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「話し込んでいて特急に乗り換える駅を通り過ぎてしまったな、まあいいか、このままもう少し行こう」と彼は言って旨そうにウイスキーを飲んだ。「それからどうなったの?」とプー子が尋ねた。「え?何処まで話したかな?」と彼はプー子の顔を見た。「鈍感になったと言う所までよ」「そうそう!そのうち私はちょっとした部隊を指揮する立場になって、いつの間にか自分の任務を速やかに滞りなく行う事に全神経を注ぐようになり、人の生き死にや感情よりも日本国が勝利することこそが最も大事な事と思うようになって行った。日本帝国軍人であることに誇りさえ持つようになっていたよ。人間と言うのは自分の置かれた環境に順応してしまう性質があるんだ、これはどんな人間でもそうだと思う。全く恐ろしい事だ。私は一回の作戦で消費する兵隊の数を紙の上で計算するんだ。大体の殺されるであろう人の数を想定した上で任務に付かす訳だ。初めからおとりとしてやる事もある。いよいよ戦況が悪化して日本が空しい抵抗を続けていたコロ、上からの命令で多くの捕虜を処刑して、私もそれに立会い自ら手を下した事だってある。大きな穴を掘りその際に捕虜を座らせ、後ろから首を刎ねる。何の感情もない、日々の流れ作業だ。敵は最後に総攻撃を掛けて来て我々は壊滅したが、私は片足を無くしたもののまた生き残った。愚かな事に自分が死ぬ事よりも日本国が敗戦したことが悲しくすぐには受け入れられなかった。日本人は忠義の精神がとても強く自分以外の者に命を捧げて働くのが大好きなんだ。上の者は皆丘の上で自害したが、私はそれも出来ずぼーっと日本に復員した。母は泣き崩れて喜んでくれた。戦争が終われば大手を振って大声で喜ぶ事が出来たんだ。でも私は作動している途中にコンセントを抜かれた機械みたいに何を生きがいにしていいか、誰に忠義を尽くして生きればいいか分からず、血と火薬と死体を焼く時の匂、首を刎ねる時の手に伝わる感覚などだけが鮮明に残っていて、日々それが自分の中で大きく強調されて行って、私は普通に生活出来ないほどになっていた。5年間ぐらいそんな状態が続いたような気がする。悪夢から覚めて再び人間に戻るために必要な時間だったのだろうね。それから私は中学校の社会科の教師をやった。 つづく
2005.11.28
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初めての戦闘を経験した時、あー!その時初めて戦争という物が解かったよ。岩陰に腹ばいになってもう闇雲に銃を撃ち続けた。倫理とか差別とか道徳なんて考えている余裕はない。とにかく殺すか殺されるかだ!頭の上を弾丸が雨のように飛び交い、そんな中で生きて帰るなど不可能で、気がおかしくなって奇声を上げて飛び交う弾の中に踊り出て行く者もいるし、「ばんざい!」と叫びながら銃を打ち続ける者もいる。私は横の戦友と「諦めるな!」と励ましあいながら銃を打ち続けていたが、「キュン」と言う音がして気が付くと隣でもう彼は死んでいた。私がいた部隊はほとんど壊滅し、奇跡的に私は生き残った。生き残った者で其々の死体から遺留品を取り出してから、後はタンカーで大きく掘った穴に集めて焼いた。そんな経験の中で私の人間の死への意識はとても鈍感になっていった。」そこで彼は突然黙り込んだ。僕たちの興味の無い事をべらべら一人でしゃべり過ぎたと思ったようだった。でも僕たちは身じろぎもせず彼の話に聞き入っていて、プー子もじっと彼の横顔を見つめていた。「いやー、べらべらとしゃべりすぎたな、戦争時代の話ばかりするじいさんには君たちもうんざりだろう!ハハハ」と笑った。柴田がバッグからウイスキーの小瓶を出して来て「少しやりますか?」と言い、「ああ、いいね」と彼も答えた。我々はさっき買ったお茶の容器の蓋にそれを注ぎ、プー子にはウイスキーの蓋に少し注いで皆で乾杯した。プー子はちょっと口にして咳き込んでから「不味い!」と顔を顰めた。 つづく
2005.11.27
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「私の所にも戦争への招待状と言うやつが来て、私も親も内心悲愴だった。それでもお互いにそれがこの上ない名誉な事だと思い込もうとして出兵の日まで死を受け入れる準備をしようとしたが、到底無理だった。その時私は22か23ぐらいでお国のために死んで参りますというような顔をしながらも心の何処かで生き延びて帰って来てやると思っていた。いざ出兵の日近所の人たちも手に日の丸を持って家の前に集まって見送ってくれた。母親はなんとも言えない顔をして立っていたよ。でもその時の私には戦争に行くと言うことがどういうことか全く分かっていなかったんだね。まず兵学校と言う所は恐ろしいいじめが公然と行われていて、たてつけば容赦なく半殺しの目に有った。そんな中で身の縮まるような思いをして毎日を過ごしていたが、そんな苦労が別に未来を切り開く訳でもない、どうして僕はこんな人生を送らなくてはならないのか!そんな空しい思いの毎日だった。実際の兵隊としてフィリピンの軍隊に配属された時には私は大学を出ているという事だけで一等兵だった。一等兵と二等兵ではまったく扱いが違っていて、辛くきつい仕事は全部若い二等兵の子らがやらされた。戦闘の際に向けて長い長い溝を掘り、いざと言う時はその中を敵に見つからないように進んで行くんだが、その穴掘りがとてもきつい作業で皆疲労困憊していたが、それが毎日続くんだ。夜は其々が一人分だけが入れる蛸壺と呼ばれている穴を掘り、その中で眠るのだが、私たちの分もやはり疲れ果てた二等兵が掘らされた。そして実際戦闘になれば、その子たちが一番前の矢面に行かされ、人間の楯のように扱われ、無残にまるで消費物のように殺されて行く。最初私もそんなひどい差別に大変な憤を感じていたが、人間とは恐ろしい物でそう言った事にも少しずつ慣れてきてしまうんだよ。 つづく
2005.11.26
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「戦地で無くしたんだ」と彼は答えた。「触ってみてもいい?」とプー子が尋ね、「いいよ」と彼は答えた。プー子はズボンの上からくまなく義足を触り検分し、足が途切れている所まで調べた。彼は不快そうでもなく、嬉しくもなさそうだった。「フィリピンで敵と激しい戦闘になって、私の前で戦友が撃たれその弾が彼の体を突き抜け私の足に当たった。そして私の足の中で弾は粉々になったんだ。足を切断するしかないと言われたよ。私はいやだと言って泣いた。今の医学ならこの足も助かったかもしれないが、でもそこは戦地で充分な設備もない所だ、切断しなければ腐って来ると言われそうするしかなかった。足が無くなった後も無いはずの足が痛むんだ。足が無いことで戦争が終わってからも随分多くの事を諦めなくてはならなかったよ。「戦争に行かなくちゃならないってどんな気持ちなの?」とプー子が尋ね、少し黙った後、ハー!と彼はため息をついた。 つづく
2005.11.25
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僕たちは驚いてその場に立ち上がったまま呆然と見ていたが一向におじいさんは起き上がって来ないし、周りの人も誰も助けようとしなかった。僕と柴田は駈け寄って両脇から抱え起こして「大丈夫ですか?歩けますか?」と尋ねて、我々の四人席まで連れて来てプー子の隣に座らせた。彼は70代半ばぐらいに見え肩幅も広くがっちりした体格で、その年代にしては背も高かく、右足が付け根からなく義足をつけていて歩くとそれがガチャガチャと音を立てた。「ドアが開いて乗り込もうと思ったら躓いて倒れたんだ。この年で義足だとよくやる、義足の方の足が上がり切らないんだよ」と痛そうに顔を顰めて言った。会話が途切れたので「何処まで行かれるんですか?」と僕が尋ねると、「岡山に娘夫婦がいて、孫に会いに来いと呼んでもらったんだ。いやー楽しみでね!」と言ってハハハと笑ったが口角は上がらず目つきはとても鋭いままだった。彼の顔は鰓が張って、目つきは厳しく口元は硬く結び、常に顎を少し引いていた。その顔は僕に写真で見た西郷隆盛や坂本竜馬の顔を思い起こさせた。「君たちは何処へ行くんだ?」と彼が尋ねた。「柴田はメキシコから、僕はドイツから其々関西の家に帰る所だ」と説明したが、プー子は何も言わなかった。彼は何も言わないプー子に対しては何も尋ねなかった。「君はドイツに何をしに行ってたの?」と尋ねられ、「声楽の勉強に」と答えると「ほー!声楽か!珍しいなー」と言って膝を叩いた。僕の身の上を聞いたことのない柴田とプー子は僕の顔を見た。「声楽って何?」と柴田が尋ねた。普通は声楽と言われても何の事か分からないが、このおじいさんはとても詳しかった。おじいさんが全部説明してくれた。その話題の後プー子が突然「足、どうしてないの?」ときちんとおじいさんの顔を見て尋ねた。僕と柴田は顔を見合わせた。おいおい!もう少し尋ね方があるだろう! つづく
2005.11.23
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しばらく三人で黙り込んでいたが、そのうち彼女は眠ってしまった。とてもあどけない寝顔だったので、本当は彼女がいくつなのか分からなくなって来た。短いスカートがどうしようもなく気になるので、僕は自分の長いコートを彼女の肩口から掛けてやった。それで僕たちも落ち着いて眠った。がやがやした音で目が覚めると外はもう明るく、人々が乗り込んで来ていた。座ったままで長い時間眠ったので首や腰が痛く、僕は立ち上がって伸びをした。後の二人も目を覚まし、皆で持っていたクッキーを食べて朝ご飯代わりにした。彼女は座席の上に横座りして、僕のコートを首までかぶっていたので、「寒いの?」と尋ねると首を縦に振った。「バッグに上着とかズボンとか持って来てないの?」と柴田が尋ねると、横に首を振った。少し大きな駅に何分か停車した時、柴田が走って昼に食べる駅弁と温かいお茶を買って来てくれた。彼女はそのお茶を飲み温もったようで、そのうち陽も高くなりぽかぽかと暖かくなって来た。昼になり、弁当を食べた。うまい釜飯だった。「僕たちとあまり話したくないのは分かるけど、そろそろ名前ぐらい教えてよ!」と柴田が言うと、「親がつけた名前だと思うだけで自分の名前が大嫌いなの!」と彼女は今までに聞いた事のないぐらい長い文章をしゃべった。「じゃー僕たちで勝手に付けちゃうか!」と僕が言うと、「プー子」と柴田が言った。僕とプー子は思わず吹き出した。その時ドスンと言う大きな音がして、驚いてそちらを見ると一人のおじいさんが床に倒れていた。 つづく
2005.11.22
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それからしばらく僕たちは柴田のメキシコでの体験談を聞いたり、日本人の悪い癖について話して笑い合っていたが、突然彼女は僕たちの四人席の方に来て向かいに座り、「ねえチョコレートどこよ?」と言った。柴田は荷物からチョコレートの箱を出して彼女に手渡して、「これはメキシコのだよ!」と言ったが、彼女はそれを食べても何も感想は言わなかった。そしてまた窓の外に目をやって黙りこんだ。それでもずっと男二人で旅をして来て、彼女が僕たちの前に座ってくれただけでとても華やかで癒やされたような気分がした。「ねえ何処まで行くの?」と僕は尋ねてみた。少し間があってから窓の外を見たまま「宝塚のお姉さんの所」とぶっきらぼうに彼女は答えた。「宝塚!兵庫県の?偶然だなあ、僕たちもそれぞれ京都と神戸まで帰るんだ!」と興奮して言ったが、彼女は黙ったまま相変わらず真っ暗な窓の外を眺めていた。僕たちはそれ以上質問するのをやめたが、想像するにおそらく彼女は家出して来たのだろう。そして一人暮らしするお姉さんを頼って関西まで旅するのだが、お金がないので各駅停車の旅なのだろう。各駅停車で旅する者には其々の深い理由がある。「さー次の駅で乗り換えるぞ!」と柴田が言って電車が止まると荷物を持って降り、彼女と僕もそれについて降りた。そこはなんと言う駅で何県かさっぱり分からなかったが、しばらく待つと別の電車が来てそれに乗り込んでまた四人席に向かい合って座った。 つづく
2005.11.21
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150円の切符を買って下関方面行きの各駅停車に乗り込んで、「駅員が来たら、僕たちは気楽な旅をしていて、気ままに降りた駅で清算するつもりですと言うんですよ!」と柴田は言って、小さい声で練習までした。僕はなんだか気が気ではなかったが、下関まで駅員は現れなかった。そこで別の各駅停車に乗り換えて東へと進んだ。柴田は分厚い時刻表をとても手際良くページをあれこれと繰っていろんな電車を調べていた。「さすが旅慣れているなー」と僕は感心してそれを見ていた。そこに一人の若い女の子が乗り込んで来て、通路を挟んだ隣の四人席に座った。僕は最初気にも留めなかったが、そのうちなんだか少し気になり出した。彼女はどう見ても高校生ぐらい、スポーツバッグ一つにいやに短いスカート、時間は夜の12時過ぎ、おまけに窓の外を見ながらしくしく泣いているようだった。柴田も気になるのか、ちらちらそちらを見ていたが「ねーチョコレートあるけど食べない?」と明るい大きな声で呼びかけた。なんと勇気のある行動!彼女はちらりとこちらを見たが、無視してまた窓の外に目をやった。車内はほとんど誰も乗っていず閑散としていてがらんとした車内にガタンゴトンという音がとても大きく響いていた。 つづく
2005.11.20
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我々は宿泊できるサウナに行き、ゆっくり風呂に入った後そのままガウン一枚で入れるレストランに行き、とにかく手当たりしだいに注文した。できるだけ日本でしか食べられない物ばかりで、「お好み焼き・うどん・あげだし豆腐・から揚げ・その他」。宿泊代と食事代で持ち金はほとんど使い果たして、後小銭が少ししか残っていなかった。次の日は朝から福岡はとても良い天気で、僕たちは喫茶店でモーニングを食べてからとても清々しい気持ちで銀行へ向かった。ロビーで「ちょっくらお金を降ろして来ますからここで待っていて下さい」とニコニコして言って彼はカウンターの方へ行き、僕はソファーに座って待っていた。しばらくすると彼は戻って来て「えらい事になった!」と言った。彼の顔からは笑顔は消えていた。「どうした」と尋ねると、「このビザカードは国内では使えないと言われた!」と言って力なくソファーに座った。さーどうする、今我々は本当の一文無しなのだ。しばらくの沈黙の後、「警察に行って金を借りるか!」と僕が言うと、「いや!キセルで帰ろう!」と彼は小声で言った。キセル? 僕はキセルと言う意味がよく分からなかったが、彼について四月の爽やかな朝の日差しの中を駅に向かった。 つづく
2005.11.19
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福岡空港に着いたのはもう夜遅い時間で、それからが問題だった。僕は財布の中に百マルク札が一枚、柴田は八千円、二人合わせても日本円で一万六千円ぐらいしかない。それで関西までどうやって帰るか考えてみた。まず船と思い案内所で尋ねてみると、一万九千円かかるのでだめだ。案内所の人は、「夜行バスなら行ける」と教えてくれたが、時計を見ると最終バスの時間までほんの少ししかなかった。僕たちはまた全速力で走ったがぎりぎりのところで間に合わなかった。「しょうがない、とりあえずホテルに入って事情を説明して家から速達でお金を送ってもらおう!」と柴田は提案した。ホテルを探すべく歩き出した時、柴田が「こんな時パチンコでうまく稼げたらなー!」とつぶやいてふと目を上げるとネオンも鮮やかな大きなパチンコ屋が目の前に聳え立っていた。柴田は奮闘して資本は二万円になったが、新幹線で帰るまでには届かず「今日はサウナに泊まってこの二万円で思い存分久しぶりの日本の物を食べて、明日になれば僕のビザカードでお金を降ろして、新幹線で悠々と帰りましょう!」と彼はまた提案した。 つづく
2005.11.18
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飛行場に戻り大阪行きのカウンターに行くと日本人の列が出来ていて、僕もその列に並んだ。前後から日本語しかも懐かしい関西弁が聞こえて来て、「どうしますこれ!当分チケットはないそうですよ!」と話す声が聞こえて来た。僕は驚いて前のおじさんに「チケットはないんですか?」と尋ねたら、「そうなんです、いつ出るか分からんそうですよ!」と眉をひそめて彼は言った。「僕は昨日からここに泊まっていて、これ以上ここにはいられませんよ!」と愚痴を言うと、僕の後ろから「僕もです」と言う声が聞こえて振り向くと、寝袋を抱えて無精髭を生やした男がニコニコしてこちらを覗き込んでいた。彼は僕より五つぐらい年下で、関西大学の学生だった。僕たちの番がやって来て、カウンターで二人で文句を言ってみたがどうにもならなかったので、彼が「もう少し時間を置いてもう一度来てみましょう」と言うので僕たちは喫煙コーナーに行って二人で煙草を吸いながらお互いの事を話した。彼は柴田と言う名で、一人旅が趣味で今回はメキシコにぶらりと行き、町で友達になった男の家にころがり込んで毎日マリファナをやっていて、昨日は搭乗券がないと言われ、飛行場の近くの橋の下で寝袋の中で寝たそうだ。僕は財布の中が乏しくなって来ていることもあり、今我々の置かれた情況におろおろしていたが、柴田は至って落ち着き、相変わらずニコニコしていた。3時間ぐらいたって僕たちはもう一度カウンターに行って尋ねてみたが、まだないと言われ、がっかりしてその場を離れようとしたら、「ちょっと待て、福岡行きならあるがどうする!」とカウンターの中から日本語で叫ぶ声が聞こえた。僕たちはなんでもいいから日本の土を踏みたかったので、「そのチケット二枚!」と言った。係員は「もう飛行機が出る、走れ!」と言ってチケットを僕たちに押し付けた。僕たちは飛行場内を全速力で走った。ところが持ち物検査で彼のバッグが引っ掛かった。機内のフォークとナイフを隠し持っていたのだ。そんなことで時間を取られたが、僕たちはまたダッシュしてなんとかギリギリ間に合った。乗ってしまえば40分で福岡に着いた。 つづく
2005.11.16
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蓋つきのご飯が入った食器を前にして、僕はどうしていいか分からずじっとそれを見ていた。しばらくすると、おばさんが小皿にのったおかずのようなものを5・6皿僕の前に並べた。その後から別の人が大皿のおかずとキムチスープを2・3皿運んで来た。料理の皿で机は見えなくなるぐらいだった。。僕はおばさんの顔を見上げた。おばさんはどうぞと言うようににっこり微笑んだ。僕は枝に小さな輪っかがついた金のお箸でキムチスープを飲んでみた。日本では考えられないぐらい辛かったがとても美味しかった。他の料理も食べてみたがどれも独特の香辛料の香りがしてとても辛く、磯の香りがして、とても美味しかった。僕は今でもその時の料理の味が忘れられない。それ以来世界の料理の中で、韓国料理が一番好きになった。日本ではああいった味には出会えない。日本風に少なからずアレンジされているのだ。僕は韓国の味そのままが日本人にも一番美味しいのではないかと思う。しかし韓国の人々は一人でこんなに食べるのだろうか?とてもじゃないけどこれを全部は食べきれない。ご飯だって1/4も食べられないし料理もたくさん残し、僕は席を立った。おばさんの所へ行き、あるだけの小銭を出したがおばさんはそれを押し戻して、ホテルの方を指差し何か言った。おそらく僕が想像するに、「ホテルの店主がすべて支払ったから心配するな」と言うことみたいだった。僕は頭を下げ、店を出てホテルに戻り店主に礼を言おうと思ったが彼はフロントにはいなかった。僕は部屋に戻り、眠った。次の朝フロントへ行くと、別の男が座っていて、「もうすぐ飛行場へ行くバスが来るから、入り口の前で待っていろ」とたどたどしい日本語で言った。僕は急いで荷物をまとめ、ホテルの外に立った。町並みはとても古く、日本の古い町並みとは趣の違う独特な感じだった。この辺は大都会ソウルの旧市街に位置するようであった。バスがやって来て、僕は他の何人かと共に乗り込んだ。これで飛行場に戻れると思いほっとしたが、結局店主に礼が言えないままだった。 つづく
2005.11.15
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部屋で荷物を下ろし、一息付くと自分がとても空腹であることに気が付いた。懐かしい黒電話でフロントに「何か食べる物を部屋に持って来てはくれないか?」と日本語で尋ねた。電話にはさっきの店主が出て、何か韓国語で言って電話を切ってしまった。僕はやれやれと思い諦めてベットに腰掛けたが、その時ノックがして、開けると店主が立っていた。彼はどうやら内容を尋ねているようだった。財布には飛行場で両替しておいたウォンが小銭で少しばかりしかなかったので、手のひらにそれを乗せて「これで何か食べたい」と言うジェスチャーをした。彼は僕を隣にあるレストランに連れて行ってくれた。しかしそこはレストランと言う感じではなく、ジャッキーチェーンの映画に出てきそうな物すごく古い食堂だった。床は土で、机は古い木で真っ黒だった。僕と店主はその机に向かい合って座って黙っていたが、「何処に行っていた?」と彼が英語で尋ねて来た。「ドイツ」と僕は簡単に答えた。そこに店のおばさんが注文を聞きにきたので、僕はまた小銭を見せて「これで何が食べれる?」と尋ねた。おばさんは少し考えて「プリン」と答えた。もうプリンでもいいから食べたいぐらいお腹が空いていたので僕はプリンを注文し、また彼と向かい合った。彼はにこにこしていたが、お互い話すだけの語学に乏しいので、彼は席を立ち、向こうでさっきのおばさんと少し話し、「自分はホテルに帰るので、食べたら戻ってこいよ」的な事を言って出て行った。僕は一人でしばらく座っていたが、おばさんが蓋のついた丸い金の食器のような物を僕の前にドスンと置いてまた忙しそうに何処かに行ってしまった。僕はこれは何だろうと蓋をそっと開けて見ると、中はぎっしり入った白いご飯だった。「これはどういう意味だろう、プリンはどうなったのだろう」と訳が分からないでいた。 つづく
2005.11.13
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これはえらいことだぞ!と思い立ちつくしていると、「タクシー捜してるか?」と言う声が後ろから聞こえて、僕はふり返った。50代ぐらいの男が立っていた。男はもう一度「タクシー捜してるか?」と日本語で尋ねた。「泊まる所を探している」と僕が言うと、彼は車まで僕を案内し後部座席に座らせた。彼はどうやらタクシーの運転手のようだった。車は動きだし、真っ暗闇の中をどこまでも走った。「何処に行っていた?」と彼は尋ねて来て僕は「ドイツに行っていて日本に帰るところだ」と答えた。 この男はかなり日本語ができるようだ。少し沈黙があった後、彼は「タクシー代とホテル代合わせて5000円くれ!」と言って来た。5000円と言えばウォンに換算するとかなりの額になることは分かっていたが、こんな所で降ろされても困るのでおとなしく支払った。しかしそのころにはもう30分は走っていて、なんだか僕は不安になって来た。少しすると町に入って何度か道を曲がり、車は建物の前に止まった。彼は僕をその建物に案内して入り口にある受付のような所に座っていた別の男と話金を幾らか渡した。そこは古い旅館でその男はそこの店主のようだった。タクシーの運転手はそのままいそいそと帰って行ったが、おそらく彼はほとんどの稼ぎを自分が取ったにちがいなかった。店主は僕を部屋に案内した。木造建てのかなり古い物で廊下には変なカーテンがかかっていて、部屋の中にはダブルベットとその横に大きな鏡があり、床には変わった模様が書いてあった。 つづく
2005.11.12
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やっとなんとか大阪行きのカウンターに辿り着いて、「大阪まで一枚!」と言うと、「飛行機はすべていっぱいで今度いつ空席が出るか分からない!」と日本語で言われた。僕は真っ青になった。何日もこんな所に止まるのは不可能だ、しかし取りあえず明日もう一度ここに来て尋ねるしかないようだった。僕は電話で言われたようにベンチを見つけてそこに横になって、上着をかぶった。人々は少しずついなくなり、とうとう僕一人になった。少しすると一人のガードマンらしきおじさんが近づいてきて、「ここはもう閉めますよ!外に出て下さい!」と日本語で言った。どうして皆日本語が話せるのだろう?僕は事情を話したがそれは分からないようだった。僕は追い出され、後ろで鍵の閉まる音がして、間もなく電気が消された。飛行場の外は真っ暗で周囲に町らしき物はいっさいないようだった。僕は途方に暮れた、気温はとても寒く、風の音だけが聞こえていた。 つづく
2005.11.10
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日本に帰る飛行機のチケットを申し込むため、直子さんに電話で尋ねてもらった。ところが今どれも飛行機はいっぱいで、2・3週間待たないとないということだった。「ただし大韓航空でソウルまでだったらすぐにある、そこから大阪までその場で自分で申し込め、そしてソウルで一晩過ごさねばならないので、空港内のベンチで寝ろ」と言われ、少しでも早く帰ってビザを取得したかった僕は、そのソウルまでのチケットを申し込んだが、それが大きな間違いだった。皆にすぐにもどって来るからと告げ、僕はフランクフルト空港に向かった。空港内では、自分の乗る飛行機に辿り着くまでまた一苦労だった。今度の飛行機は空いていて、横になって眠る事ができてずいぶん楽にソウルに着いた。機内ではドイツ人と僕とでスチュワーデスの態度がなんだか違うように感じたし、ソウル空港内でも皆冷たいように感じた。何処でチケットを買えばいいかさっぱり分からなかったので皆が並んでいるカウンターにぼくも並んで、順番が来て英語で「大阪までの航空券が欲しい」と言うと、「ここ銀行!」と日本語で怒鳴られた。 つづく
2005.11.08
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次の日から先生は僕がやって来た事をすべて否定し、いかに自分自身の声で歌って来なかったかを諭した上で、僕の本当の声を探すべく今までの悪い癖を取って行く訓練に入って行った。先生はレッスンが終わってから僕と直子さんを呼んで、「私に2年間の時間を下さい!あなたを本来の声種であるテノールにして見せます」と言った。その先生の情熱のこもった力強い言葉を聞いて、僕は「この先生を信じて、一つ賭けてみるか!」と思うようになってきた。僕は結局3ヶ月の観光ビザギリギリまでそこに止まり、毎日レッスンに通って、その間ケルン市内にあるワイン工場の中にある昔住み込み従業員の部屋だった所に寝泊りした。とても狭い一人部屋で天井だけが恐ろしく高く、そこに裸電球がついていた。食事は、スーパーでばかでかいソーセージやポテトサラダを買って食べたり、インビスに行って、ギュロスを食べたりして、適当にしていた。そしてあっという間に3ヶ月が過ぎ、ちゃんとした学生ビザを取るため一旦日本に帰ることになった。先生の声楽研究所は国に認可された学校なので、先生の一筆でビザを取得することができた。 つづく
2005.11.07
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「ノルウェーの森」は「蛍」「めくら柳と眠る女」と言う二つの短編小説が基となり、長編小説に膨れたものであるが、一貫して直子のことについて述べている。直子が山道を歩きながら、野井戸の事を話す場面がある。まだ彼女が小さなころにお姉さんを、高校生の時に彼を、共に自殺で無くし、それから彼女が自分の命を絶つまで、何年間かの間ずっと死の世界からの呼びかけを恐れ、引きつけられ、拒みきれずにいたそれが野井戸でありめくら柳でありビートルズのノルウェーの森などかもしれない。そして直子のそんな何年間を彼女を愛して生きた主人公が直子を無くした時、自分にとっても親友だった直子の彼にやはり彼女を連れていかれた嫉妬のような気持ちと、最後の最後に彼女を放り出して別の女性に恋してしまった自分を許せなく攻め続ける苦しみが書かれている。高校生のころ親友を無くした主人公が言った言葉がとても印象的である。「僕はそれまで生と死は対角線上にあり、生はこちら側で死はあちら側にあると思っていた。しかし親友を無くした今、僕はこう理解する。死は生の中にすでに存在する、すべての手で触れることのできる物の中に死はすでに存在しているのだ。」 つづく
2005.11.06
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はじめまして。茶木さんの代わりにこのページの管理をしている、DB(ディービー)と申します。毎日たくさんの方が閲覧されているのを見て、茶木さんはすごい人なんだなと感じています。さて、ここからが本題で11月30日金曜日にいずみホールで茶木さんを含む関西二期会の方々によるコンサートが開催されます。私自身はまったくこの世界に疎いのですが、これも何かの縁だと思い見に行かせていただこうと思っております。私もそうなのですが、初心者の方が少しでも楽しめるように、このページからチケットを申し込まれた方には、茶木さんのCDの1曲目のフルコーラス(このページで視聴できる曲)と今回のコンサートで茶木さんが歌われる楽曲の歌詞と訳詞のオリジナルカードを一緒にお送りしようと思っております。このページで初めて茶木さんを知られた方も、これを機に一度生のコンサートを体験してみてはいかがでしょうか?詳細はメールにてお知らせいたしますのでコチラからご連絡ください。
2005.11.03
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僕が村上春樹と初めて出合ったのはドイツに渡った最初の年、日本の友達がドイツでの一人暮らしは寂しかろうと、テープに小説を録音して送ってくれたのが最初だった。僕はそれまで彼の名前さえ知らなかった。1990年の事でまだMDはなく、カセットで90分テープで19本からなるものだった。「ノルウェーの森」と言う小説だった。僕はそれからずいぶん長い間その小説の世界から抜け出せないでいた。自分で本を読むということが困難なため、今までほんの少ししか小説を知らないが、本当は本を読むことが僕にとって無常の喜びであることに気付いた。彼がこの小説の中でグレイトギャピーを讃えているように、僕にとってはこの本がとても大事な物だった。この本が、当時日本で有名すぎるほど有名だと後で知って、残念な気がしたのを憶えている。この本に魅かれた理由は、彼が自分とは全く違う人間である事と、時代背景、そして「精神病」と世間では言われているものを抱えている人たちのことが書かれているところである。直子と言う人物を通して自分の心の中の闇と必死で戦う人々のことを思うことができた。「僕が捻じ曲がっていると思う連中は、皆元気に外を歩き回っているよ」と言う主人公の言葉を思い出す。
2005.11.02
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ベルントは以前ケルンの放送合唱団で歌っていて、「放送合唱団などに就職できればたっぷり給料はもらえる、きちんとした仕事である。」アオルマン先生の所にレッスンに来るようになって、先生に見込まれ、オペラ歌手になることを進められ、仕事をやめて3年間の失業保健で、大変厳しいオペラ歌手への道を歩んでいた。その時点で彼は40歳、家族もあった。それはアオルマン先生とベルント、それぞれの人生をかけた厳しい夢だった。そんな2人の直向な姿勢に僕は心打たれた。そのちょうど一週間目のレッスンで先生はタオルを長くしたような物を持って来て、僕の顎の下から頭に巻き、頭の上できつく縛った。僕は全く口が開けられない状態だった。そのまま何曲か歌わされ、その日のレッスンの終わりに先生は確信したように「お前はバリトンじゃない、テノールだ!」と言った。僕は耳を疑った。とてもじゃないけどそんなことは信じられなかった。僕はバリトンとして10年間もやってきている訳で、高い音だって全然出ないし、そんな事を僕に言った人は誰もいなかった。「バリトンからテノールに声種変更すると言うのは、例えて言うならパン職人が寿司職人に変わるぐらい難しい。」でも先生は次の日からなぜ僕がテノールであるかと言うことを説明しだした。 つづく
2005.11.01
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