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たまに企画というとアイデアを考えることだと思っている人がいる。もちろん、アイデアは考える。だが、企画の人間が考えるのは実行可能なアイデアだ。そして、企画をするというのは、その実行まで含まれる。もちろん、手を動かすのは自分でなくてもよい。だが、誰が手を動かすのか、いつ動かすのか、それには何が必要かなどを考えるのは企画の仕事だし、実際に動かしてもらうのも企画の仕事だと思う。ようするに、実行力のない企画者は無能である。企画者とは何より効果的でなくてはならない。とうぜん、何がいいアイデアかどうかだけでなく、何がいま可能なアイデアかという判断を行なわなくてはならない。企画とは机上の空論ではなく、何より現実に実行される活動の計画なのだ。よって、企画力とは、単なる形式知の案出ではない。それは暗黙知の移転も含めた総合的、現実的な知識活動である。
2003年06月30日
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情報は自分から発信しないと、なかなか新しい情報は自分にはいってこなかったりする。量的にはおなじような情報が次々飛び込んできても、違った形の新しい情報は思うようにははいってこない。もちろん、情報を自分から探しにいくことはできる。だが、それよりも自動的に向こうから飛び込んでくるようにしたほうが効率はいい。それには、やはり自分がどんな情報を欲しているか、情報の趣味がわかるよう、あらかじめ、あちこちに自分の情報を発信しておくといい。また、情報を誰かに発信すれば、相手も反応する。反応して、相手の中でなんらかの変化が起こり、そこから新しい情報が導き出せることもある。inputとoutput。効率的にコミュニケーションを行なうには、inputとoutputを普段からどれだけ効率よく行なっているかということにも関わってくるだろう。
2003年06月27日
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すこし前の日記に「センスのない人」について書いたが、その話をいっしょにしていたカノジョからこんな記事を教えてもらった。 → http://www.tryforce.net/b2bcontents/kikyou/k030625.htmlこの記事を読むと、ようするに、センスってこれ↓だなって思う。>しかし、鬼塚さんのその一言で「自分が忘れていたもの」に気づいた平野さんは、 やはり「カンのいい人」なのだ。自分の行いを自分だけの目線で見ていると、 鬼塚さんにそう言われても、「そうじゃない」と反論したくなる。 平野さんは、自分の行動を客観的に見ることができたからこそ、 「あっ、今の自分の料理の姿勢はまずい」とすぐ気づいたのだ。先のカノジョの会社の「センスのない人」、そして、その次の日記に書いた「肝のすわっていない人」の2人はそろって、やはり、すぐに人の意見に反論する人で、いっさい人の意見に耳を傾けることができない人です。昨日の日記で、プランニングにおける現状認識で、最も重要なのは、顧客分析であると書いたのもおなじことです。結局、自分や他人を客観的に見ることのできないことをセンスがないというのかもしれません。昨日買った本にもこんなことが書いてありました。イチローは、自分のプレーを客観的に見ているもうひとりの自分がいると言ってる、と。センスは「俯瞰的感覚」といっていいのかもしれません。さて、ところで、実は先の記事で取り上げられたシェフ(平野寿将)の店には、ほんとに偶然だけど、昨日、カノジョと行ったんです。それをカノジョに指摘すると、>そうだったのか!>一切気づかなかった・・・。(カン悪)というコメントが帰ってきましたが、カン=センスが悪いのではなく、この場合は、単に「注意力」とかの問題です。
2003年06月26日
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事業や事業戦略に基づく施策などのプランニングを行なう際には、まず、はじめに現状の分析を行なう必要がある。これはプランニングの基本ともいえることであるが、以外にこうした部分がおろそかにされることは多い。現状の分析の対象となるのは大きく分けて以下の3つだ。 ①顧客分析 ②自社分析 ③競合分析その中でも、顧客分析抜きではなにもはじまらない。顧客が何を求め、何に満足し何に不満をおぼえるかといった顧客の心理、顧客の行動を理解していなければ、いかに自社分析や競合分析を行なったとしても、何が自社の強みであり、何が競合他社の強みであるとかといった判断基準が得られないからだ。たとえば、阪神と巨人を比較分析を行なうとする。これをファンの心理を理解せずに、阪神と巨人の戦力や特性を比較すれば、巨人ファンを阪神ファンにできるといってしまうことがどんなにおろかかは考えてみるまでもない。いくら阪神と巨人を比較してベンチマーク調査を行なっても、巨人ファンが阪神ファンになることはない。むしろ、巨人ファンがなぜ巨人でないとダメなのか、巨人ファンの巨人ファンたる所以は何かと言ったところを分析しない限り、競合との比較はあまり意味のあるものとはなりえない。ファンの期待を理解してはじめて、もっと巨人ファンになってもらうための施策案を、巨人と阪神の比較(競合比較ベンチマーキング)から見つけることが可能になる。競合調査はあくまで顧客分析があってはじめて効果を発揮するマーケティング・ツールなのだ。それを理解せず、競合調査から見つけた施策案を実行しても、ただの労力の無駄となるか、下手をすれば、既存の顧客さえ失いかねない結果となる。もちろん、完璧な計画など、ほとんどありえない。だが、そのことと、だから計画など立てても無駄だなというのとはわけが違う。計画のもとで、計画どおりにいかない問題を発見するのと無計画な状況で、予期せぬ状況(無計画なのだから何も予期していないが)に出会うのでは、対応の仕方も異なる。そんなことはすこし頭をはたらかせればわかることなのに、どうも多くの企業で、多くの部署でそうした意識が著しく希薄なのには驚かされる。それは決して、経営トップやマネジャー陣だけに必要な意識ではなく、ほぼすべての従業員が等しく意識していていいビジネススキルだと思うのだが。いったい、どうして、みな、そうした意識を持たないのだろうか?
2003年06月25日
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おなじ言葉を聞いた場合でも、聞く人によって、その言葉に対する反応は異なります。コミュニケーションを行なう上でのひとつひとつの言葉の判断は、聞く側の内面にある、価値観や期待、知識ベースによって変わってきます。その中でも価値観や期待は通常、自分ではなかなか明確に意識していないことも多いです。中には、自分の価値観や期待をわかっている場合もありますが、それでも、価値観や期待を全部わかっていることは、まずありません。知識には表現可能な形式知と表現のむずかしい暗黙知がありますが、価値観や期待は暗黙知である場合が多い。わかっていても、はっきりと言葉ではいえない、対象に対する判断基準としては用いることができても、それが何かといわれたら、明確に示すことができない、といったように。そうした価値観や期待と同時に、その時々の自分の中での流行、トレンドのキーワードのようなものも存在します。ようするに意識しているものですね。そうしたキーワードに関するものが、外から飛び込んでくると、人はその言葉に、それを発した人に対して反応を示します。この場合は、価値観や期待でしか感知できないものよりも反応がすばやく、明確であることが多い。ようするに、すでに認知されたものと近いものを示された場合のほうが、食いつきがいいわけです。コミュニケーションとは、元来、こうした性質のものです。ようするに、人は知識の中に住んでいる。その知識は明確な知識の場合もあれば、はっきりとしない暗黙知の場合もありますが、個々人はそれぞれのナレッジ・ベースの上で生きているわけです。ナレッジ・ベースが異なれば、見えるものが見えなくなったり、聞こえるものが聞こえなくなる。これは企業がマーケティング活動を行なう上で重要なことです。マスコミュニケーションの時代とは異なり、もはや現在では、知識は公的な構造をほとんど有していません。知識の構造は、個々人でかなり異なっています。そのこと自体はおそらくマスコミュニケーションの時代でもおなじでした。ただ、商品、サービスの数や、コミュニケーション自体の数もいまより圧倒的に少なかったことで、個々人の中にある知識構造もある程度、似ていたし、また、異なっていても、おなじものと考えていいほど、個々人の連想が行き着く対象としての商品、サービスが限られていました。ようするに、コミュニケーションによる顧客の連想が途中、どんな過程を経ても、そこそこ目的とするゴールへ導くことができたわけです。ただ、いまの時代はそうはいきません。連想の過程をしっかり把握して、綿密にコミュニケーションが組み立てられていなければ、顧客はあなたが発したメッセージによって、競合他社の商品を連想する場合もあるからです。知識社会がどうしたこうしたといわれているわりには、どうもこういったことが理解されていない気がする。結局は、顧客のことになど関心はない、と言っているようなものです。既存の知識を援用するばかりで、まったく自分の頭を使っていない人が多すぎますね。馬鹿とハサミは使いようとはいいますが、ハサミの使い方を知らずにハサミを使う馬鹿は、役に立たないどころか、危険です。
2003年06月24日
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ほとんどの場合、勘違いされていることだと思うが、 自分で選択してやっているのではない仕事などない。 無理やり押し付けられただとか、 命令だからとか、決まりだとかは単なる言い訳にすぎず、 現にその仕事をやっている以上、それは自分で選んだ仕事だ。 そう。きっかけや理由がどうだろうとそんなことは関係なく、 やりはじめた以上、それは仕事をしている人の選択によるもので、 まずその選択にはきちんと責任をもつ必要がある。 とはいえ、通常、使われる意味での、 「自分で選んだ仕事をしたい」というのは 好きなことをやりたい=得意なことをやりたいという意味で 理解できるし、実際、それができるようになることは重要なことだ。 なぜなら、そのほうがその人個人にとっても有益だろうし、 成果も最大限になるはずだから、組織にとっても有益だからだ。 では、 「納得できないまま選択し行なっている仕事」と 「納得できてやる好きな仕事」のギャップを埋めるには どうすればいいのだろうか? まず最初から自分の好きな仕事ができるということはまずないし、 本当に自分が好きな仕事が何かをわかっている人も多くはいないはず。 好きなことが何かわからないが、嫌なことだけはわかるという人が ほとんどのはずだ。 それに対して何もおかしいと思わなかったら、ギャップは絶対に埋まらない。 嫌なことを嫌だと思うことなど、誰にでもできる。 必要なのは自分が好きなことは何かを明確にし、好き=得意を確立することだろう。 そのためにはまず嫌な仕事の嫌な部分に目を向けるのではなく、 嫌な仕事の中でも有益と思える部分に目を向ける意識を養うことが必要だ。 常に物事の有益な部分、いいと思う部分を見つけようという意識をもつことで、 自分がどんなものを「いい」と思うか、さらに「好き」と思うかが、 明確になってくる。 それが明確になってきたら、それが本当かどうか、実際にすこしずつ試せばいい。 試してみて「あれ?やってみたら違う」ということもあるだろう。 ようは仮説を立て、検証をするのだ。 自分の中で、自分の好きなもの=得意なものを知るためのPDCAサイクルを まわすのだ。 ギャップはおそらくそうやって埋めることができる。 それは短期の視点でなく、中長期的な視点でなければできない。 中長期的な視点において重要なのは意識をもつことだ。 現在の日本の企業は短期的な売上ばかりに目を向ける傾向があり、 中長期的な視点で投資や改善を行なえないところが多いが、 これも同じように意識のなさによるものだと感じる。 企業にとって意識とは、全社に共有された 「ミッション-価値観-ビジョン」のトライアングルだろう。 そうした視点をもたない企業は結局、 好きな仕事ができず、好きでもない仕事を嫌々行なうしかないという 悪循環にはまり、さらに業績を悪化させるのだろう。
2003年06月23日
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人生におけるプライオリティを根本ではなく、状況においていると、いつまで経っても成長はしない。もちろん、根本を変えることは短期的に達成できる目標ではないので、まずは状況を変える施策をとることで短期的な改善を行なうのは、筋道として正しい。だが、それが本当に正しいことになるのは、その後の筋道として、状況から根本を学び、状況の改善の積み重ねにより、根本を変えるという中長期的な視野における達成を徐々に実行していってからのことだ。状況の場当たり的な積み重ねでは何も変わることはない。リレーションとはそのような積み重ねによって、はぐくまれるものであって、成長のない関係はいずれ底が見える。美しく輝いていた月は、その瞬間、緑色のチーズに変わる。
2003年06月20日
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基本的に人は、好きなことやらせておくほうが力を発揮する。なぜなら「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように好きなことと得意なことは、結構、その領域が同じだったりすることが多いからだ。ところが、普通、会社にいると、なかなかそれができなかったりする。既存の事業をまわす上においては、まず先に業務ありきで、それを好む=得意とする人間を適材適所で配置することが必要となる。だが、新規の事業においては、事情がすこし違う。多くの場合、新規の事業をはじめるにあたっては、小さくはじめて効果が見えはじめたら大きくする。これはイノベーションの採用者に関する曲線を理解すれば当然のことだ。イノベーターおよびアーリーアドプターの数は全体の20%に満たない。ようするに初期市場は小さいのであり、小さくはじめる以外にないのだ。そして、何より新規事業は顧客を創造するかどうかもわからない。それがよりイノベーティブな事業なら、そもそも成功するノウハウなどない。こういう性質のある新規事業の開発においては、それこそ、その事業が好きだと感じる人にやらせるのが得策だ。なぜなら、好きな人なら多少効果が見えなくても、なんとかやり抜こうとしたり、次々と違うアイデアを試すといったモチベーションを維持できるが、そうでない人にはそれはむずかしい。成功するかどうかわからない新規事業の開発には、得意かどうかの基準は好きかどうかしかないからだ。既存の事業においても、新しい施策を展開する場合などはおなじことが起きる。好きでなければできないということが。ところが、ここで会社では、好きなことばかりやってられないという事態が発生する。それは結果が明白でない新規事業および既存事業での新規展開などでは、好きなことやっているという重要な事業推進エンジンが、周囲の人からは「あいつは遊んでいる」と感じられことが必ずあるからだ。そう。ようするに妬みだ。「好き嫌いで仕事をするな」と当然のように口にできる人がこうした妬みをもつ。その言葉は部分的には正しいが、「好き」以外に人の力を最大限に発揮させるものがないことがそこでは忘れられている。新しいことをはじめる自信がもてない人(自分が何が好きなのかがわからない人)がこうした妬みをもって、新しい試みの足をひっぱる場合がある。そして、新しい試みを行なうか、行なわないかの判断が多数決になってしまうとよほどの場合でない限り、新しい試みを支持する側が負ける。そして、最悪の場合、ただ手間だけが発生する中途半端な新しい試みが行なわれる。もちろん、それは新しさの肝心の部分が骨抜きにされているので、効果を発揮することはありえず、ただ新しいシステムをまわした疲労だけが残るのだ。こうしたことを回避できるのは、経営者によるうまいバランシングしかない。その場合、経営者は通常のように数字に頼って判断することはできない。なぜなら数字があるのは過去の事実だけであり、新しい事柄に関しては数字がないからだ。その場合、経営者は事業の推進者の熱意と人柄によって判断するしかないだろう。熱意と人柄。それこそが「好き」を外から判断する要素ではないだろうか。一方、従業員の側が経営的視点にたって、職務を行なおうとするなら、自分が何が好きでやりたいと思っているかを明確にしなくてはならない。また、好きなことを効果的に行なうためには、どのようなポジションで仕事をすべきかを自分自身で提案できなくてはならないだろう。もちろん、それを支えるきちんとした評価基準の整備が絶対条件だろうが、「企業の最大の資産は人材だ」という言葉をただのお題目とせず、真の意味で、人材を資産化し、個々の力を組織力に変えるには、上記のような考えが経営者、全従業員に共有されているような企業文化をつくることが重要だという気がする。
2003年06月19日
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昨日は「センスのない人」について書いた。今日は「肝のすわっていない人」について書こう。昨日の「センスのない人」もそうだったが、これも実は彼女の会社の人の話だ。そして、その人は彼女にとっては、上司である。彼のことは、私もよく知っているが、センスのある/なしで言えば、センスはあり、比較的、センスはいいほうだと思う。そんな彼なのだが、僕から見てもセンスを疑うようなことをすることがあるし、それは彼の部下たちにも気づかれてしまうようなところで、センスを疑われるようなことをしてしまう。結果、彼は部下から信頼されていないのだが、これはいったいどうして起こるのだろうか?カンタンだ。自分のセンスで感じたことを信じる度胸がないのだ。誰からも干渉されない比較的自由な状況でなら、彼の言うことはわりと的を得ているのだが、多くの場合、彼はさらに自分の上役から何か言われると、とたんに理性を失ったかのように、上役が言うことを鵜呑みにする。しかも、その言葉が自分のセンスでは理解不可能な場合、彼は中途半端に上役の言葉を、言葉のまま(真意を無視して)理解する。結果、やっても意味のない施策を無理に部下に強いることになる。しかも、「命令です」という言葉をつけくわえて。さらに彼の悪いところは、肝がすわっていないために、自分の部署が指摘された問題をすべて部下のせいにしてしまうところだ。「施策がまったく進んでいない」と言われれば、部下たちに「君たちがまったく提案をしてこないから僕が怒られる」という。実際には部下たちは目指すべき指針がないため、提案を示すことができないし、仮に提案した場合でも、彼が上役に通す力がないので、そもそも提案するモチベーションがもてないでいるのだ。これでは、彼が部下の信頼を得られないのは当たり前である。そして、彼は部下に対してさえ、怯えがあり、まともに部下の話を聞くことができない。部下を信頼し、部下を人間として尊重できないため、本来、部下の仕事であるディテールにばかり踏み込み、本来、彼自身の仕事であるリーダーシップとしてのマネジメントを行なわない。とうぜん、部としての目的は一向として達せられないし、部下もモチベーションが維持できず、育たない。究極の悪循環がそこには発生する。だが、繰り返すが、彼は決してセンスがない人ではないし、むしろ、センスはいいほうである。頭も決して悪くはないし、いろんなアイデアの出せる人だ。彼の問題は「肝がすわっていない」点、度胸のない点のみに集中する。度胸のなさが彼のセンス、彼の判断力をことごとく無力化してしまうのだ。これは極端な話、センスがないことより手に負えないのかもしれない。肝がすわるとは、単純に自分を知るということなのだろう。自分を知れば、適切に謝ることができるし、適切に人を褒めることができる。適切に自分の責任を負うことができるし、なにより適切に好きなことができる。それは自信がないというのとは話が違う。自信がない人はたくさんいるが、自信がなくても自信をもとうと努力を怠らない人とそうでない人には雲泥の差がある。そして、実際、肝をすわらせることは、自信のあるなしには関係ない。自分のために、人のために、何か事を起こそうとしたら、自信のあるなしに関わらず、肝をすわらせて、やるしかない。でなければ、中途半端な行動になるだろうし、期待した結果を得ることはできない。また、そのことで、自分もまわりも傷つけることになるかもしれない。自分を輝かせたいと思うなら、なによりまず、必要な時、いつでも肝をすわらせられるようになることだ。
2003年06月18日
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先日、彼女と”センスがない人”についての話になった。別にファッションなどのセンスの話ではない。ビジネスのセンスだったり、作業をするセンスだったり、人と関わりあうセンスだったり、そういうことだ。センスがないというのは、センスが悪いのとは違う。センスが悪いのは、ようは何かをやるのがヘタだったり、手際が悪かったり、出来が悪かったりということだ。注意したりすればなんとかなることも多く、ダメな場合でも、そのダメさ加減はなんとなく理解できる。ようするに、いい/悪いは程度の問題だ。ところが、センスがない人は文字通り、ゼロなのだ。ヘタだとか、手際が悪いとかの問題ではない。なぜできないのかが理解できないくらいのできなさを披露してきたりする。彼女と話していたとき、話題になったのは、クリエイティブとイマジネーションということだ。クリエイティブにものごとをゼロからはじめられる人はそうはいない。だが、いいものを想像して、それを真似してみることならできる。その真似がうまいかどうかがセンスのいい/悪いの問題であり、ようするに、センスのある/なしはイマジネーションがあるかどうかの問題ではないかということだった。そう。センスのない人は真似さえできない。いや。真似をするという発想すらないのかもしれない。なぜ真似ができないかということを考えると、まず、何がいいのか悪いのかが判断できないのだ。また、センスのない人はたいてい人のことに関心がない。まわりがどんな状況にあろうと呆けた顔をしている。それでいて、自分の気に入らないことがあったりすると怒る。これはもうどうしようもないダメだ加減だ。想像力のなさは周囲への気遣いさえ、ままならなくする。センスがないというのは本当にロクでもない。さて、翻って、では、センスがいちおある人はどうか。ようするに、センスはあるけど、悪い人はどうすればいいか。これは、センスのない人と混同されないよう、自分のセンスを磨くべきだ。ゼロでないなら、磨くことができる。ようするに、真似する能力、いいもの悪いものを判断する能力を養うことだ。それはきっとまわりに気を配って、周囲をよく観察することだ。人それぞれセンスのよさ/悪さにも差があって、センスが悪い人がセンスのいい人のようにふるまうことはできないだろう。だが、センスの悪い人だって、悪いのをよくすることはできる。それを怠ったり、センス=イマジネーションを発揮しなかったりすれば、それは結果として”センスがない人”と変わらない。救いようのないダメな人ということになる。大事なことは、一生センスを磨くために勉強し続けなくてはいけないということだ。そう。一生だ。休んでいるヒマなどあるはずもない。これがわかってない人はたぶんセンスが悪いか、センスがない。
2003年06月17日
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金曜日の夜に知人K・Iに会った。そのK・Iがこんなことを言っていた。「人は個性を買うものだよ。 みんな機能とか才能とかをどうにかしようとするけど、 それより大事なのは個性だよ。 機能や才能なんか、あとでいくらでもどうにでもなること」そのとおりだと思う。機能や才能など、もはやこの時代においては差別化の要因にはならない。すべてが相対評価される世の中では、明確な切り口だけが差別化の要因となる。明確な切り口こそ、個性に他ならない。では、個性とはどこから来るのか?K・Iはこんな例をあげていた。このあいだ、ひさしぶりに孫さん(ソフトバンク)がTVに出てて、孫さんにとって、ブロードバンドとは何ですか?と聞かれていた。孫さんは、ブロードバンドが全国にひかれるかと思うとわくわくすると言っていたそうだ。「ようするに、なぜ仕事をするのか?と聞かれて、 最後に残るのは”好き”ってことだ。 ようは、”好き”なことを命懸けでできるかどうかだ」そう。おそらく個性とはそういうものだ。好きであり、その”好き”はライフワークになるくらいの”好き”なのだ。そして、その”命懸けの好き”がブランドになる。まわりを気にして、右に習えをしていたのでは、つかめないものがそこにはある。それが個性であり、人はそれに惹かれるのだろう。
2003年06月16日
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あなたは、大切なあの人に、どう憶えてもらいたいですか?大切なあの人が、あなたのことを、どう思っているか知っていますか?あなたが、大切なあの人に、約束できるのはどんなことでしょう?大切なあの人は、あなたに、何を期待しているのでしょう?ところで、あなたは誰ですか?大切なあの人にとって、あなたは誰ですか?ブランドを通じた企業と個人の関係(リレーションシップ)は、個人におけるパートナー同士の関係に似ていると言えます。まず、パートナー同士は性格的に波長が合わないとダメですし(パーソナリティ)、おたがい付き合う上で両者にメリットがなければいけません(ベネフィット)。また、そもそも相手が誰なのかも重要な部分です(属性)。では、誰かと友好なパートナーシップを築くには何が必要でしょうか?とうぜん、パートナー同士には良好なコミュニケーションが大切になります。ブランド構築におけるコミュニケーションもおなじ意味をもつものです。ブランドを通じた個人と企業のパートナーシップのためにおたがいをよく理解するためのコミュニケーションが必要となります。顧客をたんに購入額や購入人数などの数値として見ているだけでは、パートナーシップは生まれません。女性20代何人、OL何人、東京都在住何人なんて顧客を数えているだけで満足しているようでは、顧客に興味がないのとおなじです。ブランド構築のためにはひとりひとりの顧客とのパートナーシップを目標に、人間同士のコミュニケーションをしていかなくてはなりません。ところで、いったん、パートナシップが築かれれば、阿吽の呼吸や目と目で会話ができたりするのがパートナー同士のメリットとなります。ブランドにおいては、ロイヤル・カスタマー(ファン)の存在がこれにあたる部分です。いったん、ブランドがロイヤル・カスタマーと良好な関係を築くことができたなら、わかりきった説明などなくても顧客は購買行動を起こすようになるでしょう。むしろ、必要なのは、ロイヤル・カスタマーを飽きさせない新鮮なコミュニケーションや、ロイヤル・カスタマー個人への特別なサービスだったりします。ただひとつ企業と顧客のブランドによる蜜月が、個人間のパートナシップと違うとすれば、顧客は企業に対して何の気兼ねもなく、他のブランドに対する浮気や移行ができるという点でしょうか。大切なあの人の心をあなたはしっかりとつかんでいますか?
2003年06月13日
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今日はお客さんのとこにプレゼンに行ってきた。前回、自分で書いた提案書がむずかしすぎて、うまく説明できなかった反省点を踏まえて、今回は逆に、すっきり明確に提案をまとめたが、その分、ちょっとインパクトや個性に欠けた提案になってしまった。そのへんのバランスってむずかしい。いま、ブランディングのサービスを提供するためにブランドについて勉強してるんだけど、自分自身、自社のブランディングについてもやっていかないとって思う。あらかじめブランド・イメージが明確に伝わっており、ブランド・ポジショニングによって、顧客の期待、こちらが約束するものが定まっていれば、個別の案件では、お客様独自のニーズを上乗せして、さらにその上にお客様の期待を超えるインパクトをちょっと足してあげればいいから、実際のプレゼンがずいぶん楽になる。ブランディングにおける信頼関係、リレーションシップって結局、そういうことなんだよね。つーかーで話せて、さらに相手が自分の期待を超えるみたいなそういう気心知れあっていて、おたがい相手を尊敬してる友人関係に似てる。そういう友人との関係の構築には何が必要かを考えれば、ブランディングってそうむずかしいもんではないんだと思うな。簡単ではないけど、がんばればできることでしょ、そんなの。
2003年06月12日
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今日の知識社会、情報社会において、これまで差別化要因として有効だったものが機能しなくなる一方で、ブランドがそれに代わる差別化の源泉として台頭してきたという背景を考慮すると、ブランドとは、これまでの競争要因、差別化要因の情報のフレームワークを、顧客本位でわかりやすく組み直すことで達成される、顧客にとって知覚可能な知的価値であるといえます。どういうことでしょうか?これまでも、顧客に対して発せられる企業側からの商品やサービスの便益を示すメッセージは、顧客本位の内容とはなっていました(例外も多々あり)。ただ、これだけ商品の数、それにともなうメッセージの数が膨大になれば、顧客の側はいちいちそのメッセージ内容の比較により、商品相互の違いを認識することがむずかしくなります。その場合、結局、顧客が「どれも似たり寄ったりだろう」と判断してしまえば、競争要因として残るのは価格くらいしかありません。ブランド構築が熾烈な価格競争を回避するための経営課題として重視されているのは、それが上記のような状況でも、顧客に自社製品の差別化を認識してもらうことを可能にするものだからです。ブランドはそもそも顧客の側での「比較」という情報認識のフレームワークを解体するものです。ブランド・コミュニケーションが構築する新たな情報認識のフレームワークは、顧客に「比較」ではなく、個々のブランドに対する好嫌、良悪、合う、欲しいなどの判断を行なわせるものです。明確に差別化された、ブランド固有のベネフィット、パーナリティ、商品・サービス属性などがそれを可能にします。比較は「似たり寄ったり」の状況でこそ想起される判断法です。まったく異なったものとして認識されれば、比較は行なわれません。従来のコミュニケーションは、違いを認識してもらうために、「似たり寄ったり」のコミュニケーションを行なうことで、違いを見えにくくしていました。とうぜんながら、違いを認識してもらおうと思えば、中身ももちろん、コミュニケーションそのものも、他と差別化することが必要となります。なにより、ブランドとは中身ではなく、コミュニケーションによって構築される知識そのものなのですから。
2003年06月11日
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ブランディング。勉強すればするほど、それは顧客や従業員、株主など、関係者すべてを対象にしたナレッジ・マネジメントだと思えます。ようするに、ブランドって知識社会、情報社会の経営資源なんですよね。情報はいくら事実を伝えたとしても、必ず視点というものがある。受け手は基本的に自分の興味、関心のある情報しか受け入れない。一方で発信する側にも必ず情報を発信する際には視点を固定せざるをえない。それがコミュニケーションである以上、すべてを伝えることが不可能。 ある角度から見た事実しか情報は伝えられない。 そして、伝わる人にしか伝わらない。ブランド論の第一人者デヴィッド・A・アーカーも、 ブランドの性格を決定づけるブランド・アイデンティティと それをコミュニケーションによって顧客に伝える際の ブランド・ポジショニングを分けています。 ブランド・ポジショニングはアイデンティティのどの部分を 伝えることが効果的かというプライオリティをつけたものです。 社会的情報環境、競合他社の状況なども把握した上で、 どのようなコンテクスト(文脈)をつかって、 顧客のブランド・イメージを刺激するか? という部分の設計が重要なようです。ナレッジ・マネジメントというと、なにかコントロールのきいた状態を想定してしまうので、ナレッジ・リーダーシップといったほうがいいのかもしれない。いずれにせよ、ブランド知識をリードする際のポイントとしては、 すべてが相対価値となる世の中では、 ブランドという明確な切り口が差別化のアングルになりますといったことでしょうか。
2003年06月10日
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約束を守るということは重要なことです。それは相手があなたに期待しているからです。約束を守らないということは相手の期待を裏切るということです。一度、裏切られた期待はそう簡単には回復できない。その一方で期待をもってもらうためにはとても時間がかかる。約束を信じてもらうのはそう簡単なことではないのです。重要なのは一貫性です。一貫したイメージを相手に植え付けること。一貫したコミュニケーションによって、相手の知識ベースにあなたの約束をイメージとして植え付けること、相手に期待を抱かせること、あなたとなら大丈夫だと信じ込ませること。相手が何を期待しているかを知り、その期待を超えようとすること。一貫性を持ちながらも常に革新的であり続けることで、相手が飽きることなくあなたに期待を寄せ続けるようにすること。相手の期待と共に成長すること。約束を守るということはそういうことです。約束が果たせず、相手が苦情をいってきたとき、どうするのか?誠実な態度で相手の苦情に接するとはどういうことなのか?ただ謝るのが本当に有効なことなのか?あなたが謝罪をすることが重要なのか?相手の苦情の原因を察してそれを可能な限り除去し、補填するのが重要か?自分の保身か?相手の痛みを軽減することか?あなたが大事だと思う人に飽きられないためにも、まずは相手を知り、自分を知ること。そして、相手にどんなイメージをもってもらうためにどんなコミュニケーションが有効なのかを知ること。ブランディングとはそういうものです。
2003年06月09日
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昨日、ほんとに頭おかしいんじゃないの?っていう話を聞いた。ある企業の取締役が他の企業との提携関係を優先するために顧客を犠牲にするという話だ。その取締役は営業を統括している人間で、とうぜん、普通なら顧客の声、ニーズにもっとも敏感でいいはずの人間である。それがどんな理由があるにせよ、「顧客などほっておけ」的な発言をするなど、もう会社として終わっているとしか思えない。企業という仕組みがどのようにして、利益をあげているのかまったくわかっていない。B/Sの見方もわかっていないのだろうか?企業に必要な投資の源泉は、B/Sの右部分である負債と資本から得られる。資本は主に、資本金、資本剰余金、利益剰余金などの項目からなる。このうち、利益剰余金の源泉はどこから来るのか?それは顧客以外ではありえない。そんなものビジネスをやる上で基本的な算数だ。小学生にだって、すこし説明してやればわかるようなことだ。そんな算数がわからない人間が企業の取締役として経営を担っているのであれば、会社が利益を上げ続けることなど、到底、無理な話だ。センスがないから即刻ビジネスなどやめたほうがいい。
2003年06月06日
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顧客満足、顧客志向を掲げる企業であれば、 「なぜ売れないのか」ではなく「なぜ買ってもらえないのか?」という 問いこそが正しい問いだと思っています。 買ってもらえないのは、なにかしら顧客の期待にそわない部分があるからで、 顧客の期待がなにかを知ることこそ、買ってもらうための最重要な要素だ。 それゆえ、問いの立て方を間違ってはいけないし、 ただ、顧客満足というのではなく、顧客の「何を」満足させるかを 明確にしなくてはならない。 それが明確でなければ、組織として顧客満足を目指すことは不可能で、 しょせんは俗人的な能力での顧客満足が実現できる程度だ。 さて、顧客の期待と顧客満足には関係があります。 実際、提供されるものが期待より低ければ顧客は不満に思うし、 期待どおりであれば顧客は満足を得る。 でも、真に競争優位を目指すなら、 顧客の期待を知った上で、顧客の期待を超えなくてはならない。 フィリップ・コトラーは、サービス企業における 提供サービスと顧客の期待サービスの間に生じるギャップの原因に関して、 次の5つの要因をあげています。 1.顧客の期待と経営者の知覚ギャップ ⇒顧客のニーズを経営者が理解していない、 間違って理解していることによるギャップ 2.経営者の知覚とサービス品質の仕様のギャップ ⇒経営者が明確な業務基準、サービス基準を定めないことによるギャップ 3.サービス品質の仕様とサービスの提供方法のギャップ ⇒顧客に接する従業員の教育が不十分であること等で生じるギャップ 4.サービスの提供方法とエクスターナル・コミュニケーションのギャップ ⇒広告等の内容と実際の提供物の違いによるギャップ 5.知覚サービスと期待サービスのギャップ ⇒顧客が商品・サービスの内容を誤解することなどによるギャップ 負のギャップを埋め、正のギャップを超えること。 すくなくともそれは俗人的な能力によるものではないようです。
2003年06月05日
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「冷蔵庫だって、アラスカにもっていけば凍結防止庫」昨日、そんな風に書いたが、現実には冷蔵庫を作って、売っているつもりの人にとって、それが凍結防止庫であるとはなかなか気づかない。あるいはもっとたちの悪い場合、気づいても、妙なプライドから「いや、これは凍結防止庫などじゃなく冷蔵庫だ」と言い張ったりする。まぁ、そんな頑なな連中はほっとくとしても、どうすれば、開発側、売り手側が自分たちの思い込みから抜け出すことができるのだろう?実は昨日、実際にそうした思い込みからの脱却が現実となったシーンに出くわした。それはある顧客に自分たちのサービスを説明した時だった。そのお客さんは、私が説明したシーンでの効果、そのシーンでのソリューションの必要性を十分理解してくれた上で、実はお客さんの会社にとっては、そうしたソリューションがより必要とされるクリティカルなシーンが存在すると言った。話を聞いてみればまったくそのとおりのことだった。しかも、そのシーンは同時に説明していた別のソリューションと大きく関係するシーンであり、私の側からすれば、まさに灯台下暗し的な見落としだった。お客さんの側も2つの異なるソリューションの説明から連想したのかもしれない。いずれにせよ、機会とは、異なる2つの文脈が重なるところにあるものなんだと思う。売り手の側には、なんらかのベネフィットをもたらすかもしれないソリューションがある。買い手の側に、なんらかの解決策が必要とされる問題がある。だが、この2つはそれぞれ文脈が異なり、なかなか交わらない場合がある。すでに市場が確立された商品、サービスにはすでに文脈が構築されている。言い換えれば、市場とは文脈を共有する売り手と買い手の集まる場である。だが、そこでは文脈を共有するがゆえに、文脈の読み替えが困難であり、イノベーションをもたらす回答が売り手の側でも買い手の側でも見つかりにくくなる。結局、思い込みの打破とは既存の文脈からの脱却である。であれば、文脈からの脱却を図るには、異なる文脈同士をぶつけてみるのが手っ取り早い。機会とは、新たな文脈の創造である。それは2つの言語の交差により、新たな方言を創出することだといえる。おそらくこうした感覚、嗅覚をもたないマーケターには、せいぜい既存製品の販促案を出す程度のことしかできないだろう。だが、そんなことなら、何かしらの書籍をめくることで、いくつかのアイデアを発見することができる。実際にマーケターに必要な能力とは、そうしたものではなく、新たな文脈を2つの言葉の交差から生み出す能力といえるだろう。
2003年06月04日
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マーケティングという言葉ほど、曖昧に、しかも、都合よく使われている言葉はないと思う。ほとんどSALESもしくは販促の意味で使われることも多いし、むしろ、しょせんSALESとか販促でしかない施策を御大層に表現したい輩がマーケティングという言葉で体裁を整えているようで情けない。そういう輩に限って、マーケティング・コンセプトの根幹にある「顧客の声に耳を傾け、顧客を知る」という原則からは程遠く、顧客なんか無視して自分が一番偉いとふんぞりかえっていたりする。それでいて、仮説~検証~コントロールなんていうお題目をまたもやエラそうに唱えたりするから始末に置けない。そういう人はジャック・ウエルチがGE流のシックスシグマに通常のMAICにD(定義)を加えたDMAICというサイクルを生み出した理由をよく考えたほうがいい。そう。品質改善は顧客においての品質の改善であって、自社にとっての品質の改善ではないのだ。DMAICのDは顧客にとって何が「品質」なのかを問うことからはじまる。さて、唐突ですが「今日の引用」。 人は製品を買うのではない。 製品がもたらすベネフィットに対する期待を買うのである。 人は製品やサービスのためにカネを払うのではなく、 買おうとしているものが自分にもたらすと信じる価値の期待値に カネを払うのである。 4分の1インチの穴を買うのであって、 4分の1インチのドリルを買うのではない。 セオドア・レビット 『レビットのマーケティング思考法』よりこの言い方ってすごくおもしろく、実は決定的なポイントをついているのだと思う。製品を買うのではなく、ベネフィットを買う。これはまずそのままとればいい。おもしろいのは次の箇所。買おうとしているものが「自分にもたらすと信じる価値の期待値」にカネを払うカネを払うのは、あくまで「期待値」であるというのがミソ。これは実際の商品、サービスなりの性能なり、効用が顧客の期待を裏切ってもいいと取るべきではなく、顧客には「期待」させなきゃダメだと取るべきだろう。ここがポイントで、顧客は期待もできないようなものは買わないということだ。例えば、ITバブルがはじけて以来、妙に低評価な「WEB」。世間の顧客はもうWEBに期待していないのだろうか?そんな風に考えた途端、行き詰る。実はそう問うべきではなく、顧客が期待するわれわれの売り物は何か?とこそ、問うべきだろう。前にも書いたが、冷蔵庫だって、アラスカにもっていけば凍結防止庫だ。WEBという売り物をどこの誰のところに持っていったら何になるかを考えてSALESすることをマーケティングという。
2003年06月03日
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どういう方向でいこうか?と行き詰っていた提案書が、ふとした瞬間に切り口が見つかり、突然、スムーズに進行することがある。当たり前のことを、どう印象的に見せるか?といった部分で迷っていたりするから、切り口(印象の部分)が見つかればスムーズに進むのは当然だったりもする。最近、そんな意味で「切り口」という言葉を結構意識している。そんなことをふと昔からお世話になっている知人にもらしたところ、> 切り口か~! いい言葉だ> > すべてが相対価値となる世の中では> 切り口が差別化のアングルになるだよね。と言っていた。う~む、いつもながら切れ味鋭いコメント。その知人はこんなことも言っていた。> まあ、ブランドもなにもかも> ようはしっかりした計画を効果測定と> 徹底的な修正だな基本は> > だが、いくら高速に修正していても> その効果は内部の人間にはわからない> だから、たまには馬鹿になったつもりで> 顧客や外部の人とふれてみることが大切> > なにごともバランスですなこの知人は、「内部外部理論」と称して、「内部にいると外部のことが認知できない。 感知はできるが、それが組織としての認知にはなりにくい。 それゆえ、改善はむずかしい」といったことを言ってる。この感覚はすごく重要だと思う。シックスシグマのDMAICの"D"の部分をいかにこの感覚で定義できるかがビジネスにおける勝負だと思う。
2003年06月02日
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