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1/31(月)神経質症におちいるまで その6※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですのでかなり会話調になっています。ご了解ください。それからもうひとつの経験を申し上げますと、小学校四年のときですが、その日は掃除当番の日だったんですけど、掃除をはじめる前に私は自分の持ち物がないということに気がついたわけです。それで探し始めたわけなんですが、なかなか見つからなかったのです。既に掃除の時間になってほかの当番は掃除をはじめているのに私はむきになって探し物を続けて、ついに掃除をしまいまでさぼってしまいました。物が見つからないということが私には非常に不快で不愉快でたまらなかったのです(今でもそうですが)。それほど大切なものというわけではなかったのですが。あとでほかの当番から先生に報告されまして、然のことですけれども私は先生から注意されたわけです。このように気分のためになすべきことを平気で投げ出してしまうというところが私にはありまして、恐らくこういったことは、執着性がマイナスの面に出たもので、その後、強迫観念になってしまってしかも長いこと続いた要因ではないかと思っております。このような気分本位なところは今でも残っていて、優先順位を無視した仕事の仕方をしてしまうことがときどき・・・いやしばしばあります。「恐怖突入」が私にとって大切なゆえんです。(続く)●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月31日
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1/30(日)神経質症におちいるまで その5※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですのでかなり会話調になっています。ご了解ください。それに加えてかなり気分本位なところがあって、たとえば幼稚園は一日行っただけで次の日からは「もう行かない」と駄々をこねて、ついに一日しか行かなかったことがありました。幼稚園の入園は普通四月なんですけど、たまたま私は遅れて五月になって両親が「入れてやろうか」というわけで園に行ったところ、私一人が入園してきてそのまわりを園児たちが私を囲むのです。それを見る目がたまらなくいやでした。みんなから見つめられたということがいやだったんでしょうが、そのため次の日から行かなかった覚えがあります。もっともあのときのみんなの目は笑っていましたので私を歓迎する笑顔であったのですが、私は二度とその幼稚園には行きませんでした。今でも、目をつぶると、顔は覚えていませんが、私を取り囲むたくさんの目を思い出すことができます。もう53年も前のことですが。(続く)●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月30日
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1/29(土)神経質症におちいるまで その4※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですのでかなり会話調になっています。ご了解ください。また、子どものころから死の恐怖が人一倍強かったと言うこともありました。特に、母がよく仏教の輪廻の思想をやさしく分かりやすく私たちに話してくれたんですが、結局、私とか父母兄弟が死んでやがて別々の世界に生まれ変わり、あるものは牛になったり、あるものは蚊になったり蝿になったりして別々に永久にこの世界をさまようんだということを聞かされまして、 別れ離れになって、べつべつの世界に生きるということが耐えがたいことのように思われ、寝床の中で泣いたことをいまでも覚えております。また、大きくなって病気への心配が強くなったわけですが、小学校や中学校時代は日本脳炎が非常に怖くて、いま日本脳炎というとあまり怖い病気ではないし患者もあまりでないのですが、そのころは毎年全国で二千人から三千人の患者を出していまして、そのために蚊に刺されないように真夏でも靴下をはいていたり、長袖のシャツを着ていたりしました。また、友達と川へ水泳に行って古くぎで足の指をけがしたりしたときは破傷風になるのではないかと心配して友達をほったらかしにして家に飛んで帰ったり、あるいは飼い犬に手をかまれたりすると狂犬病になるのではないかとおろおろしたりしました。このように執着性が強くて、心配性も持ち合わせていました。また、完全欲もあって、自己内省的というか自己内向的だといった、そういった神経質な性格を子供のころからしっかり持っていたわけです。(続く)●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月29日
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1/28(金)神経質症におちいるまで その3子どものころの性格を申し上げますと、小さいころから神経質の性格を備えていて、増長させてきたところがあります。これはおそらく、主に母の遺伝であると思われます。今でも母は火事が怖いからとなかなか外出したがらないのです。ちょうど神経質症から一歩手前で日常生活をこなしているような気がいたします。私の赤ん坊時代は非常に癇の強い赤ん坊だったとよく母は言います。癇が強くて、泣き出すとなかなか泣き止まない、まあ強情といいますか執着性が強かったそうです。幼時のころに風呂に入りたいというときは夜中でも駄々をこねて両親を困らせたことも一度や二度ではなかったそうです。(続く)●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月28日
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昨日は生活の発見会の集談会に行ってきました。また、すばらしい体験談が聞けました。つくづく森田の本質はライブだなあネットではないなあという思いです。一堂に会しての生の声や表情や思いにこそ立ち直りのきっかけがひそんでいます。私のように治ったものでも、「よし、新たな気持ちでがんばろう」という意欲がわいてきます。ぜひ近くの集談会にお越しください。●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月27日
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1/26(水) 強迫観念におちいるまで その2*これは、講話をもとにしているため、会話調になっています。幼時の家庭環境ですが、父方にとっても母方にとっても初孫であったということで、生まれた時からかなりちやほやされてまいりました。それに加えて母の出身地である九州は非常に男尊女卑のお国柄で、例えば男の赤ん坊が寝ている枕もとを通る何てことは絶対いけないことだと言われておりましたし、入浴順序というのがちゃんとあって、女は絶対男の前に入浴できないとか、男子が台所に入って料理の真似ごとをするということは絶対許されないことでありました。昔はどの地方でも多かれ少なかれあったんじゃないかと思うんですけれども九州地方は特にそういう戒律といいますかおきてが厳しかったようです。それでこのような環境で私は育ち、小学校のころから中学校にかけてよく病気をしました。百日咳、ジフテリア、赤痢、大腸カタル、しょう紅熱、おたふく風邪、盲腸炎など十指に余るくらいの病気をやったわけですが、それらの病気をしたことがその後の病気に対する異常な心配の原因であったと思われます。これもある意味では後の強迫観念に対する遠因であったと思われます。自分で言うのもおかしいのですが、小学校のころから学校の成績はまあまあよかったものですから、あんまり家のことを手伝ったり弟や妹の世話をすることを言われたことはほとんどなかったのです。それで頭でっかちで、体で体験することがあまりない子どもに育ってきたといえます。一口に言えば、両親ともに私をかなり甘やかしていたということが言えると思います。(続く)●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月26日
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1/25(火) 強迫観念におちいるまで その1※ この体験記は、以前、体験発表したときの原稿を元にしたものですので、会話調の箇所がところどころあります。ご了解ください。まず生い立ちですけど、私は今を去ることうん十年前の11月に長男としてい生まれております。下に弟と妹が一人づつ3人兄弟です。九州の福岡県で生まれました。父方の祖父も母方の祖父も海外で一旗上げようという組でして、昭和元年ごろ台湾に入植してそこで仕事をしておりました。第2次世界大戦前のことで、当時は満州台湾には日本人が大勢入植していたわけです。特に父の方の祖父は台湾で質屋を経営しておりまして、一代で財を築き上げて、借家を五十軒も持っていて、ちょっとした金持ちだったようです。しかし終戦とともに台湾にも支那軍が進駐してきまして、日本人の財産はすべて没収されてしまい、両親は着のみ着のままアルバム一冊持っていくことを許されない状況の中、やっとの思いで日本に帰ってくるというありさまだったわけです。日本には財産らしい財産は何もなく、一坪の土地もなくて、文字通り裸一貫からやり直したわけですが、私は小さいときからかなりの貧乏生活を強いられておりました。そのため両親の私たち子どもにかける期待感はたいへん大きくて、特に弟は生まれたときから病弱で、長いこと病院通いをしていたということもありますので、長男である私への期待度は相当なものがあったようです。そのため子どものころからよい学校に行きよい会社に入って早く一人前の人間になって人の上に立つ人物になろうと、有名になろうという意識が強くまたそのような意識を吹き込まれていたような気がいたします。このことがあとの強迫観念の遠因になったのではなかろうかと思われます。(続く)●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月25日
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1/24(月)まだまだ楽天日記になれていませんどうもまだ楽天日記の仕組みを十分理解していないようで、ちょっと焦っていますが、慣れれば簡単だなあと思えることもあるかもしれません。焦ると向きになって何もかにもおっぽり出してそれに埋没するというのが私のいけない性格です。これこそ反森田的です。自戒、自戒。きのうの東京への日帰り出張。今日はちょっとぼんやり状態でした。●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月24日
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1/23(日)生活の発見会の総会に出席生活の発見会の臨時総会に出席しました。半年ぶりの上京です。帰りは昔なつかしい大垣行きの夜行列車「ムーンライトながら」にしようと思いましたが、結局、断念。午後6時の新幹線で帰ってきました。(^^;;あの夜行列車はどのくらいの歴史を持っているのでしょうか。私が強迫観念に苦しんでいた最中、あまりの苦しさに耐えかねて、当時の生活の発見会日曜集談会に出席したことがあります。あのときは帰りの電車賃にも事欠いて、新幹線ではなく、上の夜行列車で帰りました。当時は普通列車でして乗車券だけで乗ることができましたが、今は指定席券(510円)が必要です。●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月23日
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岩井寛先生の「森田療法」(講談社現代新書) その2寒い日が続きます。2月上旬までこのような寒い日が続くのでしょうが、道ばたの梅の木は早くもつぼみがふくらんでいました。この本のはしがきを開くと、「まず、最終章「おわりに」から読まれたい。本書の特殊な成立の事情が述べられている。」という書き出しにおやと、思います。そう、筆者岩井寛先生はこの本のゲラが出る前に「かつてヒマラヤで見た憧憬の蒼天に帰っていった」のです。この本は口述筆記でできあがったものです。本書を読むと同じ言葉が繰り返されることが多いということに気づきます。口述筆記のゆえかもしれませんが、筆者の強調したい点がよく分かり、また、読みやすくさえあります。一押しの本です。 ●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月22日
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岩井寛先生の「森田療法」(講談社現代新書)今日から岩井先生の「森田療法」を読み返しはじめました。2回目です。この本は10回、いや100回読もうと決めた本、著者は森田的な生き方を貫いたお手本のような人です。こんな風に生きてこんな風に逝きたいと思わせられます。用語の説明ももわかりやすく入門書として適しています。残念なのは索引がないこと。そこで読みながらキーワードに蛍光マーカーを施していきます。それを元に索引を作ってみたいと思っています ●ぶざまでも、弱さをさらけ出す人間でも、自分は自分でしかない。これで生きるしかない。(生活の発見会HP表紙の「今月の言葉」より引用)http://www.hakkenkai.gr.jp/EOF
2005年01月21日
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モーツァルト交響曲第40番と森田療法なんて何の関係もないが、私がはじめて森田療法の本(「神経質問答」、「神経衰弱と強迫観念の根治法」など)に出会ってこれで長い間の読書恐怖・勉強恐怖という強迫観念から立ち直ることができるという希望というか確信を持ったのが大学4年になってから。それから1週間ぐらい後に下宿先の隣の部屋からこの曲が聞こえてきてあっという間に空っぽの心の中にどっと流れ込んできた。この曲との出会いは本当に衝撃的だった。まるできのうのことのように思い出すことができる。当時これほど透明な音楽はないと信じていた。(今もそうであるが)小林秀雄の言葉を借りればまさに「疾走する悲しみ」。しかし第4楽章のなかに、「苦しみながらも悲しみながらも決然と未来に向かう気持ち」を感じて、それでこの曲を毎日何度も何度も繰り返して聞いた。今もこの曲に寄せる思いは36年前にはじめて聞いたときと少しも変わらない。(良いことは続くこともあるという)不思議な縁だなあという気持ちとともに。ところで小林秀雄は「モーツァルト」のなかにあの有名なエピソードとともにこの曲の楽譜の一部を載せているが、あれが第4楽章であることは意外と知られていない。EOF
2005年01月20日
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◆この日記の目的は何だろうと自問してみました。(1)自分の神経質症(主に勉強恐怖・読書恐怖)とそこからの立ち直りを通じて若い人たちの参考にしてもらう。(2)森田療法のすばらしさをもっともっと多くの人に知ってもらう。(3)自分との対話を通して自分の姿をなるべく客観的にとらえるようにする。(4)インターネットやwebの勉強になる。(5)将来自分史を書くときの参考にするかまたは家族への遺書となるか。上の5項目でしょうか。別のテーマ◆また、こんな夢を・・・最近は熟睡することが多くて夢を見ることはほとんどないのですが、今朝方は久しぶりに例の「悪夢」を見てしまいました。私は大学で物理学を専攻したのですが、高校時代に強迫観念に陥り、ほとんど勉強不能になってしまいました。何とか大学には合格できたものの、毎日自分の殻に閉じこもり、やっぱり勉強不能が続きました。そのためでしょうか、見る夢は大教室で物理学や数学の講義を学友たちと受けているのですが、どうしても理解できず、強迫観念が頭の中をぐるぐる駆けめぐり、いたたまれなくなって教室から出てしまうというものです。今日は珍しく自分の学籍番号までを寝言で言っていたようです。S2-32(P)何々・・・もう40年近く前のことなのに、こんな夢を見るのです。きのうはこの「あるがまま」日記の開設の日でした。それで意気が高揚していたのでしょう。しかし「夢は楽しむものである」(森田正馬先生)に従うようになってからは長く尾を引くようなことはありません。【EOF】
2005年01月19日
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今日1月18日、「あるがまま」日記を開設しました。今日は、森田正馬先生の誕生日(生誕131年)でもあります。この記念すべき日に日記を開設できたことをうれしく思います。とし長けて また越ゆべきと思ひきや 命なりけり 小夜の中山の心境です。ちょっときざでしたが。【2006年1月25日追記】とし長けて・・・はご存知のとおり西行の和歌です。私がもっとも好きなものです。ブログをはじめてもう1年が過ぎてしまいました。初心忘るべからず、また一年、主に森田理論や森田療法を主に語っていきます。みなさんのご多幸をお祈りいたします。
2005年01月18日
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