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2/28(月)強迫観念な生活に逆戻り ◎いろいろ仕事が混んでおり心理的にはいらいら状態が続いているのですが、森田理論とその実践・この「あるがまま」日記のおかげで気分は爽快です。(^^)【1969年の回想 続き】このように世の中は今以上に騒然としていた中に私はただ一人自分の殻に閉じこもって自分の強迫観念と格闘していました。本を読んだだけではだめなんだなあと思い始めました。水谷先生に手紙を書こうとは思ったのですがなかなか実行できませんでした。実際に書いたのはその1年後になります。1969年の日記は8月初めで終わっています。日常生活はまあ、上に書いたことの繰り返しでした。ただ、8月5日になりますが、たった一度だけ精神科か神経科の医者に相談したことがあります。このことについて述べます。Those were the days.● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴)EOF
2005年02月28日
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2/27(日) 大学5年生になって◎2月ももう終わりですね。今日は半日かかって各集談会に送る文書の作成と封筒への封入をしました。作業としては苦手な分野でかなり時間がかかりました。【1969年の回想 続き】1969年4月、私はめでたく(?)大学5年生となり(つまり留年)、もう一年大学院をめざすことになりました。しかし、私はまだ立ち直りのきっかけをつかんだだけで、まだ日常生活や勉学が円滑には進みませんでした。相変わらず強迫観念はかわるがわる私を襲ってきます。そのたびに勉強を中断してしまうのでした。森田療法の本を何冊も読んで、からくりはわかっているつもりだったのにこのざまです。その上、世情は騒然一色、この年の1月に東大闘争が終結しましたが、東大の大学入試は中止となりました。東京を中心に多くの大学が紛争のまっただ中、ベトナム戦争はますます激しさを加えていました。政治や大学闘争にほとんど無関心だった私はただひたすら自分の観念をなくしてしまうことばかりに気を取られていたのです。そして5月、大学は「大学立法」をめぐって騒然となり、本部が反日共系の学生たち(たしかストライキ実行委員会=スト実、と言っていたようですが)に占拠されるという事件が起きました。物理学の講義も休講になることがしばしばありました。しかし、どうしても学生運動になじめず下宿に帰っては悶々とする日々が続いたのです。Those were the days.● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴)
2005年02月27日
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2/26(土) 水谷啓二先生のことー一粒の麦2/18の日記に、「自覚と悟りへの道」(副題:ノイローゼに悩む人のために)の冒頭に出てくる「ある強迫観念者の告白」という手記を一気に立ち読みしたというくだりがありますが、書かれたのは水谷啓二という人で、当時共同通信の論説委員で、かたわら自宅を神経質症に悩む人たちのための寮として解放してみえました。生前一度もお目にかかることは出来ませんでしたが生涯の師とひそかに思っています。森田先生に出会って立ち直りのきっかけをつかんだ水谷先生、そして全治後は後進のために自宅を解放するするという自己犠牲の心、私は、高校時代からあこがれていた「一粒の麦」に出会ったような気持ちでした。いつか自分も「一粒の麦」になりたい。・・・当時、そう思いました。Those were the days.● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)EOF
2005年02月26日
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2/25(金) Those were the days.--なつかしいあのころ◎ 昨夜、生徒の成績を付けた。生徒毎に試験の点数や評価点を記入した表(EXCELで作成)を印刷(タイトル行印刷)しようとしたがどうしても出来ない。四苦八苦の末ようやくやり方がわかった。午前3時から2時間もかかって印刷した。終了5時。仮眠2時間。でもいい授業が出来た。当時、「悲しき天使」という曲が流行っていました。歌っていたのはギリシャ生まれのヴィッキーとイギリスのメリー・ポプキン。ヴィッキーはすでに大歌手でしたがこの曲に関しては、日本ではメリー・ポプキンに軍配があがったようです。原題が“Those were the days.”ー「なつかしいなあ、あのころ」とでも訳しましょうか。若い日々をなつかしく回想するもの悲しい名曲です。久しぶりにその曲を聞きながらこれを書いています。さして楽しいことのなかった大学生活。キャンプ・アイスクリーム・合コン・デート、そんなものにはほとんど無縁でただひたすら強迫観念と闘う毎日。その大学の卒業式の直前に巡り合った森田療法の本の数々。まさに偶然としか思えません。なんと幸運な偶然。3月14日と3月18日から21日までの5日間は、まさに「黄金の5日間」、今でも心の中にきらきら輝いています。Those were the days.● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月25日
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2/24(木) ようやく森田の本に出会う その8(「神経質問答」)※以下の日記は、読みやすいように数行毎に段落を付けてあります。漢字や言い回しは原文のママです。なお、3/21分はその前の日の3/20と連続して書かれたもので主に3/21の未明から朝にかけてのことです。【1969年3月21日(金)の日記】夢の中で私自身や森田氏らしい人物、その他の人々がグルグル回っていた。そして目がさめたとき私の目には涙が溜まっていた。私は眠りながらあるいは眠りからさめる直前に泣いていたらしい。私はもう一度夢の中のことをじっと思い返したりノイローゼそのものを考えたり読んだ本のことを考えたり森田療法の中で森田氏が説いていることを思い出してみたりした。熱はまだ残っており全身がだるかったにもかかわらず私の心は実にすみきったそう快な状態にあった。そう気づいた時私は私のノイローゼがもう治ったのだと思った。その時涙がとめどもなく流れた。時にはおえつの音さえ出そうなくらいに。私はさからわなかった。涙が出るままにゆだねておいた。私の心はすみきっていた。「伊豆の踊り子」の最後の場面、主人公の泣く場面の彼の心情がわかるような気がした。(注:ここでどうして「伊豆の踊り子」が出てくるのかわからない。状況が全然違うので。中学校で読んだこの小説がよほど心に残っていたものと思われる。)ノイローゼの苦しみから完全に自由になる日も近くだろう(注:「近いだろう」の誤記と思われる)と思うとうれしい。(後略)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月24日
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2/23(水) 名古屋水曜集談会に行ってきました◎今日は大ファンである中島みゆき姫の53歳の誕生日。皇太子殿下の誕生日でもあることに気がつきませんでした。明日と思っていましたので。失礼いたしました、殿下!<(_ _)生活の発見会の名古屋水曜集談会に行ってきました。午前10時から午後3時20分まで。いつもより20分も延長してしまって、夕方他に予定のある人をあわてさせたのは申し訳なかったです。Iさんが派遣講師としてきてくれて「感情の法則」と自分の体験談を語ってくれました。「日記を付けることによって心の転回点を得た」というくだりは特に印象的でした。σ(^_^)もいろいろ書くことによって自分の思っていることを整理整頓し客観的に見ることが出来ました。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という経験もしばしばあります。帰路、IさんとJR高島屋の三省堂に寄り、数学や哲学の本を見て回りました。数学は少し新しい本が出始めていました。新学期を意識してのことでしょう。そう、春は学び始めの季節でもあるのです。それにしても「リーマンの論文集」が出たのには驚きました。日本語でリーマンが読めるというのがキャッチフレーズ。日本もまだまだ捨てたものではありません。チョムスキーの本を手に取ってみました。先人たちが言語でたいへんな苦労をしていることに感動し、それにくらべて自分がいかに傲慢であったか改めて思い知らされます。森田療法の本は新しい本を中心に10冊ほど並んでいました。昔読んだ「自覚と悟りへの道」はありませんでした。いい本なんですけどねえ。● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月23日
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2/22(火) ようやく森田の本に出会う その7(「神経衰弱と強迫観念の根治法」)◎がん保険の見直しについて保険外交員の武●さんと打ち合わせ。採点はアップしたものの成績台帳への転記をさぼって他事ををやってしまった。※以下の日記は、読みやすいように数行毎に段落を付けてあります。漢字や言い回しは原文のママです。【1969年3月20日(木)の日記】午前3時ごろ目を覚ます。寝入ったのが2時だから1時間しか寝ていないことになる。そのまま「神経衰弱と強迫観念の根治法」を読んで朝を迎えた。そしてそれをも読んでしまった。9時ごろから勉強を始める。久しぶりにドイツ語もやる。初めてロシア語の勉強もやる。しかし、微分方程式の勉強はやらずに終わってしまった。(注:本来優先してなすべき数学や物理学の勉強を後回しにしてまず語学の勉強を始めるあたり、逃避的であって目的本位でないことがわかります)3時ごろ学校へ出かけメシを食い、書籍部でロシア語のラジオテキストを買うが、このころから腰が痛み頭が熱っぽくなってきたが、にもかかわらず物理研究室へ出かけ、●沼さんと少しくしゃべる。やわらかい雨が午後からずっと降っている。今日はN大の合格発表日。N大へ向かう多くの受験生とすれちがいつつ本山へ行き、本山堂で「神経質問答」「神経質の本態と療法」を買ってくる。6時ごろ帰ると、すぐ床をひいて寝る。熱が38度もあって全身にだるさを感じる。8時すぎまで「神経質問答」をずっと読んでいて、それからいつの間にか眠り込んでいた。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月22日
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2/21(月) ようやく森田の本に出会う その6(「自覚と悟りへの道」)◎昨夜は深夜まで、というか未明まで採点業務。そのまま3時ごろ、机で眠ってしまった。起きたのが6時過ぎ。風邪を引かなければよいが。この日記を書いて朝風呂に入ったら少し仮眠を取ることにした。※以下の日記は、読みやすいように数行毎に段落を付けてあります。漢字や言い回しは原文のママです。【1969年3月19日(水)の日記】朝、7時ちょっと過ぎに目を覚ます。1時間ぐらい「自覚と悟りへの道」を読み、とうとう全部読み終えてしまった。この時、私の心を支配していた強迫観念をどう処理すればよいか、がおぼろげながらわかって来たように思った。つまり、強迫観念に自分をゆだねてしまって、さからったり征服しようとは思わないことである。それはフレンケル(注:オーストリアの精神医学者でロゴテラピーを提唱し、意味への意志を強調したたヴィクトル・フランクル氏のこと)の言うところの「運命の甘受」である。森田氏の強迫観念の治し方の第一歩として、「苦しみをあるがままに受け入れて苦しむ」ことを患者に教えるが、オーストリアのフレンケルと日本の森田のふたりの考え方には共通する点があっておもしろいと思った。正直を言うと、森田氏の主張はひょっとして世間にザラにあるインチキの一つではないかと思ったが、この本を最後まで読んでみてそれが全くのまちがいであることがわかったのである。バイト(当時、家庭教師のアルバイトをしていた)から帰ってからも「神経衰弱と強迫観念の根治法」を読んでいる。イヤイヤながら今夜はねることにした。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月21日
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2/20(日) ようやく森田の本に出会う その5きょうは午前9時から午後3時まで仕事、午後少々採点業務。夜新婚旅行から帰ってきた長男夫婦と次男とその婚約者それに妻の6人で夕食会。妻が上機嫌だ。夜、また採点業務。※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですので、会話調の箇所がところどころあります。ご了解ください。久しぶりに当時の日記を取り出してきた。幸いなことにこの前後日記をつけており、行動のあらましを知ることが出来る。それによると、この日(3月18日)は夕方下宿(当時、名古屋の本山というところに下宿していた)に戻り、まずほかの小説を読み出し、夜、「自覚と悟りへの道」を読み始め、おもしろくて12時ごろまでぶっ続けで読んだとある。この日は午前1時ごろ就寝したようだ。次回に、3月19日から数日の日記を公開しようと思う。森田療法との最初の出会いのことがかなり詳しく書いてある。日記の中の日記というわけである。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月20日
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2/19(土) ようやく森田の本に出会う その4※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですので、会話調の箇所がところどころあります。ご了解ください。森田療法の本を買うのに自分のノイローゼを本屋の店員に知られるのがいやだったという人は多いようです。これは後日談ですが、水谷啓二先生の啓心寮で元気になられ、外交官としていろんな國の大使を勤めたのち現在は関東地方のある大学の教授をされているH氏もやはりそうであったようで、私が参加した啓心会日曜集談会(今からもう35年も前のことですが)で、次のようなエピソードを紹介されたことがあります。H氏は森田療法の本を買うのに、本屋の店員に「これは知人から頼まれたものだから領収書をくれ」と言ったそうです。本当は自分が読むためのものですから、そんなものは要らなかったのですが。う~ん、どうでしょう。「都合の悪い」本を購入するときに使えそうですね。少なくとも私の「浅知恵」よりは数段上でした。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月19日
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2/18(木) ようやく森田の本に出会う その3今日は「雨水」でしたか。暦の通りここ数日よく雨が降ります。それだけ暖かいということでしょう。この日記、今日で満1ヶ月になりました。三日坊主は何とかクリヤーしたようです。※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですので、会話調の箇所がところどころあります。ご了解ください。さて、前の日の日記の繰り返しになりますが、3月18日(火)、あの本を買おうとしてその本屋さんに入ったのですが(たしか午後2時ごろだったと思いますが)、「自覚と悟りへの道」(副題:ノイローゼに悩む人のために)の冒頭に出てくる「ある強迫観念者の告白」という手記を一気に立ち読みしてしまいました。「これは誰のことを行っているのだろう、他ならぬ自分のことではないか」と思ってしまったくらい感動し、のどはからからに渇き、足はがくがくしていました。(追記: この体験記を読んだのは3/18ではなくて3/14だったような気がしますが、今となってはどっちでもいいようなことかもしれません。たぶん、3/14に初めて読み、3/18に改めて読み返したもののようです。)それで、直ちにレジにいってその本を買うのかというと、前述のようにノイローゼとか神経衰弱などという用語が本の表紙に踊っているような本は、本屋さんの店員に自分のことが知られるのがいやでいやで、とうとうその本を持ったまま、1時間半も買おうか今日のところは止めておこうかと迷ったものでした。そのとき、はっと「浅知恵」に気がつきました。それは買おうとした「自覚と悟りへの道」と「神経衰弱と強迫観念の根治法」の両端を別の本2冊ではさんでレジへ持っていき、カモフラージュしてレジへもっと行くことでした。つまり、特別読みたくもない本を別に2冊買うことにしたのです。しかしこれは全くの愚かな判断で、店員さんは別段何の感慨もなく「機械的に」1冊1冊表紙と値段を確かめながらレジに打ち込んだだけでした。ほんの1、2分のことなのにあれほど買おうかどうしょうか悩んだのがばかみたいでした。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月18日
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2/17(木) ようやく森田の本に出会う その2※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですので、会話調の箇所がところどころあります。ご了解ください。** どうも昨日の日記は森田の本と出会うこととは何の関係もない自分の大学時代のぐち話を長々と書いてしまってすみませんでした。この部分はいずれ編集して別のところに移します。さて、そのような生活を続けたあと、1969年(昭和和四十四年)の三月なんですが、本当なら大学を卒業する月になるんですが、留年、まあ落第ですね、が決定しまして、他の学友たちが民間会社に就職したり学校の先生になったり、あるいは大学院に進学するために巣立っていく、その卒業式が後一週間と迫った日に、本屋でまったく偶然に森田療法の本に出会ったわけです。症状にとらわれはじめてちょうど6年たっていました。当時日記をつけていまして、それによると、はじめて本に出会ったのが3月14日、実際に購入したのは3月18日です。5日間も買おうか買うまいか迷ったのです。ついに意を決して買った本は、だいぶ古い本なんですけど、「自覚と悟りへの道」とか「神経質問答」とか「神経衰弱と強迫観念の根治法」とか「神経質の本態と療法」とかの本だったんです。当時を思い起こしてみますと、ノイローゼだとか神経衰弱とかというのが本の題名にあるわけなんで、それを本屋の店員に知られるのが本当にいやでして、買おうか買うまいかどうしょうか迷って4日間もぐずぐずしたのをきのうのことのようになつかしく思い出します。最近の本の題名ですと、「心の再発見」とか「森田式精神健康法」などというようにあまり買うのに抵抗がないような感じがするんですけども、その辺はお書きになった先生がちゃんと心得ておられたんじゃないかなあと思っております。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月17日
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2/16(水) ようやく森田の本に出会う その1さて、話があっちこっち飛んでしまいましたが、以下の話は2月8日の話の続きになります。※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですので、会話調の箇所がところどころあります。ご了解ください。このように強迫観念との闘いを高1の冬から延々大学4年の3月まで続けた末にようやく森田療法の本に出会うことになります。大学での専攻は物理学(物性論)でしたが、このときは、勉強の意欲はとうの昔にすっかりなくなっていて昼夜あべこべの生活が続いていて、まともには講義も実験にも出席せず、社会に出て働こうという意欲もなくて八方ふさがりの中で、毎日ふとんをかぶって悶々としていたわけです。数学恐怖症で苦しんでいた高校時代。それでも何とかしてそれを克服して数学の研究者になりたいとひそかに思っていた私はかろうじて地元のN大学理学部に合格できました。理学部は2年の後半に3年からの専攻として数学・物理学・化学・生物学・地球科学のいずれかを専攻することになっています。私は、はじめは数学科を選ぶつもりでしたが数学の強迫観念はますます強くなりもう数学と言う言葉だけで予期恐怖を起こすようになり、また、教養部時代の指導教官(物理学者)から、「数学ではつぶしがきかんぞ」という助言にぐらつき、結局数学をあきらめ物理学を専攻することにしました。しかしこの選択は生涯屈指の大失敗でして、あのまま数学科に進んでいたらかなり今とは違った人生になっていたのではないかと思っています。後の祭りです。(選択したのは自分です。決してあの指導教官を恨んでいるわけではありません。念のため。)物理学の大学院入試にあっさり失敗し留年してもう一度挑戦する事にしましたが相変わらず勉強恐怖で数学も物理学も本を開くことができません。そのようなもうにっちもさっちもいかないときに、森田の本と出会いました。これは全くの偶然としか言いようがありません。振り返ってみると人生には悪い偶然もあるが幸運な偶然も同様にあるようです。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/EOF
2005年02月16日
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2/15(火) はじめての強迫観念 「軌跡」 その4※ 以下の記事は数学大好き少年だった時代についての体験です。読み返してみてずいぶん自慢話をしているなあと実感していますが、事実は少しも曲げていませんのでそのままアップすることにしました。ご了解ください。高1から高2にかけての春休みは、強迫観念にとってその勢力・強度を大きくする絶好の期間となりました。私は、相変わらず軌跡の証明法について完全な理解感を得ようとして絶望的な闘いをしていました。そう、それはまさに頭の中の戦争で、人にはぼんやりしているようにみえても、頭の中はせわしくいろんな考えが走り回っていました。春休みは、どの学年の学生も宿題もなく自由な時間の多い休みではないでしょうか。私はこの春休みに徹夜のくせを覚えてしまい、すっかり夜型人間になってしまいました(前述)。不完全理解感は軌跡の証明法に始まって次第に広がっていき、数学は私にとってどの分野も不完全にしか理解していないような感じの科目になってしまいました。大好きな英語もやはり強迫観念に苦しむことになってしまいました。徹夜でさまざまに広がった強迫観念と闘い、疲れ果てて朝方にようやく床につくのです。今でも目をつぶるとあのときの日々が思い出されます。暗さしか思い出せませんが、それは心の暗さだけではなく活動の場が主に夜だったその暗さでもありました。一年前、希望した高校に合格でき、勉学に希望に燃えた日々はいったいどこに行ってしまったのでしょうか。私は常に情けない惨めな気持ちをかみしめていました。こうして、すっかり強迫観念を固着させてしまった私は重苦しい表情のまま高2の始業式を迎えることになり、ますます暗い高校生活を送るようになってしまったわけです。その強迫観念の日々は2月6日、7日の日記の通りです。ただ、このときの唯一の収穫は春休み中にトルストイの「アンナ・カレーニナ」を読破したことでしょう。あとになると不完全理解感が強くなり読書もあまりできなくなりますが、このときはまだ読む力は残っていました。あの小説は暗い結末で終わりますが、私のその後を予感させるような暗さでもありました。これは蛇足かもしれませんが、はじめて読んだ長編小説はドストエフスキーの「罪と罰」、高校1年の夏休みのことでした。強迫観念にとらわれる前の幸福な日々にあの小説が読めたことは幸いなことで、強迫観念とは無関係の数少ない宝物です。●せっかく神経質に生まれてきたのですから、 神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月15日
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2/14(月) はじめての強迫観念 「軌跡」 その3※ 以下の記事は数学大好き少年だった時代についての体験です。読み返してみてずいぶん自慢話をしているなあと実感していますが、事実は少しも曲げていませんのでそのままアップすることにしました。ご了解ください。それまで学校の進度よりもはるかに先を進んでいた私にとって、自分の勉強が学校に追いつかれたことはちょっとショックでした。まああんな勉強法ではいずれは授業に追いつかれることは決まり切ったことですが。というのも、解けるまで何日も考えるという、先程述べた勉強法に加え、私は「チャート式幾何」のすべての問題を解こうとして、問題毎にその問題文を専用のノートに書き写し、図をコンパスと定規で描き、自分で考えた証明法をきちんと書くというものでした。それほど幾何の魅力に魅せられてしまっていたのです。幾何の授業はというと、週3回で定理の証明の解説と例題やいくつかの練習問題をやるのが精一杯で、私の方が綿密さという点でははるかに上でした。でも幾何の授業が始まってから1ヶ月も経つと、さすがに期末試験のことが頭にちらちら浮かびますので、やむを得ず自分の勉強を一時休止して、くやしいことながら教科書で軌跡の勉強というか復習をはじめました。まず、軌跡の証明法から復習しました。軌跡の証明法とは次のように2段になります。(1) 条件Cを満たす任意の点Pが定図形F上にある(2) 逆に、図形F上の任意の点Pは条件Cを満足する教科書でこのところを読んだところ、それまでとはちょっと異なる感じというか違和感を覚えました。表現には別段これといって変わったところもありませんが、どうもなんだか完全にはこの(1)・(2)を理解できていないような気持ちにおそわれたのです。どうも心にしっくりこない・・・そんな感じでした。分かった気がしないからもう一度そこを読み返します。やっぱりしっくりきません。もう一度、もう一度・・・こうして何回読んでも不完全理解感を払拭することができません。どれだけ読んでもだめで、こんな感じははじめてのことでした。私は次第に焦ってきました。何とか分かろうとするのですが、どれだけ考えてもできません。こんなことを1週間、2週間、3週間と繰り返しているうちにとうとう何の勉強もしないまま期末試験に突入してしまいました。この間、不完全理解感はますます大きくなっていき、その重苦しさのため次第に勉強から自分の机から遠ざかるようになってしまいました。しかし、心の中では繰り返し軌跡の証明法はどうしてすっきり分かった感じがしないんだろうと繰り返し、そこのところを読み返し、考え直しの連続だったのです。こうして、これまでに味わったことのない敗北感・重苦しさのなかで高校1年を終えることになったのでした。(続く)●せっかく神経質に生まれてきたのですから、 神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月14日
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2/13(日) ちょっとコーヒーブレイク・・・今日は盲腸炎手術記念日(満46周年)小学校6年の2月13日は金曜日でしたが、この日私はいわゆる盲腸炎の手術を受けました。ひどい手遅れで化膿した盲腸が破裂しており膿が腹腔に広がっていました。朝、激痛のあまりトイレでしゃがみ込んでしまった私に父はびっくりしてしまい、急いでタクシーで外科病院に連れて行きました。診察した医者は、「どうしてこんなになるまで我慢していたのだ。あと一日遅れていたら命はなかったぞ。」と言われ、心臓が激しく動悸して、幼心にも死の恐怖におそわれ、「ああ、おれはこのまま死ぬんだ。」と思ってしまったことを思い出します。あと一日の差でσ(^_^)は死から生還できました。幸運な偶然でした。自分が60近くまで永らえて来たのは偶然の連続だったに違いありません。あのときのドクターには今も感謝しています。やっぱり過ぎたるは及ばざるがごとしで過度の我慢も身体によくありません。どうしてあんなふうになるまで我慢していたかというと、じつは母があのとき病気で入院中で日常生活に苦労していた父にあまり心配をかけてはいけないと思って我慢に我慢を重ねていたのです。盲腸はもう1月の半ばごろから悪かったのです。1ヶ月も我慢したあとの手術。24時間の飲めず食えずのあとのさかずき一杯の水をはじめて許されて飲んだときのおいしさといったらなかった!!私は今でも一番おいしいものは「水」だと信じています。また、クリスチャンが忌み嫌う13日の金曜日は私にとって幸運な日でした。ですから、私は日にちの迷信を信じなくなりました。そして今日ある幸せをしみじみ感じます。●せっかく神経質に生まれてきたのですから、 神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月13日
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2/12(土) はじめての強迫観念 「軌跡」 その2※ 以下の記事は数学大好き少年だった時代についての体験です。読み返してみてずいぶん自慢話をしているなあと実感していますが、事実は少しも曲げていませんのでそのままアップすることにしました。ご了解ください。その大好きな数学の中でも幾何(いわゆる図形の証明問題など)の分野で起こした強迫観念についてお話ししましょう。なお、幾何という用語は最近ではあまり用いられなくなりましたが、図形の勉強というより私はこの幾何という言葉が大好きで、この言葉を見聞きするとき青春の限りないロマンを感じます。そこで身勝手ではありますが、図形の勉強とは言わずに幾何という言葉を多用します。これまた、ご了解ください。高校1年の1月、数学の幾何の分野でとうとう「軌跡」の授業が始まりました。私は前回にも言いましたように、中学時代から幾何の勉強が大好きだったので、中学3年の3学期が始まる少し前の冬休み、高校生が勉強する数研出版の「チャート式幾何」を買い込み、勉強をはじめていました。そのせいで学校の勉強よりはるか先を進んでいました。で、学校の幾何の授業は新鮮味がなく、いつも聞いている振りをしてこっそり自分の次の問題を一生懸命解いていました。それは幾何の授業をしていた黒●という先生がとてもつまらない授業をしていたからでもありますが、この先生はどうしても好きになりませんでした。当時かなり高齢でしたからもう亡くなられているかもしれませんが。しかし、幾何の問題を解くことはまったく魅惑的でした。新しい証明問題に胸をわくわくさせながら取り組んだことをなつかしく思い出します。ただ、私の解き方はちょっと特殊かもしれないのですが、分からない問題は解答をすぐ見て次の問題に進むということを決してせず、解けるまでで何時間も何日も考えるのです。1週間も考えるというのはざらでした。何週間も考えた末どうしても解けなくてヒントを見たり、解答を見たりしたときの悔しさは今でも覚えているほどです。そのため、学校の教科書のはるか先を進んでいたのにとうとう高校1年の1月には追いつかれ、追い越されてしまったのです。その単元が「軌跡」だったわけです。つまり、私は「軌跡」の少し手前を進んでいたのに、授業はついに「軌跡」に入ってしまったのです。(続く)●せっかく神経質に生まれてきたのですから、 神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月12日
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2/11(金) はじめての強迫観念 「軌跡」 その1体験記をしばらく休止して私が高校1年の2月(今ごろ)はじめて陥った強迫観念についてお話しします。それは忘れもしません、数学の幾何の勉強で出てきた「軌跡」の証明法についてでした。今は高校ではユークリッド幾何をたくさんはやりませんが、私たちのときは高校1年のとき1年間かけて学んだ分野でした。しかも私はこの幾何の勉強がそれこそ3度の飯よりも好きなくらい大好きでした。その大好きな数学から強迫観念が生じてそれが長い間私を苦しめることになりました。人生、まことに皮肉なものです。私の数学好きは中学1年のときに読んだ「式と図形の発展」(大矢真一著)が決定的でした。それから中学2年のときに数学を教えてくれたK先生の影響がとても大きかったです。中2以来私は大げさに言えば数学しか勉強しない毎日でした。そんな数学大好き少年が数学に関する強迫観念に苦しめられることになったのです。次回に「軌跡」のどんなところに苦しんだかをお話しします。● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月11日
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2/10(木) 学習障害(LD) と行動障害(AD)、数学日記2/8に放送されたクローズアップ現代の「学習障害」の録画ビデオをやっときょう見た。これからの生き方・考え方にとってたいへん参考になった。ところで、学習障害はLearning Disabilitiesの訳だそうだが、私の強迫観念は行動ができない(例えば、大学時代に数学や物理学の勉強ができなかった)わけだから、これは行動障害・・・Activities Disabilities、略してAD、と呼んではいけないだろうか。数学日記を久々に書く。ノートに8ページも。毎日続けることが力になる。●せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月10日
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強迫観念体験記はちょっと休止して・・・哲学タイム。昨晩から未明にかけて確定申告の資料づくり。といってもパソコンのソフトに入力する作業をずっと繰り返していたのだが。午前5時ごろ、作業が終わった。コーヒーを飲み始める。ふと、思いついて、「我思う、故に我あり」とか、「クレタ人」「パラドックス」などをキーワードにしてインターネット検索をしてみた。すると、いろんなひとがいろんな意見を述べていることが分かった。インターネットに接続してから7年半にもなるのにどうして今までネット検索をしなかったのか、不思議だ。最大の収穫は自分と同じ悩みを持っている人も居るということだ。哲学の悩みは強迫観念の悩みでもあるということが分かっただけでも今日の検索は意味があった。暖かい一日。まるで春が来たようだった。● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月09日
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2/8(火) 神経質症に苦しむ毎日 その3※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですので、会話調の箇所がところどころあります。ご了解ください。なんとかかんとか大学には入ったんですけど、入ってからも全然状況は変わらなくてむしろ、学年が進むにつれてひどくなっていったわけです。それはなぜかといいますと、1年とか2年とかの間にはとらなきゃいけない単位があるもんですから、留年しては大変だというわけでなんとかいやいやながらに授業に出るわけなんですけど、3年とか4年になりますと授業数も少なくなりまして、かなり自由時間が増えるわけなんですね。で、増えると時間を持て余しちゃって強迫観念と戦いつづけるという状況になってしまうわけです。4年になると他の学生は就職活動を一生懸命やっているのに、自分は朝8時に起きて・・・じゃなくて、寝て、昼間ずっと眠って夕方起き出してまた夜通し強迫観念と闘いつづけるという生活が多くなりましてもう、完全に悪循環を絵に描いたような生活になってしまったわけです。大体、そういうのが当時の誤まった行動とその結果になります。症状は冒頭申し上げましたように雑念恐怖とか祈念恐怖とか不完全恐怖あるんですけど、やっぱり一番その中でつらかったのは不完全理解恐怖でして、これがそれからもずっと長い間残ってきました。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月08日
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2/7(月) 神経質症に苦しむ毎日 その2※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですので、会話調の箇所がところどころあります。ご了解ください。二番目に、学校でもひとつの事柄に疑問を起こしてそれにとらわれると授業中、先生の説明をそっちのけで、それに対して頭の中であれこれはからいを行いました。頭の中で強迫観念と一生懸命闘ったわけです。そのため、授業の内容はどんどんわからなくなってしまって、しまいには学校にいくのが非常に苦痛になってしまいました。だから時々頭が痛いとか下痢だとか親にはうそを言ってずる休みをするようになったということがありました。勉強がわからなくなると学校から帰ってきても机に向かうという気持ちがまったく無くなってむしろ苦痛になってしまうわけなんですね。ついつい押入れにもぐりこんでは昼間から寝てしまうということが多くなって、そうしますと今度は夜寝られなくなって、夜通し起きていて勉強するかというとそうではなくて強迫観念と闘い続けるわけなんですね。それで、疲れ果ててしまって明け方うとうとする、そういう生活がだんだん多くなってきました。これは特に高校2年生の後半がひどかったです。朝、母が起こしても起きられず完全に遅刻の常習犯で、クラスの一二番になってしまったんですね。そっちのほうで。ひどいときには次の日の遅刻まで先生はちゃっかりと出席簿につけていました。こっそり出席簿をのぞき見したらそういうことがありまして、非常にショックを受けたことがあります。それから、そういうことがあると当然家族ともうまくいかなくなって特に弟や妹に非常に八つ当たりしまして、まあ後になって弟や妹が言うんですけど、非常にあのころはこわい兄ちゃんだったというようなことをいっています。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月07日
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2/6(日) 神経質症に苦しむ毎日 その1※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですので、会話調の箇所がところどころあります。ご了解ください。高1の冬に(ちょうど2月の今ごろです)強迫観念に陥ってから春休みまではまだ何とか生活を維持できました。しかし後期の期末試験が終わり春休みに入りますと宿題もなく自由時間がどっさり増えて、かえって強迫観念をひどく強めることになってしまいました。特に、この春休み中に徹夜の習慣がついてしまいましたが、これは失敗でした。そのために生活がどんどん後退して夜型になっていきました。神経質者はつとめて朝型人間になるのがよいようです。さて、神経質症に陥ってからの誤まった行動を具体的に一、二申し上げますと、まず勉強で不完全理解感が起こるのは言葉の勉強が足りないせいだと考えまして、日本語に関する本とか哲学の本をせっせと買い込んできては学校の勉強そっちのけで読みふけったわけなんです。ところが結果は頭を混乱させるだけで何の役にも立ちませんでした。これなんかは完全に手段の自己目的化に相当するのじゃないかと思います。高校2年生の前半はだいたいこんな生活が続きました。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月06日
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2/5(土) 神経質症におちいるまで その12※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですのでかなり会話調になっています。ご了解ください。これが数学だけならともかくとして英語だとか物理にもとらわれるようになりましたが、これらは実は私の好きな科目でありましたので、当時はどうして好きな科目に不完全理解感が噴き出してとらわれてしまうのかわりませんでした。これは後年森田を勉強するようになってやっとわかるようになりました。以上が神経質症に陥るきっかけでありまして、それ以来非常に誤った行動と後退した生活を送ることになるわけなのです。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月05日
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2/4(金) 神経質症におちいるまで その11※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですのでかなり会話調になっています。ご了解ください。それで,具体的にそのきっかけを申し上げますと、高校一年の冬に私が好きな科目であった数学の勉強をしていたある日のことです。そのとき、たった今勉強して理解したと思っていたところをどうも完全には理解していないのではないかとという観念にとらわれたわけなのです。これは生まれてはじめての感じで、それまではそういう感じはまったくなかったわけですので非常に驚きまして、これはいけないというわけで,しかたがないからそのところをもう一度勉強して次へ進もうとしたわけなのですが、するとまた先ほどの観念が起こってきてどうもまだ理解していないのじゃないかという気持ちが起こってきて、心が苦しくなるのでまた勉強しなおすと、そういうことを何回も何回も繰り返してしまったわけです。そういううちに症状が発展固着してしまいまして、こうして不完全理解感を取り除くために同じところを何度も何度も勉強しなおすという強迫行為がくせになってしまったわけです。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月04日
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2/3(木) 神経質症におちいるまで その10※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですのでかなり会話調になっています。ご了解ください。次に神経質症に陥るきっかけのことをちょっと申し上げますと、生涯を通して適応不安の強い時期があり、この時期に何らかの理由で神経質症が発生してしまうということがたとえば「心の再発見」などに書かれていますけれども、私の場合、一見するとこのことが当てはまらないような気がします。というのはとらわれ始めたのが高校一年の冬ということで受験期というのにはまだほど遠かったし、ほかにそれほど問題ということはなかったですし,以前に述べた怖い病気などに対するとらわれはありましたけれども交友関係とか学校の先生とかの関係でうまくいかなかったということもありませんでした。こう考えると人生においてもっとも好調な時期に突然といっていいような神経質症に陥ったように考えられますけれども、考えてみますと,高校はいわゆる進学校でしたので高校一年から既に受験体制に入っていたわけで,授業は常に受験を意識しての授業でありましたし,何かといえば大学大学ということが話題に出ていたものですから心理的には完全な受験期だったのではないかと思われます。その上に私の執着性といいますか物事にとらわれやすい性格と完全欲、全主義がますます昂じておりましておもてにはそれとは現れていなかったのですがいつ神経質症になってもおかしくないほどそれらは大きくなっていたのだと思います。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月03日
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2/2(水) 神経質症におちいるまで その8※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですのでかなり会話調になっています。ご了解ください。それから第二点としては、小学校時代から中学にかけてさっきいいましたように成績が良かったものですから周りからちやほやされてそれでいい気になって次第に思い上がった考えをするようになったということがあります。で、努力をすれば何でも手に入るのではないかとか何でもできるという誤った認識を次第に持つようになりました。さらにそれが昂じますと意志が強ければなんでもできるという認識に発展してしまいました。これが後になって精神交互作用の時に非常に大きな作用を発揮したのじゃないかと思います。なんでもかんでも中途半端がいやで完全にやらないと気がすまないというところがありまして、それもやはり、後年になって完全というものが存在するんだという誤まった認識を抱くようになってしまったわけです。大体それが人間性に対する誤った認識じゃないかと思うのです。● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月02日
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2/1(火) 神経質症におちいるまで その7※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですのでかなり会話調になっています。ご了解ください。次に人間性に対する誤った認識としてどんなものがあったかということを申し上げますと、先ほどもちょっと申し上げましたように幼年時代から中学時代にかけて家の手伝いをほとんどしなかったために経験不足、それから腰軽く行動することが苦手で観念ばかり発達したといいますか要するに観念と遊ぶことが好きだったというわけです。そういうことで観念的な傾向がだんだん強くなって物事をすべてかくあるべしという観点からとらえる傾向が強くなってしまいました。これは実際に母親から注意されたことがあるのですが、「何でもかんでもああでなきゃいけないこうでなきゃいけないで通していて、そんなに世の中、おまえの言う通りにはならないよ」というようなことを言われたことがあります。このようにものごとをかくあるべしで割り切ろうとしたことが後になってかくあるべしとかくあるという現実との思想の矛盾を生むことになったんじゃないかと思います。それが第一点。(続く)● せっかく神経質に生まれてきたのですから、神経質の素質を余すところなく発揮して、最高の幸せを実感して生きてみたいものです。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年02月01日
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