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彼女は随分僕に慣れ、授業の時とは全く違う穏やかな表情で身の上話もしてくれた。「私の両親は元々ミュンヘンの人だったけど、お父さんの仕事の関係でルーマニアで暮らしていて私もそこで生まれ17歳までいたの。お父さんは当時ヨーロッパでも少しは名の知れた作家だったんだけど発表した作品の中でルーマニアを批判するような文章を書いて、逮捕されて5年間牢屋に入れられていたの。私とお母さんはその間とても貧しい暮らしをしていつ開放されるか分からないお父さんを待ち続けたわ。内乱は続いていたし、国を逃げ出す者は外国まで警察が連れ戻しに行って牢屋に入れられた。もちろん言論の自由なんてものもなかった訳。そしてお父さんが牢屋から出て来たら5年経っていた、それから国を追われてドイツ国内に帰って来た、私には始めてのドイツ生活でなかなか馴染めなかったわ」。僕は彼女の言っている事はだいたい分かったが、それに対してどんな言葉を掛けていいかまではまだ語学力が乏しかったので首を縦に振りながら話を聞いていた。我々はやっとホットワインを飲み終え、ゆっくりと出店を見て回った。帽子屋があったので僕は暖かそうな毛糸の帽子を買おうと思ったが、一つとして頭に入らなかった。こちらの人の頭は恐ろしく小さいのか、アジア人の頭が大きすぎるのか、それとも僕の頭だけだろうか。僕がショックを受けていると「ねーワッフル食べない?」とマルガレーテが誘い、ベルギーワッフルの店の前の列に並んだ。我々の番が来ると「チョコレートとさくらんぼと生クリームをお願い」とマルガレーテが言い、ずっしりと手の上に手渡されたワッフルは5枚切の食パンぐらいの部厚さと大きさで、生クリームがたっぷりと砂糖で煮たさくらんぼとパウダーのチョコレートが掛かっていて、ワッフル自体も焼き立てで温かく、それはそれは何とも言えない美味しさで「これが本当のベルギーワッフルか」と感激した。 つづく
2006.01.31
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23日は夕方5時ぐらいにマルガレーテとケルン駅で待ち合わせてライン川沿いに少し行った所に一角だけ旧市街が残っていてちょっとした広場があり、そこにクリスマス市場が出ていて大勢の人々でにぎわっていた。一面石畳で何ともおしゃれな形のとても古い市庁舎の建物が見え、ローマ建築の丸いくカラフルな教会もあり、周りの家も建てられた年号が壁に記されていて、多くが1600年代・1700年代の物だった。もし第二次世界大戦での酷い爆撃がなければこういった美しい建築物は町中に溢れていたのだろう。広場の中心にはガラス張りになった所があり地面の下が覗けるようになっていて、そこにはローマ時代の街の遺跡があり、広場の傍らにはこれもまたローマの水門が残っていた。その日は雪こそ降っていなかったがとても寒い日で、マルガレーテの勧めでホットワインを出店で飲んだ。とても熱く飲むのに時間が掛かったが身体が温まり我々はドイツ歌曲について話した。アオルマン先生の所は歌劇場で歌うべく勉強しに来ている訳で、ドイツ歌曲に強く興味を持っている者は誰もいない、ドイツ人でさえ皆オペラ第一なのだ。と言うのもドイツ歌曲など専門に歌っていても仕事に繋がらないからであろう。しかしマルガレーテは歌曲を大変好み、いろんな所で自主企画のドイツ歌曲でのリサイタルを開催していた。 つづく
2006.01.30
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クリスマスが近付くと町は少しずつにぎやかになって行った。町の至る所が飾り付けられ、広場には市場が出てクリスマスに向けて必要な小物やプレゼントにすべき品が売られ、何処もかもが活気ずいて行った。授業の帰りマルガレーテに送ってもらっている車の中で「トシはクリスマスはどうするの?」と尋ねられ、「たぶん一人で部屋にいるだろうね」と答えた。「24日は無理だけど23日なら空いているからクリスマスの市場にでも行ってみる?」と言ってくれた。クリスマスに一人で部屋にいることぐらい僕には何でもなかったが、クリスチャンのこちらの人たちにとっては一人でクリスマスを過ごすのはとても悲しい事のようで、それでせめて23日だけでも付き合ってやろうという彼女の親切心だった。20日に授業も終わり、皆クリスマスの準備に専念し始めた。彼らにとって1年の中で最も大きな行事で、ちょうど日本の正月を迎えるような雰囲気だった。それぞれの家にはリースが吊り下げられ、その上に立てられたローソクの本数が25日に向かって一本ずつ増えて行き、町全体が一層美しく飾り付けられて行った。しかしそれはあくまで心のこもった宗教的なお祭りであり、日本での商業的な形だけのクリスマスとは全く違う神聖なものだった。つづく
2006.01.27
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「お父さんは仕事?」と尋ねてみた。「そう、親父は石切り場で働いている、仕事の後は必ず飲んで帰る、かなり飲むからしょっちゅう誰かが迎えに行かなくちゃならない。親父のやっている仕事というのはものすごくきつい作業なんだ。仕事が終われば飲まずにはいられない、仕方ないんだ。だから俺は早く歌い手になって金を稼いで親父に楽をさせてやりたい、親父もいつまでも若くないからね。」「へー、そんなかっこいい目標があるんだ」「まーね」と言ってちょっと恥ずかしそうに下を向いてフォークでジャガ芋を転がした。食事が終わり、お母さんに「とても美味しかったです、ありがとう」と礼を言って僕たちは授業に向かった。その日もクワストフはプッチーニの歌劇「トスカ」やモーツァルトの歌劇「魔笛」のアリアを立派に歌っていたが、僕はコシ・ファン・トゥッテのアリアを依然歌い切れず難儀していた。とにかく今は焦らずマイペースで行こうと腹を決めていたが、それでもとても悲しくなり、打ちひしがれた気分で帰る時も有った。その日も正にそう言った気持ちのまま授業が終わり、窓の外を見ると見た事もない量の雪が積もっていて、表に出てみると車はすべて雪に埋まり、皆電車か徒歩で帰るしかなかった。雪は臍ぐらいまで有り、駅まで10分ぐらいの所を40分ぐらい掛けて歩き、そんな雪の中を歩くなんて経験のない事でとても面白かった。 つづく
2006.01.26
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12月に入るとどっさりと雪が降った。それまでも少しずつは降っていたが、その日はケルン市内でも30センチは積もった。一面真っ白な銀世界の中、汽車でアルバイトに向かった。向こうに着くと山沿いのためか市内よりも随分多くの雪が積もっていたが、クワストフはチェーンも付けずに車で現れ、ゆっくりと運送屋に向かいLKWに乗り換えたがやはりチェーンは付けなかった。その日の配達は4軒だったが雪のためかなり時間が掛かり、我々は膝上まで雪に埋まりながら絨毯を肩に担いで運び、ゆっくり車を走らせ、坂道に差し掛かるとタイヤがスリップして上れず何度も助走を付けて上り、下り坂ではハンドルを取られて壁に追突してミラーを壊したりした。何故チェーンを付けないのか理解出来なかったが、クワストフは最高に不機嫌だったので僕はじっと黙って座っていた。何とか仕事を終えクワストフの家に戻るとレナーテとアンナの姿が見えず、彼のお母さんがご飯を用意してくれていた。お母さんは下町のかあちゃんといった風で、「典型的なドイツ家庭料理だけど、どうぞ召し上がれ」と言って料理の皿を僕の前に置いた。ジャガ芋と豆、ブロッコリーにホワイトソースを絡めた物に大きなソーセージがあり、クワストフは「オレたちは子供の時からこんな料理ばかり食わされて来たんだ、もううんざりだぜ」と小声で言い、お母さんは「文句が有るんだったら食べるな!」と向こうから怒鳴った。しかし食べてみるととても美味しく、僕は感動した。思えばドイツに来てから自分で作る以外はずっと外食で、家庭料理など食べた事はなく、それはドイツのお袋の味だった。僕が「とても美味しい」と料理を褒めると「そりゃよかった」と顔を顰めてクワストフが言った。 つづく
2006.01.25
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いつものようにクワストフと絨毯工場へ向かった。少しずつ仕事にも慣れ、お互いの仕事の分担もスムーズにこなし、作業をする中で多くの言葉を覚えていった。相変わらずLKWの中でクワストフはしきりに話し掛け、僕も多少なりとも自分の意見を述べることが出来るようになっていた。でもそれは文法の成り立ちや語尾の変化などを理解して話しているのではなく、クワストフを初めとした周りのドイツ人の話し方を、その丸ごとの文章を真似して話していたので、「こういった場合はなぜこのように単語が変化するのか」などということは分からないまま変化させて話していた。赤ん坊がお母さんの話し方から言葉を覚えて行くのと同じである。僕はクワストフからその影響を多く受けた訳だが、一つ問題だったのは彼があまり上品な男ではなかったということだ。彼は度々車の窓を開けて、他の車の運転手と大声で喧嘩をし、僕にもそういう場合の喧嘩言葉を教えてくれたり、変な歌を教えてくれたりした。一度マルガレーテの車の中で歌ってみたことがあるが、彼女は顔を顰めて「全くクワストフは!信じられないわ」と言った。どうやらそれは方言交じりのとてもエッチな歌だったみたいだ。とにかくドイツ語を習い始めの大事な時期に辞書にも載っていない下品な言葉や言い方ばかり覚えていった訳だ。皆に「フワストフのドイツ語を真似してはだめだ」と言われたが、一番身近に居るのが彼だからどうしようもなかった。でも分からない事や物の名前などその都度質問し続け、彼も丁寧に教えてくれ、見る見るうちにスムーズに話せるようになって行った。 つづく
2006.01.24
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月曜日の夕方に早速僕のアパートまで車でテレビを持って来てくれた。ベルが鳴って下に下りて行くと彼女がやはり不機嫌そうな顔で立っていて、僕の顔を見るとゴルフの後部座席からそんなに大きくはないテレビを下ろし、僕の足元に置いて「古いからすぐ壊れるかもしれないけど」といらいらしているような早口で言った。僕は「部屋でお茶でも」と言おうとしたが「それじゃ」と言ってさっさと車に乗り込んで帰って行った。古いとはいえテレビはとてもきれいに映り、その日の夜は刑事コロンボを見た。日本でも昔から見ていたので懐かしさもあって意味が分からなくても集中して見ることが出来、毎週見ていると随分ドイツ語に耳が慣れた。ある日またクワストフにコンサートに誘われ、ケルンのフィルハーモニーというコンサートホールにヘルマン・プライのコンサートに出掛けた。彼の歌を生で聴くのは初めてで、プログラムも面白く、とても良い声で人柄も良さそうな人だったが、やはり始めから終わりまでずっと音程が低くどうも僕は居心地が悪かった。休憩時間にロビーに居るとマルガレーテがご主人と二人で来ていて、彼女は彼とそっと腕を組み、我々を見付けると「まー来てたの」と言って近付いて来た。何と彼女の顔には満面の笑みがあり、とても優しい穏やかな女性に見えまるで別人のようだった。少し会話して彼らが立ち去った後フワストフと僕は顔を見合わせた。何だかそれ以来彼女は少しずつ僕に慣れ、授業の後には「トシ、乗って行く?」と声を掛けてくれるようになった。レッスンでは相変わらず誰とも会話しなかったが、車の中では僕といろいろ話した。その頃には僕も簡単な会話ぐらいなら少し出来るようになっていたが、ちょっと込み入った事を言われるともう分からない、でも神経質そうな彼女もそういった事にはとても気が長かった。 つづく
2006.01.23
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日曜日に家にいると直子さんから電話があり、「マルガレーテが古くなったテレビをくれると言っているんだけどどうする」と言って来てくれた。僕は一瞬考えた。マルガレーテと言えば年は僕より10歳ぐらい上で、とても変わった女性であり、レッスンを受けている姿を見ていると、精神的に少し普通ではない所が見受けられる人だった。まず歌う際ものすごく興奮して、叫ぶというのに近い歌い方で先生の言っている事などほとんど何も聞いていない、そして自分が納得するまで席に戻ろうとはしないで皆の前に立ち続けていて、彼女の番の時は先生も困り果てていた。普段もにこりともしないでいつも眉間に皴を寄せて誰とも話しをしなかった。一度授業の後車に乗せてくれた事があるが、すごく不機嫌な顔で聞き取れないぐらいの早口で「私はケルンまで行くけど乗って行くか」と尋ねられ、思わず「ディーリングハウゼンの駅でいい」と言ってしまい「どうしてよ、トシはケルンに住んでいるんでしょ、私もケルンだから乗って行けばいいじゃない」と言われたが、それでも駅で降りたことがある。出来ればあまり近づきたくない人だと思っていたし、クワストフも「ありゃー恐ろしいい女だ」と言っていた。ここで先に述べておくが、人との出会い、相性とは不思議なもので、彼女は後に僕のドイツ生活の中で最も仲の良い、ドイツを去って10年近く経つ今でも付き合いのある良い友人となる。そういう訳でその時は彼女にテレビを貰うのもちょっと考えた訳だが、親切に言ってくれているので有り難く戴くことにした。 つづく
2006.01.21
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彼の家はディーリングハウゼンの駅を通り越して5分ほど車で行った小高い山の上にあり、両親と一緒に住んでいたが違う棟が彼の住まいのようだった。ドアを開けて家に入ると一人の女性が出て来た。見るとそれはいつも一緒にレッスンを受けているレナーテというメゾソプラノであり、彼女の横には3歳ぐらいの女の子がいた。僕が驚いて立ち竦んでいると、レナーテは「そういうことなの」というように恥ずかしそうに微笑んだ。彼女は僕たちのために野菜がたくさん入ったスープを作っていてくれて、お腹ぺこぺこの僕たちは無言で2杯ぺろりと平らげた。食事が終わると僕はソファーで少し昼寝をした。慣れない仕事で疲れてしまい、今から歌を歌うという感じからは程遠かったが、クワストフは全く平気みたいで、へとへとの僕を見てレナーテと一緒に大笑いしていた。うとうとしたところでレナーテに起こされ目を開けると二人とももう出掛ける用意をして僕が起きるのを待っていた。彼らは娘のアンナを隣の棟の両親の所に預けて、僕は意識が朦朧としたまま3人で車に乗り込んだ。その日の授業が終わりアパートに戻っても腕や足が痛くて動けなかった。これからこの仕事を週3回やらなくてはならないのだ。考えるとうんざりしたが乗りかかった船だ、少しの間やってみるしかない。月曜日・土曜日の朝と水曜日の授業の後昼から働いた。水曜日の仕事が長引くと夜遅くなり真っ暗の中を絨毯を運んだ。 つづく
2006.01.17
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駅から10分ぐらい車で行くと、運送屋らしき所に着いた。事務所に入りクワストフはそこの人たちと少し話してから鍵を受け取って我々は小型トラックに乗り込んだ。そこには同じ形の黄色のトラックが5・6台駐車してあり、そういった物を「LKW」と呼び全部メルセデスだった。クワストフはLKWの中で今から何処へ行って何をするのか説明してくれていたが、よく分からないままでまた10分ほど行くと今度は絨毯工場らしき所に着いた。店の人に注文書を受け取り、我々はポールに巻き付けてある巨大な絨毯を8本LKWに積み込んだがそれだけでへとへとになった。どうやらこれを各家に配達するようであり、それが我々の仕事だった。この辺りは彼にとって地元で土地勘があり、住所の書かれた紙を見て大体その家に辿り着く事が出来た。LKWから絨毯を引っ張り出し、彼が前、僕が後ろを担いで部屋の中まで運んだ。こちらの家は何処も大きく、従って部屋も大きく運ぶ絨毯も巨大でありそれを2階まで運ぶのが一苦労だった。クワストフはLKWの中で次々といろんな事を話掛けて来て、全く通じ合わない会話もたくさんあったが、彼はそんなことは気にせずどんどん話した。8軒分全部配達が終わるともう昼を過ぎていて、工場へ戻って集まったお金と領収書の写しを手渡し、運送屋でLKWのキーを返し、クワストフの車に乗り込んだ。「これから僕の家で飯を食ってそれから授業に行こう!」と彼は言ってハンドルを取った。 つづく
2006.01.15
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ある日昼休みに直子さんが「ねー、クワストフがあなたに一緒にアルバイトをやらないか、と言ってくれているんだけどどうする、何だか二人ペアーにならないと出来ない仕事みたいよ」と言った。お金が無かったので有難くはあったが、いろいろ不安があった。僕の視力で出来る仕事か、それにろくに話せない者に つとまるものなのか。僕が躊躇していると、直子さんが「ごちゃごちゃ考えてないでとにかく一度やってみなさい、それでだめだったら止めときゃいいのよ」と はっぱを掛けられしぶしぶやって見る事にした。クワストフを呼んで伝えると「よーし!早速次の月曜日からだ、8時前にはディーリングハウゼンの駅に着いていてくれよ」と言った。「8時前って、朝の!」と僕が言うと「そうみたい」と直子さんは小さな声で答えた。月曜日の朝5時に起床し、簡単な朝食を食べ、5時半に部屋を出た。今は10月で外はまだ真っ暗でビール工場の前にある路面電車の停留所で電車を待っていても誰もいないし、本当に電車が来るのか不安だった。しかし電車は時間通りやって来て、車内は明るく何人かの人が既に座っていた。ケルン駅に着くと6時ぐらいだったが構内にはもう沢山の人が行き来していて、汽車の時間までに少し時間があったのでスタンドカフェでコーヒーを飲んだ。汽車に1時間ちょっと乗り、ディーリングハウゼンに着いたのは7時半、それより一本遅らすともう間に合わない。15分ほど待つとクワストフの車がやって来て、乗り込むと「おはよう!」と彼は眠そうに言った。 つづく
2006.01.12
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家に帰り早速譜読みして部屋で声を出して歌っていると、隣の部屋から壁を叩かれた。家で練習出来ない環境というのは困ったものだ。明日先生の所に早めに行って練習するしかない。パンとハムとチーズ、それにインスタントのスープというとてもいい加減な晩御飯を食べ、後はテレビという物がなかったのでワインを飲みながらラジオを聞いた。ラジオも最初さっぱり聞き取れなかったが、少しずつ単語が聞こえるようになって来ていて、語学の勉強にもなった。しかしそこが僕の大きな問題だった。辞書の細かい字が見えないので、耳で聞き覚えた単語をそのつど直子さんに尋ねて憶えて行くしかない。気の遠くなる作業で、直子さんにも迷惑を掛けた。以前にも一度直子さんに「やっぱりきっちりと語学学校で基礎を勉強するべきよ」と言われ、私立の語学学校に連れて行ってもらったが、やはりテキストの小さな文字での授業には付いて行けず断念したのだ。「とにかく少しでもたくさんドイツ人と会話する事、それから家ではラジオやテレビを聞いてドイツ語に耳を慣らす事」と直子さんはアドバイスしてくれた。でもそのころ僕は、皆と同じように流暢に会話出来るようになるのはまず無理だろうと諦めていた。毎日僕は少し早めに行って、もらった曲を練習し、授業でも毎回歌ったが半ページも通して歌う事が出来ない、体中のいろんな筋肉が悲鳴を上げて、息切れして目まいがした。僕は今まで周りのテノールに対して「どうして皆こんなに下手なんだろう、高い音は詰まっているし顔をまっ赤にして苦しそうだし、すばらしいと思う人はめったにいない」などと思っていたが、心の中ですべて撤回した。自分が苦労しているから言うのではないが、テノールと言う声種で歌うというのは、トレーニングされた筋肉と特別な技術、そして生まれ持った身体の構造を要する大変難しい事なのだ。微妙な身体や筋肉の変化も作用するため、20代前半ですばらしく歌えていても、30歳までに全く歌えなくなる人もいれば、どんなに努力しても歌えなかった人が40歳50歳になって急に歌えるようになる例も有る。こう言った事は他の声種には例が少ない。声と言うのは全くミステリアスだ。 つづく
2006.01.10
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次の日は昼からの授業に向けて汽車に乗って出掛けた。到着したのは授業開始10分前だったが、玄関のドアは閉まっていて、ベルをいくら鳴らしても誰も応答はなかった。それから30分、40分待ったが誰も現れなかったし、家はしーんと静まりかえっていたので僕が仕方なく帰り掛けた時、車が一台やって来て、ドアが開き直子さんが降りて来て「早く着いたのね、ええ?!ひょっとしていつもの時間だと思って?ごめんなさい、冬時間の事言うの忘れてた!」と言って頭を抑えた。「冬時間って?」と僕も驚いて尋ねた。「こちらは夏の間夏時間というのがあって、その間時計を1時間進めるのよ、そして今日それを冬時間に戻す日なの」と説明してくれた。「と言うことは、時計を1時間遅らさなくてはいけないんですね」「その通り、本当にごめんなさいね」そこに先生とベルンとが車で帰って来た。我々がレッスン室で話していると次々と皆やって来て、クワストフも入って来た。彼は「ハロー!」と僕に挨拶して隣に腰を下ろした。直子さんが冬時間の事を説明すると、彼は手の平をぴしゃりとおでこに当てて「悪い!トシに言うのを忘れてた!」と言った。「ところで昨日はうまく会話出来たの?」と直子さんが尋ねると「もちろん、僕たちは輝かしく話したよ」とクワストフは微笑んで僕の顔を見た。その日の授業で先生は「そろそろオペラのアリアをやってみましょう」と言って、モーツァルトの歌劇「Cosi fan tutte/女はすべてこういうもの」の中のフェランドのアリアを僕に渡した。それまでは小さな歌曲を使って訓練していたが、テノールのアリアに挑戦するのは始めての事だったのでわくわくした。この曲は日本でも周りのテノールの友達が皆歌っていたし、学生時代に皆やるので、まーそんなに苦労しなくても歌えるようになるだろうとタカをくくっていたが、とんでもない事だった。 つづく
2006.01.08
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その日の授業が終わり、クワストフと僕は彼のアウディーに乗り込んでアウトバーンをケルンへと向かった。道中彼は陽気にいろいろ話し掛けて来て、僕が理解していないのを見るとゼスチャーを交えてすべて諦めず説明してくれた。彼はとても細やかな思いやりを持ってこちらが分かりやすいようにとてもうまく説明してくれたので幾つかの単語を覚える事が出来た。その時彼は今日の授業の事について話していて、「いつもならそれさえも分からない所だ」僕も言いたい事を数少ないボキャブラリーとジェスチャーで必死に伝えようとして、彼も根気強くそれを汲み取ろうとしてくれた。アウトバーンを下りてケルンに着くと「腹が減ったからハンバーガーを食べて行こうぜ」と言って彼は腹が減った!というジェスチャーをした。我々は歌劇場の向かいにあるマクドナルドに入ってハンバーガーを食べた。味も店内の感じも店員のユニホームも日本とまったく同じでとてもほっとした気持ちになれたが、ただ店員の女性はにこりともしなかった。僕たちは学生チケットを買いホールに入ったが、クワストフが係員のおばさんと顔見知りなようで、ど真ん中の空いているとても良い席をこっそり教えてもらいゆったりとそこに座った。「ケルンの伝統的なすてきなホールは戦争で完全にやられて、戦後このつまらないホールが建った」と彼は説明してくれた。確かに殺風景ななんの装飾もないホールだった。その日の曲目は偶然にもシューベルトの「美しい水車屋の娘」で、[プレガルデイエン]はまるでドイツのビールを喉越しで味わっているような爽快で抒情的なテノールを聴かせてくれた。帰りの車の中で彼は「高い音が良くない」とか「喉が硬い」などと批判していたが、「でも僕は幸せだった」と言うと、「そうか!」と嬉しそうに微笑んで僕の膝を揺すった。彼は僕のアパートまで送ってくれ、「それじゃまた明日!」と言って別れた。 つづく
2006.01.05
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駅を出て歩き出すと山が見えた。この辺りは小高い山と山との谷間に先生の家が有る村があり、もっと谷を山の突き当まで行くとグンマースバッハという小さな町が有る。20分もあれば直径を歩けてしまうぐらいの小さな山に囲まれた町だが、そこにはデパートや歌劇場も有った。先生の家の玄関に立つと小川のせせらぎが聞こえ、山の草木の匂いがした。午前中のレッスンを終え小川の畔に座って昼ご飯を食べた。日本にでも有るようなただの田舎の小川だが何だか水の流れる音も違うし、そよぐ風の匂いも違うような気がして、このドイツの地で詩人たちが何百年も何千年も前にこういった小川の畔で詩を読んだ素朴な心に思いを馳せ、ミュラーの「美しき水車屋の娘」の粉引き職人になったような気がした。午後からの授業の前に部屋に座っていると、これまで何度か顔を合わした事の有るクワストフという男がやって来て、僕の隣に座ってハロー!と微笑んだ。彼は僕より三つぐらい年下で、音楽大学のような所で訓練を受けた事がある訳ではなかったので楽譜がうまく読めなかったが、とても良い声のテノールだった。彼は思い付いたように僕に向かって何か話し掛けて来たが僕には理解出来なかった。そこに直子さんがやって来たので、彼は「おーい直子!助けて!」と彼女を呼んだ。直子さんは笑いながら僕たちの傍に来て「はい、何をトシに訳せばいいの?」と言った。最初にここへ来たころ先生に「名前は?」と尋ねられ、「としゆき」と答えると、「長すぎるのでトシと呼ぶわね」と言われ、僕のあだ名が決まったのだ。クワストフは、今晩ケルンの歌劇場で[プレガルディエン]と言う有名なテノールがリサイタルをするので一緒に聴きに行かないか?」と誘ってくれていたのだ。「行きたいけど話せないからちょっと心配だな」と言うと「何言ってるの、身振り手振りで何とかなるわよ、行ってらっしゃい!」と直子さんに言われ僕は行くことにした。「OK、それじゃ決まりだ!授業が終わったら僕の車で一緒に出掛けよう!」と彼は嬉しそうに微笑んで僕の膝を叩いた。 つづく
2006.01.04
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次の日朝から中央駅に向かい駅のホームの売店でクラッカウワーを朝食に食べグンマースバッハ行きの汽車に乗り込んだ。ディーゼルはとてもうるさく車内まで匂いが充満していた。座席はすべて4人席になっていて、シートは硬く背もたれは垂直で乗り心地はあまり良くなかったが、町を離れるとすぐに広大な野原が広がった。日本では山が有る所以外はすべてといってもいいほど家やビルが立ち並び至る所が都会といった風だが、こちらは広大な野原の所々にぽつりぽつりと町が有るといった感じだった。汽車の右の窓からも左の窓からも地平線まで続く野原と木立が続き、その風景は僕に海の底を思わせた。そして山がない、そうこちらには山らしい山が見当たらないのだ、それが僕を何だか落ち着かない気持ちにさせていた。日本ではだいたい何処にいても高い所に上れば山が見える。こちらは野原も町も地平線まで続いていた。幾つかの駅に止まり何人かの人が乗ったり降りたりして、窓からはとてもきれいな色の教会の屋根や窓際のフラワーボックスに飾られた花々や石畳の路地などが見えた。何処も小さく静かな古い田舎町で童話に出て来そうだった。40分ほど乗っていると小高い丘の上に羊や牛が放牧されているのが見え、線路の傍らには鹿も居て、開けた窓から牛の糞の匂いがして何だか懐かしいのんびりした気分になって来た。1時間ほどするとやっとディーリングハウゼンに着いて下車した。ホームの階段を下りると天井の高い相当古い駅のロビーに出た。駅に改札というものが存在しない事にもしばらく慣れなかった。切符の確認はすべて車内でやる。改札という物が有るのも日本だけなのだろうか。大きくて重い木のドアを押し開けて駅の外に出て、先生の家に向かって歩いた。 つづく
2006.01.03
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ケルン市内の「ウルレ門」に車を止めて直子さんは「悪いけど明日から一人で電車で行ってくれる?本当は毎回同じ時間に登校と言う訳ではないのよ、私には仕事もあるし、主人のご飯も作らなくちゃならないし」と言って笑った。「ケルン駅の一番端のホームから[グンマースバッハ]行きのディーゼルの汽車が出てるからそれに乗って終点一つ前の[ディーリングハウゼン]と言う駅で降りて徒歩10分ぐらいね、大丈夫?」「大丈夫です」と僕は答えて車を降りた。直子さんは去り僕はウルレ門を見上げた。ここには5・6百年昔の物であろうと思われる城壁の一部と門があった。町の至る所にこういった門があったがその中でもこの「ウルレ門」は有名な遺跡だそうだ。そこから路面電車で10分ほどでアパートに戻ると一階の部屋の窓を一人のおばあさんが水で洗っていた。僕の顔を見ると何か話し掛けて来て冷たい手で僕の頬に触れた。それから彼女は部屋に案内してくれ、僕をテーブルに着かしてから冷凍庫からアルミホイルに包んだパンを取り出し薄く切ってコーヒーを入れて「どうぞ」と言った。「そうか、残ったパンはアルミホイルに包んで冷凍庫か」と僕は思った。いつもパンを買って来ても一人でなかなか食べきれず一晩たつと石のようにかちこちになってしまい困っていたのだ。彼女は僕が話せない事など気にせず一人でべらべら話した。話の中で自分の年は84歳だと言い、その後もしゃべり続けたがどうやらアメリカを批判しているようだった。アメリカと言うたび顔を顰めた。このままでは朝まで終わりそうではなかったので話が途切れた所でおもぐろに立ち上がり握手をして「ありがとう」と言って部屋に戻った。その後も何度もおばあさんと顔を合わせ挨拶したが、どうやら一人暮らしのようだった。 つづく
2006.01.02
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皆様明けましておめでとうございます。今年も皆様のご健康とご活躍をお祈りいたしております。私の文章が何かしら皆様にとって安らぎとなる事を願っております。 茶木敏行
2006.01.01
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