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『白鳥の歌なんか聞こえない』庄司薫(中公文庫) 本書は、いちおー「薫くんシリーズ四部作」の中では、白眉ではないでしょーか、と。 なんかそんな評価を聞いたような気もするし、ページ数も4作の中では一番多いんじゃなかったかしら。(「白鳥」に「白眉」は、関係ないですかね。) 今「四部作」と書きましたが、『青髭』のお話は、少し時期が遅れて書き出されたせいか、後の三つと少ししっくりいっていない感じの記憶(昔読んだきりの記憶ですがー)があります。 そう言えば、あんまり関係ありませんが、村上春樹の「僕・鼠」シリーズも、本当は四部作なんですよね。ずっと遅れて『ダンス・ダンス・ダンス』が書かれましたが、まぁ、もっともあの場合は、「鼠」が三作目で死んでしまったせいで、「僕」は同一人物でもその片割れの「鼠」が出てこないから(「鼠」はとっても大切な登場人物ですものねー)、一般的には前三つで「三部作」のように理解されていそうです。 閑話休題。「薫くんシリーズ」中、白眉の『白鳥』であります。 昔は、2、3回読んだような気がしますが、今回は本当に久し振りの再読であります。 この間、私もいたずらに馬齢を重ねまして、読了後直ちにこんな意地悪な感想を二つ抱きました。 (1)あんな状況下で本当に男は射○するものなんだろうか。 (2)で、由美は、どうなる。 まず(1)ですが、まぁ、健康な18才の男子のお話ですから、確かに場合によっちゃぁ、気合いひとつで、風に当たった程度でも(そら「痛風」やがな)○精くらいはりっぱにしても見せましょうが、まぁ、なんといいますか、……そもそもわたくし、今回読んでこのシーンについて幾つかの細部を改めて確認したのですが、相当にややこしい場面で二人は抱き合っていたんですね。 まず隣の部屋に「小沢さん」という妙齢の女性が寝ています。本当はあまり寝ていません。耳を澄ましながら(電話を待っているんですね)うとうととしています。 同様に由美も薫も、いつ電話が掛かってくるかも知れないと言う気ぜわしい状況下にあります。 次に二人が抱き合った部屋とベットは、去年お嫁に行った由美の姉のものであります。ほぼ空っぽの本箱と机とベットだけのある部屋です。 部屋に入った由美は、最初に窓を開けます。庭に面した部屋(いかにも広そうな庭で、「高い水銀灯」があります)のようですが、耳を澄ますと車の走る音や街のざわめきが聞こえてくると書いてあります。 まーどうでもいいような話ですが、この窓は、二人が抱き合っていた時も開け放たれたままであります。(季節は春、春分の日の前後であります。) つまり二人は、いえ、由美の立場で考えてみると、小沢さんという学校の先輩の祖父で、由美自身も崇拝しているその祖父が今にも亡くなろうとしている、その知らせの電話がいつ掛かってくるか絶えず耳を澄ませて待っている落ち着かない時に、由美の部屋の由美のベットの上ではその小沢さんが微睡んでいるその隣の去年嫁に言った姉の部屋の、去年まで姉が寝ていたベットの上で、薫と初体験をしようとしている、と、まぁ、気ぜわしいというか何というか、そーとーややこしい状況なんですね。 (こんな時、するか? ちょっと「デリカシー」に欠けません? まぁ実際はしなかったからよかったものの、もししていたらたぶんそのまっ最中に、下記にあるように電話が掛かってきて、とってもトンデモナイ状況になっていましたよ。……由美のお母さんが電話を知らせに部屋に入ってきたらどうすんだよ。) ……しかしまぁ、とりあえず、若い二人に罪はない、と。(でもほとんどもう、「若さは無敵」ですな。) で、それに続いて上記感想の(2)であります。 薫に「抱いて」と囁き、腕を引っ張って薫をベットに引き込んで、自分で衣服を脱いで待っていたら、薫から「だめだよ」と言われ、なんだか様子のおかしい薫を見ていたら(薫の射○ですね)、階下で小沢さんの祖父の死を知らせる電話が鳴り、それに釣られるように薫は部屋から出ていき、ぽつんと裸で一人残されてしまった由美に、はたして状況理解はできたでしょうか。 この後由美は、我が体当たりの告白をさっとかわした薫に、その状況説明を要求し、納得行く回答を得ることができたんでしょうかね。 しかしあれだけ「デリカシー」うんぬんにこだわる薫くんに、そんな説明ができたとはとても思えませんよねー。 ……うーん、この二人はどうなっちゃうんだろうか。 ちょっと、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.10.28
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『怪奇な話』吉田健一(中公文庫) 例えば、こんな一文は、どんなものなのでしょうか。 それで例えば船が進む方向に全く予期していなかった船が現れて衝突は免れないと見えた瞬間にその船が消える。 どんなものなのでしょうかと書いたのは、どうですか、普通この文は一度読んだだけではすぐには分からないと思うんですが、そんなことないですかね。 ただ、文脈が乱れているわけではないですね。 一度文末まで読んで、もう一度最初から読み返せば、文の意味するものははっきりとしています。 もうちょっと「分析的」に考えてみますね。 この文が一読でわかりにくいのは、「全く予期していなかった」という部分が、冒頭に出てくる「船」に掛からないで、この後2番目に出てくる「船」に掛かるからでしょうね。 だから、前から順に読んで理解していくと、2番目に「船が」と出てきたところで戸惑ってしまうのではないだろうかと思います。 こんな場合、普通はどうするかというと、たぶん読点を打つんじゃないんでしょうか。 ちょっと多いめに打ってみると、こんな感じですかね。 それで例えば船が進む方向に、全く予期していなかった船が現れて、衝突は免れないと見えた瞬間に、その船が消える。 読点3つは、多すぎますかね。「全く予期していなかった」の前だけでも、だいぶ読みやすくなりますよね。 さて、本書に書かれている文体とは、簡単に言うとこんなのなんですね。 たまにこんな文が出てきたりする程度なら、なんとなく「味」があるような気もします。冒頭の文でも、2回目読む時はもうかなり読めるんですよね。頭の中に、その先が入っているから。 しかし、全編こんな文章で書かれますと、はっきり言って、読むのにかなり苦労します。 読みながら何度も思っていたのですが、筆者はいったい何のつもりでこんな文を書くのだろうかと。 筆者吉田健一という方について、私の予備知識はほぼ皆無でありまして、知っていたのは、親父が吉田茂首相であるくらいで、そこから少し派生して、生活に全く困らないところで小説や文学に拘わっていた人ではないかしら、と。 えー、これだけでもかなりバイアスの掛かった「予備知識」でありますがー、まー、いわゆる「高踏派」でありますかね。 しかし「高踏派」だからといってこの文体は、どういったものであろうか、と。 そもそも近代日本文学に「高踏派」というのはどういった方がいるのだろうかと考えてみまするに、私に教養がないせいで、一向に浮かんできません。 取りあえずこの人を挙げておけば間違いないだろうかと考えたのが、森鴎外なんですが、当たっていますでしょうか。 でも、鴎外の文章とは違いすぎるだろうと。 小説に対する好きさ加減(って、こんな言い方正しいのでしょうか)が、この両者では全く違っているように思います。 『雁』なんかに見られる描写には、いかにも鴎外が小説が好きで書いているという感じの個所がいっぱいありますよね。晩年の『澁江抽齋』なんかにもそんな個所があります。 読みやすい文を書くと言うことは、例えば画家がデッサンやクロッキーをして我ながら上手に描けたという喜びと同種のものが、きっとある筈なんでしょうけれどもねぇ。 本来小説なんて「高踏」なだけではどうしようもない存在ですよね。世俗や人間に対する興味好奇心がなければ書けるものではありません。 ただ、こんな個所を読んだ時、ああ、と私は思いました。 木山が子供の頃は人間というのがいつもどこにでもいるものの積りでいた。それでその中にいて一人でいることが出来てそれが一人でいることなのを疑いもしなかった。その自分を取り巻く人達に誰か自分が惹かれているのがあればそのことを表すのは二の次で要するにその人に惹かれてそれが自分が一人でいることに加えられるのだった。 一連のこのひどく読みにくい小説は、きわめて孤独な精神がわずかに自らの姿を語ったものではなかったか。それはため息のようなものでもあり、そもそも伝達の意思すらほとんどなかったのかも知れない、と。 そう思うと、時空を越えてイメージが飛翔する話、あり得ない存在のものと交流する話などが主流のこの短編集がこの文体で書かれているということには、筆者の大きな必然があったのだろうと私は想像するのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.10.21
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『六白金星・可能性の文学』織田作之助(岩波文庫) この岩波文庫は、割と分厚い短編集で(解説を含めますと390ページあります)十二編の作品が収録されています。 そのうち二編が文芸評論というか随筆というか、一つは大阪発祥の文楽を二流芸術と述べながら、二流であることの可能性を、文楽もさることながら文学において大いに述べた『二流文楽論』と、その続編と言える有名な『可能性の文学』であります。 残りの十編は小説ですが、これらの作品は昭和二十年のもの三作、昭和二十一年のもの七作で、こうして一度に読んでみるとこの一年半の間(昭和二十年度のものは十月以降になっています)、いかに織田作之助の創作力が充実していたかが分かり、上記の文芸評論も加えれば、ほとんど奇跡的な一年半であったことが分かります。 (そして昭和二十一年の十二月に筆者は大量喀血をし、翌年一月に亡くなってしまいます。) 特に優れているのは、やはり世評の高いこれらの作品でしょう。 『六白金星』『アド・バルーン』『世相』『競馬』 この中でも、特に『六白金星』はきりきりと引き締まって密度も高く、頭一つ抜けて素晴らしいと私は思いました。 例えばこんな表現。 説教が済み、校門を出ようとすると、そこでずっと待っていたらしく、修一が青い顔で寄って来て、何ぞ俺の話出なかったかと、声をひそめた。大丈夫だと言ってやると、修一はほっとした顔で、お前も要領よくやれよ。途端に修一は楢雄の軽蔑を買った。帰りの阪神電車は混んでいた。寿枝は白足袋を踏みよごされた拍子に、芦屋の本妻の顔を想いだした。すると香枦園の駅から家まで三丁の道は自然修一と並んで歩くようになった。そして、うしろからボソボソと随いて来る楢雄の足音を聴きながら、明日は圭介の知り合いの精神科医の許へ楢雄を連れて行こうと思った。 筆者特有の、情報量のきわめて多い展開とテンポの良さが抜群で、それが偏屈者の「楢雄」という人物の造形に見事に流れ込んでおり、小気味よいばかりのものになっています。 後の三作品も、それぞれの登場人物の人生が、俯瞰的に、かつ活動的、猥雑に描かれていますが、私が特に素晴らしく思うのは、どの作品の人物をとっても、何といいますか、自分に襲いかかってくる運命に対する生き方が、きわめて「聞き分けがよい」事であります。これが作品の展開に、引き締まった感じ、背筋がすっと伸びている感じを作りだしているのですが、これは、大阪庶民を描いているがゆえでありましょうか。 いえ、これは描かれている対象のゆえではなくて、やはり描いている作家の資質であるように思います。(それが証拠に、同じく関西の風土を描いた、中期以降の谷崎潤一郎の作品の登場人物には、このような歯切れの良さは感じられません。谷崎作品の人物には、もっとねっとりとしつこく、ひぃひぃと泣きながらも抵抗し続ける「粘り腰」の様なものがあって、それはそれで大きな魅力になっています。) 本短編集の中に、『郷愁』というまるで太宰治の『道化の華』を思わせる屈折した主人公像、メタ小説な展開の作品がありますが(ただし、『道化の華』に比べれば、分量がかなり少ないため、やや徹底に欠けるきらいはあります)、その中にこんな描写があります。 (略)こんなにまでして仕事をしなければならない自分が可哀相になった。しかし、今は仕事以外に何のたのしみがあろう。戦争中あれほど書きたかった小説が、今は思う存分書ける世の中になったと思えば、可哀相だといいながら、ほかの人より幸福かも知れない。よしんば、仕事の報酬が全部封鎖されるとしても、引き受けた仕事だけは約束をはたさねばならないと、自虐めいた痛さを腕に感じながら、注射を終わった。 書き上げたのは、夜の八時だった。落ちは遂に出来なかったが、無理矢理絞り出した落ちは「世相は遂に書きつくすことは出来ない。世相のリアリティは自分の文学のリアリティをあざ嗤っている」という逆説であった。何か情けなくて、一つの仕事を仕上げたという喜びはなかった。こんなに苦労して、これだけの作品しか書けないのかと、寂しかった。 当たり前ではありますが、描かれている対象と描いている主体との間には客観的・現実的な開きがあり、猥雑さを描く筆者の精神には、きわめて明晰かつ優秀な、そして透徹した志の高さがありました。 晩年の梶井基次郎の作品には、近いうちに自らに訪れるであろう死に対する意識が明らかにありますが、織田作の場合はどうだったでしょうか。 僚友太宰治は、織田作の死に際し「織田君は死ぬ気でいた」と書きました。また坂口安吾は織田作の戯作者精神に、永井荷風などよりも遙かに素晴らしい志の高さがあると説きました。 織田作は、たった二年間に及ばない戦後を駆け抜けるように生きて、自らの運命に対して「聞き分けのよい」登場人物達を書き続けながら、志半ばに三十四歳で亡くなってしまいます。 この三十四歳という年齢は、太宰治には五年及ばず、芥川龍之介には一年及ばず、しかし中島敦よりは一年多く、梶井基次郎よりは三年多く生きることのできた年齢でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.10.11
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『銀の匙』中勘助(岩波文庫) こんな文章を読んでいると、ふと、既視感、デジャ・ビュというのでしょうか、そんな感じにおそわれるのですが、こんな文章です。 楽しみなのは栗のさかりであった。ひとりは竹竿をもち、ひとりは笊をかかえて鵜の目鷹の目墓地をあるく。めっきりと露がたれそうにえんだのをみつけたときのうれしさといったらない。竿のさきでちょんちょんとたたいてみるといかがぴょいぴょいと首をふってさもうまそうな手ごたえがする。そこでこつんとひとつくわす。ばらばらと落ちる。とんでって拾いこむ。そして三つにひとつは試し食いにくってしまう。いちご。柿。 どうですかね。とっても丁寧な優しい感じのする文章ですよねー。 中に、「えんだ」という表現が出てきますが、これはどういう意味なんでしょうかね。なんだかよく分からないですが、でも何となくイメージはできて、そしてその何となくな意味でいいかなという気のする、回りの言葉に包まれて互いに響きあっているような言葉であります。 ついでながら、文というものは、一概に読みやすければいい、わかりやすければいいというものではありませんね。時々詰まりながら、少し行きつ戻りつをしながら進んでいく文章のほうが、結局十分にそれを味わえるように思いました。 ついでのついでに、わたくし、誠につまんないことにも(ひょっとしたらつまんなくないかしれませんが)気付いたのですが、「、」読点ですね、これはより少ない方がいいということであります。 今までの私の中の読点を打つ基準も、読点は少ない方がいい、迷ったら打たない、というものであったのですが、今まで思っていた以上に、もっともっと少ない方がいいような気がしました。 まー、もっとも、これも文章の種類にもよるでしょうが……。 えーっと、冒頭の既視感でありますが、この小説はわたくし、以前にも読んでおりまして、じゃあ既視感もあたりまえじゃないかと、いえ、そんな既視感ではなく、うーん、と考えてこんな文章を取り出してきました。 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。 すさまじきもの 昼ほゆる犬。春の網代。三四月の紅梅の衣。ちごの亡くなりたる産屋。火おこさぬ火桶。地火炉。牛死にたる牛飼。博士のうちつづき女子うませたる。方違へに行きたるに、あるじせぬ所。まして節分はすさまじ。 どうですか。上の文は、梶井基次郎の『檸檬』から、下の文は『枕草子』から取ってきましたが、何となく似ているような気がしますよねー。 これは、影響関係とか言うものではなく、もっと大きなもっと根本的な伝統的文化享受の結果といったもののような気もします。それとも心理学的に、人間の精神の中の、無意識の領域にある「共同幻想」みたいものかも知れませんね。 しかし私は今回こう考えたのですが、なるほど優れた文章というものは、それが優れていればいるほど、どんどん蒸留水のようにピュアに結晶していき、そしてそれら同士がどんどん類似したものになっていく、というふうに。 さて、上記にも書きましたように、今回私はこの小説を再読し、前回読んだのはいつだったかよく覚えていないのですが、知識として知っていたこの小説の極めて高い評価ほどには感動しなかった記憶がありました。 しかし今回は、まー、やはりとっても感心をし、小説とは詰まるところ文体だなと言う感想を持つに至りました。 そのことを、この小説が岩波文庫の中でも「永遠のロングセラー」に位置するということとを重ね合わせて考えますのに、ストーリーの優れた小説は多くの人々に昂揚した形で読まれましょうが、文体の優れた小説というものは、どんどん読者の心を内向きにしていき、その結果「生きる」というような哲学的な命題に、靜かに、しかし力強く息長く導いていくような気がします。 静かな感動は、実はかなりしたたかなものでもあります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.10.07
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