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「キネマ旬報」(6月下旬号)は岡田茂追悼特集である。この関連の特集として注目すべきは「映画秘宝」(8月号)の東映特集である。「東映不良性感度映画の世界」というタイトルに内容についても一目瞭然。「仁義なき戦い」「トラック野郎」「女番町」シリーズ・・・娯楽映画のすべてがここにある!というフレーズがそそるではないか。「最近、日本映画が元気」などとよく言われるが、本当か?私にはとてもそうは思えない。魅力がない。その魅力とは「不良性感度」である。かっての東映映画が持っていた「世の良識に歯向うような不良性感度」が全くない、のっぺりとした健康食品のような作品ではつまらない。そうした失われた映画の魅力を再度、気づかせてくれる「映画秘宝」の特集である。必読!
2011年06月30日
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主演女優の入国拒否事件で初めて知ったが、アウン・サン・スー・チーさんの半生が映画化されるという。主演はミシェル・ヨー。風貌や体格などピッタリだと思う。しかし、監督がリュック・ベッソンというのはどうなのか?アウン・サン・スー・チーさんの半生とベッソン監督の映画世界がどのように関わるのか。非常に不安でもあり、意外性への期待でもある。これは、はたして、リュック・ベッソンにとって起死回生の作品となりうるのか?
2011年06月29日
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ダニエル・クレイグとレイチェル・ワイズが結婚したとのこと。式の参加者は、それぞれ子どもと立会人の友人たちの4人とか。レイチェル・ワイズには、前の恋人ダーレン・アロノフスキーとの間でジャッキー・ケネディの伝記映画の企画があったはずであるが、これは企画も消滅ということか。レイチェル・ワイズがジャッキーを演じるのは当りだと思ったのであるが・・・。ほぼ同時にニュースとして報じられたのが、鈴木清順監督の48歳差結婚。婚姻届を提出したのは7年ほど前で、「私のファンの1人で、サインをもらいに来たことが出会いのきっかけだった」とのこと。さて、こちらの新作は?
2011年06月28日
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まちに蔓延る悪いやくざや無法者を退治した「良いやくざ」や「良いガンマン」も結局は、「所詮はあいつらと同類だ」として差別され、弾圧を受けることになる。このようなストーリーは、過去に多い。西部劇では「ワーロック」。東映任侠映画では「暴力団再武装」などが浮かぶが、この「Xメン ファーストジェネレーション」もまた、そのような重いテーマを背負った社会派コミックである。ナチスの時代からキューバ危機の時代にかけての物語で、山場はキューバ危機である。第2次大戦後の世界をナチスの残党が跳梁しているというのは、おそらく本当であろうし、フォン・ブラウンの例にもあるように実際にアメリカの戦後の繁栄や技術力を支えた大きな力になっていたのではないか。人間が持つ差別と偏見が、実は諸悪の根源というのが、この映画のテーマであろうが、非常に充実した内容である。
2011年06月27日
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ピーター・フォーク死去のニュース。ピーター・フォークといえば、テレビの「刑事コロンボ」であるが、「グレート・レース」でのジャック・レモンとの悪役コンビやシリアスな作品「大反撃」、「明日よさらば」、「アンツイオ大作戦」なども印象に残る。ジョン・カサベテスとのコンビは有名であるが、共に俳優として共演した「明日よさらば」にはジーナ・ローランズも出演。「刑事コロンボ」では、あのとぼけた表情と冴えないファッションから頭は切れるが、人情味のあるやさしい人物と思われそうであるが、「お友達になりたくない人物」のトップクラスである。極めて冷酷でエゴイストである。様々な作品でのキャリアが、コロンボという人物に奥行きを与えていたのではなかろうか。極めて優れた俳優であった。ご冥福をお祈り致します。
2011年06月26日
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映画「もしドラ」では前田敦子の好演は当然として、宮田夕紀役の川口春奈に注目したい。久々に映画に登場した正統派美少女である。しかも美人薄命という設定である。川口春奈に注目である
2011年06月25日
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ギョンチョルは本当に極悪非道な人間である。残虐な殺人を情け容赦なく繰り返すギョンチョルが、もしそのような行為をやめることがあるとすれば、それはどんなきっかけであろうか?息子に関することであろことは想像できる。具体的にはどんなことだろうか?息子が「もうこれ以上の殺人はやめてくれ」という懇願であろうか?もし、スヒョンが息子を人質に取るか、息子を殺すようなことがあったら、どうなるのだろうか?正義の側にいるスヒョンとしては、あくまで狙いはギョンチョルであり、彼を痛めつけることだけが目的なので、スヒョンが彼の息子を殺すようなことはないと思われるのだが・・・。
2011年06月24日
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きつね雑貨市GINKOさんが注目された「ギョンチョルが自室でギターを弾くシーン」について、もう少し書いてみよう。GINKOさんのコメントに触発されたようなものである。ここで注目すべきはGINKOさんも指摘しておられる「顔が全く写らず、背中からのワンカット」という点である。このとき、ギョンチョルはどのような表情だったのであろうか。弾いている曲が「朝日のあたる家」であることを考えれば、おそらく自らの人生をふりかえっているのであろう。問題はそのふりかえり方である。悔恨であろうか、呪詛であろうか。どちらにしても彼の殺人への行動への理由になりうる。さて、どちらであろうか?どちらにしても名優チェ・ミンシクであれば、観客への説得力は十分な表情が出来るはず。むしろ、このような場面こそ、チェ・ミンシクの演技力の見せ所のはず。それを敢えてとらずに、背中からのみを見せたのは何故であろうか?もしかしたら、それは「見せないこと」や「描かないこと」で観客に衝撃を与えようというものではなかろうか?どんな名優の表情でも見せてしまえば、それはそれだけのこと。むしろ見せないで観客の想像に委ねることでギョンチョルの心の闇の深さを、そしてギターを弾くときの精神状態が人生への悔恨であるのか、呪詛であるのかも併せて観客に委ね、その深さと恐ろしさを描くことが出来たのではなかろうか?
2011年06月23日
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「奇跡」で是枝監督によって選ばれたという「まえだ・まえだ」の二人を遥かにしのぐ魅力的な出演者は内田伽羅である。抜群の存在感と未来の大物を予感させている。内田伽羅を主役にした物語にすれば、この作品はもっとすごい作品、例えば、日本版「ミツバチのささやき」にもなりえたのではないか。「まえだ・まえだ」の二人もさすがに子どもの演出が巧い是枝監督により好演なのであるが、要するにその程度である。(ついでに言っておくと、この二人、ちょっとうんざりさせるキャラであるゆえ、彼らの漫才など見たくもない。)
2011年06月22日
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「スカイライン-征服」の宇宙人は人間の脳を食料にしているが、食料として消化するのではなく、その脳を自らの脳として利用するのである。そのことは、ラストシーンではっきりと描かれる。つまり宇宙人は人類のコピー版となるわけだ。ということは、あの宇宙人たちの未来も決して明るくはないのである。大変な科学技術を持っていると思われる宇宙人たちは、地球人類の有様を観察しなかったのかと言いたくなるのである。このことをどのように解釈すれば、いいのだろうか?宇宙人の愚かさは、人類への批判にも当てはまる。また、脳が「向こう側」に移っても、つまり「転向」しても本質的な愛情は不変であるという意味なのだろうか?それなら、向こう側に行かないように戦うことは無駄であるという意味なのか?このあたり裏目読みをすれば、面白いのではないか。
2011年06月21日
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イ・ビョンホンの熱烈なファンであり、イ・ビョンホンとキム・ジウンのコンビ作には、私にとって常に刺激的なレビューとコメントを下さるきつね雑貨市GINKOさんからの「ギョンチョルが自室でギターを弾くシーンがありますがあれをどうとらえるか、ご意見を伺いたいです。」という宿題に対して書いてみよう。これは歌うことをやめたスヒョンに比してギョンチョルの行動の自由度、優位性を描いたものと考えたい。先のレビューでも書いたが、スヒョンとギョンチョルとの戦いは常にギョンチョルが優位なのである。ギョンチョルは常に自然体で行動して殺戮を繰り返す。一方のスヒョンは喪失感の中で戦わねばならない。自然体ではないのである。スヒョンとギョンチョルとを比べてみると、スヒョンは「陰」であり、ギョンチョルは「陽」なのである。自室でギターを弾くシーンは、そうしたギョンチョルのキャラクターを示したものではなかろうか。ギョンチョルは「陽」であるからこそ、自由奔放な天性の殺人鬼としての説得力があるのだ。
2011年06月20日
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「3.11以降を生きる上で見るべき映画」というセレクションをするなら、この映画はそのひとつとしてあげられるべきであろう。九州新幹線の全線開業が3月12日であり、火山の噴火は山が生きている証拠だという意味のセリフがあったり、桜島が噴火して、この鹿児島が人の住めない町になれば、今、離れ離れに暮らしている家族が再び一緒に住めるとか、奇跡を願うときに、家族より「世界」を考えたとかいう視点など奇妙な暗合が語られる。「意味わからん」と言いたくなる社会の中で、妥協やあきらめではなくその社会に適合していく成長物語としてアッバス・キアロスタミやフランソワ・トリュフォーのアントワーヌ・ドワネルものとつながる傑作である。九州新幹線が全線開業する日、博多発と鹿児島発の2つの新幹線の一番列車がすれ違う瞬間を目撃すれば、そこから生じるすごいエネルギーが奇跡を生み出し、願いが叶うという噂から物語は始まる。見る前は、単なる新幹線タイアップ作品であり、是枝監督がJRに取り込まれた作品を作ったのかと一抹の不安を抱いて見たが、JRとも新幹線とも関係なく、そのようなものは脇の脇に位置づけられ、前作「空気人形」が都会の中のファンタジーであったように、「奇跡」はこの社会におけるファンタジーとして「3.11以降」を生きる私たちに様々な気付きを教えてくれるファンタジーである。
2011年06月19日
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キャスティングはD級ストーリーはC級ビジュアルがA級を目指した結果のB級という大作風小品である。攻めてくるエイリアンはというと、これがスピルバーグの「宇宙戦争」の火星人のようなもので、人間の捕獲の仕方などそっくりである。オリジナリティはどこにあるのかと言いたくなるような作品であるが、製作費のかなりの部分をビジュアルにつぎ込んだその努力のかいあってか、そこそこ楽しめるのである。最近のこの種の作品では強いアメリカという「ID4」のようなアメリカ賛美は影をひそめ、ひたすら爆撃される側からの視点で描いているが、これも「宇宙戦争」でスピルバーグが描いた路線で、空爆を行うアメリカに対して空爆される側の立場を描く映画作家の姿勢は、現代のアメリカ人の意識の反映なのかもしれない。さて、全くオリジナリティを感じさせないようなこの映画で唯一オリジナリティを発揮したのはラストである。どんなラストかというと「第9地区」と非常によく似ている。何気ない伏線もよく効いている。あの二人がその後にどのようになっていくのか非常に気になるところ。実は、ここにこの作品の作家のメッセージがあるのではないかと思ったのであるが、どうなのであろうか?このラストを見たときに、一見つまらないB級以下のSF映画であるが、実は大変なメッセージをこめているのではないかと思ったのである。
2011年06月18日
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「Everyday、カチューシャ」は映画「もしドラ」には合わないという意見が多数派のようだ。しかし、私にはそうは思えなかった。甲子園への切符を手にした瞬間の部員や応援の観客たちの歓喜の中で前田敦子演じる川島みなみは、ただ一人、喜んでいいのか、泣いていいのか、どうしていいのか判らない呆然とした表情で突っ立っている。そうしたラストの後のエンドタイトルで流れる「Everyday、カチューシャ」は、そんな主人公の感情を思い切り開放するのであり、その開放感は観客にも伝わってくる。エンドタイトルはこの歌で良かったと思う。エンドタイトルの音楽でがっくりくることの多い日本映画が多い中で、これは久々のヒットではなかろうか。
2011年06月17日
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宇宙からの飛行隊が地上を攻撃するシーンが映し出されて震災で公開延期となった「世界侵略・ロサンゼルス決戦」の予告が再開したかと思ったら。「スカイライン-征服」の予告編であった。舞台はどちらもロサンゼルスのようだ。これに加えて「トランスフォーマー・ダークサイドムーン」も「スーパー8」も映像だけ見たら、どれがどれだか判らないのである。そういえば、日本映画も犬が登場する映画がやたらと多いようだし、「ランウェイ・ビート」も、「高校デビュー」も「パラダイス・キス」も似たような感じであるし、邦画も洋画も似たような作品が多すぎるのではないか。これは、単なるブームなのか、ブームというには、それほど話題やヒットにはなっていないようだ。要するに、創る側の創造力が枯渇しているのか?それとも見分けがつかないのは私だけか?
2011年06月16日
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スヒョンとギョンチョルとの闘いは、どのような結果に終わろうとも実は、最初からギョンチョルの勝ちなのである。そのことは、スヒョンに仕留められたギョンチョルが最後に言い放った通りである。殺された者の苦しみの何倍もの苦しみをギョンチョルに与えて殺そうとも、失われた命が戻ってくることはない。決してスヒョンは勝つことはないのである。そのスヒョンが最後にとった手段とは、肉親に殺させて生き残った彼らに一生残る心の傷を負わせるという極めて残酷な手法であった。それでもスヒョンが満足することはない。心が晴れることはない。ラスト、呆然と慟哭の表情を浮かべて歩くスヒョンの表情には、そのことが表れている。その後の彼は、スーツを着ることも、歌を口ずさむこととは縁のない人生を歩むことになるのであろう。おそらくあの後、彼は自ら命を絶つのかも知れない。そうなるとギョンチョルの遺族たちは復讐の相手もないままに生きるのである。キム・ジウン監督は警察も司法も、そして道徳観も関係ないと、それらを拒絶した中で復讐をつきつめたのではなかろうか。
2011年06月15日
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「甘い人生」はアラン・ドロン主演のフィルム・ノワール、「グッド、バッド、ウィアード」はマカロニウエスタン、とキム・ジウン監督とイ・ビョンホンのコンビはヨーロッパ映画の名作にオマージュをささげるような映画創作を続けているようだ。(ちなみに、これはキム・ジウン監督とのコンビではないが、イ・ビョンホンの「誰にでも秘密がある」はパゾリーニの「テオレマ」からインスパイアされたのではないかと思っている)ヨーロッパ系への傾倒はイ・ビョンホンというよりキム・ジウンの趣味かも知れない。今回もギョンチョルの友人の屋敷はヨーロッパの森の奥深くにありそうな感じであり、まるで「O嬢の物語」の舞台にもなりそうだ。さて、今回の「悪魔を見た」は、何からインスパイアされたのであろうかと推理してみると、これはロベール・アンリコ監督の「追想」ではなかろうか?ナチの妻と娘を虐殺された田舎の医師、それも温厚で平凡なだけが特徴の男のナチへのすまさじい復讐の物語である。彼の復讐心を支えているのは、家族で過ごした平凡だが幸福な日常の思い出だけであったという物語である。「追想」を改めて見たい。
2011年06月14日
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この映画は何の映画かというと前田敦子のための映画である。これほど主演というのに相応しい扱いを受け、それを観客にアピールしたこと自体が素晴らしい。内容としてはある弱小高校野球部が次第に強くなって、甲子園への出場を果たすまでの物語で、さらにそこに悲劇も用意されているというありきたりな内容。そのありきたりな内容にも関わらず、圧倒的な魅力で見せるのが主演の前田敦子である。ラストの泣いているのか笑っているのかわからにような表情で、呆然と立っている姿は彼女の演技力というか、その資質の素晴らしさが納得である。前田敦子は、ほぼ全編にわたり出ずっぱりであるが、その魅力は圧倒的で、彼女によりこの作品は支えられているといっても過言ではない。1本の映画を一人の女優が支えた例としては「ローマの休日」があるが、この「もしドラ」もまたそうである。共に「信頼感」がキーワードである。みなみのマネージャーとしての日々は、アン王女にとっての「ローマの休日」の日々に相当するのではなかろうか。
2011年06月13日
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復讐に挑む者がその対象の「悪」と同化することだとは、よく言われることであるが、この物語では、その「悪」が更に強化され、新たな「悪」が目覚めていくのである。「甘い人生」でも「グッド、バッド、ウィアード」でも一筋縄ではいかない作劇を仕掛けるキム・ジウン監督であるから、その描写は単純ではない。イ・ビョンホン演じる、復讐に燃える主人公スヒョンの最初の登場場面とラストの比較をしてみよう。冒頭の婚約者が殺される直前の電話での会話では、歌を口ずさむ。また、彼女の死体が発見された現場では思わず吐き気がしたのか口を押さえる。ラストでは、彼は歌を口ずさむことなどとは縁のない世界にいて、ただ慟哭するのみある。もはや言葉にも用のない世界にいるのかも知れない。スヒョンの変化、その過程の行動の凄まじさを、観客には視覚で見せてきたのであるが、ラストで観客に改めて認識させるのである。見ている私には、その比較は、途中の血まみれと暴力シーン以上に衝撃的である。
2011年06月12日
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人は失意や絶望に立たされたときに救いとして何を求めるのか。それは「愛」であろう。では、それは「自分を愛してくれる人」なのか、それとも「愛する人」なのか?「八日目の蝉」の希和子が求めたのは、後者であった。薫を愛することによって自分自身を救おうとしたのではなかろうか。それは非常にエゴイスティックな愛ではあるかも知れないが、実に無償の、何の見返りも求めない純粋な愛であったと思う。それは映画を見ていてもひしひしと伝わってくる。この映画は「無償の愛」とはどういうものかを描いたのではなかろうか。
2011年06月11日
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昨日、6月9日はジョニー・デップとナタリー・ポートマンの誕生日であった。共にハリウッドのトップにあり、話題の新作が公開中。長崎では「午前十時の映画祭」で「シザーハンズ」が公開中というオマケ付き状態。こういう有様を見ると、誕生日占いとか星座占いとか案外と当るのではないかと思ってしまう。「シザーハンズ」、「ブラック・スワン」、「パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉」と並べてみると、映画界の栄枯盛衰が見えるではないか。
2011年06月10日
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年老いたキムは、この町に雪が降るようになった、その物語を語っている。キムは、やがて死んでいくのであろう。一方、シザーハンズ、エドワードはキムを思いながら雪を降らせていく。シザーハンズ、エドワードは、おそらく不死であろう。彼のキムへの思いは永遠に続く。それは、キムへ思いを永遠に抱くことが出来る甘美さなのか、それとも、せつなさや叶えられない希望を持つことの苦痛なのか?
2011年06月09日
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「フレンチコネクション2」の価値はジーン・ハックマン演じるポパイ刑事の走りにある。このシーンでそれまでに発散できなかったエネルギーが見事に炸裂してラストにつなげていく。さて、「プリンセストヨトミ」であるが、展開の単調さを救ったのは綾瀬はるかである。彼女を走らせたことが、この映画を救ったといっても過言ではない。
2011年06月08日
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東京と大阪は対立関係にあるようで、これは一種のライバル意識とでもいうべきか。但し、このライバル意識は両者間で均衡しているわけではなく、大阪側の一方的な意識のようだ。そうした意識が、例えば、「東海道戦争」のような小説が生まれる下地になっているわけで、この「プリンセストヨトミ」もまたその系譜の作品である。もうひとつの歴史を維持していく大阪の秘密という実に奇抜な着想。演じる堤、岡田、綾瀬、中井がそれぞれの個性を見事に発揮しているにもかかわらず、物語の展開がとろくて薄味なのである。これは、監督の鈴木雅之が東京人であるからかも知れない。もっと大阪土着の意識を持った大阪出身の監督なら、これはもっと違ったのではないかと思う。ところで私の大阪への思いであるが、あの「君が代条例」でペケである。愚劣な知事を高率で支持する大阪人など最低である。
2011年06月07日
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ジョニー・ディップにとっても、ヴィンセント・プライスにとっても、共にこの映画に出演したことは極めて幸福なことではなかったか。ジョニー・ディップについては、ここで改めて説明するまでもない。孤独な発明家を演じたヴィンセント・プライスは、彼を心より敬愛する監督によって彼に最も相応しい役柄を演じて、これが遺作となった。彼の永いキャリアを締めくくるのに相応しい作品であろう。少なくともその一つ前の監督をアラン・スミシーにされた「ハートに火をつけて!」が遺作であるよりは幸福であるはずだ。物語の中で、ジョニー・ディップが演じるシザーハンズ、エドワードを造り、世に出す発明家を演じるのがヴィンセント・プライスというキャスティングは、まるで異端のスターの継承の儀式を見ているようだ。この作品によってティム・バートンとジョニー・ディップの名コンビが誕生したことを考えると、ロジャー・コーマンとヴィンセント・プライスのコンビからの世代交代を見たようだ。そうしたことを考えると「シザーハンズ」にはティム・バートンとジョニー・ディップの最良のものが描かれている。
2011年06月06日
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韓国映画界が総力を結集して巨額の製作費を投入した超大作というチラシの紹介文に偽りはなく、冒頭からすさまじい臨場感の戦闘シーンが描かれる。本体が最後の洛東江戦線を守る為に、軍司令部が設置された浦項女子中学校を守った学徒兵たちの戦闘を描いた作品である。校舎に立てこもり、北朝鮮軍の猛攻に立ち向かったわずか71名の学徒兵たちというパターンは「アラモ」の玉砕戦を連想させるが、まさにそのような作り方である。朝鮮戦争を描いた作品といえば、南北に分かれて戦わざるを得なかった民族の悲劇を連想するが、この映画はそうした悲劇性よりも学徒兵たちの個々のキャラクターと韓国軍のカン隊長、攻めてくる北朝鮮軍のパク隊長を実に格好良く描いているのが特長である。その意味ではハリウッド超大作のヒロイズム戦争スペクタクルという趣きである。そのよな描き方だからこそ「アラモ」のような作り方が必然であったのかも知れない。韓国映画が描く朝鮮戦争はこのように変化してきたのかと思わせる作品である。これは、「マイ・バック・ページ」が全共闘運動を、あのように描いたのと同じことなのだろうかと思った。
2011年06月05日
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政治家というのは、どの立場にいてもかなり暇な人種なのかも知れない。彼らを選んだ人々が、これが一番大事と思ったことを無視して、関係のないことにすさまじいエネルギーを注ぎ込む。永田町のお互いの足の引っ張り合いや退陣定義ゲームなどは、その最たるものであるが、大阪府も相当のものだ。大阪府は「君が代条例」だと。そんなものがどうして必要なのか?国歌も国旗も制定する権力がある一方、それを無視したり、嫌悪したり、揶揄したり、茶化したりする自由も当然あるべきで、そういう自由のない大阪府は異常である。歌を歌わない人々より、この事態に永田町で内輪もめや抗争に明け暮れている人々の方が遥かに愛国心がないと断定できるのではないか?本当に彼らの姿を見ていると、要するに悲惨な状況にある国民など全く愛も、共感もないんだなと実感するのである。
2011年06月04日
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長崎のタウン誌「ザ・ながさき」が次号から休刊となった。事実上の廃刊である。1981年の創刊から約29年間続いてきたが、広告収入の減少、読者の減少によりこの結果となった。要因としては、インターネットの普及やフリーペーパーの増加などがあげられる。確かに、ここ数年間はこの雑誌の影響力や知名度の低下は、実感としてあった。さて、タウン誌がなくなるということは、どのようなことなのか、その結果が、どのようなことをひき起こすのか、実はこれはかなり大きな問題ではなかろうか。
2011年06月03日
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川本三郎の「マイ・バック・ページ」を初めて読んだときに、もし、これが映画化されるなら、しかし、これを映画化しようとするプロデューサーや監督がいるだろうかと思いながら、著者と保倉幸恵との交流のエピソードは彩りを添えることになるだろうと思っていた。それはあくまでも一種の装飾的な効果であって本筋は、あの激動の日々の中で迷いつつ生きた記者の青春物語であるか、あの事件の実相に迫るものだと思っていた。しかし、この小説を映画化する監督も登場し、現代の2大若手スターがキャスティングされた。保倉幸恵に相当する人物も登場し、原作に描かれているエピソードもほぼ取り入れられている。しかも、それは装飾的な位置づけではなく、主人公も含めて革命に関わろうとする人物たちとの精神的な比較をして人間像を見事に浮かび上がらせた。彼女は、この映画の影の主人公といってもいい。彼女の死を語るシーンも素っ気ないが、それがかえって効果をあげている。映画を見て、今、改めて原作を読んでいる。
2011年06月02日
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長崎市は、県内においても、また九州内の県庁所在地においても最も人口減少が激しい市である。そんな長崎市であるが、次のような人口増加時代もあった。1950~1955 6万人増加 1955~1960 4万人増加1960~1965 6万人増加映画「忘れえぬ慕情」の長崎ロケはそんな時代の真っ只中の1956年のことであった。戦後の復興期から高度経済成長に向かう上昇期に長崎市の中心商店街である浜町界隈が華やかな商店街として成長していた時期。戦後の長崎が観光都市として売り出していた時期。その商店街を中心とするまちなかはどうなっていたのだろうか?そのときのまちの表情は?まちのかたちは?人々は?そして、そのような状況を生み出したものは何であったろうか?長崎のまちが大きく変わろうとしている今、戦後から今にかけて変わろうとしていた時期を振り返り、そこにあったものを発見し、現在にフィードバックすることは出来ないか?そこにあるものから「まちなか再生」のヒントを発見すること。映画「忘れえぬ慕情」を、現在上映することの意義は、そのあたりにあるのではなかろうか?
2011年06月01日
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