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アウトソーシングという言葉がある。業務を外注すること、自社があまり得意としない業務を外部の専門業者に全面的に委託することを意味する言葉だ。企業がアウトソーシングを採用する目的は、資源の有効活用、費用の削減といったところだろう。選択と集中の戦略で使われる戦術のひとつだ。だが、バンビはアウトソーシングの真の意味はもうすこし異なるように思う。例えば、アウトソーシングを引き受ける側は、どのような意識で、クライアント企業の業務をアウトソーシングを請け負っているのだろうかと考えてみるといい。クライアント企業にとって、アウトソーシングが本来、自社内資源で行なう業務を、資源の有効活用、費用の削減といった面から、外注する場合でも、そこで、その業務の質や内容が変化してしまうなら、問題である。クライアント企業にとって自社内の業務は「利益をあげる」という目的にとっての、ひとつの重要な手段である。たとえ、その業務を行なう資源が内部から外部に移動したとしても、その業務の目的は「利益をあげる」とことから外れることはないだろう。だとすれば、アウトソーシング先の企業は、クライアント企業の社員が業務を行なうのとおなじように、当該クライアント企業の「利益」を目的に、その業務を代行しなくてはならない。アウトソーシングで業務を委託される企業は、単に言われたとおり業務を行なえばいいわけではない。業務の遂行はあくまで「利益」をあげるためのツールでしかないのだ。ツールと目的は混同されてはいけない。
2003年01月30日
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前回の日記で書いた「事実」データ収集のため、今週は社内のいろんな人にインタビューを実施しているのだが、その作業が、「事実」データの収集以上に、本来の「目的」である社内の業務改善のために、有効であるのを感じる。いろんな人と話をすることは、すなわち「現場」と話をすることである。営業の人に話を聞けば、営業の現場のことが見えてくるし、リサーチやプロモーション業務の人と話せば、その業務の現場が見える。システム担当者やモニター事務局の人と話しても、その現場が見える。そして、その複数の現場と個別に話をすることで、バンビのなかで組織全体の現場がつながってくるのだ。全体は決して、個別の集合ではない。個々を足しても全体にはならない。その一方で、個々にもその現場での全体があるのだ。現場の声を聞いていて、やはり一番おもしろいのは、お客さんと直につながっている営業の声を聞くことだ。お客さんがどのようなことを望み、どのようなことで悩んでいて、そうした思いのなかで、実際には何を発注しているのか。どのサービスを当社に発注し、どのサービスは他社に発注しているのか。その使い分けにおいて、顕在的にも潜在的にも判断の基準として働いているのは当社のもつどの性質によるものなのか。また、どのサービスはどんなお客さんがどんな点で気に入って使っているか。そんなことが営業の人間と話していると見えてくる。そして、その要望が、いかに実際の商品、サービスや、開発中のシステムとズレをもっているかもわかってくる。そうした現状が見えてくるのは、とても有意義なことだ。そんなことを感じてみて、現場と話をすることの有効性をあらためて感じる。そして、現場という意味では、やはり本当の現場であるお客さんとの直接の話こそが有意義だろうと思う。いずれにせよ、本当に有意義な学習の準備をしようとすれば、まずは現場と話すことだ。そこからしか、本当の学習ははじめられない。それをやらずに学習したところで、それは目的のない苦行となろう。実際、そうした学習が世にはびこっている現実を目にすると、世の中には、無意味な苦行好きのM気質の人がなんと多いことかと嘆きたくもなる。さて、それはいい。現場の声に耳を傾け、学習の準備をすること。ただ、ひとつ注意すべきことがそこにはある。現場があるのは現実に存在するものにおいてだけだということも忘れてはいけない。誰もが想像すらしないものには現場さえない。だが、イノベーションは実はそこからしか生まれない。そのことも現場と話をすること同様、忘れてはいけない。それがドラッカーがいう企業の2つの機能、マーケティングとイノベーションの両輪である。
2003年01月29日
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いま、バンビは社内改善、改革のための「意見」を言うために、「事実」データの収集を行なっている。「事実」+「仮説」=「意見」というのが、いまいる会社の基本コンセプトともいえる部分だからだ。「意見」は「事実」と「仮説」に分解できる。 「事実」・・・何があったのか? 「仮説」・・・それを私はどう理解したか?どう発展させたのか?主観=「仮説」、客観=「事実」の合成が、「意見」ということなのだろう。バンビはいま「意見」を言うために「事実」+「仮説」データを100件目標に収集しているのだ。はじめ1週間に100件の事実データを集めろと言われたときは正直うんざりした。だが、実際に収集をはじめてみると、これがなかなか有意義な作業であることがわかった。あらためて作業を行なうなかで、自分がはじめにいだいた直感による意見の「不十分な部分」と「当たっていたと思える部分」の両方が見えてくるからだ。また、なにより「事実」を集めることで、新たなアイディアが浮かんでくる。そう。「事実」の一部は「機会」となりえる。「事実」にもとづく「仮説」は「機会発見」か「改善情報」になりえるのだ。もちろん、これはひとつの手段である。ひとつの手段としての型であり、答えではない。だが、型は使い方を間違えないよう、注意して行なうかぎり、有意義なものとなる。バンビはいま、それを実感している。バンビは、社長に、「意見」を言いたければ、事実データを100件集めろと言われた。もちろん、実際はそんなキツイ言い方をされたわけではない。だが、いま、その作業を行なってみて、社長のその指示は正しかったのを実感できている。この作業は、バンビ自身の頭のなか(「仮説」)と、実際の現場(「事実」)をともにクリアにしてくれる。そうしたことが目の前、そして、頭のなかで実際におこる過程のダイナミックな部分がこの作業のおもしろいところだと思う。それでも忘れてはいけないことがある。バンビにとって、この作業は手段でしかない。作業の楽しさ、有意義さによって、目的を見失ってしまっては、愚の骨頂である。右手と左手でバラバラのことをやることは、著しくバランスを欠いている。
2003年01月27日
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教育機関(いや、正確には、バンビが想定しているのは、教育/学習のための組織だが)のマネジメントには、現在、どういう状況なのだろうかと思う。例えば、代表的な教育機関としての学校では、マネジメントというものが存在するのだろうか?存在するとすれば、その対象はどこまで及んでいるのだろうか?ようするに、マネジメント対象の組織をどこまでの領域として見ているかだ。大学であれば、学生はマネジメント対象となっているか。もちろん、ここでいうマネジメント対象とは管理対象という意味ではない。成果をあげるための方向性をきちんと示すべき対象となっているかだ。ここ数日は繰り返し書いているが、組織には目的があり、そこを目指すための戦略があり、戦略を実行に移すための戦術、行動があり、そして、それらのコントロールがある。その意味で、大学という組織はマネジメントの対象として学生を組織の一部と考え、目的~戦略~戦術・実行~コントロールというなかで、どのような位置付けをしているのかと思う。そんな風に考えるのは、とても現状ではそのような本来的な意味でのマネジメントが行なわれていないように思うからである。ほとんどの教育機関でマネジメントという概念そのものが意識されていないのではないかと外部の人間としては思ったりする。だが、ほんとうの意味で、教育/学習の場として、成果を求めるなら、マネジメントなくしてはじまらない。 ○ 何のために教育/学習の場となるのか ○ 教育/学習の成果は何か ○ 成果のためにどのようなマーケティングを行なうのか ○ 成果のためにどのようなイノベーションを行なうのか ○ 成果のための生産性をいかにして上げるのかなど、マネジメントなくして、本来的な意味での教育/学習を実施することは不可能だろう。もちろん、それは組織側だけの問題ではない。先に大学という組織は、学生を組織の一員としてみているか?と問うたのはその意味だ。学生が組織の一員なら、自らをマネジメントしなくてはいけない。自らの学習に関して、成果と生産性に関するマネジメントを行なわなくてはならない。 ○ 何のために学習を行なうのか。目的は何か? ○ 目的に達するために、外部要因と内部要因の分析した上での、戦略策定 ○ 戦略を実行する上での、細かな方法とその実行 ○ 実行途中での評価と修正など、そういったことが学ぶ個人においても必要となる。こういったマネジメントのある形をいち早く実現しないかぎり、教育/学習の未来はきわめて暗く、特に公的な教育機関はますます企業内学習や非公式な勉強会などにその地位(市場シェア)を奪われていくのではないかという気がする。こうした現状に対し、いったい、公的な教育機関はどんな考えをもっているのだろう?
2003年01月24日
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昨夜、ふと考えた。いったい、どれくらいの人が、プライドをもって仕事をしているのだろうか?と。バンビはプライドをもって仕事をしたいと思う。実際、すべてのシーンでとまではいかないまでも、プライドを大切にして仕事をしている。バンビの仕事をする上でのプライドは正しいことをすることだ。ただ、その場合でも、正しいことが何かわからないということもある。いや、ほとんどの場合、何が正しいかということには確信はもてない。だが、明らかに正しくないことはしない。正しい(かもしれない)と感じることをする。正しい(かもしれない)と考えたことをする。方法が正しいかどうかではない。正しい結果を導き出すために、最善を尽くすことが重要だと考えている。そして、最善を尽くした上で、完璧ではないまでも、その何%かをクリアした正しい結果が出せればいいと思っている。もちろん、そういう風に思って行なう仕事でも、失敗はある。求める正しい結果に1%も届かないことだってある。失敗したらそれを認めて、なぜ失敗したかを考える必要がある。それを考えなければ、次もまた確実に失敗してしまうから。正しい方法などない。昨日、話した人は「ノウハウはない」と言っていた。バンビもそう思う。いまの知識がアップデートされる知識だというバンビの知識感もそれと同様のことを見ている。正しい結果にいたるために有効な方法とそうでない方法があるだけだ。目標があり、そこに到達するのにはいくつか道がある。道がない場合もある。なかなかその道がわからないこともある。だが、必ず、その目標に達成するなどという道はない。もし、そんな道があるとすれば、行き着く先としての目標が間違っているのだ。それは低すぎる目標で、目標とは呼べない。正しい目標があり、そこにたどり着くための道がある。 事業が、目的の設定~戦略策定~マーケティング計画と実行~コントロール というプロセスで成り立っているのはそのためだ。 目的は目標であり、戦略はどの道を通るか決めることだ。 マーケティングとはその道をどうのようにして通るか、どうしたら通れるかを考えることで、 また、それを実際に行なうことである。 コントロールは実際に道を歩いたことで、目標にたどり着けたか、 たどり着けなかったのなら何故かを考え、 その原因に応じて、戦略あるいはマーケティングをやりなおすことである。目標も戦略もマーケティングも、結局、それだけのことでしかない。その方法はいくつも発明されては消えていくことだろう。だが、問題は方法の正しさなどではない。それは絶対に間違えたくない。10年後には確実に消えているだろう方法に心からの賛同をする気はしない。方法など何でもよく、正しい結果さえ出せればいい。もちろん、悪い方法で、正しい結果を出すことはできない。たとえ、想定した場所にたどり着いても、すぐにその場を失なうだろう。バンビのプライドはそれを許さない。そして、何より正しい結果かどうかは、バンビが決めることではない。それはバンビが仕事をする相手となる人が評価することだ。そのためには、誰のために仕事をしているかをわかっていなくてはならない。何故、その人がバンビに仕事をさせてくれているのかを考えなくてはならない。相手が認めてくれなければ、どんな作業も、どんな方法も、どんな結果も正しくはない。だから、プライドとは謙虚さでもある。 ○相手の言葉に耳を傾けなくてはいけない。 ○相手の気持ちを考えなくてはならない。 ○相手の行動をよく観察して、相手さえ気付かない気遣いをしなくてはならない。結局、マーケティングという計画も行動も、 ○人の言葉に謙虚に耳を傾け、 ○人の気持ちをわかってあげ、 ○人に興味を示して、気遣いをする。ただ、それだけのことだという気がする。だからこそ、相手にとっての正しい結果を出すためには、自分がちゃんと勉強しなくてはならないと思う。正しい知識も、正しい行動もないが、相手にとっての正しい結果を出すためには、知識も、行動も必要だ。これでいいなどという地点はない。日々、勉強しつづけ、生涯、勉強しつづけるしかないだろう。ほかの人が何をプライドとして仕事をしているのかはしらない。プライドなど感じずに仕事をしている人もいるだろう。だが、本当に仕事をするなら、プライドをもって仕事をするほうがいいと思う。成果に責任をもつ以前に、成果を目指すというプライドが必要ではないだろうか。もちろん、本当のプライドは謙虚さでもある。人の意見を受け付けないプライドなど存在しない。人の意見でより大きくなるプライドはあっても、人の意見で揺らぐプライドなどない。それは誇りではなく、威勢を張っているだけだ。仕事をする上ではプライドが大事だとバンビは思う。そして、学習にも、教育にも、プライドが必要だろう。本当に学ぶべきこと、教えるべきことは、そんなプライドだという気がしている。
2003年01月23日
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バンビは今、『コミュニティ・オブ・プラクティス』という本を読んでいる。(トップページの"Now Reading!"と違うとかは気にしないように)組織内でのナレッジ・マネジメントの方法として、公式・非公式のコミュニティを有効に活かすという内容だ。知識を獲得するには、同様の興味、関心をしめす友人、知人から教えてもらうという方法がある。また、おなじ関心をもつ人同士で議論、話をするなかで、新しい知識を獲得することもある。特に実用的な知識、実践的な知識であればあるほど、それは興味、関心や実務などを共有する人たちとの日常的なコミュニケーションにおいて、獲得、発見、練磨されることが多い。ようするに、こうした特性を積極的にとりいれ、知識の獲得、発見、練磨、蓄積などを目的としたコミュニティをつくることで、組織内のナレッジ・マネジメントを行なっていこうというものだ。さて、コミュニティといえば、ここ楽天広場もヴァーチュアルなコミュニティだ。実際、バンビも日記にいろいろ書きながら、いろんな人と交流することで、知識の確認や再発見、それから新しい知識のアイデアなどが浮かんでくることもある。ここもそういう意味において、立派な「コミュニティ・オブ・プラクティス」だといえるだろう。『コミュニティ・オブ・プラクティス』を読んでいて、共感するのは、活発で、優良なコミュニティは、議論や会話の中で、反論を積極的に受け入れ、それを知識の練磨、新たな知識の発見のための原動力としているということだ。実際、反論なくして、正しい認識など生まれない。仕事で会議などをしていても、自分が出した案になんの反論もないとかえって、その案を放棄したくなる。反論がないアイデアはどこか完全ではない気がしてしまうのだ。あるいは、内容がまったく伝わっていないとか・・・。反論もしあいながら、隠れた問題点もみつけ、それに対する改善策なども考慮しながら、アイデア、知識は練磨されていく。同時に、その過程において、アイデア、知識そのものがメンバーに共有される。ナレッジ・マネジメントにおいて、コミュニティが価値をもつのは、そういう面においてだ。そんなことを思いながら、今日は新しい日記のテーマ、「新しい学習と教育、新しい知識について」を立ててみた。みなさん、ぜひぜひ参加してください。
2003年01月22日
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今日は、豆ざむらいさんの日記に書かれていたLOHAS(Lifestyle Of Health and Sustainability)、生活創造者(Cultural Creatives)について、豆ざむらいさんとコミュニケーションを行なう中で、あらためて今日の変化について考えることができた。豆ざむらいさんは、LOHAS的志向、生活創造者(Cultural Creatives)を肯定した上で、 スピリチュアルな部分を商業目的に考えられることが なんとなくいつも豆ざむらいは受け入れられないんです。といった発言をしている。その気持ちはわからないでもないが、その上で、バンビは、スピリチュアルな部分が商業に介入せざるを得ないこと自体、すでにLOHAS的志向になっているのだと思う。ようするに、LOHAS的志向の時代においては、商業でさえスピリチュアルな部分を無視してはその存在を認められないのだ。もちろん、実際にLOHAS市場をターゲットにしている企業が、どのようなビジョンをもって、市場展開をしているかはしらない。だが、利益のためだけに市場展開を行なったのでは、生活創造者たちには受け入れられないだろう。それこそ、LOHAS的志向に反するのだから。バンビはこうした流れを当然のことだと思う。すこし前までとは、個々の人間にとっても、企業にとっても、プライオリティは変化している。これまでなら企業にとってはとにかく「利益」が一番だった。なにしろ資本主義社会であったし、資本主義経済が機能していた。だが、いま、現在をみると、「スピリチュアルな部分」、「心の部分」のプライオリティが高くなっている。「利益」の価値が低くなったのではなく、それはむしろ普通のこととなった。「利益」をあげるのは企業の目的そのものではなく、企業であれば当然行なうべきことという具合に、それは普通のことになっている。かつて目的の位置にあった利益がその座を去ることで、代わりに目的の地位を占めるものがとうぜん必要となる。いま現在は、その位置を「スピリチュアルな部分」、「心の部分」が占めつつある。だが、それはあくまで暫定的なものだという気がする。「利益」=資本主義から「?」=ポスト資本主義に移行しているのは間違いなくても、「?」の部分に何が入るか、「ポスト資本主義」とは結局何かが明確になっていない。今はまだ明確なものがないから「スピリチュアルな部分」としか言いようがない。それは未来において、別の何かはっきりしたものに変化するのだろうけど、今はそれがまだ明確でないため、そのように捉えるしかない。昔の人がわけのわからない事象を霊的な(spiritualな)もののせいにしたのとおなじことだ。現在は、「利益」=資本主義と「?」=ポスト資本主義(仮称)の狭間の変化の時代だといえる。そんな狭間の時代で、LOHAS的に、spiritualな部分を重視することで、未来の「安定」を志向するのはごくごく当たり前の流れだと思う。その意味で、LOHASそのものは、未来ではないだろう。それは現在において解決すべき問題の集まりではないだろうか。問題はLOHAS志向そのものが問題視する問題を解決したあとに来るものである。だが、それを現時点で想像しても無駄である。未来は誰にも想像できない。現時点の問題を解決しなければ未来はない。ただし、もはや問題は「利益」や「資本」ではない。それは問題ではなくなったのと同時に、社会の基盤ではなくなった。だが、それは同時に、人々や組織が立つ基盤の喪失を意味する。基盤のなさが不安定さの要因であり、そこでLOHAS的な志向が安定を求める。そして、LOHAS的な志向は現在にある多くの問題について指摘している。その問題をまず解決しなければならない。それは組織の商品、サービスの提供によって、解決しなければならない。また、それは政府やNPOの力によって解決するものでもあるのだろう。LOHASは個人にとってのLifestyleというだけでなく、企業や政府、NPOなどの組織にとっても、しばらくのあいだ、ひとつのLifestyleになるだろう。
2003年01月21日
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昨日の日記では「目的」と「行動」の関係について書いた。「現状の把握」から「実行」の流れの中には実はすくなくとも2人の登場人物が必要なのは気づかれただろうか?そこには最低でも「私」と「あなた」が必要となる。「1.現状の把握」は「あなた」に対する理解だ。「2.目的の設定」は「私」の問題だ。「3.仮説の明確化」は「あなた」に関するより深い理解のための想像を意味する。「4.仮説検証」は「私」が想像した「あなた」が本当にそのとおりかどうかを確かめる行動である。「5.目標の設定」は「私」の行動によって「あなた」にどんな反応を示してもらいたいか?ということである。「6.戦略立案」はそのために「私」が行なう行動の基本的なゲームプランである。「7.戦術(実施プログラム)策定」は「私」のより詳細な行動シナリオであり、台本である。そして、最後に「8.実行」で「私」は実際に「あなた」に対しての行動を現実のものとする。「私」の行動によって示される「あなた」の反応が予想していたものと違うなら、「9.効果検証、コントロール」により、しかるべきところに戻って、修正を加える必要がある。「1.現状の把握」の時点ではまだ「あなた」は「私」のことを知らないかもしれない。それでも「私」は「8.実行」で「あなた」に対して行動を起こすだろう。だが、いきなり行動を起こしたとしたらどうだろう。「あなた」は「私」が思っていたような「あなた」ではないかもしれない。たとえ「あなた」が「私」の思っていたとおりの人だったとしても、「私」の起こした行動のあまりの唐突さに「あなた」は顔を強張らせるかもしれない。「私」は一体「何をしたい」のだろうか?「私」はただ自分がしたいことを「あなた」に対してするのかもしれない。それで「あなた」は喜ぶだろうか?「あなた」は喜ぶかもしれない。だが、「私」はそもそも「あなた」を喜ばせたいために行動したのだろうか?「私」はただ、自分がしたかったことをしたいだけだったのではないか。「あなた」は別にあなたではなくてもよかったのかもしれない。もし、誰かがこんな風に、あなたにアプローチしてきたらどうだろう?また、逆にあなたは誰かに対して「私」がとったようなアプローチをするだろうか?あなたの行動にとって重要なのは、本当に「何をしたいか?」なのだろうか?「あなたがしたいことをしなさい」といった言葉はよく聞かれる。だが、果たして、その言葉はその額面どおり受け取っていいものなのだろうか?したいことをした結果は「私」や「あなた」にとって何をもたらすのだろうか?重要なのは「何をしたいか」ではなく「何のために行なうか」である。「私」が「あなた」のことを思うなら、そして、自分自身のことを思うなら、「何をしたいか」ではなく「何のために行なうか」を考えて行動するのが得策だろう。「何のために行なうか」を考えて行動したなら、その行動の結果が成功か失敗かは判断できる。失敗も決定的な失敗なのか、効果薄という意味での失敗なのかも判断できるだろう。失敗したなら別のやり方でやり直すことも多くの場合、可能だ。「何のために行なうか」によって行動すれば、致命的なミスは避けられる。「私」と「あなた」で考えるなら、こんなシンプルなことはない。だが、そんなシンプルなことが組織の中ではいともたやすく無視される。目的をともなわずに行なわれる行動、真の相手である顧客を理解しようともせず、上司などの言葉だけを聞いて行なう行動、そんな行動がなぜかまかりとおってしまう。まったく意味がわからない。想像力のかけらも感じられない行動だ。「何をしたいか」という問いは単独ではまったく意味はない。「何のために行なうか」を考えて、そのために行なう複数の行動の選択肢のうち、さて「何をしたいか」と考えたとき、はじめてそれは意味を成す。そうでなければ、「あなた」が「何をしたいか」など、「私」にはまったく興味はないし、もし、それで迷惑をかけられるようなことがあれば、「私」は「あなた」を嫌悪するだろう。ましてや、「あなた」が「何をしたいか」さえ考えずに、行動するなら、「私」は「あなた」を馬鹿だと思う。そんな馬鹿なことが実際、多くの企業で日常茶飯事な状態で起きている。これでは不況にならないほうが奇跡だろう。
2003年01月20日
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基本的に組織の中でなんらかの公式な行動を起こそうとすれば、 1.現状の把握(機会、問題点) ↓ 2.目的の設定 ↓ 3.仮説の明確化 ↓ 4.仮説検証(調査、観察) ↓ 5.目標の設定 ↓ 6.戦略立案 ↓ 7.戦術(実施プログラム)策定 ↓ 8.実行 ↓ 9.効果検証、コントロールといったプロセスで行うのが正攻法だろう。「1.現状の把握」、「2.目的の設定」がなければ、どんな状況で、何のために行動をするのか?がわからない。「3.仮説の明確化」で現状と目的の関係を明確にし、「4.仮説検証」において、それを確認する。誰に、何を、どんな風に行なえば反応があるかを把握する。「5.目標の設定」と「6.戦略立案」は非常に緊密に連携している。目標を達成するために戦略はあり、戦略によって目標は異なる。目標は目的を具体化したもので、戦略は仮説の検証に裏打ちされたものだ。「7.戦術(実施プログラム)策定」では、実際に、誰が、いつ、どんな風に、どれだけの資源を使って、行なうことを決定する。ここにおいて「8.実行」のシナリオはすべて用意されていなくてはならない。ここでの実行は、すべて目的のためでなければ意味はない。「2.目的の設定」が「何のために行動するか?」であるのはそのためである。そして、最後に「9.効果検証、コントロール」。「8.実行」が「2.目的の設定」や「5.目標の設定」に結びついているかどうか?結びついていなければ、どこかの過程で間違いがあったことになる。それは単に「8.実行」が「7.戦術(実施プログラム)策定」のシナリオどおり動いていないだけかもしれないし、そもそも「7.戦術(実施プログラム)策定」が甘かったのかもしれない。あるいは、「4.仮説検証」に抜けがあったのかもしれないし、「3.仮説の明確化」そのものが間違っていたのかもしれない。だが、決して、「2.目的の設定」そのものが間違うことはない。それはむずかしすぎて現実的ではないことはありえるが、「何のために行動するか?」が間違うことはありえない。上記のとおり、行動をしていれば、間違いが起こるのは、「3.仮説の明確化」以降の過程のどこかだ。それは「9.効果検証、コントロール」によって、修正することが可能だ。だが、しかし、そもそも目的がない行動は後でどうすることもできない。にもかかわらず、組織において、そんな行動が当たり前のようにはびこっているのは一体、どういうことなのだろうか?と思う。目的とは「行動すること」そのものではない。「何のために行動するか?」のかが問われないかぎり、いかなる行動にも意味はない。それは単に資源の浪費を生むだけの無意味な行動でしかありえない。
2003年01月19日
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知っている/知らないの二元論が有効な知識からヴァージョン管理が要求される知識への変化は、そもそも、知識そのものが貴重な資源として活用され、実践的な意味合いで用いられることが多くなったことに起因しているのだろうと思う。ようするに、知識の変化をより簡潔に述べるとすれば、これまでの知識がツールや仕組みに関する知識の応用であったのに対し、現在の知識は、知識そのものに関する知識の応用ということになる。「○○の技術を使えば□□なツール」ができるという知識の応用から、「□□の知識の生産性をあげるには○○な知識によるマネジメントによって行うのがいい」といった知識の応用が重要になってきている。科学的技術や物理的資源など以上に、人的資源、知識という資源そのものが重視されるようになれば、当然、マネジメントの対象も、技術や物理的資源から、人的資源、知識そのものに移るだろう。そういうことだ。すこし前の日記で、バンビは「リエンジニアリング」について取り上げていた。リエンジニアリングというツールは、基本的に組織の構造とは無関係に、組織の機能を規定するプロセスそのものに目を向け、これまでの職能別に分業化、構造化された部門別の仕事の進め方からインプットからアウトプットまでのプロセス全体に責任を負うチームによって、ビジネスプロセスを行なうことへの変換を行なうものだ。ここでひとつ問題が生じるとすれば、これまである意味、自然に職能部門に蓄積されるようになっていた知識がプロセスの流れの中では、蓄積されにくいということだ。知識とは基本的に人と人との共有物である。誰かが何かを知っているだけでは知識ではない。誰かが知っていることを、他人が、あるいは、社会がその有効性を認めてはじめて知っていることは知識となる。これがプロセス・チーム制では、共有がきわめて困難になる。あるプロセスが別のプロセスとは無関係に稼動しているために、その中におなじ職能、おなじ知識が存在していても、おなじような職能に関する知識が別のプロセスチームにいるメンバーとは共有することがむずかしい。共有されないということは、おなじような知識が異なるプロセスの中で、ヴァージョン違いを発生させるし、そもそも、そのヴァージョンのひとつひとつをプロセス内部だけで発生させるとなると、非常に非効率的である。これは違うプロセスの人には知識の伝達、共有を行なわないというクローズドな意識における話ではない。メンバーそれぞれがオープンな意識で知識の共有を求めていても、実際に知識の共有を行なうのに必要なコミュニケーション機会そのものが欠如しているのだ。コミュニケーションが欠如した状態で、知識の共有など図れるはずがない。それゆえに知識の共有を実現させるためのマネジメント知識がまた必要となる。刻々と変化する環境の中で、重要な競争要因である知識もまた、日々ヴァージョンアップされている。にもかかわらず、知識の共有が行なわれにくい環境があるなら、それをマネジメントの力により、なんとかしなくてはならない。組織において、知識が重要な資源である以上、それはほってはおけない問題だろう。個人の知識など、どうにでもなる。それこそ、知識を蓄えようとしない人間は知識に貪欲な人間と入れ替えればいい。組織にとって、人材そのものはある程度、簡単に手をくわえることができる。優良な組織なら優秀な人間にとって魅力的な可能性が高いのだからなおさらだ。だが、組織知となるとそうはいかない。優秀な人間が複数いれば、それがそのまま組織知になるというわけではない。優秀な人間による既存知識の練磨と新規知識の開発、そして、フィードバック~共有という流れがない限り、それは組織知とはならない。そして、それは自然に発生するとは限らない。自然に発生する場合もあるが、それを神頼みするのがマネジメントではないだろう。だとすれば、マネジメントはその流れをある程度、意図的に生み出さなくてはならない。それこそ、本当の意味でのナレッジマネジメントだ。それには闇雲にITを用いるだけでは意味がない。そもそも、ITでどうにかなるなどという考えは、情報と知識を混同している。前日の日記にはコメントがなかった。バンビの書き方がむずかしかったせいもあるし、バンビ自身、自分の書いていることをよくわかっていなかったせいもある。だが、この問題はむずかしいからわからないで済ませられる問題ではないだろう。おそらく、このことがわかっていない組織や人間はこれから苦労するだろう。悪いが本当に苦労するしかない。もちろん、苦労してどうにか生き残れるならいいほうだ。だが、事実はもっとつらいものだろう。
2003年01月18日
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最近、はっきりと知識には2種類あるのがわかった。静的な知識と動的な知識の2種類だ。前者は、基本的に知識のバージョンアップが必要のないもの、後者は、外部環境の変化によって、日々、更新が必要になるものだ。また、言い換えれば、前者は、「知っている/知らない」という2進法で管理ができるのに対して、後者は、いつの時点での知識を持っているかが重要になるため、「知っている/知らない」では管理が不可能である。そして、現在の知識の増大と多様化は基本的に後者の動的な知識によるものだと考えられる。したがって、ある知識に対して「知っている/知らない」という問いかけはできない。これは重要な問題だと思う。さまざまな知識が、日々、大小のバージョンアップをされている。「あなたの知ってる知識は、"ver.3.71"、それとも、最新の"ver.4.0"?」こんな問いが必要となり、知識の同一性の認識は非常にむずかしくなる。知識を共有しようとすれば、それぞれの人間、チームや部署が日々、最新の知識への更新を心がけなくてはならない。それは計画的に管理を行なう対象ではもはやなく、それぞれの人間、チームや部署が自主的に学習を行なうことでしか対応できないものだろう。それに対してマネジメントができることといえば、学習の意欲を後押しするためのサポートシステムを構築することぐらいのことだろう。問題はそれだけではない。かつてなら、あるプロセスを実行するのには、既存の「静的な知識」を決められた順番どおり実行するだけでよかった。必要な知識すべてとその用いる順番さえ知っていれば、プロセスの実行が可能だった。その場合、2つの異なるプロセスを比較する場合、そこに用いられる知識の比較とその順番の比較によって、プロセスの効率などを分析することが可能だった。あるプロセスは実行、分析が可能な対象だった。だが、そこに「動的な知識」が入り込むとそうはいかなくなる。知識自体が更新されるため、昨日まで正常に稼動していたプロセスが、突然、機能しなくなったり、機能はしても非常に非効率なものになりうる。「静的な知識」によってつくられたプロセスなら、おなじプロセスはおなじもので、異なるプロセスはお互い比較し、分析することができた。だが、「動的な知識」によってつくられたプロセスはそもそもおなじプロセスが昨日と今日では違う可能性がある。そもそも知識の同一性-バージョン違いの確認が困難であるため、おなじプロセスでさえ比較がむずかしく、異なるプロセスでは何をどう比較すればいいのか、その根拠を策定することだけで膨大な作業となるだろう。それはもはや分析的な比較の対象ではない。言うなれば、それは経験的な学習によってしか比較ができないのだ。これまでの「静的な知識」が水と鉄の物理的な違いを問題にするような知識であったとすれば、新しい「動的な知識」はあの猫とこの猫の生態的な違いを問題にするような知識であるといえるだろう。それゆえに、前者の知識によってつくられたプロセス、計画は「実行」が可能で、「分析」することも可能であるのに対して、後者の知識によるプロセス、計画は「実行」するものでなく、「学習」し、「発見」するものだといえる。こうした違いが何であり、こうした知識の違いを前にわれわれのビジネスはどう変わるべきかは、今後、より深く考えていくべきであるような気がする。企業における知識の重要性、ナレッジマネジメント、資源としての知識が取りざたされている中、こうした知識の変化は見逃しておけない大きな違いだろう。
2003年01月17日
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組織においては、人こそ重要な資源だということはよくいわれる。確かにそれはそのとおりだろう。だが、実際のところ、人は資源にもなれば、お荷物にもなる。企業にとって、回転率の高い商品が有益であるのに対し、在庫が山積みになってしまうような回転率の悪い商品が無益なだけでなく、在庫コストを発生させる意味では害でさえあるのと同様である。在庫管理を含めたサプライ・チェーン・マネジメントが必要であるように、人を活かすためにも当然、なにかしらのマネジメントが必要なのは言うまでもないことだろう。これは組織内の個人の問題であるというより、マネジメントの問題である。どんなに優良な商品でもマーケティング・マネジメントがしっかり行なわれていなければ売れないように、優秀な人材でも組織の中では有効に活かせない場合がある。繰り返すが、それはマネジメントの問題であり、マネジメントが必要であるということである。だが、しかし、多くの組織がそのマネジメントで苦しんでいるのは確かだ。いや、マネジメントに苦しんでいるというよりも、どうマネジメントを行なえばいいのかわからないというのが実状だろうか?いずれにせよ、マネジメントが答えを見出せていないという現状はあるように思う。マネジメントが人的リソースを成果に結び付けられないという問題だ。目的、目標を明確にして、人的リソースの方向付けを行なうというごく当たり前のことができないのは、単なる事業プランニングにおける不備だ。そうではなく、バンビが気になるのは、そうした事業プランニングを行なっている組織でも、異なる部署に散在する大勢の人間が関わるプロジェクトでの受け渡しや意思決定における時間的ロスは発生してしまうことはあるだろう。いつ、誰が、何をやるかを明確すると同時に、それぞれに対して、誰が意思決定を行なうかを明確にできていなければ、時間的ロスは避けられない。目的、目標さえ明確であれば、意思決定を行なうことはある程度誰でもできる。だが、誰がやるかを決められていないと誰がそれを行なっていいかわからず、複数の人間でお見合い状態になってしまうことがあるのだ。また、意思決定に必要な情報がどこにあるのかわからなくなるということもあるだろう。あるいは、情報のありかがわかっていても、部署が異なったりすると、そこになかなか辿り着けないということも起こりえる。例えば、大企業に多いであろうマネジメントと現場の距離もそうしたことが起こる要因のひとつだろう。とうぜん、実際にはマネジメントも時には現場に顔を出すというのがその唯一の解決策だ。現在に報告を義務付けても意味がない。報告が必要なら現場の側から率先して報告してくるような環境を整えることこそが真に重要なことだ。なぜならマネジメントのために現場の報告が必要なのではなく、事業の成果のために現場がマネジメントに報告することが意味のあることなのだから。上記のようなバンビが意識している問題は、基本的には、人的リソースを有効に活用するための情報、知識に関する問題だ。ようするに、人的リソースを事業の成果のために有効に活用しようとするなら、必要な情報、知識をコミュニケーションという手段を通じて、しかるべきときに、しかるべき人間間で流通させなくてはならない。人的リソースのマネジメントにおいて、重要なことはそういうことだと思う。マーケティングには通常知られるエクスターナル・マーケティングだけでなく、内部のマネジメントを目的としたインターナル・マーケティングがある。だが、そうしたことをちゃんと理解して、動いている企業はそう多くはないと思う。そこにバンビはマーケティングの可能性を見ている。
2003年01月16日
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知人と話をした際に、「自分が言葉をどう認識しているか?」という話題になった。本を読むとき、人の話を聞くときに、言葉をどうやって認識、理解しているか?ということである。まず、あなたは本を読むときに、心の中で音読するだろうか?バンビは心の中で音読をしながら本を読む。音読する自分の心の声を聞きながら、本に書かれた言葉を理解しているのだと思う。それは基本的に人の話を聞くのとおなじことになる。バンビにとって、言葉は文字である前に、話し言葉であるようだ。で、次の問題として、では、自分は話し言葉をどう具体的に認識しているか?ということが問題となる。「タバコ」という言葉を聞いた際に、具体的なタバコを思い浮かべるか?バンビの場合、それはNOである。すくなくとも、タバコの絵を思い浮かべることはあまりない。むしろ、タバコを吸いたいなと思う。絵ではない。そこから想起される自分の思いを思い浮かべることが多いのだと思う。また、小説などを読む際、バンビは小説の内容を非常に論理的に読んでしまっている。「彼は黙って部屋を出て行った」などという記述を読んでも、「彼」を絵として思い浮かべることも、「部屋」の様子を思い浮かべることもしない。もっと抽象的な図として、「部屋」をあらわす□から「彼」をあらわす○が外に出たというような形でしか認識をしていないように思う。だからなのかもしれないが、小説を読む際、バンビは外見的な人物描写や情景描写などを飛ばし読みすることが多い。逆に、心理描写などは意外にも心にとまる。「何をしたか?」より「何故それをしたか?」に重点があるのかもしれない。「行動」はあくまでディテールを欠いた動きとして認識され、代わりに「心理」や「状況(is not 情景)」がディテールとして補完される。きわめて図式的である代わりに、何故がやたらと強調される読み方である気がする。そのような読み方の結果が、前に日記に書いた『海辺のカフカ』の感想にもよく反映されているというのは、その話を聞いた彼女の感想だ。ところで、いっしょに話した知人は、バンビとはまったく違うタイプだった。まず本を読むときに音読をしない。彼は本を読みながら絵を思い浮かべる。それもバンビのような○や□だけであらわされた図式的な絵柄ではなく、映画などに近い具体的なイメージであるそうだ。おなじように人の話を聞く際にもそうしているらしい。彼はそうやって言葉を認識している。だから、携帯の着信履歴をみて、バンビの名前があったとすると、バンビ自身の外見的なイメージを思い浮かべるらしい。バンビは携帯の着信履歴をみても外見を思い浮かべることはない。もっと自分の思いに近いもの、例えば、彼女の名前なら「好き」ということを瞬時に思う。それは「タバコ」と聞いて、タバコの視覚的なイメージを思い浮かべるか、タバコを吸いたいと思うかの違いだ。このように言葉の認識の仕方には人によって違いがあるようだ。知人のように視覚的なイメージによって認識する人。彼はそれゆえに視覚的にならないものを覚えることが苦手だと言っていた。例えば、数字。この車は最高速度300km出るなどという数字的なスペックを覚えるのは苦手だということだ。そうかもしれない。速い遅いは視覚化できても、300kmという数字を視覚化するのはむずかしいだろうから。バンビは彼とは違い、言葉や文章を論理的に捉える。一連の話の中の要点を論理的に抜き出してしまう。300kmが論理的な意味を持つなら、300kmを覚えるのも困難ではない。代わりにその車がどんな形をしていたかなどは忘れてしまうかもしれない。人の話を聞く際でも、要点をおさえて聞こうとする、いや、要点しか聞こえないからこそ、会議などで異なる複数の人のそれぞれの要点を抜き出して、意見のおなじ部分がどこで、違う部分はどこなのかを、即座に図式化して、まとめることが難なくできるのだと思った。コミュニケーションにおいては、このような言葉の認識の違いが大きく関係しているような気がする。おなじ言葉をおなじように認識できないのは、単に価値観などの違いだけではないように思う。言葉はほとんどの人にとって、認識のための重要なツールではあるだろう。だが、そのツールの用い方は人それぞれ異なる。それがコミュニケーションを困難なものにしている。コミュニケーションは認識の問題であるがゆえに、認識のツールの使い方の個性はコミュニケーションに深く関係する。もしこのコミュニケーションの困難をすこしでも軽減させようと思うなら、まず、自分自身の言葉という認識ツールの用い方について、よりよく理解することが必要だろう。
2003年01月15日
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彼女とデートで、『8人の女たち』を観た。タイトルどおり、カトリーヌ・ドヌーヴ、エマニュエル・ベアール等、8人のフランス人女優が共演するミュージカル・コメディ。8人の女優それぞれの個性がよく表現されていて、どの女優もみな、それぞれに魅力的に感じた。特にバンビが好きだったのは、エマニュエル・ベアールとヴィルジニー・ルドワイヤン。前者は男を誘惑する悪女、後者は清楚な優等生という対象的な役を演じたが、実はこの2人の演じた役、対象的であるがゆえに、表裏一体という感じもある。いずれも紋切り型の人物だが、2人が演じると、妙にキャラが立ってくるから不思議。あるいは、演じる役は紋切り型な人物くらいが、女優そのものの個性を際立たせるにはちょうどいいのかもしれない。女優たちが着ていた50年代風のファッションも魅力的で、ここでもヴィルジニーが着ていたピンクの衣装がバンビの一番のお気に入りでした。
2003年01月13日
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いつも仕事のことばかり書いているので、たまにはバンビ自身の日常的なことでも書いてみよう。まず、今日のバンビのファッションは、前ZIPのニットカーディガン(白地にNAVYの細ボーダー)に、Levi’s REDのルーズフィットジーンズ。その上に寒がりなバンビは紺のダッフルコートを着て、出かけた。靴はいつものように大好きなadidasで、今日はNAVY地にGOLDのラインが入ったMILANO。そして、マフラーは彼女のクリスマスプレゼント。グレー地に赤と白がはいったもの。基本的にはいつもそんな感じのファッション。靴はほとんどadidasのスニーカー。何足かあるのをローテーションで履いている。去年1年はとにかくスポーツものが好きだった。adidasを筆頭に、セルジオ・タッキーニ、ラコステ、FILAなど。最近も白のadidasのスキージャケットをヘビーローテーションで着ている。下は基本的にジーパンが多い。上記のREDとUK限定のLevi’s 507がお気に入り。でも、最近は軍パンにも惹かれている。特にイタリア軍の軍パンを現在探索中。あと、たまに着るスーツが最近のお気に入り。昔はスーツとか嫌いで、自分でも似合わないようが気がしていたが、最近はスーツも好きになってきた。チャコールグレーにウインドウペインのスーツがいまのお気に入りだが、紺地にチョークストライプかピンスイトライプの入ったスーツも欲しいななんて思ってる。そんなファッション傾向のバンビが聴くのは、アンダーグラウンド系のHIPHOP。NYやシカゴの非メジャーなHIPHOPが最近のお気に入り。同様にメジャーではないJAZZなんかも好き。そんな音楽を聴きながら、家でも電車の中でもビジネス書を読んでたりする。映画はわりと何でも見る。去年は何がおもしろかっただろう?確か「少林サッカー」で泣いた。その割にシャーロット・ランプリング主演の「まぼろし」を泣かずにみたので、彼女に「おかしい」と指摘された。「ロード・オブ・ザ・リング」の1作目は、上映中、かなり寝た。「ハリーポッター」はおもしろいと思う。明日は「8人の女たち」を見に行く予定。吸っているタバコはGITANES。ゴロワーズと並ぶフランスの有名なタバコだが、あまり吸っている人がいないので、よく「そのタバコ、何?」と聞かれる。葉巻に近い独特の味と匂いで、吸う人を選ぶ。そんなバンビは実は仕事が嫌い。嫌いというか面倒くさい。できるだけ働く時間は短くしたいし、無駄な作業など、いっさいやりたくない。でも、やるからには誰かが喜ぶ仕事をしたいと思うし、仕事ってそういうものだと思っている。面倒くさがりで、効率と効果を考えるから、いつものような日記になるんだと思う。無意味な仕事ならやりたくない。だって、面倒くさいのをわざわざやるんだから、意味のあることでないとおもしろくない。こんな感じで、今日はザッとバンビの自己紹介をしてみた。たまにはこんな日記もいいかな?
2003年01月12日
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「今起こっていることの本質」。ドラッカーの本のどれか、そして、そのどこかの文脈でこの言葉が用いられていたのを覚えている。それがどんな話題の中で用いられていて、そのことによって、ドラッカーが何を語っていたかはいまはもう覚えていない。だが、バンビにとって、その言葉は非常に重要である。今起こっていることの本質について考えなくては、次の行動を有意義なものに変えることはできないからだ。そんなことを思うのは、いろんな人の話を聞く中で、そういうことを考えている人があまりに少ないように思うからでもある。前日の日記の続きのような話題になってしまうが、彼女も会社でそういった問題に悩まされている。彼女はある事業のサービスの本質の危機に気づき、その緊急性から、事業の決定権をもった上役に対し、サービスの本質的な方向性の決定を急ぐよう、提案しようとしているのだが、直属の上司は何を勘違いしたのか、サービスの一部内容の具体的な変更の問題として、それを上層部に対して提案することだと考える。より、わかりやすく言えば、 ・彼女がしようとしているのが、 「あるインターネットビジネスの事業内容そのものの定義とその計画」であるのに対し、 ・その直属の上司が考えているのは 「あるWEBサイトのコンテンツ案とその実行」である。そもそも、この話のきっかけは、すでにバンビが、昨年末の日記で書いたサービス利用者側からの集団的クレームに端を発しており、より根源的には、事業内容の定義を明確に行わず、サービスをスタートさせたつけがまわってきたものだと見ることができる。かつてその現場にバンビも関わってきたから、わかることだが、それがコンテンツ内容などという表面的な問題ではなく、事業内容そのものの定義の不在によるものであることは明確だ。すでに現場を離れたバンビにもわかる、事の本質が、実際に現場を統括している人間にわからないはずがない。それでも、わからないとしたら、そもそもにおいて、事の本質を見ようという目、知ろうとする意識が欠如しているのだろう。そして、それ以上に、上記の話は単純に企業内の事業に関する指針とその計画を決定するというだけの話であり、まだ、その事業そのものが現在の社会、明日の社会において、利益を生むものかという議論の入り口にさえ、差し掛かっていないのだ。ようするに、この話にはすくなくとも2つの「変化」がある。 ①自社サービスと既存顧客との関係にともなう「変化」→変更の必要性 ②自社サービスが位置する社会における社会そのものの「変化」→変更の必要性ところが、現場にいれば否応なく見えるであろう①の「変化」でさえ、その本質を見ることができず、②においては、まったく頭にすらないであろう。いや、②のほうは変化こそ、頭にあっても、①の問題を見ることができない以上、②の変化に対しても、「今起こっていることの本質」はことごとく無視されているに違いない。もちろん、上記のような話は、あらゆる企業にとって例外的な話ではないだろう。多くの企業で、実際、上記のようなことがごく日常的に存在しているはずだ。そして、すぐそこに存在している問題に実際に気づいていないことだろう。あるいはスタッフレベルで気づいてはいても、マネジメントレベルには届かないまま、結果として、放置されたままになっているのかもしれない。だが、そこでスタッフがその現状を嘆くのはお門違いだと思う。おそらく、その場合、マネジメントレベルが、現場で危機を感じたスタッフの話に耳を傾けないことが問題なのだろうが、もし、スタッフレベルが感じた危機が緊急を要するものなら、話を聞いてくれないなどと嘆くひまがあったら、誰でもいい話に耳を貸す人間を探して、社内中を駆け巡ればいい。自分たちのレベルではどうしようもないなんて諦めるのは、職務放棄もいいところだ。役立たずのマネジメントのせいにして、事業そのものの危機を無視するなら、わかっていて何もしないスタッフも同罪だ。「今起こっていることの本質」を見るということはそういうことだ。それが一刻も争う緊急のものなら、慌てて対策を講じなければならない。そのことにスタッフもマネジメントも関係ない。そんな組織内部のくだらない決め事は「今起こっていることの本質」にはまったく関係のないことだ。あるいは逆に「今起こっていることの本質」がなんら緊急性も要せず、さらには業務的な変更の意味もないと理解したなら、いっさい動いてはいけない。表面的な変化をみて、あわてて事を動かすなら、せっかくうまくいっていたことさえ、うまくいかなくなるだろう。「今起こっていることの本質」を見るということはそういうことだ。そして、この変化の時代、そうしたことが必要になっていること自体が、この変化の時代の本質だという気がしている。
2003年01月11日
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おかしなことかもしれないが、バンビとバンビの彼女はふたりでデートするときも、仕事の話にかなりの時間を費やす。それもよくあるような愚痴レベルの話ではない。おたがいの仕事がどうすればうまくいくか、何をすれば成果が出せるかということについて、結構、真剣に話したりする。昨日もそう。銀座のISOLINAで食事をしながら話したのは、彼女が関わるWEBサイトの売上UPの施策に関する話。彼女は言った。「施策って、目的があってはじめて施策って言えるよね」そのとおり。だが、意外に、施策とただのアイディアとの違いがわからずに、仕事をしている人が多い。もちろん、そういう人でも施策とただのアイディアの違いを頭ではわかっているのかもしれない。だが、その違いを仕事において実行することができないのだ。そして、施策は目的との関係においてあるものであるがゆえに、実行の結果に対しての検証が必要だし、検証により効果がなければ、あらかじめ決められたスケジュールを見直すこともとうぜん必要である。だが、実はそれも普通にできないことが多い。そんなこと、普通にできることだと思うのだが。彼女はそのへんをわかって、実際にそれを行なえるようにまで最近ではなった。その成長は彼氏であるバンビから見ても素晴らしいと思う。その上で彼女が次に身につけるべきは、そうした行動にもコストが発生するという点だろう。施策の実施~効果検証~施策の継続に関する判断という流れの中で、効果検証に施策のもたらす効果を超えるコストがかかってしまっては元も子もない。効果検証は必要だが、凝りすぎてはいけない。わからなかったらわからないと判断する勇気も必要だ。例えば、・2つの施策を同時に行なったら、その時期に成果があがった。・成果があがったのは2つの施策の効果、または、単なる時期的なものかもしれない。・施策の効果検証によると、1つの施策はあまり効果がないことがわかった。・だが、もう1つの施策は効果検証が不明確で、成果のUPが施策によるものか、 時期的なものかはわからない。上記のような場合、とるべき方策は2つだ。1.より詳しい効果検証を行なう2.再度、おなじ施策を試してみるこのいずれの方法をとるかは単にそれにかかるコストの問題だ。2.のように実施することが1.よりコストが低いか、または、それほどコストに違いがない場合、実施してもう一度、成果がでるか試してみたほうがいい。それで成果があがれば、時期的なものでなく、施策そのものに効果があったと判断できる。それは結果的に検証を行なったのとおなじことだ。たとえ、成果があがらなかったとしても、施策に効果はないという検証ができたことに変わりはない。重要なことは、・効果のあることは続ける・効果がありそうなことは慎重にもう一度やってみる・効果よりコストのかかることはやらない・それ以外は仕事ですらないということを理解することだ。作業は仕事ではない。コストである。仕事とは成果のことだ。そんな単純なことが意外とわかっていなかったりする。わかっていながら実行できていなかったりする。上記と似たような形で数字をいじっている人もいるかもしれない。だが、それは本当にやるべきことなのか?何のためにやっていることなのか?たぶん、彼女なら答えられる。あなたにはそれが答えられるだろうか?そういう人が多い中で、そういう話も普通にできるから、デート中でも仕事の話をしていても楽しいのだ。それは魅力的なデートだし、彼女のそういう部分はバンビにとって魅力的だ。
2003年01月10日
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昨日の日記では、企業が製品志向から市場志向に転換するためには、・業務単位(実行単位)での部署編成と、 コントロール(マネジメント)を業務として マーケティングマネジメントを行なう業務横断的な部署に 組織内を再構築する・構造=プロセスの中に埋め込まれた組織知を解体して、 必要なものは残し、不必要なものは排除して、 有効な新しい知を育んでいくという2つの再構築が必要であるだろうと書いた。その後、仕事の帰りに本屋に立ち寄ったところ、タイムリーなことに『リエンジニアリング革命』という本を見つけ、購入した。まだ、最初の章を読んだだけだが、その内容はとても興味深い。現在のほとんどの企業は、アダム・スミス以来の分業&官僚制により業務を行なっているが、これは大量生産時代には優れた業績へと企業を導くが、現在のように供給過剰、さらに競争や変化が激しい時代においては、顧客のニーズを満たすことができなかったり、それを満たすためにはコスト、時間に問題が発生してしまう。普通なら、そこで ・もっとうまくやるにはどうすればいいか? ・今の業務をもっと早く行なうにはどうすればいいか? ・どうすればコスト削減を行なうことができるか?と考えるだろう。だが、この本で述べられているのは、 ・そもそもなんでそれを行なっているか?の問いにより、「はじめからやり直そう」ということである。その際のポイントが業務内容による分業志向からプロセス志向に変更だと書かれている。プロセスとは「複数のインプットから顧客にアウトプットを行なう過程」だとされる。バンビも、昨年12月26日の日記「顧客のライフサイクルにあわせて業務オペレーションを再構築する」でおなじようなことを書いた。その意味でもますますその内容に興味をひかれている。
2003年01月09日
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昨晩、彼女と電話で「個人の力」と「組織の力」は別物として考えるべきだということが話題になった。もちろん、組織において「個人の力」は何より重要な資源である。そのために各個人が自分の力を高めていくこと、自分の強みと弱みを理解した上で、成果のための自己管理マネジメントを行なうことはとても大切なことだ。だが、組織が成果を生み出すために必要なのは、「個人の力」を含めた資源だけではない。他にも組織には「資金」「技術」「設備」「情報」など、さまざまな成果を生み出すための資源が必要だが、資源だけでは成果は生まれない。資源相互を関係させることで成果を生み出すプロセスが必要だ。プロセスとは、商品の製造だったり、顧客とのコミュニケーションだったりもする。そして、同時にある事業全体を通して作用するプロセスであるということもできる。そして、そのプロセスこそがいわゆる組織知だということができる。その意味において、組織知とマーケティングの関係は大変重要だとバンビは思う。例えば、昨日の続きの話のようになるが、プロジェクトマネジメントにおける行動プロセスに関する知識体系であるPMBOKを実践するにしても、製造、販売、流通などの各業務部署を横断する、プロジェクト単位での統合的なマーケティング的視点が必要になる。 ・立ち上げ initiation ↓ ・計画 planning ↓ ・遂行 execution ↓ ・統制 controlling ↓ ・終結 closing「立ち上げ」時には、当然、経営的、事業計画的視点が必要だし、「計画」時には、各業務単位を統括した上でのマーケティング戦略と、実現に必要な資源(人材配置、予算配分など)や事業プロセス=体制の設計を行なう必要がある。また、「遂行」と「統制」のプロセスにおいては、各業務部署での実行と、プロジェクト目標実現のための管理がともに必要となる。そういった意味でも、マーケティングの位置付けがこれまでとは明らかに変っている。製品志向(できた製品を誰に売るか)でのマーケティングの位置付けから既存市場は何を求めているか、新しい市場が求めるニーズは何か、といった視点から、製造、販売、流通、顧客対応をすべてコントロールするような位置付けにマーケティングの位置が変化していく必要があると思う。いや、フィリップ・コトラーが提唱するホリスティック・マーケティングでは、企業内だけでなく、原料の仕入先や流通業者、販売業者なども含めたバリュー・ネットワーク全体を統合的な視点でとらえ、マーケティングマネジメントを行なう必要性すら説いている。もちろん、製品志向の組織から、市場志向(顧客志向)の組織への変更は、それこそ一筋縄ではいかない、むずかしい問題だと思う。業務単位(実行単位)での部署編成と、コントロール(マネジメント)を業務としてマーケティングマネジメントを行なう業務横断的な部署に組織内を再構築するだけでも大変なことだろう。さらに構造=プロセスの中に埋め込まれた組織知を解体して、必要なものは残し、不必要なものは排除して、有効な新しい知を育んでいくという作業がそれに加わる。それはとてもむずかしい問題だとは思う。実際、多くの企業がその必要性を認めていても、実践できずにもがいているのではないだろうか?とはいえ、ドラッカーの言葉を借りるなら、「成果は外部にしかない。組織の中にあるのはすべてコストである」。むずかしいとはいっても、そうした改編がこれからの企業の最重要課題であることはまず間違いないだろう。変化に対応するには、新しい組織知が必要なのだから。
2003年01月08日
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今年から働いている新しい会社のために、プロジェクトマネジメントのためのプロセスを図にした資料を作成した。プロジェクトマネジメントのための知識体系であるPMBOKの5つの要素 ・立ち上げ ・企画 ・実行 ・コントロール ・終結を元に、詳細なタスクを加えたものだ。頭ではわかっていることだが、あらためて資料におとしてみると、その重要さを再認識する。ただ、PMBOKはあくまでプロジェクトマネジメント行動プロセスを5つのフェーズに区分したものであるから、それとは同時に、プロジェクトマネジメントの思考プロセスを定義するツールも必要になるだろう。今年はこのようなことを再度、しっかりと勉強したいと思う。
2003年01月07日
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もうすぐ『イノベーションのジレンマ』を読み終える。書評のほうで詳しく書くことになると思うが、実に"痛快"な本である。この本で扱うのは、顧客の声に熱心に耳を傾け、優良な経営を行っている企業が破壊的なイノベーション技術をもって乗り込んできた新興企業に脆くもその市場を奪われてしまうことの謎に取り組んでいる。通常の説明では、そうした企業は経営方針を間違えたからこそ、新しい市場価値を見落とし、そこで成功した新興企業によって、まんまと自らの市場まで奪われてしまったのだといわれることが多い。だが、実際はそれらの企業の経営はきわめて優秀で、顧客の声に耳を傾け、次々に技術革新によって、顧客の求める性能、機能を実現していくという企業努力を欠かさなかった。にもかかわらず、そうした企業が次々に、破壊的技術によって参入してきた新興企業に道を譲らざるを得なくなってしまう。何故、そのようなことが起こるのか?著者が導き出した答えは、文字通り、イノベーターにとってのジレンマといえるものだ。優秀な企業が失敗するのは、まさに企業が優秀さそのものによるのだという。顧客の声に耳を傾け、顧客が求めるものを追求するがゆえに、既存の顧客が関心ももたないようなところに突如、あらわれた新たな市場に気づくことができず、それゆえ、新たな市場を新興企業に奪われ、その後、さらにこれまで維持してきた市場さえも奪われることになってしまう。これはまさに、「お客様は神様です」という言葉に対する強烈な逆説である。もちろん、破壊的なイノベーション技術が現れない限りは、既存の顧客のベネフィットを高めることに邁進することが重要だ。既存の顧客を対象にした技術革新においては、すでに大きな実績を収めている優秀な企業に、新興企業はまったくといっていいほど太刀打ちできない。だが、ドラッカーも言っているとおり、イノベーションとは、市場がないところ、非-顧客のまわりから起こる。優良な企業は顧客を大事にするがゆえに、非-顧客の場所で起きる変化にかんたんには手が出せない。まさに企業にとっての強みが弱みに変化する場面だ。こうしたジレンマが変化の起きる時代には大量に発生するだろう。既存の価値は、明日は無価値になっているのかもしれないのだから。こうした変化に対応する際には、顧客の声はまったくあてにならないどころか、足かせにさえなる。では、どうすれば明日に生き残る道があるのか?もちろん、この本はそのための対処法についてもしっかり論考されている。
2003年01月06日
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昨年末から引き続き、バンビの頭が興味を示すのは、 ・人材育成 ・適材適所 ・教育、育成 ・学び方などのキーワード群。今年は「マーケティング」ということをよりいっそう勉強し、自分の立ち位置を「マーケティング」という場所に定めていこうと思う一方で、組織における人材教育、社会における人材教育というものについても考えてみたいと思っている。バンビがここで単に「教育」というのではなく、あえて「人材教育」というのには意味がある。ようするに「教育」の目的を「人材育成」とはっきり定めてみたいと思うからだ。バンビは「教育」にせよ、「学習」にせよ、ひとりの人間がスキルをアップさせたり、知識を強化したりという意味では考えていない。むしろ、どうすれば成果をあげられるか、自分の仕事(役割)はなんなのか、自分はどういう立ち位置から社会に貢献しようとするのか、などの視点をもたせ、実際にそのための「学習」を行える場所としての「教育」の現場を考えている。当然、そのためには教える立場、教材を提供する立場の人間も、おなじように「教育」の目的を「人材教育」として捉えていなくてはならない。だが、現実にはまだまだ「教育」がスキルや知識の観点からしか、社会的なつながりを見出せていない気がする。ようするに、それなりのスキルや知識をもった専門家を育てることはできても、彼らにその専門知識をどう使うか、どのような目的をもって自身の専門的スキルを社会に役立てられるか、などといった点に関しては、まったく教えられてもいないし、学ぶための教材を提供できていないように思えるのだ。むろん、そうした「教育」に関しては、それぞれの企業やほかの組織の内部において、独自の教育システムや教材などの強化が図られるだろう。だが、その一方で本来的な教育機関である大学や専門学校などがその視点からの教育を行わないならば、それらの組織はやがて無意味化することは免れえない。とはいえ、企業などの組織だけで教育を施すのは実質的に不可能であることも事実であり、そうした教育機関にもなんらかのイノベーションが必要なことは目に見えているはずだ。教育機関においても、スキルアップや知識の向上という観点ではなく、真に「成果」につながる意味での「人材育成」を行なうという観点で教育機関自体がいかに成果をあげられるかという意味での教育方法、教育目的におけるイノベーションが求められているのだと思う。さて、あいかわらず今年になっても「不況」などという言葉が聞かれる。だが、バンビには実際的な不況は、経済的なそれではなく、教育、学習における知的不況であるように思えてならない。成果をあげる教育が行われず、さまざまな専門家、知識労働者が成果のために空回りしている現状では、とうぜん、生産性におけるコストにも膨大な無駄があり、それだけでも十分すぎるほどの経済的不況の原因になっていると考えていいだろう。だとすれば、知的労働における生産性アップ、成果達成への自己管理マネジメントなどによる知的不況からの脱出により、経済的不況などはある程度は容易に切り抜けられるのではないかと思ったりもしてしまう。とにかく自分が何をしているのかわからない人や、何のために存在するのか明確にわかっていない組織、また、目的は明確でもそれを行なうための内部マネジメントができない組織などは、明らかに社会的な不況の原因である。「不況」を環境的な要因、自身の外部要因として口にすることほど、無責任なことはない。それはたとえ自身の外部にあっても、自身もその内部にあって、それに大きな影響を与えている現実でしかない。だとすれば、それは嘆くものでも悲観するものでもなく、実質的な行動において「問題解決」すべき対象でしかないだろう。バンビはその意味において「教育」、「学習」というものに何らかの手伝いはできないかと思っている。
2003年01月05日
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年末年始は日記をお休みしましたが、今日からバンビの日記再開です。昨年中、お世話になったみなさん、ありがとうございました。今年もよろしくお願いします。さて、年末年始のバンビとはいうと、すっかり食っちゃ寝の典型的な「寝正月」を過ごしていました。ほんともう、普段の生活とは正反対といえるくらい、なんにも考えずにボーッと過ごしてみました。おかげですこし太ったみたいです。また今日からベッカムばりに"JUST BEAUTY"なボディを目指さないといけません。それから、頭のほうも普段の回転速度に戻さないと。こんなに呆けた状態じゃ仕事にならないどころか、日常生活にさえ支障をきたしちゃいますから。12/31から今日にかけては本さえ読まずに過ごしたので、まずは明日は本でも読んで、脳みそのリハビリをはじめないとと思います。というわけで、今年の日記はじめは、このくらい軽めにしておいて、また明日から、昨年同様のバンビの日記を書いていくことにします。
2003年01月04日
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