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■ 「 未 病 (みびょう) 」 と は ?◎ 病気ではないが、健康でもない状態。◎ 自覚症状はないが、検査結果に異常がある場合と 自覚症状はあるが、検査結果に異常がない場合に大別される。◎ 骨粗鬆症、肥満など。大辞林 ヨリ■ その日の疲れはその日でとる!・・・これが大原則です。 その一つが、一日一回の入浴です。 今日ここでは、一日一回(写真の)「おヘソ」への中国温灸10分間をおすすめです。
2009.01.31
■ 私が「中国温灸」を使用して、「未病」を克服し始めたのは、今から33年前のことです。■ 当時はまだ野球の道に入ってなかった。 只々東北、北海道津々浦々、「中国温灸」の普及に余念が無かった。■ 体を温める「療法」としては・・・・・・ 「もぐさ」を燃やし、皮膚を温めるお灸・・ 「天然温泉」で体を温める、湯治療法・・ ◎ 双方とも、よく似た健康増進の面から見直されるようになりました。 現代医学では治りにくい、慢性の体質的な病気が良くなっていく・・・・ そういう多くの人達の「なおる体験」に支えられています。■ 温熱療法は「未病」への安心パスポートです。
2009.01.30
■ 私の半生はまるで「温熱療法・中国温灸」の追及促進が全てであった。 先ず、自分の健康管理が最優先として、体のあらゆる箇所への温熱療法を・・・・・・・。■ その結果が、還暦野球に没頭し、カガブくん野球リーグでのマウンドを守り。 やがて、今年この春から、秋田県古稀野球チームの一員として挑戦。■ 未病を未然に察知して、体の関節全ての「血行促進」をはかる。 それには、熱くなく手軽に自分ひとりで「こっそり出来る」中国温灸。■ 今年もまたシーズンが始まる。■ 古稀野球も「中国温灸」で活力万全だ・・・・・・・・・((^笑^))
2009.01.29
■ 還暦を記念して 「還暦、沖縄ぶらり人生探し旅」 43日間の軌跡 10・沖縄、本、離島 に渡る 12・民宿 に投宿 17・大型フェリー、高速ヘェリー に乗船 2・JR東日本新幹線 に乗車 1・飛行機 (石垣島~那覇) 4・バス観光 (沖縄本島・石垣島・西表島) 43日間■ 万歩計 269、828歩 (1日平均・・6、275歩) 一歩(70センチ)、188キロM→1日平均4キロM 一歩(60センチ)、161キロM→一日平均3、7キロM■ 沖縄県の皆様へ、心から深く感謝を申し上げます。
2009.01.28
■ 私が初めて海を見たのは小学校に入ってから、その記憶にないので当時家族に聞いた事がある。 やっぱり、海には連れて行って無かったと言う。■ 小学校の遠足で見た海の感動が、その後の心から消えるどころか、日増し加齢にも増して膨れ続ける一方。■ その事が、この度の一月半沖縄の海だったのではなかったか。 沖縄の離島を転々とし、目が覚めると海、島を歩いているうち海が見えて、宿に戻り窓を開けると海が見える。 ■ 島の高台に立ち、遮るもののない海が今にも四方八方から押し寄せて来るかのような・・・・・ 自分の小ささ、自分の狭さが無性に感じたものだった。 海が流れ、海流が流れるのではなく、海に浮く島が流れているのでは・・・・・ 島とは、そんな気にさせる・・・・・ 海とは、そんな気にさせる。■ 遠い昔、沖縄の海から私の先祖が陸地をめざしたのではなかろうか!・・・・・・ そんな錯覚の中・・・・ その海を見つめる、おばぁ二人(写真)いつまでもいつまでも、私の代わりに沖縄八重山の海を見ててほしい・・・・・。 その無限の海と木の葉のような島にあって、それよりも遥に大きく、そして優しい空に抱かれる・・・・・・・ 探しに来たのは・・・・もしかして!そのことか!・・・・・・。
2009.01.27
■ 「還暦、沖縄ぶらり人生探し旅」も、多くの皆様からご協力を頂いて、すべての日程が終われそうです。■ 一月半近く、全く未知の世界を遊泳した。 波照間島を最後に石垣島から、空路沖縄本島へ。■ そして当日、本島那覇新港から東京湾への、憧れの「豪華大型フェリー・ありあけ」出航。 乗船4月13日、東京有明埠頭着4月15日 46時間、2泊3日■ 来るときとは逆に・・・・・ 船の右舷から陽光が登り、その陽がやがて左舷に沈みゆく・・・・・■ 半年前からあらゆる難関を乗り越え克服し、没頭し作り上げた「還暦、沖縄ぶらり人生探し旅」作戦計画。■ 終わってみれば一月半、この波に揺られた回顧の46時間。 決して、長くもなかったが、短くもなかった。 夢から覚めるのは、いつのことか・・・・・・・・・・・・・。
2009.01.26
■ 写真は「波照間島」の道のすべて・・・・ 午前9時過ぎから出発して、この毛細血管のような道路を、どれほど歩けるものかを試して見よう・・・・と■ 先ず外側の主力道路から、徐々に内陸部へと・・・ 周囲14キロの小さな島だが、歩くとなればなかなか遠い。■ 経験から人か、牛か、馬か、犬とすれ違うだけで心が癒される。 何時間歩いても、生き物と会わない程むなしく寂しいことがない。■ 荷物になればと思い、食べ物特にペットボトルも小さなものにした。■ その日は特に天気が良く、雲一つ無い快晴。 あッと言う間にペットボトルが空に・・・・ その時は運良く、遥か彼方に飛行機の着陸が見え、飛行場を察知、這うようにたどり着く・・・■ 午後も夕方、毛細血管の半分は越えたころ・・・・・ まず右足の太ももがけいれん それをケアしているうち、今度は左足にきた すると、座ることも、しゃがむ事も出来なくなった。 一瞬だが、もしかして大事になるのでは・・・と頭を過った。 我に返りわずかより無い水を一口飲んだ 膝を曲げずにとにかく帰りをめざす、人の気配の無い先行き不安が尚募る。■ かなり冷静さも無くなって来たころ、ペットボトルの水が無くなった。 とたんに、左肩からひじかけてのけいれんだ その時はさすがに、ダメかなと思った・・・ 広い海の見える道で、あれこれ一時間のたうち回っても、生き物の姿現れず・・・自動販売機の無い文明社会とは・・・・。■ 救われたのは、陽が少し傾きかけていた事、草むらに足を突っ込み安静にした事。■ 後に皆に教わったこと! あの時、2本のペットボトルに水があったら大丈夫と・・・九死に一生を得た行軍でもありました。
2009.01.25
■ 「波照間島」にも与那国島や西表島にあった・・・・いや八重山諸島すべてに・・・・・ 苦しい、不幸の時代があった、「島分け」という悲しい歴史。 1609年の薩摩侵入後、首里王府の過酷な「人頭税」・・・ 八重山開拓寄人政策云々。■ マラリヤが蔓延している西表島や石垣島に送られ倒れた、マラリヤ地獄は、太平洋戦争でも繰り返された。 軍命により全島民1、587人が西表島に強制疎開させられ、マラリヤで多くの島民を失った。 以前述べた、西表島の「忘勿石」に結びつくものだ。
2009.01.24
■ この旅、最後の島「波照間島」にたどり着いた。 波照間島とは、最果てのうるま(サンゴ礁)の島という意味。 日本最南端の島は、周囲14キロ、人口630人、サトウキビ生産が中心。■ 2月初旬~6月上旬には、南十字星が見える。 沖縄本島とフイリピンの中間の位置だ。■ 港では観光客と働く地元の人をわずかに見たが、集落を見回っても人の影がなかった。■ 昭和47年(1972年)日本復帰を記念した稗が静かに立っていた。■ 八重山諸島の中でも、最も自然の多い「波照間島」は、平らで木陰がなく太陽の光りが、こんなにも熱いものかと・・・・・・ 身をもって体験させていただいた。
2009.01.23
■ 「小浜島」は八重山諸島の中にあって、とても立地条件がいい。■ 石垣島、竹富島、黒島、西表島の島々にもっとも近く、人の往来も多い。■ 小浜島と西表島の間の海域を「ヨナラ水道」という。 その海の道が「巨大マンタ(イトマキエイ)」の出没海域とか・・・・・・・・■ 一目見ようと、全国からダイバーが集まって来るらしい。
2009.01.22
■ 「小浜島」には4日ほどの滞在でしたが、とても活気を感じた島であった。■ 高級リゾートホテル・・・ヤマハリゾート「はいむるぶし」。 あらゆる「マリンレジャー」の楽しめる環境施設が整う。■ 「民宿みやら」さんでは、毎日小さいお子さんのいるご家族と、食事が一緒・・・・・・・・ご主人が海から捕ってくる魚料理が、美味しかったナ。■ 島の中央に、島一番の標高99、2メートルの山。 360度一望できるパノラマ展望台、毎日登ったものだ。
2009.01.21
写真の入力を間違いました。
2009.01.20
■ 「還暦、沖縄ぶらり人生探し旅」も、雪の降る3月4日に秋田を出発して・・・・・・・ その秋田も、しっかり春らしくなったらしい。■ 旅も終盤、4月8日八重山は「小浜島」に到着した。■ 「小浜島」は、周囲14キロ、人口500人。 水稲やサトウキビなど農業の適地として栄えてきた。■ リゾートホテルもあり、ダイビングやマリンスポーツの基地でもある。■ マンタ(イトマキエイ)に出会える島。
2009.01.20
■ 通算すること3回、八重山地方の合同「海開き」に参加しました。■ 各島が持ち回りで開催される。 石垣島が1度、竹富島が2参加することが出来ました。■ 数多くの催事の中で、八重山美人のミスコン、中学生の琉球古典舞踊、浜辺にネットを張り、魚のつかみ取り、宝探しは一瞬騒然・・・・・・■ 今年の会場は、石垣島の底地(すくじ)ビーチ。 川平(かびら)湾の反対側にある海水浴場。 モクマオウ林の向こうに、白い砂丘と遠浅の海が続く。 (崎枝湾に向けて川平半島の内側に続く)■ 開催日・・・3月20日(金曜日)祭日・春分の日。 当日のみの開催です。■ 日本一早い「海開き」に参加し、この一年間の「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」「メタボからの脱出」は如何でしょうか・・・・・・・・・・(笑)。(写真)は川平湾の風景です。
2009.01.19
■ 秋田市赤沼、太平山三吉神社に於いて「梵天奉納まつり」が行われた。 ■ 前日から降り続く雪は近年に無く大雪、気温0度は熱くなるそのメンバーにとっても最高のコンディション。 朝から昼過ぎまで、県内外からまた遠くは北海道からの奉納もあり、80数本。 ■ 今年の特徴として、子どもたちの奉納梵天が非常に多かった。 地元に根差した神社への愛着、信仰心の現れであろう。 ■ 因みに、我が家からは5人がその奉納に関わる栄誉を頂きました。 ■ 今年はもっと明るく、希望に満ちた年であってほしいものだ。 日頃の無礼も顧みず、無病息災、家内安全、商売繁盛、大願成就とありとあらゆるお願いをして参りました。
2009.01.18
■ 「石垣島」 美しいサンゴ礁の海だけではなく、起伏に富んだ地形の景観は、小さな島に様々な表情を造りだす。■ 八重山諸島の中心として、栄えてきた島の歴史と文化を、数多く残る旧跡から知ることが出来る。■ 旅で出会う地元の人々とのふれあいに、島のあたたかみと情緒の豊かさを感じた。■ 石垣島、八重山諸島の「海開き」が毎年3月20日前後の、土曜、日曜日に行われる(写真)。■ ある年の3月1日、3回目の沖縄ぶらり旅。 秋田空港(午前)離陸時、気温0度、猛吹雪き。 その日の夕方、石垣島空港着陸時、気温30度、快晴。■ 宿に着きめまい、防寒用下着「らくだのももひき」、「ハイネックカシミヤセーター」・・・・・ 体調が戻るまで、3日かかりました。
2009.01.17
■ 今年はお正月になっても雪が降らずにいたのに、何としたものか・・・・ この頃は、一日20センチ、30センチと積もる日がある。■ この日は天気も良く、小言を言いながらも玄関前の雪寄せにかかった。 フッ!と庭を見た、なんとその美しいこと。■ さっきまで散々小言を言いながら除雪の作業、ハッと我に返り「綿帽子」にゴメンナサイ!・・・・・
2009.01.16
■ 石垣島でも素晴らしい鍾乳洞があります。 「竜宮城鍾乳洞」、全長3、200M、日本7位とか。■ サンゴ礁の海底が隆起して出来たもので、鍾乳洞の中ではサンゴやシャコ貝が、至るところに見える。■ この旅の始まりに、沖縄本島もつぶさに回った。 その折り、本島南部「玉泉洞王国村」の「玉泉洞鍾乳洞」を見た。 この鍾乳洞も素晴らしかった。 全長5、000M■ 沖縄はどこへ行っても素晴らしい。
2009.01.15
■ 沖縄を旅して殊に感動を頂くのは、各々の島には必ず「博物館」があることだ。■ 各々の島の成り立ち、文化の伝道、固有の生活様式がとても良く、理解が出来る。■ 写真は、「石垣市立八重山博物館」。 魚具、農具、玩具、染め物、焼き物、葬祭用の飾り等々・・・・・■ 南国らしく、クバの葉、ガジュマルの木を素材にしたものも多く・・・・・ 南の島の自然と密着した生活をうかがい知ることが出来る。■ 「目から鱗」、農具、玩具、日常生活用品など・・・・・ 幼少の頃、親たち爺さん婆さんたちが、目の前で使っていた物ばかり・・・・・■ 不思議だった、見ているだけで胸がつまり、止めどもなく涙が溢れた。■ この文化、秋田と八重山、同時発生的に栄えたはずもなく・・・・ 北からは尚考えにくく、人類の文明と共に、農耕の文化が北上したものでは・・・・と■ それにしてもビックリ! 先祖が暮らした「物置小屋」から、生活用品一切を昨日一昨日、石垣島に運んで来たのでは・・・・・・ そんな思いをさせる、寸分の違いすらない物も、数々あった。
2009.01.14
■ 「石垣島」には大きな山がある、それらに伴う大きな川がある。■ これが日本列島の見慣れた風景だが、沖縄諸島の状況は一変する。■ 数多くの離島の中で、「大きな山、大きな川」そのイメージに重なるのは・・・・・・ 沖縄本島、石垣島、与那国島の3島だ。■ 写真は、石垣島「宮良殿内(みやらどぅんち)」。 琉球王朝時代、島役人の頭だった宮良氏の屋敷。 士族屋敷の様式、県内唯一で、国の重要文化財となつている。■ 枯散水の日本庭園は絶品。
2009.01.13
■ 沖縄の離島を旅して数々の体験をさせて頂いた。 そんな中、石垣島の大きさ広さに感動した。■ 政治、経済の扇の要らしい、威風堂々の八重山石垣島、・・・・・・ そのど真ん中に鎮座する、「名峰・於茂登山」525、8メートル。■ 多数の有名人、芸能人を輩出し観光客にも活況を感ずる。 中でも、伺った「具志堅用高」ボクシング世界チャンピオンの生家・・・・・ 博物館を併設、誕生から世界王座獲得までの、全てが飾られリングの一部もあった、観光バスが次から次から入って来る。■ 石垣島は都会の風格だ。
2009.01.12
■ 「還暦、沖縄ぶらり人生探し旅」と、自らにプレッシャーをかけ、出て来た秋田が3月4日。■ 数々の思い出を作りながら、「与那国島」出航が4月8日。 写真は、与那国島の最西端に立つ「日本最西端の稗」。■ 100キロ先の台湾の山々は、やはり姿を見せなかった。■ この先、旅はまだ続く、石垣島、小浜島、波照間島と・・・・・ そしてその先、沖縄本島那覇港からの東京湾へ、2泊3日の優雅な旅が待っている。
2009.01.10
■ 「与那国島」での貴重な体験の一つ・・・・ 地元の長男さんと、千葉県からのお嬢さんとの「婚礼儀式」のフルタイムビデオ撮影を頼まれた。■ 「民宿さきはら」さんの、おばぁの生家はとても立派な旧家だ。 その家の婚儀撮影を、おばぁに頼まれたと言う訳だ。■ 旧家なるが故、儀式、披露宴すべて「琉球王朝時代モード」。 結婚式はご自宅、衣装、装飾、お膳、食器、式次第、5~6人の楽師。■ 夕方から始まった「披露の儀」は、地元中学校の体育館。 これまた王侯貴族、王様王妃のみならず、お仲人までもがこの世で、まだこんな衣装があったのか!!と思わせる、絢爛豪華!・・・・。■ 大きな体育館も超満員の招待客800人。 それを見学に来ている近隣の島民、与那国島の全人口が、一人残らず来ているのではと思われた。■ 二人共、東京の大学生時に知り合いゴールイン。 八重山で王侯貴族の風習を目の当たりにし、尚一層の沖縄諸島、八重山、与那国島を好きになりました。■ あの時の、「王様王妃」、今どうしておられるでしょうね。 その後、民宿さきはらさんの「おばぁ」が、ご他界され、ご無沙汰です。 お二人の、ご多幸を心よりお祈り申し上げております。■ 写真は、民宿さきはらさんでの、私の還暦誕生会の、「おばぁ」が写っているのです。
2009.01.09
■ 小さな島で、約束ごとを守り自由で平和な歴史の影に、小さいが為の悲劇もまた存在した。■ 15世紀末、琉球王府が与那国島の攻略にかかる。 しかし、王府軍を撃退。■ 17世紀中頃、琉球王府に屈服。 その後260年間、人頭税(15歳~50歳の男女の頭数で税を課す、過酷な税制)■ 歴史書には、後年琉球王府の税の他に、鹿児島島津藩からの税の取り立てもあったという。■ 島民の悲劇が始まる。 人減らしの数々の一策、幅約3M、深さ約7Mの岩の割れ目(写真・クブラバリ)を、妊婦に飛び越させる。■ 越えれなかった妊婦は、落ちるか流産した。 人頭税時代の悲惨な歴史の跡形も、日頃の生活圏の中に今も残る。■ 人頭税の終わった明治から戦後にかけて、「与那国島」は再び活況を取り戻した。■ 大陸からの文明が、間違いなく「与那国島」をも経過して、我々に届いた・・・・・ 訪れるたびに、意が深まり帰路の決意が遅れるのです。
2009.01.08
■ 今年のお正月は、寒かったが雪も降らず穏やかな日が続いてくれた。■ 雪の高速道路は怖く、遠慮しようと思っていたのだが、急きょ思い付きの「バスでの仙台散策」(秋田仙台間、250キロ、高速道路3時間15分)。■ さすがに「東北の雄・仙台」、百年に一度の経済危機とか何とか言いながら、言い訳がはびこる昨今。 活況を呈する商店街の奮闘には、頭の下がる思いの連続。■ その街行く人の並みは、クリスロード(中央通り)、マーブルロードおおまち・・・・・・・■ そしてそして、ぶらんどーむ一番町からサンモール一番町。 然もありなん、アーケードはまだまだ続き、一番町買物公園に至るまで。 ■ 散策道連れの女房殿までもが、このアーケード街の歩行困難な程の賑わいに・・・・・・・・・・ 「百年に一度の、好景気じぁありませんか!」だってさ・・・!。
2009.01.07
■ 「与那国馬」「ヨナグニウマ」は与那国島の固有種、背高120センチほど。 やや小型の馬だが、粗食に耐え力が強く、農作業に適す。 性格温厚というので、遠慮なく近ずいたら、威嚇されビックリ?■ 島の東端の岬、なだらかで広大な草原、ヨナグニウマがのんびり草をはむ「東崎・あがりざき」だ。■どことなくメルヘンチックで、ほのぼのとしている。 晴れた日には、大海原の向こうに「西表島」が見渡せる。■ 放牧されている馬も多いが、牛がそれより遥かに多い。 島の南岸道路も高速道路並み、しかし景色を見、わき見をしたとたん、牛糞に突っ込む。■ 車は大変な蛇行運転の連続・・・・・・・・・ 与那国島では・・・スピード違反の車はありません(笑)。南岸道路だけです このブログを、もしかして与那国島の方が見られるとしたら、ごめんなさいです・・・・・・(笑)。
2009.01.04
■ 今年もまた、野球のシーズンが始まります。 還暦の年から、古稀の年までこの10年間。 雄和運動公園、春から秋まで投げ切った集大成の結果の年でもあるのです。■ チーム登録メンバー約50名、平均年齢30歳前後(私が入れば40歳)。 過去9年間は、若手有力選手の温情ある「私へのピッチャー起用」。■ しかし、今年はその実力を自分の力で勝ち取る。 そして、勝ちたい試合への登板、絶対負けられない試合への起用。■ 過去には毎年、20~25試合での登板であったが、今年は30試合30勝をめざす。■ 企業秘密を僅か漏らせば、私の球速は歳相応。 バッターのインパクトポイントより15センチ前で打ってもらう。 尚、バットの芯を3~5センチ外させてもらう。■ 球は遅くバットには必ず当る、悔しがるには至らない、そしてるうちに3打席7回が終わる。■ 私の投球は、15センチ、3~5センチたったこれだけなのです。 こんな事ですから、自軍のキャッチャー、球審にも玉筋が見えないのです。 キャッチャーにも球審にも見えない玉・・・・・・横からのぞくバッターには、見えるはずもございません。■ 私は今年から、我がチームカガブくんナインの応援を受けて・・・・・ 秋田県選抜、秋田還球クラブ古稀野球チームの一員として、県内外、全国大会への切符を頂きました。 最若年の故、如何に荷物を運び、お茶を出し、ボールを拾い集め、選手の背中を流すか・・・・・・・・・・・・(笑)。■ 新年早々、素晴らしい夢を見させて頂いおります。
2009.01.03
■ 「与那国島」は, ほぼ500年以前、独立した「国」だったのではなかったか。 与那国と言う「国」。■ 大きな山には大森林地帯、治山治水も行き届き水は豊富。 農業、牧畜の面積も広く好条件。■ 漁業の条件は天下一品。 ■ その島民の「沸き立つ血潮」を一手に引き受けて放さなかった「闘牛」。■ この「与那国・闘牛場」は祖納(そない)にあった。 運悪く開催時にはめぐり合ったことはない。 しかし3回訪れ、誰もいない空闘牛場に入ると、牛の角と角との衝撃、肉弾相撃つ地響きと共に、観衆の喝采と怒号が入り交じって聞こえてくる。 不思議な事もあるものだ。■ 島民の希少なる楽しみが、高ければ高いほど、部外の私如くの心の耳にまで、届くのであろう。■ 丑年に、「与那国島」の「牛達」の、ご健闘を心からお祈り申し上げたい。
2009.01.02
「赤富士を脳裏に収め福を待つ!!」
2009.01.01
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