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大きな使命醸造家バッシーさんとの話。お互いに醸造家・建築家として「家」を自称しての起業仲間。背負っている使命(誰からも頼まれたわけでもないのに勝手に背負っている)の大きさ感じるこのごろだ。もっとうまくやってこれたかもしれないが、お互いに、不器用で要領が悪いので、直球勝負一本やり。しかし、それこそが正しい道のりなのだ、と頑固一徹。調整なんていうものは傍が言うほどに簡単にできるものではない。本筋から外れてしまいかねない。だから最短距離を行く。それにしても、やはり理念を何かのかたちで開示していくことは必要であるとの認識で一致した。せっかくインターネットの時代なので、デジタルをアナログとして使って発信していくことも大切だろう。バッシーさんの場合、過去の大いなる実績と、社会や時代を見抜く力は相当なものなのだが、それらが伝わっていないのが残念でならない。地域からすれば宝の持ち腐れ状態だ。とはいうものの、いずれ分かるときがくるだろう。彼のコミュニティワイナリー事業(理論)は、私のコミュニティ事業(理論)と分野は違えど完璧に一致している。ゆえに、自分の事業のようによく分かる。彼の理念と実践、これから向かう先のことなど、もうじき開示されるときが近い。コミュニティワイナリー事業の一角を占める消費者とのコミュニティ事業(店舗販売)も開始された。ぶどうの苗木もすくすく育っている。彼の今までの海外での醸造家活動や、地域ワイナリーを日本一の観光ワイナリーに創り上げた実績など、ほとんど知られていない。理念を持って歩んでいることも知られていない。私は、彼の近くにいる支援者としてじれったい限りだ。情報開示が待ち遠しい。 写真は、バッシーさんの海外での活動
2007/10/30
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高齢者を見つめるとコミュニティが見える2年半前から手がけている福祉プロジェクトを進める中で、高齢者を見つめていると、コミュニティが見えてくる。高齢者は3つの悩みを持っていることが分かる。それは、経済的な悩み、心の安寧、身体の健康についてだろう。これらの悩みをいかに解消していくのか。そのために、いかな暮らしぶりを創りだしていくのか・・・それを見つめていくと、色々な方策が見えてくる。それは年齢に関係なくすべての人たちに共通するものであることが分かってきた。つまり、高齢者が悩むということは、町が悩んでいることなのだ。コミュニティとは、若い者だけで構成されているのではなく、高齢者もそのなかの大切な構成人員だ。まして、近未来には、全人口の3分の1が65歳以上となる。これは高齢化社会つまり、高齢化していく社会ではなく高齢社会なのだ。傾向ではなくそのものになっているのだ。それを認識しないため、高齢者だけの問題として捉えるところに、社会のさまざまな矛盾が生じている。私は、このプロジェクトのおかげで、社会に必要な状態が見えてきた。そこのところを知らしめるために講演の機会が与えられたのだと思う。
2007/10/28
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ストレート 変化球物事には色々な側面がある。それは、色々な思いの結晶であるから色々な側面が現れてくるのも当然だろう。キャッチボールでは、私はひたすらストレートオンリー。しかし、相手からはストレートが帰ってくるとは限らない。このあたりが面白いものだ。物事の機微は、キャッチボールで分かる。たまに剛速球を投げることもある。しばらくすると変化球が帰ってくる。これが機微というものだと感じている。こちらから変化球を投げる必要はない。辛抱たまらずに変化球を投げてきてくれる。時には、最初から変化球というお方もいるが、そういう方はあまり付き合わないほうがよい。君子危うきに近づかず・・早々に退散だ。あなたはストレートで純粋だから分からないのよ!などと言って色々指南していただく方もある。ありがたい話だ。この歳になって純粋もないとは思うが、変化球を投げるほうが楽に違いない。つまり妥協するのは簡単だ。しかし、ストレートに物事を見ることは結構難しい。それを貫くとなればなおさらだ。大切な変化球とは、自分の知らない世界を吸収する意欲の形であって、ストレートとは、本物をぶつけ合う姿勢をいうのではないかと思う。ま~わけの分からない話かもしれないが、ここにこだわりを感じるからしようがないな。屁理屈をこく学生よりさらに屁理屈こく親父という状況だ。これからも、理論理屈というより、原理原則や道理をしっかり見つめていきたいと思う。今はひたすら建築家としてのアイデンティティの構築だ。妥協はできない。バッシー、お互いにがんばろう!
2007/10/27
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覚悟を決めることとは昨夜、あるプロジェクトの推進マネージャーが来社された。一年前から関わられ、いよいよ本番を迎えようとする事業に本格的に参加するためには、今の職場を辞して参加することとなる。大きな決断の時を迎えておられる。果たして、いざ行動開始となるときには色々お試しがあるのが世の常だ。この事業に参加してよいかどうかの迷いも生じるだろう。家族の反対もあるかもしれない。彼もまさしくそのような状況にある。最後は自分自身が決めなければならないことは当然のことだろう。自己責任での決断だ。関連することをすべて満足させながら次のステージに赴くことが一番よいことなのだが、そうは問屋が卸さない。彼自身の決断に決して問題があるわけではない。そこを踏み台にするときに、利益相反が生じてしまう。つまりやめてほしくない今までの職場からすれば利益を失うこととなる。こんなときには八方塞の状況になってしまったように思うものだ。彼も例外ではなく、聡明な御仁でありながら、苦しさのあまり大泣きの状況であった。当事者の気持ちは痛いほどわかる。しかし、とうに本人の結論も出ていることだ。円満にという気持ちはよくわかる。しかし、決して辞職して迷惑をかけることはない。私は第三者的な立場であるのでよく見える。彼に申し上げたのは、優先順位をつければ分かる、ということだった。彼がプロジェクトマネージャーとしての行動を起こさなければ、推進に支障をきたしかねないところまできている。前職に対する責任感ゆえのことではあるが、彼なくしてはありえないプロジェクトであるからこそ辞して参加する必要が生じたのであって、その後の支障をシミュレーションまでする必要はない。まして、現職の法人は、小さな組織であるならいざ知らず、大きな組織での役割であったのであって、彼の代わりはすぐに育つだろう。優先順位で考える限り答えはあきらかだ。そこをしっかり見つめれば覚悟が決められる。10/24は、彼の人生の本番ステージにあがる記念すべき日となった。私は彼の決断を見届けた日となった。
2007/10/25
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心に響くことば1 田坂広志の「風の便り」ふたたび を読んでたまに送られてくる田坂の随想の中に心に響く一文がある。先日送られてきた便りは、ヘレンケラーの「三日間の視力」であった。もし、三日間だけ視力を与えられたら、それをどう使いたいか述べているもの。ヘレンケラーは最後に、「明日は視力がなくなるかもしれないという気持ちであなた方の目を大切にお使いください。」と記されているという。田坂は、このヘレンケラーの言葉は、仮定ではなく真実の言葉だという。「なぜなら、我々もまた、何十年後かの後には、この世を見ることはできなくなるからです。それが明日ではなく、何十年後であるとしても、我々はいつか、この世を見ることはできなくなる。そうであるならば、我々は、この《永遠の一瞬》の時間の中で、何を見つめ、歩むべきでしょうか。何を心に残して去るべきでしょうか。」と記している。私たちは、いつかこの世を去っていく。そのときにどれだけ自分に正直に悔いなく生きてきたかを考えることだろう。だからこそ、自分に与えられた人生の役目をしっかり認識し、その役目に真っ正直に生きていく。田坂の一文を読むと、いつもそんな思いがこみ上げてくる。
2007/10/23
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個人消費の9割は女性マーケティングアドバイザーのハマムラさんから教えていただいたことだが、日本の年間個人消費は実に300兆円にも及ぶ。その9割を女性がしめているという。ハマムラさんは、経済誌の特集でコラムを書かれる方だからその信憑性は高い。そこで、先日来の、経営者の勉強会組織のあり方について話し合ってみた。会では、女性の会員が増えないことが役員の悩みなのだが、ハマムラさんいわく、女性が入ってこれる状況にないとのことだった。女性は、常に先進的であり、学びの場を求めている。確かに、今の例会の有様では、とてもそのようなシチュエーションではない。いわゆる、おじさんのたむろする場では女性も近づけまい。懇親会では、男尊女卑ではないが、女性にとっては酒を注がされる状況となりかねない。そのあたりはわきまえているとしても、やはり酒が入ると行過ぎることも生じるかもしれない。そうなっては、女性が学べる環境とはいえなくなる。例会の中でもっと気さくに、明るくおおらかに語れる雰囲気をつくることだ。私自身、建築家として設計を生業とするなかで、女性的感性での検証が必要であることを感じている。物事を進める中では概念として女性的感性を意識することはとても大切なことであり、より繊細さが求められるだろう。経営者の勉強会でも、多くの女性経営者が参加されることを意識すべきだろう。女性はまじめだ。いや、人間はもともとまじめなのだ。だから、思いっきり自分が出せる世界を創ってあげることだろう。女性のステージを創ってあげる意識を持つことだ。人生のステージを創ってあげるのだ。女性が満足すれば口コミがはじまるだろう。ここが人生の舞台、自分を正直に出せる場所。これが私たちが創り上げるべきステージだ。経営者よ、もっとイメージを持て。
2007/10/22
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いたって簡単な話なぜ話を複雑にするのか?と言われることがあるが、私に言わせればまったく逆に、なんでそんなに複雑に考えるの?と言いたい。昨夜、ある方との話の中で、経営者の勉強会の懇親会の有無についてなぜそんなに複雑にものを考えるのかと言われた。いやいやそうではない。私は物事をシンプルに整理しただけだ。私が以前懇親会について提起したときも、決してを否定してなどいない。正式な行事と、そうでないものとの線引きをやりましょうといっただけだ。一緒にするとボケボケになってしまう。私は強制はしなかった。穏やかにお話した。参加した役員との話し合いの中で、役員会の総意としてきまったことだ。本来充実させなければならない例会にも多くの問題がある中で、あとの懇親会を意識していてはますますうまくいかないのではないか。例会が終わる30分前から進行係はそわそわする。ここで参加者の方々と意見交換したほうがよいなと思われる場面も多々あったが、そそくさと会を閉会して懇親会に移動してしまう。会場の後片付けもまったく意識外。お客さん状態だ。初めて参加されたオブザーバーの方々が一生懸命片づけを手伝ってくださっているなかで、役員を中心にさっさと会場を後にする。懇親会のことを言っているのではない。閉会前後の大切な時間をないがしろにしていることを問題にしているのだ。まったくのノーテンキが問題だ。例えて言おう。我々の勉強会組織が、例えば中学校だとしよう。我々役員はさしずめ教職員だ。毎月行われる教職員会議ではどのような話し合いが行われるべきか。もちろん、授業の充実についての話し合いだろう。どうしたら、生徒たちがお互いの交流を深めながらのよき勉学の環境を造られるかであろう。その後の部活動については二次的なものだ。まずは、事業時間の充実だろう。部活動は部活動で考えればよい。というように、例会と懇親会をシンプルに分けただけだ。放課後の部活動を充実させたければそれはそれで一生懸命考えればよいことだ。授業時間の充実の問題を提起しているのに、そのためには部活動が大事だ!とはピントはずれもよいとこだ。繰り返す。私は部活動(懇親会)を否定していない。私も部活動に顧問として参加する。しかしその前に、教職員(会の役員)として、本来あるべき環境をいかに充実させていくかをみんなで考えていかなければならない!と提起しているのだ。そのことが、数ヶ月前の教職員会議(役員会)で決まったのではないのか。その後も部活動は有志で行われている。私も参加している。何ら影響はないはずだ。参加者が減っているということらしいが、自分のコマーシャルの悪さを転化してもらってはこまる。授業時間の間の休憩時間に有志が大きな声で呼びかければよいでしょう。なんでこんなことが話題になるのかさっぱり意味が分からない。そんなに世の中平和なのだろうか。もう研鑽することはないということだろうか。お互い様にできてないところだらけの経営者だ。ゆえに、あからさまに語り合うことが自分に向き合うことになる。経営者同士で正直に忌憚なく話し合うことこそが、自己啓発であり自己研鑽というものだろう。この会の意義はそこにあると私は捉えている。もしそれが総意として否ということであれば、入会したことがはじめから間違っていたことになる。今まさに、本物になるかならないかの正念場を迎えている。
2007/10/22
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入居満了島根県のインキュベーション施設に入居できて早5年。無我夢中の毎日だったが、いつもまにか満了の日がやってこようとしている。思えばよき出会いの連続だった。この5年の出来事は、すべてがこれからの礎(いしずえ)となるものだろう。あとわずかな日々をしみじみ味わいながら過ごしている。ありがとう。この施設に心の中でお礼を言っている毎日だ。5年前、私を審査し入居を承諾していただいた方々、今までじっと見守ってくださっていた方々。その方々に心からお礼を申し上げたい。会社としての実績はこれからだが、おかげで建築家としての理念とビジョンの構築がようやくできた。いざ本番というときに、入居満了となるというのは、まさしく創業を支援するインキュベーションならべはのことなのかもしれない。見えざるものによって導かれているのだろう。人生に無駄はない。・・・確かにそうだと思う。今までの自分の人生を振り返ってみて、よくぞここまでこれたものだと思う。今までの人生、今与えられている環境、これから私を待ってくださっているであろう方々を思うとき、しっかり前を見据えて進んでいくという括弧たるものが湧いてくる。若いとき以上にますます感受性が強くなってきた。建築家としての活動では、それも大切なことであろう。私の人生の中で通り過ぎていった人たちをノスタルジックに想いながら、これからの人生や出会うであろう人たちに思いをはせる。そして、歴史が創られていく。これからも、そんなことが繰り広げられていくことだろう。それにしても5年は思った以上に早いな。私も50代の中盤になった。 写真は、当社が入居中のテクノアークしまね南館 (5年間ありがとうございました)
2007/10/21
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一生懸命と本気ある経営者の方からある文章をFAXでいただいた。その文面の中で一番印象に残ったのが、「一生懸命と本気」についてというものであった。私はいつも直球勝負の話をする。決して単刀直入とか、遊びやユーモアがないと言うわけではないが、要は無駄な話はできるだけ避けたいと思っている。経営者の夢は、「顧客の夢の実現」というものであろう。顧客とは、経営者以外の、事業に関わるすべての人のことをいう。。つまり、家族や社員やお客様すべてだ。そんな夢を共有する経営者同士の啓発の場では、やはり真剣に夢の実現に向けて話し合わなければならないと思っている。
2007/10/20
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ほんとうの不安建築家活動をはじめて6年。今だに創業者です、などというとそろそろ叱られそうだが、目指すものが動き出すまでは創業期の状態だろう。私の場合は、建築家としてのなすべきことが確立できてこそ、経営的にも成長期に入ったといえるだろう。この数年をかけて、ようやく将来にわたって建築家として取り組んでいける事業が組みあがってきた。そのようになってきたのもよきクライアント(施主)との出会いのおかげだ。感謝だ。私はとても幸運な人間に違いない。安藤忠雄も、よき施主との出会いによって今日がある。理念と理念の融合だ。私もクライアント(施主)と理念と理念の融合を果たすことができた。将来に対する不安は一切ない。ただ、今までの時間、この事業の構築のために、未整理のことも多くできてしまった。正当化するつもりはないが、事業を成就させるために犠牲を払ってきたことも多かった。両立はできなかった。資金に困れば下請けでもしながら食いつなぐのが一般的なのだろう。私は一切してこなかった。わき目も振らず一心不乱で事業の成就をめざしてきた。スタッフも一心同体で付いてきてくれた。感謝だ。仲のよい銀行の支店長と話したとき、そのように見てくれていたのか、とうれしかったことがあった。それは、「夢が明確な人はたとえ眼の前の状況がどうであれ大丈夫なんだ。問題は、将来のビジョンが描けない経営者だ。」お前は明確な夢があるじゃないか、と言ってくれたときはうれしかった。別に融資をしてくれるわけではないが(笑)、そのように見てくれていることは素直にうれしかった。そのことで、これでいいんだ!と自信を持たせてくれた。もちろん、自分自身が一番確信を持っているし分かっているつもりだが、他人から面と向かってそのように言われると、ますます確信が深くなる。まして銀行の支店長から言われるとなおさらだ。醸造家バッシーさんと話していると、彼も明確な理念とビジョンを持っている。将来の不安は一切ない。もちろんお互いに、理念に基づくビジョンを顕在化させていく中での半端でない苦労はある。そのことではあえいでいるのも事実だが、乗り越えられるものだ。ほんとうの不安とは、理念が明確でないこと、それによって何らのビジョンも描けないことだ。そんな状態で、どのように船(企業)を操縦(経営)していくのだろうか。幸いなことに、建築家としての活動ができることが見えてきた。風が感じられるこのごろだ。感謝だ。
2007/10/19
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ある醸造家の夢の実現醸造家がワインショップをオープンした。そこには、世界13カ国200種類のワインが並んでいる。店には、オープンの華やかさはない。オープンして2週間も経っていないが、よく見ると毎日少しずつ進化していることが分かる。彼は、ストーリーを持っている。そのストーリーとは、このショップは国内外の醸造家の作品紹介の場であるという。そして、そう遠くない時期に彼自身が造ったワインが樽で置かれるときがくる。独自の畑では、ぶどうの苗木(シラー種)数千本がすくすくと育っている。この苗木からできるぶどうで造られたワインはまだ2~3年後になるだろう。その前に、彼が厳選したぶどうを、あるワイナリーを借りて仕込む。その樽が並ぶのは、そう遠いことではない。彼が打ち立てたコミュニティーワイナリー事業は、ショップにおける消費者との対話からスタートすることとなった。目的の達成のための道は一本だけではない。最終的には、プライベートワイナリーの実現を目指すのだが、彼の活動は、もっと進化を遂げるであろう。なぜなら、世界各国で修行してきた彼は、国内外の醸造の世界を知っている。それこそ、国内外の醸造家との交流は、これを機に盛んに行われるときがきたから。世界中の醸造家を訪ね、作品としてのワインを手に入れ、私たちに提供してくれることとなる。そして、自ら造ったワインを世界へ提供することとなるだろう。芸術としての醸造家同士の交流。私は建築家として、その意味がよく分かる。来年から始まる世界中の醸造家をめぐる彼の旅に、私も同行することとなるだろう。ヨーロッパでは、一緒にコルビジェやガウディやアールトらの創り出した建築をめぐる旅ともなるだろう。思えば6年前に知り合い、それからずっと夢を語り合ってきたが、お互いに醸造家、建築家として本物になっていこうと誓い合ったことがいまさらながらに思い出される。いよいよお互いに本番のときが来たようだ。 写真は、いつか彼と訪問するであろう フランス サンテミリオン
2007/10/18
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本来の目的経営者の勉強会組織に入会している。全国に4万社以上を要するその会の目的は、現代を、これからの社会を、真に社会貢献できる会社として活動していくこと、そのために経営者自らが真摯に自己啓発していくという場だ。私が入会した当時から、例会(自己啓発会)のあとの懇親会がセットされていた。初めて参加したときに、その懇親会で非常に不愉快な思いをした。そういうこともあり、その後2年間あまり休眠会員となっていた。その後、強い誘いもあり例会に参加するようになったが、例会自体は非常によいものであった。しかし、正式行事として懇親会がセットされていることは、今日にいたるまでどうも納得感がない。懇親会で不愉快な思いをしたからではなく、本来の目的である自己啓発の目的がボケてしまっている。飲みたい者は大いに飲めばよい。大いに懇親を深めればよい。しかし、みんながそれを望んでいると思うのはいかがなものかと思うし、例会が終わる時刻が21~21時30分で、少し話し込めば22時にはすぐになる。それから無理やり懇親会もないだろう。だから、例会の後、後片付けもしないで懇親会場へ移動してしまう。アフターファイブを迎えた親父がビールめがけてガード下の居酒屋に飛び込むようなシチュエーションだ。本来なら、みんなで会場を片付けて、再会を約してお開きとなるというのが道理だ。その後に、気の合った者同士が飲みに行くのは一向にかまわない。今時の若手経営者は、どうも青年のころから、飲み会がセットされている会にどっぷりと浸かってきたのだろう。若いから、まだ遊びたい盛りかな~。会の主旨を考えることなく、飲むことに何の疑念を抱かない。まったくもってノーテンキだ。例会が終わった雰囲気で、その例会の会場で話が盛り上がって話し込むことだっていいし、そんなときに結構有意義な話ができることも多い。帰る間際の余韻に浸りながら、駐車場で立ち話で経営観について熱く語り合うのもよいものだ。一方、懇親会では、もう飲むことしか考えない。私だって懇親会に参加すれば、まったくそうなる。数ヶ月前、私の発案で、会としての正式な懇親会はやめることになった。しかし、このところ、また例会に合わせての懇親会を復活させるべきという意見が多いらしい。私に意見を求められたが、私の考えは以前の問題提起の段階で申し上げ、それが総意としてそうなったのだから、もはや私は申し上げることはない。その経過を踏まえて、あえてそれを覆(くつがえ)してのことであれば、もはや何をかいわんやだ。そうなった時、私自身がこの会に所属している意義を失う。サヨナラだ。以前にも言ったことだが、懇親会を反対しているわけではない。例会は例会としてしっかり意義を成立させなければならないと言っているのだ。懇親会に意識を向けるより、有意義な例会について真剣に考えるべきではなのか。その答えが、飲み会をやるべし!・・か~?たまに、数ヶ月に一度、学校がリクリエーションを行うように、思いっきり飲み会をし、懇親を深めればよいではないか。毎月の例会の時、有志で懇親会をされるのは自由だ。飲みたいやつは飲めばよい。例会の始まるときや、途中休憩の時、閉会するときに大きな声で、有志が呼びかけることは何ら問題ない。呑み助の趣味を、例会の大義名分の傘の下に入れては断じてならない。料飲店の会員も多い。それならそれで、大いに有志の懇親会の会場の提供を呼びかければよい。私もせっかくの呼びかけだし、会員の店となればたまには行かねばなるまい。私は、今日まで建築家としての真の活動ができるようにと、真剣に活動してきた。理念の構築には時間がかかるし、日々の実践の中で一進一退を繰り返しての毎日という現実の中で、私を物心両面から支援いただいている多くの方々の期待にいつか必ずや応える日が来ることを目指して活動を続けている。会で、他の経営者と本音で話し合うと、中小企業の経営者として同じような思いを持っておられる方が多いことが分かった。だから、私自身、真剣に啓発活動をしていかなければならない。会に参加している若手経営者のみなさんに対し、真の思いやりがあれば、例会がマンネリ化せず、いつまでもみずみずしいものにしていかなければならない。そのためには、けじめがあり緊張感のあることこそが大切だ。例会が終わる30分前からアフターファイブのビールのような状況では、まったくもって会が成立しない。役員には、会員を愛するほんとうの思いやりが必要だ。せっかくの例会を懇親会でボケボケにするのがやさしさか?余韻を残して熱く語り合って家に帰ることのできる状態をつくることがやさしさか?考えれば分かることだ。社会環境は厳しい。中小企業の経営者が懇親会で浮かれている余裕は、最早ない。〈出雲市のH氏談〉--------------------------この会に入会して、青臭く語り合うことができるので、まるで青春時代に帰れた気がする。攻撃や防御がいらない会だ。経営者として、自分の本音を言える平安の地だ。 癒し = エネルギー車で帰るとき、さっきまでの会の余韻を感じ、心地よい気持ちで我が家に帰ることができる。妻にさっきまで行われた会でのことを話していると、妻はうれしそうに、「この会に出るとほんとに生き生きとして帰ってくるのね。ほんとうにいい会なのね。」と言ってくれた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー例会の時は、早く我が家に帰って妻と語るべし。
2007/10/18
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祝!800アップ2003年12月26日から書き始めた建築家日記も、とうとう800アップとなった。特に回数に意識はないが、もしかしたら同じことを何回も書いたのかもしれない。しかし、内容的に同じでも、その時々の心の機微で書いたと思うので、それぞれが違う日記であることは間違いない。以前の日記でも書いたように、この日記は自分史として書いている。建築家コムースが生きてきた軌跡をたどることができればよいと思い書き始めた。公開の日記ではあるが、あえて、色々な方々が読まれることを想定せず、あくまで、自分に向き合って書いてきた。たまに日記を振り返って見ると4年間の中にも、そろそろあのときはこうだったなと思える歴史の気配が感じられるようになってきた。安藤先生との再会も果たせた。安藤先生をお招きしての大きなシンポジウムも開催できた。私が主催する島根で始まった産学官交流会が東京でも行われるようになった。たくさんの設計実績もできてきた。北海道小樽市の小樽市指定歴史的建造物遠藤又兵衛邸の再生プロジェクトも手がけることができた。新聞やテレビ、経済誌、日経アーキテクチュアに建築家活動が紹介された。栄枯盛衰。志を持って取り組んだことも、うまくいかなかったこともあった。職人文化との融合を図ってきた事業は、思った以上に職人の意識は元請の意識が薄らいでしまっていた。歴史はもはや単純な方法ではよみがえらないのか。コミュニティの形成事業については、コーポラティブハウス事業はなかなかまとまりがつかない状態が続いているが、図らずも、2年半前から取り組んできた福祉事業において、建築家として取り組んできた町を形成する思想で創りあげることとなっていった。まさしくコミュニティの構築そのものの事業となった。夢は必ずかなうもの、と誰かが言っていた。しかし、そのかない方は、当初予定していた形とは違うこともあるものなのだということを感じた。私の建築家としての活動の原動力となる思想の構築がようやく完成しようとしている。それは、明確に顕在化された思想だ。色々な方々にお話ししたところ、各種団体から講演依頼もいただくところとなった。私がお話しするコミュニティの形成事業について、一様に、現代の世相の中で、このような理想的なコミュティができることに驚嘆されていた。混迷を極める社会であっても、決して本質や道理は失われることはない。それは、誰も変えようのない原理原則だからだ。だから、ここにおける道理や原理原則を感じ取っていく時間が必要だし、既成にこだわらない発想の転換も必要だろう。私たちの関わる建築は、すべて「住まい」であるという発想。通りはその町のコミュニティという発想。それが私の原理原則だ。私自身今まで決して上手な経営者ではなかっただろう。しかし、私が建築家としてのなすべきことを顕実化しなければ、実は何も始まらなかった。いよいよ建築家としての経営のスタートだ。これから、この福祉事業によって全国にコミュニティを誕生させていく。これが、私のライフワークになるだろう。いつの日にか、町々によりよいコミュニティが形成されていることを夢見て、明日からの啓蒙活動を着実に行っていく。 写真は、安藤事務所での安藤忠雄氏とコムース
2007/10/16
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黒川紀章黒川紀章が亡くなった。昭和40年代に発行された分厚い特集を手に入れたくらい、当初は黒川を注目していた。しかし、どこかにどういうのか田舎くささというか、デザインの陳腐さを感じ、心が離れてしまった。その後、私は、安藤忠雄氏との出会いを得て、今日までの建築家人生を歩んでいる。安藤氏を親しく訪問したのは、決して心酔しているわけでも教祖とあがめたてているわけではない。設計の真似も一切していない。私のオリジナルだ。あくまで、建築家としての思想・・いや、姿勢かな、そういうものを学んだのだと思う。安藤氏は、常に自分自身の奥底にあるものを見つめること、目の前に見えていることのその向こう側にあるものを見つめることをおっしゃっていた。そして私自身が建築家としての本番の人生が始まり今日を迎えている。この間、黒川は国内外で活躍しさまざまな作品を残してきた。今でも進行中のプロジェクトが数十あるという。中には10年越しの都市計画もあるという。しかし、私はほとんど興味を示してこなかった。どちらかというと、丹下健三の弟子という系譜で見れば、磯崎 新に注目していたように思う。あるいは、原広司の表現のほうが魅力を感じていた。昨夜、深夜のNHK教育テレビで、数年前の番組だろうか、黒川がロシアアバンギャルドの建築を訪ねる番組を放送していた。メーリニコフの自邸を訪ね、メーリニコフの87歳になる子供と一緒に自邸を紹介していた。また、あるデザインスクールの学生が世界的建築家黒川を迎えて、狂喜する学生が自分の作品模型を見せるのだが、そのコメントを聞いていると実にやさしい人間味が伝わってきた。場面は変わり、まだ京大の学生だったころ、世界学生デザイン会議に参加し、黒川に付いた通訳が初恋の人だと告白し、その人が住むロシアの街を訪ねた。当時の彼女はまさしく絶世の美女であった。その後、何度も旧ソビエトにいる彼女へ手紙を出したのだが、ついぞ返事がなかった。50年ぶりに再開した彼女は、もちろん手紙は届いていたという。しかし、外国人との接触は当局の監視下にあり、分かっていても返事が出せなかったという。ピアノや英会話を子供たちに教えて生活している彼女は、黒川を見つめながらピアノを弾いて聞かせた。ほんとうに愛し合っていたことが分かる。番組の最後に、メーリニコフの作品を見ながら感想を語る黒川は、若干の嗚咽を生じながら、ほんとうにここへ来てよかったと語った。田舎くさいと思ったのは、どこか日本人的人情味を心の奥底に持っている黒川だったからかもしれない。愛する初恋の人に再会できた場面では、私も思わず涙してしまった。改めて、黒川作品をたどってみることにしよう。 黒川記章
2007/10/15
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景15 】------------ 少年野球 昭和30年代は、町内対抗の少年野球が盛んだった。近所のラーメン屋の親父が監督兼世話役だった。ここのラーメンは結構うまかった。時々練習後にラーメンを食わしてくれたり、普段の練習にはパンの耳を食べさせてくれたことが子供心にとてもうれしいことであった。今と違い、スポーツのときの水の摂取は禁止されていた。今思うと恐ろしい話だが、それでも熱射病や熱中症になる者が少なかったのは、当時の体質がそうだったのか、はたまた奇跡的だったのか。私の場合は、トイレに行ったときに隠れてしこたま水を飲んでいたので大丈夫だった。兄とキャッチボールをすると必ず弟の私がキャッチャーをさせられたので小学校4年ころからキャッチャー専門となった。たまに外野を守らされるといったいどうすればよいか分からなくなってしまっていた。小学生でもカーブやシュートを投げるピッチャーがいて、小学校3年まではボールの変化についてゆけずこの世のものとは思えない思いだった。市営球場は、芝というより雑草がきれいに刈られて整備され、寝そべりたくなるほど気持ちよかった。勝敗がどうだったか忘れたが、スポーツというのは決して奇麗事ではなく、反省会ではお互いのミスを指摘しあい、ずいぶん悔しい思いもしたが、こういうことを経験できたことが幸せなことであったと思えるこのごろだ。今でも、日曜日になると、朝6時30分からの少年野球の練習を思い出す。 写真は少年野球(参考写真)
2007/10/14
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景14 】------------ 五右衛門風呂 かまど昭和30年代までは、どの家も五右衛門風呂とかまどであった。文化住宅といわれる新興の住宅建築が台頭してきていたことも事実だが、30年代の初めは、まだまだ貧しい時代であったのでそう簡単には改造できなかった。かまどは木を焚いてご飯を炊くので、後には残り火となった炭ができる。それを炭壷に入れてとっておくのだが、子供心に炭を観察したくて炭壷を覗き込んで遊んだ。炭は消えたようで消えていないので、何かの拍子に薪が燃え大騒ぎになったことがあった。決して火悪さではなく観察だったのだが、結果としては同じになってしまった。風呂は五右衛門風呂で、木をくべるといつのまにかゆで蛙状態になってしまう。いわゆる鉄の器に入っているので、周りを触るとやけどをするくらい熱いので、この風呂に入るときはとにかくテクニックが必要だった。五右衛門風呂の底には、桧で作られた大きなかまどのふたのようなものを敷いてそれに乗る。子供のころは体重が軽いので、その木の敷物の浮力が勝ってしまう。敷物は思いっきり湯面のふたになり、お湯の中に閉じ込められてしまう。おまけに火に直接あぶられている鉄に乗ることになるので、これはまさしく釜ゆで地獄であった。お風呂はいつしか琺瑯(ほうろう)となり、温水器でお湯を注ぎ、かまどは炊飯器に取って代わられた。そういえば、洗濯もたらいと洗濯板でやっていた。母は大正生まれだったので、おそらくそれが当たり前と思ってやっていたに違いない。ほとんど和服で過ごしていたが、炊事をするときには割烹着を着ていた。まさしくサザエさんちのふねおばあさんのようだった。ちょっと太めで、京塚昌子とふねおばあさんを足して割ると我がおふくろとなる。町内のお上さんたちはみんなそんな感じだった。昭和30年代の後半になると、昭和生まれのちょっとしゃれた洋風なおばさんが現れてきた。洗濯機、炊飯器、掃除機がこの世に現れるとともに、ハイカラなおばさんたちが増えていった。 写真は五右衛門風呂(参考写真)
2007/10/12
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理想郷福祉事業を企画立案していく中で、人間にとっての理想郷とはなんだろう。どういうところだろうと考えてきた。これは年齢によっても違うのかもしれない。高齢者にとっての理想郷とは、と考えるとき、子育ても無事に終わり、子供たちも独立を果たし、静かに人生を振り返りつつ余生を思う、そんな時、しみじみよい生活環境にいるな~と、幸せを感じられる場所を理想郷というのではないのか。その幸せな生活環境とは、と考えるとき、それは互助であったり共生の世界であったりするのだろう。互助や共生に満ちた環境を思うとき、これは、高齢者特有の世界なのではなく、年齢に関係なく、さらに地域に関係なくすべての地域社会が今求めていることであることに気づく。コミュニティとは・・・つまり互助と共生の世界なのだ。高齢者のための福祉施設を企画立案していくなかで、いつしか、社会における理想郷を創造していた。現代社会を救う道を見つけた。
2007/10/11
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共生最近いろいろな場面で共生(きょうせい)という言葉が使われている。今進めている福祉施設の企画の段階からこの共生についての考え方が問われてきた。共生とともに互助についても考えてきたのだが、現代社会が失ってきたものは、まさに互助や共生ということであったように思う。共生とは?と問いかけると、みんな言葉に行き詰まってしまう。共生とは、お互いの夢が実現している状態、もしくは、夢に向かってともに歩いている状態をいうのではないだろうか。入居者(老人)同士の共生ではなく、お世話をする職員も含めた関係も含めて共生であるべきではないのかと考えてきた。老人とお世話をする職員の双方の夢が実現する状態とは・・・いよいよ具体的な形としての福祉事業が組みあがった。
2007/10/10
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ハードディスク ダウン実は、8月の初旬にメインで使っているパソコンのハードディスクが突然ダウンした。ハードディスクから異音が聞こえるので、相当重症だ。全国の2千名あまりの方々にメルブックなる情報発信をしていたのだが、アドレスがハードディスクに入っているためまったく送れない状態が続いている。以前、外部ハードディスクがダウンしたとき、知り合いから九州の業者を紹介してもらいデーターを救い出したのだが、結構大きな費用がかかった。レスキューは、営業情報など重要度が高いものの救い出しとなると数百万円かかるケースもあるという。まったく足元をみた商売だ。私の外部ハードディスクの場合は、デジカメデーターなど、結構重要なものもあったのだが、安くしてくれた。それでも結構な値段だった。今回は、アドレス以外は何もいらない。しかし、それだけを救い出すというわけにはいかないらしい。どうにかして、ほとんどただでなんとかならないかとハードディスクを飾って眺めている。よい方法があれば教えてもらいたい。
2007/10/09
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人を幸せにする能力「自分にとっての夢の実現とは・・・人の夢の実現 」ということを以前の日記で書いた。このところの福祉事業の進捗から、改めて人の能力とは何かを考えさせられている。217名の入居者(利用者)と、それをお世話する職員95名。文字通り日本一大きいケアハウスが誕生する。95名は、すべて新規採用だ。この施設の理念が理解できなければスタッフにはなれない。高齢者が何を夢としているのか・・・私たちがどのような理念でこの環境を創り上げてきたのか・・・このことが正しく理解できない人はここのスタッフにはなれない。いや、なってもらってはこまる。自分だけが満足する夢などというのはそもそも存在しえない。もし、ありもしないそんな夢を追っかけていたとしたら、思い惑う人生になってしまうだろう。その行為は、夢の真実の意義に近づく行為ではなく、ひたすら手段の追っかけに心を奪われているにすぎないからだ。目的なき手段は迷走する。目的なき夢など、そもそも成立しない。何をおいても、人間は、人の夢の実現を果たすために生まれてきたのだ。絶対創造主から、人のお世話をする使命を与えられて生まれてきたのだ。そう理解したほうが、色々と整理がつく。人間に与えられたそれぞれの人間力とは、自分の精神を鍛える!などと自分に向けられるものも確かにあるだろう。しかし、もう一方で自分以外の人の夢の実現を果たす使命、というほうへ向けられることも大切ではないだろうか。いわゆる「人を幸せにする能力」というものだ。家族を幸せにする能力。社員を幸せにする能力。顧客を幸せにする能力。社会を幸せにする能力。「夢の実現」とは、能力の大きさだ。能力とは思いの強さを表す。私は、2年以上もかけて一大プロジェクトの立ち上げに参画してきた。この期間はまったく説明がつかないくらい過酷なものであった。建築家としての私を支えてくださっているたくさんの方々にも理解しえない時期であったかもしれない。後に理解していただける時がくるだろう。私の心を支え続けていたものは、この福祉プロジェクトにおいて、この事業を待ち望んでおられるたくさんの高齢者の方々がいらっしゃことだ。そして、その高齢者をお世話することを使命としておられる方々の夢でもある。この方々の夢の実現を図らなければならないという頑とした思いが私を支え続けてくれた。プロジェクトに関係する者は、ひとつの目的に向かって進んでいる同志だ。この2年数ヶ月の間に、硬い絆で結ばれた。思いはひとつ。「人の夢の実現」だ。起業家や企業家に問われるのは、「人を幸せにする能力」だろう。このプロジェクトに参画しあらためてそう思う。それは、経営力であろうし、企画力であろうし、実行力であろうし、伝達力であろうし、粘り強さであろうし、説得力であろうし、高度なテクニックであろうし、精密な世界への探求であろうし、思いやりに満ちた関わり方であろう。つねに意識すべきは、自分自身に「人を幸せにする能力」があるかないかだろう。大切なキーワードをひとつ。このケアハウスに入居する高齢者も、お世話を受けるだけではなく、入居したときから、改めて、「人の夢の実現を果たして行く人生」が始まる。
2007/10/08
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景13 】------------ テレビ世界衛星中継我が家にテレビがやってきたのは、小学校3年生のとき(昭和36年)だったかな。それまでは、もっぱら近所の大学教授の家へ押しかけて見せてもらっていた。テレビがやってくるまではみんなでラジオを聴いていた。ラジオは、大きなレトロな箱で、スピーカーのところは布が張られていて、そこから出てくる音声に神経を集中して聞いた。晩御飯のときには、連続ドラマをやっていた。若かりし十朱幸代 (とわけゆきよ)などが出演していたが、後に録音ではなく生実況中継であることをしり驚いたものだった。病気で学校を休んだときなどは、昼間のラジオ番組を聞いて過ごすのだが、これが結構刺激的だった。テレビがやってきて、ラジオがいついなくなったのかは覚えていない。テレビはすぐに世の中を制覇した。色々好きな番組があったが、アニメですきだったのは鉄人28号であった。ドラマ版鉄人28号もあったが、ドラマ版では2種類の鉄人28号の番組があり、ひとつは空を飛ばないバージョン、もうひとつは空を飛ぶバージョンだった。私が好きだったのは空を飛ばないバージョンのほうだった。なんとも言えず、そのマシーンさにそそられていた。当時の子供たちはみんなすっかり鉄人28号になっていた。テレビは、もちろん白黒だった。何でも画面が大きく見えるとかでトツレンズのような奇妙なフィルターをブラウン管に付けるのが流行っていたのだが、斜めから見るとゆがんで見えるので、子供心にこれを付ける意味がさっぱり分からなかった。ある日、兄とけんかをしてそのレンズを割ってしまったのだが、プラスチックが割れて中から水がこぼれ出た。程なくカラーテレビが売り出されたが、白黒からカラーテレビへの我が家の変わり身は結構早かった。当時のカラー画面は、茶色ともウグイス色とも言えぬ微妙な色合いで、原色に近い色はそれなりに見えてはいたが、とてもリアルな見え方ではなかった。我が家にテレビがやってきた年の夏休みだった。お昼過ぎに遊びから帰った私に母が言ったのは、ケネディー大統領のことだった。ダラスでの出来事が世界に衛星中継されたのだ。もうひとつの衛星中継は、1967年6月25日、ロンドンのアビーロード第一スタジオで「オールユーニーディ-スラブ」を歌うビートルズだった。歌うジョンと演奏するポール・ジョージ・リンゴの姿が世界同時衛星中継で映し出された。確か「アワ・ワールド」とかいう番組だったように記憶している。日本中の家庭が見たといわれている。おそるべしビートルズ。子供心に何かを感じたのだが、その後の私はビ-トルズとともに人生を歩んでいる。 写真は、当時のビートルズ(参考写真)
2007/10/07
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景12 】------------ 行商 昭和30年代は、色々な行商がやってきたものだった。竿竹売り 野菜売り 魚売り 焼芋屋 豆腐売り アイスキャンディー屋 金魚売屋台のラーメン屋 醤油配達 あんまさん(行商とは言わないが)ま~なんであろうが、往来には色々なものを売る行商人がたくさんいたものだった。中には、小学校の校門前でいかがわしいおもちゃを売っているおじさんもいた。レントゲンスコープとかいうおもちゃで、筒先の穴からのぞいて、目の前の人を見ると、なんだか骸骨が浮かんで見えていて、子供たちはすっかり信用してしまった。金額は忘れたが、安かったのでみんなが買ってお互いを見て「お前の骸骨が見えるぞ~!」と狂喜乱舞していた。ある日、歩いているときにスコープが落ちて踏んで割れてしまった。中から出てきたのは、鳥の羽根であった。羽根を通して見ることでそのような画像となったのだが、それでもなお、「羽根がレントゲンになるんだ!」とおめでたく騒いでいたやつもいた。わが町にスーパーマーケットが出現したのは昭和40年代の初めからなので、それまでは街は野菜売りや魚売りの行商のおばさんたちがよく見られた。最近でも見かけるのは、花売りのおばさんと魚売りのおばさんかな。ある地域の花売りのおばさんたちは、昭和50年代までは、全国の町に繰り出していたらしい。花で財を成したと聞いている。今でもボタンや盆栽を背負って町を歩いている姿が見られる。 写真は、魚売りのおばさん(参考写真)
2007/10/06
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景11 】------------ 祭り子供のころのお祭りというのは実に不思議な体験だった。最初に出会ったお祭りは佐太神社のお祭りだった。たしか昭和33年ではなかったかと思うが、大橋川にかかる大橋のふもとの桟橋から合同汽船に乗って、母と佐太神社へお参りした。船でのお参りは、とても風情のあるものだった。武内神社のお祭りは夏休み最後の日(8/31)に行われるため、その夜は泣きながら夏休みの宿題を仕上げるのが、子供のころのお決まりだった。白潟天神のお祭り、売豆紀神社のお祭りは、どちらも近所でもあり、とても身近なお祭りだった。文化の日に行われる鼓行列(どうぎょうれつ)は色々な町内が参加し、松江城の大手前広場に終結するという、子供にとってはとてもエキサイティングなお祭りで、綱を引くのが楽しみだった。今は旧市内の町内の子供が激減したため、お祭り自体が成り立たない。そのため、最近では松江市周辺から子供たちが派遣されてくるらしい。私たちのころは、ひとつの小学校に千人以上の生徒がいたため、祭りに参加することも難しい状況であった。日本の3大舟祭りである「ほうらんえんや」を初めて見たのはたしか高校1年生の時であった。その前のときの記憶は残念ながらない。12年に1回行われるこのお祭りは、まるで絵巻の世界のようだった。 写真は、ホーランエンヤ(参考写真)
2007/10/05
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確信が持てたとき昨日は、久々に友人の起業家と長話をした。このところ、福祉事業の手続きなどで時間が取れなかったが、彼が新装オープンするショップを訪ねての久々の会話となった。お互いに、創業して5~6年というところや、事業の立ち上げなどの状況がよく似ている。お互いに、今まで色々なことで悩み、頭をたれ悩みまくったときもあったが、ようやくここまでたどり着けた・・という心境だ。以前の悩みと、現在の悩みは、同じように見えるが、実はまったく違う。ステージがあきらかに違っている。以前の、発展途上で先行きが見えない状況での悩みの時は、ネガになってしまうことも多かった。しかし、今は、目の前のステージが見える。すでにステージの上に載っているのが分かる。たとえれば、東京行きの電車に乗り、いよいよ動き出した、という状況だろう。間違いなく乗っている。だとすれば、電車の中で座っていようが、悩んで走り回ろうが、いずれ必ず東京に着くのだ。という感じかな。だから、彼はショップというレールを走り出したし、私は、2年数ヶ月前から、ひたすら新しい福祉理念の企画立案に参画し苦悩の海のまにまに身を任せてきた。無から有を生む作業の連続だった。誹謗中傷も受けてきた。経済的にも追い込まれた。私は、この事業が歴史的意義のある事業であることを確信していた。だから、誰にも、私の意志を曲げることはできない。そして・・・今、まさに事業が現実のものとして表れてきた。企画立案の中で理念が明確になり、諸官庁のコンセンサスも得られ、実施設計も終え、建築確認申請を提出し、建築工事の業者選定のため入札に向けての業者への現場説明と図面渡しも終えた。今月末には業者も決まり、来月中旬には着工となる。次のステージの活動を開始した。私が手がけてきたこの事業を知っていただきたいと思い、各方面で事業の理念や概要をまとめた資料をプレゼンした。図らずも講演の依頼を受けた。大きなイベントのメインステージで、この事業の理念と概要のプレゼンの機会を与えられた。さらに、プレゼンを聞いた方が県外に投げかけられ、早速県外からの講演依頼の照会が届いた。・・・やはり、間違いない。今までにない理念の事業だからこそ、産みの苦しみも大きかった。我々は確信を持っている。いや、これからの福祉事業のあり方はこれしかないと思うくらい確信をもっている。従来の福祉施設は、管理側中心の概念しかない。つまり病院のような管理主導だ。私たちは、施設ではなく「街を創る・・コミュニティを創る」という理念で構築していった。設計は、まさしく町づくりそのものであった。確かな確信を胸に、いよいよ新たなステージが始まった。
2007/10/04
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景10 】---------- 駄菓子屋 昭和30年代には、当たり前のように各町内に駄菓子屋があった。松江市で今日まで残っている駄菓子屋は、白潟天満宮の境内にある駄菓子屋くらいであろうか。ここのたこ焼きは一舟200円で今でも評判がよいようだ。昭和30年代の駄菓子屋にあったものといえば、煙硝のピストルや、2B弾(ニビーダンなどという火薬もの。今はまったく影を潜めたが、昔は煙硝をパンパン鳴らしながら町内を駆け回ったものだった。2B弾は2本で1円だったが、昔は、山の中や田んぼや裏通りなどで、やたらと爆裂音がしたものだった。一升瓶に2B弾を入れてふたをすると、一升瓶の底のガラスがきれいに円形に離れた。中には、かえるやカミキリムシを一升瓶に入れて爆裂させるのもいた。ペッタンやこっつんなどの紙ものや、ビーだまなどのガラスもの。独楽(こま)もはやったが、松江ではベーゴマは流行らなかった。ペッタンは、低学年の時には買えばとられるという有様だったが、やはり悔しさは武器になるのだろう。中学年以降は、しまうところにこまるくらい取りまくった。変わったところでは、紙にチクロやサッカリンなどの着色甘味料が塗られたものを噛んでいた。紙キャンデーとでも言おうか。これも2枚で1円と、当時でもリーズナブルで舌を黄色や赤に染めて噛んでいた。ニッケは根っこの塊のようで、これもみんなで噛みながら遊んだ。当てくじは、もともと1等の当たりくじがないことくらいは、小さな子供でも先刻承知していた。飴やガム、わけの分からないニッキ味のジュウスもよく飲んだ。野球選手やテレビのスターのブロマイドも流行っていた。それこそ月光仮面や白馬童子、赤胴鈴の助、少年ジェット、七色仮面、怪傑ハリマオ・・・女優のブロマイドもあったが、当時は子供だったので、いたって興味がなかった。 写真は駄菓子屋(参考写真)
2007/10/04
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餅屋は餅屋私の解釈が間違っていなければ、餅のことなら餅屋に任せる、つまりプロに任せるということではないだろうか。今までにない理念の福祉事業を立ち上げてきたが、関係者といよいよ完成した実感を感じているこのごろだ。いよいよ、全国へ、福祉理念を伝えていくときが来た。福祉理念を広めていくビジネスと言おうか、建築家として広めていった理念が各地で現実のものとなるお手伝いをしていかなければならない。いわゆる、餅屋になったのだ。新しい福祉のことなら建築家コムースに聞け!と言われる餅屋になるのだ。
2007/10/03
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福祉事業 最終事業計画書 完成10/1~10/2の二日間で、福祉事業の入札にともなう現場説明および図面渡しが終了した。今回は一社ずつ説明する方式であったため、相当の時間を要した。この物件は、今までにない理念の実践であることや、日本最大のツーバイフォー工法の採用ということなど、特殊要因もあり、そのため今回指名した業者には大きな期待を持っている。確認申請の提出が終わり、今回、入札に伴う業者指名と図面渡しも無事修了した。次の行程が待っているが、つつがなく進んでいくだろう。この事業の最終事業計画書が完成した。昨夜、クライアント(施主)と午前1時過ぎまで資料の精査を行い、完璧なまでに仕上げた。これからこの資料でさまざまな方面へプレゼンすることになるのだが、本日、早速、よい反応が返ってきた。この資料は関係者のプロトコールでもある。施設環境、福祉システム開発、運営サイド、教育サイド、そして役員が共有することにより、この事業が磐石なものとなった。つまり、これでどこを切っても同じ血(智)が流れる。いよいよ全国展開が始まる。福祉理念を広めていくというビジネスだ。理念を提供するビジネスはおそらくはじめてのことだろう。
2007/10/02
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景9 】------------ 松江市公会堂 百貨店の屋上から見た松江 松江大橋 現在の島根県民会館が建つ前は松江市公会堂が建っていた。松江市公会堂は、昭和40年代後半に取り壊されたが、その趣といい、まさしく昭和の建築であった。戦後の復興期に建てられたのだが、大正デモクラシーと昭和初期の様式を残す建築は、いたるところに漆喰塗りのレリーフがあるなど、田舎の懐かしい風景のごとく印象的な建物であった。今でも懐かしく思い出される。昭和30年代の後半、小学生なのに父に連れられ幾度となく歌謡ショーを見に行った。建設業だったためか無理やり入場券を買わされたのだろうか、あるいは好きで見に行ったのか、畠山みどり、美空ひばり、橋幸夫、田端義夫、島倉千代子、弘田三枝子、などなど。先年、ある機会に畠山みどりさんにお目にかかることができたが、当時のお話をしたところ、小学生が来ていたとは思わなかったとおっしゃっていた。その後、同じステージに小学校の合唱団の一員として舞台に上がった。舞台から見る客席は、思った以上に観客の顔がわかるものだなと思った。公会堂の隣の百貨店の屋上から見ると、北西から西方面(島根大学から学園方向)は、すぐ田んぼが始まっていて、その中に陸上競技場と野球場があった。私が住んでいたのは松江市の南の町なので、この辺りはめったに来ない町ということもあり、まるで遠い世界のパノラマを見ているようだった。今の学園あたりであろうと思うが、田んぼに船が浮かんでいるのを覚えている。田んぼには道らしい道がなかったため、船で行き来しなければならなかったらしい。その田んぼの向こうに木造の校舎群が見えた。島根大学だ。おそらくまだ松江高校と呼ばれていたころを見たのではないかと思う。百貨店の屋上の、10円を入れて見る望遠鏡の中に写る街並みは、木造の建物がほとんどだった。目の前の島根新聞社の建物は、西洋様式のとんがり屋根で、結構好きな建築だった。百貨店の帰りはいつも、松江赤十字病院近くの堀の上に建てられていたラーメン屋「むさしの」のラーメンが定番で楽しみだった。そして大橋をわたって家路についた。 写真は松江大橋の夕景
2007/10/02
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【 思い出綴り 昭和30年代の風景8 】------------- 近所の棟梁(とうりょう)さん 昭和30年代までの家づくりは、近所の棟梁(とうりょう)さんに相談するところから始まる。現在は多様化した生活パターン(あるいは商品として与えられたパターン)の中で生活を営んでいる状況だが、その頃の生活様式は設計的に見れば限られたパターンの中でつくられていたように思う。これは一見自由がないように思われるのだが、その根底には地域文化を大切にする心があり、とても豊かな界隈(かいわい)で情緒というものがあった。棟梁さんは色々な職人を呼び寄せた。左官さん、ペンキやさん、瓦屋さん、などなど、棟梁さんが差配しながら家づくりは進んでいく。工務店なるものが表に出始めたのは昭和40年代からだ。それまでは棟梁さんがまとめ役となり、工事はそれぞれの職人さんが施主から個別に注文を受ける形だった。棟梁さんは、自分の大工工事の代金しか受け取らない。この仕組みを支えていたのは、職人としての誇りとやりがいではなかったのか。小さい頃近所の家の建築を目の当たりにした。家は基礎の段階で見ると、子供の目でも小さく見える。5人家族なのにこんな狭い家で暮らすのかと思った。学校から帰ると、そこにとてつもなく大きい家がそびえていた。柱、梁(はり)が組みあがり、屋根の野地板(のじいた)まで張ってあった。木の香りが町内に新たな風景の誕生を告げていた。近所の棟梁さんは町内の顔役だった。この親父は、息子でもない私を親のごとく叱った。いや、叱ってくれた。あの棟梁の厳しくもやさしい人柄が思い出される。 写真は、宮大工の名工 西岡常一氏
2007/10/01
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