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本当に久しぶりに野々村理沙子(仮名)に会った。本当に久さしぶりのことだ。しばらく会っていないと人の子は成長が早い。すっかり大人になっていてまぶしいくらいだ。ちょっと立ち話をしただけだが、今度遊びに来るという。どんな土産話が聞けるのやら、楽しみだ。学年は聞かなかったが確か大学の2年か3年になるはずだ。あ~ア とうとう8月も終わりだ。明日から新学期。8月を過ぎるとますます時の流れは速くなるようだ。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目からうろこで、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)二百十日09/01 白露09/07 彼岸の入り09/20 秋分の日09/23EOF
2005年08月31日
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きのうとは打って変わって雨模様。この時期、夕立はよく経験するが朝から雨模様というのは珍しい。台風13号の影響であろうか。久しぶりに早起きし、これまた久しぶりに「銀河」を見に行く。WINDOWS XPのパソコンを本格的に使い始める。業者に引き取ってもらおうと思っていたのだがその期限を過ぎてしまった。さすがに速い。ADSLも4メガは出る。前のWin 98 では1メガでるかでないかだったから。きのう新聞に折り込み広告を入れたが反応は0。木曜日にも入れたのだが。厳しい現実を思い知らされる。きょうは中学校高校を通して好きだったKTの誕生日。医者の妻におさまったと聞いている。幸せなんだろうなあ。ほかにも好きな人はいたのになぜか彼女の誕生日だけはいまだに覚えている。若いときのどうでもいい記憶はなかなか抜けない。あ、きのうの訪問の礼状を書かなきゃ。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目からうろこで、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月30日
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午後2時から3時40分、母校であるI中学校を訪問した。校長にお会いし「偉大な数学者たち」を2冊寄贈した。私の数学への憧れの原点である図書館を見せてもらった。しかし残念ながら図書館は私の時代とは別の場所に移動していた。まあ、40年以上も前のことだから当然といえば当然のことなのであるが。夏休み中とはいえ新学期間近で何かとお忙しいであろう時に1時間30分以上も時間を取ってくださったT校長(私と同じ年齢だそうだが)に感謝いたします。図書館などをデジカメに撮らせてもらいました。いずれこのブログにアップしたいと考えています。● 九月の合同一泊学習会での長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月29日
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今年の夏の目標は普通の食事をまんべんなく食べて無理なく体重を60kg台にすることだったが、今朝一番で体重計にのったら60.8kg !!ついに夢にまで見た60kgの数字を実現した。血圧も順調に下がっている。8/23で119/79。下がちょっと高いか。◆成功できた理由◆(1) 一日2食生活 (朝食を摂らず)・・・これは安易には真似しないでください。(2) まんべんなく食べる(3) ご飯(米)の量を減らす、たんぱく質は減らさないこと(4) たんぱく質は動植物を合わせ350gを摂取(することを目標とした)(5) 特に納豆や豆腐をよく食べた。(6) 野菜をよく食べた・・・この時期はトマトやきゅうり(7) 決して間食しない・・・実は時たまやりましたが(8) 午後11時以降は食べない(9) 食べたものと量をその都度ノートに書き込む。(10) 一日20分はウォーキング(11) ダンベル体操を一日5分から10分(12) しっかり睡眠を取った。(睡眠中に体脂肪は燃焼する)(13) 一日1回は体重計に乗る(15) リバウンドしてもめげない また今日から出発だと思うこと一番効果があったのは、(1)・(9)・(13) ではないかと思っています。9/1の朝に59kg台が出るかがひそかな楽しみです。(^^● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目からうろこで、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月28日
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午前10時30分、出かけようとする娘を引き止めて、私に支払うお金の払い方が悪い(私に手渡ししないで、食卓の上に(私が渡しておいた封筒には入れてあったが)ただ置いてあるだけだったので)と注意したのだ。実はそれは口実で、ここ数ヶ月私が話しかけても最小限のことを言うだけでそのほかには口を一切きかないことを注意して、「なぜなんだ」と言うのが本論だったのだ。娘は早口でまくし立てしまいには涙を流し、「お母さんを苦しめているお父さんが悪い」と一方的に私を責める。実は女房との仲は完全にけんか状態。もともとは女房と私の母との折り合いが悪すぎたからだ。息子二人も私に敵対している。4対1ではどうにもならない。自分ひとりで大きくなったと思うなよ>子どもたちお父さんの借金はお前たち3人が3人とも私立大学を卒業するまでの学費のなれの果てだ。いやあみなさん、子ども3人を私立大学というのは苦しいですねえ。つらいですねえ。日本の人口増加にすこし貢献したのだから國からの援助があってもいいのではないかと・・・言うのはぐちにしかならない?次は娘の長電話。一晩で6000円ぐらい平気で使う。目を光らせていないと経費がどんどんかさむ。監視的で我ながらいやな父親ぶりだと思う。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月27日
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この前の水曜日にNHKためしてガッテンという番組で酢を特集していました。酢って血圧を下げるのに驚くほどの効果があるんですね。全然知りませんでした。健康にいいということは前から効いてはいたものの、せいぜい「血液サラサラ」効果しか頭に残っていませんでした。「血液サラサラ」効果って正しいですよね。ちょっと自信なし。ただ、酢はあの酸味とツーンとくるにおいがいやであまり飲用しませんでした。ところが今回の特集で出てきた「昆布酢」、実際に作ってみたところ、これはおいしいと思いました。これなら毎日数倍に薄めて飲用できそうです。ここ2日間やってみました。また、豆腐や縮緬雑魚を食べる楽しみがさらに出てきました。ところで、あの番組が早速インターネットに登場していました。先ほど見たのですが、大事な点はすべて出ているなあと思い、これならあの番組を見なかった人も見たも同然です。NHKのサービス精神に驚いた次第です。http://www.nhk.or.jp/gatten/archive/2005q3/20050824.html酢の嫌いな人々よ、昆布酢はぜひためしてみてください。σ(^_^)はしょうゆから少し離れることができそうです。ではでは(^^)/~~~● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月26日
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前回、紀男伯父が母親べったりだったと書いた。手元に一枚の写真がある。私たち家族がまだ九州に住んでいたころ、紀男伯父が母親(こずえばあさん)とともに岐阜から遊びに来て、長い間ー多分1ヶ月ほども滞在していったことがあるが、そのときのスナップ写真である。確かに彼は母親思いであった。父親から不倫のこと言いふらされ、子供心につらい思いをしていたに違いない。母親だけがもっとも確実な存在であったのであろう。このとき紀男伯父は12歳ぐらい。もしこずえばあさんに不倫があったとしたらそれは1933年ごろ、台湾時代のことだが、相手はいったい誰なのだろう。私の母親の話ではこずえばあさんの実家の工藤家を継いだ妹の夫とのことだが、そうだとすると自分の義理の姉と肉体関係を持ったことになる。あああ、余計なことを書き始めてしまったなあという気持ち。もう8月のk日記は書けません。この続きは9月1日の欄に飛びます。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)EOF時間ができたらもっとゆっくり矢七じいさんのことをかきます
2005年08月25日
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塾の経営が思わしくない。上半期と7,8の2か月分の実績を出した。下半期は10万~15万円/月の赤字が予想できるという悲惨な状況。何しろ生徒が減り過ぎた。というわけできのうと今日金策に走り回り、商工会にも相談する。あんまり当てにならないところではあるが。名古屋水曜集談会はお休みせざるを得なかった。ここ3年ぐらい無欠席だっただけに残念。来月は必ず出席だ。さあ、金策にもうひとがんばりだ。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目からうろこで、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月24日
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矢七じいさんにはひとつの苦しみがあった。それは自分の妻こずえの不倫であった。いや正確に言うと不倫疑惑であろう。このとき矢七じいさんは85,6、こずえばあさんは54歳。年が違いすぎた。しかし、そういう事実があったかどうかは知らない。自分の一番下の息子(名前は紀男、私の伯父)を嫌い。「紀男は俺の子じゃない、俺の子じゃない」と言いふらしていた。そのせいか紀男伯父は母親べったりの子どもであったようだ。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)EOF
2005年08月23日
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以前にも書いたとおり、矢七じいさんは若いときに台湾に渡りそこで質屋を経営して財をなし、借家を50軒以上も持った。今でも、「私はの借家に住んでいてお世話になった」と言う人がいる。しかし、あの戦争ですべてを失った。日本という国家は海外での財産の喪失補償は全くしていない。戦後まもなく多分1945年か46年(昭和20年から21年)、着の身着のままで岐阜に住んでいた前妻のちせさんの家を頼っていったところ、長男の民雄さん(苗字はわれわれと同じだった・・・綿貫)が、「どの面下げてここまできたんや。この辺はまだおふくろの霊がうようよしとるんだぞ」、とののしったそうだ。してみると、このときちせさんはこの世の人ではなかったということになる。自分の長男にこんなに口汚くののしられてはどうしようもなかったであろう。これは同行した私の母が私に語り伝えたことだ。母はそのときはまだ結婚して1年か2年、二十歳かそこらだったが、民雄氏の剣幕にびっくりして、「自分の父親になんてことを言うんですか」と、言い返したとのこと。これも母親が私に伝えてくれたことだった。綿貫民雄一族とはそれ以来一度も交流はない。その子か孫は今でも岐阜市●町●丁目15番地にすんでいることであろう。そこはつい最近までは私たちの本籍でもあったのだ。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)EOF
2005年08月22日
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こずえばあさんは私の祖母だが、矢七じいさんはこずえばあさんと再婚するときちせばあさんとその子どもたちと完全に縁切れにしてしまったようだ。手切れ金として岐阜の土地家屋をちせばあさんとその子どもたち(3男1女)にやって、台湾の財産を自分とこずえばあさんのものにした。しかし戦争でそれが裏目に出てしまった。大東亜戦争、全く東条英機は無謀な戦争を始めてしまったものだ。おかげで、極楽のような南国の別天地から引き上げてきたとき、矢七じいさんとその家族は一片の土地も持たない、さながら戦争難民となって広島は大竹港ににとにかくもたどりついた。矢七じいさんがその後父母に同行して九州に行ったのか岐阜へ行ったのかはわからない。一度母に聞いてみなくてはならない。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)EOF
2005年08月21日
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矢七じいさんのことを知る人は当然のことながらだんだん少なくなっていく。そして誰も彼のことを話したがらない。私は少しでも記録に残しておきたいと思った。さもないと彼の死は全くの無駄死にだ。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)EOF
2005年08月20日
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前回、戸籍のことを少し話したが、矢七じいさんの戸籍からこれまでよくわからなかったことがたくさんわかることになって、一度家系図を作ってみようと思ってはいる。しかしこれから話すことは戸籍には絶対にのってはいないことが大部分である。矢七じいさんが何回か結婚を繰り返していたことはうすうす知っていたが今回の戸籍謄本取り寄せで妻の名前が全部わかった。ここで話題にするのは最後の妻とその前の妻のことである。名前はそれぞれこずえとちせという。こずえとの間に生まれたのが私の父をはじめとして四男一女であった。ちせとの間には三男一女であった。つまり二人の妻の間に七男二女をもうけたわけで矢七じいさんの甲斐性も相当なものだったろうと想像される。(このテーマ、20日に続く)● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)二百十日09/01 白露09/07 彼岸の入り09/20 秋分の日09/23EOF
2005年08月19日
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起床午前7時。珍しく寝坊。起きようとした瞬間、目が回った。姿勢が維持できない。そして急に激しい嘔吐感。2年前の夏にもあった。去年の夏も軽いのが来た。今年のは2年前のと同じくらいの激しさだった。それから1時間睡眠をとってかろうじて午前中の授業ができるくらいには回復した。終わった後はずっと寝ていた。胸のむかつきのために全く食欲がない。しかし、アイスクリームとオレンジジュースは胃が受け付けるので繰り返し口にする。午後、おかゆが食べられるくらいに胃のむかつきは治まった。夜は、横になりながらNHKの戦争と平和に関する番組の録画を見る。2年前の時はかかりつけの医者に診てもらい、紹介で市民病院でMRIを含む検査を受けたが、いずれも異常なしということでほっとした。夏の私の持病になってしまうのか?持病はもうひとつある。尿路結石。あれは痛い。経験者しかわからぬ。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月18日
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(昨日からの続き)両親ともにあまり矢七じいさんのことを話さなかった。特に父はほとんど何も話さないまま逝ってしまった。親戚も同様だった。ご先祖様の仏壇を長い間守ってきた祖母とその息子(亡父の弟、私の伯父)も同様だった。私が小さいころ、お参りをして仏壇に手を合わせるとき矢七じいさんの遺影を仰ぎ見る。ちょっと伏目でさびしそうな少しやせた顔つきではあった。いかにも古い時代のおじいさんという感じだった。しかし、「おじいちゃんはこんな風でね・・・」という話は元気だった台湾時代のことばかりで岐阜に引き上げてきた後のことはほとんど聞いた記憶がない。そういえば、私が小学生のころ、母が、「嫁いできたとき、右も左もわからないときに親切に大事にしてもらった」と言うのを何度か聞いたことがあるが、まあ私の母は矢七じいさんにはよくしてもらったみたいでその反面、祖母とは不和なままで終わった。矢七じいさんが岐阜県の生まれであることは聞いていたが、それがどうして台湾に渡り、どういういきさつで質屋を経営し借家を50軒以上も持つほどの金持ちになったのだろう。詳しいことはよくわからない。しかし、このたび、遺産相続のことで亡父つまり矢七じいさんの息子の戸籍謄本を取ってみて驚いた。それを見ると矢七じいさんが誰の息子でどこで生まれていつ結婚したかがわかったのだ。日本ってすばらしいな、日本の戸籍って世界に誇るべきわれらの財産なんだなあと思ったことだった。(このテーマ、19日に続く)● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月17日
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8/16日はある人の命日だが、そろそろこの人のことをどうしても書かなければならない。実は「あるがまま」日記を始めたいくつかの理由のひとつはこの人のことを書くことだった。しかし、自分にとって内容が重たく、どうしてもその人のことを書く気になれず、のびのびにしてきた。でも、いずれは書かなければならないのだ。これからボツボツ書いていくことにする。ある人とは父方の祖父「矢七(仮名)」のことだ。矢七じいさんは私が生まれる3ヶ月前に急逝した。自死であった。というと聞こえがいいが実は首吊り自殺をした。それも「ある者」への面当てのように。あっという間に逝ってしまったのだ。享年85歳。元来頑強でな身体でおそらく90も100も生きられそうなくらい丈夫だった。(このテーマ、次の日に続く)● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月16日
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今日は第60回目の終戦記念日。小泉首相が靖国神社に参拝するのを期待していたが、しなかった。大変残念なことである。もししていたら中韓は大いに困り、日本はますます正しい歴史認識を持つようになるだろうから。今から60年前の8月15日。両親は台湾の台南市に住んでいた。もっとも、父は中国戦線で負傷し、台湾の一番南の「坊寮」(坊は、正しくはきへんに方)の部隊にいた。この日母はまだはたち、朝4時ごろ起床し長い間汽車に揺られて父に会いに行ったという。この話は長くなるのでいずれまた日を改めて書き起こすことにしたい。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(56ページ)(生活の発見会誌8月号より)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)EOF
2005年08月15日
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もう3年か4年前のことであるが、私の母が親しくしてもらっている山崎美恵子さん(もうかなりのご高齢)から「罪と罰」の古い訳本をもらったことがある。奥付を見ると、「生田長江・生田春月 共訳、植竹書院、定価2円50銭、大正4年2月28日発行」とある。あの当時の2円50銭、さぞかし高価な本であったことだろう。大正4年というと1915年、第一次世界大戦の始まった翌年、そしてドストエフスキーがこの本を書いた1866年からわずか49年後のことである。先人たちのあくなき知的好奇心を垣間見る想いだ。自分が持っていても猫に小判かもしれないが、これを見ているうちにいろんな人の訳を集めたくなってしまった。収集癖というやつである。万年筆を集めることは断念した。これなら値打ちのあることであろう。ぼつぼつ集めてみたいものである。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目からうろこで、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月14日
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今日8月13日は、ドストエフスキーの「罪と罰」にはじめて出会った日だ。読み終えたのが8月21日。毎年この8日間を「聖なる8日間」とひそかに呼んで、この本を手に取りページをめくりながら思い出にひたる。そしてこの8日間はあまりヨコシマな考えを持たないようにしている。この本を読み終えたときの衝撃はいまだに言葉では言い表せない。晴天の霹靂という表現がふさわしいかどうかはわからないが、「自分の近くに雷が落ちたようだった」という明治時代の文人の表現は私にもぴったり当てはまる。この本をプレゼントしてくれたのは母だった。この一点だけでも母には深い感謝をささげたい。もっとも本人はそんなことをあまり覚えてはいないようだが。「そうだったかねえ」と他人顔。まあ無理もないか、今から40年以上も前のことだもの。しかし、と今でも思う。母はなぜ「罪と罰」を選んだのだろうか。もしこれが別の本だったらあれほど文学(といっても主にロシア文学やドイツ文学なのだが)に熱中するきっかけとなったか・・・と思う。残念ながら私は3人の子どもにこのような本を示してやることはできなかった。この本はこれまでに2回しか読み返していない(つまり合計3回しか読んでいない)。さて、これから先、何回読み返せるだろうか。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目からうろこで、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)二百十日09/01 白露09/07 彼岸の入り09/20 秋分の日09/23EOF
2005年08月13日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。8月11日からの続き。# もういい加減に彼女のことは書くのをストップして本来の森田理論と生活の発見会のことに戻りたいのだが・・・、書くことでどんどん彼女のことを忘れていけるし,あのカタストロフィももう少しで乗り越えられるという気持ちになってきたので、もう少し続けます。興味のない人がほとんどだと思うので無視してください。そのために日ごとに具体的な件名をつけています。## 先日、初めて「電車男」をテレビドラマで見た。次は最終回だという。ぜひ見てみたい。美女と野獣ではないが、楚々とした美しい女性と掲示板オタクのダサ男との恋、別に私と瀬戸京子との場合と比較するつもりはないが、ほんのちょっとだけ感じが似ているような。・・・いや、似ていないか。12/09(水) 午前3時30分に目を覚ます。相変わらず明けの明星を見るために外に出る。きざなようだがブラームスの交響曲第3番の第3楽章が心の中を流れていく。この楽章のすばらしさに気がついたのはついこの前の日曜日だった。以来毎日5回以上は聞いている。聞くたびに美しい夕日と青い山が連想される。瀬戸京子 彼女は明けの明星だ。美しく気高い。そして私にはあまりに遠い。(注: 以下、彼女への想いが綿々23行続くが他人にはゴミ同然。で、省略です。)● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)二百十日09/01 白露09/07 彼岸の入り09/20 秋分の日09/23EOF
2005年08月12日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。8月10日からの続き。12/08(火)またあの金星を見ようとして早く起床する。あんなに大きな星があるなんてと、しばし見とれる。(注: 以下、このお正月には実家に帰らないという瀬戸京子への想いが20行続くが第三者にはゴミと思われるので省略。)物理実験学は休講となった。で、F図書館へ。学生寮の食堂で昼食を取り、その足で東山テレビ塔まで行こうと思った。あそこまで行けば瀬戸京子の下宿先が見えるのではないかと思って。寒い風が身体をたたきつけるようだ。しかし、途中まで行ってみてたどり着くのはとても不可能とわかり引き返す。(注:時間と崖のような地形)自分を哀れな男と思う。そして、あの日彼女の下宿先からとぼとぼ帰る姿と重なる。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月11日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。8月9日からの続き。12/07(月)まだ暗かった。時計を見ると5時20分。すぐに瀬戸京子のことが頭に浮かんだ。起きて、大学受験ラジオ講座を聞いているかなあと。朝刊を読み顔を洗って外に出た。まだ薄暗い。東の空がほんのりとうす赤い焼けた色をしている。その東の空に大きな明るい星を見て思わず感動した。明けの明星ービーナスであろう。涙が出そうなくらいだった。東南の方向には東山のテレビ塔の赤いランプが点滅していた。あのテレビ塔の向こうに瀬戸京子は住んでいるのだ。夜、就職の決まっている会社の人事担当部門3人とオリエンテーションと会食。学生側は3人。午後9時に戻る。戻って、ああとうとう俺も自分の夢とは何の関係もないサラリーマンになるのかと思うとむしょうにやるせなくなる。こういうときには元気な音楽はかえって落ち込みをひどくする。ブラームスの交響曲第3番の第3楽章を繰り返し聞く。本当に5度も10度も。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月10日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。8月7日からの続き。12/05(土)午前中電磁気学の講義。久しぶりに岡山に会った。大阪の理化学機械製造会社に就職が決まったことを聞く。午後、理科教育法(最終)。きのうの三越先生が講師。瀬戸京子のことはもう忘れよう。彼女への想いは彼女にとってはしつこくて邪魔なだけだ。私が前に出れば出るほどますます彼女は離れていくばかり。縁がなかったのだ。あきらめるしかない。明日は彼女の大学受験模擬テストの日。この前みたいに逃げることなく最後までやり遂げてほしいものである。12/06(日)今日は彼女の模擬テストの日。この2,3日の彼女への狂おしい恋情は収まった。私は彼女にとってなんでもないのだと言い聞かせる。日曜日だというのに誰とも会おうとしない。だがふと思いついて数学家に進学したT君の下宿に行くも不在。そのまま、平和公園へ歩いて出かける。平和の塔の下でしばらく過ごす。塔に描かれている絵は、下から動物、苦しみ、人間の美しさ、天上であることがわかった。(注: これは本当かどうか自信がない。何しろすっかり忘れてしまっている。ただ、心を静めようとするときは平和公園に行くことがあった。)あのリヒテルでさえも、齢55の彼でさえも一日最低5時間の練習は欠かさないという。取り立てていうほどの才能もない平凡な私が毎日勉強時間皆無という生活を続けていたらどういうことになるのか、まるで考える余地もない。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目からうろこで、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月09日
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あるテレビ番組が、「暑くて熱い一日」と称していた。いつもは退屈な国会審議中継だが、きょうは午後1時にチャンネルをNHKに合わせてしっかり見た。郵政法案は参議院で108対125で否決。否決は予想していたが17票もの差が出るとは驚いた。5票以内と思っていたので。そして、衆議院の解散。中国や韓国は大喜びだろうが(日本の政治的混乱が)、それはぬか喜びだろう。これで親中政治家は没落するだろうと予測する。橋本竜太郎や加藤紘一など。若くて真剣に日本の将来を心配する若い政治家が伸びてくるに違いない。それに期待しよう。今回こそ各党の公約をしっかり読んで演説会にも出かけ、質問をしよう。「雨降って地固まる」のことわざのように、これで新生日本が期待できる。さて、小泉さんは8/15に靖国神社に参拝するだろうか。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(56ページ)(生活の発見会誌8月号より)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)EOF
2005年08月08日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。8月5日からの続き。12/04(金)朝からしとしと雨。午前9時学生控え室から物理準備室に電話するが瀬戸京子は出ない。10分後、もう一度電話するがやはり出ない。どうしたのだろうか。病気なのだろうか。女の直感というやつで、「これは~からの電話だ」と悟ってわざと出ないのか。いろんなばかげた考えがあれこれ心をよぎる。そんな時間があれば物理や数学の公式を一つでも二つでも覚えたらどうかという気持ちもあった。その後、いろいろ考えて、「もう彼女に電話することは決してするまい」と心に誓った。自分を苦しめるだけだということがやっとわかったからだ。夕方、例の教育実習のときの写真を学生会館のDPEで受け取る。理科の教生全員(6人)を写したもの。実はシャッターを切ったのは彼女なのだ。この写真を手に入れたことで付属高校と彼女からますます距離が遠くなっていくのを感じる。どうもこのごろ悲観的でいけない。午後7時過ぎ、下宿に帰るために付属高校の前を通りかかったら物理準備室に灯がついていた。私はその近くまで歩いていった。少しの間そこにたたずんでいたがそんなことをしていてもどうしようもなかった。瀬戸京子がいるのではないかというき気持ちと、いやあれは三越先生が残業しているだという気持ちが葛藤を起こした。少したって、そこを離れた。午後7時15分から2時間家庭教師。そのあと、あの灯のことが気になって付属高校まで歩いた。灯は消えていた。寒い冬空の下を暗い心で戻った。もういい加減にこの苦しみから解放されたい。(注: 以下、彼女のことを綿々と書いているが他人にはカスなので省略します。)● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月07日
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今日は第60回目の広島原爆記念日。テレビの街頭インタビューによると広島や長崎の原爆のことをほとんど知らない10台が多いようだ。無理もない。中学校や高校で大東亜戦争や原爆のこと・東京裁判のことなどはほんのちょっとしか触れていないのだから。しかし、それにしてもこれは困ったものである。平和は大切だし、貴重なものだが平和ボケはいけない。そろそろ、「昭和史(1926年~1989年)」とでも言うべき授業を年間カリキュラムに盛り込まなければならない。そしてそのための教科書を作るのだ。だが、ひとつ心配がある。社会科の教師にはいわゆるサヨク思想の持ち主が多い。これまた無理もない。日本はこれまでずーっとマルクス・レーニン主義に支配されてきたからだ。学者・マスコミ・知識人・教師・・・・・こういう空気の中でわれわれは中国や韓国に対して自虐史観というか贖罪意識を持ち続けてきた。そうすることで相手はニコニコ笑ってわれわれを抱きしめ許してくれると信じてきた。だが、それはまったくの幻想だったことは1998年に来日した中国の江沢民国家主席や最近の韓国のノテウ大統領の発言でよくわかる。彼らは永久にわれわれを許そうとはしないのだということを。だから中国人などは日本に原爆が落ちたことは「懲罰」と平気で言う。一衣帯水の国々といつまでもこのような状態ではお互いに不幸だしフラストレーションはたまる一方だ。これでは平和どころか将来再び中国と戦争をしなくてはならなくなる。それを防ぐ唯一の方法は日本があの戦争に対して正しい認識を持つことだ。ところが先ほどいったように日本の社会科の教師は、その多くがサヨク思想にやられて思考停止をしてしまい、まともなことを生徒に言えない。だからいまは、「昭和史」の授業はこわい。そんなわけで、民間からこしづつ勉強をしていく必要がある。インターネットはあまり役に立たない。これはと思う本を何冊か読むことだ。なるべく立場の違う本を読むといい。同じ事件が白にも赤にも見えるからだ。どちらが真実に近いのか自分の頭で考えることが大切だ。さしあたっては東京裁判の本はどうだろう。ここには広島長崎の原爆使用のことが出てくる。そうすれば原爆についてももっとアメリカ人に対して、ものが言えるようになるだろう。今の日本は「お市の方」そのものだ。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(56ページ)(生活の発見会誌8月号より)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)EOF
2005年08月06日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。8月4日からの続き。12/03(木)の日記の続きそれは、瀬戸京子の後ろ姿を見たからだった。あわててお金を払おうとしたがこういうときに限ってもたもたしてしまった。やっと支払って外に飛び出したがもはや彼女はどこにも居なかった。あれは彼女に違いなかった。(注:今でもそう確信している)白っぽいコート、すらりとした肢体、手に買い物バッグ、そして長い髪を後ろに束ねて白い髪飾りでまとめていた。だが、時刻が5時少し前というのが不思議であった。勤務時間は5時10分までのはず。少しのことは融通が効いたのだろうか。各務ケ池センターは彼女の勤務室から歩いて5分のところだ。もうかなり暗い中をあちこち走り回ったがそれらしい影も見えなかった。今でも不思議だ。(注:後日彼女に会ったときそのことを言ったが彼女は否定した。そのときの表情はわからなかった。)今となっては永遠のなぞか。帰ってから今日の午後のことといい、各務ケ池センターで彼女を見たことといい、そのまぼろしがますます私を苦しめる。一晩中下宿の部屋で転げまわっていた。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月05日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。8月3日からの続き。12/01(火)今日からはや師走。(注:この日の日記には瀬戸京子への想いがまたまた綿々とつづられているがくどいし、他人にはカスとしか見えないので省略。)12/02(水)宇宙物理学の講義のあと、昼食。その後、化学の講義室で一人瀬戸京子への手紙を書く。2時30分、投函。(注:内容は忘れた。控えもとっていなかったようだ。)12/03(木)今日は一日授業のない日になってしまった。で、下宿で簡単な朝食を作って食べた後、どうしても瀬戸京子の住所を見たくなって出かける。午後1時30分、バスに乗る。バスを乗り継ぎ、徒歩10分でほぼ彼女の住所の近くまで来た。近くのパン屋のおかみに、「美和さんの家はどちらですか」と尋ねた。それでわかった。おかみは、「美和さんって女の子がたくさん下宿しているところでしょう」と言う。私はどきりとした。自分の本心を知られた気がして、また、瀬戸京子が、私が訪ねてきたことをいずれ知るのではないかと思って。見当はついたが、彼女がそのとき部屋にいるわけではない。帰ることにした。八幡病院が近くだということも下宿の裏山が墓場だということも彼女の言と一致する。八幡の喫茶店でひとりコーヒーを飲み、大学に戻った。もう夕方になって、暗かった。(注:この時代にはストーカーという言葉はまだなかったが、私のやった行為は今ならそのように呼ばれることはなくてもその入門といったところか。しかし、彼女はそのことを一切知らなかったし、彼女が迷惑をこうむったわけでもない。また、私もこんな行為を何回も繰り返したわけではない。(実はもう一度あるのだが)しかし、この日の心理は異常なほど彼女に恋焦がれてしまった状態だった。居ても立ってもいられなかったのだった。こういうことって人生には何度かあるようだ。世の諸氏よ、どうか私の行為を許してください。しかし・・・である。ストーカーと執念を持って追いかける男とは紙一重としか言えないのではないか。実際、マリー・キュリーを追いかけ回したピエール・キュリーはれっきとしたストーカーではないか。あの恋は成就したのでマイナスの影が全然ないだけのことだ。)早めの夕食をとり下宿へ。5時すこし前、各務が池センターでパン・ハム・ココアを買う。お金を払おうとしたとき、私は驚愕して心臓が一気に高鳴った。(つづく)● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月04日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。8月2日からの続き。11/29(日)の日記の続き50分たってようやく瀬戸京子は、さすがに少し申し訳なさそうに現れた。白い顔にほおが赤い。あの寒風吹きすさぶところで50分も待った甲斐があったというものだ。4時半まで相変わらず「お勉強」というデート。私が用意した物理や英語はやらずもっぱら数学の問題を解くことばかりを希望した。しかたなくそれに付き合う。ていのいい無料の家庭教師といったところ。4時半まで約2時間30分も二人だけの部屋にいながら手を握ることもしない不思議な「デート」。彼女、いつもよりは愛想がよかった。ところで、あの手紙についてはついに無視されてしまった。あるいは、何か彼女が言ったかも知れないが覚えていなし、日記にも何も書いていない。終わって、第九の演奏会に行かないか誘った。彼女が一番愛する曲がベートーベンの第九であることはずっと前から知っていたので。すぐにOKしたが、帰りは送っていくからと言ったらとたんに、行かないと言い出す。強情なヤツとつい思ってしまった。結局、もう一度OKを引き出すことはできなかった。「一応」、彼女の乗るバスの停留所まで送っていく。(つづく)● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月03日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。8月1日からの続き。11/27(金) 心の状態が逆戻りしてしまった感じで、強迫観念による不快感のために心理的にうずくまってしまうことがよくある。数学教育法のレポート書き。手紙を出してから1週間以上が過ぎた。瀬戸京子から相変わらず連絡なし。やはりだめだったか。11/28(土) 午前中数学教育法のレポート。午後は理科教育法の講義に出席。高校の数学と理科の教員免状を取ろうというわけである。単位数が多くてなかなか大変。夕方瀬戸京子から電話。明日会いたいという。もうあきらめていただけにうれしいというよりは驚いてしまった。数学教育法のレポート完成。ついで生物物理のレポート書きスタート。それで徹夜してしまう。11/29(日) 朝8時ごろ、ストーブの前でツルゲーネフの「父と子」を取り出してきて死の床についている主人公バザーロフを女主人公オヂンツォーヴァが見舞うシーンを読み返す。誇り高い女主人公オヂンツォーヴァと瀬戸京子とはよく似ているなあなどと思いつつ、バザーロフの臨終の場面では不覚にも涙を流してしまった。午後1時5分前にT講堂の時計台の下へ。風が猛烈に強く、窒息するのではないかと思われるほどであった。瀬戸京子はなかなか現れない。ジリジリとあせる気持ち。(つづく)● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(生活の発見誌8月号56ページ)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)立秋08/07 処暑08/23 二百十日09/01 白露09/07EOF
2005年08月02日
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以下は(1970年)11月~12月の日記から、瀬戸京子との交際に関する部分をそのまま書き写したり、要約したりしたものである。従って、原文とは少し異なる場合もあるが、書いてあることは事実である。7月15日からの続き。11/22(日) 教研集会第2日目。理科分科会へ参加。低調なる議論にがっかり。夜、岐阜の実家に帰る。11/23(月) 勤労感謝の日。午後1時30分、岐阜市の柳ケ瀬の「ボヌール」という喫茶店で親友のK君とその恋人に会い、1時間雑談。11/24(火) 朝、名古屋に帰る電車の中で「神経質の本態と療法」を読み終えた。これはすばらしい本である。O・ヘンリー短編集を買った。11/25(水)三島由紀夫が自決した。ショックであった。瀬戸京子からは何の反応もない。瀬戸京子・・・彼女と私とではしょせん氷と氷のようなものだ。同じ水からできているものなのに融けあうことができない。彼女の心を得ることができないのに気が狂いそうになる。彼女と別れてこの日本に呼吸してお互いにいつかは死ぬ。私はまた永遠の滅びの恐怖に襲われる。永遠の滅び・・・何という恐ろしいことであろう。** この日の日記には彼女への想いが綿々とつづられてあるがくどいので省略。11/26(木) 無気力な一日。学館で昼飯。午後は本山の本屋で立ち読み。レポートが書けない。夜、銭湯。ひとり酒を飲む。● 九月の合同一泊学習会での、長谷川洋三先生のお話で、「不安や恐怖を目の敵にしてはいけない、それを具体的な対策に置き換えて行動しなさい」の一言で目から鱗で、前途に明るい光が見えてきた。(56ページ)(生活の発見会誌8月号より)http://www.hakkenkai.gr.jp/名古屋水曜集談会ホームページhttp://www.hpmix.com/home/hanatomo/若いときに薔薇を摘め、いくつになっても薔薇を摘め(瀬戸内寂聴さん&Tomasさん)◆「『もし心安らかに過ごしたいならば、多くのことをするな。』という。必要なことのみをせよ。少しのことしかしない安らかさを大切にせよ。」(デモクリトス+マルクス・アウレーリウス)EOF
2005年08月01日
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