Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月28日
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カテゴリ: 絶対存在論
ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-12
真理と学問
Ⅴ:認識と現実-1
 これまでのところをまずまとめておくと、いわゆる概念と理念と呼ばれるものは、我々が与えたところの所与であると同時に、我々が与えたわけではない所与を超えたものでもある。そして、それ以外の認識活動の本質をも規定する可能性が、そのことによって提示されている。我々は一つの要請によって所与の世界像から或る部分を選り分けた。なぜなら、まさにそのような性質を持つこの部分から出発することは、認識の本質に存するからである。つまり、この選り分けは、認識を理解できるようにするためにのみ為されたのである。しかし、それと共に我々は、我々が世界像の統一体を人為的に引き裂いたことについても同時にはっきり理解していなければならない。我々によって所与から切り離された一部分は、我々の要請を度外視し、我々の要請の外部で、世界内容と必然的な関連があるということを、我々は理解しなければならない。これによって認識論の次の一歩が与えられる。この次の一歩は、認識を可能にするために引き裂かれた統一体を、再び作り上げることのうちに存するだろう。この再び作り上げることは、与えられた世界についての思考において行われる。思考による世界考察において、世界内容の二つの部分の統一が実際に行われる。即ち、我々が、我々の体験の地平上で所与として眺望するものと、これもまた所与になるべく、認識行為において産出されなければならないものとの二つの部分である。認識行為はこの両方の要素の綜合である。しかも、二つの要素の一方は、個々の全ての認識行為において、認識行為そのものにおいて産出されたもの、認識行為によって単なる所与に付け加えられるものとして現れる。それ以外にいつも産出されているものは、ただ認識論そのものの始まりにおいてのみ、所与として現れる。しかし、所与の世界を概念と理念とによって滲透させるということは、事物を思考によって考察するということである。それ故に思考は、実際に認識が媒介される営みである。思考が自ずから世界像の内容を秩序付けるときにのみ、認識は成立しうる。思考そのものは、認識する瞬間において固有の内容を生み出す営みである。つまり、認識された内容が思考からのみ流れ出る限りにおいて、その内容は認識にとって困難なことを提供していない。この場合、我々は事物をただ観察しさえすればよい。そうして我々が事物に直接与えたものが、その事物の本質なのである。思考を記述することは、同時にまた思考の学でもある。実際に、論理学も決して思考形式の記述以外の何ものでもなかったし、決して証明する学ではなかった。証明は、その他の世界内容と思考されたことの綜合が行われるときに、初めて生じる。それ故、ギデオン・シュピッカーは、彼の著作「レッシングの世界観の中で、正しくも次のように述べている。「思考がそれ自体正しいということを、我々は決して、経験的にも論理的にも知りえない」(p.5)。我々は次のように補足することができる。思考の場合には、全ての証明がなされなくなると。というのも、証明は既に思考を前提とするからである。我々はただ、証明とは何であるかを記述することしかできない。論理学においては、全ての理論は単なる経験である。この学問においては、ただ観察があるのみである。しかし我々は、我々の思考の外に何ものかを認識したいときには、ただ思考の助けを借りてのみそうすることができる。つまり、思考は所与に達しなければならないし、所与を世界像との混沌とした結びつきから体系的な結びつきへともたらさなければならない。つまり、思考は形作る原理として所与の世界内容に達するのである。そのプロセスは以下の通りである。まず一定の個々のものが思考によって世界全体の全体性から際立たせられる。というのも、所与においては個々のものはそもそもなく、全てのものが連続的に結び付いているからである。この選り分けられた個々のものを、今度は思考が、思考によって生産された形式に準じて、互いに関連付け、最後に、この関連から生ずるものを規定する。思考は世界内容の切り分けられた二つの部分の間の或る関連をつくることによっては、自ずからこの二つの部分について全く何も規定しなかった。思考は、関連の制作の結果として自ずと生じるものの到来を待つ。この結果がやっと、世界内容の当該の諸部分についての認識なのである。こうした関連の形では、そもそもそれ自身については何も示されないということが、世界内容の本性の中にあらねばならないだろう。そうであるならば、まさに思考の試みが失敗し、新たな思考の試みがその代わりに現れなければならないだろう。全ての認識は、人間が現実の二つ或いはそれ以上の要素を正しく結びつけ、ここから生ずるものを捉えることに基づいている。
記:ギデオン・シュピッカー(Gideon_Spicker)
宗教哲学者であるドイツのギデオン・シュピッカー(1840年-1912年)は「宗教に、哲学的形式をもって自然科学的な基礎を与える」ことに心血を注ぎ、信仰と知識あるいは宗教と自然科学の葛藤を、自らの人生と思考の根本問題であるとみなした。かれは「最も高貴な自己認識」という意味において人智学の要綱を以下のように表現した。科学においての問題は事物の認識である、一方哲学においての問題はこの認識に関する認識を裁く最終的な審判である。従って人間が持つべき本来の研究課題とは、人間自身に関するものである。同時にそれは哲学の研究であり、その究極の到達点は自己認識あるいは人智学である。「シャフツベリー伯爵の哲学 1872年」シュピッカーの理想は、理性と経験の適用下における自己責任に基づいた認識として、宗教の中での神と世界の統一を包括するものであった。
参照画:Gideon_Spicker




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最終更新日  2024年02月28日 06時55分39秒
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