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kinuさんから新聞が届きました。神奈川新聞(1月26日付け)文化欄 「かながわの同人誌抄録 県立図書館」 つまり、こちらが図書館のひとがこちらが寄贈した同人誌の なかからピックアップして紹介してくださってるわけですね。 五つ取り上げてあるなかの一番最後にわたしの作品の名がありました。 そしてこんなふうに紹介されてました。 「雑木林(ざつぼくりん)」は ある町の古書店「雑木林」が舞台。 絹子は日常のそこここにひっそりと生きている 「なにかしらひとならぬもの」たちを確かに感じている。 その絹子が本好きの時生と共に通う 「雑木林」の野趣溢れる庭もまた 「ひとならぬもの」が息づく不思議漂う空間だ。 店主のカンさんも、飄然として不思議を纏う。 ある夏の日、双子を身籠っている絹子は 時生と連れ立って店を訪れる。 縁側でしばしの時を過ごす三人の前には、 この店のいつもの庭がある。 庭に溢れる豊かな生命を感じながら 「美しいふたつの魂」の誕生を心待ちにする三人に語らい。 夏の終りのゆるやかな時。 それらは読者をゆったりとした心持ちに誘う。」 とても好意的な紹介をしていただいてうれしいことでした。
2007.01.29
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他のところで書いたものだけど・・・≪サウイウモノニ ワタシハナリタイ≫ 誰かと話すとき お互いが引いた線を乗り越えない 心地よきひとでありたい。 ジョークはべらぼうにおもしろくありたい。 毒舌もかなりのものでいい。 わがままでいいかげんでもあっていい。 それでも、ここから先はいけない! というラインを察するひとでありたい。 常識ではない大人の礼儀のようなもの。 相手をみながら伸び縮みするもの。 物差しでは計れない暗黙のお約束。 年を重ねるとだんだん難しくなることがある。 自分が正しいと思い込む危険がある。 生きた時間が狭める視野もある。 押し付けない。 決め付けない。 あなたはあなた、 わたしはわたし けっして相手を裁かない。 それがあなたの考えなのね、 といちおう頷く。 間違っていると思うところは、 ふっと知らん顔をしてみせる。 その絶妙な距離感をもった そういうおとなに わたしはなりたいのだけれど・・・。
2007.01.28
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もしも神奈川新聞をお読みのかたがおられましたら本日朝刊の同人誌評ってところをお読みくだされませ。なんだかよくわかりませんがわたしの作品「雑木林」が褒められているそうです。うちは朝日なのでようわからんですがkinuさんがそう言ってました。
2007.01.26
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今、出光美術館では「書のデサイン」という展示をしている。キュレーターのかたが書かれているのだろうと思うが各コーナーの案内文展示品に添えられた言葉がこういう場所ではお目にかかったことがないほど生き生きとしていてなんていい文章なのだろうとうれしくなる。あんまりうれしいので少し書き写してきた。たとえばこんな感じなのだ。「柔かなそして麗しい筆致の線が連なる美しさ同じ表情をくり返しならべていく構成の楽しさそして細かにリズムを刻むあるいは流れて装飾的かつ華麗にダンスする筆の線」森田安次氏の書いた「風の又三郎」にはこんなことばが・・・「地をふみならすように同じ音を小刻みに繰り返しています。(この作品には)音の響きが感じられます。それは轟音をたてながら遠くからやってくる風の音でしょうか。三日月形にしなる全体の構成がその印象を深めています」青木香流さんの「ゆき」にはこんな・・・「・・・はサイレンス。まさに雪の降りしきる様子を「し」と「ん」の連続で表しています。文字が落ちてくる空間のなかにふと目をやるとひとひらの雪をみるかのような幻想空間それでも「しんしんしん」と雪は止まず断続的に空から舞い降りる様子でまるで雪のなかに自分が立っているような気分を味わうことができます」徳野大空氏の「草原」にはこんな・・・「小さい字でかかれているのはすべてソウ(フェンシングの剣を逆さに突っ立てのがふたつならんでいるような字)の字ですやさしい筆致でちいさなソウを埋め尽くした空間は萌える緑の草原です。余白を斜めにつくり、丘のように構成することでそこに風まで感じられる景色にしています」前に風神雷神の展示のときもそう感じた。きっとそのときとおなじひとなのだろうなと想像してますますうれしくなったりする。どんなひとが書いているのかなあ。年齢も性別も風貌もわからないのだけれど「整然とならべられた6文字(南無阿弥陀仏)をじっと見ているうちになんだか妙な気持ちになってきませんか」なんて書いてあるとすごく近いひとのように感じてしまう。血が通い感性があふれる説明文。こんな文章に導かれたら、ものすごく小難しい世界がふっと身近にきてくれるような気がしてくる。
2007.01.25
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幸田文さんが「季節のかたみ」で「自分は止まりが悪いたちであり、一つおぼえ的である」と書いている。レベル設定の高いひとの言葉をわが身にひきつけてそのままうのみにはできなのだけれど「とまりが悪いたち」という言い方はだんだんおつむ事情がよろしくなくなってきている身にはどこかあたたかく響く。なるほどものごとは向こうからやってきて縁があって自分とかかわってそして自分のなかにとまっていったりいかなかったりするものかもしれん、と考えると自分のなかにとまっていかなかったものにはそれなりの理由があるのであってそれはたぶん縁のないものだったのだと思えなくもない。ナマケモノの弁解じみてるような気もするが・・・。
2007.01.24
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東京キルトフェスティバルへいった。東京ドームである。もうこの混雑もなじみのものになった。今年はお目当てがあった。ヘキサゴンさんの作品に会いにいったのだ。会って、また度肝を抜かれた。17万を越える5ミリほどの六角形に布が籠の編み目にデザインされて点描画のように色が配置されて縫い合わされているのだ。それがひとの手で為されたということに慄然とする。「ずげえ」と唸る。残念ながら撮影禁止なのでご紹介はできないがNHKの番組でも取り上げられ、出演したひとがみな感嘆の声をあげていた。ドームの客席でその画像を見ながらわたしはわがことのように誇らしくなってしまってそんな自分に苦笑したりしていた。実際その作品の前に立っていると来るひと来るひとが、まず驚き目を点にする。案内でピース数が17万枚を越えると知ってため息をつく。なかには「ああ、知ってる、このひとすごいのよ。前にもみたわ」というひともいる。「いったいどんなひとなのかしら?会ってみたいわ」というひともいた。そこでわたしはちょっと自慢げに「北海道のかたなんです」と話し始める。お会いしたときの気取らない印象や北海道の雪の風景のことなど思いつくままに話すとどのひとも「あらー、そうなのー」と聞き入るのだった。なんだかヘキサゴンさんの広報係みたいなことを勝手にやってしまって申し訳なかったとも思うのだけれどどのひともそのひととなりに深い関心を抱いているのがよくわかってなんだかうれしくなってしまって調子に乗ってしまったのだった。ヘキサゴンさんの作品のみならず会場のすべてを見回してひとはりひとはりの積み重ねが生み出すあたたかな結晶に頭を垂れて家路についた。
2007.01.21
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京浜急行の普通に乗っていた。前に座った男性はジーンズをはいた足のあいだに大きなカバンを置いていた。男性は電車が止まるたびに白髪交じりの頭をめぐらして駅名を確かめ手元に目を落とす。この線の各駅停車は小刻みに止まる。そのたびに男性は同じことを繰り返す。その視線が落ちた先にあるのは昭文社の東京23区の地図だった。でか字マップというタイトルがついたそれは新書版の大きさで1センチの厚みがある。わたしも同じものを持っている。エリアごとに番号が打ってあって探しやすく、東京のどこにも土地勘のない地方出身者にはありがたい。そして老眼の身にはその字の大きさもありがたい。男性の手のなかの地図は古びていた。表紙の角はすれて色あせ手垢がついているように見えた。ページのあいだに黄ばんだプリントが何枚も挟まれていて分厚くふくらんでいる。平日の午前中にくだけた格好の痩せた男性が電車のなかで使い古した東京23区の地図を見ている。少し伸びた髪、ヒゲもはやしている。遠い日には反体制なんて言葉を口にしたようなにおいがする。地図はこのひとの人生の相棒だったのかもしれないと思う。いつの日も身のそばにあったものかもしれない、と。地図は見知らぬ土地を案内してくれる。古びた地図はこのひとを23区内のどれだけの場所に案内したのだろう。何丁目何番地まで記入されたこの地図に助けられてこのひとはどんな場所に足を運びそして去っていったのだろう。今日もまた新しい場所へ向う。耳慣れない駅名を地図で確かめながら目的地へむかう。海沿いの駅で降りたそのひとは重そうなカバンを肩にかけて真っ直ぐ前を向いて歩いていった。右手には地図があった。
2007.01.17
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知り合いの年賀状に右目の視力を失ったとあった。なにごとが起こったのかと連絡を取ってみると眼底出血をして、その場所が運悪く視界のど真ん中で今はひかりとぼんやりとした輪郭しかわからないのだという。原因は高血圧、睡眠不足、強いストレスで彼女の眼底出血というのは脳溢血が目のなかで起こったようなものなのだという。今はもう片方の目が見えるので生活はそれなりに出来るがこの先こちらの目まで失ったらどうしようという不安がいつもあるらしい。「不眠がひどくて睡眠薬をもらってたんだけどそれが効かなくなっててあまり強い睡眠薬を飲み続けるとぼけるっていうんだけど目が見えなくなるのとぼけだったらぼけのほうがマシだと思って、強いのを飲んでます」究極の選択のように聞こえてくる。「ああ、そうだったんですか。つらいことを聴いてしまって、お気に障ったらごめんさいね」「あなたも本読んだりパソコンに向かったりするから目は大切にしたほうがいいですよ。そう思ってあんなふうに書いたんです」どちらかというと物事を選び取ることにためらいを持つタイプのこのひとのことばがいつになくきっぱりとしていた。「なんか感じが変わられましたね」「そうかもしれません。人間明日はなにが起こるかわからないってことを今回ばかりは実感しましたから」失うことはつらい。ほかのだれでもない、わが身だけが知るせつなさを生き続ける限り、なんとか飼いならしていかねばならない。わたしも経験したことだがあたりまえに身に備わっていた機能を失うことはその身になってみなければわからない。そんなふうにたいせつなものを失った人間はいままでとは違う場所に立っている自分に気づく。その境界線にたった人間だけが見る風景はこころのありようを変えていく。大切なものの順番も変わっていく。「いままでいろいろ考え込んだりしてましたけどこうなってみると、もうそんなのどうだっていいような気がしてます」もうどう思われてもいいから自分のことを大切にするのだとも言った。ああ、あのひとも変わったなあと思っていたら王さんがテレビのインタビューで同じことを言っていた。もうどう思われてもいいから言いたいことを言うのだ、と。失うことがクリアにしてくれるものもある。
2007.01.12
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昨年十二月三十日のこと、十二月のはじめに亡くなった叔父の霊前にお線香をあげようと長岡京市に向った。堀川今出川から四条河原町まで、タクシーの窓の外には暮れの風景が広がる。買出しに出かけるひと、もはや大きな荷物を抱えているひとも多い。高島屋に入っている鳩居堂でお線香を買って阪急ののりばへ急ぐ。行き先は「長岡天神」。急行の車掌にこれでいくのか、と確かめる。車掌はこれでもいけるが、特急のほうが早いと答える。阪急の特急。二人がけのシートが並ぶ。もう30年も昔のことだが、この阪急の特急車両で痴漢にあったことがある。女子大生のわたしは大いに困ったことだった。そのときは長岡天神には止まらなかった記憶がある。逃げるように席を立ったわたしは十三につくまでの長い時間ずっと外の景色を眺めていた。始発なので空いた車内だが、無意識に出口近くに腰掛ける。今は女性専用車両もあるらしい。つまりいまでもそういうことがなくなってはいないということなのだろう。地下を走っていた電車が日差しをあびるようになるとだんだん風景がのどかになっていくのがわかる。自分の思いも少しずつほどけていくような気がしてくる。長岡天神で降りてまたタクシーに乗る。叔父の家まではバスがない。こちらが行くことを連絡していないので、タクシーで乗りつけ待っていてもらうことにする。見覚えのある門のインターホーンに名前を告げると叔母の声が震える。「きてくれたんかいな」門から玄関までの敷石を踏む。左手に庭が広がる。前に来たときは叔父が庭仕事をしていた。柘植の木を植え替えるのだと言っていた。引き戸を開けると従兄弟のお嫁さんが出てきた。20数年前にあったきりなので向こうは覚えていないようだ。しかしこちらはわかる。べっぴんさんの面影は健在だ。こちらが名乗ると、「ああー」と思い出してくれた。奥の座敷に、たくさんのお供えに囲まれた叔父のお骨と写真があった。ちょっと斜めからこちらを振り返ったような写真だった。「どないしんや?」と問いかけてきそうな顔つき。ゲートボールで日焼けした肌がつややかだ。「元気やったんやけどなあ~」一カ月入院して、逝ったのだという。その最期が潔い。死にたいと言い募っても死ねない老人も多い。戒名に空と光が入っていた。叔父にふさわしいものだと感じた。線香をあげ、焼香をした。線香の煙は真っ直ぐ立ち上っていった。手を合わせて南無阿弥陀仏と唱えた。こころのなかで、「ありがとう」を繰り返した。わたしはこの家では特別にしてもらっていた。ほんとうにありがとう。「おおきにおおきに。ようきてくれたなあ。おっちゃん、よろこんだはるわ」叔母の声がまた震える。こちらの目もうるんでくる。叔母の肩を撫でながら「おばちゃんは達者でいてな」というと今度は叔母の目がうるんだ。「生まれ変わりみたいにひ孫が生まれてなあ。おんなのこやねんけど、これがまたかいらし子やねん」そういうと潤んだ目が和んでいく。いのちは未来に繋がっていく。お嫁さんがお茶を出して、なにかしらはなしかけてくる。受け答えしながら、荷物に手を伸ばす。「タクシーを待たしてますし、これで失礼します。おばちゃんのこと、おねがいします」と言いながら玄関にむかった。「なんや、もう帰るのんかいな」と叔母が言う。「また来るし」とその手を握って玄関を出た。敷石を踏むと涙がこぼれた。叔父ちゃん、死なはった、死んでしまわはったそんなことばが胸をよぎった。「お待たせしました。長岡天神までオネガイします」鼻をすすりながらそう告げた。ドライバーは丁寧に「かしこまいりました」と答え、車は来た道を戻る。錦水亭の庭が見え、やがて駅前に着いた。そして阪急とバスに乗り換えて姑のいる家に向った。お正月が来るのだった。
2007.01.04
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