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【 思い出綴り 昭和30年代の風景7 】-------------- ガタゴト道 メグロの単発バイク 行商のおばさんたち昭和34年、私は父の操るメグロの単発バイクのタンクに必死にしがみついていた。砂埃の舞う国道9号線を走る様は、まるで果てしない荒野を進む幌馬車のようであった。当時の国道9号線は舗装道路ではなく、単車にとってはまるで今日のモーグルのコースで競技をしているようであった。タンクの上に乗っていた私のお尻がどうなったかは容易に想像できるだろう。靴が脱げた! メグロの爆発音はすさまじい。そのことがようやく父に伝わったときには靴からは相当の距離を走っていた。記憶では、車などほとんど走っていなかった。走っていたのは、鼻を突き出したような格好のバスぐらいであった。そのバスのウインカーは、手動で矢印のような方向指示器を運転手が操作するのだが、バスに乗るときはいつもそれを見るのが楽しみだった。家の周りの道もガタゴト道ばかりだった。ビー球遊びで穴も掘った。棒で線を書いて陣地取りもした。雨が降ると水溜りがすぐできた。近所のおばさんは、夕食で食べた赤貝の殻を割ってその水溜りに入れて埋めた。冬には水溜りに薄い氷が張った。それを割りながら学校に行った。ガタゴト道を通って色々な人たちがやってくる。近所の八百屋のおばさんが大八ぐるまに野菜を一杯積んでやって来た。小さな金柑(きんかん)や梅の実を一個もらってかじった。日本海側の港町の恵曇(えとも)からはおばさんがリヤカーを押して魚を売りに来た。津田からも、大きな木の箱に台車がついたような不思議な箱車に花や野菜をたくさん積んでやってきた。このおばさんたちは不思議にバッティングしなかった。近所のおばさんたちはみんな顔なじみで、ひとしきりお話をしながら時を過ごしたあと、行商のおばさんたちはガタゴト道を帰って行く。後を付いて行きたい衝動に駆られながら見送った。このおばさんたちの姿を見かけなくなったのはいつ頃からだろうか。 写真は、行商のおばさん(参考写真)
2007/09/30
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景6 】-------------- 裏山・夕暮れ・夕涼み 私たちの住む住宅街の裏山(円成寺〔エンジョウジ〕の山)は僕たちの遊び場だった。もう45年も前のことだが、秘密基地を作った椎の木は今でもきっとそのままに違いない。夕暮れは、宍道湖の湖面に注ぐ西日が裏山にもやってきて、幻想的なオレンジ色の木漏れ日となって降り注ぐ。山のすべてが黄金色に染まる瞬間だ。まるで絵の世界に入り込んだように思えた。僕たちは全てがこのまま止まっていてほしいと思った。 時はゆっくり動きだした。 夕暮れの次の風景が訪れる頃、家々のお上さんたちが私たちのいる裏山に向かって夕ご飯を告げ、帰るよう促す。僕たちは聞こえていたけどなかなか帰らなかった。だからいつも叱られた。夕暮れの余韻に浸っていたかった。家の前の道には縁台がならび、夕食を終えた親父どもが縁先の縁台で夕涼みをしている。この親父どもは、親でもないのにやかましい。「いつまで遊んでるんだ!」通りはこんな親父どもで埋め尽くされていた。 写真は、縁台で夕涼みをする親父さん(参考写真)
2007/09/29
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景5 】------------- ヒーロー 通りにはヒーローがあふれていた。頭に風呂敷を巻きサングラスをかけて「怪傑ハリマオ」になった子供たち。刀を背中に背負い「三日月童子」になった子供たち。テレビの登場はカルチャーショックだった。テレビの前はラジオだった。田の字平面の我が家で、折りたたみの丸い飯台を取り囲み、晩ご飯を食べながらラジオから流れる父の好んだ徳川夢声の語りかける物語を聞いた。無声映画の弁士の巨匠は、遠慮なしに子供たちも引き込んでいった。ラジオは場面が見えない分イマジネーションが必要だったが、まぶたを閉じた瞬間、そこに超バーチャルな物語の世界が広がっていた。この不思議な体験は今でも忘れることができない。この時、感動を与えるのは必ずしも見える世界ばかりではないことを知った。いよいよテレビが来た。アメリカのホームドラマ?が流れた。「サンセット77」だった。なぜかキャデラックのどでかいオープンカーに乗った若者が「ただいま」と言いながら車ごと家の中まで入ってくる。「ララミー牧場」や「名犬ラッシー」の牧歌的な風景の中で繰り広げられるドラマやサスペンスにすっかり虜になった。なぜアメリカに生まれなかったのだろうと思ったものだった。日本も負けてはいなかった。「怪傑ハリマオ」「七色仮面」「少年探偵団」「三日月童子」「白馬童子」「ナショナルキッド」「月光仮面」。いったいどこの国の物語かさっぱり分からなかったが、そんなことはどうでもよくて、圧巻は「恐怖のミイラ」だった。翌日の小学校はミイラだらけで、女の子を追っかけていた。 写真は「月光仮面」 参考写真
2007/09/29
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景4 】----------- 界隈(かいわい)、天神祭り、花火大会我が家は昭和28年、松江市の南側の住宅街(旧国鉄山陰線と乃木へ向かう旧国道9号線との間にある住宅街)に移り住んだ。そこは竪町商店街へ歩いて5分のところにあった。昭和30年代の商店街は活気に満ちていた。竪町、天神町、白潟本町、大橋を渡り、末次本町、茶町、殿町につながる商店街は子供心にも胸躍る界隈(かいわい)だった。創美堂の前にあった森永のソフトケーキとソフトクリームの味は、母の思い出とともによみがえってくる。この界隈は普段でも人の往来が多かった。毎日がお祭りのようだった。7月24日の天神の日はさらにとんでもない人出となった。子供たちは見世物小屋にいくら投資したかしれない。夜店のカンテラ(カーバイト灯)の臭いも原風景(臭いの)となっている。当時の花火大会(今の水郷祭の前身)は今と違いとても地味だった。夕方からゴザを敷いて待った。午後8時から始まった。スターマインが2~3発上がると次の花火が上がるのに2~3分、ことによると5分は待った。9時ごろになるともう終わったものと思い家路につく。すると思い出したように上がるので、結構忙しかった。
2007/09/27
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景3 】------------- 町内の映画会 昭和35年の夏休みはとても思い出に残っている。我が家の近くに遊び場にうってつけの広場があった。その広場は「豚小屋」と呼ばれる広場だった。何でも、戦後ここで豚が飼われていたらしい。新興の住宅街となったため移転したと聞いた。午後8時、うっすらと星が見え始めた頃映画の上映会が始まった。東千代の助や長谷川一夫の映画。みんなお風呂に入り少しぬれた髪に浴衣を羽織り集まってきた。近所の老若男女がうちそろっている。大人連は縁台を持ち寄って酒盛りが始まった。ふと見ると、隣町の同級生の女の子。浴衣姿にときめきを覚えた。2時間ののち映画は終わったがだれも帰ろうとしない。普段、子供たちはこの時間に会うことはなかったので、とても新鮮に思えた。子供にとって、このころの深夜は、とても冒険的な時間だった。翌朝、何もなかったように「豚小屋」があった。 写真は、町内の映画会(イメージ写真)
2007/09/26
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景2 】---------- 宍道湖氷結 子供の頃(昭和30年代)の山陰の冬はとても寒かった。木枯らしという言葉そのままに鉛色の空と凍った水溜り、吹き付ける雪嵐。街の雪は一回降ると当分消えることがなかった。戦闘帽(飛行機乗りがかぶる帽子)が定番の子供たちが肩をつぼめ学校へと急ぐ。木造校舎のだるまストーブの中で石炭がガンガン燃えていた。なぜか分からないが、低学年(1~2年)~中学年(3~4年)は石炭で高学年(5~6年)はコークスだった。コークスはよく燃えて火力が強かった。石炭は簡単には火がつかない。低学年のころはとてもつらかったことを覚えている。 昭和38年、それはいきなり訪れた。「宍道湖が凍っているぞ~!」子供たちは一斉に宍道湖半へと急いだ。遠くに嫁ケ島が見える。「どこまで行けるかな~?」少年探検隊が編成された。僕たちは嫁が島を目指した。足元を確かめながらおそるおそる進んだ。そのうち大胆になった。走ってみた。「大丈夫だ!」ふと気が付くと、嫁が島の鳥居が目の前に迫っていた。島の松の木が大木であることをその時知った。あとにも先にも宍道湖が凍ったのはこのときだけだった。今となっては、地球温暖化で凍るようなことは二度とないだろう。 写真は宍道湖の湖畔から見た嫁ケ島 (湖畔から嫁ケ島を包み込んで氷結した)
2007/09/24
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昭和28年に生まれた私は、まさしく昭和30年代を子供として過ごした。淡い思い出の数々。今となっては走馬灯のような記憶しかないものや、なぜか昨日のことのように思い出されることなどさまざまだが、私の記憶をここに綴っておきたくなった。思い出綴りとして書き始める。【 思い出綴り 昭和30年代の風景1 】---------- 宍道湖(しんじこ)の埋め立て 私は島根県松江市の宍道湖半に生まれ育った。昭和32年の夏、目の前の宍道湖に異様なものが伸びていた。宍道湖干拓事業(あるいは埋め立て事業)のサンドパイプ(砂をパイプで送り埋め立てる工事・・・卸団地・白潟・末次・旅館団地をつくった)であったが、たぶん、私が物心つき最初に意識して見た風景であったように思う。当時、国鉄山陰線(現JR山陰線)の線路際まで宍道湖であった。線路の脇の新興住宅地に家があったせいか、その向こうにある宍道湖ではよく泳いだものだった。シジミは買ったことがなかった。夕食がシジミだと決まれば足で探りながらシジミをかき集めたものだ。当時は、それだけ湖岸でもたくさんシジミが捕れた。目の前の家の向こうに国鉄山陰線があり、蒸気機関車が煙を吐きながら目の前を通り過ぎていく。宍道湖の対岸には私鉄一畑電鉄の北松江駅(現松江温泉駅)が見え、南平台団地の下あたりからコーナーを廻ってくる電車が汽笛を鳴らしながら駅に滑り込んでいくのが見えた。宍道湖のパノラマをはさんで、左右の対岸に鉄道模型を二つ持っているようなもので、2階の窓から電車や蒸気機関車が来るのを待ち構えていて、飽きもせずにいつまでも眺めていたものだった。国鉄の線路ではよく遊んだ。近所の幼馴染はD51を止めてしまい一躍有名になってしまった。線路に耳を当てると蒸気機関車の走る音が聞こえてくる。キシーンキシーンキシーンという音とも振動ともとれない響きが伝わってきて、山の向こうから出てくる直前まで耳を当てていたものだった。その音は今でも鮮明に覚えている。私たち子供にとっては、これらはまさしく実物大のおもちゃのようだった。毎朝、眼下の宍道湖にはシジミ取りの船がくるくる廻っている。目が覚めるとシジミ漁はすでに始まっていた。そんな宍道湖の風景が私の原風景となった。 ※昭和30年代前半までは、国鉄と私鉄の線路際まで宍道湖で、それ以後に宍道湖が埋め立てられ、土地が広くなった。つまり、それまでは、宍道湖の松江市部分は今よりとても広かった。 写真は、我が家からもよく見えた宍道湖の夕景
2007/09/23
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写真は、計画地から見える中海と大山(だいせん)福祉の概念が変わる建築家は根本的な概念が明確でなければ設計できない。少なくとも私はそうだ。単に福祉施設を設計してくれと言われても設計できない。スペックの問題ではなく概念が分からなければ設計できない。何のためにこの施設は存在しなければならないのか。どのような制度のもとに認可されたのか、大本となる日本の福祉とは・・・などと、追っかけなくてよいところまでとことんたどり着いて納得できなければ設計できない。車のフルモデルチェンジのように、買ったとたんにモデルチェンジとなれば、悔しいだけではすまない。つまり、現行の制度のもとで全国で建っているから自分のところでも建てようというのではあまりにも浅考だ。福祉の法律の向こう側にあるもの、本来目指しているものを嗅ぎ取ることが大切ではないか。それは時として役所の概念を飛び越えてしまい顰蹙をかうこともあるだろう。しかし、道理にかなうことであれば、がんとして道をゆがめてはならない。この施設も同じような経路をたどってきた。しかし、省庁、自治体にも見識の深い方々はいらっしゃる。そういう方々との出会いを得、理解をいただいたことで日の目を見ることとなった。時代の先駆を描いているのではない。本来あるべき道理を顕実化させたいだけだ。老人福祉における道理とは・・・施設介護における道理とは・・・私は建築家としてこの2年間見つめてきた。何かがおかしい・・・入居者(高齢者)が中心になっていない。管理者中心になって施設がつくられている。おびただしい数の老人福祉施設を見学して回った。何かがおかしい・・・ここは入居者にとって何なんだ?汚物処理室・・オムツ交換室・・・医務室・・・相談室・・・この室名は何なんだ?もちろん設計図面上ではそのような機能名を書かなければならないだろう。しかし、実際の生活空間にそのような名の札があるとはどういうことだ。ここは入居者(老人)にとっての家ではないのか?住んでいる町ではないのか?界隈(かいわい)ではないのか?町の中に、汚物処理室とかオムツ交換室などと書かれているのか?病院なら仕方がないかもしれない。なぜなら、患者は医師の絶対的な管理下におかれているからだ。しかし、老人福祉施設は病院ではない。しかし、どこもかしこもまるで病院だ。施設内を案内してくださる方々はことごとく管理する側の理論を述べられる。私は正直いらだたしく・・・切なくなった。何を言ってるんだ!老人福祉施設はユートピアでなければならない。人生の有終の美を飾るのにふさわしいところでなければならない。施設をつくるのではない。町をつくるのだ。家をつくるのだ。ここに行き着くために生きてきたのだ!と、そう思える場所にしなければならないのだ。「サンフラワー」と名づけられたこの施設は、高齢者にとっての町であり、界隈であり、ギャラリーであり、住まいとなるところだ。家の前はストリートで、絵画展が開かれたり、縁台で涼む親父たちがいたり、同宿の子供たちもストリートで年寄りに見守られて遊んだり・・・私が子供時代に過ごした町内の風景・・・懐かしい・・・心のふるさと日本人にとって町内のストリートは舞台であった。混在する舞台であった。動線は交差しなければならない。今の日本はあまりにも理路整然とされすぎた。・・・ここのストリートでは演奏会も開かれるだろう。講演会やミニ教室が開かれるだろう。縁台で将棋をさす親父たち。井戸端会議のおばさんたち。学問・学術を修めた入居者(高齢者)もたくさんいらっしゃるだろう。人材の宝庫だ。画家も書道家も彫刻家もいらっしゃるかもしれない。つまり、ここは、人生をきわめてきた方々がそれを持ち寄り、お互いを啓発しあい、楽しむ場所となるのだ。このようなところをユートピアと呼ぶのではないだろうか。私は、福祉施設を設計するのではない。地域のユートピアを創造するのだ。この施設には、日本が失ってしまったコミュニティが復活する。入居者(高齢者)の家族が、自分もここで一緒に住みたいと思える場所となるだろう。私の中での福祉の概念が変わった。いや、広がった。
2007/09/23
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全国発信の準備開始先進的福祉施設の取り組みを全国へ広めるため、全国発信の準備をはじめた。おそらくケアハウスとしては西日本最大(確認していないが全国最大?)であろうこの施設がベールを脱ぐときがきた。さまざまなノウハウの構築により、さまざまな福祉システムも実現した。特許も複数出願された。ハード・ソフト・運営ノウハウがいよいよ顕在化した。もちろんこの事業をつかさどる理念があってこそのものだが、理念の構築はおよそ一年前には終えていた。それ以後、実現に向けてのハードやソフトの構築を行ってきた。大きな総合病院をいくつも回り、理念やノウハウや運営内容をお話しし事業への協力を要請したが、どの病院でも地域医療を担当する部署では、本施設に対し全面的に協力していただけることとなった。それに、自治体や金融機関も全面的に協力していただけるところとなった。「建設補助金なしで、すべて自前で資金を調達し建設するにも関わらず、入居者(利用者)が一人一ヶ月10万円あまりで生活できる福祉施設を実現させる」というのが2年前からの命題であった。この、うそのようなことが、ほんとうのこととなった。とにかく、実現のためさまざまなノウハウが構築されていった。いよいよ、このノウハウを全国に公開する時がきた。全国各地で、建築家としての講演という形で公開することになるだろう。実際の施設も追っかけて完成する。オープンし運営が始まると、実地の運営研修も受け入れることができるようになる。この施設は、さまざまな特徴をもっている。まず、「この施設は「施設ではない」ということだ。従来の老人福祉施設は、例外なく「施設」であり、管理側を主体としてつくられている。しかし、この度の施設の概念は、「ここは町であり、老人の住む家の集合体(コミュニティ)」だ。町を構成する要素が見事に建築内に内包された。入居者は、あたかも現代の長屋で暮らすごとくに、まさしくコミュニティの中に暮らすことができる。一人暮らしでもまったくさびしくない。多くの住民たちと生活を支援してくれる人たちとのかかわりの中で暮らせる。もうひとつ大切な要素は、スタッフが非常に楽であるということだ。従来の福祉施設は、半ばボランティア的な要素が多く、しかもきつい仕事の連続だ。しかしこの施設では、スタッフがとことん楽にお世話できるようにシステムを構築した。この部分のさまざまなシステムがことごとく特許出願された。スタッフが楽でなければ、入居者が充実した生活は得られない。ここではみんな無理なく「支援しながら生活」できるだろう。スタッフも仕事というより、日常の町の暮らしを謳歌しているように思えるだろう。それをとことん目指している。思い切って言えば、福祉がボランティアで支えられているという社会の現状は、社会システム上とても無理がある。本来実現すべき福祉社会の姿ではない。ボランティアが生活をなげうってお世話をするというのではなく、きっちりと仕事として成立し、しかもたのしく過ごせることが大切だ。つまり、「普通のあるべき町の暮らしの実現」だ。「現代の長屋で、みんながかかわりあって生きる」これがここでの暮らしだ。今までには存在しなかったまったく新しい概念の老人福祉施設の実現だ。民間企業が老人福祉事業に参画してきた。それもよいだろう。しかし、本来あるべき福祉事業は、社会福祉法人でなければできないだろう。終の棲家(ついのすみか)としての住まいの実現こそが事業の本質であり、利益誘導が目的の民間企業では、最後までの面倒が見れるとは思えない。社会福祉法人は利益誘導が存在しない。だからこそ、事業を行うことによって入居者が真に求めることを実現しやすい環境が生まれる。本来あるべきここまでの事業を実現できるのは社会福祉法人だけだ。したがって、この施設のノウハウは民間企業には提供しない。全国の心ある社会福祉法人に投げかけていく。すでに、全国版の報道特集番組で「福祉の最前線」として紹介されることが決まっている。来年半ばには「この町」は完成する。新たなコミュニティが実現する。ここは、地域の理想的なコミュニティとして、多くの方々が集う場所ともなるだろう。建築家としてこの事業の企画・立案に参画して2年。産みの苦しみの時期がようやく終わろうとしている。いよいよ顕在化した事業のノウハウを心ある社会福祉法人へノウハウ提供するときがきた。はっきり断言できる。これからの福祉のあり方のプロトタイプの完成だ。高齢者が、「経済的な不安を抱かずに」、「心の安寧を得て」、「身体の健康の不安を解消して」幸せに暮らせるユートピアを全国各地に実現させるべく、全国に普及していかなければならない。これからの私の活動は、おそらく啓蒙活動だろう。
2007/09/21
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入札準備開始建築確認申請の準備が山場となっているが、次の作業を着々と進めていかなくてはならない。いよいよ入札の準備だ。入札参加業者の選定が行われ、その後、指名通知を送付し、きたるべき日に現場説明(図面渡し)が行われる。見積もり期間を経て入札となる。ここのところが一番気の入るところだ。建築確認申請が受理され着工可能となったときには、工事請負業者が決定していなくてはならない。日本で始めてとなるツーバイフォー(木造枠組み)工法で4階建てで耐火建築物。ツーバイフォー部分だけで8千平方メートルという建築の工事開始が見えてきた。11月の中ごろには着工となるだろう。入札の時期というのはどの物件もそうだったが気を抜けない時だ。小樽市の建築、福山市の建築など、県外物件の入札行為を経験してきたが、なんにしてもここが勝負だ。
2007/09/18
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建築確認申請直前いよいよ建築確認申請!とは言え、休み返上で準備におおわらわ。なにせ規模が尋常ではない。延べ面積12,000平方メートルのつわものだ。防災関係図面だけでもおびただしい数の図面だ。それにつけても、6月20日に建築基準法が改正になり、建築確認申請が大変になった・・・と巷でささやかれている。とんでもないうわさが流れていたため、私自身もつい最近までどうなるものかと悩んでいた。しかし、日本の法律に則って設計し構造計算したものについて何をびくびくするものか!という思いもあった。道理で物事を考えればよいのではないか。そう思っていたのだが、やはりそうらしい。このところ、直接役所に出向いて実際にどうなのか聞いてみた。巷のうわさは嘘八百であった。ここで細かいことは書かないが、役所の方もうわさについてご存知で、半ばあきれた表情であった。よくよく考えれば分かった話だ。要は、いい加減な設計図書を持ってきてはいけません!ということだから、きっちりとした設計図面や構造計算書等を作成し提出すればよい。ただそれだけのことだ。このたびの建物は大型なので、確認申請が合格になった後に適合性判定機関にまわされ、構造計算の再計算チェックを受ける。それこそ、しっかりとしたものを提出すればよいだけのことだ。きっちりとしたものを提出すれば2週間もすれば合格となる!と力強いお言葉をいただいた。建築確認申請は、今までだって簡単であったわけではない。法の網をくぐってよからぬことをするのがいるから、それを見逃さないためのチェックを厳しくするという法律改正だったのだが、私にとっては痛くも痒くもない。確かに事務作業はべらぼうに増えたのだが、審査自体には何の懸念もない。今まで通り、きっちりとよい仕事をすればよいのだ。
2007/09/17
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構造概念が広がる現在設計中の社会福祉施設の構造は、鉄骨造と2×4構造との併用だと書いたが、実施設計が終わった住宅においても2×4構造へ構造をシフトしていく提案をしている。なぜなら、かなり変化にとんだ平面の住宅で、木造軸組み在来工法では木材の加工が手加工となり工事費が跳ね上がった。一方で、2×4構造では、パネルを製作していく過程では少々の変化は関係ない。したがって、このような場合には、在来構造よりも2×4構造のほうがよい。「住宅建築」や新建築の「住宅特集」を見ると、建築家の設計した住まいには、確かに2×4構造が多く見受けられる。住宅への2×4構造の採用は、日常的に行っていくことになるだろう。 写真はフランクロイドライト設計の自由学園(池袋) 大正10年ごろに立てられた2×4構造の建築だ 撮影:コムース)
2007/09/16
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昔のよしみ携帯電話の登録を見ていたら、ずいぶんと懐かしい名前があってこみ上げるものがありすぐにかけた。神奈川県平塚市のTさん埼玉県本庄市のSさん山形県寒河江市のAさん鹿児島県鹿児島市のMさんみなさん以前と変わらぬ声を聞けた。「生きていたかね~。」と笑いながら言ってくれたことがとてもうれしかった。以前は、建築家としての私ではなく、企業人としての私との付き合いだったのだが、立場がどうあれまったく変わらず接していただける。ありがたいことだ。そうだ。私には、全国にこんなにすてきな仲間がいるじゃないか!久々にそう思えるひと時だった。・・・ふと、生まれ育った宍道湖沿いの町に立ち返り、湖岸にたたずむと走馬灯のように幼いころからの私の人生が描き出される。そんなひと時を過ごす。そんな折に、思わず思い出された全国の懐かしい人たちの顔。これが癒しというものなのだろう。長い長いトンネルを抜けるとそこには新たなステージが私をまっている。なんとしてでもそこにたどりつかねばならない。家族のためにも。私を支援してくださっている人たちのためにも。全国のなつかしい人たちのためにも。 写真は、我が家の裏山から見た松江の夕景
2007/09/15
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日本最大のツーバイフォー建築いよいよ9月20日に建築確認申請の提出となる予定となった。鉄骨構造とツーバイフォー(木造枠組み壁工法)構造の併用構造で、ツーバイフォー構造部分だけで約8千平方メートルで4階建て。木造なのに耐火建築物だ。すべてが初物づくしとなった。しかも規模で日本一の称号つき。もちろんものめずらしさを狙ったわけでもなく、約2年にわたるサーベイで、それはすでに私の中では当たり前の建築となっている。なぜ、ツーバイフォーなのか・・・話せばとても長くなる。建築が出来上がると、その外形や内部空間が顕実として認識できる。しかしほんとうの建築としての実存は、形式のその向こう側にある。それは、理念であらわされ、コンセプトであらわされ、手段であらわされる。建築という顕実から認識できる本質は全体の何分の一だろうか。したがって、ツーバイフォー構造はあくまで手段だ。そのものめずらしさから当面騒がれるかもしれない。しかし肝心なのは、その建築に内在させた本質という実在だ。本質の中心にいるのは、ここに「住む」高齢者であり、介護者・介助者だ。誰が中心の建築なのか・・・これが、この建築が社会に問いかけているものであり、我々が見出した答えだ。 写真は、この建築のための温泉掘削工事 (現在350mを掘削中) 200mの温度検層で23℃ すこぶる順調
2007/09/14
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