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地下鉄の「天王寺駅」で降りて、天王寺公園を通って久々に大阪市立美術館に向かったのですが、公園内の通路を歩き始めて、雰囲気がだいぶ変わっている感じを受けました。スッキリとした印象です。歩いてきた通路を振り返ると、高層ビル「あべのハルカス」が聳えています。 美術館の手前にあるのがこの長屋門です。長屋門を通り過ぎて、まずはこちら側からの全景を撮ってみました。 左側に立つ石標が「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」であることを示しています。なぜ、蔵屋敷の門がここに? 蔵屋敷って川沿いにあったのでは・・・・・。その答えは側面に刻されていました。その説明に寄れば、この門もとは中之島に設けられていた福岡藩蔵屋敷の長屋門だったのです。昭和8年(1933)に中之島三井ビルが建設される際に、数少ない蔵屋敷遺構の一つということで、大阪市に寄贈されてここに移設されたのです。 こんな文学碑が建立されています。 林芙美子作「めし」よりの一節です。「昔 通天閣のあったころは この 七十五メートルの高塔を中心に 北方に 放射状の通路があり 国技館や映画館 寄席 噴泉浴場 カフェーや酒場が 軒を並べていたものだそうである 芳太郎は いつの間にか 里子の腕をとって歩いていた」たしかに、通天閣のところは地図(Mapion)を見ると、北方向に放射状の道路がありますね。こちらをご覧ください。「昔 通天閣のあったころは」という碑文の書き出しに、大阪人ではない私はあれっ!と思ったのです。なぜ、過去形なのだ・・・・と。調べてみて、わかりました! 現在の通天閣は二代目なのです。1954年9月に通天閣観光株式会社創立事務所が設置され、1956(昭和31)年10月28日に二代目通天閣が誕生して、現在に至るのです。二代目の誕生は、初代が姿を消してから13年後のことだったそうです。(資料1)現在の通天閣は高さが103mです。4階の展望台が84mで、展望台の位置が既に初代の高さを抜いています。ビリケン神殿のあるのが5階で87.5mだとか。(資料2)ならば初代は? 当然の疑問ですよね。1903(明治36)に大阪に誘致された第5回内国勧業博覧会の跡地に、1912年(明治45)7月3日に建設されたそうです。ところが、太平洋戦争中の1943(昭和18)年1月16日、通天閣の直下にあった映画館の火災で通天閣の脚部が加熱による強度不足となったことが理由で、翌月から塔の解体作業が行われ、その姿を消してしまったといいます。(資料3)これで、ナルホド! です。この「めし」という作品は、『放浪記』がベストセラーとなった作家・林芙美子(1903-1951)が、昭和26年(1951)に朝日新聞に連載していた作品だったそうですが、連載中の突然の死により絶筆となったのです。しかし、後に映画化されて絶大な成功を収めたといいます。2003年5月に出版されています。新潮社のウエブサイトには、「ひたすら愛情だけに生きる女が、その愛情を失うことになったときの虚無感、生活と心の拠りどころを失った女の哀しい運命を描く」というメッセージを記しています。(資料4)青空文庫には、林芙美子の作品が現在64作公開されています。残念ながら「めし」は現在公開のための作業中とのことで未公開です。(資料5)何気なく素通りしてしまいそうな小さな碑に、思いがけない大阪史の一端をも知ることになりました。 南西側から眺めた景色美術館の南側から正面に回り込みます。美術館の正面は西方向に面しています。 林芙美子文学碑から少し先にあるのが、このブロンズ像です。アートプロデューサー・彫刻家の田村務制作「いのちいきいき」です。(資料6)この像は、天王寺博覧会が「いのちいきいき」をテーマとして、1987(昭和62)年8~11月に天王子公園で実施された時に、そのテーマをもとに制作されたそうです。このブロンズ像の遠景にピラミッド形の頂点部分が見えています。この建物は、安藤忠雄/安藤忠雄建築事務所が設計した「天王寺博覧会テーマ館」です。(資料7,8,9)このブロンズ像と建物も、今まで幾度か横目に見ながら通り過ぎていただけでした。意識的にとらえなおすと、いろいろ学べるものです。ここにも温故知新の一端がありました。そして、天王子公園の入口付近を通過するとき、だいぶ変わったな・・・と感じた理由がわかりました。2015(平成27)年10月から20年間の事業期間という計画で、「天王寺公園エントランスエリア魅力創造・管理運営事業」がスタートしていたのです。(資料10) 美術館の正面に立ち西を眺めると、高架道路の手前が天王寺動物園で、その先に新世界の地域が見え、北側に通天閣が見えます。「ハルカス300」(展望台)は、現在日本一の高さ300mのビル「あべのハルカス」にあります。だけど、高さを誇れなくなったとはいえ、やはり通天閣は大阪の歴史的なシンボルという気がします。 北から眺めた美術館の正面 大阪市立美術館の背後(東側)には、南に入口の門、北に出口の門がある「慶沢園」と称するゆったりとした庭園がひろがっています。こちらは別項としてまとめてご紹介したいと思います。最後に、大阪市立美術館の歩みについて、ご紹介しておきます。このあたりにもとは住友家の茶臼山本邸があったそうです。1921(大正10)年12月に、住友家がこの地に美術館を建設することを条件に大阪市への寄付を申し出たそうです。それを受けて、大阪市は1928(昭和3)年に美術館地鎮祭を行い、美術館建設に歩み始めたのですが、世界恐慌が到来し工事をやむなく中断します。そして1936(昭和11)年5月に開館を果たします。1970年代後半から順次建物の改修が行われ、また1992(平成4)年には、美術館の正面地下に地下展覧会室が新設されて、現在に至るそうです。8400件を越える館蔵品と社寺などからの寄託作品を随時平城展示されています。(資料11)ご一読ありがとうございます。参照資料1) 資料館[通天閣ヒストリー] :「通天閣」2) 新世界 Gookulu MAP pdfファイル :「通天閣」3) 通天閣 :ウィキペディア4) めし 林芙美子著 :「新著社」5) 作家別作品リスト:No.291 林芙美子 :「青空文庫」6) アートプロデューサー・彫刻家 田村務さんのページ :「漱石枕流」7) 天王寺博覧会 :ウィキペディア8) 80年代の写真・番外編(後編) 天王寺博覧会 :「かつて大阪日本橋でんでんタウンで生まれ育ったおっちゃんの思い出ブログ。」9) 天王寺博覧会テーマ館(天王寺公園映像館・植物温室) :「HeT大阪建築」10) 天王寺公園エントランスエリア魅力創造・管理運営事業予定者を決定しました:「大阪市」11) 美術館の歩み :「大阪市立美術館」補遺植木市概要 :「大阪緑化会」林芙美子 :ウィキペディアハルカス300 :「あべのハルカス」大阪市立美術館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪市立美術館 -1 「江戸の戯画」展 へ
2018.05.31
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先日、後期展示期間に入った特別展「江戸の戯画」を鑑賞してきました。場所は大阪の天王寺公園内にある大阪市立美術館です。展示期間は残すところ2週間を切りました。6月10日までです。 美術館の入口には、このパネル掲示が為されています。 ロビーに入ると、展覧会の記念撮影用のこんなパネルがデンと正面に置かれています。展覧会場はこの背後の階段を上がって左方向です。 これは今ならまだ入手できる展覧会のPRチラシです。2つ折りにしたA4サイズの表と裏。 チラシの裏面から2箇所を切り出し部分拡大して引用します。 これはチラシの内側から切り出したものです。今回の「江戸の戯画」のサブ・タイトルは「鳥羽絵から北斎・国芳・暁斎まで」と題されています。後期展示に出かけましたので、歌川国芳の「金魚づくし」のうち、ベルギー王立美術歴史博物館蔵の7点は、残念ながら会場で写真パネルの掲示を眺めるだけでになりました。このシリーズのうち、個人蔵の「ぼんぼん」と「いかだのり」の中判錦絵は原図が後期も展示されています。 こちらは鑑賞後に購入したこの展覧会の図録です。今回の展示は、「第一章 鳥羽絵」、「第二章 耳鳥斎」、「第三章 北斎」、「第四章 国芳」、「第五章 滑稽名所」、「第六章 暁斎」という構成でした。展覧会に行く少し前に、清水勲著『北斎漫画 日本マンガの原点』(平凡社新書)をたまたま読んでいました。この新書に掲載されている北斎漫画の刊本の絵の実物を見ることができましたので、ああ!この絵かと結構楽しめました。さて、上掲の画像には絵がかなり重複していますよね。会場に行くプロセスではそれほど意識していませんでした。事後に改めて記録写真・PRチラシ・図録を眺めてみて感じたことなのです。会場で実物の戯画を楽しんだ後の副産物になりました。同じ絵から切り出された部分絵がそれぞれ、レイアウトの妙で巧みにアレンジされて異なる形に組み合わされています。パネルやポスター、チラシなどに利用され、それぞれをおもしろく飾っていることが別の楽しみを与えてくれました。江戸の戯画の本歌取りのような感じ・・・・・です。これらから逆に、原画探しと当てはめの妙を楽しめたといえます。入口のパネルの左上角は、会場では「第五章 滑稽名所」に展示の作品です。上掲に引用した一鶯斎芳梅「滑稽都名所 清水寺」からの切り出し。清水の舞台から傘を差して飛び降りた女です。あの次の瞬間に蛇の目傘はつぶれているでしょうねえ・・・・。三都の名所を取り上げて、その名所をきっちりと描いた上でカリカチュアーで一捻りして滑稽な場面に転換しているところが「戯画」としておもしろいところです。「滑稽名所」は歌川広景「江戸名所道化(外/戯)尽」、一鶯斎芳梅の「滑稽都名所」「滑稽浪花名所」のシリーズからの作品展示です。入口パネルの上部中央は、同じく引用した河鍋暁斎『暁斎漫画』の部分図です。暁斎は数えで7歳の時に歌川国芳に入門し、そこで2年ほど学んだそうです。戯画には国芳の影響が見られるものがあるようです。一方で、暁斎は多分『北斎漫画』を見ているでしょう。北斎の戯画をどのように見ていたのでしょうか? 入口パネルの右側は歌川国芳「金魚づくし」から切り取られています。上の方は「いかだのり」、下の方は「ぼんぼん」からです。この2枚の錦絵は通期展示ですから、第四章のセクションで楽しめます。 左側のパネルに切り出された猫! 国芳の「其まま地口猫飼好五十三疋」から切り出されています。この戯画タイトルから連想は・・・・働きましたか?図録には「東海道五十三次の宿場の地口(語呂合わせ)を猫の姿で表現した図」と冒頭に解説があります。左の猫は戯画では魚を加えています。ここでは魚を消していますが。会場で五十三疋の中からこれらの猫を捜してみてください。楽しめますよ。上掲のロビーの記念撮影用パネル刳りぬかれた円形の回りにいる金魚と猫は「金魚づくし 百ものがたり」からの切り出しです。この戯画は以前に見た記憶がありました。猫がすごく印象的だったのです。後で手許の図録を参照すると、平成3年(1991)に京都国立博物館で開催された「うきよ絵名品展」(東京国立博物館所蔵/松方コレクション)に出展されていました。このパネルの手前とパネルの左側の切り出し絵は、もうおわかりですね。 こんな風に眺めるのもおもしろい。金魚は仏に何を語りかけているのでしょう・・・。 これだけに着目するとまた違った印象に・・・・大きく口を開けている意味は・・・何だろう? ロビーに別に置かれたこの金魚像、「金魚づくし 玉や玉や」からの切り出しです。この「玉や玉や」も松方コレクションの中で出展されていました。 こんな組み合わせも。この展覧会の図録表紙の中央部分に笑う男二人が切り出されています。これは第五章に後期展示されている歌川広景「江戸名所道戯尽」の一枚「四十五 赤坂の景」(太田記念美術館蔵)からの切り出しです。何を見て笑い転げているかは、大判錦絵を会場で眺めてみてください。なぜ、赤坂の場面がこれなのか・・・・私にはわかりません。場面がわかるのですが、赤坂である必要は何なのか・・・・判じ物みたいな気分です。図録の裏表紙の切り出し絵は、印象すらないな・・・と思っていたら、前期の展示作品でした。一鶯斎芳梅「滑稽浪花名所」中の「四天王寺」(和泉市久保惣記念美術館蔵)です。「滑稽名所」は、背景に名所を描き、前面にひっくり返ってあわてふためく姿態、それを見て笑い転げる人々などを描いているものが多いようです。想像すると滑稽ということでしょうか。 この戯画は5/29~6/10の展示替えの作品なので、見られなかったのが残念です。暁斎は駿河台狩野家で修行を積んだ絵師で、終生狩野派絵師として筆を取り続けたそうですが、一方で独立直後には多くの戯画を浮世絵として描いているそうです。図録解説によると、蛙のモチーフを得意としたとか。これは元治元年(1864)の江戸幕府の長州征伐を蛙の合戦に見立てていると考えられるとか。その暗示は紋を描き込んでいるところに見られるのです。大判錦絵三枚続の作品です。図録の絵を眺めても、蛙の表情や動きがおもしろいものです。暁斎が「伊蘇普物語内」としてイソップ物語のエピソードをシリーズ絵にしているのを知り、エ~ッと思いました。第一章と第二章も触れておきたいと思います。「第一章 鳥羽絵」の鳥羽絵ですが、辞書を引くとその第一羲として「江戸時代の略画風の漫画。名称は鳥羽僧正に由来」(『日本語大辞典』講談社)と記されています。風刺的な『鳥獣戯画』の作者とされる鳥羽僧正の名前に由来するということですね。「より限られた意味では、18世紀の大坂を中心に流行した軽妙な筆致の戯画のことを言います」(PRチラシより)とのこと。 この絵は、PRチラシの内側に掲載のものを引用しました。『軽筆鳥羽車』に所載の見開きの絵です。上記の『北斎漫画』を読んだとき、この絵を参考にして、葛飾北斎が「鳥羽絵集会 魚頭観音」という戯画を描いていることが記されていたと記憶します。この鳥羽絵を描いた絵師は大岡春卜という見方もあるようですが確定できないようです。名前がわかっている絵師としては、大岡春卜、竹原春朝斎、長谷川光信、二代喜多川歌麿、安達真速の作品が展示されています。北斎漫画と直接関連づけられる絵を見られたのがうれしいところでした。この鳥羽絵には、「目が小さく、鼻が低く、口が大きく、極端に手足が細長いという特徴」(PRチラシ)で描かれていることが実際に見るとよくわかります。その姿でのドタバタにユーモアが醸し出されるのでしょう。 第二章は「耳鳥斎(にちょうさい)」という絵師のセクションです。私はこの18世紀後半の大坂を中心に活躍したという絵師のことを初めて知りました。略筆画なのですが、独特のユーモア感があり、剽軽な感じでごく気楽に楽しめるセクションでした。すごくやわらかいタッチの略画です。筆で描かれているところが相乗効果を出しているのかもしれません。これは、「地獄図巻」(大阪歴史博物館蔵)のわずか2コマです。11m余の長い絵巻として描かれているのです。国立歴史民俗博物館の「地獄図巻」との2巻が展示されています。源信が『往生要集』の冒頭に「地獄」を詳細に記述しました。それが始まりとなり、おどろおどろしき地獄絵が数多く描かれています。それらの地獄絵と耳鳥斎が飄々と略画で描いた地獄との大きな差を感じます。厳しく激しい風景を描いているのですが、見る者にとって意外と嫌悪感が薄れるのです。不可思議な地獄絵です。ちょっと地獄を覗いてみたい感すら感じさせるところのある戯画だと思います。『絵本 水や空』上(大屋書房蔵)、『画本古鳥図画比』中(大屋書房蔵)、『画本古鳥図画比』(千葉市美術館蔵)などは楽しい略画です。まさに漫画です。 これは会場を出て、1階に降りたとき記念撮影パネルの後側に隠れていた絵の切り出しです。歌川国芳「福禄寿あたまのたはむれ」の「年始回り」(個人蔵)から切り出されたものです。まさにピッタリ!「どうもご覧いただきありがとうございました。今後ともごひいきに」とでも言っている感じです。この特別展、日本の漫画のルーツとその奥行きを感じさせつつ、楽しませてくれました。この大阪市立美術館周辺も序でにまとめておこうと思います。つづく参照資料上掲のPRチラシと図録「特別展 江戸の戯画」補遺鳥羽絵 :ウィキペディア浮世絵 鳥羽絵 :「浮世絵」耳鳥斎 :ウィキペディア耳鳥斎 :「伊丹市立美術館」<<ゆるカワ絵師列伝>> 松屋耳鳥斎の巻 :「KIJIDASU!」北斎漫画 :ウィキペディア北斎漫画 :「近代デジタルライブラリー」 検索結果の所蔵58件のリストのページ。北斎漫画各編ほかにアクセスできます。北斎漫画 YouTubeHokusa Hokusai Manga 北斎漫画 YouTube北斎漫画 YouTube葛飾北斎 肉筆画集 YouTube歌川国芳 :ウィキペディア3分でわかる歌川国芳(人から分かる3分美術史50) YouTube【浮世絵】歌川国芳:名作選【幕末】Utagawa Kuniyoshi (1798 - 1861) YouTube河鍋暁斎 :ウィキペディア画鬼と呼ばれた天才絵師、河鍋暁斎の絵にぶったまげる :「NAVERまとめ」河鍋暁斎記念美術館 ホームページ 河鍋暁斎とは ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.05.30
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月読神社を出て大住車塚古墳に向かいます。この古墳は府道251号線(富野荘八幡線)に面しています。北側から、「大住車塚古墳」のエリアに入りました。 この古墳は前方後方墳で、車塚は全長が66mと推定されています。ここは墳丘の上を歩くことができます。前方部は幅が18m、高さ1.5mなので少し高まっている位の感じで登って、後方部に向かいます。 後方部への途中で、見晴らしの良い場所に移動して南西方向を眺めると、「大住南塚古墳」が並んでいます。こちらも前方後方墳です。こちらは全長71m、後方部一辺37m、高さ4.1m以上、前方部幅30m、周濠を持つと考えられています。発掘調査による復元では、周濠長103m、幅73mと推定されているそうです。南塚古墳の方は、周濠の一部が現在も池として残っているとか。(案内板より) 車塚古墳の後方部は一辺30m、高さ4.5m。こちらも周濠を持ち、周濠長98m、幅60mが現況でデータです。この大住車塚古墳は、地元ではチコンジ山古墳と呼ばれているそうです。(案内板より)両古墳の周濠は長方形だそうです。これらの古墳は古墳時代中期の造営で、南塚古墳は4世紀おわり頃、車塚古墳は5世紀初め頃と推定されているとか。(資料1,案内板より)また、車塚古墳の「主体部(棺をおさめたところ)は、竪穴式石室か粘土槨(かく)と考えられています。副葬品は不明です」(案内板より)とのことです。 道路に面するところに、この石標と案内板が設置されています。昭和49年(1974)6月11日に国の史跡に指定されています。所在地は京田辺市大住八王寺です。府道沿いに南東方向に進みます。 萱葺き屋根の大きな民家と黒板塀があります。 門前に、この駒札が立っています。 覆屋の下に三体のお地蔵様が並ぶのを眺めつつ少し先に歩むと、「天津(あまつ)神社」です。ここが今回最後の歴訪地です。 石鳥居をくぐると、境内の左側に駒札が立っています。社伝では天禄年間(970-972)の創祀と伝わるようですが、明かではないとか。若宮社または若宮八幡とも呼ばれていたといいます。 石鳥居の先に、拝殿、瑞垣に囲まれた本殿があります。拝殿に「天津神社」の扁額が掲げてあります。 祭神は天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)と仁徳天皇です。天御中主尊は天之御中主神と同一でしょう。造化三神の一柱で、神名の由来は、高天原の神聖な中央に位置するという意味合いであり、高天原の主宰神であり、宇宙の根元神だとか。記紀神話が形成されていく上で、新しい段階で創造された高度に観念的な神だそうです。(資料2) 本殿は一間社流造で、元和3年(1617)社殿修造の棟札が最古のものとして残り、その後6回の造替・屋根葺替の棟札が伝わっているそうです。「小屋組のない屋根や簡素な妻飾りなど古様」(資料1)を見せる部分もあります。 向拝の木鼻は彫りの深い造詣です。 本殿の頭貫の木鼻はシンプルな形ですが大きな刳り抜きが見られます。 本殿の背面 本殿前には石段の両脇に石灯籠があります。刻銘から文化元年(1804)建立のようです。現在の本殿はこの頃の様相を見せているそうです。駒札にも、文化10年(1813)の棟札が伝わると記されています。(資料1,駒札) 境内末社として「水分神社」が勧請されています。その左側には「樹齢七百五十年 老松の跡」碑が建立されています。この神社の古さを想起させる松だったことでしょう。 「伊勢神宮遙拝所」と刻された石標があります。この天津神社の西隣には「法華寺」があります。室町時代の木造大日如来坐像が安置されていて、この像は東寺講堂の仏像に近似しており、15世紀末の康珍造立の可能性が指定記されているといいます(資料1)。レジュメに仏像の画像紹介がされてはいたのですが、今回の探訪先ではなかったのが残念です。尚、当時のホームページを拝見すると、本堂の主尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏だそうです。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 天津神社の南隣が大住にある浄土宗の「来迎寺」です。ここも今回は門前を通過するだけになりました。天文2年(1533)に開創され、元和5年(1619)に再興と伝わるとか。松井の来迎寺より30年余早く開創されている同宗同名のお寺です。ひょっとしたら当時の住職の間での関係があるのかもしれません。そんな想像をしてしまいます。本尊は阿弥陀如来立像で、この仏像は天津神社の東側にあった西念寺の旧仏とされ、平安時代後期の造立と推定されているそうです。(資料1) JR学研都市線(片町線)「大住駅」前に設置された地域案内地図です。この大住駅やJR「京田辺駅」、近鉄京都線「新田辺駅」と「酬恩庵(一休寺)」との位置関係がよくわかります。 これでご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 龍谷大学REC「京都の歴史散策35 ~松井・大住を歩く」 2018.5.10 (当日配布のレジュメ 元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成)2)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 p56補遺京都府埋蔵文化財情報 第87号 京都府埋蔵文化財調査研究センター日蓮宗 瑞応山法華寺 ホームページ法華寺 :「京田辺道中記」(京田辺観光協会) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -1 天神社、仲谷古墳群、女谷・荒坂横穴群、松井横穴墓群 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -2 松井の来迎寺 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -3 両讃寺、月読神社、様々の発祥地 へ
2018.05.29
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前回、松井と大住の境界を過ぎ、新名神高速の高架下に進むところで終わりました。府道251号線(富野荘八幡線)を道沿いに進むと、八河原地区に入ります。バス停「八小路」があります。道路に面した大住交番が目印です。 その近くに「西八公園」というのがあります。目指すは両讃寺です。冒頭の地図に茶色の丸をつけたところ。後で詳細地図を確認すると八河原と八小路の境界となる道路を北方向に少し入った八河原側に、両讃寺が所在します。今回ご紹介するところはこちらの地図(Mapion)をご覧ください。 まずお寺の屋根が目に入りました。そして山門屋根の獅子口や築地塀の鬼板が私の趣味として目に止まります。 「両讃寺」も浄土宗のお寺で、山号は「發迎山(はっこうさん)」です。院号は「二尊院」。「發」は「発」の旧字体で、これは現世から極楽浄土へ送り出すこと、「発遣(はっけん)」を意味するそうです。「迎」は「来迎引接(らいごういんじょう)」という表現にある「迎」だとか。「阿弥陀二十五菩薩来迎図」にある「来迎」の中の「迎」です。「『来迎』は阿弥陀如来が極楽浄土に生まれることを願う者の前に現れる働きを表します」(資料1)とのこと。 まず境内に立っている駒札を載せておきます。この地域の領主大住家友が阿弥陀堂(西村)と釈迦堂(東村)の両堂を信仰していたそうですが、大住家友が織田信長に敗れると、両堂も荒廃します。この両堂の阿弥陀と釈迦の二尊をを祀り讃歎する寺が慶長6年(1601)に創建された浄土宗寺院です。願故上人が住持として当寺に迎えられた折りに發仰山二尊院両讃寺と号するに至ったそうです。二尊の安置から両讃寺と名づけられたのだろうと言われています。(資料1,2,駒札) 寺名の伝承を見聞し、私は京都の嵯峨野にある「二尊院」を連想しました。 獅子口の綾筋の下、中央に六角形の紋がレリーフされています。寺紋のようです。 屋根の飾り瓦 山門の木鼻や蟇股はシンプルな造形です。本堂でご住職からこの寺に近辺の廃寺から諸仏がこちらに遷座されてきたお話を興味深く伺いました。大小様々な諸仏が移ってこられた結果、阿弥陀如来と釈迦はこの両讃寺の本尊で、それぞれ三尊像の形式で祀られていますが、それ以外の十仏が一堂に会されているのです。弥勒菩薩がここに加われば、十三仏が勢揃いということになるとか。本堂正面に向かって、右脇陣側に本堂の大きさと対比すればいささか大きすぎる歳月を経た厨子が置かれています。その厨子には、薬師如来立像が秘仏として鎮座されているそうです。もとは、福養寺薬師堂本尊だった仏像だとか。かつてかなり昔に、地元の人々の要望と必要に迫られて開扉し、この薬師如来に祈願されたことがあったそうです。その時、霊験とともに悲劇譚も併せてあったと伝わるとか。その具体的な内容は、両讃寺を拝観されて、お聴きください。薬師如来立像は9世紀の造立と推定される一木造の像だそうです。(資料1)余談です。十三仏とは? 調べてみると、次の十三仏をいうそうです。虚空蔵菩薩。大日如来。阿?如来。阿弥陀如来。勢至菩薩。観音菩薩。薬師如来。弥勒菩薩。地蔵菩薩。普賢菩薩。文珠菩薩。釈迦如来。不動明王。そして、この十三仏が葬儀の後の初七日から三十三回忌までの追善供養の忌日と本地仏並びに垂迹王と関連づけられています。垂迹王の最初の十王が地獄思想と絡む十王思想です。代表例が閻魔王で、閻魔王の本地仏が地蔵菩薩とされています。(資料3)本堂の内陣部分は撮影禁止だったので残念ですが、外陣側は撮らせていただきました。 外陣と内陣との境の欄間部分に、龍像の彩色透かし彫りが施されています。松井の来迎寺とともに、この両讃寺でも龍像を眺めることになりました。浄土宗や浄土真宗系のお寺で、欄間に鳳凰・瑞鳥や天女像を透かし彫りにされているのをよく見ていますが、龍を装飾されている事例の記憶がありません。浄土宗の二寺で続いて龍像の彫刻を眺めました。天神社の頭貫にも龍像が描かれていました。「竜神」は「りゅうまたはへびの姿をして雨・水を支配し、仏法を守護する神。竜王」(『日本語大辞典』講談社)とあります。農業主体だったこの地域の特徴がこんなところにも現れているのでしょうか。尋ねてみたところ、水の支配から、火除け・火災封じに通じ、お堂を護るという意味合いが込められているのではないかとのことです。建物の木材の色合いと違うのは、以前の建物から継承して使われているものだとか。勿論、竜(梵名ナーガ、竜王)は仏教では天部の仏像群の中で、阿修羅と同類の「八部衆」に位置づけられ、八神の一つです。「龍蛇崇拝のナーガ(龍)族が帰仏したため仏教に取り入れられたとも推定され、法華経の龍女成仏は著名である」(資料4)という説明も見つけました。経典には竜に関する説話が多く記されているそうです。仏法を守護する八大龍王というのもあります。 拝観して、印象深かったのは外陣の四隅の上部に四天王像が安置されていたことです。外陣に四天王像を配置することはよくある例のようですが、私には初実見でした。今までは大寺において本尊の周囲に四天王像が配置されている例や、内陣を囲む四方の柱に四天王の名称を記した木札が掛けるという略式の配置の例を見聞するだけでしたので。この四天王像は、「頭部は平安後期造立と推定される。福養寺から移された」(資料1)ものだそうです。本堂を出て、境内で目に止まったものをご紹介します。 傍に立つこの駒札「石造十一面観音」をお読みください。 上掲石造十一面観音像の近くですが、築地塀の傍に石造仏像が建立されています。時間がなくて傍まで行けず記録写真だけ撮りました。上掲の駒札「両讃寺」にも背後に石像が写っています。この両讃寺にはまざに様々な仏様が寄り集まっています。これからも引っ越ししてこられる仏様があるのかもしれません。居心地が良いお寺なのかも・・・・・。 お寺を出る前に、もう一カ所。山門を入ったすぐ左側の境内の一隅です。そこに無縫塔(卵塔)が並んでいます。無縫塔ですから、この両讃寺の住持のお墓なのでしょう。着目したのは右から2つめです。これだけは異形です。その姿から連想したのはあの「閻魔王」。そうであるかどうかは未確認ですので、単なる印象だけですが・・・・・。ここに並んでいるのが、興味深いところです。この後、お寺の前の同じ道を戻り府道を横断してそのまま南に進みます。 道路脇に「大住村役場跡」という石標を見かけました。大住小学校の校門前を通り過ぎます。 大住小学校あたりから北東方向を遠望した風景です。 小学校の南隣が大住幼稚園ですが、その南側にこの石碑が建立されています。「戸山流居合道発祥之碑」と題された記念碑です。「当流は大正14年陸軍戸山学校に始まり、昭和15年同校森永清剣術科長が中心となって改定、公布された居合を源流とする。 昭和39年田辺町健康村に在住された森永師は平和の時代に相応する居合道に昇華、老若男女に学べる戸山流を確立普及された。ここに我々は文化遺産として当流の継承と発展を祈りこれを建てる」と記されています。平成6年(1994)4月の建立です。居合道が昭和時代に確立されたというのがおもしろいと感じました。 発祥記念碑のすぐ先に、「月読神社」の一の鳥居が見えました。 石鳥居の手前、向かって右側には社号碑が立ち、左側には「隼人舞発祥之碑」が建立されています。 この駒札が立っています。この神社は、貞観元年(859)に正五位下に叙せられた「樺井月読社」、『延喜式』神名帳所載の「月読神社」に比定される式内社です。江戸時代には御霊神社とも記されているといいます。(資料1)拝殿側面に掲げられた「月読神社々記」によれば、「平城天皇の大同4年、天皇譲位の後、宮殿を平安京より平城京に遷されんとせられし時、造宮使がその途、大住山において霊光を拝し、ここに神殿を造りしに創まるという。貞観元年8月に月読宮と称え、承暦元年には天下疱瘡に悩むにつき勅使産幣ありという。」と記されています。中世には兵乱を因として社殿の焼失、その後の復興を繰り返してきた歴史があるそうです。また、このあたりの大住地域は平安時代末期以降室町時代末期まで奈良興福寺の寺領になっていたところだそうです。また、明治維新の折には、鳥羽伏見の戦いを避けるために石清水八幡宮の御神体が一時この神社に遷座され、当時存在した神宮寺の薬師堂に御神宝が安置されたという歴史的経緯もあるとのこと。(駒札、月読神社々記より) 左は「隼人舞発祥之碑」の裏面です。銘文が刻まれています。この碑の傍に右の「大住隼人舞」の標識があり。この舞は市指定文化財です。表示銘板は市制定前の田辺町時代の指定表記のままですが。裏面によると、昭和47年(1972)4月に大住隼人舞保存会が結成され、昭和50年(1975)12月19日に当時の田辺町により無形文化財の指定第1号に登録されたそうです。この記念碑は平成2年(1990)11月に建立されています。 傍にこの駒札「隼人舞伝承地」が立っています。この駒札の要点は次の事項です。*7世紀頃に九州南部の大隅隼人がこの地域(大住)に移住してきた。*隼人舞は大嘗祭(天皇の即位時)他の機会に朝廷で演じられた。*隼人舞は日本民族芸能の二大源流のうちの一つ。他は岩戸神楽。起源は神話にあり。*月読神社で奉納舞として継承されてきた。20世紀に継承者が隼人舞を復元された。*月読神社例祭の宵山の日(10月14日)に大住隼人舞が保存会により奉納されている。また、駒札によると、能楽五座に含まれる外山座は月読神社の外山神楽座であると、文学博士志賀剛氏(1897~1990)が論じていることも記されています。 一の鳥居を過ぎると境内地は少し下ったところになり、二の鳥居があります。 手水舎を通り過ぎ、まずは社殿に。 拝殿 祭神は、月読尊(ツキヨミノミコト)・伊邪那岐尊(イザナキノミコト)・伊邪那美尊(イザナミノミコト)。拝殿の先にある現在の本殿は、東に面した一間社春日造、銅板葺(もとは桧皮葺)の建物です。春日造とは奈良の春日大社本殿の形式です。大住地域の多くが興福寺の荘園だったことがたぶん本殿の形式に影響しているのでしょう。現在の本殿は明治26年(1893)に名古屋の帝室技芸委員・伊藤平左衛門により設計され、建立されたものだそうです。旧来のものを踏襲していると考えられるとか。 「本殿を囲む瑞垣の正面に、鳥居を配置する珍しい構造が見られる」(資料5)のです。 長剣梅鉢紋が飾り金具似見えます。 飾り瓦 拝殿屋根の鬼板境内社がいくつかあります。 御霊神社「少名毘古那神(スクナビコナノカミ)を祭神とし、薬の神様として信仰を集め、又クサガミさんの名で知られている。腫物に霊験有りと言う」と記された説明が瑞垣の正面の門註に掲げてあります。この末社本殿は春日見世棚造で、江戸前期の建立と推定されているそうです。(資料1) 天満宮社務所の西側、拝殿の北東に位置します。左斜め後に見えるのは「八幡宮拝所」と刻された石碑です。 境内には池が設けられていて、その中島に「弁財天」が祀られています。 池から少し離れたところに、稲荷鳥居が並んでいます。稲荷社が祀られているのでしょう。神社自体は未確認です。ここは二の鳥居の手前、向かって左側に位置します。 「事比羅神社」の木札が掛けてあります。祭神は事代主神です。 池の端の一隅には、「神武天皇遙拝所」と刻された石碑もあります。調べてみると、奈良県橿原市に「神武天皇畝傍山東北陵」と称される円丘の御陵が宮内庁により管理されています(資料6)。またすぐ傍には橿原神宮があります。祭神は神武天皇と皇后の媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。(資料7)つまり、奈良県橿原市に所在の御陵と神宮の方向を向かい遙拝する場所ということになります。今回、時間がなくて見落とした遙拝所と境内末社が他にもあるようです。まとめをしていて気づきました。残念。 月読神社本殿に向かって左方向、境内の南西角付近に「元薬師堂跡」の石標が立っています。この石標の東方向に上掲の池があるのです。ここは、「薬師堂」という名の通り、神宮寺だった宝生山福養寺のお堂の一つでした。福養寺は明治の神仏分離で廃寺となります。薬師堂の本尊は上記「両讃寺」に移されたのです。かつての福養寺は、奧ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊・北ノ坊(大住小学校がその跡地)・東ノ坊の6坊が備わっていたそうです。これらもすべて廃寺となりました。 宝生座発祥の地碑面には次の説明が記されています。「月読神社の神宮寺を宝生山福養寺といい、老松の茂る池には亀が遊んでいた(今の大住中学の地)。この神社と寺に奉納した能楽座を宝生座(外山座とも)と称した。」 平成2年(1990)2月に建立され、志賀剛文学博士の撰文によるものです。上掲「隼人舞伝承地」には大和五座と記されています。大和地方には緒座が存在したのでしょうが、「大和四座」として4つの猿楽座が有名です。現在の能楽の源流となった四座です。坂戸座・円満井(えまい)座・外山(とび)座・結崎(ゆうざき)座を言います。「鎌倉時代末期~室町時代初期に、南都の春日神社、興福寺に奉仕する奉仕者集団(職業的猿楽師)として、興福寺の修二会や春日神社の薪(たきぎ)猿楽などを演能」した集団です。坂戸・円満井・外山・結崎はそれぞれ後の金剛・金春・宝生・観世の各座となります。(資料8)境内には、常緑高木でヤマモモ科の木、ヤマモモ(山桃)の大樹があります。100年以上の推定樹齢の大木です。「京田辺の未来に継ぐ古木・希木」の一つに挙げられています。余談です。私が「月読神社」という名称とその存在を初めて知ったのは、京都の松尾神社とその周辺の歴史探訪の講座に参加したときでした。そのとき目にした駒札「月読神社境内」の冒頭に次のように記されていました。「月読神社は延喜式では明神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。」と。月読神社が京都の地に創建されるに至る過程の一つとして、この大住に月読神社が祀られたのかもしれません。壱岐島由来の神ですから九州から移住してきた大隅隼人の人々には受け入れやすい神だったのでは・・・・。人々の移動・移住と神の伝播ルートを重ねて想像したくなります。月読神社を出て、「大住車塚古墳」に向かいます。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「京都の歴史散策35 ~松井・大住を歩く」 2018.5.10 (当日配布のレジュメ 元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成)2) 両讃寺沿革 :「発迎山両讃寺」3) 『仏像を読む』 佐伯快勝著 学研文庫 p158-1624) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p5385) 「月読神社」 当日、境内で入手したリーフレット6) 神武天皇畝傍山東北陵 天皇陵 :「宮内庁」7) 橿原神宮 ホームページ8) 大和四座 :「コトバンク」補遺二尊院 ホームページ 二尊院について 京田辺市月読神社 大住隼人舞です.:「ゴールドメイト退会者、金色のソーマ酒」大住隼人舞 :「京都府観光ガイド」隼人舞 :「京田辺市立大住中学校」第225回 神武天皇陵の謎 :「邪馬台国の会」橿原神宮・神武天皇陵 :「邪馬台国大研究」宝生流とは :「宝生会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -1 天神社、仲谷古墳群、女谷・荒坂横穴群、松井横穴墓群 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -2 松井の来迎寺 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -4 大住車塚古墳・澤井家住宅・天津神社ほか へこちらもご覧いたあだけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -3 月読神社・最福寺(延朗堂)・地蔵院ほか
2018.05.27
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タイトルに松井の来迎寺と記したのは、この探訪の最後に訪れた「天津神社」の近くにも同じ浄土宗に属するもう一つの来迎寺があるからです。(末尾の部分地図に青色の丸をつけたところ)こちらの来迎寺は、天神社の少し南東方向で、向山の東麓に位置します。 (京阪バスの最寄りバス停が「松井」で、徒歩5分ほどの距離です。) 山門を入ると、すぐ右側に鐘楼があります。 そこで目に止まったのは鐘楼の基壇の手前に並ぶこの「石造六観音菩薩像」です。お寺で石造六地蔵菩薩像をみかける機会は多いのですが、六体の観音像が並んでいるのを拝見した記憶がありません。これが初めてのように思います。余談ですが、観音像は飛鳥時代に既に将来されており、一尊の観音菩薩を信仰することは奈良時代の頃には広がり人気がありました。平安時代になり、六種の観音が集成されて六観音信仰の形態が登場したそうです。六観音とは「地獄以下の六道に輪廻して苦しむ生きとし生けるものを救済する目的で、六道それぞれに酒類の異なる六体の観音菩薩を配したもの」です。六観音信仰の直接の起源は、隋代の天台大師智顗の書いた『摩訶止観』だそうです。そして、天台宗・真言宗において、六種の観音菩薩の取り上げ方が一部異なりますが、密教系の信仰の中で広がりました。この六観音に影響され六地蔵信仰が広がって行きます。地獄思想との絡みで地蔵信仰が展開され、六道輪廻と六地蔵信仰が広く流布して行きます。一方、観音菩薩の方は、六観音信仰という形よりも、三十三観音化身という考え方が主になっていきます。10世紀の頃、花山法皇(986~1006)が、西国三十三カ所観音霊場巡礼を始められたと伝えられています。江戸時代の中期頃には三十三観音に対する観音信仰が広がります。また○○三十三か所霊場巡礼という形式の信仰が活発にに展開されて行きます。(資料1)六観音、六観音信仰という形を知ってはいましたが、具体的に石造六観音菩薩像が並ぶ姿を見るのは初めてのように思ったのです。 山門を入ると、正面に本堂があります。本堂の正面にこの扁額が掲げてあります。扁額自体は近年に奉納された感じですが、念仏道場という言葉が、浄土宗が流布し始めた頃の時代を思い出させます。来迎寺は、永禄8年(1565)に道誉上人により浄土宗寺院として開山されたとされています。後に法誉上人が中興されたとか。現在の本堂は1679年に寄進により建立され、1997年に改装されているそうです。堂内を拝見してまだ新しい感じを受けたのは、そのせいかもしれません。(資料2,3) 本堂の内陣と外陣の間の欄間には対面する龍像が透かし彫りにされていて、「甘露殿」と記された扁額が掛けてあります。 本堂の正面に阿弥陀三尊像が祀られています。 本尊阿弥陀如来坐像は13世紀の造立と考えられています。(資料2)撮影許可を得て取った写真を改めて見ていて再認識したことですが、平安時代の定朝作で宇治・平等院鳳凰堂の阿弥陀仏坐像は、弥陀定印といわれる印相で両手を組まれています。阿弥陀如来坐像の場合、印相を定印で表現するのが一般的だと思いますが、来迎寺の場合、阿弥陀如来立像と同じ施無畏印(右手)、与願印(左手)の印相で表現されています。釈迦如来坐像も施無畏印・与願印の印相です。手許の本で類例を調べてみると、12世紀末に実慶作阿弥陀如来坐像があります。重文、静岡・函南町蔵。運慶自身もまた定印ではなく説法印の阿弥陀如来坐像を造立しています。こちらは、重文、静岡・願成就院蔵。(資料4)もう一つ、特異なのは袈裟をかけている姿だという点でしょう。袈裟のリングが彫られています。そのため特異な衣紋の表現がみられます。(資料2)袈裟をかけた仏像で連想するのは、興福寺北円堂に安置される国宝の木造無着・世親立像です。 斜めから眺めた三尊像 本尊を異なる角度から見て 脇侍は向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩です。共に両手に蓮台を持ち、立ち上がろうとしている姿でしょうか。そこから連想するのは「阿弥陀二十五菩薩来迎図」です。 本堂を拝観して、いろいろと興味深いところがありました。 本尊に対して内陣側面の上部両端に天女像が障壁画として描かれていることです。 向かって左の脇陣も、正面の欄間に阿弥陀如来坐像と観音菩薩像他が描かれています。 右の脇陣には小振りの厨子が安置されています。左の画像ですが、あまり見かけない彫刻像が厨子に収めてあります。上昇しようとする龍の頭部に蓮華座と光背を載せています。これで完成像なのか、あるいは蓮華座には仏が坐しておられたのでしょうか。蓮華座と光背でその存在を暗示しているということでしょうか。右の画像は2体の僧像が安置されています。この二僧が誰を表すのかを、お尋ねしている時間がありませんでした。浄土宗のお寺では、脇陣に善導・法然の椅坐像を安置してあるのを見かけます。この厨子に安置されているのは本寺の善導・法然の立像でしょうか。あるいは当寺の創建、中興に寄与した僧なのでしょうか。来迎寺を訪れられ判明したら、ご教示ください。 もう一つ、脇陣も含め欄間部分に数多くの小仏像が奉納されていることです。千体仏で本堂を荘厳するという意図があるように受け止めました。境内には、「観音堂」や「地蔵堂」があります。来迎寺を訪れた拝観目的のもう一つの対象がこの観音堂の本尊です。 座敷のような感じのお堂内に本尊と、西国三十三カ所観音霊場の小観音像群が両脇に雛段状にして安置されています。 堂内掲示の御詠歌額 拝見のお目当ては、勿論この本尊観音菩薩坐像です。 一木造の仏像。京田辺という立地からか、9世紀に造立された大和の仏像との共通点が研究者により指摘されているそうです。京仏師の作風と大和仏師の作風がこのあたりでは相互影響し融合して仏像が造立されるという経緯があるのでしょうね。素人には詳しくはわからない・・・・・学習が必要ですねぇ。 この観音菩薩像で特徴的なのは結跏趺坐した両足の裏側が露出した形で表現されていることです。一般的には外側に組む足の方だけを露出し、もう片方は衣の下に隠れて、衣文で表現されていると思います。この仏像の両足裏の彫り方は少しずつ違うようです。 この一番左下の一列目は左から第18番六角堂頂法寺(如意輪観世音菩薩)、第17番六波羅密寺(十一面観世音菩薩)、第16番清水寺(千手観世音菩薩)です。冒頭に載せた画像に山門に向かい左側の坂道になった景色があります。そこに道路側に建物の背後が写っています。そこが地蔵堂です。 建物の両側に3体ずつの6体、つまり六地蔵が安置されています。 その前の小さな僧像 建物の中央部は上下の二段になり、下段に安置されているのがこの石塔です。一番下は、蓮の花弁がレリーフされていますので蓮華座でしょう。その上に立方体の石が置かれ、正面に「法誉上人」と刻されています。その上に卵形の石が載せてあります。傍に球形の石が置かれています。私の勝手な想像です。法誉上人は中興の祖となった人。どこか別の場所に上人の寂滅後に五輪塔の墓が造られていたのです。しかし年月が経ち石塔も欠損が出る状態になっていた。そこで、新たにここに無縫塔(卵塔)風に墓石材を組み合わせて上人の供養墓を設けたというストーリーを描きました。推測間違いの可能性大ですよ。それぞれの石材の風合いの違いがそんな想像をかきたてました。この法誉上人墓の上部に、地蔵尊が安置されているのです。 彩色鮮やかな地蔵菩薩立像です。(格子戸のガラスが鏡面になり反対側の屋根を白っぽく映じていますが、仕方なし。) 仏像の上部を見ますと、木像彩色の地蔵菩薩立像のようです。 格子戸のガラスが鏡面反射していますので、衣紋が見やすい向かって右側の下部を切り出してみました。彫刻像の衣紋の上に極彩色で緻密な文様が描き込まれています。 山門屋根の鬼瓦 緩やかな細い道を下ります。 西に行けば府道736号線に松井の交差点で合流します。北方向は農地が広がっていて、北東方向には工場群があるようです。道路を東方向に進みますがバス停「松井」はすぐそこです。バス停の傍に、通り過ぎるだけになりましたが、「西念寺」(浄土宗)があります。「西念寺」は13世紀に建立され、天文8年(1539)に中興されたお寺だそうです。そして天正4年(1576)に松井氏により再興されたと伝わっています。「定朝様ではあるが衣文が深くなるなど鎌倉時代の様相を見せる」本尊阿弥陀如来坐像が祀られているそうです。当日のレジュメに掲載の写真では定印の印相の仏像です。(資料2)(末尾の部分地図に空色の丸をつけたところ) 東方向に進みます。道路の南側に小祠があり、覗いてみるとこの石仏が安置されています。頭部の形からみると、地蔵尊ではなさそう。何仏でしょうか・・・・。 道沿いに進み、東から南東方向に転じて府道251号線(富野荘八幡線)を進むと「松井」の境界を示す標識とその先に「新名神高速」の高架が東西方向に横切っている景色が見えます。このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。高速道路高架の少し手前で松井地区から大住地区に入ることになります。次に大住地区での最初の探訪先は「両讃寺」です。大住八河原という地域にあります。府道沿いでの目印は大住交番です。つづく参照資料1) 『庶民のほとけ 観音・地蔵・不動』 頼富本宏 NHKブックス p38-40,p60-622) 龍谷大学REC「京都の歴史散策35 ~松井・大住を歩く」 20185.10 (当日配布のレジュメ 元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成)3) 来迎寺 :「京田辺道中記」(京田辺市観光協会)4) 『仏像 日本仏像史講義』 山本 勉著 別冊太陽 p217,p240補遺木造無著・世親立像 :「興福寺」六観音 :「コトバンク」印相 :「Flying Deity Tobifudo」[国宝仏像]阿弥陀如来坐像(定朝作)[平等院鳳凰堂]の解説と写真:「ART IROIRO」[国宝]願成就院の運慶作諸仏 :「伊豆の国市」阿弥陀二十五菩薩来迎図 :「知恩院」阿弥陀さま-極楽浄土への誓い- :「大津市歴史博物館」西国三十三所巡礼の旅 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -1 天神社、仲谷古墳群、女谷・荒坂横穴群、松井横穴墓群 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -3 両讃寺、月読神社、様々の発祥地 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -4 大住車塚古墳・澤井家住宅・天津神社ほか へ
2018.05.25
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JR学研都市線(片町線)の「松井山手駅」駅前に出ると、斜め前に「一休さん」のブロンズ像が出迎えてくれます。初めて降り立った駅、なぜここに一休さん? すぐ近くに、地域案内地図が掲示されています。 一番右の地図が、この地域についての詳細図です。京田辺市の北部を切り出したのがこの部分地図。地図を見ていると、大住駅の方が近いようですが「一休寺」があることに気付きました。松井山手駅前広場がバスターミナルになっていますので、ここからが便利なのかもしれません。「酬恩庵一休寺」は近鉄新田辺駅と結び付けて記憶していましたので、JR松井山手駅と結びつきませんでした。酬恩庵一休寺のホームページを見ますと、このどちらの駅からもタクシーで5分位の距離になるようです。(資料1)さて、今回は京田辺市の北部である「松井・大住を歩く」という「京都の歴史散歩」講座に参加して巡った探訪ルートの事後振り返りを兼ねてまとめたご紹介です。京田辺市の北部は、もとは綴喜郡大住郷と称された地域です。「大住という地名は律令国家形成期に大隅隼人が移住した事によるものと考えられ、奈良時代の計帳が残る」そうです。(資料2)『続日本紀』の称徳天皇・天平神護元年8月1日の条には、「従三位の和気王が謀反の罪に問われて誅された」という文から始まり、その経緯が記録されています。その中に、「天皇のの血筋には跡継ぎがなく(称徳に皇子のないこと)皇太子も決まっていなかった。そして紀朝臣益女は巫(みこ)としてよく知られ、和気にに寵愛されていた。和気は心中ひそかに皇位につくことを望み、益女に厚くおくり物を贈ってまじないを頼んでいた」と記されています。益女が和気の依頼を受けて、称徳天皇と道鏡を呪詛したというのです。隠謀が発覚して逃れた和気は捕縛され、伊豆国に流されることに。その途中、山背国相楽郡で絞首され、狛野(こまの)に埋められたと記されています。この時、「また益女を綴喜郡松井村(綴喜郡田辺町松井)で絞首した」(資料3)と記録されているのです。松井という地名が登場してきます。この松井の地は古代官道の山陽道が通っていた場所にあたるそうです。(資料2)当時の人々への見せしめになる場所として使われたということでしょうか。今回の探訪先を上掲部分地図上にプロットしました。案内地図の史跡名所等として黒丸付で記名されれいて、今回探訪(通過地点を含む)したところはマゼンダ色に塗り替えました。そして、遠望あるいは通過点、探訪地で地図に明記されていない箇所に色丸を追加しました。松井山手駅前に集合した後、案内図に記載の「現在地」、駅前広場の傍から北方向に進み、山手東の住宅地の間を通り抜けて行きます。北方向に通り抜けた先には、 東側には「松井」の丘陵地が南北に伸びています。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 道路の西側は、地図を見ると口仲谷、宮田という地名の地域です。ここに今、巨大な直方体のビルが建設中でした。参加者の話では物流センターとして機能する建物が建てられているそうです。丁度この辺りが、かつての「仲谷古墳群」だそうです。今や想像の糸口もない状態。発掘調査によれば、6・7世紀に造営されたと推定される円墳13基が確認されているとか。主体部は木棺直葬の形式だったそうです。(資料2)(黄色の丸のところ) 参加者の話をなるほどと思ったのは、建設中の建物の北辺からほど近いところに「第二京阪」の高架が見えました。高架下の傍を通る道路を横断し、北に進みます。振り返って「今池」の南を通過する「新名神高速」道路を眺めた景色。 今池を回り込み、北東方向に進むと、「天神社」のある向山の丘陵地が見えます。この向山には、横穴墓70基が検出されているそうです。このあたりが「松井横穴墓群」の所在地です。これら横穴墓は「副葬品に武器がほとんど無く、農業に関わる有力者のものと推定される」(資料2)とか。(青色の丸のところ) 西に目を転じるとこちらにも丘陵地が遠望できます。「女谷・荒坂横穴群」が発掘された場所です。八幡市域になるところで、ここは6・7世紀に造営されたと推定される横穴群で80基以上が確認されているといいます。(資料2)(紫色の丸のところ) 道沿いに進むと、この大きな案内板が道端に立っています。緩やかな坂道をしばらく登ります、実は後で気づいたのですが、この参道は西から境内に向かう裏参道でした。 分岐点には標識が出ていて、道を間違う心配はありません。 最初に目に止まったのが、「明治神宮遙拝所」碑とその反対側にある小祠です(祭神不詳)。神社境内地には、北辺から入ることになります。拝殿と本殿の北側がまず目に入ります。 拝殿 拝殿屋根の棟には獅子口が使われ、足元は宝珠のレリーフで装飾されています。獅子口の綾筋の下には宝珠の断面の形の様な意匠が見えます。軒丸瓦の前面の縁が半円の形状で草花文のようです。蕪懸魚をアレンジしたような懸魚がスッキリとしています。 本殿を北東側から眺めた景色 本殿を正面から拝見すると、二間社流造で、2つの扉が設けられています。祭神は伊弉諾命(イザナギノミコト)と天照大神(アマテラスオオミカミ)です。正面側、表参道の「一の鳥居」の傍に立っている駒札を先に載せておきます。「天神社」は『延喜式』の神名帳に所載の「山背国綴喜郡 天神社」に比定されている式内社だそうです。駒札を参考に、『続日本紀』の桓武天皇・延暦4年を調べてみると、11月10日の条に「天の神を交野の柏原(大阪府枚方市片鉾本町)に祀った。前々から行なってきた祈願に対するお礼としてである」という記載があります。延暦4年は長岡京遷都の翌年です。同書翻訳者は括弧書きで所在地を記し、枚方市にある杉ケ本神社の場所を比定しています。(資料3)一方、社伝には、この松井の地にも交野ヶ原・柏原の地名があり、この松井交野柏原に社が創祀され、後に現在地に移したとされているとか。この両者の地名の関係は興味深いところです。(駒札)尚、枚方市には、交野天神社(枚方市樟葉)と上記杉ケ本神社(枚方市片鉾本町)があります。造営墨書銘として、慶安2年(1649)、貞享元年(1684)、享保2年(1717)などがあるそうです(資料2)。駒札にはこの享保2年の時に、二棟が現在の一棟になったと説明しています。平成4・5年(1992・1993)に屋根の葺き替え、彩色の修理などが行われたときされています。本殿の極彩色が鮮やかなのはこの修理修復があったお陰なのです。それでは本殿の周囲をぐるりと拝見することに・・・・。 本殿正面、向拝の頭貫には金龍と極彩色の雲形という形で雲龍図が描かれています。 蟇股には松が透かし彫りで彩色されています。 正面の扉の幣軸部分には鶴と松が描かれています。扉の上の欄間には鳳凰が描かれています。縁起の良いもので荘厳するという意図なのでしょう。 本殿の北側面 極彩色ですが、落ち着きのある華やかさを感じます。 虹梁に描かれた波濤文は長押の波濤文に連なっていきます。 脇障子には、侍神が描かれています。 本殿の基礎部分を眺めると、こんな瓦が保存されてます。 南側面から眺めた本殿の背後 本殿 南側面の全景 南北両壁面装飾の基本パターンと彩色は一貫性を保っていますが、蟇股の草花の彩色透かし彫りは異なる意匠です。その下の獅子像も南北で異なる姿態、彩色で描かれています。 木鼻の外形はシンプルな象の頭部の形ですが、側面の彩色文様は抽象的な意匠です。 南西側から眺めた本殿。この本殿は見応えがあります。 本殿に向かい、右側に並置された境内社の合祀殿があります。右から、稲荷神社、松尾神社、熊野神社が勧請されています。上掲に見るとおり、南側も合祀殿ですが、こちらは八幡神社と春日神社が勧請されています。 拝殿の前は石段です。こちらが正面の参道 二の鳥居。鳥居前の石灯籠の竿には、「天神社」と刻されています。 二の鳥居の北側には平地が開けています。明治の神仏分離令が施行されるまでは、ここに神宮寺として「中性院」が存在したのです。いまは跡地が残るだけ。この中性院に安置されていた諸仏は社務所で管理されているそうです。不動明王像、役行者像、聖天像(歓喜天像)の3体で、聖天像は南北朝~室町時代、14世紀の造立と推定されている仏像だとか。(資料2、駒札) 一の鳥居松井の集落を通る府道736号線の南側で、集落の中に民家に挟まれる形でこの石鳥居が立っています。一の鳥居の表参道から本殿に向かうアプローチは、裏参道からのアプローチとは異なる雰囲気を感じました。裏参道はちょっとお隣りさんにお邪魔する感じ、表参道はちょっとだけ敷居の高いお隣を訪ねるという雰囲気でしょうか。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。次の探訪先は、松井の集落でほんの少し先にある「来迎寺」です。つづく参照資料1) 酬恩庵一休寺 ホームページ2) 龍谷大学REC「京都の歴史散策35 ~松井・大住を歩く」 20185.10 (当日配布のレジュメ 元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成)3) 『続日本紀 全現代語訳』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫(中)p356,357 (下)p366補遺紀益女 :「大和の歴史」天神社 :「京田辺市観光協会」山城(綴喜郡)の式内社/天神社 :「戸原のページ」交野天神社 :「ふるさと枚方発見」交野天神社 :「神社参拝辞典」杉ケ本神社 :「local wiki」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -2 松井の来迎寺 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -3 両讃寺、月読神社、様々の発祥地 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -4 大住車塚古墳・澤井家住宅・天津神社ほか へ
2018.05.24
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北野の御土居を再訪した折りに、初めて訪れてみました。「大将軍八神社」は、一条通と天神通の交差する辻で、一条通を西に入ったところの北側に所在します。逆方向から言えば、西大路一条の交差点から東方向に入って行った先です。 通りに面した石鳥居には「大将軍社」の額がかけてあり、傍の社号標には「方除祈願 大将軍八神社」と刻されてます。西大路一条の交差点より一つ南に「大将軍」という道路標識が交差点に出ています。この交差点は、西大路通と仁和寺街道の交差するところです。以前に一度、大将軍を冠しているのでこの近くだろうと、地図無しで近辺を歩いて一度探訪を途中で止めたことがあります。つまり、「大将軍」の道路標識に惑わされないようにしてください。 道路に面して、この駒札が立てられています。この冒頭の説明によれば、平安京が造られたとき、大内裏の北西角(天門)の地に造営されたのが始まりであり、都城の方除(ほうよけ)守護神として祀られた神社です。境内の方德殿(宝物庫)拝観の手続きをする際にいただいた案内リーフレットには、「桓武天皇の勅願によって、春日山麓より大将軍神」を勧請したとあり、「大将軍神とは、陰陽道・道教の信仰による方位を司る星神であり、この神の方位を犯すと厳しい咎めを受けるというので、古来、非常に恐れらてきました。」と説明されています。当初は陰陽道のお堂として「大将軍堂」と称されたそうですが、当初の大将軍堂は応仁の乱(1467~1477)で荒廃し、天文4年(1535)に神社として復興したそうです。この時に「大将軍社」と改称されたのでしょう。そして、明治以降に現在の「大将軍八神社」と改称されています。(資料1,2)江戸時代に出版された『拾遺都名所図会』を見ますと、「大将軍社(だいしょうぐんのやしろ)」の項目があります。「西京一条の西大将軍町にあり。王城鎮護の為むかしは四方に社ありけるよし、拾芥抄に見へたり。此所西方の社にして星を祭るなり。首楞厳経(しゅりょうごんきょう)曰、上天大将軍。其註に曰、天帝を官する将なり、分て三十三天に住す、各鬼神を領して四方を鎮護すと云云。一説、中古兵乱の時、京城の北方に蜀の関羽の廟を建て祭るともいふ」と説明しています。(資料3)脇道に入ります。上記の私の失敗経験からの関心の波紋です。現在の地図を見ますと、西大路通の東側を南流する紙屋川以西(つまり大将軍の道路標識のある交差点を含む)で一条通の南側あたりが「大将軍」と呼ばれる地域なのです。大将軍川端町、大将軍西町、大将軍一条町、大将軍南一条町、大将軍東鷹司町、大将軍西鷹司町、大将軍坂田町という町名が付けられています。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。一方、現在の神社の所在地は「上京区一条通御前西町48」です。最近見つけた「所蔵地図データベース」(国際日本文化研究センター)を参照してみました。「京師内外地図」(内容年代は西暦901-1600年で、成立年代は1750年)を見ると、天満大神御輿岡・観音寺と記された境内域の南で、紙屋川の東、大内裏址の北西の位置に、「大将軍堂」「大将軍村」という区画表記があります。(資料4)また、「名所手引京圖鑑綱目」(内容年代・成立年代西暦1754年)にも、ほぼ同じ位置に「大将軍村」と明記され、その二筋東の通り、現在の御前通と思える南北の筋に「大将軍下竪丁」と読める記載があります。(資料5)時代が下り、明治時代の「京都府区組分細図」(内容年代・成立年代西暦1879年)には、天満宮の南で紙屋川の東に、西丁、東竪丁、下竪丁という表記が見えますが、「大将軍」という表記は天満宮の西、紙屋川の西の方に、平野と谷口の中間に記載されています。(資料6)大将軍という名称を冠した町域が西に発展し、元の地域が大将軍という名称を使わなくなったように推測します。大将軍を冠した町域は現在の行政区が北区です。興味深い変遷です。元に戻りましょう。 石鳥居の先に、表門と築地塀があります。門の左前には神社の年中行事が示されています。 門の屋根には獅子の飾り瓦が置かれています。 門を入り、振り返ると、この門は高麗門の形式でした。境内側から屋根を眺めると、表側の獅子に対して花の飾り瓦が置かれています。棟の両端の鬼板には菊紋が使われています。門内の右側に手水舎があります。手水鉢の正面には「大将軍」と刻されています。 社殿の前には、方位を示すモニュメントが設置されています。一見、近年に設置された感じです。方除けの神社のシンボルという風に思えます。 拝殿の正面に、「大将軍八神」と記された扁額が掲げてあります。陰陽道はやがて神道と習合していきます。江戸時代に、大将軍神を始めとする暦の神八将神が素戔嗚尊(スサノオノミコト)とその御子八神と習合して行ったそうです。そして、客人宮として聖武天皇・桓武天皇を祀っているとか。(資料2)資料を読むと、その習合のしかたは次のとおりです。 大将軍神=素戔嗚尊(スサノオノミコト)・天津彦根命(アマツヒコネノミコト) 大歳神(ダイサイシン)=天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト) 大陰神(ダイオンシン)=市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト) 歳形神(サイギョウシン)=田心媛命(タキリヒメノミコト) 歳破神(サイハシン)=湍津姫命(タキツヒメノミコト) 歳殺神(サイサツシン)=天穂日命(アメノホヒノミコト) 黄幡神(オウバンシン)=活津彦根命(イクツヒコネノミコト) 豹尾神(ヒョウビシン)=熊野樟日命(クマノクズビノミコト)改称された神社名の「八神」は、八将神と御子八神が習合した「八神」を意味するようです。習合により大将軍神即素戔嗚尊であり、大将軍神を含む八将神に御子八神が習合して対になったということなのでしょう。 社殿の西側に、「招霊(オガタマ)ノ木(神代榊)」とされる神木があります。「常緑高木でオガタマノキ属モクレン科小賀玉の木」と傍の木札に付記されています。 現在のこの社殿は、昭和8年(1933)に建立されたもので、拝殿と本殿がむすびついた権現造りの形式です。 西側面 東側面の扉 王城鎮護の為に勧請された故でしょうか、獅子口他に菊花紋が装飾されています。 木鼻はシンプルですが、大瓶束が玉形で上の大斗と併せて両側に装飾彫刻があるところが、蟇股・笈形ともスタイルが異なりおもしろいところです。その下の蟇股の透かし彫りも私は初めて見る意匠です。また、柱の礎石部分も二段になっています。 吊灯籠の文様にも菊花紋が使われています。高欄の交差する先端の上部に、覆屋根がつけてあるのがおもしろい。 社殿の南東側にこのお堂があります。北に「大金神」、南に「歳德神」の扁額が掛けてあります。柱にそれぞれの木札も掛けてあり、歳德神には吉方の神と付記されています。 お堂の北隣にはこんな一隅が。この前の通路から社殿の東側を北に進むと、東奥が「方德殿」(宝物庫)の入口です。(建物内は撮影禁止) 入口傍に、石造大将軍神像が置かれています。大将軍信仰は平安時代中期から鎌倉時代にかけて最高潮に達したようです。当時、大小様々な武将像や束帯像の木像が数多く祈願奉納されたそうです。現在武将神像50体、束帯像29体、童子像1体が保管されています。この方德殿に、これら大将軍神像群が立体星曼荼羅様に配置されて安置されています。(資料1)入口近くに、大阪・久米田寺所蔵「星曼荼羅図」の大きなパネル画像が掲示されています。後で社務所で宮司さんにお聞きすると、先代の宮司がこの星曼荼羅図を参考にして、大将軍神像群を立体星曼荼羅様に工夫して配置されたとのことでした。手許の本によると、これらの木造大将軍神像群は、「明治初年、境内の竹藪の洞穴から発見されたもので、いずれも丹彩色が施され、疫神的性格をよくあらわしている。わが国神像彫刻史上、特異なものとして著名である」とのことです。(資料2)方德殿の2階には、陰陽道安倍家に関わる古天文暦道関係資料、天球儀その他の神宝類が展示されています。(資料1) 社殿の背後には、なぜか、大きな鉄製碇が置かれています。経緯不詳。 その西側には、「大杉大神」の社が祀られています。此の地の土地神、つまり産土の神が鎮座しています。 その西隣には収蔵庫風の建物があります。ここが境内の北西角のようです。方德殿を拝観した後、社殿の背後を反時計回りに巡って、南に歩みます。社殿の南西側には、神輿庫の建物があります。その南に、 境内社があり、5柱の神々が一棟の社として祀られています。右側から、事代主神・稲荷神・菅原道真公神・長者神・大物主神です。 表門を入った左側(西)には、神木があり、その傍にこの境内社があります。こちらには、右側から命婦神、宗像三女神、猿田彦神が祀られています。これで大将軍八神社境内を一巡してきたことになります。上記の『拾遺都名所図会』の文中に「王城鎮護の為むかしは四方に社ありけるよし」という記載があります。大将軍八神社は四方の「西」にあたります。「東」の方は、東山区の東山三条下ル西入ル長光町に「大将軍神社」があります。三条通に面して「千鳥酢」の看板を掲げた「村山造酢」のビルの背後、南側です。「南」は、伏見区深草の藤森神社境内に、境内社として「大将軍社」が鎮座します。この2カ所は訪れており、既にご紹介しています。「北」の方向は、北区の西賀茂角社町に「大将軍神社」が所在します。この北の神社は未訪です。地図を見ていて気付いたのですが、御土居跡巡りで数回歩いた「玄琢下」の交差点を南北に通る「紫竹西通」をどんとそのまま北上して行けば西賀茂角社町に至るという位置関係でした。いずれ機会を作って、一度探訪してみたいと思っています。また、京都市内では、北区の今宮神社と左京区の岡崎神社の両神社にも境内社として「大将軍社」があるそうです。(資料7) 両社を昔一度訪ねていますがその折りは未確認です。残念。 境内を出て、一条通を東に進みました。そのとき見つけたのがこれです。一条通はかつては平安京の北端の通りでした。南は都の内、北は都の外、その境界の一条通は百鬼夜行の通り道! 不思議な話が数多いとか。そこで、2005年より「妖怪ストリート」と銘打って町おこし活動を行っているそうです。「大将軍コミュニティホール」の建物前 こんなのを目にしました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「大将軍八神社」 拝観手続きの時にいただいたリーフレット2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p217-2183) 大将軍社(大将軍) 拾遺都名所図会 :「国際日本文化研究センター」4) 「京師内外地図:中古:皇列緒餘撰部」 :「国際日本文化研究センター」 5) 「名所手引京圖鑑網目」 :「国際日本文化研究センター」6) 「京都府区組分細図」 :「国際日本文化研究センター」7) 大将軍神社 :ウィキペディア補遺大将軍神社 方德殿(宝物庫) 京都宝物館探訪記 :「京都で遊ぼう」 このサイトに大将軍神像群の立体星曼荼羅の様子が載っているのを見つけました。久米田寺 :ウィキペディア星曼荼羅 :「コトバンク」星曼荼羅 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」村山造酢株式会社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -3 藤森神社細見(2) 王城鎮護として藤森神社境内に鎮座する「南」の大将軍社をご紹介しています。 当初からここかどうかは不詳です。観照 & 探訪 [再録] 京都を歩く 御池通・仁王門通・三条界隈 王城鎮護として「東」の大将軍神社をこの記事の中でご紹介しています。
2018.05.20
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大阪の中之島に「中之島香雪美術館」がオープンしました。これは開館記念展として現在開催されている「『珠玉の村山コレクション』~愛し、守り、伝えた~」の第Ⅱ期展の入館チケット半券です。第Ⅱ期は「美しき金に心をよせて」というテーマで、コレクションの一部が展示されています。大阪に新しくできたこの美術館を初体験したくて、先日訪れてきました。はや第Ⅱ期展になっていました。もう一つの目的は、この美術観内に再現された茶室「玄庵」を見たかったことです。「喧騒を忘れる。市中の山居」というキャッチフレースに惹かれたからとも言えます。茶道は門外漢ですが、茶室の建物・姿を眺めることには関心があり、大阪のそれも中之島のビル内にどういう風に再現されたのかに興味津々というところでした。 これは土佐堀川側から撮った景色です。北に堂島川、南に土佐堀川が東西に流れ、その中間が中之島です。アクセスするための最寄り駅は、堂島川の方は京阪電車・渡辺橋駅、土佐堀川の方は地下鉄肥後橋駅です。四ツ橋筋を挟み、東に「中之島フェスティバルタワー」、西に「中之島フェスティバルタワー・ウエスト」のビルが建っています。 美術館は西側の「中之島フェスティバルタワー・ウエスト」の4階にあります。ビルの南東角の外側にエレベーターがあります。ビルに近づいて、警備員の方に尋ねるとこのエレベータ利用が一番便利と教えてもらいました。 4階のロビー部分です。「中之島香雪美術館」がこの4階のフロアーに設置されています。美術館入口から一旦遠ざかって、ロビーの端側から全景を撮りました。 こんな雰囲気の壁面の先に、入口があります。入口の左側に第Ⅱ期のバナーが出ています。 そして、ロビースペースで美術館入口に近い方の一端は、ガラス壁面になっていて、再現された茶室の全景をロビーから眺められるようになっているのです。つまり、この4階のフロアーに行けば、美術館内に入館せず茶室の外観全体を眺めるだけなら、無料で遠目に眺めることができます。だけど、関心のある人ならガラス壁面ごしでは物足らなくて入館して、すぐ近くから眺めたくなるでしょうね。 これは今なら手軽に入手できるPRチラシからの引用・ご紹介です。今回、美術館を訪れて知ったのですが、「香雪」という名称は村山龍平(1850~1933、敬称略)の雅号に由来するとか。村山龍平は朝日新聞社の創業者です。日本美術の保護にも大きく貢献した人で、自らも古美術品のコレクターとなったそうです。それがこの開館特別展で5期に分けて展示される「村山コレクション」になります。村山龍平は50歳代に茶の湯の世界を楽しむようになり、籔内流の茶を修得したそうです。「明治44年(当時61歳)には、籔内節庵の指導を受け、籔内流家元の茶室『燕庵(えんなん)』の忠実な写しである茶室『玄庵』を建てました。」(PRチラシより)その場所は、神戸市の御影にあった村山邸内です。この旧村山邸内の茶室「玄庵(げんなん)」は重要緒文化財に指定されているとか。神戸市東灘区御影にある旧村山邸の場所が「香雪美術館」の本来の所在地です。そういう意味では、大阪の都心に分館が誕生したということになるのでしょうか。常設展示となる茶室「中之島玄庵」は、チラシの説明によれば、「茶室『玄庵』を萱葺き屋根、土壁、柱などは実物と同じ部材を使い、路地にある飛び石の形や色までも忠実に再現しています」とのこと。茶室の傍近くで眺めると、路地の雰囲気とともに、茶室の内部が拝見できる形になっているのが、やはり良い! 茶室の間取りや室内の造作を、立ち位置を変えて違う角度から眺められ興味深いものです。写しの写しということになりますが、京都の家元藪内家にある「燕庵」がどういう茶室なのかがリアルにイメージできて参考になります。 これは第Ⅱ期展を鑑賞後に購入した図録の表紙・裏表紙です。 こちらは上記の引用に参照した大判のPRチラシです。この2種からもうかがえますが、この「稚児大師像」(重文)がやはり目を惹きつけます。「プロローグ 美しき金」というセクションに3つの展示品があり、その一つです。(5月27日までの展示。展示替えあり)鎌倉時代・13世紀に描かれた絹本着色です。弘法大師空海は入定する6日前に、門弟に遺誡「二十五箇条遺告」を与えたそうです。そこには空海が幼少の頃に、毎夜諸仏と語り合ったということが記されているとか。それを描いたのがこの作品だと言います。稚児大師像は十数点確認されているそうです。その中でも早い時期に制作された作品だとか。(図録より)調べてみますと、「二十五箇条遺告」が現代語訳されて公開されています。それを参照しますと「初めに(真言宗)成立の由来を示す縁起第一」の冒頭が「そもそも思いめぐらしてみれば、わたくしが昔生まれて、両親の家に住んでいたとき、5,6歳の頃、いつも八葉の蓮華の中に坐って諸々の御仏たちと言葉を交わしている夢を見た。」という書き出しで遺告が語り始められているのです。(資料1)冒頭から強烈な語りかけだと感じます。この図像を見た真言宗の僧は直ちに冒頭の一文を連想したことでしょう。今回は「第1章 金色の光」、「第2章 空間を飾る」、「第3章 金の装飾」の三部構成で企画展示されていました。「金」とくれば、どうしてもキンキラキン、豪華さ、ハデさがまずイメージされます。しかし、「美しき金に心をよせて」というテーマ・メッセージにあるとおり、金の使われ方が真逆にちかい感じです。金の永遠の輝きという恒久性はうまく使われていますが、金を作品の中に慎ましく落ち着いた輝きを放つ形で取り込んだ作品群でした。しっとりと抑制された華麗さを感じさせるという作品に惹きつけられました。 この第Ⅱ期展の柱は、やはりこの長谷川等伯筆「柳橋水車図屏風」です。2010年、「没後400年 長谷川等伯」展が京都国立博物館に出展されていたときに鑑賞して以来、久々に実物を眺めることができました。それもごく静かな雰囲気の中で、壁ぎわのベンチに腰掛けてしばし味わえました。この屏風が制作された当初は金の輝きが一段ハデ気味だったのかも知れません。また川面に描かれた波のダイナミックな流線は銀の細線で描かれていますので、白銀のきらめきを見せていたことでしょう。しかし、今ではちょっとくすんだ感じの橋の金や黒変した銀の波紋の落ち着きが、全体の大胆な構図の方に一層目を向けさせてくれます。水車の支柱にぶつかり跳ねる波しぶき、岸や蛇籠に当たる波しぶきが水流の流れの方向を示しています。柳は右隻の葉の短い若葉から、左隻の葉の長い描写に転じて行き、春から夏への季節の移ろいをも描き込み、橋を渡るという時の経緯を視覚的にも取り込んでいるようです。図録の表紙には、この屏風の水車の部分が切り取られて装画に使われています。 上掲大判チラシの背景に使われているのが、この「世界地図屏風」です。屏風の下辺に小さなコマ絵が並んでいます。世界地図に出てくる民族、たとえばイスパニア人、トルコ人、フランス人などの人物像を描いているのです。この屏風、なんと西洋画の技法を学んだ日本人が江戸時代17世紀に描いたと言います。一部の人々の世界認識がどこまで広がっていたかを推測できて興味深いところです。この屏風と六曲一双として、対になるのが、 こちらです。「レパント戦闘図」です。キリスト教国がイスラム勢力に初めて勝利した1571年のギリシャ、レパント沖での海戦です。海面や雲はかなりシンプルに形式化して描かれている一方、戦士や馬の群像は細密に描かれています。長崎の出島を窓口にして、西欧のかなりの情報が徳川幕府の為政者側にはもたらされていたということなのでしょう。歴史知識と併せて、絵手本となる描画も入手されていたということが推測できます。 このチラシがなかなかおもしろい発想です。「香」の「日」の部分には、明代・景徳鎮窯の「赤絵唐人物図鉢」に置き換えられています。この鉢「大マレモノ」という銘を村山龍平自身が付けたといいます。発色が中華的で美しい。「雪」の「ヨ」は、「菊水蒔絵硯箱」の蓋上面の上半分を使っています。一見同じ図柄のパターンを繰り返しているように見えますが、良く観察していくとそうではなく微妙に変化しているのです。流水変化極まりなしというところでしょうか。館内には蒔絵の技法についての丁寧な解説パネルが掲示されていて、学べる機会でもありました。等伯筆の柳橋部分図の下に金色の円が見えます。「花兎蒔絵面中次」の上蓋上面です。なかなか可愛いい意匠です。図録を読むと、この文様、名物裂の一つである花兎の金襴の文様を使い、それも反転させた図柄と組み合わせているという面白さを加えているものです。これらは「第3章 金の装飾」のセクションに展示されています。同じセクションで印象に残るものから2つご紹介します。引用できないので残念ですが、原羊遊斎作「菊蒔絵大棗」という作品に惹きつけられました。三種の大きめの菊を蓋面から胴にかけて重ねながら大胆に配置した意匠です。 野々村仁清の作品が2点でています。そのうち、面白いと思ったのはこの三角形の香合です。「色絵花唐草文鱗形香合」という名称です。三角形の香合というのを見た記憶が無いので、おもしろく感じました。余談ですが、改めて、手許の本で紋章をチェックすると、三角形を組み合わせた紋章がいくつかあります。二鱗、三鱗、五鱗、七鱗です。三鱗は武田鱗とも称するようです。3つの三角形を全体の外周が三角形になる形、つまり2つの三角形を並べた頂点に残りの三角形を乗せた形です。中央が逆三角形になります。五鱗は一見、風車を連想させます。もう一つ、「第2章 空間を飾る」というセクションで眺めた「堀江物語絵巻」を挙げておきます。作者は一応岩佐又兵衛(1578~1650)となっていますが、岩佐又兵衛とその工房が制作した作品だそうです。本来は全20巻程度の絵巻物だったようですが、現存するのは5巻分と断簡一幅でそれらが現状は分有されているそうです。会場では、コレクション3巻のうちの中巻を見たと記憶します。極彩色で色鮮やかに描かれていて、17世紀に描かれたとは思えないほど維持保存がうまくなされてきた感じでした。戦場に向かう人馬の一群が描かれ、巻の先には戦闘場面が描かれてます。かなり細密に描かれていました。岩佐又兵衛は戦国時代の武将荒木村重の子として生まれ、からくも生き延びることができた人で、大和絵が出発点だったそうですが、諸流派の技法を取り入れ、浮世絵の源流・開祖と評価されてきている人物です。最近少し関心を抱き始めています。(資料2,3)舟木本「洛中洛外図屏風」(東京国立博物館蔵)が岩佐又兵衛とその工房が製作したということは、特別展「京を描く 洛中洛外図の時代」(京都文化博物館)を鑑賞した折に知りました。一方、豊国廟の探訪絡みで、豊国神社のことを調べていたとき、「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館蔵)を描いたのがこの岩佐又兵衛と知った次第です。最後に、この中之島香雪美術館の茶室再現という特徴と併せて、もう一つの特徴は「村山龍平記念室」が常設展示として設営されている点です。 御影の旧村山邸の一室を再現したのでしょうか。少しレトロな雰囲気の室内があり、その一壁面に村山龍平の年表などのパネル掲示があります。村山龍平の生涯と日本美術の保護に尽力した様子がうかがえる顕彰スペースになっています。なかなか興味深い記念室です。このビルを出るときは、違うルートの探訪を兼ね、エスカレーターで1階まで下りました。余談ですが、このビルのガラス壁面から中之島を眺めた景色をご紹介しておきましょう。 開館してまだ日が浅いこと、なおかつ平日だったこともあるのでしょう。静かな日本美術鑑賞のひとときを過ごせました。美術館内が来館者でざわつくという喧騒も無く、まさに茶室「中之島玄庵」のスペースは「市中の山居」然としていました。ご一読ありがとうございます。参照資料「『珠玉の村山コレクション』~愛し、守り、伝えた~」 編集・発行 香雪美術館 中之島香雪美術館 開館記念展 図録「はじめまして 中之島香雪です」(大判PRチラシ)と第Ⅱ期展のPRチラシ1) 弘法大師空海25箇条 御遺告 :「英ちゃんの高野山真言宗」2) 岩佐又兵衛 :ウィキペディア3) 岩佐又兵衛 :「コトバンク」補遺香雪美術館 ホームページ 旧村山家住宅の概要弘法大師二十五箇条遺告 収蔵品データベース :「奈良国立博物館」原羊遊斎 :「コトバンク」File21 蒔絵 :「美の壺」(NHK)蒔絵(まきえ)とは?蒔絵の技法と作業工程について解説! :「KARAKURI JAPAN」研究ノート 京都国立博物館蔵《柳橋水車図屏風》について 大原由佳子氏 :「静岡県立美術館:柳橋水車図屏風(伝長谷川等伯筆) :「MIHO MUSEUM」柳橋水車図屏風 作者不詳 島根県立美術館蔵 :「Google Arts & Culture」柳橋水車図屏風 作者不詳 東京国立博物館 :「文化遺産オンライン」岩佐又兵衛 浄瑠璃物語絵巻 :「MOA美術館」岩佐又兵衛 「山中常盤物語絵巻」 :「美の巨人たち」岩佐又兵衛筆 「伊勢物語 鳥の子図」 :「文化遺産オンライン」長谷川等伯(信春)とは :「石川県七尾美術館」籔内家の茶 ホームページ 茶室・路地村山龍平 :ウィキペディア村山龍平 :「コトバンク」朝日新聞社創業者・村山龍平 系図 :「近現代・系図ワールド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.05.18
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前回は、出町橋とその西詰に立つ「鯖街道口」碑のところまででした。賀茂川と高野川の合流点に架かる橋です。そこからほんの少し南で御土居は今出川通に達します。ここは京の七口の一つ「大原口」です。今出川通で鴨川に架かる橋が「賀茂大橋」です。 この「史跡 大原口道標」が今出川通と寺町通の交差点の北東角に立っています。(文字Xを記入したところ)御土居が現在の河原町通より少し西側に南北方向で築造されていたそうです。そして一筋西が寺町通であり、この寺町通の東側に寺々が並んでいたのですから、この位置に道標があるのは納得できます。東方向に所在するものとして、「下かも、吉田、真如堂、比叡山、黒谷、坂本城」までの距離が刻されています。 江戸時代の1678年に出版された「新板平安城并洛外之図」を見ますと、今出川通から賀茂川に架かる橋が描かれていて、この時代には賀茂川と高野川の合流地点は今出川通よりももっと南側だったようです。現在と地形が異なることもわかります。(資料1)河原町通の西側にあった御土居跡は碁盤目状の町割り区画の中に取り込まれ市街地化してます。そこで、寺町通を南進します。今出川通から丸太町通までの区間の寺町通は、現在は「京都御苑」の東側を平行しており、この京都御苑の中に「京都御所」があるのはご存知のとおりです。寺町通の西側には京極小学校があり、東側には本禅寺・円龍院・心城院・清浄華院等の寺々が並んでいます。京極小学校の少し南に位置するのが「梨木神社」です。この境内地の南側には低階層ですがマンションができ、景観がかなり変わってしまいました。 (2014.7.19)清浄華院の南で、梨木神社とは寺町通を挟み東側にあるのが「廬山寺」です。(赤色の丸を付けたところ)廬山寺を訪ね、その境内の墓地を拝見した折に、事前の知識が無かったため、そこに御土居があることを発見(?)したのが、御土居の実見・探訪に関心を持ち始めた一つの契機でした。2014年は再訪だったと思います。先日、5月12日に久しぶりに御土居を眺めてきました。 山門を入るとすぐ本堂が見えます。境内の南東側に進むと、境内地の東側にある境内墓地への参道が見えます。左の塀の内側が廬山寺にある「源氏の庭」です。この墓地参道の入口手前を北側に行くと玄関口傍に、建物内の拝観受付所があります。(建物内・庭の拝観はは有料です。)境内墓地の方はエチケットを守れば、一応自由に拝見できます。 境内墓地の東端、この樹木が繁ったところが「御土居」です。 墓地内の通路を横切り、東端に近づくと「史蹟 御土居」碑が立っています。 北方向に進むと、御土居の側面には今は石垣が積まれていて、この箇所以外は手前に墓石が並んでいます。余談ですが、 その一隅に「元祖定朝法印」と刻された墓石があります。仏師定朝の墓です。ここを初めて訪れた時に、御土居と仏師定朝の墓があることに驚きました。非常に印象深い体験でした。尚、定朝の墓は蓮台野の方のお寺にもあります。既に別途ご紹介しています。本筋に戻ります。 定朝の墓石からもう少し北に歩むと、御土居上に設けられた墓所への石段があります。 その傍から、御土居上の状態を眺めることもできます。御土居が境内の境界になっていて、その東側は建物の壁面が見えます。その建物は河原町通に面しているという位置関係になります。現在では、南北方向の御土居で史跡として現存するのは、この廬山寺に約50メートルほどの長さの御土居だけです。築造された当時の御土居の大きさから考えると、御土居の幅や高さとしては一部が残っているといえそうです。所在地は「上京区寺町広小路上ル北之辺町」です。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。廬山寺の南東方向に隣接する形で、河原町通に面して「京都府立医大附図書館」があります。ごく最近、そこに御土居が復元されているということを知りました。 (2018.5.4)御土居の痕跡を残すために、さつきつつじでかたどった御土居が河原町沿いに復元されています(青色の丸を付けたところ)。(資料2) 河原町通西側歩道の北側から眺めると、復元御土居はこんな景色です。 復元御土居の中にこの「史跡 お土居址」説明図が設置されています。これより以南の御土居跡はもはやその痕跡すらうかがえない形で市街化しています。河原町通が御土居跡の外周と考えて、御土居のあった軌跡線をほぼ想像する手がかりになるくらいです。東本願寺は烏丸通の西側、七条通の北側にあります。その東本願寺の東、河原町通の西側に、東本願寺の「渉成園(枳穀邸)」というかなり広い庭園があります。(文字aを記入したところ) 印月池中の北大島(2015.4.7) 印月池中の南大島 その庭園には、印月池という大きな池があり、その池中に北大島・南大島と称される2つの島があります。これらはこの庭園に設けられた回棹廊の北側にある築山を含めて、庭園の北東方向から南西方向に一直線上に並んでいます。「近年の古地図研究によると、秀吉の御土居はまさにこのラインを通っており、徳川家光から周辺の土地を寄進された直後の1643(寛永20)年頃、渉成園の造営を想定して御土居とその外側を流れる高瀬川の流路を東側(現在の下京区土手町通あたり)に変更していたことが判明しました」(資料3)このことを、かつて渉成園を探訪した折りに頂いた冊子資料で知りました。ここでも、御土居跡が転用されて残っていたのです。更に南に向かえば、御土居は消滅します。御土居南部の軌跡はJR京都駅の構内を東西に通過し、油小路通を南に下ります。御土居の南端は現在の九条通の北側沿いから南側沿いに曲折する軌跡となりますが、東西方向になります。御土居の南辺は九条通あたりに築造されていたのです。つまり、御土居跡はJRの線路の下、道路、九条通沿いの建物下になっています。 「東寺」の五重塔と南大門を西側から眺めた景色です。この南大門が九条通に面しています。この門から南、100m以内の距離にかつては御土居が見えたのでしょう。 九条通南側のバス停「羅生門」の東側で少し離れた位置に、この道路標識が立っています。(文字bを記入したところ)現在は「九条御土居」という表示に「御土居」の外観上での痕跡が残るだけです。「史跡御土居」の残る北部には、大宮土居町・旧土居町・紫野西土居町という風に、地名の中にも御土居の痕跡が残っています。この九条通沿い周辺を歩いてみて、また地図も確かめましたが、町名のなかに「土居」を含めたものはありません。 九条通に南面した「矢取地蔵尊」のお堂です。(文字cを記入したところ)このお堂の西側に小さな「唐橋花園公園」への入口通路があります。 その公園内、お堂の北東側に、「羅城門遺址」碑が立っています。 九条通を南に渡り、少し南に下がって振り返ると北の正面にこの矢取地蔵尊のお堂が見えます。この付近が京都七口の一つ「鳥羽口」だったようです。「東寺近辺には鳥羽・大坂方面に対して鳥羽口という関が設けられて」ていて、「通行税徴収を目的とした経済関」でもあったのです。(資料4)御土居は南辺の東西方向から、南北方向に転じて、西辺になります。直角に曲折しながら一番最初にご紹介した「市五郎稲荷神社」の史跡御土居に繋がって行きます。この御土居西辺もまた市街化の進展で外観での痕跡はなさそうです。発掘調査ができる機会に御土居跡の確認が順次できるだけでしょう。御土居の西辺では過去に少なくとも6箇所で発掘調査が実施されているようです。(資料2) 「千本通」の西側にJR嵯峨野線が平行して北に延びています。その西に南端が七条通に面し、東端がJRの高架の西側に隣接する形で、「京都市中央卸売市場」があります。 JRの高架に比較的近いところに、この標識があります。京都七口の一つ「丹波口」です。(文字dを記入したところ)つまり、この付近に丹波口を設けて、御土居の西辺が南北方向に築造されていたのです。この御土居跡巡りでは、この標識のところが御土居の軌跡を外見的に示す最後の地点です。何年か越しに現地を実見し、再訪もして積み上げてきた探訪の全体を何とか編集できました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 新板平安城并洛外之図 2コマ目 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)2) 御土居跡コース 京都歴史散策マップ :「京都市埋蔵文化財研究所」3) 『名勝 渉成園 -枳穀邸-』 真宗大谷派宗務所(東本願寺)本廟部 参拝接待所4) 『街道の日本史32 京都と京街道 京都・丹波・丹後』 水本邦彦編 吉川弘文館 p116補遺「平安京左京七条一坊四町跡・御土居跡」 2009年 京都市埋蔵文化財研究所「平安京左京八条四坊八町跡・御土居跡」 2014年 京都市埋蔵文化財研究所「平安京右京二条二坊十一町・西堀川小路跡、御土居跡」 2014年 京都市埋蔵文化財研究所「平安京右京四条二坊十一町・西堀川小路跡、御土居跡」 2015年 京都市埋蔵文化財研究所「平安京左京九条二坊十六町跡・御土居跡」 2015年 京都市埋蔵文化財研究所「平安京右京四条二坊十一町・西堀川小路跡、御土居跡」 2015年 京都市埋蔵文化財研究所「平安京左京八条四坊八町跡・御土居跡」 2016年 京都市埋蔵文化財研究所「平安京左京八条四坊九町跡・御土居跡」 2016年 京都市埋蔵文化財研究所「御土居跡」 2017年 京都市埋蔵文化財研究所「平安京左京八条四坊八町跡・御土居跡」 2018年 京都市埋蔵文化財研究所京の七口 :「京都通百科事典」京の七口 :「京の霊場 数の資料室」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・御土居跡巡り -1 市五郎稲荷神社・北野中学校内の御土居、紙屋川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -2 北野天満宮境内の御土居 へ探訪 京都・御土居跡巡り -3 平野・鷹峯の御土居と紙屋川周辺 へ探訪 京都・御土居跡巡り -4 鷹峯の御土居、大宮の御土居ほか へ探訪 京都・御土居跡巡り -5 大宮交通公園の御土居跡、紫竹の御土居、賀茂川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -6 賀茂川景観・御土居跡の軌跡 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -3 廬山寺(紫式部邸宅址)その1 9回のシリーズの中で、No3,4で廬山寺をご紹介しています。観照 [再録] 京都・洛中 廬山寺 源氏の庭に桔梗咲くスポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 3回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都・洛中 千本釈迦堂周辺を歩く -1 紙屋児童公園・上品蓮台寺 上品蓮台寺の境内に仏師定朝の墓所があります。
2018.05.15
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黄色の丸は、前回の最後「紫竹の御土居」です。ここから賀茂川に沿い南東方向に転じる御土居跡が今出川通の手前まで築造されていました。賀茂川は北東方向から流れ下る高野川とこの辺りで合流し、方向を南に転じて、鴨川となります。今出川通の少し手前から、御土居も南に方向を転じて、南北方向で築造されていきます。平城京から平安京に遷都された後、しばらくして平安京の構想はつぶれました。居住地は左京が中心になり、更には鴨川の東側が寺社や別荘地として開発されていきます。秀吉が京都の都市改造で御土居を鴨川以西に築造しましたが、秀吉が没し、徳川幕府の泰平の世になり、京都の市街化が進展すれば、真っ先に賀茂川・鴨川沿いの御土居が開削され居住地化していくのは必至です。つまり、御土居は消滅し、御土居跡の外観も不分明になってしまいます。今回はかつてあった御土居の東辺周辺を巡り、ご紹介します。(資料1) 「紫竹の御土居」の少し北に、加茂街道と堀川通に分岐する交差点が賀茂川沿いにあります。車の写っているのが加茂街道です。この景色の右側が堀川通の起点になります。そして前回ご紹介した堀川通の北から眺めた「紫竹の御土居」の景色となるのです。 この交差点から加茂街道を少し北上すると、「御園橋」です。2018年4月時点では橋の改修整備工事が行われていました。地図(Mapion)をご覧いただくとわかりますが、紫竹の御土居地点以南の洛中は今宮北通あたりまで、碁盤の目状に市街化が為されています。そのため、御土居の痕跡からすら想像できません。そこで加茂街道沿いにまずは南東方向に南下していきます。そちらのご紹介から始めます。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 前回ご紹介した加茂街道にあるバス停「北野中学前」のところ、賀茂川の西側堤防上から撮った景色です。左が北方向で、御園橋が遠景に見えます。右が南方向で、上賀茂橋が遠景に見えます。 上賀茂橋西詰・北側 上流方向の眺め 下流方向の眺め 上賀茂橋西詰の傍に、賀茂川に架かる橋名と高野川に合流して鴨川と名を変えてからの御池大橋までの橋名の案内図が示されています。 川沿いに南下すると、大きな樹木が繁っています。「区民の誇りの木 ムクノキ」の木札が針金で巻止めてあります。 北山大橋 北山大橋から少し南下して、左岸を正面に眺めた景色です。北大路橋傍にはこんなロードマップが掲示されています。 上流側の景色 北大路橋 西詰の北側傍にこんな銘文碑が設置されています。 西詰からは、南東方向に左大文字が遠望できます。 その南には「出雲路橋」が架かっています。 加茂街道の西側にこの道標が立っています。出雲路橋は「鞍馬口通」から鴨川の東へ出る橋です。つまり、この橋の少し東あたりの御土居のところが、京の七口の一つ「鞍馬口」でした。つまり、鞍馬街道の入口です。余談ですが、この「鞍馬口」が起点となり、次のルートを辿ったそうです。 鞍馬口~下鴨中通~深泥池傍~円通寺脇~二軒茶屋・二ノ瀬・貴船口~鞍馬鞍馬街道は、鞍馬寺や貴布禰神社への参詣道であるとともに、北山の諸村ならびに黒田・山国などの丹波国と京の街を結ぶ諸物資供給路でもあったのです。(資料2) 加茂街道の西側傍に、この石碑が立っています。「師範桜碑」です。石碑には「志波無(しはむ=師範)桜碑」と刻されています。「賀茂川堤の桜は京都府師範学校教職員・生徒,同附属小学校児童による植樹に始まる。」(資料3)そうです。見落としているのですが、この石碑の背後に、出雲路橋・賀茂街道側から見えるように「出雲路鞍馬口」と刻された道標石があるのです。(資料4) 一方、石碑から対角線となる位置、街道の東側傍に右の石碑が見えます。下鴨神社への標石です。 こんな賀茂川の景色を眺めて、 「葵橋」です。 擬宝珠に葵のレリーフが。 葵橋の下流側、比較的近い位置に「出町橋」があります。出町橋の西詰北側に、「鯖街道口」の道標石が立っています。左側に、「従是洛中(これより洛中)」と刻されています。調べてみると、この道標石は2001年に出町商店街振興組合が建立されたものです。(資料5)鯖街道は、京の街と若狭を結び、その名の通り魚・海産物をはじめとする物資供給路となっていました。なかでも「鯖」が多く運び込まれたそうです。 出町橋の東詰から賀茂川の上流側を眺めた景色出町橋はこの「糺の森」がある鴨川(葵)公園が右岸となり、高野川と合流する地点にある橋です。高野川に架かる「河合橋」を渡ると「出町柳」です。出町橋の下流に「賀茂大橋」が架かり、ここから先が鴨川と呼び名が変わります。以上、川沿いに出町橋まで南下するるーとをご紹介しました。昨日(5/12)、改めて御土居跡の軌跡がわかる箇所を再訪してきました。その一部は以前のある史跡探訪で歩いた部分です。そこで全体のルートが繋がるように再確認を兼ねました。そちらを併せて、ご紹介します。上掲の「北山大橋」まで戻ります。ここは北山通に架かる橋です。この北山大橋西詰の交差点は南には室町通の起点となるところです。北山通は西方向で最初に「衣棚通」と交差します。この通りを北に上ると最初の辻の北西角に「石井神社」があります。所在地は北区小山元町です。 ここが御土居跡に建つ神社です。ご覧のように御土居は完全に崩されて平地となったところに神社があります。北山通西詰に戻り、室町通を南下します。紫竹南通との交差点で、左折し一筋東側の通りを歩きます。この通りの途中から道路が南東方向の斜めになります。 今宮北通に出てから振り返って撮った道路です。この道路が御土居跡を示す軌跡になります。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。この斜めに通る道路は、 地下鉄北大路駅への入口の傍(左)を通り過ぎ、烏丸通を横切り続いて行きます。京都警察病院(右)が烏丸通の西側に見えます。 手前の横断歩道のマークがあるのが烏丸通です。正面に見えるのが御土居跡の軌跡となる斜めの道路です。この道に沿って南下していきますと、北大路通に出ます。真っ直ぐには進めませんので、北大路橋西詰交差点に迂回して南側に戻ります。 そして、延長線上の斜めの道路を進むと、 「紫明通」に至ります。 紫明通は道路幅が広く、中央に緑地帯があり、加茂街道に近い方にこんな人工滝が造られています。この紫明通の南側は、寺町通の起点です。この寺町通の起点より東側に、出雲路松ノ下町を通る斜めの道路があります。 この斜めの道路は、加茂街道とほぼ平行していますので、御土居跡の軌跡を想像できます。途中からは緩やかなカーブを描きながら南下していきます。幅の狭い道路です。 この道は鞍馬口通に出ますが、その少し手前にこの黒っぽい建物が通過点の目印にもなります。京都市交響楽団の建物です。鞍馬口通に出ますと、賀茂川に架かる橋が上掲の「出雲路橋」です。秀吉は賀茂川・賀茂川に平行して御土居を築造し、その内側に諸寺を移転させ寺町を形成させました。そしてできたのが寺町通です。現在は北から言えば、上善寺・天寧寺・西園寺・大歓喜寺・光明寺・阿弥陀寺・十念寺・佛陀寺・本山本満寺という諸寺が寺町通の東側に並び、葵橋西詰傍に至ります。一方、諸寺の背後つまり、東側に寺町通と平行して道路が斜めに通っています。この道路が御土居跡の軌跡になります。この辺りは御土居のエリアがすべて平坦地で住宅地化していて、道路がその軌跡を示すだけです。この斜めの道路を南進すると、葵橋西詰に出ます。葵橋西詰の交差点は、南方向が「河原町通」の起点となります。一方、葵橋は北方向に向かう「下鴨本通」の起点になります。この後、御土居は方向を南に転じます。現在の河原町通の西側に御土居が延々と築造されていたことになります。河原町通の「河原」が示すとおり、元は鴨川の河川敷だったことに由来するのでしょう。河原に町の通りができたというくらいでしょうか。日本史の年表をみると、関ヶ原の合戦が1600年9月。角倉了以が徳川家康から認可を得て高瀬川を開いたのが1611年です。御土居の外側の堀から河川敷へと繋がっていたとすると、その河川敷に高瀬川という運河を開削するにあたり、現代都市内での新規道路開発とは違い住人との交渉の必要がない点はやりやすかったでしょうね。運河ができると、両岸の整備が進み、鴨川側の護岸などの河川の治水対策も奨められたとすると、高瀬川沿いに運河利用のビジネスのために人々が住み始めることになります。洛中に秀吉の時代から諸藩の京屋敷が建てられています。一方、高瀬川の開削でここにも角倉屋敷以外に、運河周辺に諸藩の京屋敷が建てられます。河原町通が形成されるでしょうし、治水工事も進み、泰平の世になっていけば、東辺の御土居は障害物に過ぎなくなり、取り壊されていくことは必然です。東辺は南北方向の御土居ですから、御土居が無くなれば町並は碁盤目状の中にすんなりと統合されていくことになり、御土居の痕跡は消滅します。そんな経緯を勝手に想像しています。そして、最後の御土居(赤丸のところ)をめざします。つづく参照資料1) 御土居跡コース 京都歴史散策マップ :「京都市埋蔵文化財研究所」2) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p623) 師範桜碑 :「フィールド・ミュージアム京都」4) 出雲路鞍馬口 :「フィールド・ミュージアム京都」5) 鯖街道口 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺高瀬川 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」高瀬川 :ウィキペディア京屋敷めぐり・中京区 :「うさぎの京屋敷めぐり」鯖街道マップ :「若狭鯖街道熊川宿」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・御土居跡巡り -1 市五郎稲荷神社・北野中学校内の御土居、紙屋川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -2 北野天満宮境内の御土居 へ探訪 京都・御土居跡巡り -3 平野・鷹峯の御土居と紙屋川周辺 へ探訪 京都・御土居跡巡り -4 鷹峯の御土居、大宮の御土居ほか へ探訪 京都・御土居跡巡り -5 大宮交通公園の御土居跡、紫竹の御土居、賀茂川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -7 廬山寺の御土居、京都府医大の復元御土居、御土居跡の軌跡 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・洛中 寺町北部の寺社を巡る -1 御土居跡・上善寺 3回のシリーズでご紹介しています。本満寺あたりまで。
2018.05.13
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前回の「大宮の御土居」は同じ緑色の丸をつけました。ここから黄色の丸をつけた北辺の御土居の東端をめざします。この間は御土居は取り崩されてしまい、ほとんどが居住地や道路になっています。一部御土居跡の方向に沿った道路と思えそうな箇所があるという程度です。そこで、玄琢下の交差点からは、北東方向に向かう形で御土居跡と思われる周辺の道路をジグザクと進む形になります。こちらの地図(Mapion)をご覧いただき、凡その方向の検討をつけてみてください。大宮土居町の御土居の地図上の傾き、つまり北東方向を賀茂川まで延長すると、加茂川中学校の北側になります。そこが目指す「紫竹の御土居」です。玄琢下の交差点から、玄以通に入り東に進みますと、「大宮交通公園」の樹林が見えます。 大宮交通公園の南端は玄以通に面しています。この公園の南隅よりが御土居跡に相当します。公園内には「平一稲荷神社」があり、その背後に土塁のような高まりが見えます。ここに御土居が残っていて、平一大明神が祀られる境内という形で残っているようです。古墳上と周辺を利用して神社が祀られているのと類似の発想でしょうか。大宮交通公園前の交差点で左折し、船岡東通を北上すると、 大宮交通公園の入口があります。公園内には自由に入れるようです。公園の建物を通り抜け、公園の東側に立つと、南の方向にこの完成記念碑がありました。この石碑の南あたりが御土居跡にあたるようです。公園内から見た平一大明神の正確な場所は未確認です。公園入口の近くに、船岡東通の東側に合流する北東方向に向いた道路が見えます。これが御土居跡に沿ってできた道路のようです。この道を北東方向に進んで行きます。曲折しながら進むと、「大徳寺通」に突き当たります。大徳寺通を北に上がると、一筋目が再び北東向きの道路です。この道を進むと一旦東西方向に向きを変えた道路になりますが、その先には、再び北東向きの「猪熊通」との交差路になります。この猪熊通を少し入ったあたりが御土居跡になるようで、その東北側に住宅地が連なりその北側には、猪熊通と分岐して北東向きの道路があります。この一画の住宅地は御土居跡です。堀川通に面したところに、御土居があります。 これは、堀川通の東側から通りに面する御土居と上記北東向きの道路が堀川通に合流する箇所を撮った景色です。 堀川通の東側から眺めた御土居の全景 現在の堀川通に面して残る御土居です。史跡碑は御土居区画の南東側に立っています。 これは、御土居を回り込み、南西隅から眺めた景色です。こちらの南側も南西方向に通りがあります。この御土居の左側(南西方向)、つまり御土居跡は住宅地になっています。 堀川通を東に横断した所に御土居が残っています。堀川通の北側から撮った景色です。右側(西)の歩道に沿ってその右に見える御土塁が上掲の御土居部分です。 堀川通には「御園小橋」が架かり、その南で東側に御土居が残っています。 こちらの御土居が、北野中学校の敷地の北側に位置します。つまり、現在の堀川通で分断されているこの御土居の箇所が、「紫竹の御土居」です。所在地は「北区紫竹長目町・堀川町」です。 そして、この御土居の東端は賀茂川の西の堤防上を通る「加茂街道」に面しています。加茂街道を通る市バスの「上賀茂三園橋(御園口町)」、京都バスの「加茂川中学前」の停留所の所になります。 フェンスの内側にこの案内板が設置されています。 加茂街道歩道から御土居を西方向に眺めた景色 北側から御土居区画の東端を南方向に眺めた景色 逆に御土居区画の東端の南側から北方向を眺めた景色この加茂街道に面する御土居前から賀茂川の方向、つまり東はこんな眺望が開けています。賀茂川の河川敷は、「鴨川公園」として整備されいまでは市民の憩いのスペースになっています。この紫竹の御土居を探訪した折りには、公園で運動をする人々、家族でのんびりと過ごしている人々、グループで大きなシートを敷いて野外でのコンパ風に集う人々などを見かけました。余談ですが、調べてみると、鴨川公園は「鴨川緑地」と「鴨川下流緑地」で構成されています。鴨川緑地の方は、北が賀茂川の柊野堰堤、高野川の高野橋のところから始まり、南は鴨川の三条大橋付近までをその範囲とし、鴨川下流緑地は竹田橋から小枝橋をその範囲とすそうです。(資料2)この「紫竹の御土居」は、「鴨川の氾濫から市街地を守る重要な地点であったことが室戸台風(昭和9年/1934)で証明された。京都の自然と地形を生かした御土居の造成であったことがうかがえる」(資料1)とのこと。そして、この紫竹の御土居から、賀茂川沿いに南東方向に転じて御土居が築造されていました。南東方向に延びる御土居跡は、今出川通までです。賀茂川と高野川が合流して、南方向に鴨川として南流しますので、御土居も今出川からは方向を南東から南に転じていきます。南東方向に延びる部分は御土居が壊されています。御土居跡の軌跡は道路が斜め方向に形成されているところに部分的に反映されているにとどまります。もう一つ、余談です。これまでのご紹介と観光名所としても有名なところを連想されておもしろいことにお気づきでしょうか。「カモ」の表記法です。賀茂川と鴨川の河川名。加茂川中学校。加茂街道。鴨川公園。有名な神社として上賀茂神社と下鴨神社があります。賀茂、加茂、鴨という表記が混在するというおもしろさです。下鴨神社は、正式には「賀茂御祖(みおや)神社」と称し、祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)であり、記紀神話では神魂命(かみむすびのみこと)の孫とされています。賀茂建角身命は神武天皇の東征の折に八咫烏(やたがらす)となって天皇を導いたとされる神です。そして『姓氏録』には、山城の賀茂に住む神で、賀茂県主の祖と記されています。賀茂建角身命には二子があり、一人が建玉依比古命で賀茂県主となります。他が建玉依比売命です。建玉依比売命は大山咋神(おおやまくいのかみ)と婚姻し、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を産みます。この神を祭神とするのが、上賀茂神社です。正式には「賀茂別雷神社」と称します。(資料3)『続日本紀』を読むと、桓武天皇の延暦3年11月28日の条に、「使者を遣わして賀茂の上下二社と松尾社・乙訓社を修理させた」(資料4)という記述があります。かつては、上賀茂社・下賀茂社と称されていたのでしょう。賀茂氏の中から鴨氏を称する系譜ができ、鴨氏が下賀茂社を祀る形になり、下鴨社と称するようになったということでしょうか。随筆『方丈記』を著し、有名な鴨長明は鎌倉時代の歌人であり作家です。鴨長明は下鴨神社の禰宜鴨長継の次男です。つまり、鴨氏の系譜の人ということになります。(資料5)一方で、賀茂は加茂とも表記されるという漢字の使い方が広がって行ったということでしょうか。「カモ」という音に対し漢字を一意的に当てはめるということにこだわりがない時代に、賀茂よりも書き易い加茂という漢字を使用したことが一部で定着して行ったということが考えられます。調べた範囲では「加茂」の由来を見つけられませんでした。つづく参照資料1) 「史跡 御土居」 リーフレット 京都市文化観光局2) 鴨川公園(広域公園) :「京都府」3) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二 編著 柏書房4) 『続日本紀 (下)全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p340 5) 『日本語大辞典』 講談社補遺上賀茂と下鴨、なぜ「カモ」の字が違う? 木ノ下千栄氏 :「和菓子ミュージアム」賀茂別雷神社(上賀茂神社) 公式ホームページ下鴨神社 公式ホームページ鴨長明 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・御土居跡巡り -1 市五郎稲荷神社・北野中学校内の御土居、紙屋川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -2 北野天満宮境内の御土居 へ探訪 京都・御土居跡巡り -3 平野・鷹峯の御土居と紙屋川周辺 へ探訪 京都・御土居跡巡り -4 鷹峯の御土居、大宮の御土居ほか へ探訪 京都・御土居跡巡り -6 賀茂川景観・御土居跡の軌跡 へ探訪 京都・御土居跡巡り -7 廬山寺の御土居、京都府医大の復元御土居、御土居跡の軌跡 へ
2018.05.11
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オレンジ色の丸が前回の史跡公園として整備された「鷹峯の御土居」(旧土居町3)です。千本通に出て北西寄りにこの道を北上するところから始めます。歩いて行くと、通りの東側にセブン・イレブンがあり、その駐車場の通りに面した隅に 案内板と真新しい石標「徳川時代 公儀 鷹ケ峰薬園跡」が立っています。徳川時代にここで営まれた薬園の説明は、こちらをお読みください。 的を御土居との関連にしぼります。案内板に掲載のこの図が参考になります。薬園が御土居の北西角の地域に営まれていたことと、御土居の状況が2つの地図から読み取れます。現代の地図に、紫色の丸を追記しました。ここが冒頭の御土居の地図で同じ紫色の丸のところになります。一方、少し小さな赤い丸を付けたところは、今の千本通が御土居跡地を抜けて鷹峯の交差点まで延びる入口になる通過点です。ここが「京の七口」の一つ「長坂口」になります。少し脇道に逸れます。この「長坂口」は、京都から丹波に向かう丹波道のルートの一つだったのです。『京都御役所向大概覚書』には、丹波道として、丹波口(七条口)の他に、6つのルートをあげているそうです。このルートは 大宮通・千本通~鷹ヶ峰~千束~長坂峠~杉坂村・小野下村~丹波国細川・余野という道筋です。このルートは『源平盛衰記』や『太平記』などにしばしば登場している丹波道だと言います。「鷹ヶ峰から長坂をへて杉坂に至る登り口一帯は長坂峠の名をとって長坂口と呼ばれ、すでに鎌倉時代末期には内蔵寮の率分関が設けられていた。秀吉の御土居築造後は街道と御土居の交差するあたりを長坂口と呼んだ」(資料1)のです。少し先回りになりましたので、元に戻ります。この後ご紹介する区域は、この地図(Mapion)を併用してご覧いただくと、イメージがしやすいでしょう。 薬園跡石標のところから少し北に進むと、角地の「鷹峯雑賀診療所」の傍にお地蔵様の小祠があります。この診療所の少し先、同じ側に「都本舗光悦堂」があります。御土居餅という名の饅頭を売っている和菓子店です。「江州米を原料とした羽二重餅で小豆を包み、きな粉を振り掛けて小さな土塁に仕立てたという」お菓子です。(資料1)このお店がある位置が取り崩されて開削された御土居跡に位置しているのです。 このお店の前、千本通の西側がもう一つの「鷹ケ峯の御土居」です。つまり、この場所は「長坂口」でもあります。所在地は「北区旧土居町2」です。 史跡碑の画像からおわかりのとおり、ここは千本通に対し凹地の形でスペースが設けられています。フェンスが張られていますが、鍵の掛かった扉がフェンスには設けてあります。 地図でご確認いただくとイメージしやすいですが、御土居が北辺から西辺に折れて曲がる北西隅であり、この景色は御土居の北辺部の御土居の断面を眺めていることになります光悦堂菓子店のある東側は、御土居が開削されて今は住宅地になっています。地図を改めて眺めると、御土居北辺部の宅地開発された部分は御土居跡に沿ってその幅で宅地が開発され、御土居の中央部と両裾野にあたる部分が住宅地内の東西の道路になっています。光悦堂の北側の道路が御土居の頂上部を歩く位置にあたります。(残念ながらこの3本の道路部分は未訪です。)再訪時はルートを逆に歩いたのですが、この編集ではこちらの御土居跡から巡る形で続けます。上掲診療所の傍の小祠の南側の道路を道沿いに東に進みます。道路の東端には、「大宮西野山公園」に下って行く階段があります。道路面とこの公園地との間にはかなりの高低差があります。公園を南東方向に横切り、公園入口を出て、道路を下っていくと、南北の「紫竹西通」に出ます。 この紫竹西通を北上すると「玄琢下」の交差点です。この交差点から北西側の坂道を少し上がったところが、「大宮の御土居」です。このあたりまでの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 地図をご覧いただきますと、大宮土居町が御土居の遺構部分です。ここは御土居としての保存状態が一番良く、約250mにわたって御土居が現存しているそうです。長坂口のところから御土居が北東方向に築造されてきてここに至り、さらに賀茂川の手前まで延びる北辺の御土居になっていたのです。 玄琢下交差点からの坂道を上り、道路の東側から御土居跡のほぼ断面を撮ってみました。 この御土居の右寄りの凹形に見える部分が御土居の外側の堀にあたる部分だと思います。 「大宮の御土居」の東南端のフェンスを南に回り込むと、紫竹西通と平行した一筋西側の緩やかな坂道の道路があります。民家の先に隣り合って見えるのが、「招善寺」というお寺です。この石段を上った先にお寺の境内があり、その背後に南東方向に延びる御土居が続いているということになります。洛内の道路からみると地形的にはかなり高い位置に御土居があったと言えます。この招善寺の石段を見上げて、その先で「大宮の御土居」の説明を聴くということが、私にとっては最初のここの御土居との出会いでした。その時は通過点になりました。そこで、再訪した時は「玄琢下」交差点からの坂道の道路に沿って道沿いに上りながら、ここの御土居の洛外側が見えるところを探訪してみました。この道路は、北西方向に延び、「玄琢」、「釈迦谷口」を経由して「常照寺」に至る道です。この道沿いに民家が立ち並んでいますが、その間に御土居のある南方向に延びる道がいくつかあるのです。 一つ目は、御土居の北側面と堀跡が見えるところがありました。民家の間の通路の先が行き止まりでそこのフェンス越しに撮った眺めです。 2つめは、後で拡大した地図で確かめると、現存する大宮の御土居の南東端を洛外側(北)から遠望している景色です。 この遠望地点の傍に、この小さな「玄琢南公園」(大宮玄琢南町)があります。 玄琢下交差点に戻るとき、御土居を囲むフェンスの北側に立つビル前の空間から見下ろせましたので、道路と御土居の連なる景色を撮ってみました。右の御土居がそのまま道路上に延び左のグレーの壁面の建物に多分同じ位の高さで連なって行っていた景色を想像してみてください。かつてはこの景色の手前の緑色の雑草が茂る辺りは堀だったのでしょう。余談ですが、「玄琢」と言う名称の由来について。江戸初期に名御典医といわれた野間玄琢が住んでいたことからこのあたりの地名が付けられたようです。玄琢下交差点から大宮土居町の北に、大宮玄琢南町・同北町・同北東町という地名がみられます。そして、薬師山は玄琢が大徳寺領となっていたこの山を買収し、薬草の栽培をしたところだったと伝えられているとか。薬師山は宅地化され無くなりましたが、大宮薬師山東町・同西町の地名が残るあたりだったのでしょう。地図を見ると薬師山病院というのがあり、これらが薬師山を連想させます。本阿弥光悦が徳川家康から鷹峯の地を与えられて一族を率いて移住するのが元和元年(1615)ですので、秀吉が御土居を築いた頃はこの大宮の御土居の外、洛外は自然の山間部が広がっていただけかもしれません。(資料2)この後、御土居ラインと思えるところに近い道路を歩きながら、「紫竹の御土居」を目指します。つづく参照資料1) 『街道の日本史32 京都と京街道 京都・丹波・丹後』 水本邦彦著 吉川弘文館 p182) 『昭和京都名所圖會 洛北』 竹村俊則著 駸々堂 p291-293補遺御土居 (6)長坂口周辺 :「地形図見る変遷」率分関 :ウィキペディア都本舗光悦堂 :「BEACON KYOTO」都本舗 光悦堂 鍵をにぎるお店! :「京都グルメタクシー」野間玄琢 :「コトバンク」野間玄琢の墓~京都漢方史跡~ :「蒼流庵随想」野間玄琢廟所(京都市北区) :「京都風光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・御土居跡巡り -1 市五郎稲荷神社・北野中学校内の御土居、紙屋川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -2 北野天満宮境内の御土居 へ探訪 京都・御土居跡巡り -3 平野・鷹峯の御土居と紙屋川周辺 へ探訪 京都・御土居跡巡り -5 大宮交通公園の御土居跡、紫竹の御土居、賀茂川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -6 賀茂川景観・御土居跡の軌跡 へ探訪 京都・御土居跡巡り -7 廬山寺の御土居、京都府医大の復元御土居、御土居跡の軌跡 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・洛北 鷹ヶ峰の寺社を巡る -1 招善寺・御土居・釈迦谷口・常照寺 3回のシリーズでご紹介しています。この時初めてここでご紹介の御土居を見聞。
2018.05.09
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北野天満宮境内の一部となっている「北野の御土居跡」は前回と同じ赤色の丸を付けたところです。北野天満宮の北門を出て、東西の通りを西に向かい、紙屋川に架かる橋を渡ってそのまま西に歩めば、「平野神社」の正面になります。 この橋上から紙屋川の下流つまり北野天満宮の境内方向は川の上にかかる樹木が繁り何も見えません。橋の西詰には建物が建っています。道路を北に横切り、紙屋川沿いの東側の通りに入り少し北上しますと、 (2018.3.17) 「平野の御土居」が見えます。道路の東側に沿って民家の並ぶ間にあります。 ほぼ同じ位置から、2018.4.28に再訪して撮ったのがこの景色です。所在地は「北区平野鳥居前町」。ここは御土居が復元整備され、御土居の旧状を示していますが、前回ご説明した御土居に竹が植えられたという点は実施されていません。それで逆に土塁の形状がよくわかります。この景色に見えている御土居の側面より西(左の道路側)が洛外、反対側の東が洛中(洛内)ということになります。 中央あたりに史跡碑が立ち、傍に案内板が設置されています。「ここ平野鳥居前町に残る御土居は、御土居の形状が良好に残っている部分」と記されていますので、その御土居を整備された結果が現状ということでしょう。北野天満宮境内の御土居が後での追加指定となり、その前にこの平野の御土居を含む8か所が昭和5年(1930)7月8日に国の史跡に指定されたのです。(案内板より) 北西側から御土居を眺めた景色。南端の先にある民家の高さと対比されると、御土居の高さがイメージできることでしょう。ここの御土居は立入禁止で上れません。3月には平野の御土居の現地確認で終わりました。4月にここからの続きとして、冒頭の図にマゼンダ色の丸を付けた「紫野の御土居」をまずめざしました。御土居傍から北を眺めると、通りは突き当たりのように見えますが、曲折して北に通じています。後でネットで地図を確認すると「寺之内通」に出ます。 曲折して進んだ先での通りの景色右側が一段高いのは御土居跡の地形が基盤としてそのまま利用されているのでは・・・・と想像します。通りが寺之内通に出会うところで右折して、少し東に歩き、御前通に左折し、「御前通」を北上します。この御前通に沿った西側が紫野西土居町です。探訪当日は道路や町名の表示があまり見つけられずに方向感覚で歩いていました。後智恵での整理です。 寺之内通で眺めた紙屋川の橋 一つ北側の通り。紙屋川までちょっとした坂道になっています。河岸段丘の地形がこの坂を造ったのでしょう。橋まで下ってみました。右は「花川橋」上から道路を見上げた地形です。 左は下流側、右は上流側です。 ここが「紫野の御土居」です。北区紫野西土居町にあります。今では民家が立ち並ぶところに隣接しています。一番小規模な御土居です。ここは区域保存のためでしょう、石柵で囲われています。 北側からみた御土居御前通を北に行けば一旦突き当たります。そして曲折して鞍馬口通に出ます。突き当たった外壁のところは「柏野小学校」です。小学校の正面は鞍馬口通に面していますので、こちらは南側で背後の道路になります。直接この御土居を探訪する場合、この小学校を目印にできます。ここで、少し紙屋川周辺の地形をご紹介します。小学校の裏手で突き当たった道路を西に紙屋川に下って行き、橋を渡って西岸に行ってみました。 川沿いの南北の通りから一筋西の通りまでにこの階段が見えました。かなり河岸段丘の段差ができているところです。 階段を上って通りを南に進むと緑地が見えます。一段低いところにグランドのような場所が見えました。北区衣笠荒見町に所在する「衣笠南道公園」です。川沿いの道路の高さで公園があります。かつての地形のほぼそのままなのか、開削された結果なのかは不詳です。本筋に戻ります。「紫野の御土居」前の通りを北に歩めば、小学校の外壁に突き当たりますが、迂回して北に向かうと、鞍馬口通を横切ってほぼ一直線に北進できる道路が通じています。御土居跡に沿った道ということになります。北大路通を横断しさらに北上すると、佛教大学のキャンパスの南西角(8号館の建物のあるところ)に出て、キャンパスの西側沿いの通りになります。(この区間は地図上でのトレースです。現地は未踏査)地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 (2017.9.7)これは、佛教大学キャンパス西側道路を北側から撮った景色です。左側が大学の建物の列です。途中にマンションの私有地がはさまっていますが、南から8号・9号・10号館が並んでいます。この建物列のあるところが鷹峯旧土居町の一部なのです。つまり御土居跡地。2017年9月に鷹ケ峯地域の史跡探訪をした折りに、御土居が行程に組み込まれていました。その後御土居を再訪しましたので適宜分かりやすい画像を併用していきたいと思います。上掲の通りから一筋東側の通りは佛教大学キャンパスの北側面が見えるようになります。こちらは旧土居町と東側の鷹峯木ノ畑町との間の通りです。 この通りは北端近くで分岐していて、分岐点がこの場所です。ここが「鷹峯の御土居」の一つへの入口になります。御土居跡は「北区鷹峯旧土居町3」という地名であり、ここが昭和56年(1981)に史跡公園として整備されています。 緩やかな坂道を上がって行くと、御土居の上に出ます。(オレンジ色の丸のところ) 御土居の上を中程まで歩むと、この史跡碑が立っています。 北側から御土居の上の史跡碑に向かう道 (2017.9.7) 御土居の上の道は右の道で、史跡碑がベンチの先に見えます。上掲の道はこの景色。この左の石段の先に案内板があります。 たぶん史跡碑の裏側(東)あたりになるところにこの案内板があります。御土居の上を歩いて史跡碑を見ながら歩くと、木々の陰となり目につきにくいでしょう。 千本通を歩いてきた場合には、「京都市鷹ケ峰市営住宅」の1号棟と3号・2号棟との間の通路を西に通り抜けると、その先が御土居です。ほぼこの案内板の前に出たと記憶します。 御土居の下部が中段のようになっています。南の方に史跡公園の施設として休憩所が設けられています。 これは御土居の北側にある階段です。鷹峯旧土居町の西隣り、衣笠鏡石町側に降りた所から眺めた景色です。紙屋川の河岸段丘の上層に御土居の土塁が築造されていたことになります。このあたりではかなりの高さになります。 (2017.9.7)階段から道路に降り、道沿いに北に歩くと分岐点があります。ここを右側に回り込み、坂道を登って行くと、千本通に出ます。この千本通で左折して、道沿いに北西方向に向かいます。千本通の北端は鷹峯の交差点です。余談ですが、分岐点でそのまま北方向に進んでいけば、「鏡石道」に合流します。鏡石道沿いにさらに北上すると、東側の「しょうざんリゾート京都」があります。鏡石道は、光悦寺の東側を回り込む形で北に延び、大宮釈迦谷にある「大徳寺讃州寺」に至ります。もう一つの鷹峯の御土居をめざします。つづく参照資料「史跡 御土居」 リーフレット 京都市文化観光局補遺鏡石 :「京都観光Navi」しょうざんリゾート京都 ホームページ讃州寺跡(京都市北区) :「京都風光」大徳寺讃州寺 京都 人が絶対来ない寺 京都秘境ハンター :「お墨つき!」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・御土居跡巡り -1 市五郎稲荷神社・北野中学校内の御土居、紙屋川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -2 北野天満宮境内の御土居 へ探訪 京都・御土居跡巡り -4 鷹峯の御土居、大宮の御土居ほか へ探訪 京都・御土居跡巡り -5 大宮交通公園の御土居跡、紫竹の御土居、賀茂川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -6 賀茂川景観・御土居跡の軌跡 へ探訪 京都・御土居跡巡り -7 廬山寺の御土居、京都府医大の復元御土居、御土居跡の軌跡 へ
2018.05.07
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今出川通を東に歩き、一旦北野天満宮境内に入ります。社殿の西側まで行きますと、境内の西辺になります。そこにこの「史跡 御土居の紅葉」という碑が建立されています。裏千家今日庵・千玄室氏の謹書です。御土居の所在地は、「北野 上京区馬喰町」と資料で紹介されているところです。 (2014.5.3)上掲石碑の傍に、この案内板があります。御土居に関心を持ち始めたのはこの案内板を見たことと、別の機会に廬山寺を訪れて、御土居跡の存在を知ったことによります。2014年の時は、北野天満宮自体を目的として訪れていました。そのとき、御土居跡は見ていません。今年は、梅花祭の終わりに近い時期に訪れました。まず、この北野の御土居を他の地点から眺めることができるか、紙屋川の西岸側も含めて周囲を探索してみましたが、駄目でした。西岸側は川沿いにビルや民家が道路沿いにずっと並んでいます。民家の間に1カ所天満宮の境内地に入れる道があり、その先に橋が架けてありましたが、渡った橋の傍が御土居の南端側で、御土居を遮蔽する外壁の近くにあたりました。つまり、北野天満宮の境内地内だけにここの御土居を見ることのできる入口があり、受付所があります。(入苑料必要。梅花祭では梅苑とセット。先日の京都非公開文化財特別公開で、宝物殿にて海北友松筆「雲龍図屏風」を拝見するために入ったときはこの拝観券とセットでした。) まず、振り返りを含めてこの図で位置関係を示しましょう。赤色の丸がこの「北野」の御土居です。青色丸が「西ノ京 中京区西ノ京原町」の御土居、つまり「市五郎稲荷神社」です。黄色の丸が史跡指定のない御土居で北野中学校校庭北西端に存在しています。 (2018.4.28) 先日訪れた時は、「史跡 御土居の青もみじ」と題して、「青もみじ公開」(5月上旬~下旬)が行われる直前でした。(資料1) この「青もみじマップ」が設置してあります。序でに、ご紹介していきます。 史跡内に入るとこの案内板があります。入口から坂道を上がって行くと南北の道となっていて、西側の谷底に紙屋川が流れているのです。つまり、史跡御土居の上に立っていることになります。御土居上から紙屋川の傍までの階段が今は設けられています。 御土居上を南端側まで行って、北方向を眺めた景色 御土居上の北方向 逆に北方向に行って、境内を展望しやすい場所に移動してみました。 北野天満宮の社殿をこういう高さから眺められます。 (2018.3.17)御土居ができたのは1591年です。現在の日本最古の八棟造(権現造)の社殿は、慶長12年(1607)に秀吉の遺命により、秀頼が造営したものです。(資料1)御土居が築造された当初、北野天満宮には違う景色が広がっていたようです。 御土居上に立つ案内板まずは御土居そのものを探訪してみます。 紙屋川の東岸上通路の高さから北方向を眺めた御土居。 (2018.4.28に撮った景色) この辺りを御土居上から見下ろした景色(2018.3.17) 川に沿って北に歩き振り向いたとき 御土居の斜面 現在は対岸に渡ってこの谷間の御土居跡が残る一帯を紅葉を楽しみながら、下流に架けられた橋を使い周遊できるようになっています。 これは御土居跡のある区域の南端側に架けられた橋上から紙屋川を眺めた景色です。現在は、もみじ苑という形で整備され、紙屋川の護岸も整った景色ですが、御土居が築造された頃は紙屋川の谷間の河岸段丘地形をそのまま使いその上に連続する形で御土居が築かれていたのでしょうね。勿論防御目的ですから橋なんてなかったでしょう。 鶯橋から更に御土居の斜面を眺めながら進んで行くと、「版築工法」の説明板が立っています。版築は「土を突き固めて堅牢な土塁や建物基壇を築造する技術」です。「その工法は、施工する部分を板で囲んで枠を造り、締め固めに適した土を10cm以下程度に薄く敷き均し、杵のような棒状の道具で、何度も何度も叩き上げ、層を積み重ねていったもの」といいます。(説明板より部分転記)但し、この説明板によると、紙屋川の河岸段丘部が長年の風雨で浸食されているのを復旧するために、古来からの版築工法を利用したとか。秀吉が築いた御土居の盛土は版築工法によるものではなかったと付記されています。 秀吉が築いた「御土居」は、神域から紙屋川側に雨水などが流れ出ていくことを遮蔽してしまいます。そこで、雨水で神域が犯されないように「悪水抜き」の「切石組暗渠(地下式または蓋付きの導水路)」を設ける工夫が為されていたそうです。発掘調査で暗渠取水口も確認されています。 この一番下の断面図で、現在位置の御土居の規模がわかります。約5mの高さの紙屋川の河岸段丘上に、盛土が約3.5m積み上げられて、御土居は総高約8.5mあり、御土居基底部幅は約23mあったそうです。 御土居上の一隅に、この案内板も設置されています。序でに、上掲の「青もみじマップ」に関連に明示の場所をご紹介しておきましょう。 御土居上の中間あたりですが、紙屋川の方に舞台が張り出されていて、そこに茶室「梅交軒」が設けられています。なかなか風雅な感じです。 その舞台の北東隅に、この案内板が設置されています。地図の部分は上掲で色丸を加えて利用しました。 こちらの断面図から、北野御土居が250mという長さで残り、「史跡御土居」の中では最長遺跡であることがわかります。この断面部分の位置では、河岸段丘面からは御土居全体の総高が8.1mあり、御土居上の幅が12.6mあること、御土居の斜面は38度の傾斜になっていること、境内側では2.5mの土盛がなされ土塁が築造されているそうです。上掲断面図の説明とあわせて、北野御土居の規模がイメージしやすくなったのではないでしょうか。尚、御土居のサイズを一般論として補足しますと、前回の2ヵ所でイメージが少しできやすくなっていると思います。その築造場所によって、かなり幅があるようですが、入手資料によると、御土居基底部は9~30m、土塁の高さは3~3.5m、洛外側の堀幅は3.6~18mというサイズだそうです。(資料2)堀を彫り込んでできる土を土塁の盛土に使うということだったのでしょう。そのことで築造工期が短縮されることにもなったのだろうと想像します。また、本来の土塁には竹を植えて盛土を保護していたそうです。また木も茂っていたとのこと。「江戸時代に入ってからも、京都町奉行は竹木の保全に努め、上層町衆角倉家の支配のもと、付近の農民が管理していました。」(資料3)この北野御土居から北方向に御土居巡りを続けます。つづく参照資料1) 北野天満宮 ホームページ2) 「史跡 御土居」 リーフレット 京都市文化観光局3) 聚楽第と御土居 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・御土居跡巡り -1 市五郎稲荷神社・北野中学校内の御土居、紙屋川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -3 平野・鷹峯の御土居と紙屋川周辺 へ探訪 京都・御土居跡巡り -4 鷹峯の御土居、大宮の御土居ほか へ探訪 京都・御土居跡巡り -5 大宮交通公園の御土居跡、紫竹の御土居、賀茂川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -6 賀茂川景観・御土居跡の軌跡 へ探訪 京都・御土居跡巡り -7 廬山寺の御土居、京都府医大の復元御土居、御土居跡の軌跡 へ
2018.05.06
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まず天保2年(1831)に出版された「京都御絵図細見大成」を引用します。ただし、この絵図に書き込まれた御土居をさらに太線で強調するという加工が施されています。(資料1)御土居跡巡りをする参考になる図です。一方、これよりさらに古く、元禄9年(1696)に出版された「京大絵図」があり、これを参照しますと、西部と南北には御土居を示す線が絵図に書き込まれていますが、加茂川・鴨川の西岸沿いには線が書き込まれていませんので、はやくも元禄の頃には東部の御土居は殆どが都市化の拡大で開削されたり、転用されたりして御土居跡すら消滅していると推測できます。(資料2)京の都の中は洛中(洛内)、その外側は洛外と考えられていました。洛中洛外図が盛んに描かれたのは室町末期から江戸時代です。最も有名なものが狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」(上杉本)です。織田信長が上杉謙信に贈った六曲一双の屏風絵です。これは永禄8年(1565)に制作されたと考えられています。豊臣秀吉が大規模な京都の都市改造事業の一環として、京都を囲む御土居と堀をわずか2~4ヶ月で構築したのが1591年です。その総延長は22.5kmに及びます。この御土居が洛中の区域を視覚的にも明確にしたことになって行きます。御土居の構築に伴い、洛外との往来・交通の要所として七口が設定されることになります。いわゆる京の七ツ口です。(資料1,3)秀吉はその翌年から文禄の役、つまり朝鮮侵攻を号令しています。御土居が構築されてから100年後には、御土居が東側から消滅が進行していたということになります。桓武天皇による平安京遷都の当初の構想は雄大なものだったようですが、その造営ははやくも805年には中断されてしまい、西側の右京は早く衰退しいきます。右京は当時は未だ湿潤な地域で居住地には不適だったようです。左京中心に都市機能が発展し、さらには鴨川の東が開発されていくことになります。それがさらに進展して行ったということでしょう。この御土居跡に関心を持ち始めて4,5年経ちました。その間に何度か史跡探訪に参加した折に御土居跡をその一部として探訪するという経験を重ねてきました。個々の探訪の折に撮った記録写真と、改めて御土居跡そのものを訪れたときの記録写真をあわせて「御土居跡巡り」という形に編集しまとめてみることで、ご紹介したいと思います。現在、御土居として史跡指定されているのは9カ所です。それ以外にも、御土居跡を連想させる起伏や場所が各所に見出されます。それでは、西大路御池を起点にして御土居巡りを始めます。二条城南端の濠から西に、JR山陰線(嵯峨野線)の「二条駅」と京都市地下鉄東西線の「二条駅」があります。東西線で1駅西が「西大路御池駅」。この駅が最寄り駅と言えます。 (2014.5.3)南北の幹線道路の1つである西大路通より東側に一筋目、平行して「西土居通」があります。御池通からこの西土居通を北上します。最初の十字路の少し北、東側にこの石鳥居と朱色の鳥居が連続して建ち並んでいる神社があります。「市五郎稲荷神社」です。 入口の石鳥居の左側(北)に、「史跡 御土居」の駒札が立っています。 (2018.3.17)鳥居をくぐって進むと、その先に石段があります。 神社の建物の傍にある石標 この神社が御土居の土塁を利用して建てられて、そこが境内になっているのです。神社として使われたことで、御土居の土塁が残されてきたといえます。 土塁の途中から見上げて 神社の本殿傍の石段を上った土塁の上部 西土居通に戻ります。この通りは御土居の西側になり、また御土居全体からみれば西側の一辺になる御土居です。こんな位置関係が「西土居通」という名称の由来かなと思う次第です。現在の西土居通は北進すると東西の太子道と交差するあたりで東方向に屈曲して北に延びています。余談ですが、西土居通は丸太町通付近から川沿いの道になり下立売通で少し東方向に離れて、北の妙心寺通に合流するところを北端にするようです。さらに、「妙心寺道~三条通の西土居通は昭和時代初期まで『大原街道(おおはらかいどう)』と呼ばれたが、昭和3(1928)年に西土居通に改称されたようだ」とのことで、意外と相対的に新しい名称のようです。(資料4)ところが、太子道のあたりにおいて、御土居はなぜか北へ真っ直ぐに延びるのではなく、西に折れ曲がり、南北の「佐井通」のところで北に折れ曲がり、JR山陰線の「円町駅」の西側を北進する形になっていたのです。(西土居通からの正確な屈折地点は未確認です) つまり、現在の西土居通とはここからリンクしなくなります。ごく最近この箇所を再認識し、資料検索していて情報を入手しました。そこで「円町駅」下車で現地探訪してきました。 丸太町通にこの道路標識が見えます。ついこの間(2018年3月)、偶然にもこの道を歩き、「北野神社御旅所」に出会って探訪していたところでした。円町駅南の屈折箇所から北上する御土居部分は「春日通(佐井通)」そのものの上に築かれていたとのです。余談ですが、この通りは平安時代には「道祖大路(さいおおじ)」と呼ばれていた通りにあたるそうです。(資料5) 通りの東側と地面の段差があります。これは御土居の開削で残された土塁地に関係するのでしょうね。個人的な推測にしかすぎませんが・・・・。 春日通(佐井通)が妙心寺道と交差する少し手前に、通りの東側に一段高くなったこの「円町児童公園」があります。この場所は御土居が築かれていた部分の一部だったのです。 妙心寺道を横切り、北に進むと東側に北野中学校の外壁が見えて来ます。北野中学校構内の北西側が目指す場所です。中学校の外壁沿いに北側に通り回りこむと、校舎の北側外壁越しに一部に樹木が繁った景色(左の画像)が見えます。通りをさらに東に進むと校庭が見えるフェンスになり、そこから右の景色が見えます。ここが史跡には指定されていませんが御土居の土塁が残されている場所でした。御土居が東西方向に屈折した直後の御土居になります。(地形や道路名の記載の無い地図だったので読み間違え、この中学校外の近くだと思い少し手間取りました。地元の人に尋ねてなんとか場所を特定できたのです。) 京都市立北野中学校の正門は西大路通に面し、敷地の南東角側にあります。校門が開いていたので、許しを得て撮らせていただいました。 御土居跡の土塁 コンクリート造りの階段が設けてありました。土塁上部も一部コンクリート舗装がされています。このあたりまでの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。北野中学校は西ノ京中保町に所在します。学校の北側の通りから北側が「大将軍○○町」と称される地域になります。北野中学校の北辺を東西方向に向きを変えた御土居は西大路通を横切り、西大路通と天神川との中間で再び屈折して北方向に延びて行きます。 これは「一条橋」東詰で撮った写真です。(2018.3.17)ここには、「紙屋川」という表記がされています。御土居はこの辺りではまだ橋を渡った西側の少し先に位置していたことになります。 そして、今出川通に架かるこの橋を北に越えた先あたりで、紙屋川の東側に御土居が移って、紙屋川の東岸沿いに構築されていくのです。脇道に逸れますが、「天神川」と「紙屋川」の関係です。鷹ヶ峯の山中を水源とするこの川は、北野天満宮の西を流れ、現在は西ノ京円町付近から西方向に流路を付け替えられ、南区の吉祥院で桂川に合流します。淀川水系の一級河川です。大まかにいえば、上流域が紙屋川、下流域が天神川と一般に呼ばれています。平安時代には、この川のほとりで禁裏御用の紙を漉いたことから、「紙屋川」と称されたと言います。反故紙を再生したごく粗末な紙製品で「紙屋紙」と呼ばれたそうです。そこから一般的には薄墨紙の概念が持たれ、白髪が増えていく頭髪に連想が結びついていったのだとか。今出川通の北側で川の西側は北野白梅町、その北側が北野紅梅町という地名ですが、川の東側は紙屋川町という地名です。一方、この川が北野天満宮の西を流れていることから、その下流が「天神川」と呼ばれるようになったといいます。一条通あたりはまだ紙屋川と呼ばれているということでしょう。(資料6,7)「紙を漉いた紙師は紙座を組織し、北野天満宮に近い紙屋川の畔と西ノ京円町(中京区)付近に住んでいたので、そこを宿紙村」と言ったそうです。(資料6)さて、次は北野天満宮境内地にある御土居跡巡りからです。つづく参照資料1) 聚楽第と御土居 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」2) 所蔵地図データベース 京大絵図 :「国際日本文化研究センター」3) 「史跡 御土居」 リーフレット 京都市文化観光局4) 西堀川小路 :「大路・小路」5) 大路・小路 道祖大路 通り名をクリックしてみてください6) 『昭和京都名所圖會』 竹村俊則著 駸々堂 p2167) 天神川(京都市) :ウィキペディア 補遺市五郎大明社(京都市中京区) :「京都風光」紙屋紙 :「コトバンク」漉返紙 :ウィキペディア西堀川小路の洪水層と御土居 pdfファイル リーフレット京都 No.294 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・御土居跡巡り -2 北野天満宮境内の御土居 へ探訪 京都・御土居跡巡り -3 平野・鷹峯の御土居と紙屋川周辺 へ探訪 京都・御土居跡巡り -4 鷹峯の御土居、大宮の御土居ほか へ探訪 京都・御土居跡巡り -5 大宮交通公園の御土居跡、紫竹の御土居、賀茂川 へ探訪 京都・御土居跡巡り -6 賀茂川景観・御土居跡の軌跡 へ探訪 京都・御土居跡巡り -7 廬山寺の御土居、京都府医大の復元御土居、御土居跡の軌跡 へ
2018.05.05
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4月下旬に奈良国立博物館で4月14日から始まった「国宝 春日大社のすべて」という創建1250年記念特別展を鑑賞してきました。冒頭の仮設門は、JR奈良駅前の広場に設けられています。今年の秋10月に興福寺中金堂再建落慶の予定であり、春日大社は創建1250年を迎えた年であることを祝って、この仮設PR門が設置されたようです。 奈良公園の入口にある奈良博の掲示板です。 博物館への通路沿いの街灯に、こんなバナーが吊されています。 博物館の少し手前に設置されているのがこの案内板です。 この2つは、今ならいろいろなところで手軽に入手できる特別展のPRチラシです。左はこのサイズの両面印刷ものですが、右は2つ折りなので、見開きで展示品の案内となっています。 これは、当日の特別展入場券の半券です。 そして、こちらは2階にある2つの会場を巡って、スロープを下り1階出口に向かう時、売店の傍に設けられていた記念撮影コーナーです。京博の企画展と同じように、この奈良博の企画展でも展示品を異なる組み合わせ方で例示して、幾種類かの異なるPRデザインが試みられています。そして、そこには企画展示において大半の鑑賞者を惹きつけるメイン・アイテムになるとおもわれる展示品が抽出されているのです。会場で入手した展示品リストを見ますと、総数224件が列挙されています。その内、通期展示品が67件、途中中間で8日間展示が途切れるものが2件、残りは前期(4/14~5/13)と後期(5/15~6/10)で展示入れ替え品となります。つまり、ある時点でとらえると150件弱の展示品を鑑賞できることになります。 奈良国立博物館の2階に上がると、第1会場の入口付近に展示されているのが、この「春日神鹿御正体」(京都・細見美術館蔵)です。鹿は春日大社の神の使いです。その鞍の上に神籬(ひもろぎ:榊)が立ち、その枝に円板が付けられて、その中の5つの小円板には春日四所と若宮の本地仏が線刻されています。この本地仏を線刻した円板は「円相」と称するそうです。この「春日神鹿御正体」を細見美術館で初めて見たときは、本地仏が線刻されているところまで観察できていませんでした。今回間近に鑑賞して遅ればせながら線刻像に気付きました。これが端的な事例になりますが、今回の記念特別展を鑑賞しての第一印象として、明治より前の時代には神仏習合の思想が基盤となり、本地垂迹の考え方が当たり前だったということを国宝を初めとする展示品を眺めて実感しました。日本における歴史的感性という点では、明治の神仏分離という発想は人為的すぎてやはり無理があるのではないか・・・・という感じです。今回の記念特別展は9章構成で展示されていました。第1章 平安の正倉院 - 本宮御料古神宝類・若宮御料古神宝類の美 「古神宝類」と総称されているとおり、このセクションの展示品は全点国宝です。 これはPRチラシから引用した本宮の「蒔絵箏」です。一見、流水をイメージさせる図柄の間に動植物の姿が研出蒔絵で表現されています。この銀鶴はいまでは表面が黒っぽくなっていて、表示がなければ銀製とは思えません。わずか高13.0cmという小品です。 入場券とチラシに載っている「金鶴及銀樹枝」も金鶴は高4.7cm、幅3.7cm、銀樹枝は高10.0cmと同様に小品です。磯形の上に立つ一対の銀鶴も同じ位の小品です。 長17.0cmの州浜(台座)上の銅造狛犬は高17.5cmとごく小さな狛犬像です。チラシに掲載のものを見ていると、もっと大きな像をイメージさせる凜々しさと存在感があります。また、蒔絵弓は国宝の現物と併せ、現代の復元模造が展示されています。対比的に見ていると興味深いです。前期・後期と入れ替え展示が予定されています。第2章 神宝 -神々に捧げられた祈り これは当日購入した図録の表紙です。鎌倉時代に制作された「秋草蒔絵手箱」(重文)・蓋表の部分文様です。図録の説明によると「金平目地に、金の研出蒔絵」という技法による作品で、化粧道具を収めた手箱です。内容品が取り出して、傍に並べて展示されていました。横長で蓋をあける形式なのですが、蓋表の文様は縦方向に描かれています。このやり方は近世まで類例がないとか。貴重な作品例です。これは5月13日までの前期展示です。後期は同時代の作品「亀甲蒔絵手箱」に入れ替わる予定です。 これは入手したPRチラシの裏面です。上掲の「蒔絵箏」の上、左側に「秋草蒔絵手箱」が載せてあります。このセクションには上掲チラシの中央部分に載る「金地螺鈿毛抜形太刀」(国宝)が復元模造とともに展示されています。見比べると復元の仕方もすばらしいもので、興味が一層高まる一例です。この復元模造品の方は前期だけの展示予定。逆に後期は、第1章の方に、若宮御料神宝類の「毛抜形太刀」が復元模造品とともに入れ替え展示で加わる予定です。毛抜形太刀というのは、「茎(なかご)部分を太く大きく作ってそのまま柄とし、そこに古代の毛抜を向かい合わせたような形状の大きな透かしを空けた太刀の形式」(資料1)だそうです。これが平安時代後期以降に衛府太刀として用いられたそうです。官位相当表を見ると、六衛府があります。近衛府・衛門府・兵衛府が左右にあったので合わせて六衛府です。内裏の警備や天皇行幸の供奉などを行った官職です。(資料2) 今、手軽に入手できるチラシには、こんな風に大鎧や三つ物完備の胴丸が対にして載せてあります。これらはこのセクションで鑑賞できます。上の赤色・右側は「赤糸威大鎧(竹虎雀飾)」、左側は「赤糸威大鎧(梅鶯飾)」です。下の黒色・右側は「黒韋威胴丸」。左側は「黒韋威伊予札胴丸」です。黒韋威(くろかわおどし)という名称ですが「胴の威(おどし)は濃い藍色で鹿韋(しかがわ)を染めた」ものだそうです。また、伊与札(いよざね)とは、「通常の札は左右の半分ずつを重ねて仕立てられるが、左右の端をわずかに重ねるたけとした鉄札を綴じ付けたもの」をいうそうです。また、三つ物完備は胴と筋兜、袖が鎧のようにセットになっていることです。(資料1)残念ながらこれらをそれぞれ対で鑑賞することはできません。前期は、「赤糸威大鎧(竹虎雀飾)」と「黒韋威胴丸」が展示されています。後期に入れ替わり展示となるのです。 このセクションの展示品での圧巻はこれ! 「ダ太鼓」(重文)と称される超巨大な太鼓です。ダという漢字一文字は私は初見です。読めませんし書けません。通常のカナ漢字変換では無理。あきらめました。まさに漢字世界の奥深さ・・・・です。このダという漢字をさらりと書ける人がどれくらいいるのでしょう・・・・。これは、「雅楽のうち、舞を伴って行われる舞楽に用いられる大型の太鼓」(資料1)です。これは「左方・龍」の太鼓です。火焔縁高390cm、最大幅336cm、総高658cmというどでかい代物です。修理後は今回が初公開だそうです。上方に日輪を象った飾りが付けられていますが、会場での展示ではこの飾りは取り外して傍に展示されていました。会場の床面から天井までの高さとの関係でしょう。 この火焔縁の龍の彫刻、背面も会場で見られるので、締太鼓の調緒(しらべお)の太さやその姿とともに見応えがあります。鎌倉時代・13世紀の製作品だとか。第3章 春日大社の創建ここは出土品の土器・瓦や文書類が展示され、前期は3点の「鹿島立神影図」掛軸が出ています。 こちらは後期に入れ替え展示される一幅ですが、ほぼこれと同じ形式の図です。武甕槌命が鹿に乗り鹿島を発ち春日の地に降り立ったという伝承を具象化したものです。神の勧請を神秘化した伝承というところでしょうか。 このセクションには、7世紀に制作された春日大社蔵の「禽獣葡萄鏡」(重文)とともに、同時代のもので香取神宮所蔵のこの「海獣葡萄鏡」(国宝)が出展されています。いずれも奉納品だからでしょか、綺麗な姿が維持されている鋳造銅鏡です。第4章 国の護り、氏社-皇室、藤原氏と春日大社個人的に関心を牽いたのは、「御堂関白記」(国宝・陽明文庫蔵)や「小右記」(宮内庁書陵部蔵)、「中右記」(陽明文庫蔵)の一部展示です。これらの名称やその内容は本の記述で目にしていますが、現物を見る機会はあまりないからです。第5章 春日曼荼羅の世界春日曼荼羅とは、上掲チラシの左上に載っている軸物の図です。 この「春日宮曼荼羅図」(重文、奈良・南市町自治会蔵)は、このセクションで展示の一例にすぎませんが、通期で展示されるのはこの1点だけで、残りは入れ替え展示となる予定です。13世紀から15世紀にかけて、春日宮曼荼羅や春日社寺曼荼羅、春日曼荼羅、春日南円堂曼荼羅が数多く掛軸図として制作されたようです。経年変化でかなり褪色して図像が見づらくなっているものが多いですが、この重文指定の曼荼羅図はほぼ明瞭に描かれている姿が鑑賞できるものでした。このセクションで、曼荼羅図がずらりと展示されているのを眺めるのは壮観です。神仏習合の世界が当たり前に受容されていた有り様が実感できるのと併せて、春日大社にそうそう参拝に出かけられない人々が、この曼荼羅図を春日大社参拝の代わりとして飾り拝していた、つまり信仰対象の図像だったことが感じられました。一種の春日大社と祭神を観想するツールになったのでしょうね。第6章 春日権現験記絵の世界 このチラシから引用した「春日権現験記絵」の上部に明記の通り、通期展示ですが。展示される巻は入れ替えが行われる予定です。これは春日の神の霊験譚を集めた絵巻で、鎌倉時代の宮廷画家高階隆兼(たかしなたかかね)が描いた作品だそうです。巻物として保存されてきたためでしょうか、色鮮やかです。この図は第1巻第1段の場面です。「春日社の中門に参籠していた橘氏の女性に春日明神が憑依し、僧や神官らに託宣する」という図です。(資料1)第1巻第3段では、社を建てるために材木の加工作業をする人々の姿が生き生きと描かれています。それを通して、当時の材木加工の方法を見えてきます。この絵巻も、色々な視点で分析・研究する素材になりそうです。第7章 春日大社の神と仏神仏習合の本地垂迹の考え方では、一般的には、一宮-釈迦、二宮-薬師、三宮-地蔵、四宮-十一面観音、若宮-文珠という本地仏構成となるようです。興福寺法相宗の影響を受けた考え方では、一宮-不空検索観音、二宮-弥勒に置き換える構成だとか。(資料1)いずれにしても、このセクションでは春日大社の神々と仏との関連で諸品が展示されています。 チラシに掲載されているこの「十一面観音立像」(奈良国立博物館蔵)はその一例です。解体修理の時に像内の墨書銘等から、この像が鎌倉時代、1221年に仏師善円により製作されたことが判明したそうです。そして、春日本地仏の一具を構成していたという説がある仏像です。 図録の裏表紙 部分拡大してみます。 これはこのセクションに通期で展示されるものの一つです。やはりチラシに取り上げているだけのことはあります。「鹿座仏舎利及び外容器」と名づけられている一具のうちの「鹿座仏舎利」です。これ自体は木製で彩色された高10.7cmというごく小さなものです。鹿の背に榊が立てられ、藤原氏を象徴する藤が巻き付いていて、金銅製の円相に水晶板を嵌め、その中に舎利を奉安した舎利容器が取り付けてあります。これを収納する木製で漆塗、蒔絵の外容器がセットになっています。江戸時代、1652年に製作されたものです。小さい舎利容器ですが存在感があります。いい姿です。春日赤童子像という名称の絹本着色の図像と、一木造りの「春日赤童子立像」(唐招提寺蔵)が展示されています。春日赤童子信仰というのが南北朝時代以降に盛んになったということを初めて知りました。第8章 春日大社の祭礼-春日祭とおん祭両祭の絵巻物が展示されていて、雰囲気がわかりおもしろいです。「春日祭絵巻」の中には「強盗の儀」という場面も描かれています。これは強盗を捕まえる儀式の場面だとか。このセクションには、舞楽面や能面、能装束が展示されています。チラシに載せてある舞楽面の「新鳥蘇」という笑い顔の面はやはりユーモラスで楽しい面です。同形式の面がもうひとつあり、後期には差し替えされる予定になっています。第9章 春日信仰の広がり-全国に広がる春日の社と春日講ここにも春日宮曼荼羅の図が展示されています。「春日鹿曼荼羅」の図が展示されていてこちらに興味を惹かれました。白鹿の背に置かれた鞍に榊が立ち、その上に金色の円相が描かれているという図式です。春日大社と鹿の繋がりが、奈良において鹿を大事に扱うという形に結びつき、今に至るのでしょう。この記念特別展を見終えてふと思ったことは、日本における神仏習合、本地垂迹思想の長い歴史を無視し、神社と仏を分離峻別すれば、この企画展がほぼ成立しないということでした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 当日購入した図録『国宝 春日大社のすべて』 奈良国立博物館2) 『クリアカラー国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p52-53手軽に入手できたPRチラシ等の画像を適宜引用しました。補遺春日信仰 :「コトバンク」春日信仰 :「神殿大観」春日信仰 :「歩く・なら 奈良の歩き方新提案」春日信仰を中心とした南都における神祇信仰の展開とその遺品に関する総合的研究 :「KAKEN」特別陳列 おん祭と春日信仰の美術 :「奈良国立博物館」 過去展ですが、以下の特集ページに公開の画像が参向になります。 特集 社家資料と若宮 2017年 特集 奈良奉行所のかかわり 特集 御旅所 2015年春日赤童子 :「徒然草子」春日大社の磐座「赤童子出現石」 :「奈良寺社参拝なび大正楼」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -1 大仏殿交差点から境内へ(憶良の歌碑、石灯籠さまざま、萬葉植物園、壺神神社、車舎) 4回のシリーズでご紹介しています。
2018.05.03
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