ゲルク派版
「チベット死者の書」
<2>
平岡宏一 1994/12 学習研究社 全集・双書 236p
「チベットの死者の書」と言われるものもさまざまなヴァージョンがある。まずは1973年に出たおおえまさのり訳。
第一日目
「オー けだかく生まれたものよ。
汝はこの三日半気絶していた。汝がこの気絶から回復するや、汝は「何が起こったのか!」という考えを抱くだろう。汝はバルドを認識するようにせよ。その時、現象は全く違って経験されるだろう。そこで汝が見る現象の現われ方は発光と神々である。
全天は深みもあるブルーに見えるだろう。「あらゆる現象の種子を前方へと撒き散らす中国国土」から、色は白で、ライオンの王座に座り、かれの手に八つの輻(や)をつけた輪を持ち、「天空の母」に抱きしめられた「バガヴァーン・ヴァイローチャナ」が汝の前に現れるだろう。
それはブルーの光である原初の状態へと帰着してゆく現象の集成である。
色はブルーで、輝き、透明で、華々しく、眩しく、「父母・ヴァイローチャナ」の心からやって来るダルマ・ダーツゥの知恵が前方に放射されて汝を刺し通すだろう。それは非常に眩しいので、汝はほとんどそれを見つめることが出来ないだろう。
その光と一緒に、汝を刺し通すデーヴァからの鈍い白光が輝いているだろう。
「チベットの死者の書」おおえまさのり訳1973/10千部限定版
p17
最近では、 「改訂版」2004/03 もでているので、もっと違った訳になっているかもしれない。いずれ英語版からの重訳となると思われるが、チベット語の原典から直訳されると次のようになる。
一日目
「ああ、善い人よ、三日半の間、汝は失神していたのである。失神から目覚めると、自分には何が起こっているのだろうかという想いが生ずるであろう。汝はバルドゥの状態にあるのだと覚るべきである。その時に輪廻の反転から、ありとあらゆる幻影が光明と身体を持った姿で現れるであろう。虚空すべてが紺青色の光となって現れてくるだろう。
この時に、中央の<ティクレェダルワ(精滴弘播)>という名の仏の世界(法界)から、尊い御方(世尊)であるヴァイローチャナ(毘盧遮那)如来が白色の身体をして獅子の背に坐し、手に八輻の輪をかざして、女尊アーカーシャダートゥヴィーシュヴァリー(虚空界自在母)と接吻した姿で汝自身の方へ向かって現れてくるだろう。
意識の集まり(識蘊(しきうん))からできている、根底から清浄であって紺青色をした仏の世界の叡智であるもの、明瞭で光沢のあるもの、幻惑させるように輝くものが、ヴァイローチャナ如来男女両尊の心臓から出て汝の面前に近づいてくる。これは眼が痛くてとても直視できないほど強烈な光である。と同時にこのヴァイローチャナ如来の強烈な光に伴って、もろもろの天界の存在(諸天)に属する、幻惑させることのないほどに微弱な白色の薄明りも汝の目の前に近づいてくるであろう。
「原典訳 チベットの死者の書」川崎信定訳
1989/05 p29
チベット語から直接翻訳されているだけにより説明が詳しいが、名称とか文章の格調はともかくとして、内容の構成はそれほどかわるものではない。
ロバート・サーマンは1941年生まれのアメリカ人だが、64年にインドに渡り、ダライラマの側近(ゲルク派)のもとでチベット密教を学んだラマ僧(のちに還俗)だが、彼の訳になると次のようになる。
一日目(中略)
キェー、善い人よ! あなたは四日と半日、失神していたが、先に進む時がやってきた。目覚めたときは「いったい何が起こったのだろう」と不安に思うかもしれない。自分がバルドにいることを理解しなさい。輪廻の中を漂う今、あらゆるものが光や神々として立ち現れてくる。あたりには青い光が満ちあふれている。すると、中央の仏の世界から、あまねく広がる心滴が立ち現れ、手には八輻の法輪をもち、獅子の台座の上で配偶尊であるアカシャ・ダトヴィシュヴァリと抱き合った姿の白い身体の主尊ヴァイローチャナ(大日如来)となる。自ら浄化された意識の集合体(識蘊(しきうん))である、リアリティを完成した智慧(法界体性智)の青い光、純粋で生き生きとした青い光がヴァイローチャナ男女両尊の心臓からほとばしり出るが、その光は、恐怖心を抱かせるほどにまばゆく、目をくらませる。この瞬間、神々が住む展開のやわらかな白い光が輝き、あなたはこの光と智慧の青い光によって満たされるだろう。
「現代人のための『チベット死者の書』」ロバート・A・F・サーマン訳
2007/05 p222
こまかいディティールにそれぞれの違いがあるが、もともとの土台となる部分についての基本は大きく異なっているわけではない。眼を閉じて瞑想に入れば、時に青い光や白い光を見ることはしばしばありうるし、その中に何らかの姿を持った人格神をイメージすることは、そんなに難しいことではない。

これらの三冊は、もともと「バルド・ソドル」(「バルドゥ トェ ドル」、「バルド・トゥドル」、「バルド・トドウル」とも)と言われるチベット密教の原典に基づいている。ところが、「ゲルク派版 チベット死者の書」は同じタイトルではあっても、もともとは「クスムナムシャ」というまったく別の経典が元となっている。
だから比較しようと思っても、対応するページを並べるというような検討は不可能である。チベット人たちにとっては、「バルド・ソドル」は、それほどメインの経典ではないし、もともと「バルド・ソドル」が、突出して西欧人に愛読されていることに納得できない。むしろ、自分たちが普段からなじんでいる「クスムナムシャ」をチベット密教の代表的な経典として、置き換えたい。そのような思いの中から、紹介され始まったのがこの「ゲルク派版 チベット死者の書」である。
ゲルク派版「死者の書」の正式な名称は「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」という。
(中略)いわゆる、14世紀チベットのテルトン(埋蔵経典伝承者)、カルマ・リンバによって著され、アメリカの人類学者、エバンツ・ヴェンツによって世界中に紹介されることになった、ニンマ派の「死者の書(バルド・トドゥル」)」とは、その成立とともに、目的にも若干の違いがある。
p38
ゲルク派の人々にとって、「バルド・ソドル」の何が不足しているのだろうか。
この世界ができたばかりの、初劫(しょごう)の閻浮提(えんぶだい)の人たちは、以下のような特徴をもっていた。
母体・卵・水などのよりどころをもたず、忽然と生まれる化生であること。
無量の寿命に耐えうること。
全員、一切の根(こん)がそろっていること。
身体が、自然に放出される光により満たされていること。
仏の素晴らしいお姿である相好(そうごう)と相等しい、荘厳なるもので飾られていること。
段食(だんじき)によらず、心の喜びを食物として食する者であること。
神通力により虚空を行きうること。
以上の七法をともなう者ばかりであった。
「バルド・ソドル」と「クスムナムシャ」を読み比べるというのは、当ブログの力量にあまるし、もともと、そのようなかたちで比較することにどのような功徳(笑)があるのか、まったくわからない。だが、一度はやってみたい、という欲望が湧いてくるのも事実。ここでは、そのような違いがある、ということを確認しておくことにとどめる。
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