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家族を失い、家を失い、友を失い、故郷を失いでもまわりも同じだったりもっとひどい境遇で自分だけじゃないと感情をおもてに出せないでいる。被災した方はもう十分すぎる程頑張っている。先の見通しも見えず、これ以上頑張れと言ってほしくない。という声があった。なにも言ってあげられる言葉が見つからない。せめてそばに行ってあげられる方たちに頑張っていただくよう後方から応援することしかできません。
2011.03.31
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やっと個人でも協力できる組織を見つけました。SAVE IWATE13日に有志で組織され被災した方に寄り添った活動をしています。もしそういう活動に興味がある方はぜひ検索してみてください。
2011.03.28
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町を片づける様子が流れるようになると自分のことを後回しにして自宅の様子を見にいくこともできない方たちのことが気になった。日用品もだけれど、一斉に片づけられる前に自分だけの思い出の品を探しに行きたいだろうに。それを気にしていた時、ある記事が目に入った。津波で自分の土地に流れついた車や物をどう見なすかの政府の見解。その中で思い出の品には特別な配慮をするようにという通達があった。今回の政府の対応で唯一ほっとさせられた。この記事のずっとあとに自衛隊の方がそういうものを丁寧に掘り出す様子を見たりそれらの泥を丁寧に落とすボランティアをしている方のことを知った。見知らぬ誰かの大切なもののために心を寄せるそういう心づかいは何もできないもどかしい思いを少し軽くしてくれる。
2011.03.26
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避難所の状況が少しづつ改善している様子が伝わってくるようになった。(でも広範囲のために大きな格差もある。)最初に仮設住宅の話が出た時、まだ避難所全体の状況も把握されていないような時期だったので「え?」と思った。それはたしかに復興の証しだけど今はもっと優先すべきことが山ほどあるんじゃ。そんなチグハグをずっと見せられている。原発もしかり。
2011.03.23
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目の前の使命のために自分のことをあと回しにして奮闘しているひとがいる。移動手段が限られ、ボランティアの数も足りないため誰も替わってあげられない。そこに入ることができるひとは誰でもいいから替わってあげてほしい。マスコミの方も取材が終わったら、できることをしてあげてください。
2011.03.18
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行方不明者数は警察に捜索を依頼し不明の方の数探す家族が誰もいなかったとしたら。生存の可能性が低くなる72時間を過ぎても生存していた方が何人も見つかった。壊滅し、住民台帳も流れ行政機能を失ったところは住んでいたひと達をちゃんと探してあげられているのだろうか。行方不明の方の数が毎日更新されていく。あの災害で多数の方が犠牲になっていることは明らか。今はその数字の合計を求めるために人手をさかないでいいのでは。やることはいっぱいあるはず。せめてこの世にいた証をもたせてあげてほしい。
2011.03.17
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少しづつわかってきた避難所の窮状が改善されるような対策がなにも聞こえてこないのに苛立った。政府は、原発のことしかやってなかったわけではないでしょうが。郊外の施設に支援物資が届いていてもガソリンが少なくて輸送が滞っているらしい。テレビやラジオの情報に被災者が欲している情報が少ない。誰に何を伝えるのか。被災していないひとのための情報も流さなければならないでしょうけど今は被災しているひとに対してもっと想像力をはたらかせてほしい。
2011.03.16
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停電で病院全体の端末の総点検が必要になったため4月11日に延期になった。準備が相当遅れていたので少しほっとした。病院はDMATや病院独自の支援を行っている。残るひとは、支援に出かけるひとたちの後方支援という形で支援。@@@震災のときから阪神大震災で知ったことを思い出しながら自分にできることを探していた。だんごは11日当日学校の近くの避難所の手伝いをするので帰らないと連絡してきた。私は、ボランティアは自分のことは自分でするのが大前提だから迷惑にならないように。自分たちにできることをきちんと確認して手伝ってとメールしていた。友人宅に泊まりながら、朝晩の炊き出しを手伝ったらしい。役に立ったのか@@@県は当初から、個人的な行動は現地を混乱させるから控えるように言っている。しかしなにもしなくては何も始まらない。この頃ガソリン不足はピークになり、家族を思うひとも何かしたいと思うひとも悶々と内陸に留まるしかなかった。そんな中職場の子は5時間並んでガソリンを確保し規制されている中回り道をしながら被災地に向かった。それでも規制にかかった時止められると思ったのに止められなかったらしい。家族を思う気持ちが伝わって容認してくれたのだろうか。ネットで調べた避難先に家族は見つからず、3か所回ってやっと会うことができたと聞いた。連休明けの彼、淡々とした様子だったけれどそんな時間を過ごしていたなんて。見つかってほんとうに良かった。
2011.03.15
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不思議な合宿2日目電気がないとこんなにできることが限られるのかと思う。しかもいつまで続くかわからない。不安がっている年寄を安心させてからでないと出勤はできない。いろいろ気になってしまうけれど目の前のことをやっていくしかないと心で唱えていた。結局家を出たのは昼過ぎだった。見たことのない街の風景。車が少なく、リュックや水筒を背負った人が目立つ。新聞の号外を配っていた。停電の中、店を開けているところに長い行列が。職場は、自主的に出勤したひとが停電のための特別体制で動いていた。病院は数百人の患者を想定していたけれど沿岸との道路が寸断されたためあまり運ばれていなかったようだ。非常電源の燃料がいつまで持つのか。通常では8時間しか持たないと聞いた。今日燃料が確保されたらしい。最低限の使用量にしてほしいと照明は薄暗い。もし電源が持たなかった場合貴重な細胞がダメになる。どこか預かってくれるところと思ったけれど、輸送手段が。だいたい近隣の県も停電している。あらためて自分たちの手におえない災害の大きさを思い知る。@@@壊滅した町の出身の子が一心に職場のテレビを見ていた。それしか安否を知る手段がなかった。行きたくても一般のひとには道路規制がしかれていた。(ガソリンも手に入らなくなっていた。)だから、そこにいない町の人たちに心を寄せないコメントをするレポーターに腹が立った。@@@夜まで気になる仕事をかたずけ家に戻った。今日もまたろうそくの灯り片づけは明るい時間にすることにして早々に休む。暗くなると自然に眠くなる。からだの自然のリズムに帰ったような気がした。@@@いつまで停電は続くのか。停電が続くと水も供給されなくなる。なにも情報がない中、飲み水をペットボトルに溜める。皆のケータイの電源もあやしくなってきた。ラジオは相変わらず、避難しているひとたちが、期待を持てるような情報を流してくれない。どんな救助活動が始まったとか、国がどんな指示を出したかとか、なんにも。中央の電波は被害者の増加と原発ばかり原発と津波地域両方をちゃんとフォローしてほしいと思った。未曾有の災害ですべてが対応可能範囲を越えていたのでしょう。でもその全体像がつかめていなかった私にはそうしか思えなかった。
2011.03.13
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いつものようにご無沙汰している間に大変なことになりました。被災されていつもの生活を奪われた皆さんにはどう言葉をかけていいのかわかりません。(実際に今奮闘されているみなさんの多くにはテレビやラジオやネットの声は届かないのを承知しつつ)震災からいろんな矛先へのいろんな思いが交錯しました。もうひとつの場所で順を追って記録することにして。それぞれの場所でみなさん一生懸命自分の使命を全うされていたと思います。だからできる立場にいないものがとやかくいうものではないと思いつつ一番気になった情報の送られ方のことについてだけ。@@@盛岡は内陸のため自宅は3日間電気が止まっただけで済みました。といっても厳寒の地なので、反射式のストーブのある実家に3世帯合宿してしのぎました。地震直後から通信網がとだえてラジオだけが頼り。でも被害者数の繰り返しばかりで被災しているひとが欲してるような情報はなかなか発信されない。(被災したひとにとって被害者数の増加は気持ちを重くするだけ)私が被災地の映像を最初に見たのは、翌日午後職場ででした。(病院なので非常電源が稼働している)壊滅状態の町ひと通りがないことに異様な感覚を覚えました。町のひとはどこへ?私は被災を逃れたひとがきわめてすくないという状況の現実をまだ理解していなかった。その時のレポーター家族の安否を確かめに行きたくても交通が遮断して行けないひとが何千人もいる中(どうやってそこに立っているかわからない)そのレポーター、何も感じていない、人生を一瞬で奪われたひとたちへ思いをよせていない傍観者のコメントをしている。あなたはこの状況を見てなにも感じないの?まだどこかで生きているかもしれないひとの捜索が必死に行われている時になんでここに来たの?ついきのうまで息づいていた生活のすべてを、被災したひと以外の人間に簡単にガレキと言ってほしくない。われ先に現地の様子を伝えようとするテレビ取材それを見るのは被災していない地域のひとだけ。(実際には見れる状況ではないにしても被災しているひとはそんなものは見たくない。自分の家だったりしたらなおさら)捜索中や、被災者の環境が整わないうちは、現場にいく力があるなら取材先を各社分担して、想像力をはたらかせ被災者が求めている現地の情報を提供してほしい。必要としているひとに情報を届けてほしい。現地の様子を伝えるときは、言葉に配慮をしてほしい。そう思いました。
2011.03.12
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職場にいました。地盤が堅く一般の震度よりも1位小さく感じられる建物ただごとではない揺れが長く続く間に電気も切れ非常電源に。(数十年勤めてこれだけ長い停電は初めて)「(倒れそうなものから)離れて」「仕事より逃げること考えて」とだけ言っていた。しかしいったん収まればリーダーとしての任務が。Gさんに貴重な細胞を保管しているフリーザーの様子を見るよう指示される。異常なし。非常電源で真っ暗にはならないけれど仕事にならない。22日の新システム稼働のために連日遅くまでしてきた準備もできない。余震も来るので皆仕事が手につかない。中断できない処理だけを済ませて遠いひとから帰すことに。明日は自宅待機の指示が出た。でもどうやって連絡を? 結局出られるひとは出て連絡つかないひとはそれなりということに。ネットで震度を知ったその頃沿岸部があんな大変なことになっていたなんて。被災地域以外では夕方には津波の映像を見ていたようだけれど私たちがそれを見たのは何日もたってから。この時は目の前の状況に精一杯だった。皆メールで家族と連絡をとろうと何度もチャレンジしている。私のは古いせいか通話はもちろんメールも全く頼りにならない。ふたりの母は気になるけれどまだ帰れる状況ではない。盛岡は震度6ではないので大丈夫と信じて、他の家族にふたりのことを託す。気づいてみると自分が最後になり帰りが7時半過ぎに。何度もばあちゃん達の様子を伝えてくれる様メールしたがなしのつぶて。タクシーで実家に向かったが鍵がかかって居ない。近所の方から「お孫さんが迎えにきた。」と知らされた。ほっとして旦那の実家の様子を見に寄ったらそこにみんな(私のハハも)集まってろうそくの灯りで夕飯をするところだった。電気が必要な煖房器が役に立たないため不思議な合宿が始まった。水道とガスが使えることが救い。頼りのラジオは被害者数の増加を繰り返すだけ。そこに海岸に何百人の遺体とか町が壊滅の短い情報が入るけれど津波の映像を知らない私たちにはまだそれらが現実のように思えなかった。私たちは被災したうちには入らなかった。でもラジオは一晩中つけっぱなしだった。タクシーで実家に向かった時、電気の点らない町はこんなにも暗いものなのかと驚いた。その時の星空はすごかったらしい。
2011.03.11
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