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『ヨッパ谷への降下』筒井康隆(新潮文庫) 本文庫には、副題として「自選ファンタジー傑作集」と付いており、筆者の多くの新潮文庫の短編集から作品を集めた一冊という形になっています。筆者の新潮文庫の最新ラインナップはこのパターンで、後、「ホラー」「ドタバタ」「グロテスク」のテーマで6冊出版されています。 で、そのシリーズの「ファンタジー」テーマの本書ですが、13作の短編小説が収録されていますが、私はとっても出来がいいなあと感心しました。 実はつい直前に「ドタバタ」テーマの1冊を読んだのですが、うーん、これはちょっと、好悪というレベルで、私は楽しく読むことができませんでした。 今回は「ファンタジー」ということで、そもそもファンタジー小説とは何かという事について、私はよく知っていなかったのですが、これも先日別の本を読んだ時に、ファンタジー小説とSF小説の違いを少し学びました。 まずSF小説というのは、現代のさまざまな自然科学理論をベースにし、そこから延長線上に伸びた世界を描くもので、一方のファンタジー小説は、そんなベースとか延長上理論を特に必要としない世界を描く小説であると、かなり雑駁なまとめ方で申し訳ありませんが、えー、大体合っているでしょうか。 だとすると、ファンタジー小説というのは、ひょっとしたら私のわりと好きな、現実世界からの「浮遊」めいたものを描く小説に重なるのではないか、と。 だから、読み終えた時に、うーん、なかなかいい短編集だなあ、と感じたのではないかなと、そのように思いました。 13作中、私はその半分以上の作品に好感を持ちました。 この「好感率」(実は60%くらい!)は、なかなか高い値だと思います。短編小説集って、一冊まるまる読んでも、いい話しだな、上手に書いてあるなと感じるのは1、2作だけで、後は、ちがうやろーと毒づきながら読むというのが多いように思います。(まー、本書が何冊かの単行本からの傑作集だからだといえば、その通りではありましょうが。) その中でも、特に私が興味深く読んだのは、『ヨッパ谷への下降』『家』『エロチック街道』の3作で、どれも掲載された雑誌は「新潮」と「海」という、純文学系の雑誌でした。(やはり、私の好みっぽい選び方ですかねー。) まず、『ヨッパ谷への降下』ですが、これは少し短いですね。小粒で可愛いという気もしますが(上記3作以外で割と気に入った他の作品もみんな「小粒で可愛い」という感想を私は持ちましたが)、でも少し物足りないんじゃないか、もう少し書き込んでも十分膨らむ余地を持つんじゃないかと思いました。 ただ、「ヨッパグモ」の生態という想像力の中身と方向性について、これはひょっとすると高く評価すべきものじゃないかと思いました。ただし本当のところをいえば、私はこの小説を読みながら、よくわからないでいました。それについては、最後に少し考えてみたいと思います。 『家』という作品も、なかなか好短編だなと思いました。 この小説を、筆者は1971年に発表しているんですね。あの『虚人たち』が78年で、『夢の木坂分岐点』が87年ですから、これは、そもそも筆者のキャリアの初期に書かれたといってよく、今更ながら、私は少し感心してしまいました。 ただ、『エロチック街道』でも同じですが、描写がいかにも息苦しい。もちろんそれは筆者の技巧でもあるのでしょうが、見た端からゴリゴリと味気なく写し取っていくような描写は、細かく読むと少しいびつな所、正しく表せていないんじゃないかという個所を持っているように思います。これは、意識的な筆者の技巧なのでしょうか。 ただそんな偏執的な視覚的描写がうんざりするほど続いていくからこそ、『エロチック街道』のラストシーン、温泉隊道の百メートルくらいのスロープを若い娘と抱き合いながら一気に滑り降りていくという場面が、この上なく瑞々しく感動的に、そしてエロチックに描かれているのは確かであります。 実は私はこれらの3作を読みながら、少し戸惑っていました。 これは優れた文学なのだろうかということを、つい考えていたんですね。 それは結局のところ、私が思っている文学とは何なのか、自分なりに一応理解していたはずの文学とは本当のところどんなものだったのか、といったことを改めて考えるということで、そして、私はそこに戸惑っていました。 もちろん、そういうふうに「心」を不安にさせるということが高い文学性の現れであるという理解は、私の貧しい文学経験からでも、納得しているつもりではあるのですが。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.08.25
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『穴』小山田浩子(新潮文庫) さて、前回の続きです。4回続きになってしまいました。 ということで、さっそく始めます。 「いたちなく」「ゆきの宿」の作品世界の、わたくし的「妄想的読み」であります。 ふたつの作品内の時間を「X年」まで戻して、時系列で書いていきます。 1.妻の不妊の原因の根本には、僕の不倫があります。あるいはひょっとしたら、妻が不妊を悩む以前には、僕の子どもを作りたくないと思っていた妻の姿(極端には人工妊娠中絶をする妻の姿)があるかもしれません。 2.「X年」12月頃のsperm検査依頼の日以降、僕と妻の間に性交はありません。(妻の寝顔を見ていません。)しかし「X+1年」の4月以降、二人は何度か人工授精を試みました。(異説あり。詳細後述)しかしこのあたりの経過を見ますと、妻自身、妊娠について自分が本当に望んでいるのかどうかよくわかっていないような心と行動の揺れが読み取れます。 3.「X+1年」の12月、妻自身まだ知りませんが、人工授精に成功します。(ただしこれについても後述します。カッコ付きの事実です。)また「ゆきの宿」の舞台の日になってもまだ気づいていないかどうかはよくわかりません。(職場同僚が産休育休をとることに対してのシニカルな意見の一方、母乳がよく出るようになるという稲荷寿司を「あやからなくちゃ」と言います。) 4.そして「X+2年」の2月末、「ゆきの宿」の舞台の夜、僕の不倫と自らの不妊に泣く妻の姿があります。(妻が自らの妊娠に気づいていたならば、泣く理由は微妙に異なってきます。) どうでしょうか。このように「僕」の不倫を前提にすると、「僕」と妻の不妊治療についての共通認識のなさについての謎が解けるように思います。 では3つめ最後のヘンな言葉ですが、これは予想がつくと思いますが、「僕」が斉木君に妻が泣いている話を聞いた後、斉木君の隣家の老婆が現れ、「僕」に妻の妊娠を告げる場面です。老婆はこのように言います。 そしてお婆さんは僕に一歩近づき、声をひそめて「あの、一緒だった、女の人は、奥さんですか」と言った。僕はうなずいた。お婆さんは変な目つきをして「お腹に赤ちゃんがいるんでしょう」と言った。 このお婆さんは見るからにかなりヘンですね。この後、お婆さんは「僕」に対してとても不審な行動をします。(「僕」の「手首の骨をがっきと掴み離さなかった」) しかし何といっても最もヘンなのは、本文中には、このお婆さんが妻の姿を見たシーンが描かれてないことであります。(実は穿って読めば、ぎりぎりそう読めないこともない場面はありますが……。) 老婆の、妻の妊娠の予言は本当なのでしょうか。それに関係しそうな記述のまとめを再掲するとこうなります。 1.「X年12月頃」→sperm検査を行うが、その日以降「僕」と妻の間に性交はない。 2.「X+1年4月中旬頃」→妻はsperm検査結果を今に至るも「僕」に知らせない。sperm採取日以降、妻から子供の話題はない。 3.「X+1年12月中旬頃」→老婆の話を元にすると、妻、受精成功か。 以上の記述まとめから見る限り、これらすべてが真実であったとすれば、「2」と「3」の間に、この夫婦の仲が大きく修復する方向での話し合いがあり、そして、性交か医療的な行為が再開された、しか考えられません。 しかしそうなると、「ゆきの宿」内での妻の涙は説明しにくく、また、妊娠をなぜ「僕」に告げないかも不可解です。(妻の無意識的な心理の反映くらいの説明は可能でしょうが。また、描写にないだけで「僕」は妻の妊娠を知っていたという可能性は、全くないとはいえないようですが……。) 以上から判断すると、「老婆の、妻の妊娠予言は虚偽である」という結論に至ります。 では、老婆はなぜこのような、ピンポイントの恫喝のような虚偽発言をしたのでしょうか。そもそもこの老婆の正体は何なのでしょうか。 それはわかりません。ただ、「穴」に出ていた義兄に雰囲気が似ていると思うばかりであります。(非存在とまでは読み切れないと思いますが、妻の心理の実像化めいたものの可能性はありそうです。) ……というように私の「妄想的読み」を書いてきましたが、もしもこの「妄想」通りだとすると、筆者はいったいどんなことを書こうとしているのでしょうか。 実は私は、ネットでアマゾンの「穴」のレビューも少し覗いてみたのですが、この「いたちなく」と「ゆきの宿」に触れている読書感想は、概ねがクールではあるが好感度溢れる夫婦の姿というものでした。 しかし「妄想」を展開した今、私に読めるのは、夫の不倫に気付いていながら夫を詰め切れず、子供を産むことについても自分で自分の気持ちがよくわからなくて混乱する妻と、妻に不倫が気付かれていることを知りながらも夫婦関係の修復を積極的に図っていこうともしない夫の、しかし表面的には仲のよさそうな二人、という寒々とした構図であります。 最後に。 「いたちなく」は2013年7月の雑誌初出作品ですが、「ゆきの宿」は、2014年1月の「穴」(初出は2013年9月号「新潮」)の単行本化に当たって書き下ろされた作品です。(前に指摘した、芥川賞受賞作品だけでは一冊の本にならないから受賞以前の作品を収録した一冊、という私の思い込みはほぼ間違っていたんですね。) 「穴」の報告でも触れましたが、また最新刊『庭』で書かれた短編小説の多くにも見られますが、作品を終わらせるにあたって、この筆者はかなり感覚的な作品の「種明かし」をする癖があるように感じられます。 この好短編「いたちなく」から、表面的には読めそうな好夫婦像を崩すことが目的のような続編「ゆきの宿」を書いてしまうあたり、ここにもその傾向は見られるように思います。 また、蛇足ながら、私の「妄想」の通り読んだとしても、「いたちなく」が素晴らしい短編小説であることは間違いないと思います。 ※補足 後日読みました『工場』に収録の「ディスカス忌」に、この「僕」「妻」「斉木君」が出てきます。「僕」の一人称小説で、「結婚して三年」、妻は「まもなく四十になる同い年」、そして不妊についてなかばノイローゼのように「毎晩のように相談をしてくる」と描かれています。(これは「ディスカス忌」の大きなテーマです。) しかし、「いたちなく」「ゆきの宿」に見られる「妻」の不妊への悩み具合とは、かなり感じが異なるので、本稿では、一応別の世界観の作品とし、連作としては触れませんでした。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.08.19
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『穴』小山田浩子(新潮文庫) 前回の続きです。「ゆきの宿」のクライマックスの部分。友人斉木君の家に泊まった翌朝、「僕」が雪の庭で斉木君に会う場面です。 斉木君は、昨晩僕が先に寝た後、妻が泣いていたという話を切り出して、そしてヘンな言葉を使います。「妻は最近仕事が忙しいんだ。それは知っているよ。大変なんだ。毎日すごく遅くまで残業でさ……」「ふーん」斉木君は僕を見た。「まあ俺は倫理的な人間でもないし、口は挟まないけれど、少し心配になったもんでね。奥さんが、元気なら、いいんだ。なんだか気の道のようなことだろう」 どうですか。斉木君のセリフには、二つのヘンな言葉がありますね。 しかしその前に、斉木君が「僕」のセリフを全く受けた返答をしていないことに気が付きます。受けた返答をしていないというより、わざと外している(少々強調すれば「別にごまかさないでもいいんだ」とでも言っている)ようなやり取りの描写です。 そして斉木君のセリフですが、まずひとつ目、「気の道」って何でしょうか。前回にも少し触れましたが、これは筆者の造語でしょうか。 昔、私の祖母が、今思うと婦人病のことでしょうか、「血の道」(きっとこんな漢字だと思うのですが)という言葉を使っていたのを思い出します。 その辺のイメージを重ね合わせると、女性の生理に結びつくような「精神的な塞ぎ」「疑心暗鬼」といった感情を表すと思える言葉です。 次のもう一つのヘンな言葉。 「倫理的」とありますね。「倫理的」という語を、斉木君はなぜこんなところで使っているのでしょう。 妻が泣いていたという話題の場面です。結婚した男女の間で妻が泣いていて「倫理的」とくれば、それは「不倫」以外に何が想像されますかね。 では少し遡って、前回書いた「X年12月頃」の妻のsperm採取依頼の時の描写を詳しく見てみます。 妻はsperm採取容器らしきものを持って、「妙に真剣な顔をして」、会社から帰宅直後の「僕」にまずこう言います。「ねえ、あなたは最近でも自分でしたりするの」 その後「自分でしたり」の意味についてのやり取りが少しあって、さらにこんな風に展開していきます。「どうして一体そんな……」「何かを疑ったり責めたりしているんじゃないのよ」妻は浮かべていた薄笑いを引っ込めた。額に脂が浮いた顔で、しかし頬は白く粉を吹いていて、足元を見るとストッキングを片方だけ脱いでいるのだった。よほど急いで出て来たらしい。「どうしたんだい」 妻は急に早口になった。「あのね、面倒なことを頼んであなたには気の毒なんだけれど、自分で精〇を出して、この容器に入れて欲しいんです」 妻のセリフがヘンに夫に説明的ですね。前回にも触れましたが、不妊治療について両者の間で共通理解ができているとはとても思えないような話しぶりです。(そもそもこの夫婦は、二人一緒に産婦人科に受診しているんでしょうか。疑わしい記述です。) 特に私が少しヘンだと思う部分。「ねえ、あなたは最近でも自分でしたりするの」「何かを疑ったり責めたりしているんじゃないのよ」 ……さて、ここまでかなりしつこく文字数を使ってきましたが、以下、わたくしの「妄想的読み」を一気に書いてみたいと思います。 たぶんそれは「妄想」だろうとは思いますが、でも今のところ私にはこうとしか読めない展開であります。 と、思ったところで、あ、とても以下に書ききれそうもない。 すみません。次回に続きます。次回こそ、終わります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.08.13
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『穴』小山田浩子(新潮文庫) ◎下記本文中に「sperm」という表現があります。私は最初「精〇」と書いてたんですが、「〇液」と書くと、アップデイトするときに「本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。」と出て、アップデイトできないんですね。やれやれ、としか言いようがないですね。 前回の続きです。(すみませんが、詳しくは前回のところを読んでください。) 「いたちなく」「ゆきの宿」の2つの小説について、少し丁寧に見ていきたいと思います。 主人公夫婦のうちの夫「僕」は41歳~42歳(作品内で、遡った時間を含めると1年半くらいの経過があります。)、「妻」も同じ歳の設定です。 二つの短編の舞台となる家は、「僕」の友人の「斉木君」の家で、彼は「僕」と同じ歳、奥さんの「洋子さん」は32歳~33歳となっています。 以下、作品の記述を少しほぐして、時間軸に沿って並べてみます。 1.X年(仮の年度をこうしてみます)の事柄 ◎妻、不妊の悩み。漢方薬など飲む。 ◎排卵日に合わせた性交をしても「二人して疲労困憊」うまくいかないことがある。 ◎12月頃か→斉木君、結婚とそれに伴って転居。 ◎同じく12月頃か→妻から「僕」にsperm検査の依頼あり。 (やり取りから、「僕」の不妊に対する関心や理解の低さが浮かぶ。) ◎同夜、sperm採取。今までは妻と一緒に寝ていたが、その夜は別部屋で寝る。 2.X+1年の事柄 ◎1月中旬→斉木君から結婚と転居の通知来る。返事として「僕」が斉木君に電話。 ◎3月下旬頃か(「春先」)→斉木君から電話。いたちの話題とシシ鍋の誘い。 ◎さほど間のない日→斉木君宅でシシ鍋。(「いたちなく」の舞台の日) ◎洋子さんは妊娠初期であった可能性。 ◎妻の少女時代の母いたち殺しの話が秀逸。 ◎シシ鍋会からさほど間のない日(妻と洋子さんの電話の話題から推定) →斉木君宅で「いたち殺し」あり。 (「ゆきの宿」にも「あれ以来一度も出ていない」とあり。) ◎4月中旬頃(「遅い桜満開」)→妻はsperm検査結果を今に至るも僕に知らせない。 ◎sperm採取日以降、妻から子供の話題はない。 一応ここまでが、「いたちなく」の内容になっています。(洋子さんの妊娠話は続編に出てきますが。)私が「いたちなく」だけを読んだ時はさほど感じなかったのですが、2作セットで読み返した時違和感があったのは、不妊治療に関するこの夫婦のちぐはぐさです。それは、単なる「僕」の無理解というより、妻の意志と行動もちぐはぐではないかという事です。 では続編「ゆきの宿」へ進みます。 同じくX+1年の事柄 ◎12月中旬頃か→洋子さん出産。予定日よりずっと前の早産。 ◎同じ頃、妻、受精成功か。(詳細後述) 3.X+2年の事柄 ◎1月末頃か→洋子さんの本来の出産予定日。 ◎2月末頃か→斉木君宅で雪に閉じ込められる。(「ゆきの宿」の舞台の日) 赤ん坊はすでに2か月過ぎか。(目、首のすわりの話) ◎その夜…… さて、ここから、何といいますか、ヘンな表現が3つ出てくるんですね。 まず一つ目、斉木君の家で泊まることになった「僕」は、明け方隣で寝ている妻の顔を見ます。その時の描写がこうなっています。 隣には妻が寝ていた。閉じた瞼の下側がぷっくり膨れて影になっていた。妻の寝顔を見たのはもう一年かそれ以上ぶりだった。 妻の寝顔を一年以上ぶりに見たということは、前回見たのはちょうどX年のsperm採取日の前日ということではありませんか。つまりこの描写から読めるのは、sperm採取の日以来、この夫婦は寝室を別々にしてしまったという事であります。 一体、なぜ? 次の「ヘン」な所に行きます。 斉木君の家に泊まった翌朝、「僕」は雪の庭に出て斉木君に会います。そして彼から、「僕」が先に寝た後、妻が泣いていたという話を聞きます。そこはこう書かれています。「妻は最近仕事が忙しいんだ。それは知っているよ。大変なんだ。毎日すごく遅くまで残業でさ……」「ふーん」斉木君は僕を見た。「まあ俺は倫理的な人間でもないし、口は挟まないけれど、少し心配になったもんでね。奥さんが、元気なら、いいんだ。なんだか気の道のようなことだろう」 ここは、いわば「ゆきの宿」のクライマックスの部分です。 すみません。今回ではまとめきれませんでした。次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.08.08
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『穴』小山田浩子(新潮文庫) 最近、近年の芥川賞受賞の若い作家の作品をパラパラと呼んでいるのですが、タイトルのつけ方のセンスで言うと、この作家と津村記久子はその独創性において双璧のように感じます。 津村記久子は『とにかくうちに帰ります』『この世にたやすい仕事はない』『やりたいことは二度寝だけ』など適度の力のヌケた、とてもセンスのいいつけ方をしています。 一方小山田浩子は、『工場』『庭』そして本作『穴』と、なんか意地になっているように不愛想なタイトルをつけ続けています。(どこまで続けるつもりなんでしょうね。) そんな筆者の作品です。3つの小説が収録されていて、総タイトルになった「穴」が芥川賞受賞作品です。 最近の芥川賞を見ていたら女流絶好調という感じがするのですが、どうなんでしょうね。ただ私は、本作についてはまず、本作の芥川賞受賞の2年後に同じく受賞した本谷有希子の『異類婚姻譚』によく似ているなという感想を持ちました。 本作のほうが先ですが、『異類』のほうが洗練されている気がしました。 本作の最後の一文が典型的ですが、少し書き込みすぎていないかという気がします。あの一文を読むと、家族の関係性の中の一番大きなテーマは姑との関係であったことがわかり、なるほど、振込金額不足の話も、中途半端な造形になっている夫についても、ヘンなスリッパのエピソードに至るまで、納得できるといえば納得できそうに思います。 またやや唐突感のある義祖父の死についても、葬式をめぐって義兄の正体らしきものが暗示されたりして、そうか、これを書くための義祖父の死かなどと思ってしまって、もう少し種明かししなくてもよかったんじゃないかという気がしました。 これは私の趣味的なものなのかもしれませんが、私はストーリーのつじつまより作品イメージの広がりの方を好みとするものであります。 と、まぁ思ったりしながら、私は「穴」を読んだんですね。で、本文庫本には、あと二つの小説が入っています。 これも、芥川賞受賞作収録の本にはよくあるパターンですね。 メインはもちろん芥川賞受賞作ではありますが、これ一作だけではボリュームが寂しいということで、受賞までに書いた(はっきり言うと習作のような)作品を併録する、と。 私も、あのパターンだな、と思いました。だからはっきり言って、ほとんど期待せず読み始めました。二つ入っていたまずその一つ目、「いたちなく」というタイトルの小説です。私は、「いたちなく」って何のことなんだ、そういえば「穴」でも、この作家は自分で作ったような言葉を使っていたみたいだぞ、などと思いながら読み始めました。 ……で、読み終えて、えっ? と私は思わず戸惑ったんですね。 えっ? この作品はなんなんだ? どう評価すればいいんだ? 私はその後しばらく別のちょっとした用事をしていたのですが、しながらずっと「いたちなく」について考えていました。しかし、やはり結論は変わりませんでした。 この短編小説は、とても出来がいい、と。 私は、この作家の短編小説の力量はこんなに高いのかとちょっと驚いて、もう一つの小説に取り掛かりました。「ゆきの宿」という題名の小説です。 読み始めるとすぐにわかるのですが、これは「いたちなく」の続編ではありませんか。作品中で登場人物が「いたちなく」の話題をそのまま振り返っている場面があったりして、正真正銘の続編仕立てになっています。 そして読み終えた私は、二つの感想を持ちました。 1.やはり「いたちなく」の出来はよすぎるのではないか。 2.連作二作をセットで読むと、なんだか少し変な感じがする。 まず「1」について簡単に片づけたいと思いますが、この短編はいくつかのエピソードが無理なく展開していき(と、私は最初読んだ時思ったんですが)、最後の妻の話、母いたちの死の場面が抜群に良いと思います。捉えられたいたちの描写もしなやかでとても印象深く描かれています。 「穴」の描写も丁寧に書かれているとは思いましたが、何のために丁寧に書かれているのかを考えた時、いくつかのエピソードは、出し入れが少しぎくしゃくしているような気がしました。 一方この「いたちなく」は、短編であるせいか、ほぼそんな風には感じませんでした。 というふうに、初読時、私は本短編をとても素晴らしいと思ったのですが、次に「2」の件ですが、続編とセットで読むと、どうもよくわからない個所がいくつかあることが、私はとても気になり始めました。 これは何なのか。次回、ちょっと丁寧に考えてみたいと思います。 次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.08.05
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