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家賃一万二千円の化石のようなアパートの部屋で俺は念入りにサクスフォーンの手入れをする部屋一杯に敷き詰められた布団の上で妻は三人の子供たちを寝かせた後のほんの一時を安らいでいるこのサクスフォーンでしか食べたくないという俺の我侭に何故そこまで苦労を背負い込めるのか本を読む横顔を眺めながら不思議に思う隣人たちが風通しの良い廊下に座り込んで小声で話す声が聞こえる妻を誘って廊下に出れば古代ローマの街角の水門のような場所に微かな共同トイレの匂いを含んで涼しく夜風が吹き抜けているそんな長い底密の床に腰を下ろしながら「私この一時が大好きなの」と声を顰めてにっこり笑う「そりゃ私らにしかない幸せよ」と隣のおばさんが団扇をパタパタさせて話に入って来る妻の手を取って俺の膝の上に置くその手の平を開いて彼女の一日をじっと数えるまだ若いその指は俺のサクスフォーンの音色となって過去と未来の見分けの付かない満天の星空を今遥かに震わせている2007年8月
2007.08.30
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背の高い男でないと許せない女と胸の大きな女でないと許せない男が互いの希望を満たして一緒に暮らし始めた部屋の中には平凡な家庭の明かりが灯ったがそこに実は母性も父性もなかったからちらばったおもちゃはおもちゃ箱に片付けられることもなく満たされないがらくたが積み重ねられそこから床に毒を滲ませて行った女は胸元の大きく開いたブラウス男は三十センチのスニーカーを履いて別々にドアを出た誰も居なくなった部屋でも毒は床を伝って地面に染み込み下水までも濁らせて行くのであった。2007年8月
2007.08.25
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外の雨は少し弱まって行ったかと思えば、またバケツをひっくり返したみたいに降り出したりを繰り返していた。「それで君は今お父さんと暮らしているの?」「弟が一人いるんだけど、お母さんと出て行って、私はお父さんと二人で暮らしている、でもこの歳になってこれでいいのかと思うようになって来たの。同世代の男の子と恋もしないで、結婚もしないで歳を取って行っていいのかって」僕は黙ってそのことについて考えてみた。「本人たちがそれで良ければ別にいいような気もするし、何か間違っているような気もするし、よく分からないね」と言って笑った。「貴方、寛大な考え方ね」と彼女も笑う。「でもね、お父さんとそういう関係になって悩んでいる人はドイツではかなり多いのよ」「えっ!これはそんなに珍しい話ではないのか?」「アンケートを取ったら、初体験はお父さんですっていう答えがかなり多かったってテレビで言ってたわ、でもドイツでもそれはやっぱりタブーなの、だから皆そんなこと口にしないわね。」「君はどうして僕にそんな個人的な悩みを話すのだろう」「分かんないけど、多分トシが外国人だからじゃないかしら」「なるほど、どこか気楽だもんね」僕は軽く彼女の肩を叩いて笑った。 つづく
2007.08.21
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「それは思えば、私が16歳のころだったわね。お父さんが大好きだったし、お父さんはキャンピングカーで旅行するのが好きだったから、いろんな所に二人で行ったわ。14歳を超えたころからはいろんな話も出来るようになって、お父さんの悩み事も聞いてあげられるようになった。そして16歳になると当然のように男性としてお父さんを受け入れるようになって行った。何もおかしいことだとは思わなかったわ。」「お母さんはどうしていたの?」「彼女も小さな会社を経営していて、仕事を軌道に乗せようと躍起になっていたから、家庭のことまで気が行かなかったみたい。私とお父さんが仲良くやっていて、やれやれとでも思っていたんじゃない」「それで、それからどうなったの?」「私が20歳になった時、お父さん、お母さんに正直に言っちゃったのよ」「えっ!?言っちゃったって、君との関係のこと?」「そう、それでお母さん精神的におかしくなって、離婚しちゃったの。」僕は小さく首を横に振って、ため息を吐いた。 つづく
2007.08.19
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雨はどんどん強くなり、車の外は何も見えなくなった。 昼間とは思えないほど暗くなり、我々は車内にうずくまるように雨の止むのを待った。 クリスティーナはシートを倒し、寛いだ風に横になって言った。 「トシには兄弟はいる?」「妹が一人いるけど」「妹のことは好き?」」「取り分けて絶交するほどの喧嘩はしたことはないな」「お父さんお母さんは?」「人並みに反抗期を通り過ぎて来たけど、憎むことはなかったな、君はどうなの?」「私はお父さんへの愛を断ち切れないことに悩んでいるの」「別に断ち切る必要はないんじゃないかな、お父さんが好きっていうのは、悪いことじゃないし」「そういうのとはまた違うのよ」と言ってクリスティーナは目を伏せた。 「じゃどういうことだろう、まさか男女愛じゃあるまいしね」と言って僕は笑った。 彼女はやはり何も言わず目を伏せていた。 僕は自分のシートも倒して、彼女と同じ高さの視線になって言った。 「そういうことなの?」「そう」とため息交じりに答える。 僕が驚いて彼女を見ていると「日本人の貴方には全く理解出来ないこと?有り得ないことなのかしら?」僕は考えてみた。 僕が知らないだけで、そう言った親子も日本にだって存在するのかもしれない。 「僕には想像出来ない」と正直に答えた。 つづく
2007.08.13
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日常に埋没していては何も生まれない日常から出て日常を見付けるためにあの街を訪ねたでももうそこはあの街ではなく全部が過去を消すために清潔な包帯で目隠しされていて蚊取り線香の匂いすらしない数人の老婆がこざっぱりとした服装で玄関先に立って小声で話し僕はゆっくりと前を通り過ぎる老婆たちの目付きは急に鋭くなり牙を隠すために口元は閉じられたまま張り付くような微笑を残す「車が来るよ」という声で振り向くと猛スピードで白い車が傍らまで近付いて来ていて僕の体を擦り抜け黒い車に変わって次の角を曲がる「毎朝訪れる便は我々の最も大切な体調の知らせです人間に行き詰まったら生物に戻れこれも大事な私達の合言葉です」とその女は耳元で囁く。女の襟元から微かな汗の匂いがし僕は固く勃起する研究室の窓の外では鶏のがさごそ動く気配がして機関車の汽笛の音が遠くに聞こえ僕は生物に戻る努力をする生まれてすぐこれから訪れるであろう苦しみと絶望を思い僕は苦悶の表情で泣き叫ぶまだ鮮明に残る前世の記憶に別れを言えぬままやり終えた安堵感も味合わぬままその声はインテルメッツォの41小節目の四分休符に吸い込まれていったがその暗黒の中で砂時計はさらさらと細かい砂を死の上に降り注いで行った。2007年8月
2007.08.11
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地底深く眠っていた石たちはそのもてるエネルギーをついに放出し怒りに地面を揺さぶり苛立ちに震える。恐ろしいハリケーンは人類の営みを根こそぎ舐め回しすべてを引き抜いて「ここまでだ」と叫び天空高くに放り投げる。隕石はものすごい衝撃と共に地球の滑らかな肌に減り込み裂けた傷口の暗闇に我々も町丸ごと飲み込まれて行く。鳥も動物も人間もその終わりの時を甘んじて受ける。家の食卓に座ったまま地底に落ちて行く窓の外の突然の暗闇の中でおじいちゃんが言った。「一つの何かが終わり一つの何かが始まるめでたい日じゃ。この百年ほどの間に我々人間が重ねて来た瑕疵の決算の日じゃ」地鳴りの音でその後のおじいちゃんの言葉は聞こえなくなる。人々の様々な悲鳴を聞きながら光も空気もない母なる自然の燃え滾る熱の中に溶け戻って行く。2007年8月
2007.08.08
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クリスティーナの車は音もなく滑り出し、アウトバーンに入った。その日の彼女は、ノースリーブで裾が踝まである黒のワンピースに、いつもの綺麗な肩までのブロンドの髪、茶色のサングラスという出立ちだった。「あれから私また京都の本を読んだのよ、紫式部のことや、金閣寺、大文字のことなんかも知ったわ」「へー、事実以上に美しく紹介されていなければいいけど」「私、ますます行ってみたくなった」「夏は避けた方がいいよ、あの湿気は君たちには耐えられないだろうからね」「分かった、じゃ夏に行くわ」「なんだいそれは、どうしてだよ」「どうしても大文字を見てみたいから」「なるほど」踝まである彼女のワンピースに安心していたが、よく見ると太腿の上の方までスリットが入っていて、アクセルを踏み変える度に開いて行き、白い裸の足が見え始めた。やれやれと目を逸らすが、気になって仕方がない。一時間少しで目的地の村に到着し、教会の近くの駐車スペースに車を置いて、鉄の扉を押してみるが開かない。リハーサル時間までにはまだ一時間ほどあるのだ。念のため早く出発した上に彼女はかなり飛ばした。教会の周りの石畳の裏通りを散歩してカフェを探したが、日曜日でどこも閉まっている。そうこうしているうちに雨が降って来て、あっという間にものすごい勢いになって来たので、我々は車に逃げ帰り、フーと息を吐いた。 つづく
2007.08.05
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