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この映画を語る上でいくつかのキーワードがあると5月29日の日記で述べたが、「覚悟」もそのひとつであろう。多くの若者や、知識人と言われる人々が「革命」を叫んでいた時代、それぞれにある「覚悟」があったと思う。梅山にも、前園にも、その仲間たちにも、それは感じられる。沢田にも彼らをフォローしながら、そのような時代のジャーナリストとしての覚悟があったのではなかろうか。彼らに対して、沢田が勤める新聞社が出す週刊誌のカバーガールは、全く異質な存在のように思えるが、彼女の「私はきちんと泣ける男が好き」という言葉は、男に覚悟を求めるというより彼女自身の宣言のように聞こえる。映画を見ていて、私は彼女の「覚悟」が最も強いものに感じた。それに対して、梅山も、前園も、そして沢田も、結局は行動の結果のひとつでしかない「名を残す」ということにのみ囚われていたのではないか。それは「覚悟」とはほど遠いものである。
2011年05月31日
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監督の山下敦弘は1976年生まれ、脚本の向井康介は1977年生まれと全共闘運動が終焉し、また連合赤軍事件の後に生まれ、その生活の中に学生運動というものがない時代を生きてきた二人が、全共闘運動がピークの時期に生きて、その傷を抱えることになった川本三郎の一種の私小説を映画化したというこの異種配合のような組み合わせが、この作品の成功の要因のようだ。従って、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」のように監督自身が大きく関わった作品とは違った客観性、しかし、だからといって遠くから皮肉な目で見ることもなく、人物をリアルに描くことに成功している。煽ることもなく、センチメンタルに陥ることもなく、しかし、ラストの主人公が泣く場面でドラマのクライマックスを設定できたというこれは一種の奇跡のような映画である。
2011年05月30日
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この映画を語る上でいくつかのキーワードがある。そのひとつが「泣く」である。「男が泣く」ということである。大手新聞社(「朝日新聞社」がモデルであるが)の記者・沢田が自社の週刊誌の表紙モデルの少女と映画「ファイブ・イージー・ピーセス」に行き、その後、一緒に食事をしながら、彼女は「私はしっかり泣ける男が好き」と言う。幾多の出来事を経て、そして、その彼女も亡くなり、数年後に沢田がふと寄った居酒屋である人物と再会し、そこで涙を流す。映画は、その沢田が泣くシーンで終わる。このシーンは見事である。少女のひとことを伏線として、このラストは見事の生きている。そして居酒屋でのある人物との再会シーンのドラマとしても、最初に主人公が抱えていた後ろめたさと自省としても説得力がある場面である。このラストは、もしかしたら、今年の日本映画の中で最高のラストシーンかも知れない。もちろん見ている私も涙が出た。
2011年05月29日
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小説「海炭市叙景」(佐藤泰志・作)を読み始める。雑誌「シナリオ」(2011年1月号)も同時に並行して読む。映画は、ほぼ原作が持つテーマをそのまま映画化していることがわかる。それにしてもこれが、日本が行け行けのバブル期に書かれたということがショックである。佐藤泰志という作家が、当時の浮かれた一見リッチな世相の奥にある日本社会の実相を冷徹に見ていたということが判る。全体の感想は後日に書いてみたい。
2011年05月28日
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長崎市及びその周辺は歴史的な出来事、風景、独特の風土などから映画やテレビドラマの舞台になるケースが多く、必然的にロケが多いところである。最近ではNHK大河の「龍馬伝」は全国的な話題にもなり、また緒方明監督の「いつか読書する日」は、劇中に長崎という地名は全く登場しないが、長崎の特徴的な地形を実に巧く活用した名作である。そんな長崎市で最も大掛かりでスケールの大きなロケは1956年に行われた「忘れえぬ慕情」であろう。この作品は日仏合作の松竹映画。今でこそ海外との合作映画は珍しくないが、1956年当時に、当時の人気スター、ジャン・マレー、ダニエル・ダリュー、そして日本側からはこれまた人気絶頂の岸恵子というキャスティングは大変なものである。この映画のロケの記憶は多くの市民に残され、ある年代に方々には強烈な印象になって残っている。この「忘れえぬ慕情」を上映しようという動きが出て、検討が開始されている。是非、実現させたいのである。この動きについても随時、このブログでフォローしていきたい。
2011年05月27日
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ジョニー・デップの次回作はおなじみのティム・バートンとのコンビとのこと。「ダークシャドウズ」というタイトルはこのコンビにぴったりだと思ったら、60年代のテレビ番組のリメイクのようだ。また、リメイクか・・・。ミシェル・ファイファーも出演のようで、当然のごとく、ヘレナ・ボナムカーターも出演。さて、次はどんなメークとコスチュームで登場するのか、毎回のことながら彼女の化け方が楽しみである。
2011年05月26日
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普天間基地の辺野古移設をめぐる「日米合意」(昨年5月28日)から1年。「もう基地はいらない」という沖縄の民意は無視され続け、日米両政府は着々とことを進めています。一方で鳩山首相の「抑止力方便」発言や米軍再編合意の密約暴露、米上院軍事委員長らによる「嘉手納統合案」など、この「合意」の欺瞞性が明らかになっています。私たちは毎年「5・15沖縄連帯デー集会」を開いてきましたが、今年は、復帰から39年を経ても米軍基地が居座り続ける沖縄の現状、そして日米同盟と米軍基地、とくに海兵隊の抑止力などをテーマに、基地問題を取材してきた沖縄地元紙の記者を招いての講演会として県内3ヶ所で開催します。多くの皆様の参加をお待ちしております。※3会場とも入場無料。どなたでも参加できます。※チラシが必要な方はご連絡ください。<佐世保会場>日 時 5月25日(水)18:30~場 所 佐世保市労働福祉センター講 師 屋良朝博さん(沖縄タイムス論説兼編集委員)主 催 長崎県平和運動センター/佐世保地区労<大村会場> 日 時 5月27日(金)18:00~場 所 大村市勤労者センター(旧労働会館)講 師 滝本匠さん(琉球新報経済部記者)主 催 長崎県平和運動センター/大村地区労<長崎会場> 日 時 5月28日(土)10:00~場 所 長崎県教育文化会館2F大会議室講 師 滝本匠さん(琉球新報経済部記者)主 催 長崎県平和運動センター/長崎地区労<講師プロフィール>●屋良朝博さん(沖縄タイムス論説兼編集委員) 佐世保会場やら・ともひろ、1962年沖縄県出身。88年に沖縄タイムス社入社。基地問題担当、東京支社、ハワイ東西センター客員研究員などを経て現職。米軍関係者らへの取材に基づいて沖縄の基地集中の背景に迫った著書「砂上の同盟―米軍再編が明かすウソ」(沖縄タイムス社、2009)で平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞。●滝本 匠さん(琉球新報社経済部記者) 大村会場、長崎会場たきもと・たくみ、1973年大阪府生まれ。98年琉球新報社入社。2001年から八重山支局長として離島や国境問題などの取材にあたる。05年3月から本社政経部に異動、同年6月から1年間、在日米軍再編問題の取材でワシントン特派員に。政治部で基地問題を担当した後、鳩山政権発足を受け2009年11月から東京報道部。11年4月より本社経済部。<問合せ> 長崎県平和運動センター E-mail:ngs-heiwa@vesta.ocn.ne.jp
2011年05月25日
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「午前十時の映画祭」で公開された76年の作品「キャリー」は母と娘の物語であった。現在の新作としても「隠された日記」「八日目の蝉」「ブラック・スワン」「愛する人」と母と娘の物語が続く。「八日目の蝉」では父親の存在感は全くない。これは、現在の傾向なのか、それとも永遠のテーマなのか?
2011年05月24日
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この作品の原題は「AGORA」である。これは古代ギリシアでの人々の集会、交流、討論の場としての広場という意味である。つまり、デモクラシー実現の場であり、同時に異なるものが交流することから、合意形成をしていこうとする「理性の場」としての意味もある。広場での討論や交流は、この作品の中でも描かれるが、そこが衆愚と扇動の場として使われていることも描かれる。学問の都アレクサンドリアの図書館を創るのが人間であれば、それを破壊し、異なる宗教を弾圧し、虐殺するのも人間であることをこの作品はリアルに伝える。多数が力を持ち、それに従って行動することが決して懸命な選択ではないことをこの映画は教えてくれる。我々は政権や首長の支持率に注目するが、そもそもそのようなことが正当性を担保するものであるかどうか疑問ではなかろうか。では、何を基準にするべきか?その答えは、この映画のヒロイン、ヒュパティアの言動であろう。ヒュパティアの悲劇は、現在も続いている。
2011年05月23日
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この映画は歴史ドラマであるが、冒頭は宇宙に浮かぶ地球が映し出される。まるで「2001年宇宙の旅」のような始まりであるが、この地球全体を俯瞰するシーンは映画の途中で度々登場する。地球全体から舞台のアレクサンドリアへズームインしていくのである。 我々が生きて、そしてこの映画の中の人々が生きている場所が宇宙の中にどのように存在しているかを表現しており、監督の意図は明白である。悲劇の道を辿るヒロイン、ヒュパティアは、どのような状況に置かれても、アレクサンドリアが複数の勢力の対立にあっても、どちらかの側につくのではなく、常に理性と論理を重視して、それに従って生きていく。監督は「現代社会で何が起こっているかを間接的に語っている映画だ」と言っているが、ヒロインの生き方は、その現代社会に生きる我々に最も欠けているものだということを示している。この物語は4世紀のアレクサンドリアに起きた愚かな出来事を描いているが、現代の日本における例えば、東電の原発をめぐる状況は、この4世紀のアレクサンドリアとどこが違うであろうか?この作品は現代社会への痛烈なメッセージである。
2011年05月22日
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超能力ホラー映画と言ってしまってもいいのであるが、物語のポイントに「母と娘」との関係がある。「キャリー」は1976年の作品で、「午前十時の映画祭」で再登場したのであるが、偶然にも「ブラック・スワン」もまた、母と娘との関係がポイントのひとつになっている。この両作品、母親を演じる女優が、ハイパー・ローリー、バーバラ・ハーシーと、その前の時代の目立たないが、象徴的スター、カルト的存在とでもいおうか、そんな存在である点が共通している。これはジャンルは全く違うが、「夜の大捜査線」におけるリー・グラントもまた、そのようなキャスティングである。それにしても、ここでのハイパー・ローリーは彼女の代表作にあげてもいいくらいの熱演・好演である。彼女の言動のすべてが、主人公のキャリーという人物に説得力を与えているのである。
2011年05月21日
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児玉清さんといえば、「冒険者たち」を連想する。「冒険者たち」とは、アラン・ドロン主演の、あの作品、レティシアが印象に残るあの作品である。この映画の中に、児玉清が出演している1965年の「戦場に流れる歌」のポスターが登場する。これは團伊玖磨の「陸軍軍楽隊始末記」が原作で、児玉清は團伊玖磨に相当する人物を演じていた。
2011年05月20日
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主人公の少年がジンジャーの香りで目が覚めるシーンから始まる。アメリカの平和な田舎町が舞台のこの作品には彼女が好んで手がけたブラッドベリの作品の世界である。この町は8月の最後の週の金曜日に消滅してしまうのであるが、主人公の姉の力を借りて1年前に戻ることができる。そして、その1年間をずっと繰り返してきている。記憶もなくなり、またあらたな気持ちで、その1年を過ごすことが出来るが、そこには未来はない。主人公の少年は、そのことに気づき、町から脱出しようとするが・・・。主人公の少年は憧れの少女と一緒に映画を見に行くことも、天文学者になることも出来ない、その憧れの少女と町を逃れようとする瞬間の絵の美しさとせつなさは、萩尾望都タッチが見事に活きていて読む者の心に刻まれる。これは「アルジャーノンに花束を」(短編版)、「冷たい方程式」と共に心うつ、せつない短編SFのベスト作品にあげたい。
2011年05月19日
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児玉清さんが亡くなられた。俳優としてより、何よりも本が好きな方としてファンであった。本が好きだということを語るときのうれしそうな表情がたまらなく良かった。心よりご冥福をお祈り致します。
2011年05月18日
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バレエ「白鳥の湖」では、オデット(白鳥)とオディール(黒鳥)は同じバレリーナが演じている。衣装が、オデットが白で、オディールが黒と示すように、二人の性格は正反対であり、全く性格の違う2つの役を一人で踊り分けることはバレリーナにとって大変な困難である。その困難を乗り越えて観客に感動を与えるからこそ価値があるというものであろう。映画「ブラック・スワン」では、その難業に挑むバレリーナの精神的な葛藤に主眼を置いているが、バレリーナのリアルな世界と「白鳥の湖」という虚構の世界の二重構造と見ることも可能ではないか。オデットを白鳥に変えてしまう悪魔ロッドバルトは、現実の世界では舞台監督のトマスがその役目に相当する。そうなると、虚構の世界の結末も、現実の世界の結末も共に「死」であることは容易解釈できる。
2011年05月17日
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アメリカン・ニューシネマ時代にはぴったりのスターであったバーバラ・ハーシーが久々の登場。彼女が母親でナタリー・ポートマンが娘という設定はなかなかいい。違和感がない。本当の母娘といってもいいようなリアル感がある。とにかくこの作品はキャスティングがいい。ウィノナ・ライダーに至っては、嫌味かと思うくらいにぴったりのキャスティングではないか。バレエ・カンパニーの監督役のヴァンサン・カッセルも適役である。この役は、ゲーリー・オールドマンでも、ダニエル・ディ・ルイスでも、ハビエル・バルディムでも、不適であるし、リチャード・ギアに至っては通行人の役柄ですら、この映画には相応しくない。監督役を敢えて他にあげるとすれば、トニー・レオンか、ジュード・ローか?ミラ・クニスも適役である。「ザ・ウォーカー」を見なかったのが残念である。「ブラック・スワン」は、久々にミス・キャストのない作品であった。
2011年05月16日
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これは実に面白い題材の作品である。ニューヨークで暮らす郵便局員のハーブと図書館司書のドロシーの夫婦2人の共通の楽しみは、現代アートのコレクション。その基準は「自分たちの給料で買える値段であること」と「1LDKのアパートに収まるサイズであること」という2つ。決して投資などというものではない。まさに趣味なのである。つつましい生活の中で約30年の歳月をかけてコツコツと買い集めた作品の数々は、いつしか4千点を越え、気が付けば部屋の中は、20世紀のアート史に残る名作がいっぱいにという状態。そんな二人にアメリカ国立美術館から寄贈の依頼が・・・。慎ましい生活の中から、30年以上に渡って作品を収集してきた夫妻。ふたりのアートに対する真摯な思いが、彼らの生活と彼らが購入した作品を創作したアーティストたちのインタビューから伝わってくる。この作品を見て判るのは、アーティストたちにとって、自分たちが創作した作品を購入してくれる人の存在である。その存在が作品の創作エネルギーのひとつになっていることは間違いではないようだ。これはアートについてというよりハーブとドロシーの二人と彼らをめぐるアーティストたちによって豊かな人生とは何かを考えさせる作品である。
2011年05月15日
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ひところ少女マンガの定番であったバレエ界を舞台にした物語ではヒロインの少女とその母親、そしてライバルたち。この「ブラック・スワン」も、そうした伝統的パターンを踏襲しているが、この作品は思い切りホラーの領域に踏み込んでいる。心理ホラーである。指名された主役へのプレッシャーから生まれる幻覚に苛まされるヒロイン。すべてが幻覚であったと思わせておいて、ラストは驚愕である。冒頭からナタリー・ポートマンのアップであり、また、彼女のごく近傍という狭い範囲のみが画面に映し出される。全編に亘りこのような画面であるが、これによって彼女の視野や世界の狭さが表現され、それによって彼女が見えるものが、自分の心のあり方によって生み出される幻覚であることが描かれる。ラストになってやっと広い範囲が描き出され、あの血が彼女の体から流れる本物であることが示される。血、ナイフ、割れた鏡の破片というものがこの作品の影の主役でもある。実に痛みを感じさせる作品である。
2011年05月14日
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その土地にしがみつくようにして、必死になって生きていく人々。そこに希望というものがあるわけではなく、人々もまた貧しいのであるが、そこに何かを見つけようしている。映画「海炭市叙景」が描いた世界は、実は日本映画が最も得意とするものではなかったか。日本映画の伝統であったようだ。この映画を見ながら、内容としては暗く重いものばかりであるのにそこに親近感に近いもの、いつまでもこの映画の世界んひたっていたい気持ちになるのは、もしかしたら、ここに描かれている世界が私の精神的な故郷だからかも知れない。それは映画ファンとしての原点的なものもあるのかも知れない。まるでカーテンコールのように最後の路面電車に乗り合わせる人々と、その路面電車を横切る颯太と妹の帆波の姿が映し出される。それが初日の出を見に行くための2人の後ろ姿だったことが判るというときの一種の映画的な快感もまた、この映画の魅力でもある。そうした映画術がちりばめられているのではなかろうか。その魅力をもっと発見したかったのだが、1週間という上映期間では、私は1回しか見ることが出来なかった。
2011年05月13日
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渡哲也が石原プロモーションの代表取締役社長を辞任し、今後は俳優業に専念するという。渡哲也の主演作品としては2005年の「レディー・ジョーカー」が最後ではなかったか。撮影所で育った最後の大スターである彼の今後の出演作品に期待をしたい。
2011年05月12日
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団鬼六氏が、岡田茂氏が相次いで亡くなられた。お二人とも「その道一筋」という言い方がぴったりである。団鬼六氏に匹敵する作家としては大藪春彦であろう。団作品がエロスの追及であったのに対して大藪作品は徹底した暴力であった。暴力を介して人間の持つ醜悪さと同時に高貴さも描いてきた。岡田茂氏は「ヒットしてこそ良い映画」という意思を貫徹したプロデューサーであった。その「ヒット」も、最近のハリウッド大作のような人工的な作為的なヒットではなく、作品の企画と本体の良さによるものであったと思う。プロデューサーとして非常に山っ気のあり、「日本戦没学生の手記 きけわだつみの声」も、よく言われるような良心的作品を創ろうということより、これは「当る!」という独特の嗅覚ではなかったか。「網走番外地」も「仁義なき戦い」もそうした嗅覚で創られ、多くの観客を熱狂させたのではなかろうか。このお二人の訃報には「巨星墜つ」という思いである。お二人のご冥福をお祈り致します。
2011年05月11日
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この映画の空気感はタバコの煙にむせたような独特のけだるさの中に熱気のこもった雰囲気といえようか。タバコの煙がこの映画の世界の雰囲気を作っている。ビリヤードで稼ぐハスラーの世界を描きながら、ビリヤードそのものより「勝つ」とはどういうことかを問うた作品である。同時に大事のものを失う悲しみや虚しさをひしひしと描いている。ハリウッドの赤狩りの中で翻弄されて生き、57歳という若さで世を去った監督ロバート・ロッセンの人生観そのものが描かれているのではなかろうか。傑作であるが、爽快感というには程遠い作品であるので、これは見るときの気分を選ぶのではなかろうか。
2011年05月10日
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函館をモデルにした海炭市という架空の都市を舞台にした連作短編小説を映画化したもので、オムニバス映画である。スチール写真の一部を見ると、私が住む長崎市によく似ている。それも当然、造船所があり、路面電車が通い、坂道が多いのである。ドラマの中にはリストラ、家庭崩壊、子どもの虐待などまさに現代の世情を描いて、これはまさに現代の物語だと感じさせるが、原作者の佐藤泰志が、この小説を書いたのはバブル期のようなのである。ここで描かれている状況など予想すらしなかった時代である。これは作家の想像力と予感の賜物というべきか。それにしても、この作品に登場する人々の、行き詰まり感、どうしようもない焦燥感、もがいても抜け出せない状況には、見ているにもどこか心当たりが思い当るものがある。それゆえ、この映画の空気感は実にぴったりとしているのだ。決して楽しい作品ではない、不幸なことばかりのエピソードであるが、実は、この映画を見ている間、「終わって欲しくない。いつまでもこの映画の世界にひたっていたい」と思っていたのである。ひとつの架空の町を舞台にしたオムニバスといえば、ブラッドベリの「火星年代記」のもととなった「ワインズバーグ・オハイオ」があるが、「海炭市叙景」もまた、そうしたジャンルの傑作であろう。この映画を見終わって、「ワインズバーグ・オハイオ」も「火星年代記」が映画化される日を期待したのである。
2011年05月09日
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映画「デザート・フラワー」と「母はたちの村」の背景にはFGM(女子割礼)という残酷な風習の中で傷ついていく女性たちの現実が描かれる。この現実を知った私たちは非常なショックを受けながら、同時に人間の尊厳を損なう風習がいまだに続いていること、そしてそれが当然のこととして認められ、受け入れられていることを知るのである。このとき、私たちの気持ちの中に「これはアフリカという未開の地だから」とか「アフリカはまだ野蛮なところだから」とかというものはないだろうか?人間の尊厳を損なうことは、実は先進国と呼ばれる国や地域にもまかり通っていることを改めて知るべきではなかろうか。人間をすべて「コスト」と扱って「削減対象」とか「余剰」とか扱うことが正義であろうような国は「未開」で「野蛮」と言ってもいいのではないか?東京電力の原発事故は、一部の人々の利益の為に実に多くの人々の尊厳が損なわれているかが明らかになったのではないか。これらの映画は、そうした現実への気付きを促してくれる。
2011年05月08日
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必死になって生きていこうとしながらも、その必死さが賞賛やプラスの評価ではなく、どこか痛々しさや残念さを感じさせる人物、本来の自分のキャラクターと逆方向を必死になって進んでいる勘違いの人物を演じて一番の俳優としてはまず、永作博美をあげておきたい。以前、題名を忘れたが、あるテレビドラマでもそのような人物を好演、あまりにもぴったりと演じていたのであるが、「八日目の蝉」の希和子は、まさに永作博美のためにあるような人物ではなかろうか。そして千草を演じる小池栄子もまた、その永作に匹敵するほどの痛々しい人物を見事に演じている。この作品は、この二人が支えているようなものだ。この二人にもっと活躍の場を!
2011年05月07日
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ビンラディン殺害の作戦実行か、9.11からの追跡と殺害までは映画化されると思ったら、やはり。監督としてはオリバー・ストーンかキャスリン・ビグローかのどちらかが手がけるのではと思ったら、キャスリン・ビグローが名乗りをあげた。「ハート・ロッカー」という巧妙かつ悪質な戦意高揚映画を創った実績から、今回の作品が、どんな内容の作品になるのかは容易に推察できる。ビンラディンを育てたのはアメリカ自身であるという批評性など全くないであろう。これがまたまたアカデミー賞を受賞したりして・・・
2011年05月06日
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題名の「デザート・フラワー」とはどういう意味かと思ったら、「砂漠の女ディリー」の映画化であった。映画の題名としても「砂漠の女ディリー」とか「砂漠の花ワリス」の方が判り易く、かつ想像力がかき立てらると思うのだが・・・。砂漠の遊牧民の少女が13歳でお金の為に結婚させられようとして故郷を出て、ロンドンで路上生活をしつつ、やがて友人や写真家と知り合うことから、やがて世界的なトップモデルへ。まさに波乱万丈の伝記映画なのであるが、ただの成功物語というのではなく、FGM(女子割礼)という残酷な風習の中で傷ついた彼女の体験とその廃絶運動への取り組みが、もうひとつの側面としてある。トップモデルへと成功するまでには偽装結婚などの様々なエピソードがあり、そうしたエピソードの面白さが、最も重要なFGM廃絶という点が薄まったことは否定できない。FGMをテーマとした作品としてはウスマン・センベーヌの「母たちの村」も良かった。ワリスを演じるリヤ・ケベテは、ワリスの精神をそのまま体現したような存在感である。何よりも、ワリス自身が、FGMの廃絶をめざして国連でその体験を話した勇気には敬意を表したい。
2011年05月05日
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映画が始まって、この映画が松竹配給であることを知る。考えてみると、日本映画が地方都市に独自の映画館ではなくシネコンで上映されることになって以来、個々の作品に映画会社の個性が感じられないのである。この映画会社の個性の喪失は80年代あたりから見受けられ出し、シネコン登場以降は、ほぼ完全にその状況が定着した。松竹映画といえば、「家族」が重要なテーマ。この作品は伝統的な松竹映画のイデオロギーを更に深く考察し、あるいは別の角度から皮肉な見方をした内容と言えよう。「母親とは何か?」、「家族とは何か?」というテーマの考察である。物語の舞台が小豆島になって、この部分がこの母子の最も幸福な一時期であったことが描かれる。ここでは「二十四の瞳」が思い出され、そして育ての母との旅の描き方、その追想はまるで「砂の器」である。こうして松竹映画を代表する2作品を隠し味にして、オマージュを捧げつつこの映画は展開していくが、この映画の題名は「母なる証明」(同名の韓国映画の傑作があるが)が最適ではないかと思った。
2011年05月04日
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カダフィ氏の息子や孫が空爆で殺されたこともビンラディン殺害も、鹿児島で女性が路上で銃撃されて殺されたことも大阪でアパートの住民3人が殺傷されたことも24年前の朝日新聞阪神支局で記者が射殺されたこともみな殺人である。どこに違いがあるのか。殺人を行った側には、それなりの理由があるにしても命を奪ったことには変わりない。ビンラディン殺害を熱狂的に賞賛しつつ、歓喜につつまれるアメリカの姿を見て、やはりこの国は暴力で先住民を殺戮した野蛮な人々が建国した国であることを改めて知る。このようなことで政府の支持が維持浮揚されるのである。なんとビンラディン殺害で解決したかというと、そうではなく次は報復テロを警戒せねばならない事態を生じたわけで、その様をみるとこれはほとんどブラックユーモアの世界である。解決の目途は全く見えない。なんと残酷なルールで支配されていることか!
2011年05月03日
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ほぼストーリーが一段落して終盤に向かおうとするところで、主人公ボリスが窓ガラスを破って外に身を投げる。極めて楽天的にコミカルに展開してきて、結局は悲劇的に終わって皮肉なタッチになるのか、やはり、これでこそウディ・アレン作品かと思ったら、その後は実は予想外の展開であった。投身自殺は失敗して、そこから新しい出会いが起きる。その後の展開は、予想外であった。破天荒というか、途方もないというか、まさに何でもありという結末。ここまで創ってしまうと、次はどんな作品が出来るのだろうかと心配してしまうが、この作品は2009年の作品で、更に日本未公開の新作が控えている。ウディ・アレンの創作意欲は、衰えない。彼の創作精神の基盤になっているのは「人生や世界への肯定力」であることがよくわかる。
2011年05月02日
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「福島原発」という言葉が一日何回語られるであろうか?それが毎日毎日である。「嘘も百回言えば真実に聞こえる」とはよく言われることだが、「福島原発」という言葉を毎日毎日聞いていると、そのうち、「福島の原発が日本中に、世界中に迷惑をかけている」とみな信じるようになるのではないか。そうではないことは明らかである。たまたま場所は福島にあるだけで、あれは関東の人々の為のものである。その電力の恩恵を得ていた人達から汚らわしい伝染病の如く扱われたり、その地区で生産された食料品を買ってはいけないような扱いを受けているのである。文字数は多くなるが、「福島原発」ではなく、「東京電力の原発」とか「東京電力が福島に建設した原発」と言って欲しい。
2011年05月01日
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