たんだって」 心臓が口から飛び出しそうになる。「あら、でも桜幹部なら極秘使命で…」「それが今年に入って、忽然と消えちゃったって。結局DFの波動に捉っちゃったらしいって、宮下幹部がガイアイの子に」「あ、あたしもそれ聞いた。で、おかしくなっちゃって精神病院に」「なんかサラ金地獄にまでハマって、発狂しちゃったって話?」 手にしたバインダーや筆記用具が滑り落ちた。メタルの筆箱が異様な音を立ててリノリウムの床に散らばった。額から冷たい汗が噴き出して、床の桝目が回り出す。 まさか。桜が… 吐きそうだ。混乱の余り闇の波動に捉りそうで、南は蹲ったままポケットからパワー・ストーンを取り出した。 桜から貰った赤い小石。セロントを擦り、宇宙の光を吸い込み、マントラを唱える。ニルヴァーナ フォ エヴリバディ、パワー ツー ニルヴァーナ。「どうしたの、春日さん? ヤだ、真っ青」 腕を掴まれ顔を上げれば、ともにAZTΩhを終えた同期、戸田瞳のふっくらした顔が心配そうにこちらを覗き込んでいた。「春日さん、これからセミナーでしょう? 大丈夫? 代わってあげようか?」 戸田は床に散乱したバインダーや筆記用具を拾い上げながら聞いてくる。「ありがとう。ちょっと貧血かも…。でももう大丈夫だから」「本当に? ならいいけど」 ふっくらとした手で背中を擦られるうち動悸や吐き気も収まってきた。南は頷き、立ち上がる。「大丈夫?」「頑張ってね!」「しっかりっ!」「ニルヴァーナ!」 いつの間にか周りに人が集まっていた。温かい声援を受け、セミナールーム205へと急ぐ。 ネガティヴな感情に、DFの闇の波動に捕まるな! 今はセミナーの成功のことだけを考えろ! 14時4分― 4分間も時間を浪費してしまった。 オラクル2007。こうしている間にも西暦2007年は、地球の危機は刻々と迫り来ているというのに。 セロントを握り締め、深呼吸を繰り返した。 * * * あのコなら、大丈夫だ。菊菜里佳は必ずAZΩThに行く。そして真理を掴み取れるだろう。また一人、魂のメンバーが増える! 17時51分― 南は駒沢通りを自転車で走り抜けてゆく。代官山から恵比寿駅を過ぎ、渋谷橋を抜け、人の波を縫いながら坂の多い道を高揚感に任せペダルを漕ぐ。小さなパン屋の角を左に折れ細い道を上れば、2階建て木造モルタルのアパートが見えてくる。 自由が丘のマンションから渋谷区東のここに移って、そろそろ1年半になろうか。家賃が安いのと、自転車通勤ができるのが魅力である。 18時6分― アパートに滑り込んだときには汗だくだった。自転車を鉄柱にチェーンで留め、外階段を駆け上がる。安普請のうえ老朽化しているので、薄汚れた階段を1段上がるごとみしみしっと壊れそうな音を立ててアパート全体が軋んだ。 201号室。合板のドアを開ければ、狭い三和土に葵沙紀の黒いローファーがあった。昨夜も徹夜したのだろう彼女を起こさないようにそろそろと靴を脱ぐ。けれど襖の向こうから沙紀の寝惚けた声。「ニルヴァーナ。お帰り、おねえちゃん」「ニルヴァーナ。ごめん、起こしちゃった?」「どうせもう時間だから」と沙紀はパジャマ姿で起き出してくる。 おねぇちゃん、と沙紀が自分を呼ぶようになったのはいつころからだっただろうか? ここで一緒に暮らし始めて、彼女がふざけて口にしたのが切っ掛けだった。そう呼ばれるたび南は愛美を失った淋しさが癒されるような気がした。いや、冗談などではない。彼女は真に〈魂の妹、光の家族〉の一員なのだ。「じゃあ、TEの用意でもするわ。沙紀も食べるでしょう?」「ニルヴァーナ! もうお腹ぺこぺこ」 18時18分― 19時にはここを出なければならない。バッグを置くや小型冷蔵庫の中を覗き込む。「時間ないから、素麺でいいかな?」「ソーメン、大好き」 と、沙紀は布団を押入れに突っ込んでから壁に立てた家具調炬燵を広げた。二人で使う6畳の部屋を有効活用するために、ベッドも止めて和風に替えたのだった。 葵沙紀が田園調布の実家からこの小狭いアパートに移って半年になる。沙紀とはAZΩTh研修の後、ニルヴァーナの〈Re―BORN〉セレモニーで去年の春に一度会ったきりだったが、今年の3月、突然彼女がアパートに訪ねて来たのだった。「南さん、一緒に暮らしてもいい?」 突然の話に戸惑ったものの、その夜のうちに承諾してしまった。 6畳の部屋に4畳半の台所、風呂とトイレが付いただけのこのアパートで二人暮らしは狭過ぎるかとも思ったけれど、沙紀と一緒に暮らすこと自体への抵抗は全くなかった。家賃が半分で済むことも嬉しかったし、彼女が両親、とりわけ義父から離れたがっていたことも知っていた。何よりも彼女は〈光の家族〉の一員なのだ。 18時23分― 南は台所に立ち、㈱ガイアイ食品の素麺を茹で始めた。アルカヘスト水で麺汁を作り、ガイアイ食品で買った無農薬野菜を刻む。 昔は外食かコンビニのお弁当ばかりで自炊などしたこともなかったけれど、今は肉体がいかに精神に影響を及ぼすか知っているので、ガイアイ自然食レストランの弁当をコンタクトの事務所で食べる以外は自分で作る。体と心と魂の浄化のため、今では完全に菜食であるが、ガイアイ食品のものに限って乳製品も食べる。乳製品や卵など搾取される家畜の苦痛がネガティヴな波動として残ってしまうような食品は、〈癒しの浄化〉がされていることが重要だった。「あんな男、死んじゃえばいいんだ…」 あの夜、沙紀は大きな瞳にはっきりと憎悪を浮かべ薄い唇を噛み締めていた。 沙紀はAZΩThの後、すぐさま家を出ようとしたそうだ。けれど両親が親権侵害を理由にニルヴァーナを訴え兼ねないと懸念した森脇に説得され、思い留まった。自分の部屋に内鍵を四つも付けて、義父の性的虐待に脅えながらもニルヴァーナの活動に打ち込むことで、卒業までの1年数ヶ月間を生き抜いたと言っていた。「あたし今週で家出んの。やっとだよ。親はアメリカ留学するって思ってるけど。学費や航空費、生活費とかもうかなり巻き上げてやったんだ。これからも搾り取るだけ搾り取ってやる」「そんな嘘、バレない?」 あのとき南は本気で心配したものだった。「全然。だってこれ、宇宙の計画だもん。それに手続きの方も完璧処理したし。昔から卒業したらMITって騒いでたから、誰も怪しまなかったし。あいつら親権放棄してるってくらい超放任だし。バレルってこと絶対ないよ。でも万一のときは、あいつがあたしに何してたかバラすって脅す。 ヤだ、そんな顔しないで。大丈夫だよ。あいつらをDFの地獄から救ってやることも今世あたしのミッションだって、メサィアが仰ったの。だからあいつらの金、ニルヴァーナの使命に使って、彼らのカルマ浄化してやってるんだ。ほんと、孝行娘」 そう言ってあの夜、沙紀は微笑んだ。「うわぁ、ストリート・アズ! 何これ、超懐かしい」 沙紀の黄色い声に、素麺を茹でていた鍋をひっくり返しそうになる。「きゃはは。自分らしさ発見マガジンだって。これもうだいぶ前に廃刊になったんだよね。うわぁ、こんなに。おねぇちゃん、愛読者だったんだ。特集シゴトもコイも私流欲張り宣言! うっきゃあ、超ダサ。そういえば私、これ見てコンタクト行ったんだよ」 慌てて部屋に駆け込むと、沙紀が押入れの前に屈み込みページを捲っていた。思わず覗き込めば、ファッション、ホリデー、レストランやナイトクラブ情報、映画レビュー、能天気なゴミで紙面は埋め尽くされていた。後悔と羞恥心、罪悪感に身が竦む。女性の生き方提唱を謳ったページが視界に飛び込むや堪り兼ね、南は沙紀の手から雑誌をもぎ取って押入れの奥に投げ込んだ。「えー、ひどぉい、見てたのに…」 当時はキャリアウーマンの幻想に溺れて見えなかったけれど、『月刊ストリートAZ』は大衆を真理に盲目化させ、間抜けな羊状態にするDFのプロパガンダだった。自分は余りにも霊的に無知であったため、それと気づかないまま人々の覚醒を妨げ、社会悪を蔓延させていたのだ。DFの陰謀に手を貸していたのだった。コンタクトの取材がなければ今頃は堕落し切って、ホームレスに落ちていたかもしれない。「だってこの雑誌は、その…DFの波動で汚れているもの。沙紀だって突然、超なんとかなんて昔の言い方始めて」「だったら捨てちゃえばいいじゃん」唇を尖らせ沙紀がぼやく。 ドキリとした。「あっ、おねぇちゃん、鍋、噴いてるよ!」 慌てて台所に戻りガスの火を止めた。ドクッ、ドクッ、心臓が波打っている。 どうして自分は『月刊ストリートAZ』を捨ててしまわないのだろうか? 菜箸をもつ手が震えた。混乱は霊的成長を妨げる悪い兆候である。 ニルヴァーナ、ニルヴァーナ、ニルヴァーナ― 水道の栓を勢い良く捻り、マントラを唱える。ジャージャー、茹で過ぎた素麺を冷やしながら自分の頭も冷やされ清められてゆくと念じた。「できたよぉ」 努めて明い声を上げ、素麺を食卓に運ぶ。今ではこの炬燵が、沙紀のパソコンに占領されてしまった台所の小さなダイニングテーブルに代わって、食卓兼南のデスクとなっている。「おいしそう、ニルヴァーナ!」 18時38分― 久しぶりに沙紀と向かい合ってTEに入った。 ニルヴァーナ、ニルヴァーナ、ニルヴァーナ。〈魂の印〉を組み、十分に念じてから箸を取る。素麺の持つ根源的宇宙エネルギーが一噛みごと体内に染み渡ってゆくとイメージしながら黙々と食べた。「ニルヴァーナ」箸を置き、沙紀がTEを終えるのを待ってから話し掛ける。「1週間ぶりかな、こうして沙紀と一緒にTE取るの。忙しい? 沙紀は今、ガイアイのどこ?」「先月からはガイアイ・コミュニケーション。今年の頭にガイアイから独立したパソコン関係の会社で、ピラミッドビルの11階に入ってんの。おねえちゃん、知らない?」「ガイアイは組織が複雑だから」「なんか今度、ウチで『ニルヴァーナ・ファイターズ』ってゲーム出すみたいなんだ。あたしもチーム入りたいって森脇幹部に頼んだのに、君はそこまで霊的に成熟してないって。ヤなひとだよねぇ、森脇幹部って」 沙紀が子供みたいにぷっと頬を膨らませたので、南は思わず吹き出してしまった。「別に森脇幹部、意地悪で言ってるわけじゃないでしょう。成長して魂のレベルを上げればいいって話よ。沙紀なら、やれる。絶対に大丈夫」 時計を見遣れば既に18時48分だ。「沙紀、私バイトに行かなくちゃ。後片付けお願いね」 さっと化粧を直し、赤いサマードレスに着替える。バタバタと身支度を整えながらも電話のベルに、反射的に受話器を取ってしまった。「みいちゃん、良かった、いたのね。一昨日伝言入れたのに掛け直してくれないんだもの。お母さん機械とお喋りするの苦手なのに」「やだ、お母さん。私、今出るとこなの。バイト遅れちゃうから」「バイトって。あなたセラピストになったんじゃなかったの!」 思わず舌打ちしてしまった。アルバイトのことを母に話す気など毛頭なかったのに。「そうよ、セラピストよ。でも新米だから食べていけるほどの稼ぎはないの」「そんな…。アルバイトするくらいなら家に帰ってらっしゃい!」「またその話。いい加減にしてよ。この大切な時期に、そんな」「大切なときだから言っているの。約束したでしょう。学費を貸したとき、実家から学校に通うって。それなのに勝手に引越して」 思わず溜息が出た。なんと説明すればわかってもらえるのだろう?「みいちゃん。あなたが和幸さんのことや仕事のことで辛かったこと、お母さん、良ぉくわかっているつもりよ。でもね、辛いからって、いつまでも逃げていちゃダメなの」「逃げてるって、私が?」 余りのことに呆気に取られ、受話器を落としそうになる。「帰ってらっしゃい。家でゆっくり休養して、再出発するの。お母さん、石にしがみついてでもお見合いの口、探してきてあげるから」「お見合いって、止めてよ! どうせお母さんに話しても到底理解できないと思って黙ってたけど、もうこの際はっきり言っておくね」 もう限界だった。今まで両親のことを想って黙っていたけれど、そろそろはっきりさせなくてはならない時期なのだ。南は腹を括って話し始めた。「お母さん、私は遂に、中間世で立てたカルマの台本を思い出したの。真理に目覚めた。だからこそエゴを捨て、現世を超えて、天命を全うすべくこうして闘っているの。それを逃げてるだなんて冗談じゃないわ。ねえ、お母さん、気を落ち着けて聞いてほしいの。西暦2007年に、人類は滅亡してしまうかもしれない」「えっ?」「とにかく、私は人類の、言わばお母さんたちのために、困難なミッションを全うすべく必死に頑張っているのよ。それを逃げてるだなんて冗談じゃない。お母さんこそ、いい加減に子離れしてよ」「子離れって。あなた、よくも親にそんな」「人間は、魂の健全なる成長のために、血縁的家族から霊的家族へと移行せねばならない。『ニルヴァーナ・スートラ』第Ⅲ章にも、光の家族、地の家族問題で明記されている。メサィアだって」「メサィアって何です! 一体何? あなたまさか宗教なんかに」「怒るよ。お母さんは霊的に未熟だから真理が見えないの。自分に理解不可能なレベルの話になると、すぐ宗教に結びつけて騒ぎ出してしまう。メサィアは国際的心理学者で、ニルヴァーナは宗教なんかじゃない。宗教は魂の成長を阻害するDFの陰謀だわ。時間ないから切るよ」「待ちなさい。ニルヴァーナって何です!」 ヒステリックな声が追ってきたが、構わずに受話器を置く。母親とはなんと次元の低い生き物であることか。エゴの権化。究極の現世的存在。それにしても、ニルヴァーナを宗教団体呼ばわりするとは勘違いも甚だしい。 追うように鳴った電話のベルは無視した。 ニルヴァーナ、ニルヴァーナ、ニルヴァーナ、マントラを唱え呼吸を整えれば、19時7分。完全に遅刻だ。 華奢なミュールに足を突っ込み、台所でパソコンに向かっている沙紀を振り返る。「後はお願いね。ニルヴァーナ!」「ニルヴァーナ! 行ってらっしゃい」 沙紀の声に送られてアパートのボロ階段を駆け下りる。チェーンを外し自転車に飛び乗るや、朝とは反対方向に駒沢通りを走った。 * * *「何、それでミカ、その女に電話したの?」「そう。窪田のことで話があるって言ったら、焦ってたわよ」「あんたもやるわねぇ。いちいち男のケータイ、チェック入れたり。相手の女、呼び出したり。で、どんな女だった?」「さあ、OLやってるって言ってたけど。でもあの女も言ってくれるわよねぇ。あたしそんな暇ないです、あんなつまんない男、要らないから勝手にやってくださいって、こうなのよぉ。悔しいっ」「それも…かなりムカつくわねぇ」 20時3分― クラブC21のシッティング・ルームでは、指名を待つ10人程のホステスが他愛ないお喋りに花を咲かせていた。先程から南はベテランホステス、アキナと新入りのミカとの間で囁かれる恋人の浮気話に耳を欹てていた。どうやらミカは自称フリーター男を食わせているらしい。 コンタクト・セラピー・クリニックに誘う絶好のチャンスである。稼いだ金をそんな男に費やすより人類救済のミッションに役立てる方が、彼女自身の霊的成長を考えてもどれほど有意義であることか。二人の会話がふっと途切れた隙に、間髪を置かず口を挟んだ。「残念だけど彼、また同じことをやるわ」 ギョッとしたように二人同時に顔を上げる。「来週きっとまた、あなたの彼は別の女に声を掛ける。来月も来年も再来年も、彼は女をナンパして、定職に付くこともなく、蛭のようにあなたに吸いついてくる。問題は、彼の浮気じゃないと思う。どうしてあなたがそういう男を選んだのかってことじゃないかしら」「何なのよ! あんたにそんなこと言われる筋合ないわよ」 キッとミカはこちらを睨み付けてくる。「ごめんなさい、私ったらつい。職業病ね」と、わざと慌てたふうを装ってコンタクトの名刺をミカの指先に押し付けた。「ヒプノシス・セラピスト…」 南は頷き、「私は催眠療法を専門に扱うセラピストなの。仕事柄、いつも女性の悩みに耳を傾けているせいか、あなたのように優れた女性が自分を見失っているのを見ると、つい黙っていられなくて」「優れた女性って」 ミカは満更でもなさげに肩を竦めた。「心理学では、私たちが抱える問題の根本的原因は過去の、とりわけ幼児期の辛い体験に関連し、深層心理に潜んでいると言われているの。それを催眠療法で探り当てるのが、私の仕事。原因を探って過去を遡るとき、幼児期を超えて前世のトラウマの記憶にまで辿り着くことさえある。そうして本当の原因がわかれば、誰もが急激に癒されてゆく。セラピストの勘なんだけど、あなたと彼の問題は前世にまで起因しているような気がするの」「前世って」 ミカの目が、アキナは肘で小突いたけれど、好奇心で輝くのを南は見逃さなかった。もう一押しだ。 そのとき曇りガラスの向こうに黒いタキシードが見えた。マネージャーが音も立てずシッティング・ルームに入って来る。「ミチルさん、7番テーブル指名入りました。それからミカちゃんもヘルプ付いて」と腰を屈めホステスの耳元で囁いてから鋭い目付きで南を睨んだ。「ミナミさん、9番テーブルのヘルプお願いします」 低く抑えた声だったが、暗に勝手なことをするなという凄みが利いていた。ともかくもにっこりと頷き、南も立ち上がった。「マネージャーには気をつけた方がいいわよ。あの男、怒らせるとヤバイって話」アキナが古株の貫禄を漂わせ、耳打ちしてくる。「ヤバイって?」「さあ、性格破綻者ってとこかしらね。あいつに睨まれて嫌がらせされて辞めてった女の子たち、何人も見てきたわ。とにかく、睨まれたら辞めるが得策よ」 真っ赤な唇から煙草の煙を吐き出すアキナに頷くと、南はフロアに出た。 BGMも照明も抑えたフロアは、都会の隠れ家をコンセプトにデザインされている。南は背筋を伸ばし、ゆったりと並ぶボックスシートの間を擦り抜け9番テーブルについた。 一見してサラリーマンと判る3人は誰も初めて見る顔で、既に女のコが二人ついている。中間管理職といった風貌の男と若手が二人。一人はひょろりとした鼠男ふうで、もう一人はチワワ顔。酔っているふうもなく、和やかに女のコたちと談笑している。南は愛想良く挨拶を交わすと手際良く水割りを作り直し、適当に〈泡話〉に相槌を打った。「そう言えば、この間のトルコ地震は酷かったですよね。なんでも死者が4万人を超えたって話で」 何気なく話す鼠男の声が心臓に突き刺さった。「地震って?」「えー、知らないの! この間トルコで大地震あったじゃないか!」 鼠男に首を振って応えながらも、全身に震えが走る。「8月17日だったな。最近の若い子は、新聞も読まないのかね?」「忙しくて」 南は、呆れたようにこちらを見遣る管理職に答えたが、実際は時間の問題以上に、DFの息の掛かった既成メディアに洗脳されないように、ニュースの類には敢えて触れないようにしているのだった。「すごかったのよぉ。もうビルなんかぺちゃんこに潰れちゃって。瓦礫の下から担ぎ出される血だらけの人見てたら、鳥肌立っちゃった」と白いスーツを着た女のコがぶるぶる身震いしてみせる。「ほんとよねぇ。あれが東京でって思ったら、生きた心地しなかったもんねぇ」と黒いスリップドレスのホステスも顔を潜め、「日本からも救助チーム結構行きましたよね。実際、他人事じゃないもんなぁ」とチワワ男。「私は神戸に親戚がいるんだがね」 身を乗り出した管理職の声が遠ざかってゆく。 ドクドクッ、ドクドクッ、心臓がパンクしそうだった。 そう、今こうしている間にも刻々と地球は破滅に向かっているのだ。DFの陰謀は確実に進み…「どうした、君。顔色悪いね」 管理職に顔を覗き込まれたが、がちがち歯が鳴って止まらなかった。人類破滅の予兆は、既に始まっているのだ。恐怖の余り立ち上がっていた。「DFの…陰謀だわ。オラクル2007よ!」「はいっ?」 いっせいに5人がぽかんと南を見上げる。「西暦2007年に人類は滅亡の危機に晒される。それはもう、始まっているのよ。今この瞬間にも地球は破滅へと向かいつつあるの!」 さっと冷たい沈黙が降りた。 自分を見上げる5人とも、恐怖に顔を引き攣らせている。南の掌は汗ばみ、喉は焼けるようだった。震える手でコップを掴んだとき、誰かがひくりと泣き出した。「ツーオーオーセブン、ですか。いやぁ、参ったなぁ。電話番号かと思っちゃいましたよ。ノストラダムスの大予言ってのはあったけど、そうか、西暦2007年は良かったなぁ」プッとチワワ男が吹き出した。 カッと頭に血が昇る。南はチワワを睨み付けていた。「あなたは何もご存知ないから、呑気に笑っていられるんです! DFの陰謀は今も」「ディーエフ? カード会社か何かですか?」「ダーク・フォース、世界を陰で操る国際陰謀組織です。CIAを支配しているのも、ビル・ゲイツやハリウッドやウォール街を牛耳っているのも、この闇のエージェントなんです! このままじゃ人類は破滅して」「うっわあ、今度は国際陰謀組織ですか! フリーソーメンとかメーソンとか、無知丸出しの陰謀説って多いけど、あんなの信じるヤツ」「無知なのは、あなたよ!」 拳でテーブルを力任せに叩いていた。琥珀色の液体が飛沫を上げ、グラスが派手な音を立てて吹っ飛んだ。女のコたちが悲鳴を上げたけど、南はチワワの襟首をぐいっと掴む。「あなたはもうDFに洗脳されているから、真実が見えてこないだけです! だけどあなたがお気楽に飲んでいる、今まさにこの瞬間にも」「お客さまに何をするんだ!」 マネージャーが吹っ飛んできた。「すみません。お召し物の方は」と平謝りに詫びていたが、ふいに南を睨むと諭すように言う。「だから言ったでしょうが。病み上がりの体で仕事は無理だから、今日は家で休養するように、と」「そ…うなんです。彼女、盲腸の手術したばかりで。まだ麻酔とか残ってるのよね?」と白いスーツが取ってつけたように微笑んだ。「熱もまだ下がらないのよね?」とスリップドレスも、ボーイから受け取ったおしぼりでテーブルを拭きながら話を合わせる。「すみません」 仕方なく南も頭を下げた。 半ば引き摺り出されるようにフロアを出て、そのままマネージャー室へと連れて行かれた。マネージャーは音を立ててドアを閉めるや椅子にふんぞり返り腕組をして、舐め回すよう、南の全身にねっとりとした視線を絡ませてくる。 南は立ったまま身を固くしていた。霊的レベルが低すぎて真理の見えない連中相手に、DFの真相や神聖なる予言を口走ってしまった自分に、猛烈に腹が立っていた。「君さぁ、宗教でも、やってんの?」「まさか! 私、宗教なんて絶対に」「とにかく、こういうことされると困るんですよね。君も生活かかってるんだろうから、ぼくとしても手荒なことはしたくないわけ。だけど今度こんなことをしでかしたら」さっと人差し指で喉元を切る真似をする。「それからウチの女のコ相手にセールスも、止めてもらいます」 「セールスって。私はただセラピストとして、悩んでる女性を見ると放っておけないだけで」「前にも確か同じお願い、しましたよね? 今度やったら」と、再び人差し指で自分の喉元を切る仕草をしてから鼻を鳴らした。 今ここを止めるわけにはいかない。生活費、ニルヴァーナ基金への募金、セレモニー費や研修費用。とにかく、お金が要るのだ。 煙草を咥えた彼の口元にさっとライターを差し出した。若作りな男の年齢が滲み出た無骨な指先を眺め、南はアキナの忠告を思い出していた。改めてマネージャーには気を付けようと思う。この男は、DFの手先かもしれない。*******************************⇒(2)カルトSOSへの依頼 に続く。にほんブログ村に参加しています。応援クリック、どうぞよろしくお願いいたします。にほんブログ村
2018.09.06
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『インスタント・ニルヴァーナ1』冒頭サンプル章を掲載します(^^♪▶アマゾンKindle電子書籍 250円『インスタント・ニルヴァーナ1』************************目次(プロローグ)(1)前世セラピー(2)破局(3)シンクロニシティ(4)クリスタル・ピラミッド(5)失業(6)前世の記憶(7)セラピスト養成講座(8)二つの野望(9)癒しのリトリート(10)オラクル2007(11)蘇ったトラウマ(12)救出カウンセラー(13)AZTΩh魂のセラピスト(14)リボーン************************(プロローグ)「AZストリート探検隊」毎月楽しく読んでいます。ところで「前世セラピー」って、ご存知ですか?バイト先の友達から手首恐怖症(なんてあるの?)に悩まされていたっていう人の話を聞きました。彼女にふざけて手首を見せると、血管が怖い~って、真っ青になって座り込んでしまったんだそうです。それがコンタクト・セラピー・クリニックの前世セラピーのセミナーに参加して、手首を切って自殺した前世を思い出した。思い出したら恐怖症も治ってしまった!?って言うんですよ。もう手首見てもなんともない、とか。どういうことなんでしょう? だいたい前世の記憶なんて、あり? でも妄想なら、なんで治ったの? 興味あります。どうか探検隊でレポートしてください! 東京都・前世何子(匿名)1997年、夏―それは、編集プロダクションMAGZに届いた1枚の葉書から始まった。************************(1)前世セラピー〈コンタクト・セラピー・クリニック〉は、渋谷区猿楽町の緩い坂を上ったところにあった。比較的新しいビルで、1階と2階がコンタクト、3階と4階は居住用マンションであるようだ。黒い大理石に<GAIAIビル>と金文字が刻まれている。 ここだ…。 春日南は左手に握ったファックス用紙を開き、担当者の名前を確認した。<催眠療法士、桜久美子> 汗で感熱紙の文字が滲んでいる。代官山駅から歩いた時間など7、8分だろうに、全身もう汗だくだった。約束の時間には10分早く、カメラマンも未だだったけれど外で待つには暑すぎる。何より渦巻く蝉の声が鬱陶しかった。 蝉の声は、苦手だ。聞いていると何か追われるような気がして、目眩さえ覚えてしまうのだ。 それにしても、とふっと南は思う。クリニックというからには、ここは病院なのだろうか? ロビーは、ブティックホテルのラウンジ並に優雅な雰囲気を醸し出していた。モダンアートに大ぶりの観葉植物。ショパンをBGMに、ゆったりと配置されたテーブルを囲んで女性たちが談笑している。 思いのほか「ハイソな」雰囲気に気後れして咄嗟に壁の鏡を覗き込んでしまった。タイトな白いシャツに青い細身パンツ。汗で化粧が崩れたかと気になっていたけれど、シャギーを入れたストレートの髪は軽快に肩先で踊り、それなりに知的に見せようと奮闘したメーキャップも未だ健在である。「こんにちは。今日のエネルギー・フィールドはいかがですか?」 カウンターから受付嬢が親しげな微笑を投げてくる。「今の気分は、ポジティヴですか?」「はぁ?」 思わず首を傾げてしまったが、受付嬢は益々にっこりと微笑んだ。「気は、宇宙のエネルギーと調和していますか?」 宇宙の…エネルギー? 曖昧に微笑み返し、用件と担当者の名前を告げた。受付嬢が笑顔を貼り付けたまま受話器に手を伸ばす。「桜はすぐ参りますので、お掛けになってお待ちください。お飲み物には何をお持ちしましょう? コーヒー、紅茶はホットにアイス」「じゃあ、アイスコーヒーを」 どこか奇妙な雰囲気に圧倒されつつ、南は促されるまま窓際のテーブルに付いた。受付嬢がトレーを手にやって来る。「ごゆっくり。どうぞ美しい午後を!」 屈託のない笑顔ではあるけれど、やはりピントがずれている。<前世セラピー>などというものを扱うクリニックというのは、普通とは少し違うものなのかもしれない。 冷えたアイスコーヒーに口をつけ、先月号の『月刊ストリートAZ』と編集部に届いた葉書を取り出した。丸文字でびっしりと書面は埋められている。「思い出した」に赤いアンダーラインまで引かれている。思わずまた首を傾げてしまった。前世を「思い出す」とはいったいどういう意味なのだろうか? 隣のテーブルから軽やかな笑い声が上がった。いかにも有閑マダムふうの女性が3人、水滴滑るグラスを前に囀っている。足元にはシャネルやヴィトンのバッグ。まるで社交クラブだ。彼女たちも前世セラピーとやらを待っているのだろうか? ふっと背後に人の気配を感じた。振り向けばスーツ姿の女性が自分を見つめ突っ立っていたので、驚いてしまった。いつからそこにいたのだろう? 値踏みするかのようにこちらをじっと見つめていたのだ。「ストリート・アズの春日さんですね? お待たせしました。コンタクトの桜です」 彼女の方は気まずい様子もなく名刺を差し出してくる。ハスキーな落ち着いた声だった。 南も名刺を出そうと腰を上げれば、桜はかなり長身である。南自身も163センチあるけれど、10センチは高い。折れそうに細い体、ショートボブにした艶やかな髪、切れ長の一重瞼。一見ファッションモデルふうなのに、地味なベージュのスーツのせいか、辛気臭い印象を与えてしまっている。30代前半というところだろうか。 スーツの胸元に〈桜久美子〉と記された名札と、コンタクトの社員章なのだろう、小さなバッジを付けていた。名刺には〈コーディネイター〉と〈ヒプノシス・セラピスト〉と二つの肩書きが並んでいるけれど、療法家というよりセラピーが必要な類の人間に見えた。「今日は、私どもの前世セミナーを取材されたいというお話でしたよね?」 雰囲気に似合わずハキハキと桜が話し始める。「はい、電話でもお話しましたが、アズは20代女性をターゲットにした情報誌でして」と雑誌を捲り、白黒ページを桜へ向ける。「この、アズ・ストリート探検隊ってページなんですけど」 それは、読者から募った気になる場所やイベントを編集部がルポするという連載モノで、半年前に南が立ち上げた企画だった。だが肝心の読者からのリクエスト葉書はAZの発行部数同様頼りないもので、通常は南が読者を装いネタまで探す有様ではあるが。 改めて企画主旨を説明し、編集部に届いた葉書を差し出す。「まあ、そんな葉書が」一読すると、桜は照れたように笑った。「お恥ずかしいわ。でも数多くのリクエスト葉書から私どものセミナーを取り上げてくださって、ありがとう」 取り上げるも何も、届いた葉書は後にも先にもこれ1枚である。内心恐縮しつつ尋ねた。「この方にお心当たりは?」「さあ…。こういう方は多いですから、お名前がわかりませんと」と桜は首を傾げ、「春日さん、前世セラピーはご存知ですか?」「いえ。それで私も個人的に興味があるんですが。ここに手首を切って自殺した前世を思い出したってありますよね? 思い出すって、どういう意味なんでしょう? 明らかに霊媒師や占い師によって一方的に告げられる前世話の類とは違うようですが」「もちろんです」と、桜は得意げに顎を引く。「私たちはセラピストで、占い師ではありませんから。私たちがクライアントの前世を言い当てるわけではなく、心を癒す治療の過程でご自身が思い出されるんです。前世セラピーとは、前世にまで溯って心理的問題を解決してゆく心理療法です。時間もございませんので手短にご説明しますね」 手早く南はバッグからマイクロレコーダを取り出した。後で言った言わないで揉めることのないように、取材の際は録音している。「春日さん、無意識という概念は、ご存知ですか? 人の心には、普段は意識されない無意識と呼ばれる領域があって、そこにトラウマ、精神的外傷を抑圧してしまうことがあるんです。抑圧することで、記憶しつづけるには辛すぎる体験を意識から締め出してしまうんですね。だけど実際は忘れてしまうだけで、決して消えることはない。次第に神経症という形で現れてしまうんです。春日さん、恐怖症は?」「閉所恐怖症とか、高所恐怖症とか? 聞いたことはありますけど」「恐怖症というのは、特定の物事や状況に対して、これといった理由もないのに、強い恐怖や不安に捕われてしまう神経症の一種です。その原因を探り当てるのに、従来の精神分析では自由連想法や夢の分析によって意識下の記憶を探ってきました。これに対して、催眠を使って時間を退行させて、直接その原因となった記憶を探り当て、治療に役立てようとするのが、催眠療法なんです。意識を幼児期へと遡らせる退行催眠は、ご存知ですよね? 前世セラピーではこれを進めて、前世にまで時間を遡って原因を探るんです」「でも催眠を使ったからって、そんな前世になんて、記憶を溯れるものなんでしょうか? その、前世があれば、の話ですけど…」 軽口を叩いたつもりだったけれど、桜の方はにこりともしなかった。「催眠とは、オカルトでも魔法でもありません。単に意識を一つのことに集中させる方法です。私は催眠によって皆さんをトランス、変成意識に導き、忘れていた記憶に焦点を当てることができるよう、お手伝いするだけです。もちろん、深い催眠に入れるかどうかは個人差がありますよ。一般には人口の4%から10%と言われていますね。春日さん、ちょっと上を見ていただけます? そうそう、上を見つめたまま、ゆっくりと瞼を閉じて」 促されるまま天井に焦点を当てて瞼を閉じようとしたけれど、難しい。「うーん」と桜は唸り、「黒目が天辺に上がったとき、どれくらい白目が出ているかと、瞼を閉じるとき、どれくらい白目が見えているかで、かかりやすさを見ることができるんです。白目が多く見えるほど深い催眠状態に入る能力を持っている。春日さん、あなた、催眠にはかかりにくいタイプかもしれませんね。神経症に悩んでらっしゃるわけでもないし、ちょっと難しいかしら?」「ダメですか? 参ったなぁ、そうすると記事が」「とにかくやってみましょう。で、先程の話に戻りますけど、過去の記憶を探っても神経症や恐怖症の原因が掴めない場合、前世に潜んでいることが多いんです。とりわけ前世の死に方と関係あるみたい。日本ではまだマイナーな心理療法ですが、欧米の精神科医や心理学者の間では広く普及していて、アメリカでは80年代に前世研究治療協会が設立されたほどなんですよ。とりあえず私どもの資料をお持ちしましたから後でお読みください。それとこれ、お差し障りなかったら。初めて参加される方に記入してもらっているんです」 手渡されたのは、〈クライアント・ノート〉と記された、サービス業界が顧客管理に使うアンケート用紙のようなものだった。南は手早く氏名、住所、電話番号、生年月日、職業などの欄を埋め始める。「あら、29歳。お若く見えるのに、春日さん、あんまり私と変わらないんですね」 書き込む側から桜はいちいち口を挟んできた。「趣味は仕事、筋トレ、カラオケ、食べ歩き、煙草、コーヒー、酒。まあ、多趣味でいらっしゃるのねぇ」「はあ、まあ」適当に相槌をうちつつ、記入を終えた。最後の質問、〈現在の心理的諸問題〉は無視することにした。「心を悩ませるようなトラブルは何一つないってことかしら? 今の生活に100%満足なさって、完全に幸福でいらっしゃるのね?」 探るように桜が瞳を覗き込んでくる。「春日さん、あなた今、幸せですか?」 ペンを取り落としそうになった。初対面の人間から面と向かってこんな質問を受けたのは初めてだ。不躾とも言える視線に、土足で心に踏み込まれたような違和感と居心地の悪さを覚えた。「そりゃ…100%ってことは、さすがにありませんけれど」動揺を抑え答えると、桜がなぜか満足そうに頷いた。「そろそろ参りましょうか。セミナー会場にご案内しますわ」「あ、でもカメラマンがまだ」反射的に南は周囲を見回し携帯を掴んだが、桜に遮られた。「構いませんわ。いずれにせよ、セミナー中の撮影は控えていただくつもりですので」と桜は事も無げに言い放つ。「セミナー中の撮影はって、そんな話は」「それからセミナー中はメモを取るのも控えてください。取材も、予めこちらで了承を得た方に限らせていただきます」「そんな…。でも写真は? 雑誌ですから写真がないと」「建物も顔写真も、セラピー以外の写真であれば、いくら撮っていただいても結構です。撮影の際にはプレスの戸田というセラピストがご案内しますから。さあ、どうぞ」 促され、南もエレベータに乗り込んだ。取り付く島もないような一方的な要求に憮然として、細面の横顔を見詰めてしまった。桜がにっこりと微笑んだ。「ごめんなさいね。すべて治療のためなんです。セラピーは極めてデリケートで個人的なことですから。クライアントに心理的負担をかけないよう十分な配慮が要るんです」 大きく一つ、わざと溜息をついてから頷いた。 * * * そこは、密室と呼んでいいほど薄暗い空間だった。窓は黒い厚手のカーテンで覆われて、天井の照明も抑えられている。小川のせせらぎのようなメロディーがBGMに流れていた。お香の強い香りが鼻を衝く。 U字型に並ぶ五つの寝椅子の上で、人影が蠢くのがぼんやりと見えた。春日南は言われるまま通路側の寝椅子に横たわる。「もう暫くお待ちください」桜久美子が囁いた。 このまま昼寝でもできそうな椅子なのに、無性に落ち着かない気分にさせられる。リラックスさせようとする意図が見え透いていて、逆に鼻白んでしまうせいかもしれない。わざとらしいニューエイジ音楽は聴覚に、インド産と思しきお香は嗅覚に、薄暗さは視覚に、リクライニングチェアのクッションは触覚に、こちらのα波を刺激しようと訴えかけているようだ。 前世セラピーか…。この程度の小細工で前世が〈思い出せる〉とは、南にはとうてい思えなかった。「さあ、ゆったりとリラックスしましょう」 誰かが中央に立った気配がする。「瞼を閉じ、ゆっくりと呼吸をしてください」 桜だ。すぐさま南は、右脇に置いたマイクロレコーダの録音ボタンを押した。桜の少し掠れた声が穏やかに澱みなく流れる。「右手をゆっくりと上げてください。そうして、すとん、と落とす。するとほぅら、右手がゆったりと寛ぎました」 マイクロレコーダを落とさないように南も右手を上げ、落としてみた。「今度は左手を上げ、すとんっと落とす。さあ、左手がゆったりと寛ぎました。はい、次は、右足を上げて、すとん…」 ぼんやりと薄闇に、数本の白い手がすうっと伸びてはさっと下りる。続いて数本の足がにょっきりと上がって、下がって―。「さあ、呼吸に意識を集中しましょう。息を吐くたびに、体に溜まった疲れやストレスがすうっと吐き出されてゆく。息を吸い込むたびに、ゆったりと体がリラックスしてゆきます。息を吐くたびに…」 桜のリズミカルな口調が薄闇を撫で、南は大きく息を吐く。セミナー中の撮影は控えて―。思い出せば息というより溜息が漏れてしまう。「あなたの回りにあるすべての些細なトラブルを忘れ、呼吸に意識を集中してください。仕事も、家庭も、恋人も、義務も、責任も、病気も、すべて、今は忘れてください。ゆったりと寛いでゆく。息を吐くたびにあなたを悩ませていた問題がすうっと吐き出され、息を吸うたびに…」 とにかく、風景と顔写真だけでいくしかないのだ。白黒ページだからそれでもなんとか体裁はつくだろうけれど―。 それにしても望月彰、あの遅刻魔カメラマンは何をやっているんだろう? あんなバイト気分の青二才がMAGZ唯一の専属カメラマンだなんて…。いくら弱小編集プロダクションとはいえ、もう少しマシな人材を雇えなかったものか? 思えばだんだんと腹が立ってくる。「さあ、完全にリラックスしましたね。あなたは今、心地よぅく空を漂っています。ふわふわ、ふわふわ。その感覚を楽しんでください。どんな空ですか? 青空ですか? 夜ですか? 雲は見えますか? 陽の光を感じますか?」 ハッとして目を開け、周囲を伺った。 まずい…。このままでは取り残されてしまう。ロクな写真もなく、何も起こりませんでしたでは、つまらな過ぎるではないか。「あなたは今、完全に自由です。目映い光が頭上で輝いています。力強い、愛の光。光があなたの中にすうっと入り込んできました。ほぅら、あなたは完全に守られましたよ」 守られましたと言われても、瞼の裏は真っ暗である。 非常に、ヤバイ。瞼の閉じ過ぎだろうか? 閉じ具合を微妙に調整し、ぐるぐると眼球を動かしてみた。とにかく、光なのだ。まずは光を思い浮かべなければ―。だけど愛の光って、いったいどんな光だぁ?「その目映い光があなたを導いてくれます。光に続いて、さあ、あなたを脅かす問題の原因となった場面に、前世にまで、時間を溯りましょう。今から三つ数を逆に数えると、あなたは正に前世の、真っ只中にいます。3、光を追って。2、光の中を潜り抜け。1、光の向こうに、はいっ、何が見えますか」 仰向けに横たわったまま南は諦めて天井を見つめた。もう今更退行催眠になど、ついてゆけそうにもなかった。今回は自分の体験報告は控えて、参加者のインタビュー記事でお茶を濁せばいい。今月は特集も持っていないから、これを入校すれば終わりだ。後は初校と、色校と。 暇潰しに天井の四角い枡を数えてみる。白い天井板を埋め尽くす無数の通気孔を見つめてみる。徐々にそれが、まるでさんざん虫に食われた古い天井板に見えてきた。今にも無数の小さな穴からうじょうじょと蛆虫たちが這い出してきそうだ。 ふと子供のころ、天井の木目が恐かったことを思い出した。布団に入ってじいっと天井を見つめていると、木板から人の顔が浮かび上がってきたものだ。錯覚かと目を凝らしていると、いくつもいくつも、次第に何人もの顔が現れて、遂に天井の幽霊たちはもそもそと蠢き出すのだった。叫び声を上げそうになって、隣で寝ている愛美に手を伸ばせば、「なぁに、眠いよ、おねえちゃん」妹はむずかりながらも小さな手で握ってくれた。 メグ…。 丸い目に赤いほっぺたの愛美が浮かぶ。涙が零れそうになってハッとした。 どうしてこんなことを思い出してしまったのだろう? 催眠が効いてきたとでもいうんだろうか? 記憶の中の妹は何年経っても五つのままだ。 大きく息を吐き出した。 人の命なんて、儚いものだ。 だんだんと瞼が重たくなってきた。無理もない、昨日も一昨日も午前様だった。仕事に追われ飛び回るうち、毎日はあっという間に過ぎてゆく。今年は夏休みも取らなかった。それもそれ、それなりに楽しいけれど、後何年こういう生活を続けてゆけるだろうか? 30過ぎると続けたくても体がついてゆかないかもしれない。 だからさぁ南、いつまでも今のままでいられるわけじゃないんだよ。 いつだったか、和幸が言った。 大沢和幸。同じ大学のテニスサークルで1年先輩だった彼との交際は3年前、彼が長野に転勤になってからも続き、そろそろ10年近くになる。「ニェート!」 突然、誰かが叫んだ。驚いて南は寝椅子から跳ね起きた。 反対側、奥の寝椅子の上で女性が激しくもがいていた。わけの分からない言葉で何か叫び、泣き喚いている。真っ赤なサマードレスの裾が捲れ、白い太腿が宙を蹴り上げるのが見えた。 暴れて寝椅子から転がり落ちてしまうのではないかと南は駆け寄ろうとしたけれど、桜がそれを制するように首を振る。桜は真っ赤なドレスに近付くと腰を屈め、耳元で何か囁き始める。次第に悲鳴は喘ぎ声に、女性はだらりと萎えたように静かになった。 横になろうとしたら、今度は隣の女性が喚き出した。形のない誰かに挑みかかっているかのように、滅茶苦茶に拳を振り上げ、怒鳴っている。彼女が頭を振るたびにメデューサのような長い髪が寝椅子の上で四方八方に跳ね上がる。「ギャーッ! ギャーッ!」 悲痛な叫びに、南は半身を起こしたまま呆気に取られて見入ってしまった。けれど他には誰一人、起き上がろうともしない。 どうなって…いるのだ? 異様な光景に横たわるのも忘れ、じっと目を凝らし周囲を伺っていた。薄暗い電灯の下、こちらに近付いてくる細く長い影が浮き上がる。桜が南のすぐ隣、暴れる黒髪の傍らに屈み込み、耳元に何やらそっと息を吹き込んでいる。「3、2、1…」 ふっとまた辺りに静寂が戻った。「春日さんも、さあ、瞼を閉じて」と、ふいに桜が南の耳元に囁きかけた。「結婚…。そう、ここでのテーマは、結婚です」「えっ?」 南は思わず切れ長の瞳を見つめ返してしまったが、桜は微笑を浮かべ頷く。「ゆったりとした呼吸を繰り返しましょう。深ぁく息を…」と、暗示を掛けるように囁き続ける。「では、結婚に、意識の焦点を当ててください。あなたが結婚を考えられる男性、その人を心に思い浮かべましょう。どんな人ですか?」 それでも、いつしか大沢和幸が浮かんでいた。大きな体に四角い顔、縁なし眼鏡の奥に覗く人なつこい目、眼鏡をかけた熊のプーさん。ぼそぼそと呟くような声音で、「そろそろ、長野に来ないか」「何が障害になっているのでしょう? あなたが結婚するのを邪魔しているすべての思い、すべての問題を思い浮かべてください」 結婚、仕事、家庭、長野。結婚して長野に行き、そして―。そこで自分は何をするというのだろう? 今の仕事を放り出すなど、母親になった自分など想像もできない。結婚は彼が東京に戻ってからで― そのとき、さっと空気が揺れた。桜が立ち上がった気配に瞼を開ければ、ふいに白日夢から我に返る。 自分は何をしているのだ? 薄闇の中、桜の後姿を思わず睨んだ。 ちょっと待ってよ、ここでのテーマって何よ、それ! 前世療法じゃなかったの? なんで結婚がテーマなのよ、と。 向こうでまた誰かの喚き声がした。 * * * 上映を終えた映画館の照明が灯るように、ゆっくりと薄暗い空間に光が戻る。春日南はマイクロレコーダの録音ボタンを止め、寝椅子から立ち上がった。「如何でした?」と桜久美子が微笑み近付いてくる。 礼を言ってから、さり気なく尋ねた。なぜ個人的に誘導をかけてきたのか、と。すると桜は視線を宙に浮かせ、躊躇いがちに聞いてきた。「立ち入ったことをお伺いして何なんですけれど、春日さん、恋人はいらっしゃいます?」 唐突な問い掛けに戸惑ったものの、南は結婚を考えている恋人がいると答えた。桜は頷き、それから溜息を吐いた。「差し出がましいのですが、今の生活を続けていらっしゃる限り、春日さん、ご結婚は難しいかもしれません。後であなたがその…、泣くことになるかもしれない」 カッと頬が火照った。「はあ?」 南が何のことだかわからないと言うように露骨に顔を顰めてみせると、桜は恐縮したように頭を下げた。「ごめんなさい、ちょっと気になったもので…。でも、余計なことでしたね。忘れてください」 結婚したがっているのは私よりも相手の方です! 喉まで出かかった言葉を、周囲を意識してなんとか飲み込んだ。「桜さん、ロビーの撮影、終わりましたけど」 どたばたと白いパンツスーツを着た小柄な女性が駆けて来た。その後ろにカメラ機材を抱えた望月が見えた。「じゃあ、そろそろ取材の方をお願いできますか?」 そう言うと、桜は寝椅子の横で立ち話をしていた女性二人を紹介した。 赤いサマードレスの女性と、ソバージュにした長い髪の女性。長髪の方は隣の寝椅子にいた女性だと気がついた。二人ともセラピーの興奮が冷めないらしく、我先にと話し始めた。*******************************⇒(2)破局 に続く。ブログ村に参加しています。応援クリックをどうぞよろしくお願いいたします。にほんブログ村
2018.09.04
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