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年に2回だけ会うおんなたちがいる。メンバーはわたしを入れて五人、年齢は40歳後半から50歳前半である。もといた団地のひとたちだ。それぞれに転居したりそのままそこにいたりするが、なんとなくウマがあう面々が夏と冬に集まって飲めや食えやの会を持つ。いつも音頭をとってくれるひとはナベちゃんという。大酒飲み大食らいのくせいにオリーブのように痩せているニクイひとである。今回はナベちゃん夫婦ご用達の自然食のお店で、なんでも米焼酎の一升瓶がキープしてあるのだという。それはナベちゃんのご主人からの誕生日プレゼントなのだそうだ。そういうプレゼントもあるのかあと感心したりする。ここではひじきだのおからだのぜんまいだの、ちくわやごぼうの煮たのだのが出てくる。ちょっとどこかの民宿にいったような気分になる。それでもさばの塩焼きは油が乗って舌にとろけたし、ホタテや蛸のお刺身も、自家製コロッケも白身魚のフライもあって、玄米ご飯も野沢菜漬けもすうと身体にしみていくようだった。それは定食メニューでたっぷりいただいて料金は1000円だから、実に良心的だ。ちなみにそこは横浜馬車道の先の「伊勢もと」という。わたしは焼酎がいただけないので、福島産の「地酒物語」という冷酒をちびりちびりと舐めていた。それは豊かなコクと甘露で我が舌を喜ばすのだった。おいしいおいしいと言いながら、なんとなくそれぞれが喋る。言いたくないことは喋らない。でも酔うほどに、つれあいのこきおろしも出てくるし、つらいことや心配事もそれとなく口をついて出てくる。それぞれにうまくいかないことや癪に障ることを抱えているから、なんとなく相手の窮状を察することができる。はげましたりなぐさめたり、根拠はなくても「大丈夫よ」と太鼓判を押したりする。「生きてるだけでまるもうけ」的な言葉をかける。ここで深刻な問題が解決するわけはない。ただこの瞬間にふっと肩が軽くなればそれでいいのだ。そういう場所なのだ。接骨医でのパートの話やヘルパーの話もある。働く主婦たちなのだ。自転車で怪我して開業医の受付の仕事を休んでいるという話もある。首になるかもしれんと案じていたりする。今年はわたしだってチラシ配りの話をする。一枚5円だというとみんなへえーと言う。「えらいじゃん」と言ってくれる。なんだかこそばゆいのだか、ちょっとほこらしい。なんの拍子だかにわたしが「手術して十年がたつから」と言った。すると今までケラケラ笑っていたナベちゃんの目がうるうるしてくるのだった。「十年!よかったわあ。もう再発はないね。よく頑張ったわ」ナベちゃんはそう言いながら拳で涙をぬぐった。思いがけない言葉だった。そんなふうに気にかけてくれていたのか、心配をかけていたのか、と胸が熱くなった。その言葉にくるまれてわたしは体中が温まっていくような気もした。「オイオイ」と佐藤さんが声をかける。ナベちゃんの目の縁が黒ずんでいた。ほろっとこぼれた涙も黒かった。「あ、いけない、今日は頑張ってマスカラつけたんだった」その言葉でみんなが笑った。
2005.01.31
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今時分の夕陽は一年のうちでとりわけうつくしいと思う。一日がおおむねその仕事を追えるころ、おおぞらで夕陽のピンクと雲のグレーがおおらかにせめぎあう。刻々と濃さを変え、形を変え、勢力の分布が変わっていくさま。その映像が身のうちのなにかをざわめかす。うまく言葉にできないそれは、毎年おなじようにこの身のうちに湧く。それはどこか恋心ににているようにも思う。いつだったか、祖母らしい老婦人に見守られた幼子がそんな夕陽に見入っていた。じっとしていられなくなったらしく「おうおう、おうおう」という声をもらしながら夕陽を追うようにして歩を進めるのだった。そのあとを追いながら、老婦人はそばにいたわたしに言った。「生まれてはじめてあの夕陽をみて、感動しているんですね」それをわかってあげられる祖母がいてくれることは幸せなことだと思って聞いた。今日は息子2の誕生日だ。25歳になる。よちよち歩きのころは山梨にいた。そういえば、彼は石が大好きだったなと思い出す。砂利を敷きつめた駐車場でいろんな石を次々にひろっては口にいれて、味や舌触りをたしかめていたなあ。大人になってしまえば忘れてしまうことなのかもしれないが息子2もこぼれおちそうに大きな目にたくさんのものを映して、あの子のようなはじめて出会ったものへの驚きや感動を重ねてきたはずだ。背広着てネクタイ締めて革靴はいてサラリーマンになった今もそんな思いがあるだろうか。新たな職場で戸惑いながら、たくさんのはじめてのことに遭遇しているにはちがいないが「おうおう、おうおう」と思わず口にしてしまうような感動があるだろうか。ベランダに置かれた腰掛けで足を組んだ息子2が煙草を吸う。硝子越しをその丸まった背中を見る。骨ばった肩だ。遠く旅客機が機首を上げて進むのが見える。グレーの雲が鮮やかにピンクに照らされている。ふっと見える横顔の頬が削げている。煙を吐き出す。傾げた首が空を見ている。なんの思案をしているのか。お誕生日おめでとう。悠介。
2005.01.30
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いつもながらにため息がでる。日本全国で、いや世界各国でおんなは針を持ち、日々、布に向かい、気の遠くなるほどの時間をかけてこれらを仕上げたわけで、これはそれぞれの作品の晴れ舞台であって、どの作品も作者の分身なのであり、「私を見て」と誰もが胸を張っているのだ。色がいいでしょ。パターンの配置を見て。細かいでしょ?斬新でしょ?こんなの見たこともないでしょ?このシックな色合い安心して見ていられるでしょ?わたしのは他のひととはひとあじ違うのよ。わかる?これまたいつものことながら、それぞれのキルトの前でそんな悪魔的なつぶやきを聞いてしまうわたしは、ちと意地悪なのかもしれないが、たくさんたくさん重ねて見るにつれ、目も足も疲れてきて次第にそんな感慨が湧いてくるのだ。升井紀子さん(だっだと記憶している)というキルト作家がおられる。花柄のキルトを作られる作家というイメージを持っていたが、今回はずいぶんと都会的なデザインの作品を作られていた。なるほど日本のキルトの歴史も長くなったのだなあと思う。さても、主宰のひとつであるNHKの力なのか、すごい人出だ。着いたのがちょうどお昼時だったので、多くのひとが座席でお弁当を食べていた。その数に驚き、それでいながらフィールドにも多くのひとの黒い頭がうごめいていることになお驚いた。ツアーのバッジをつけたひともいた。水道橋駅からここに来るまでに小さなトラベルトランクを引きずっているひとを何人も見た。地方から遠路はるばるこのキルト展のためにやってきたのだろうと推測する。フレンドリーキルトというのは、大勢のひとが自分の作った小さなパッチワークを持ち寄り、それをつなぎ合わせて一つの大きなキルトにするものをいう。今回はNHKの企画で全国からハウスというパターンの作品を募った。その応募作品が何枚ものキルトに仕立てられて会場に満ちた。パネルに応募した人の名が記されていた。ここに来て自分の名を見つけたひとはさぞかし誇らしい思いがしたことだろう。年齢を重ねた多くの女性がショルダーバッグをたすき掛けにして場内を行く。ショップで買い物をするにはこれが一番だ。実はわたしも「幼稚園掛け」である。「はよ、こんかいな」なんて関西弁が耳に飛び込んでくる。ショップの前ではミレナリオ見物にも劣らぬほど人が並んでいて、その列がなかなか動かない。「ここ、ここ、あったとよ」なんてお目当てのショップを見つけたおばさんが大きな声で連れを呼んでいる。これは九州の言葉だろうなあ。力強さ、逞しさなんて言葉がふっと浮かぶ。着物地のショップ、和ものの製品のショップ、キルト作家のショップ、バッグの持ち手のショップなどに人が多かった。大島紬地で作ったベストやコートはだれもが手に取り、その値段を見て、元に戻す。そしてそのハギレを買っていく。和もの製品の店でどっしりとした感じのおばさんがそこの店主であるヒョロンとしたおじさんの肩をたたいで「あら、たかはしさんじゃないの?」と声をかけていた。傍にいた娘らしいひとが「知ってるの?」と聞く。「ほら、うちの近くで骨董屋されてたのよ。どうされたかと思ってたのよ」「ええ、あれから店が火事になって焼けちゃったりしていろいろありましたが、元気ですよ」骨董屋さんも出店しているらしい。思いがけない再会もある。世の中着物のリフォームとかがブームらしいから、骨董屋サンも出番もあるわなあとその商魂に感心したりする。そこの商いの景気がいいとかわるいとか、わたしにはよくわからないが、大きな荷物を持っているひとが少ないな、という感じはする。パッチワークキルトの底辺はすいぶん広がり、こういう大きな展示会も回を重ねてきた。自分もそうなのだが、もう布は嫌になるほど持っているから、なにがなんでもほしいというものはない。けどなんか気の利いたものがあれば買ってもいいな、という感じのひとが多いように思う。うろうろと歩き、買わんぞ買わんぞ!と呪文のように唱えながら、やっぱしそれなりの紙袋とか持って帰ったワタクシであります。大きな声では言えんのですが、ハギレ少々(?)とバッグの持ち手とボタンなどを。どこ仕舞うの?と自分で突っ込んだりして・・・。
2005.01.28
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ジュンパ・ラヒリというひとは1967年ロンドン生まれだけれど、両親がカルカッタ出身のベンガル人であり、その顔写真をみると、どきどきするくらいエキゾチックなべっぴんさんだ。天はこのひとに二物を与えたもうたのだなあと思う。このひとはデビュー短編集「停電の夜に」でPEN/ヘミングウェイ賞やニューヨーカー新人賞、O・ヘンリー賞などを獲っている。しかもしかもピューリッツァー賞まで獲っている。「停電の夜に」も印象的な短編だった。もう夫婦を続けていけなくなったふたりが、工事のため停電する5日間、ろうそくの灯のなかで互いの秘密を打ち明ける。そのなかのこまかなこまかなものの、なにげない描写がたくさんのことを物語る。設定の巧みさ。場面の切り取り方の鮮やかさ、穏やかなそれでいてこころにのこる台詞。よい短編だった。「その名にちなんで」は作者の初めての長編である。短編で見せたこまかなこまかなないげない描写が丁寧に丁寧に重ねられていき、自然にそれでいて実に鮮明にインドからアメリカにわたってきた家族の人生が浮かび上がってくる。時制がすべて現在形で書かれている短い文章が重ねられていく。その一文が、ひとふでふとふで色を置くようにして重ねられて鮮明に浮かび上がってくる人生がある。アメリカで生まれた長男に「ゴーゴリ」という名前を父が付けた。インドにいたころのこと、電車事故にあったとき、瀕死の父の傍にそのロシア人の本があった。そのページが風にめくられて救急隊員の目を引き、気づいてもらって父は九死に一生を得たのだった。ゴーゴリという名を持ってアメリカで暮らすベンガル人の少年はやがてその名を厭うようになる。父から誕生日にニコライ・ゴーゴリの本をもらっても、開きもせずに本棚にしまうのだった。やがて進学した時にニキルと改名する。ニキルとして生きることはなにかから解放されたという感じだった。父や母とは違う生き方をするのだと心に決めていながら、それでも時々ふっと忍び寄る不確かな思いがあった。そうとしか生きてこなかった自分を否定しきることはできない。そこにしかないあたたかな思い出も胸をよぎる。そんななか突然父が他界する。悲しみと後ろめたさが交錯する。父との思い出のなかのシーン、家族で海へドライブし、防波堤の先の砂地を父とふたりで歩いたことが思い出される。「砂地についた父の足跡を覚えている。片足を引きずる癖のせいで、右の爪先が外側へ向き。左だけ正面を向いていた。あの日、だいぶ低くなった太陽を背にして、父と二人の影が、やけに細長く寄り添うようだった」ふたりはブイや海藻やフジツボを見て歩き、灯台まで行く。カメラを忘れたのでその景色を目に焼き付ける。そしてその帰り道に父は言う。「きょうという日を覚えていてくれるか」「いつまで覚えていればいいの?」とゴーゴリが聞く。「ずっと覚えてるんだぞ」と父は言う。「覚えておけよ。おれたち二人で遠くへ行ったんだ。もう行きようがなくなるまで行ったんだからな」と。何気ない言葉があとから重みを持つ。心憎い表現だと思う。結婚したり離婚したり、ゴーゴリの身にいろいろあった後、母がインドに帰ることになった最後のクリスマスパーティーの日のこと。荷物もあらかた片付いた家でゴーゴリはかつての自分の部屋に入る。いらないものの仕分けをして、と母に言われていた。片付けられた箱のなかにかつて父がくれたニコライ・ゴーゴリの本を見つける。そこには見慣れた父の筆跡でこう書かれてあった。「この男が名前をくれた――名前をつけた男より」ゴーゴリがゴーゴリの本を読むところで作品は終る。この一冊、346ページのなかには、たくさんのエピソードが静かに並んでいる。登場人物それぞれの視点で語られる思いもある。アメリカで生きるベンガル人の混乱と矜持と悲哀のようなものがそれぞれの想いのなかに滲む。作者は決して声高になにかを叫ぶのではなく、出来事やありさまを静かに語る。その言葉がゆっくりと身体をめぐってしみわたってくる。指先まで届くような思いがする。なにかくっきりと形になるものを手渡されるのではない。お風呂に湯のなかで暖められるような、あるいは穏やかな夕日にそまるような感じで物語を受け取る。なるほど小説はこんなふうに書くのだなと思ったことだった。
2005.01.27
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夕方Eさんより電話があった。熱燗で酔って転んで、机の角でしたたかに頭を打ったあのひとである。「ご心配いただきまして、ご迷惑をおかけしました」というご挨拶とさいわいどこにも異常はなかったという報告だった。こちらの「ご丁寧に」という言葉で電話は切れるはずなのだが、そこからなんだかわからないがえらく長い話になった。高井有一先生のことを聞きたいと言われて、知ってる限りを告げた。すると受話器のむこうでEさんは思案される。文章を見てもらっている文芸評論家に最近けちょんけちょんにやられてクサっているのだという。やっぱり書くひとに習ったほうがいいのではないかしら、という思案だった。Eさんの作品はかつて文学界に取り上げられたこともあるのだという。へえーすごいですねえ、と感心すると「あなた、あれは順番なのよ。こんどはあなたの番よ、とか言われてるんだもん、ちっともうれしかなかったわ」とのお答え。へえー、それもすごいですねえと内心感心する。しかし、趙さんが在籍したカルチャーの小説クラスでは、文学界で取り上げられると、教室に入ってくるときに拍手で迎えられるのだと聞いた。本人は謙遜しつつも鼻高々なのだそうだ。「わたしは何とか賞の1次選考通ったけど、あの人は落ちたのよ」なんて台詞もそのクラスで実際交わされたのだという。戦いはどこにもあるのだなあと思ったことだった。ささやかな差別化が生きがいになってしまうと人生さびしいもんだなあと、自分を埒外においているものは思ったりもするのだが、そういうコミュニティにいたら、そういうことにキュウキュウとするだろうなあ、わたしのような小心者は・・・とも思う。結局Eさんは自分ひとりで名作を次々に読んでこつこつと書いていくのが一番かしら、とひとり納得されたようだった。そういう思案の一部始終を聞く羽目になって、夕方から出かける予定のあったわたしはなんだかすっかりペースが狂ってしまったのだった。小説を書くひとのペースにはついていけんな、と思いながら、玄関のドアを閉めたことだった。やれやれ・・・。
2005.01.24
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昨晩は同人誌の合評会のあと新年会があった、寄せ鍋だった。6人参加した。うちふたりが生ビールをあけ、一人が熱燗を傾けた。二階の広間には他に二組の先客がいた。我々の隣のテーブルには背広姿の8人ほどの男性がいて、もはや十分出来上がっている感じだった。赤らんだ顔をしてろれつの怪しくなっているひとや、立ち上がろうとしてふらついて、ごろんと仰向きにころがったひともいた。こちらで熱燗を手酌で飲んだのはEさんだ。正確に年齢は知らないのだがご高齢ではある。先にご主人を亡くされ、そのときの思いを小説にして自費出版されている。かつては学校の先生をされていたそうだ。他にも同人誌に入っていて、そこに発表した自作をこてんぱんにこき下ろされた昨晩は、憤懣やるかたない思いで過ごしたのだという。飲むほどにそんな言葉が零れ落ちた。1合のお銚子を2本空けたあと、3本目も飲みはじめたEさんは、メンバーの名前を一人ずつ呼び、筋の通らない話を繰り返す。酔っているなあとわかる振る舞いだった。鍋は雑炊になりやがて空になった。そろそろとお開きになってコートを着込みながらメンバーが順々に階段を下りようとするとき、広間の方でガッシャン!という大きな音がした。だれか転んだ!と振り返った。最後尾にいたひとが「隣のひとよ、きっと」と言った。ああ、酔ってたもんね、と納得して玄関先で靴を履いていると、仲居さんが慌てて寄ってきた。「お連れさんがお二階で転ばれました」と告げた。ころんだのはEさんだった。そういえば姿が見えない。机の角で頭をぶつけて今手当てを受けているという。すわっと駆けつけると、広間の真ん中に人だかりがしていた。当人は眉間のあたりにお絞りを当てて冷やしている。みるみる大きなたんこぶができ、数箇所から血がにじんでいる。その周りにいるのは隣の席にいた男性たちだった。「幸い、こちらさまはみなさまお医者さまですので」と仲居さんが教える。真ん中で黒のダブルのスーツを着た銀髪の男性がEさんの手を取り「この状態なら大丈夫だと思いますが、お仲間のかたについてもらって帰ってください」とやさしく言う。傍の若手の先生が肩に手を当ててEさんの目を見つめて「今は大丈夫ですが、このあともようすを見てくださいよ」と念を押す。恐縮して頭を下げ、感謝の言葉を口にする。さっきまで、派閥の話をする専務や部長に見えていた人たちがとたんに優秀な医師に見えてくるから我ながら苦笑してしまう。ああそうか、白い巨塔だあ、とさっきの話をあとから納得する。皆でEさんを抱えるようにして廊下を行くと、お手洗いから戻ってきた赤い顔の先生が「気分がわるくなったり吐き気がしたら救急車を呼んでくださいね」と案じる顔つきなって言う。さっきまでろれつの回っていなかったひとだと思いだす。「ありがとうござます」と言いながら、こんなことってあるんだなあと驚いていた。新幹線のなかで急病人が出てドクターを探すアナウンスは聞いたことがあるが、医者の集まりの横で怪我をするというのはなんだかずごい偶然だなあと思う。こういうのを不幸中の幸いというのだろうなあ・・・。*****その後、やはり心配だったので、主宰と近くに住んでるひとがEさんを救急病院へ連れて行った。残りのメンバーは心配げにそのタクシーを見送った。自分たちがもうちょっと、ほんの数分長く広間に居たならこんなことにならなかったのではないか、なぜ酔ったEさんに気をくばらなかったのか、という思いだった。今日確認したところでは、Eさんは特に異常もなく大丈夫だそうだ。ひと安心だ。ただ高齢なので心配なことはある。外傷性ショックだとか血管性の障害とかが起こるとやっかいだ。しかし、これまた幸いなことに娘さんが看護学校で教えてるかたでそういう知識は心得ておられる。よかったよかった・・・。
2005.01.17
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毎朝、出かける人が出かけたのち、家事を始める儀式のようにして北側の窓の結露をふき取る。窓が切り取るにじんだ冬の風景はひと拭きごとにくっきりと見えてくる。背の高いケヤキの木が見えてくる。葉を落とした細い枝が寒々しくうつる。隣接する歯科技工士の専門学校の建物にまだ動きはない。その先のマンションの端の部屋のひとが布団を干し始める。そんな建物と建物の隙間に小さな公園が見える。今は主の枯れている藤棚とそのそばに可愛い砂場と小さな遊具がある。そして少し離れて木製のベンチがある。その先はだんだんのある坂になっている。坂の名は犬坂。鞄を提げた勤め人が首をすくめて下っていく。犬の散歩をさせる人も通る。その坂を上ってきて公園の入り口付近で体操する男がいる。吐く息が白い。遠目だが、それほど若くないが太ってもいないように見える。柔軟のような体操が済むと、男はその場で足踏みを始める。かなり気合をいれて走ってでもいるかのような早さで足を上げ下ろしする。腕もぶんぶんと音がするほどに力強く振っている。公園で見えないルームランナーに乗っているような感じがする。今日だけのことではない。気がつくと、いつもそんなふうに彼にしか見えない道をひたすらに走っている。今日はそのそばのベンチにホームレスがいた。家財道具であろう大きな荷物を傍らに置き、自分の体の熱を抱きしめるように身体を折りたたんで横になっていた。朝の日差しが公園に届き、満ちている。砂場を越えて、ベンチにたどり着き、そこでじっと横たわる男の体を包む。男は動かない。今日を生き抜くエネルギーを温存しているのだろう。そうしてその横では、続く命の健康のためにせっせと身体を動かす男がいる。その二人の男が窓の中の風景に納まっている。「生きるということは・・・」とつぶやいてみた。続く言葉が出てこない。うーんと唸ってもみるが、朝っぱらからそんな哲学をしている暇はない。結露をふき取った雑巾をすすぎながらふっと思った。生きるということは自分を大切にすることだ、と。なんだかすうと納まった思いがした。
2005.01.14
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歌舞伎のチケットを手に入れるために「都民劇場」というのに入っている。そこでは自分の希望する日時を申告するのだが、申告し忘れても向こうが決めた日時のチケットが送られてくる。第5希望まで日時を記入するのは面倒だし、申告し忘れたほうが席が良かったりするので、わたしは確信犯的に申告していない。すると同じように申告しなかったひとと歌舞伎座で席が並ぶことになる。なんどか隣になったひとと顔なじみになって言葉を交わすことになった。言葉を交わしてみれば、その上品そうな老婦人はじつに饒舌に歌舞伎を語る。「若いときは母や姉ときたものです。今は夫もなくなったのでひとりできています」というその人の名をわたしは知らない。会えればうれしいし、もう二度と会えなくてもそれはそれでいい。互いの住まいも来し方も話したことはないが、それでも歌舞伎の話は弾む。「歌右衛門さんがねえ、むかし、インタビュー受けて、『うちの孫は利発でございます』なんて言ったのよ」「芝翫さんも早く親を亡くして、苦労したのよね。若くして娘道成寺なんて踊ったりしたもんだから、まわりのひとがやっかんで、引き抜きの着物に細工されたりしたそうよ。昔はそういうことがよくあったのよ。楽屋に置いといちゃ心配だからって、毎日リアカーに乗せて運んでたそうよ」「吉右衛門さんは昔ふくのじょうっていってね、体が弱かったのよ。それがりっぱになってねえ。お父さんそっくり」わたしが歌舞伎に全く縁のなかった時代のことを聞く。へえーへえーと感心すると、いよいよ口は滑らかになる。すると時に話は歌舞伎を離れる。「わたしが子育てで忙しい頃に夫は付き合いだと称してマージャンばかりしてたんですもの、わたしだって楽しまなくっちゃね。今はマージャンも流行らなくなったけど、昔はなにかというとマージャンでしたよ。そういえば、夫の葬儀にマージャン屋のご主人が来られて、驚きましたよ」「そういえば、夫の葬儀には日本橋のあんみつやのひとが来てね、あれは誰かしらて思ってたら、向こうがそう名乗ったのよ。驚いちゃった。会社のひとを連れて行ってたらしいのよね。孫が好きだからってしょっちゅうおみやにわらび餅買って帰ってたのよね。たくさんおまけをつけてもらったりしてたから、気前のいい店だわって思ってたのよ」幕が上がれば盛り上がった話もそこで終わる。始まった舞台「鳴神」を見ながら、マージャン屋やあんみつやがやってくる葬儀のことを思った。そして、友人の父親の葬儀に銀座の高級クラブのママが並んだと聞いたことを思い出した。そういう粋筋の雰囲気は喪服を着ていても漂うらしい。葬儀はある意味人生の答案用紙のようでもあるなと思う。参列するひとの顔ぶれで、故人が何をなして、だれとどんなふうに付き合ってきたのかが垣間見える。お寺で生まれた武田泰淳の葬儀で、幼馴染のお坊さんが泣きながらお経をあげていたそうだ。そんなお坊さんの姿を初めてみたと百合子さんが書いていた。自分は出席することはできない自分の葬儀をこっそりのぞいて見たい。さてさていったいどんなひとがきてくれるのだろう。
2005.01.12
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夕刻より新富町まで行ってきた。銀座ブロッサム中央会館にて、立川志の輔独演会があった。ようやく会えた志の輔さん。昨年はチケットが手に入らなかった。生協の注文では申込者が多いと抽選される。こういうくじ運はまことに弱くて選ばれなったのだ。やれやれやっとだ。ためしてガッテンでおなじみの志の輔さんは昭和29年生まれの五十歳。わたしと学年はちがうけれど、同い年なのだ。富山県新湊出身。だから事務所の名前が「ほたるいか」。明治大学出身で広告代理店に勤めていたという。そんな志の輔さんのよく通る声はテレビとおんなじ、おんなじ顔だ。あたりまえだ。にせ札や水戸黄門の子孫の詐欺事件の時事話から古典へはいっていく。猫きらいの道具屋の手先のはたきやの話。商売がうまくいかなかった旅の終わりに入った茶店で見つけた掘り出し物。猫の餌入れの鉢は上物だ。猫はきらいだが、猫を買うといってその鉢をせしめようというもくろみ。さてさてどうなるものやら。その猫の嫌いかたのうまいこと。おもしろいなあ。笑ったなあ。古典が古典でありながら、その登場人物がごくごく身近に感じられる。いるよなあ、こういうひと。ガッテン流の説得力がいきているのかもしれないが、なによりこのひとは古典を愛しているのだなあと感じられる人物造形だ。そうなるまでの精進があったのだろうな。広告代理店を辞めて選んだ落語の世界だものなあ。中入りでダメじゃん小出というひとのジャグリングマジック。ちょっとつらいものがあった、ようやくそれが終ったあとゆっくりと舞台に出てきたひとがいた。驚きの声と拍手が漣から大波になって広がっていく。はきならした細身のジーンズにカーキ色のジャケット。うわあ、家元だあ。そう、立川談志師匠が飛び入りで現れたのだ。おっどろいた!わが人生初めての生談志。すっと舞台の中央に立つ。ちょっと小首をかしげて、間を計る。両のてのひらを体の前でこすりながらご機嫌伺いの小噺をいくつか。ひねった笑い。こ、こんなことが起こるんだあ。サプライズだあ。こんなところで運をひろった。お年玉だあ。うれしいうれしいうれしい。笑点の大喜利から40年。小学生だった女の子もこんなおばさんになっちまいましたぜい。思いがけない飛び入りのあとの志の輔さんの落語の冴えたこと。長屋の大家に呼び出された大工のはっつあん。めりはりのきいたやり取りで笑わせ、泣かせ、聞かせる。妹のつるが殿様のお世継ぎを生んで、屋敷に呼び出されたはっつあんがふるまいの一升の酒を飲んでからおっかさんの伝言を告げるところ。うまいなあ。つやというのだろうか、輝きというのだろうか。そこにいる愛すべきはっつあんの親思い妹思いの情になかされました。涙こぼしました。「つるのひとこえ」というサゲで話が終ったが、鳴り止まぬ拍手に幕は下りない。そこへ家元が現れスニーカーを脱いで高座に上る。師弟が二人並ぶ。「長居しても邪魔になるだろうから帰ろうと思ったけど、ひきこまれちゃったよ」と談志師匠が言う。紋付袴姿の志の輔がかしこまる。「小朝に、今に志の輔にもってかれちまうよ、って言ってたんだが、もっていっちまいやがった。志の輔、文句なし!」という談志の言葉と共に幕がおりた。師弟が並んで頭を下げた。ひときわ大きな拍手が館内に響いた。
2005.01.07
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なんだかぼんやりしている。まあそれはいつものことなのかもしれないが、それにしても、なにかこう新しい年を迎えたというのに湧き出てくるもの、みなぎるもの、張りつめるものがない。ただぼんやりとしてしまう。京都の姑はことし89歳になるのだが、いよいよ老いが深刻にその影を落としてきている。目も耳も足腰も弱ってきている。そしてなによりほんの少し前のことをきれいさっぱり忘れてしまう。その年になればそれは当たり前のことだとひとはいうのだけれど、わたしはなんだかそれが納得できずにいる。いや、常識的なこと、症状的なことは十分理解しているのだけれど、それでも30年近く付き合ってきたひと、あのしっかりと人生の舵を握って荒海を乗り切ってきた姑にこんな日が来ることになんだか納得がいかないのだ。強いひとだから。いつもその強さに戸惑ってきた。それは自分にはまるでないものだったから、強い言葉に抉られたこともあったし、自分の考えや思いがいとも簡単に無視されてしまうことも多かった。京都に帰ることがどうにも心弾まぬこともあった。それでもその強さや潔い決断力を頼りに思ったこともあった。ものごとをきちんと整理整頓して身につけていくさまにひれ伏してもいた。料理の味付けは匙で測る。そして覚える。出したものはその手でしまう。洋裁も編み物も先生について習い、基礎からきちんと身につけ、やがてオーバーまでこさえてしまう。努力することが良いことで、なにもかも努力していれは叶っていくのだと信じている姑に、道草ばっかり食ってふらふらとしてまっすぐ歩けないむすこたちはどう映るのかと心を痛めたこともあった。なにに関してもとうていかなわぬ強敵であった姑が「もうもう、よう物忘れしてしもて、ダメ人間になってしもた」と言いながら真っ白になった白髪頭を叩く。健康でお産以外は入院したことがないひとで、「あんたは弱い」と言われてきたわたしが、そのひとの遣り残した仕事をしている。煤けた部屋、薄汚れた床、途中でほおり投げたように黴の生えたぬか床。こげた鍋。満々と水を入れてしまって溢れるポットの湯。埃にまみれた神棚。いつのものかわからない仏壇のお茶。手絞りで干した洗濯物から滴り落ちて床に広がる水溜り。かつて見たことのない光景。生きてゆく果てに待ち受けているものが垣間見えてしまたような切なさがじわじわと湧いてでる。「八卦見に百まで生きるて言われて、お医者はんにそう言うたら、うん、とうなずかはったんや。かなんわあ。病気がないさかいに、死なれへん。自殺もようせんしなあ」一日に何度もそんな言葉を口にする。それが年寄りというものだとわかっているつもりなのに、言われるたびにどきりとする。あまりにも記憶が欠落しているのに驚き、ふっと「昔のこと、思い出したりしゃはりますか」と聞いてみた。すると、「済んでしもたことを思て、ぐちぐち言うてもしゃあないことやし、これから先のこと考えなあかんと思てる」と答える。89歳になってなおも前向きな思いを抱けるのはいかにも姑らしいことなのだけれど、89歳からさきに人生をどう考えるというのだろう。それは「まだ死ねへん」とばかり思う日々ではないのか。大きな病気をしてみれば、今日を生きることの意味は自分が勝ち取ったものだという思いがこころのどこかにある。あのとき死んでいたかもしれないと思えば、生きている今日はそれだけでありがたかった。生きていることが当たり前になって、生きている時間の質を思うようになってみれば、この先に待っているのが、死なれへんから生きている日々なのかと思うとそれはなんともやりきれないものになってしまうのだ。ぼんやりとしている間にも時間は流れる。年が明けて五日がたった。それでも今日を生きるしかない。
2005.01.05
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