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『コインロッカー・ベイビーズ・上下』村上龍(講談社文庫) 「コインロッカー・ベイビー」、いわゆる駅構内などのコインロッカーに、生まれたての嬰児、あるいはその死体を遺棄するという事件は、1970年代前半に同時多発的に起こり、一気に社会問題化したということですが(この作品の主人公「ハシ」と「キク」が、コインロッカーで発見されたのも1972年という設定です)、その後、この手の事件はどうなったんでしょうか。 あの頃に比べて、嬰児遺棄が少なくなる環境に現代がなっているとも思えませんし、コインロッカーに捨てにくくなった、何か特殊な装置がついたのでしょうか。或いは逆に、現在ではニュースにもならないくらい、しょっちゅうそれは行われているのでしょうか。 先日たまたまNHKで、捨てられた子供達の乳児院のドキュメントをしていました。嬰児遺棄は、確かに現在でもあります。 「赤ちゃんポスト」というのが、マスコミで話題になったのは確か5、6年前だったと思いますが、さっきちょっとだけネットで調べてみたら、現在でもそれはあるということでした。赤ん坊は捨てられ続けています。 また、嬰児遺棄に近いところに「ネグレクト=育児放棄」というのもありますね。 これもついでにちょっとだけ調べてみたのですが、いろんなケースがあるようです。例えば、学校に行かせないとか、病気になっても病院に診せないとか、食事を与えない、寒くても服を着せない、風呂に入れない等、ちょっと想像しただけで、胸が締め付けられるようで、うんざりしてしまう事例が挙がっていました。 嬰児遺棄の話題に戻りますが、先日私は、作曲家ビバルディの頃のイタリアの孤児院を舞台にした小説を読んでいました。 それはピエタ慈善院のことで、この孤児院の制度は1300年代からあったそうです。(ビバルディは17~18世紀の人ですが。) 既にそんな時代から、広く子供(嬰児)の遺棄は、まぁ、考えれば当たり前かも知れませんが、あったんですね。(そう言えば日本でも確かもっと昔、聖徳太子がそんな施設を作ったりしていなかったでしょうかね。) だから嬰児遺棄自体は、珍しくないといえば、珍しくないのかも知れません。 例えその舞台が、いかにも都会的なコインロッカーであったとしても。 本作品中にも、主人公達と争う登場人物が、コインロッカーに捨てられたくらいで威張るな、とどなるセリフが出てきます。 しかし、この『コインロッカー・ベイビーズ』というタイトルは、とっても秀逸ですよね。また、私の読んだのは、上下巻になった講談社文庫版ですが、この表紙絵も素晴らしいです。確かこの表紙絵は、最初の単行本のものと同じだったと思いますが、都会的でセンスがあって、そしてとてもエネルギッシュです。 というふうに、「コインロッカー・ベイビー」を特殊なものじゃないと考えてしまうと、この話のエネルギーの源泉はなくなってしまい、ストーリーのリアリティを担保しているものが急に失われてしまいます。 実はこの小説が後半失速気味になるのは、明らかにそのせいであります。(ただし、後半失速は、この作家の長編作品に広く見られる、まぁ、持ち味といえば持ち味に近いものではありますが。) というふうに、作品として瑕疵は認められつつも、しかしこの作品の持つ、圧倒的なパワーとイメージは、ほとんど現代小説に他に比較するものを持たず、驚かざるを得ません。 例えばこんな表現。 キクは鳥の鳴き声のような細く高い音に気付いて水溜まりから顔を上げた。右目のすぐ横を殴られたらしくて視界は白く濁っている。路地に集まった人々が歪んで見える。聞こえてくる鳥の鳴き声がゆっくりと旋律に変わった。始めてハシが歌っているのに気が付いた。赤土の地面に跪いたまま、ハシは歌っている。不思議な声だ。とても小さなスピーカーから響いて来るような声質、部屋の片隅に転がった電話の受話器から漏れている音に似ている。ハシの歌声は流れずに立ち込める。旋律を発する極薄の膜が耳を包み込んだようだ。弱々しく感じられる音は肌に張り付き毛穴から体に侵入して記憶の回路を揺さぶった。振り切ろうとしてもだめだった。歪んだ視界が色を失い匂いや温度が切り離されて、ハシの歌の旋律が作る幻覚が現れた。自分がどこにいて何をしているのかわからなくなってくる。回りの空気が重く体に絡み付き、ヌルヌルした海底へ引き摺り込まれるようだ。キクは真黒な馬が夕暮れの公園を疾駆する情景に捕えられた。映像が浮かぶのではなく、その情景が描かれた絵の中へ強引に引っ張り込まれたのだ。黒い馬はオレンジ色の逆光を浴びて恐ろしい速さで木立ちの間を駆け抜け、いつの間にかいななきが爆音に変わり、滑らかに輝く産毛が金属となり、銀色の窓ガラスの谷間を走る大型のオートバイに姿を変えた。猛烈な速さで移動するオートバイを追って、その情景を映す視点が同じ速さで動く。空中に張ったワイヤーロープに吊るしたカメラを時速二百キロで滑らせ、撮影したフィルムを観ているようだ。不安になる。恐ろしいスピードで移動しているのが何なのか、わからなくなった。自分なのか、カメラなのかオートバイかそれとも周囲のビルディングや街路樹や窓灯りなのか。キクはこの不安できれいな幻覚から逃れようと思った。 少し引用が長くなってしまいましたが、実は本作は文庫本上下500ページほどのすべてが、こんなイメージの洪水と言葉のオーバードライブで成り立っているといって間違いではありません。 これだけ書き込まれると、そこに書かれたプロットに少々破綻があろうが、この恐ろしいパワーに、やはり筆者の特殊な才能を感じずにはいられません。 かつて三島由紀夫は、小説の美は細部に宿ると言いましたが、本小説の描写も、いえ、本小説のこんな描写こそが、細部に宿る美の一つの典型なのかも知れません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.08.30
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『野』三浦哲郎(講談社文芸文庫) 短編小説とは何かについては、今まで何回か考えてきました。 そもそも頭が弱いのにこんなことを考えるのがけっこう好きで、だから、というか、しかし、というか、ろくにモノになる結論が出たことはありません。最低限自分で、勝手にある程度納得しているだけであります。 今回考えたテーマはちょっと捻りまして、短編小説集とは何か、ということであります。それも、ただの短編小説集ではなくて、一般的に「連作」と呼ばれるものについて考えたいと思っているんですが、さて、うまくいきますか……。 そんなことを思ったのは、実は、クラシック音楽の「組曲」と「交響詩」の違いって何、というところからなんですがね。 組曲というのは、例えばグリークの『ペールギュント』とか、ホルストの『惑星』とか、ムソルグスキーの『展覧会の絵』とかですね。まだまだいっぱいありますが。 交響詩の方も、いっぱいありますよね。リストとかリヒャルト・シュトラウスとか、その辺の方がたくさん作っていそうに思います。 話は少し飛んじゃうんですが、ビートルズのアルバムに『サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド』ってのがありますね。あのアルバムは古来「トータル・アルバム」なんて言われていましたが、「トータルアルバム」というのは、「連作」のことなんでしょうか。 「交響詩」に比べますと、ポップスの「トータルアルバム」は、各作品間の有機的繋がりがかなり弱いというか、柔軟な感じがして、小説の「連作」は、こちらに近いような気がします。 なるほど、ポップスの「トータルアルバム」というのが、「連作」短編小説集である、と。 (ただひとつ、私的に気になる連作小説集があります。黒井千次の『群棲』という名作なんですが、これは向こう三軒両隣の各家庭の話を順番に書いていった、とてもユニークな短編小説集です。例えばAさんの家のことが中心の話に、隣家のBさんの家庭も出てきて、今度別のBさんの家の話にAさんが顔を出す、という類のお話です。この作品なんかは、わたくし的にはクラシック音楽の「交響詩」という感じなんですがねぇ。) ということで、「連作」と銘打たれた短編小説集とは、さほど強くない有機的繋がりを持つ短編小説の集まりである、という、まー、よく考えてみれば当たり前的結論が導かれました。 やはり冒頭に書いたとおり、モノにはなりそうもない結論であります。(ただ、一つだけポイントがあるとすれば、連作は、有機的繋がりが強すぎてはいけないというところでありますね。) さて冒頭の連作小説集ですが、16編の田舎話(大体昭和40年代の東北地方)から成り立っています。 今読めば、そのころのノスタルジー(まだまだ貧しかった日本)がぐっと前面に出てくるのですが、書かれた当時で言えば、この田舎の「貧しさ」はリアルタイムな背景であるわけで、今と読後感がだいぶ違うように思います。 一方「田舎話」という以外の共通するものとしては、「性的なものの存在」があります。もう一歩つっこんで表現すれば、女性性のほの暗い側面の存在であります。 富十さんは、膝小僧を抱いて躯をゆらゆらさせていたが、「どっちみち、生臭い話になっちまうなあ。でも、仕様がないか。女って、どだい生臭い生きものなんだからな。ありていに申し上げるより仕様がないな。それじゃ、いっそ、その生臭いところからはじめようかね。」 そんな前置きをしてから、実はあの酒屋の奥さん、きょうがちょうど生理日なのだといった。(『合歓の町』) そのイメージをさりげなく、かつ具体的に説明した個所を挙げれば、こんな感じの話なんですね。 ただ、この「ほの暗い女性性」(『罰』という話はかなりこれが強調された苦い話です)は、作品のトーンを少し別なものに変えれば、とたんに自然の豊穣さになったり(『泉』や『金色の朝』という話はこれです)、死の話にもなったり(『軍鶏』がそうですか)、そして、「哄笑」にもなります(『寒雀』『ひとさらい』などはこの系列)。 これはきわめて豊穣なフィールドであり、私は、これだけではもったいないような連作テーマであると思いました。しかし、筆者のあとがきにこんな一文がありました。 この『野』が、自分の著作のなかで、心をひどく痛めずに読み返すことのできる少数の作品の一つであり、好き嫌いでいえば最も好きな作品であることを、ここに告白しておきます。 自らの「家族の血」について剔るように書いていく(私はさほどたくさん読んではいませんが)筆者にとって、なるほど本作は、「戦士の休日」のような連作テーマであったのだなと、私はふと感じるのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.08.23
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『エロ事師たち』野坂昭如(新潮文庫) えー、わたくし、この小説は再読であります。 一回目はいつ読んだかといいますと、高校時代ですね。 なぜ高校時代にこの本を読んだかといいますと、ご想像の通り、タイトルから「えっち」っぽい本だと思ったからですね。 そもそも私の高校時代の読書って、そんな感じのものがたくさんあったりしています。 大江健三郎の『性的人間』もそんな興味で読みました。谷崎潤一郎の『鍵』もその方面の興味で読みました。でも、どちらの本も難しいばかりで、ちっとも性的興奮しなかったです。(以前にも本ブログで触れましたが、同様の興味で、吉行淳之介の『砂の上の植物群』も読みましたが、これは、なかなか興奮しました。) というわけで、私の読書経験なんて全く勘違いなものばかりという気がするのですが、今回本書を読み直してみて、これは哀愁だらけの本だというのが分かりました。 そもそも、この筆者には、そんなところがあります。 『火垂るの墓』のことですね。 ……わたくし、密かに自信があるんですがね。 何の自信かというと、『火垂るの墓』を読めば必ず「号泣」するという自信であります。 かつてテレビでも、何度か『火垂るの墓』のアニメ映画を放送していましたよね。 『火垂るの墓』の小説は短編なので、私は何回か読みました。そしてアニメでも小説でも、見る度ごとに私は号泣しました。 最初はねー、名作と思いました。 いえ、今でも基本的には名作とは思っていますが、少しだけ、こんなにひどく泣かせるというのは、これは作品の文学的な価値として良いことなのかどうかという気が、いえ、少しだけ、しております。 さて、閑話休題しまして冒頭本の読書報告ですが、本作は『火垂るの墓』より先行しているんですね。 『火垂るの墓』が1967年で、『エロ事師たち』は1963年であります。 というか、『エロ事師たち』は野坂昭如の小説としてのデビュー作であります。 うーん、これは見事なものですね。 筆者は、その後『火垂るの墓』で直木賞を受賞していますが、私は最近の直木賞受賞作をほとんど知らないので正確な比較はできませんが、少し前に一作だけ、直木賞受賞作を読みました。上手には書いてありましたが、なんだかゲームのシナリオみたいな気がしました。(でも一作だけの比較ですから、言い切れません。) 一方『エロ事師たち』は、切ないばかりにヒューマニスティックであります。 例えばこんなところ。「カボーはあないして、水着の若い女にかこまれて、なんともないのんか」「いっこもなんともありません、若い女いうのんは、なんや螢みたいな臭いして、ぼくは好かんな」「螢みたいて、どんな臭いや」 継母に追いかけられて身の置きどころなく、加古川の堤防に夜通し寝ころがっていたカボーのまわりを無数の螢がとびかい、ふっと手をのばして掌ににぎると、はかなく潰れて汁がでて、その時、なんともいえぬ臭いが強く鼻を刺した。「なんやしらん螢いうたらかわいらしいもんでしょ、そやけどきつい臭いしてますねん、生臭い感じでね、あの女の臭いも螢みたいやったわ」 もちろんこれは登場人物のセリフに過ぎませんが、しかしこんなセリフ、例えば女好きの谷崎潤一郎なら絶対に書きませんよ。(という気がするんですがー。) ちょっとまた、話が飛ぶのですがー、70年安保の前後の時代、あの頃の野坂昭如は凄かったなと思い出します。 「焼け跡闇市派」などと称して、独自の社会批判をしていました。(「中年御三家」と称しての歌手活動もしていましたね。) そういえば五木寛之も、あの頃凄かったですね。彼の場合は「デラシネ」なんて言って。 ……えーっと、「デラシネ」ってなんでしたっけ。なんか、アイデンティティがないみたいな意味でしたっけ。 ともあれ、今考えれば、古き良き日々でありましょう。 それは70年代全体がそうだといっているのではなく、そのころの「エロ事」業界が、ということであります。 いえ、私は、「エロ事」業界なんて何も知りませんが、なんかあの頃の「エロ事」は、あれこれ隠されていましたわね。でも今は、インターネットで、何でも丸見えです。 そもそも「ブルーフィルム」なんて、今でもあるんでしょうか。80年代に一時流行った「ビニ本」ってのも、もうないそうですものね。 まー、いろんな性的「営み」自体はなくならないでしょうが、ビジュアルなものは、ネットの中に、普通のようにそこいら中に落っこちている時代なってしまいました。 ……えー、内容に拘わっているつもりではありますが、また本筋から離れてしまいました。 とにかく、「エロ事」と銘打った本作には、「エロ事」の哀愁ばかりが満ちあふれています。 『火垂るの墓』に号泣する私の好みでいえば、このテイストは、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」的に好きなものではありますが、ここまで読者を「哀愁」させる才能というのは、筆者の独壇場であると同時に、ひょっとすれば、時代に負っているところがかなりあるのかも知れませんね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.08.19
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『お艶殺し』谷崎潤一郎(中公文庫) 中公文庫は『潤一郎ラビリンス』と名付けて、谷崎の短編をあるテーマに従って(例えば「マゾヒズム小説集」とか「犯罪小説集」とか、いかにも、ちょっと手に取ってみようかなと思わせるようなネーミングであります)、十六巻にもまとめて出版していますが、それとは別に、ぽつぽつと何作か、「バラ」でも文庫になさっています。 それは例えば、『鍵』『人魚の嘆き・魔術師』『盲目物語』『乱菊物語』『瘋癲老人日記』『武洲公秘話』などでありますが、傾向的にいいますと、『鍵』『瘋癲…』は少し違いますが、基本的にこれも「面白系」ですかねー。 谷崎が、「エンタメ」的に書いた作品といいますか、『乱菊…』『武洲公…』なんてのは、いかにもそんな感じのものであります。 そして冒頭の本作も、そんな「バラ」売りの短編集であります。 二つの小説が入っていますが、そのうちの「お艶殺し」は見るからに「エンターテイメント小説」であります。第一、タイトルがそんな感じではありませんか。(ただし、もう一つの短編小説は「金色の死」というタイトルですが、「エンタメ」系ではなく純文学系で、このカップリングには、何とも言い難いバランスの悪さというか、落ち着きのなさがあります。) ところが、その「お艶殺し」、エンタメ系ではありますが、これが冒頭より実に惚れ惚れするような文章でありまして、こんな感じです。 宵の五つの刻限に横町の肴屋の春五郎が酔っ払って飛び込んで来て、丼の底をちゃらちゃらさせながら、此の間銀座の役人に貰ったばかりだと云う、出来たてのほやほやの二朱銀を掴み出して、三月あまりも入れ質して置いた半纏やら羽織やら春着の衣装を出して行った後では、いつも忙しい駿河屋の店も、天気の悪いせいか一人として暖簾をくぐる客は見えない。帳場格子に頬杖をついて頻りに草双紙を読み耽って居た新助は、消えかかったしかみ火鉢の灰を掻きながら、「ほんとに寒い晩だなあ」と独り語のように云ったが、やがて片手を二三尺伸ばして、余念もなく居眠りをして居る丁稚の耳を引っ張った。 これは冒頭の部分なんですが、実に見事な文章ですよね。この先、一体どんなところに我々を連れて行ってくれるのか、わくわくしそうな文章であります。 かつて私は、文章力というのは、野球でいえば守備力に似ていると考えたことがありました。 バッティングというのは、どうしても好不調の波が出てきます。それはどんなバッターでも免れることはできず、ただ一流の選手は、「好」を長く、「不」を短くすべく努力と才能を持っているのである、と。(えー、この説は、たぶん誰かの話か文章を、私がまるまる「パクって」いるのだと思うんですがー。) 一方、守備力には波がほぼない、と。年齢による衰えはあっても、「絶好調の守備」や「絶不調の守り」なんて聞いたことがありません。 そして文章力も、それと同じではないか、と。 そもそもデビュー作の『刺青』を(厳密に云えばこれはデビュー作ではないようですが)永井荷風が絶賛した幾つかの理由の一つに、「文章の完璧なること」というのがありました。(私は少し前に、『刺青』を再読してみたのですが、本当に呆れるような見事な文章であります。) ひょっとすればこの文章力こそ、「天才」の宿るところなのかも知れませんね。 上記に「野球の守備力」と書きましたが、そんなちょっと地味な感じのするものとは全く別物なのかも知れません。 ともあれ、冒頭の素晴らしい文章で幕を開けたこの短編は、終盤、こんな感じの部分を持ちます。ここももちろん素晴らしい描写ですが、こんな感じ。 罵られて新助はカッとなった。女は喧嘩を吹き掛けて、破裂したまま物別れをしようと云うのが、真意らしかった。「なる程己は間抜けだった。お前がそんな心たあ己あちッとも知らなかった。よくも今迄騙しやがったな」 いきなりお艶の襟を取って引き据えると、彼は有り合う衣紋竹で所嫌わずぴしぴしと撲った。 擲って居るうちに新助は、親に捨てられた子供のような心細い悲哀の情が、汪然として胸に塞がるのを覚えた。今夜の詰問の結果がこんな事になろうとは、……こんな惨憺たる事になろうとは夢にも想像して居なかった。女は彼の用意よりも、もっと根深く用意をして居た。此の女に捨てられたら自分は果たしてどうなるだろう?――そんな事まで新助はとても考えて居なかった。 この後新助はお艶を、タイトル通りに殺してしまうのですが、この辺りを読みますと、谷崎らしい文学的テーマがすっと現れ、なるほど大文豪というものは、さらりと書き流したような作品でも、文体は第一級だし、「勘どころ」はきちんと押さえているしと、その見事さに、私は何人も人殺しの出てくるこのお話に、とても快い読後感を持ち、感心賛嘆するのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.08.13
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『棘まで美し』武者小路実篤(新潮文庫) 三角関係の話です。 ……と、書いたら、それで終わってしまいそうな気もしないではありません。 しかし、恋愛小説と三角関係というのは、まー、切っても切れないものなんでしょーかねー。 例えば、……といって、思いつくままに近代日本文学の恋愛小説を書いてみます。 ……まず、『春琴抄』。これは、三角関係とは少し違うような気もしますね。独自の恋愛世界です。 独自の恋愛世界といえば、古井由吉の『杳子・妻隠』ってのを思い出しましたが、これも三角関係というのとはちょっと違います。鴎外の『雁』は、どうでしょう。もう一作近いところで、水村美苗の『本格小説』は、どうでしょう。 この辺はひょっとしたら、三角関係に入れて良いかも知れませんね。 一方で、やはり漱石の『こころ』があり、武者小路の『友情』があります。これらは、まがう事なき三角関係恋愛小説であります。 と、書いてきたら何となく分かってきたんですが、やはり三角関係はお話になりやすいんでしょうね。「恋愛小説の定番メニュー」という感じです。 しかし単なる表面的な恋愛小説では終わるまいと作家がもう一歩踏ん張ると、三角関係は、作品の中で影が薄くなるか、姿を消してしまいそうです。 作品内の人物に深みを与えていくと、それはもう、単純な三角関係の葛藤では済まなくなるんでしょうね。男女を越えた人間同士の対決になる、と。(だから、武者小路の恋愛小説は、「カルく」見えたりします。) ついでながら、漱石作品が『こころ』を筆頭に、作品的な深みも充分持ちながら、ほとんどすべてに三角関係を扱っているのは、漱石の好みと、持って生まれた「力業」の才能のせいという気がします。でもそれがために、漱石作品は「永遠のロングセラー」となっているわけですね。 さてここに、武者小路実篤作、三角関係の純粋培養のような名作『友情』と、ほぼ同じ設定を持った『棘まで美し』があります。 上記に触れたように、漱石作品も次々と、ほぼすべて三角関係でくくることができましょうが、それでもこれほど設定を同くして書いた作品はありません。 これは、いかにも武者小路的ノー天気さと厚かましさであります。 ただ、全く同じというわけではなく、冒頭の本作は、2点において『友情』と異なっています。 (1)「僕」という50歳くらいの画家を、 「狂言回し」の役割としていること。 (2)三角関係を演じる二人の男の職業を画家にしていること。 この二つが大きく違っており、そしてこの違いは、『棘まで美し』の読後感をけっこう新鮮な感じにしています。筆者は「ノー天気」なふりをして、なかなか「策士」であります。特に、画家というのは、とても着眼のよいところだという気がします。 わたくし、思いますに、武者小路実篤は文学者であるよりも、美術家になりたかったのではないか、と。事実、武者小路は中年過ぎから絵をしきりに描いて、そして、その絵画作品は、一定の高みにまでは、まぁ、達しているとも思います。(でも、やはりたいしたこと無いかも知れませんが。) 以前私は、芸術的な才能と人格との間に相関関係はあるかと考えたことがありました。 あれこれ考え、そして一応自分としての到達点としたのはこんな事でした。 そもそも美しいものには二種類あって、それは「天上的」な美しさと、「人間的」な美しさであります。 そしてその芸術が主にどちらの「美」を目指すか(個々の作品レベルで考えてもよいですが)によって、芸術的才能と人格は連動するケースもある、と。 ……と、そんな愚にもつかないことを考えていたんですが、それに基づいて、文学と美術を比べますと、美術の目指す「美」のほうが、はるかに「天上的」な気がします。(音楽はもっとそうでしょうが。)つまり単純にいって、美術的才能と人格との相関は、文学的才能と人格よりも低い、と。 『友情』は1920年、筆者35歳、『棘まで美し』は1930年、筆者45歳の作品であります。 わずか10年しか経っていないながら、筆者の思索の方向は、この10年間でより美術家的なものを求めたのかも知れないと思います。 それは、一般的評価はともあれ、筆者の資質にはより合致する方向であったと、私は思うものであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.08.10
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『銀座八丁』武田麟太郎(新潮文庫) 初めて読む作家というのは、なかなか難しいものですね。 その作品がデビュー作で、それしかとりあえずない場合は、その作品で判断すればいいでしょうが、最近そういった読書をほとんどしていないので(つまりこのブログに取り上げるような作家ばかり読んでいますので)、すでに一定の評価がなされている作家の作品を、でも自分としては初めて読んだものの、なんかビミョーに読後感のイメージが違ったりした時は、どうすればいいんでしょうか。 ところが先日、まだ文学史の本には名前が出てこないような新しい作家の小説を、久しぶりに読みましたら、やはりこれはこれで、判断しにくいものだということが分かりました。上記に、新人作家はその作品だけで判断すればいいみたいなことを書いたところなのに。 ただ、デビュー作と、数作だけでも既に作品を発表した後の作品というのは、よく似ているようでかなり違いますよね、やっぱり。 発表している数作の評判を、我々は、やはり少しは前提にして読み始めますものね。 ……というように、ちょっとなんか、含むところのある、持って回った書き方をずるずるとしてしまったのは、要するにこういう事ですね。 わりと評判のよい作家の本を読んだはずなのに、私としては今ひとつ感心しなかった、という。 ……うーん、こんな場合は、どう考えればいいんでしょうか、実際の話。 どうですか? そんなことって、ありませんか? さて冒頭の作品が、実は今回私にとって、そんな「違和感」の作品なんですね。 この作品は一体できがいいんでしょうか。本書の解説文に(作家の丹羽文雄が書いていました)、本書は昭和8年に大阪東京朝日新聞の夕刊に連載されたが、第一回が出るとすぐに永井荷風が褒めたと書いてあります。 新聞小説の第一回が出たばかりで褒めたというのは、どんなほめ方をしたか迄は書いていないので詳しくは分かりませんが、まー、考えれば、荷風先生も無責任なものだと思ってしまうのですが、そんなことないでしょうか。 連載小説であっても、冒頭の一回分だけ読めばそれで十分わかるのだ、という感じでしょうかね。 本当にそうなのかも知れませんね。 ただ、もしそうだとすれば、荷風が褒めたのは、文体、つまり書かれている対象との間合いの取り方を褒めたんでしょうね。 なるほどねー。 ただ、わたくし、様々な方からたとえ顰蹙と軽蔑を買ったとしても、『墨東綺譚』(この漢字、ちょっと違ってますねー)は、あんまり好きじゃありません。 もう上に書いてしまったのでそのトーンで続けますが、この作品のどこが気にくわないんでしょうかね、私は。 いえ、逆に考えてみまして、そもそも私たちは、一体どこが気に入るとその小説を「良し」とするのでしょうか。 ……うーん、それは千差万別でしょうねぇ。総ての作品に当てはまる法則性など、そんなに簡単にあるとは思い難いですよね。 結局、私のケース、ということですが、一つだけ挙げるとすればこういう事でしょうか。 (1)小説に、人間・人生が描かれていること。 こんな風に書けば、なんだか恰好よさそうですが、でもこの条件は、多くの方からも結構賛同していただけそうですよね。一応常識的な条件だと思います。これが作品にあれば、とりあえず、私は、「許します」。 その次を考えてみます。 (2)文体のここちよさ。 これは最近特に思いますね。小説にとっての文体というのは、絵画にとっての色の出し方であり、音楽にとっての音の良さですから、当たり前といえば当たり前ですが、本当に読んでいて心地よい文体ってありますよね。これが作品にあっても、とりあえず、「許します」、わたくし。 次、三つめ。 (3)ストーリーの面白さ。 これを二つ目に挙げてももちろんいいんですが、でも私は大概ストーリーの「面白くない」純文学小説を読んでいますからねー。まー、この条件は3番目と言うことで。 ところが3番目に挙げながら、実は、作品の評価を大きく左右するのはこれじゃないかという気が、(なんか矛盾するような気はしつつ)わたくし、かなりするんですがね。 そして、ストーリーの面白さとは、結局のところ、登場人物の魅力ということではないかと思っています。さらに、登場人物とは、個々の人物だけのことじゃなく、人間関係のあり方も含め。 さて、話が茫漠としてきましたので、冒頭の作品に収束していきたいと考えているんですがー、……うーん、困りました。 描き方が、個人的に好みに合わず、主人公並びに描かれる人間関係に魅力を感じずとくれば、まー、それはもう、どうしようもないとは思います。 きっと「ご縁」がなかったんですね。 ただ、私としては、ご縁がなかったのは、本作だけだと強く思いたいわけです。 だって、筆者の武田麟太郎という方は、近代日本文学史上、さほど多いとは思わない関西色の豊かな方(という評価をそもそも私は抱いていたわけです)ではありませんか。 ここで、私は冒頭の困惑にぐるりと一周回って戻ってきました。 別の作品。筆者の別の作品を、ぜひ、早急に、読みたいと、私としては、とても強く思うのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.08.01
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