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Twist @ はじめまして^^ 先ほどこのロングインタビューを読み終え…
2009.08.02
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カテゴリ: 文芸

 内田先生が、どれほど村上文学を愛しているのかが、
 ひしひしと伝わってくる。
 とても「ヴァーチャル」だとは思えない。

 それもそのはず、
 この文章は、2006年10月のノーベル賞受賞者発表前日に、
 某新聞社からの依頼によって、内田先生が書いたもの。
 現実に、新聞誌上を飾る予定で書かれた文章なのである。

残念ながら、この時、村上さんはノーベル賞を受賞することはなかった。

にもかかわらず、村上さんの作品については、国内でも、その評価が人によってかなり違う。
そんな中で、内田先生は、村上応援団の先頭を切る人物である。

ただし、本著は、この本を出版するために書き下ろされたものではない。
内田先生が、自身のブログに書いている様々な記事の中から、
村上さんに関わる部分だけを選び出し、まとめたもの。
それゆえ、本著を一つのまとまりとして見たとき、曖昧さやとらえ所の無さを感じてしまう。

もちろん、本著以外の出版物においても、内田先生は、この手法を度々用いているのだが、
それらに比べても、流れがあまり良くない、断片的と感じた。
しかし、日々のブログの中に、これだけ村上さんにまつわる記事が登場することだけでも、
ある意味驚きであり、内田先生が、どれほどの想いで村上文学を見守っているかが分かる。

   ***



  社会学者の書いたものがあまり面白くないのは、
  あの人たちは「生きている人間」の世界にしか興味がないからである。
  霊能者の書いたものがあまり面白くないのは、
  あの人たちは平気で「あっち側」のことを実体めかして語るからだ。
  「こっち」と「あっち」の「あわい」でどうふるまうのが適切なのか、

  村上春樹は(エマニュエル・レヴィナスとともに)その数少ない一人である。(p.25)

なるほど、そう言われてみると、
村上さんの作品には、確かに「あっち側」と思えるものが数多く登場し、
しかも、「あっち」と「こっち」の境界線が定かでなく、
そこを、平気で行き来するというパターンが多いことに気付かされる。

  私たちは「自分が知っているもの」の客観性を過大評価する。
  「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは
  私たちが陥りやすい推論上のピットフォールである。
  話は逆なのだ。
  「私たちが知らないことは他者も知らない」。
  そういうことの方が多いのである。(p.38)

哲学的である。
しかし、よく分かる。

  私たちは「ほんとうの体験を共有している人間」より、
  「回顧的に構築された模造記憶を共有している人間」のほうにずっと親近感を感じる。
  村上春樹はそういう人間の想像力のありようを熟知している。(p.88)

ここから展開する内田先生の論述は絶品である。
「本当はそんな経験をしたことのない読者たちすべてを、
その時代を共に回想する同時代人たちのうちに回収するテクニック」の解説には、
思わず「ス、スゴイ……!」と唸らされた。

  「ものを書く」というのは、「バーを経営する」というのとそんなに変わらない、
  というのが村上春樹の考え方である。
  店に来た客のうち、「あ、この店いいな、また来よう」と思うのは十人に一人くらいである。
  その十人に一人を照準にして店をやるのが、経営の要諦である。(p.193)

まさに経営の、そして人生の極意ではなかろうか。
「来る人は来る、来ない人は来ない。」である。
来る人を、いかに来させ続けるか、である。

  しかし、心を鎮めて考えれば、誰にでも分かることだが、
  私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、
  ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。
  それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、
  ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。
  村上春樹は、人々が「邪悪なもの」によって無意味に傷つけられ、
  損なわれる経験を淡々と記述し、
  そこに「何の意味もない」ことを、繰り返し、執拗に書き続けてきた。(p.210)

この文章の前に、人々が「邪悪なものによって損なわれる経験」をしたとき、
それを必ず「合理化」しようとするという下りが登場するのだが、
その部分も「ある、ある」と思わず頷いてしまうところである。
しかし、本当は理由なんかない、合理化なんかできないのである。

  ジェイズ・バーは 『風の歌を聴け』 と 『1973年のピンボール』 と
『羊をめぐる冒険』 における記述を仔細に検討するならば、
  芦屋と国道二号線から少し入ったところに存在する。
  私が「芦屋の国道二号線から少し入ったところ」に居住することに固執するのは、
  そこに私にとっての理想的な「港町」があるような気がするからである。(p.215)

私が、『羊をめぐる冒険』に登場する街の景色について、
ブログで記事に書いたことは、やはり正解だったようだ。
そして、内田先生は、あの辺にお住まいなのか。
ま、大学からも近いことですし、いい場所ですよね。

  勘違いしている人が多いけれど、私たちが何かにはげしく惹き付けられ、
  それに固執するのは、それが移ろい、壊れ、消えてゆくものだからだ。(中略)
  花、鳥、風、月、雪、共通する特性は何だか分かるね。(中略)
  家族もまた同様である。(中略)
  子どもたちは進学したり就職したりして家を出て行くし、
  爺さんや婆さんはいずれ死ぬ。
  そういうテンポラリーな共同体であるからこそ、
  その家族における印象深いすべての出来事は、
  「ああ、あの時にはまだ……がいたんだ」というメンバーの欠落とともに回想されることになる。(p.230)

この後に続く『北の国から』の解説も見事である。  





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Last updated  2009.08.02 15:25:23 コメントを書く
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