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その日のグループレッスンにもまた前日とは違うメンバーが集まり、レッスンが始まった。朝11時から1時、昼3時から6時までそのグループレッスンは行われ、結局僕は一週間べったりそこにいた。最初少し戸惑った。毎日皆の前で歌いレッスンを受ける訳で、毎日小さな演奏会で歌っているような気分だった。でも慣れてくるとそれがいろんな意味でとても良い訓練になったし、皆がレッスンを受けるのも聞く訳で、すでに舞台に立っている歌い手もいれば、歌を始めたばかりの初心者もいて、どちらもとても興味深いものだった。先生はあえていろんなレベルの人たちをごちゃ混ぜにしていた。たしかに初心者が先生によってどんどん変わって行くのを聞いているのはとても勉強になるものだった。500年前のイタリアでも声楽教師たちはこういった形を取っていたらしい。大事な所は直子さんが訳してくれたが、先生の言っていることが全部分かればもっとおもしろかったと思う。その日のレッスンで顔を合わすのは3回目ぐらいだったが、一人のテノールと一緒だった。彼の名前は「ベルント」当時で42歳ぐらい、先生の所に住み込みで訓練を受けていた。すばらしいテノールだった!やはりなかなか日本人には出せないような音色を持つ力強いドラマティックなテノールだ。彼がいなかったら、そこに止まることを決意しなかったかもしれない。 つづく
2005.10.30
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次の日も、朝から直子さんの車で先生の所へ行った。先生の名前は「ギゼラ・アオルマン」、若い時からずっとハンノーファーとハンブルグの歌劇場のヴォイストレーナーとして、スタジオを構えて指導にあたってこられた。しかしそこでは舞台で歌っている人たちをトレーニングするわけで、自分の手で一から優れた歌い手を育てたいと言う思いから、国から認可された声楽研究所を開かれた。こういった物はアメリカには既に多かったが、ヨーロッパには当時まだ少なかった。そして、ミラノスカラ座やベルリン歌劇場などを初めとしてヨーロッパ各地の歌劇場に歌い手を育て送り込んでいた。2日目のグループレッスンも先生は僕にほとんど何も言わず考え込んでいて、ただただ僕はいろんな曲を歌った。そして帰りには「明日また来なさいね」と言った。そんな日が一週間ほど続いて、僕はいいかげん腹も立って来た。僕は音楽大学を受ける準備もしたかったし、自分に合った先生も探さなくてはならなかった。それにアオルマン先生が何を考えているのか僕にはさっぱり分からなかった。 つづく
2005.10.29
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レッスンが始まると、一人ずつ前に出て歌いそれを皆の前で先生がレッスンした。先生は皆にいろんなことを説明し、皆もそれぞれに質問をして、ディスカッションが始まった。とにかく皆よくしゃべった。僕は直子さんの横に座ってそれを見学していたが、先生はこちらをちらちら気にしていた。「そこの日本人は誰?」と先生はとうとう尋ねた。「旅行者です」と直子さんが答えた。「歌い手でしょ?それなら一曲歌ってみて!」と先生はニコニコして言った。僕は皆の前に出て、オペラのバリトンのアリアを歌った。皆は拍手してくれたが、先生はじっと考えこんで、「明日また来れますか?」と尋ねた。僕はまたここへ来るつもりはなかったのだが、いやだとも言えずにその日は町へ帰った。帰りの車の中で、直子さんは先生のことについていろいろ話してくれた。その夜から僕はキリスト教関係の学生寮のゲストルームに留ることになり、殺風景な一人部屋に眠った。言い忘れていたが、声楽では男性の声は、高い方から「テノール・バリトン・バス」と三つに分類され、僕は歌を始めてからずっとバリトンとして舞台でも歌っていた。 つづく
2005.10.28
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直子さんと初対面の挨拶をし、二人でケルン大学の学食に行った。ベルトコンベアーの上を流れて来るトレーに乗った食事を取り、席につくと直子さんがビンに入った水を持って来てくれて、飲んでみると炭酸水で奇妙な感じだった。料理は焼いた肉と豆と野菜を炊いたものに何故かご飯。どれもおいしいと言えるものではなかったし、ご飯は変な匂いがする恐ろしく不味いものだった。ぼくは直子さんに「とにかくこちらの音楽大学を受験したい」と言った。彼女は知っている教授を紹介すると言ってくれた。2時間ほど話、彼女は「今から私レッスンを受けに行くの、茶木君も一緒に来て見学する?」と言った。僕は一人きりにされてもどうしていいか分からないので、連れて行ってもらうことにした。直子さんの車で一時間近く行って、どんどん郊外へ進み、ある田舎の村の一軒の家に入って行った。奥に大きな部屋があり、10人くらいの人たちが皆ピアノに向かって座り、その中心に先生らしき人が座っていて、その先生は60代後半ぐらいの女性だった。 つづく
2005.10.27
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シュトゥットガルトの友達の所にころがりこんで、音楽大学のいろんな授業を見学させてもらった。でも「この先生の所で勉強したい!」という先生は見つからなかった。学内でいろんな人に話しかけられたが全く何を尋ねられているのか分からなかったので、ただニコニコ笑っていると、友達に「ニコニコしているだけではだめだ!なんとか知っている単語を並び立てて話そうと努力して行かなければ」と叱られた。一週間ほどそこに滞在したが、友達に礼を言って、僕はケルンに向かって旅立った。ケルンと言う町は昔「コローニャと呼ばれ、元々ローマ帝国のお姫様が築いた街である。ドイツ人の手に渡ってからもカトリックの力が大変大きかった所で、現在世界で最も大きなドームと言われているケルンの大聖堂があり、京都と姉妹都市にもなっている。シューマンの歌曲集「詩人の恋」の6曲目にこの大聖堂が出て来る。この詩はハイネの作品で、大聖堂の中に入って行くとマリアを画いた古い画があり、そのマリアが失った恋人にそっくりで驚くと言う内容のものである。ケルンの駅を降りて外を見ると、想像を上回る巨大さで黒く聳え立った大聖堂がいやでも目に入る。僕はなんだか憧れのスターに会ったような気がした。電話で「ケルンに来ればお世話できますよ」と言った女性「直子さん」に連絡を取って、路面電車でいくつか行った駅で待ち合わせした。 つづく
2005.10.26
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とりあえず3ヶ月の観光ビザで落ち着き場所を見つけてと思っていたが、内心「そんなにうまく行く訳はないよな!」と思っていた。出発当日、朝早くから学校公演の仕事をして、それから飛行場に向かった。飛行機に乗る事自体始めてだったので、席につくまでが それはもう大変だった。とにかく見えない分けで、荷物預けから搭乗手続まで何処に行っていいやら分からず、飛行場の中を行ったり来たりして、時間はせまって来るし、なんとかぎりぎり間に合って席についた時にはもうくたくただった。飛行機がものすごい速度で離陸した時には、初めて我が祖国から足が離れてもう引き返すことの出来ない不安な気持ちが溢れた。フランクフルト空港に着き、降りると突然日本語は何処にも書いてなく、聞こえて来るのはすべてドイツ語だった。どちらの方向へ向かって歩き出せばよいのかさっぱり分からなかったが、皆が行く方向に僕も歩いた。スーツケースが出て来てベルトコンベアーの上をぐるぐる回っているのも初めて見た。さて最初にシュトゥットガルトの音楽大学に留学している友達の所へ行き、大学を見学させてもらうことになっていたので、僕はシュトゥットガルトに向かわなければならなかった。苦労して中央駅に辿り着くと、20台以上の電車がホームに並んでいて、どれに乗ればいいかさっぱり分からない。話せないのと、見えないのが一度に来ると、もうどうしようもなかった。それでも駅員さんに身振り手振りで尋ね、なんとか目的の電車に乗り込むことが出来た。ドイツのインターシティーはなかなか乗り心地が良く、快適だったが、駅に着いてもアナウンスはいっさいなかった。外の看板が見えない僕は「シュトゥットゥガルト?」と外を指差し叫んで、周りの人に尋ねて、やっとこさ目的地に下りる事ができた。駅には友達が迎えに来てくれていて、ものすごく久しぶりに日本人に会ったような気がした。 つづく
2005.10.25
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新しく書き込みをしてくれた新良幸太郎君は、ぼくがドイツから帰って来て初めて指導に携わった合唱団でバスのパートを歌っていた青年である。当時彼は大学院生だったが、現在就職先からの派遣でアメリカの大学で勉強している。向こうに渡って3ヶ月ぐらいと言うと、少し慣れてきたのと同時にこまごまとしたいろんな問題が持ち上がって来るころだ。今は誰も彼も外国へ気軽に渡り住むが、実際は何年か経つまで大変なこともある。言葉の壁だけではなく、考え方や気質の違いに戸惑いつい日本人の性質からそれに合わそうとしてしまう。しかしそれが、長い目で見るともっとややこしいことになる。何年か立つと、自分の考えをはっきり口に出し、自分の道を見定めて暮らして行けるようにもなるが、そのまま日本に帰って来ると、「なんと自分勝手な、エゴイストに変わってしまって!」と言われる。ヨーロッパやアメリカなどには、とにかくいろんな国のいろんな能力や力を持った人たちがいて、とても大きな世界を見ることになり、これから少々ヘコムこともあるだろうが、まー僕なんかとは違う、彼の溢れ出るエネルギーと社交性で、パワフルに自分の道を開墾して行くことであろう。
2005.10.24
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大学院を終了するころになって、急にぱったりと声が出なくなった。最初かすれたような音色が声の中に混じるようになり、そのうち高音が全く出なくなり、そのうち一曲も通して歌えなくなった。そのころには多くのコンサートの依頼があり、自分を売り出すためにも失敗は許されなかった。でもすべての演奏会は散々な結果で、耳鼻科に行っても原因は分からなかった。僕はひどく落ち込み、少しずつ不眠が始まり、耳鳴りがして、精神的にとても不安定になっていった。自律神経失調症だった。でも病院に行っても精神安定剤を出すぐらいで打つ手はないようで、自分との戦いだった。ぶらりと一人で何処かへ行ってみたり、新しいことを始めたりして、できるだけ音楽から離れてみようとしたが、頭はどうしてもそこから離れようとはしなかった。とても辛かった、これは本当の精神病を患っている人はどんなに辛いものだろうと思った。とても孤独な自分との戦い、誰も理解してはくれない。それまで踏み切れなかった留学を実行するしかなかった。それは留学なんてかっこいいものではなく、日本から、今の生活から逃げ出すという風で、僕は全く語学が出来ないまま以前からの夢であったドイツへの留学を決意した。しかし向こうに行って、自分にあった良い先生に出会うのはとても難しく、闇雲に言葉の通じない知らない国に行ってもしかたがないので、大学院の時の一人の先生が時々家にドイツから先生を呼んで公開レッスンを行っておられたのを思い出し、面識は無かったが、電話をかけて、相談してみた。その時たまたま先生のドイツに住んでいる娘さんが帰って来ていて、電話口に出て来て、「始めまして」と言った。彼女は僕より一回りほど年上の女性で、歌を勉強するためドイツに渡り、ドイツ人と結婚して、10年以上向こうで暮らしていた。「ケルンに来ればお世話できますよ」と言ってくれたので、寄せてもらうことにした。 つづく
2005.10.23
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ある時ラジオのクラシック音楽だけを流す番組で、渡辺徹が話していた事だが、番組に小学生の女の子が「どうしたらピアノの発表会であがらないで演奏できるでしょう?」と葉書で質問して来た。渡辺徹がそれに答えた。「人はおおぜいの前に出ると、知らず知らずのうちに今の自分の実力以上の自分を見せようとしてしまう。だから混乱し緊張する。ふだんからだめな所は舞台でもだめだ。その時点でできない事については、良い格好をしないであきらめる。それが出来れば緊張は軽減できるでしょう。」僕はそれを聞いて、そんな風に自分をコントロールしてみたことが無いことにきづいた。 文学座で数々の舞台を踏んで来た彼の重みのある答えだった。 その放送を聞いたのが始めてのリサイタルの前だったので、演奏会当日もずっとその渡辺徹の言葉を頭で復唱していた。今でも演奏会前にはそれを思い出す。すると、フッと胸が軽くなる。
2005.10.21
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大学側に願書を出した時点で、視覚障害者を受け入れる事は出来ないと断られ、担任と音楽の先生が大学まで交渉に行ってくれた。そこで先生たちは、当時の学科長と話をし、学科長が、「私が責任を持ちましょう!その子を受験させて下さい」と言ってくれた。合格通知を家のポストに見つけた時の事を今でもよく憶えている。僕は家の柱に抱きついて声を上げて叫んだ。それほど大きな喜びだったのだ。今までとは全く違う未知の世界への船出だ。健常者の海の中に出て行く興奮と不安が入り混じって、僕はとても高ぶっていた。僕自身の運命から逃げきれたような気がした。僕が卒業して間もなく、先生も関西でのすべての音楽活動や仕事を捨てて、東京へ出て行くことを決心していた。こちらでも将来を期待されていたにもかかわらず、26歳ぐらいの若さで本当に自分にあった道を見極め、それに踏み切った先生の勇気に今さらながら脱帽する。現在先生は東京の「オペラシアターこんにゃく座」の座長を務められている。大学では、同い年の子たちが恐ろしく大人びていて、活動的で生きいきとしていて、そんな中、仲の良い友達もでき、時間がたつにつれて僕もそんな普通の若者になることができた。4年間の学生生活を経、母校の盲学校で1年、宇治にある養護学校で1年、教師をしたが、職員室の雰囲気と教師と言うカラーにどうしても馴染めず、皿洗いのバイトをしながら、オペラばかりしていた。その後他の大学の大学院で2年間学び、その後西ドイツへ渡ることとなる。 つづく
2005.10.19
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「Photo Album」にCA声楽コンセルヴァトワールでのレッスン風景をアップしました。見学は随時行っております。近畿圏内にお住まいの方で、ご興味のある方はご連絡ください。
2005.10.18
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「料理に一番大事なものは、心だ!」とよく言うが、それを肌で感じるような料理に出会った。日曜日に、京都府の北の方の山の上で演奏会があり、土曜日から泊り込みで歌いに行った。そこに町が運営しているホールを備えた宿泊施設があり、そこにあるなんでもない食堂で出た料理に人の温かみを感じた。お金を出せばもっと高級な食材で、もっと良い食器を使った食事はいくらだってできる。しかしそこでは、海が近いこともあり新鮮ではあるが、限られた食材の中で、ご飯の炊き方からちょっとした盛り付けまで、心打つものだった。何が違うのだろう?そこに作り手の歓迎の気持ちとその人物そのものの温かみが練り込まれていた。やはりそういった心を料理に吹き込むことは可能なのだ。そんなことを思いながら食べていると、僕の前で食事していた人が、「なんと愛情のこもった料理だ!」とつぶやいた。
2005.10.18
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2曲目をアップしました。20秒は短いというお声を頂いておりますが、さまざまなインターネット環境があり、たくさんの方に聞いていただきたいので。
2005.10.17
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僕はその時、ベビーブームの影響で膨れ上がったマンモス幼稚園の園児だった。当時母は、自分の息子が障害者であることを受け入れきれず、僕をその一般の幼稚園に入れたわけで、僕は蟻の巣のように教室の中で園児たちがひしめく中、母も知らない数々の苦労を課されることになったが、今僕も人の親になって、その時20代だった母の気持ちはとてもよく理解できる。ある時、授業参観に来るお父さんお母さんのために、作品を作って展示すると言う授業があり、木材が配られ、先生が皆の前で説明した後、皆それぞれ金槌でトンカチし始めた。周りの皆を見て、僕も飛行機を作ろうと、木と木を重ねて上からトンカチ叩いた。皆は次々に作品を作り上げ、先生にそれを見せていた。僕は重ねた木材を叩き続けたが、でも飛行機はできなかった。木と木を釘というものを使って打ち付けると言うことが判っていなかったのだ。先生が前で説明しても見えていない。それで授業の終わりに先生にひどく怒られ、子供の僕は自分が悪いのだと思っていた。そんな事の繰り返しの毎日だった。先生や周りの同級生にずいぶんいじめられていた。今から思えば、4・5歳のころの日々のそういったストレスは、人間形成において大きな影響があるはずである。年長も終わりのころ、ある日母はぼくを連れて出かけた。市電に乗って、降りてからもしばらく歩いた。その間、母は一言も口を利かなかった。僕は何度も「ねー何処へ行くの?」と尋ねたが、母は黙ったまま僕の前を歩き、僕は母の背中をずっと見て歩いた。辿り着いた所は、盲学校だった。当時、京都府立盲学校は、京都市内の北の端の田舎にあり、ヘレンケラーも来たと言うとても古い薄暗い建物で、教室の天井には電灯もなかった。母は教頭先生と少し話し、その年老いた先生はとても優しい笑顔で僕に話しかけた。その田舎の盲学校で僕はとてものびのびと学園生活を送ることになる。僕のような弱視だけではなく、全盲の人たちもたくさんいたが、全生徒あわしても100人ぐらい、僕のクラスはずっと4人。そんな中、のんびりとゆっくり時間が流れ、僕のストレスも静かに解けて行った。しかし、そんな学校生活にはまた別の問題が含まれていた。これは後に大学に進んでから気付いた事だが、そういった少人数の社会の中で、中学部、高等部まで進むと、横にいる友は小学校からずっと一緒で、自分の力で友達を獲得せねばならないことを知らずに大きくなり、他人を思いやる気持ちや、何をすれば人が嫌がるかなどのことを知らないまま過ごす。人はおおぜいの人の海の中で人間関係と自分を学ぶのだろう。高等部に上がると音楽大学を卒業したての男の先生が非常勤で来られるようになった。僕は「先生の専門は何ですか?」と尋ねた。そのころ僕はフォークソングギターに夢中で、少し音楽に興味が出て来ていたのだろう。「声楽だ!」とその先生は答えた。この先生が僕の人生を変えることになる。今思えば、16歳の少年が、この人物に、生まれて初めて人として強く引かれたのであろう。僕は個人的にその先生に歌と音楽の基礎を習うことになり、一年後に音楽大学への受験を進められた。声楽だけではなく、ピアノやソルフェージュ、音楽理論なども勉強しなければならない。受験するとなれば遊びではないのだ。盲学校高等部を卒業すると、ほとんどの人はその上にある理療科に進んだ。音楽大学のような所に、声楽で進んだのは、おそらく僕が最初であろう。大学に進むと、恐ろしい数の人間がいて、それがすべて健常者なのだ。でも幼稚園の時とはちがう、仲のいい友達ができれば、力も貸してくれた。音楽を勉強し始めたのと同時に、そこで初めて人間を勉強し始めたような気がする。そう!他の楽器とは違い、歌声と言うものは、最も原始的なものであり、その人の思念や経験して来た事、他人には決して見せることのできない奥底の感情を外に出すただ一つの手段なのだ。僕には、僕だけの人生があり、僕だけが持つ歌声がある。それは聞き手に受け入れてもらえることもあるだろうし、また受け入れてもらえないこともあるだろう。それでも僕は歌える間に、一度でも多く精一杯の演奏をしたいし、聞いてもらう人たちに、言葉や形にならない何かを感じ取ってもらえれば、これに勝る喜びはない。 2005年、9月
2005.10.16
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「PhotoAlbum」に私のプライベート写真をアップしました。
2005.10.15
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僕は盲学校に、小学部、中学部、高等部とあわせて12年いた。小学部の時には、クラスは4人、高等部を卒業する時には、6人増えて、全部で10人だった。ようするに12年間あまり変わらない顔ぶれの中で、学校生活を送り、皆ほとんど高等部を卒業すると、その上にある理療科ニ進み、鍼灸の勉強を3年間終え、鍼灸師になった。僕はそのような決められた道を進むのが、どうしてもいやだった。この盲学校と言う隔離された枠からなんとか脱出して、外の世界の同年代の人たちと交わりが持ちたかった。それが音楽大学を受験しようと思った一つの理由でもある。盲学校側としても、声楽なんていうもので音楽大学を受験する生徒は始まって以来だったので、けっこうな騒ぎになり、新聞にも大きく取り上げられた。そんな中、高3の正月が過ぎ、受験日がやって来た。 つづく
2005.10.14
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ある放課後、音楽室の前を通りがかると、先生の歌声が聞こえて来た。僕はそっとドアの隙間から覗いてみた。先生は一人でピアノの音をたたきながら、何語か分からない難しい歌を、一心不乱に練習していた。僕は音楽室のドア越しに先生のとても強い意志と、誰も入り込むことのできないような彼自身の世界を感じた。その姿は、17歳を迎えようとしていた僕にとって、とてもまぶしく、衝撃的でそれまでの人生で感じたことのない魅力で強く引き付けられた。学校の先生や親が僕に何を語りかけてもそんな風に一人の人物に引き付けられたことはなかった。先生は僕に対して、なにも教えようとしなかったし、何も語りかけなかった。ただ僕が僕の意志で先生の背中をじっと見ていた。またある放課後、音楽室の前を通ると、先生の声がしたが、今度は一人でギターを弾きながら、井上陽水を歌っていた。僕も陽水は大好きだったので、思い切って部屋に入り、一緒にギターを弾いて歌った。何曲か歌った後、僕は勇気を出して言ってみた。「僕も先生みたいに声楽がやってみたい!」それは内心とても不安な質問だった。僕は歌も下手だったし、不自由な目で何処までできるかも分からない、「やめとけ!」と笑われるに決まっていると思った。でも先生は「おお!やってみるか!」ととても嬉しそうに答えた。その日から、週一回放課後や土日に先生の家でレッスンを受けることになった。すべてがそれまでにやったことのない新しい経験で、なんだかこそばいような感じだったが、声を出して歌うことは、とても楽しかった。高校2年の夏を向かえようとしていたころ、突然先生が「歌で大学を受験してみないか?」と言い出した。僕は自分にそんなことができるかどうか分からなかったが、ぜひとも挑戦してみたいと思って、両親に相談すると、ぜひやってみろ!と言われたので、思いきってみることにした。受験するとなるともう遊びではない。歌のレッスンは週2回に増え、先生の友達の女の先生の家で、ピアノとソルフェージュのレッスンが始まった。音楽理論の勉強も放課後に音楽の先生を捕まえて見てもらった。先生は皆突然とても厳しくなり、毎日レッスンばかりで、日曜日までレッスンに出かけた。受験勉強を始めたのがあまりにも遅かったので、時間がなかったのだ。先生の家は京都の南の果てにあり、北の果にある僕の家までとても時間がかかり、帰りは1時近くになった。楽しかった歌は苦しみに変わった。 つづく
2005.10.14
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高校一年になっても、中学の時と同じくフォークソングに夢中で、暇があれば友達と文化祭で演奏する曲を練習したり、新しいコードネームを憶えたり、ギターの手入れをしたりしていた。頭の中はフォークソングのことでいっぱいで、将来はフォークスィンガーになるんだと本気で思っていた。音楽の非常勤の先生がやってきた。大学を卒業したての男の先生で、おにいちゃんみたいで、全然先生と言う感じがしなかった。本人も教師になるつもりは全くなかったと思う。「先生は大学で何を勉強していたの?」と僕は尋ねた。「歌だ」とその先生は答えた。「クラッシックに歌なんかあるんですか?」と僕は尋ねた。当時僕は、クラッシックと聞くだけで寒気がしていた。その場で先生は声を出して歌ってくれた。びっくりした。人間が出しているとは思えないぐらい大きな声だった。先生は授業で、教科書は全く使わず、ギターをひかしたり、声楽と言うものについて話してくれたりした。でもそれは授業をするというよりは、自分が夢中になっている歌のことについて、夢見ごこちに話していると言う風だった。この先生は自分のことだけで、僕たちのことなど眼中に無いだろうなーと思った。しかしそんな先生に僕は恐ろしいほど引かれて行くことになる。 つづく
2005.10.13
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画面右側にある「Freepage List」に我がCA声楽コンセルヴァトワールのコンサート情報を載せていきます。
2005.10.12
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僕はその場所に習いに行くと言うよりは、自分がやって来た事を認めてもらうためにそこに行っていた。対抗意識さえ持っていた。そして、僕が長年養い、温めてきたものは、すべて否定された。それは思ってもいなかったことで、とても大きな衝撃を受け、いやな思いが、苦にがしく体中に広がった。僕はちくしょうと思ったが、その場から背を向けて去ることもできなかった。何処かに、そうかもしれないと言う思いがあったからだ。それでもどうしても心開くことはできなかった。プライド、間違ったプライドがそこに大きく横たわっていたからだ。時にプライドは我々の行く手を阻み、気が付けば、恐ろしく長い間同じ場所に澱みとどまって動けなくなる。そのうち僕は、前に一歩進み出るためには、薄暗い所に見えている、鉛色の大きな鉄の扉を押し開けてその向こうに出るしか方法はないと思うようになる。意を決して僕は扉の前に立った。そこまで行くのにものすごい勇気とエネルギーが必要だった。そしてその古い立派なノブにそっと手をかけて見たが、芯まで冷えるような冷たさが手に伝わって来た。少し怯んだが、それでも力いっぱい押してみた。しかし扉はびくともしない、覚悟していたよりももっと部厚く重いようだ。やっぱり到底無理かもしれない、と言う思いが過ぎったが、それとは裏腹に手はもう一度扉にかかっていた。今度は足と腰にもっと力を込め、台地を踏みしめるように長い間押し続けた。扉はギギと音を立てた。僕は息を吸いなおし、奥歯を噛み締めてもう一度押した。扉は動き始め、開きかけると、後はそんなに力はいらなかった。扉の向こうは爽やかな明るい風景が広がっていて、それは昔見たことのあるような山々だった。僕は前に歩を進めてみた。以前よりずっと軽やかに前に歩けたが、足は身が入ったように痛かった。その場には僕が大事に積み上げて来た物や、プライドが粉々になって散らばっていた。それを見ても、なぜか清々しい爽快な気持ちだった。 2005、9月
2005.10.12
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私が出したCDアルバムの1曲目に収録している、「F.シューベルト」の「リーゼンコッペ山頂で」の音源の一部(161KB、20秒)を、画面右側にある「Freepage List」の「CD1曲目試聴」から聴くことができます。よろしければ私の声を一度聴いてみて、ご感想を頂ければうれしく思います。
2005.10.11
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この間テレビでマイケルランドンの特集をやっていた。「大草原の小さな家」のお父さん役を演じた俳優だ。彼はこのドラマの台本、監督、俳優とすべて受け持っていたことを知り、驚いた。あのドラマは、彼の思想や経験が描かれた、ゆわゆる彼の小説なのだ。この長編ドラマの柱になる部分をまとめると、まだ電気もエンジンもない1800年代に多くの逆境や苦悩を、強い神鋼の力で乗り越えて行く人々の底力を描いた物である。これでもか!というように、不幸が村を襲うが、皆共通した神への思いやその教えを手がかりに、再び絶望から這い上がる。そんな人々の姿を見ていると、現代人の最も弱い部分はそこかもしれないとも思う。現在のビジネスとしての宗教ではなく、我々自身も知らない底力を呼び起こし、皆が人間として正しく力強く生きて行けるための教えである宗教、自分や周りの者がより幸せになるためだけの信仰ではないもっともっと大きな我々自体の存在を表すような信仰、そんなものがこのドラマから感じ取れる。本当は、我々人間にはどうしても必要な物なのかもしれない。
2005.10.11
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電車のドアが開くと、大勢の子供達のけたたましい声が聞こえた。ワッチャー!と思ったが仕方なく車内に足を踏み入れた。電車が発車し、車内放送も流れたが、世界は子供達の声で溢れ、他には何も聞こえなかった。「座って下さい」と言う声が聞こえ、振り向くと、小学校3年生ぐらいの女の子がますぐこちらを見て立っていた。僕の杖を見て席を譲ってくれているようだった。彼女は「座って下さい」と、もう一度ハキハキと言った。先生に促されてではなく、自分の意思で言っているのだ。「ありがとう」と僕もできるだけハキハキと答え、にっこりと微笑んで、譲ってくれた席に座った。その後彼女はともだちと楽しそうに話し込んでいたが、いくつか先の駅で、みんな一斉におりてしまい、突然静けさがやってきた。僕が彼女ぐらいのころ、あんな風に席を譲る事ができただろうか?絶対に無理だった。「座って下さい」と知らない人に声をかけるのもとても勇気がいることだ。子供達や僕の教えている高校生を見ていても、とても礼儀正しくきっちり話す。僕が子供の時には到底できなかった事だ。「今の子たちは、外面だけですよ」と言う先生もいるが、外面だけでも大した者だ。それにそれを求めてきたのは、大人たちなのだ。なにげない顔をして、列に割り込んでくるのは、ほとんどが熟年と言われるおじさんおばさんたちだ。すべてではないが、若者や子供たちは、ルールを守ろうとしている。「最近の若いもんは」と言う台詞は、もう死語になった。
2005.10.10
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明智光秀が実は天海和尚となって、100近くまで生きたという説が、僕は有力だと思う。光秀ほどの頭の良い、優れた武将が、そんなに簡単に自殺行為に走るはずがない。いったん武将として生きることは諦めざるを獲ないが、恨みを晴らし、なおかつ生き伸びる手立てを考え、そしていつの日かまた天下を取る夢を果たそうと。そこで光秀は苦しい選択をし、秀吉と水面下で取引した。信長をやった後、天下はくれてやるから自分を匿えと。内心一日も早く天下を取りたかった秀吉にとって、またとないチャンスである。忠義の精神も、虎視眈々と天下を狙う日々の表面的なもの。そう!秀吉は、信長がいつ殺されるか前もって知っていたのだ。だから大返しというような事ができ、誰よりも早く仇討ちが果たせた。そして二人が立てた演出どうり、明智軍は滅ぼされ、身代わりを立てた上で、こっそり光秀は匿われた。何も知らず殺された、光秀の家臣はたまったものではない。ひょっとしたら、本能寺を攻めろと発案したのも、秀吉かもしれない。その後光秀は大僧正と言う地位にまで上り詰め、その後徳川家の知恵袋となり、最後には家光を影で操り、春日の局と共に天下を動かした。大僧正天海の墓は徳川家光の墓を、方角的に見下ろす所にあるらしい。
2005.10.09
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皆様、お待ちどうさまでした。やっとパソコンが直りました。また日記を再開したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
2005.10.08
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書き始めてまだ幾日もたっていないのですが、日記を書くのをしばらくお休みさせていただきます。理由はパソコンの調子が悪いためです。書き込めない間も書きためておきますので、日記楽しみにされている方には本当に申し訳ないのですが、いましばらく待っていただいて、また再開時には見に来ていただければうれしく思います。
2005.10.06
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昨日、大金持駄さんのコメントに対して「ぜひその方に会いに行きましょう」と書きましたが、あれからずっとそのお友達の絵描きさんのことを考えていました。またゴチャゴチャ理論ばかり言って申し訳ありません。僕が個展にうかがう意味ですが、お友達に杖を持つことを進めるのでしょうか?それとも純粋に絵を見に行くのでしょうか?僕は今はもう絵を見ることはできません。見えないのに見えているようなふりをするのも、書いた本人に申し訳ありません。本人に杖を持つことを促すのならば、逆効果だと思います。僕がお友達の立場になって考えれば、腹が立つかもしれません。本当は本人が一番分かっているんです。だからこそ、ギリギリまで絵描きとしての自分を守りたいんだと思います。周りのものは見ていられないかもしれませんが、持たねばならない時がきたら自分から持たれますよきっと。僕はそのように思いますが、どんなものでしょう?
2005.10.05
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写真を一枚アップしました。「PhotoAlbum」に表示されていると思います。今後少しずつ増やしていこうと思っています。じっくり見たい場合は「stop」ボタンを押してください。
2005.10.04
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「Freepage List」のところにプロフィール詳細を載せました。よければご一読ください。
2005.10.03
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今、雨が降って来た。秋の雨の匂いがすると、中学の時の試験勉強中の雨を思い出した。雨の音が聞こえるので、勉強机の前の窓を開けると、京都にしか降らない雨の匂いと音がした。僕は部屋の明かりとラジオを消し、頬杖をついて長い間雨を楽しんだ。窓の外には家々の瓦が闇の中で濡れて光、遠くには何処かの部屋の明かりが見えた。僕は胸がキューッと閉めつけられ、泣きたいような気持ちになったが、それでも頬杖をついたままじっとしていた。大きな海の真ん中に一人ぼっちでいるような少年の心に雨はとてもやさしかった。
2005.10.02
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このHPを立ち上げる時に、管理人に「毎日日記を書いて下さいね」と言われ、驚いた。僕は生まれてこの方日記など書いたことがなく、毎日のちょっとした事を書くというのは僕にはとても難しい。この所一日中、日記の種を探しながら生活しているが、何も文章にはならない。皆もっと何気ないことをさらりと書くのだろう。まー僕の日記は僕独特のものでいいか!見えないことで、ろくに書かない、読まない、という生活だったが、今年の春からパソコンを始めた。皆と同じパソコンだが、ソフトが画面を音声で読み上げる特別な物で、これを使うようになってから、書くことがとても楽しくなった。毎日の日記も、材料に苦戦しながらもとても楽しんでいる。書き続けることによって、僕自身の日記がいろんな風に変化していくことを楽しみにしている。
2005.10.01
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