2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全13件 (13件中 1-13件目)
1

レイケネディ/RayKennedy1980年作 曲目1 閉ざされた心 2 イズント・イット・タイム 3 ジャスト・フォー・ザ・モーメント 4 恋のラスト・ページ 5 マイ・エヴァーラスティング・ラヴ 6 ロンリー・ガイ 7 セイル・オン・セイラー 8 スターライト 9 涙で綴るラヴ・レター 元KGBのヴォーカリスト、レイ・ケネディがプロデューサーにデヴィッド・フォスター、バックにはスティーヴ・ルカサー、スティーヴ・ポーカロ、マイク・ポーカロ、ジェフ・ポーカロ、さらにはビル・チャンプリン、トミー・ファンダーバーク(エアプレイ)、トム・ケリー(フールズ・ゴールド)といったメンバーと制作。ヒット曲「ロンリー・ガイ」やブライアン・ウィルソンとの共作「セイル・オン・セイラー」など都会的な中にR&Bテイストを感じるAORの代表的傑作。 SUPER ROCK 84でMICHAEL SCHENKER GROUPEのフロントマンとして超杜撰なパフォーマンスをしたのは有名RAY KENNEDY (レイ・ケネディ) YOU OUGHTA KNOW BY NOW ロンリー・ガイバリー・ゴールドバーグ(グラディス・ナイト&ザ・ピップスの「I'VE GOT TO USE ME IMAGINATION(つきせぬ想い)」の作者)、マイク・ブルームフィールドとともにKGBというバンドを結成(KGBってソ連の秘密警察のようだ)。解散後ソロでは80年に「JUST A MOMENT」という曲が82位を記録した。ところで、八神純子の「パープル・タウン」という曲ご存知ですか?「パープル・タウン」はサビの『パープル・タウン、パープル・タウン』というところから、曲はボロボロになっていくが、前半の部分は実にすばらしい曲でした。まるで、前半と後半の作者が違うような・・・。今でこそ八神純子のアルバムを見てみると、「パープル・タウン」は八神とレイ・ケネディの共作というような形になっているが、筆者の知人によると、このパクリがバレて以来八神純子は消えていったと言っていた。真偽のほどをご存知の方はご連絡ください。(No.214)P.S.情報をいただきました。最初は八神純子は自分のクレジットだけ入れていたのですが、当然のごとくレイ・ケネディー側は激怒し、訴訟になりそうになったのです。で、八神サイドとしては、(全く同じメロディーですから訴訟に勝てるわけがないので、)レイのクレジットを入れる線で折り合いをつけたということだそうです。また、リリース当初は「君のいない部屋」という放題だったらしい。
2007.09.27
コメント(501)

ボズ・スキャッグス/ミドル・マン 1980年 曲目1 Jojo 2 Breakdown Dead Ahead 3 Simone 4 You Can Have Me Anytime 5 Middle Man 6 Do Like You Do In New York 7 Angel You 8 Isn't It Time 9 You Got Some Imagination ボズ・スキャッグスが1980年に発表した人気作。チャート的には『シルク・ディグリーズ』に次ぐヒットとなった本作。これで『シルク~』、『ダウン~』、本作と3作連続のミリオン・セラーとなった。TOTOのメンバー、デヴィッド・フォスター、レイ・パーカーJr.などが全面参加。従来よりもロック色の濃いところを見せている。M1”ジョジョ”ほかがシングル・ヒットしたやっぱ俺的に1曲目でこのアルバム決定!4曲目の間奏のサンタナのギター泣けますね! ボズ・スキャッグスボズ・スキャッグス(Boz Scaggs, 本名:William Royce Scaggs, 1944年6月8日 - )はアメリカのミュージシャン。1970年代後半から1980年代にかけて流行したAORサウンドを代表するシンガーである。オハイオ州生まれ。少年時代をテキサス州で過ごす。12歳のときにギターを始め、セント・マークス・スクールでスティーヴ・ミラーと出会う。彼にギターを習いながらヴォーカリストとしてバンド活動を始めた。二人は共にウィスコンシン大学に進み、大学時代もブルース・バンドを組んだ。1960年代前半、白人によるリズム&ブルースが盛んだったイギリスのロンドンへ渡る。いくつかのバンドでプレイした後、ソロとしてヨーロッパを遠征中スウェーデンのポリドール・レコードの目にとまり、1965年にデビュー作『ボズ』を発表する。帰国後、サンフランシスコを拠点に活動し、スティーヴ・ミラー・バンドのファーストアルバムに参加。これで好評を得たボズは1969年にアトランティック・レコードからアメリカでのデビュー果たすが、しばらくはセールスに恵まれなかった。R&B色が濃い泥臭い音楽を続けていたボズだが、1976年、ファンキーでクロスオーバー的な洗練されたサウンドの『シルク・ディグリーズ』を発表。これが全米2位を記録し、500万枚以上を売り上げた。アルバムからも「ロウ・ダウン」(全米第3位)、AORのスタンダード曲「ウィ・アー・オール・アローン」の大ヒットを放つ(このアルバムに参加したセッションミュージシャンたちは後にTOTOを結成)。次作の『ダウン・トゥ・ゼン・レフト』、『ミドル・マン』も続いてヒットした。その後、ヒットチャートからはしばらく遠ざかっていたが、1988年の『アザー・ロード』でカムバックを果たし、健在ぶりを見せつけた。ボズのヒットをきっかけに大人向けの洗練された音楽が流行し、AORというひとつのジャンルを形成するに至る。なお、AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)は日本独自の呼び方で、アメリカではMOR(ミドル・オブ・ザ・ロード)、AC(アダルト・コンテンポラリー)などと呼ばれる。特にAORの人気が高かった日本では未だに根強い人気を誇っている。
2007.09.25
コメント(2)

ドゥービーブラザース/Minute By Minute 1978年 曲 目1 ヒア・トゥ・ラヴ・ユー (04:03) 2 ある愚か者の場合 (03:47) 3 ミニット・バイ・ミニット (03:31) 4 ディペンディン・オン・ユー (03:49) 5 轍を見つめて (03:30) 6 オープン・ユア・アイズ (03:22) 7 スウィート・フィーリン (02:45) 8 スティーマー・レイン・ブレークダウン (03:28) 9 ユー・ネヴァー・チェンジ (03:33) 10 ハウ・ドゥ・ザ・フールズ・サーヴァイヴ? (05:15) マイケル・マクドナルドが一番輝いてた仕事したアルバム!グラミー賞受賞!1-3曲目聞いてみて!1970年にトム・ジョンストンを中心に結成、翌1971年にデビュー。1972年に「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」のヒットを放つ。この後のメンバーチェンジでリズムセクションはファンキーさを増し、サザン・ロック色の濃い音楽性を確立する。1973年のアルバム「キャプテン・アンド・ミー」からは「ロング・トレイン・ランニング」、「チャイナ・グローブ」、1974年のアルバム「ドゥービー天国」からは「ブラック・ウォーター」といったヒット曲が生まれ、一躍アメリカン・ロックを代表する人気バンドの一つとなった。1974年、スティーリー・ダンを脱退したジェフ・バクスターが加入する。ところが、その頃からバンドの顔であるジョンストンの健康状態が悪化し、バンドを一時脱退してしまう。間近に控えたツアーのため、ジョンストンの代役としてバクスターの紹介で加入したのが、スティーリー・ダンのツアーメンバーだったマイケル・マクドナルドだった。マクドナルドはその個性的な歌声とともに、バンドに洗練されたAORの強い影響をもたらす。それまで野性味あふれる快活なギターロックを奏でていたドゥービーの音楽性は一変した。AOR路線への転向はファンの間で大きく賛否が分かれたが、商業的には大成功を収める。1978年のアルバム「ミニット・バイ・ミニット」とシングルカットされた「ホワット・ア・フール・ビリーブス」はともに全米1位を獲得、その年のグラミー賞でアルバムタイトル曲は最優秀ポップ・ボーカル(デュオ、グループまたはコーラス部門)賞、「ホワットフールビリーブス」は最優秀楽曲に輝いた。もはやマクドナルドのワンマンバンドとなったドゥービーにかつてのロックバンドの面影はなく、メンバーは次々と脱退。キース・ヌードセン、ジョン・マクフィーら一部のメンバーはアメリカに活動の場を移した矢沢永吉のバックミュージシャンを務めるなどしていた。マクドナルドにとってもドゥービーの看板は不要となり、1983年に初期のメンバーが集まって「フェアウェル・ツアー」と銘打ったライブを行なった後、解散した。1987年にチャリティーコンサートのために一時再結成したドゥービーは、1989年に復活作となる「サイクルズ」を発表。初期のロックサウンドを蘇らせた。その後もマクドナルドが参加したライブアルバムを発表するなど、近年はメジャーレーベルからのリリースはないものの地道に活動を続けている。なお2005年2月10日に死去した主要メンバーのキース・ヌードセンら、かつてバンドに在籍したメンバーのうち四人がすでに死去している。
2007.09.21
コメント(0)

ビリージョエル/Stranger1977年作 曲目1 ムービン・アウト 2 ストレンジャー 3 素顔のままで 4 イタリアン・レストランで 5 ウィーン 6 若死にするのは善人だけ 7 シーズ・オールウェイズ・ア・ウーマン 8 最初が肝心 9 エブリバディ・ハズ・ア・ドリーム ビリー・ジョエルの最高傑作の誉れ高い名作(1977年発表)。フィル・ラモーン・プロデュースとNY一流のジャズ系ミュージシャンとで、ロックとポップスの理想的な融合がはかられており、これまでにない秀逸なサウンドに仕上がっている。今でもよくラジオなどで耳にする永遠の名曲”素顔のままで”など収録。同曲はグラミーも受賞し、ビリー・ジョエルは一躍スターダムにのし上がった(抜粋)俺的には3曲目!当時LP買うお金なかったのでEP盤買いにいきました!今聞いても最高!歌詞カードみなくてもカラオケ歌えまーす! ビリージョエル<ニューヨークへの想い> ビリー・ジョエル、今やニューヨーク市民の愛唱歌のひとつになった「ニューヨークへの想い New York State Of Mind」の作者です。彼はまたウディ・アレンやポール・サイモンらと同じく典型的ユダヤ系ニューヨーカーでもあります。しかし、生まれも育ちもニューヨーク郊外の新興住宅地、ロング・アイランドだったということが、彼の音楽性に他のニューヨーカーとは異なる影響を与えました。 それは彼が個性のない生まれた街をきらい、ニューヨークの雑踏をより深く愛したからだけではなく、それ以上にニューヨークという巨大な街を一歩離れた外からの視点でとらえることにつながったからです。(当時最新型だった住宅地は、ロング・アイランドの自然をつぶし、区別のつかない同じ型の家を並べて作られ有名な街です。このことは、彼のアルバム「リバー・オブ・ドリームス」の中の曲「ノー・マンズ・ランド」にも書かれています) この「外からの観察者」という彼の視点は、デビュー当初の「路上の観察者」から、しだいに「アメリカ合衆国の観察者」(「ナイロン・カーテン」など)へとその視点を広げ、その後はもう一つの視点「心の観察者」(「リバー・オブ・ドリームス」など)という内なる視点へと変わってゆきました。<ビリーの青春> ビリーが生まれたのは、1949年5月9日。ちょうど戦後のベビー・ブーマー世代にあたります。ヒトラーによって、危うく処刑されるところだったユダヤ系ドイツ人移民の父親のもと、ロング・アイランドで少年時代を過ごしましが、あまりに無個性な街とそこでの平穏無事な生活に嫌気がさしていた彼は、いつしか不良少年たちの仲間入りをし、ついには逮捕されるところまでいってしまいました。 しかし、その後はビートルズなどロック・ミュージックとの出会いから、その怒りを音楽にぶつけるようになり、ロック・バンドを結成。初めはロックン・ロールを演奏していましたが、ヤング・ラスカルズを目指して、ブルー・アイド・ソウルに転向。さらには、ジョン・スモールというドラマーと二人組のバンド、アッティラを結成し、クリームなどの影響を受けたサイケデリック・ロックを演奏したりしました。これらの多ジャンルにわたる音楽活動は、後に大いに役立つことになります。<ほろ苦いデビュー作> 1972年、彼は当時、時代の主流になりつつあったシンガー・ソングライターとして、デビュー・アルバム「コールド・スプリング・ハーバー ~ピアノ詩人~」を発表しました。ところが、このアルバムは、あきらかな録音ミスのために最悪のできになっていました。おまけに著作権をほとんどプロダクションに売ってしまっていたため、彼は身動きがとれなくなってしまい、一時ロスへと逃げ出すことにもなってしまいました。この過ちは、この後も尾を引き、セカンド・アルバム「ピアノ・マン」(1973年)が100万枚以上の売上を記録したにも関わらず、彼の手元には1万ドルも渡らなかったということです。 その後、マネージャーを勤めていた彼の妻が解決にあたり、なんとか事態は収まり、彼は再スタートを切ることになりました。(しかし、後にこの妻と離婚訴訟で泥試合を演じることになるというのは、皮肉なことです)<時代の波に乗る> この後彼は、やっと順調に作品を発表できるようになり、シンガー・ソングライターとAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)のブームにも乗ってヒットを連発して行くことになりました。 「ストリート・ライフ・セレナーデ」(1974年)、「ニューヨーク物語 Turnstiles」(1976年)(「さよならハリウッド」、「ニューヨークの想い」収録)がヒットした後、1977年に発表したアルバム「ストレンジャー The Stanger」が世界的なヒットとなり、一躍彼は世界的なスーパー・スターの仲間入りを果たしました。 彼がかつて演奏していた多彩なジャンルの音楽は、いよいよそれぞれのアルバムにおいて生かされて行くことになります。ロックン・ロールやソウルはもちろん、ティンパン・アレー時代のなつかしいポップスの要素から最新のパンク、ニューウェーブまでを取り込んだ幅の広い音楽性と路上詩人としての彼の観察眼が生む優れたストーリーが新しいのに親しみやすい素晴らしいポップスを生み出したのです。<バラエティーに富む作品群> 彼が凄いのは、「ストレンジャー」という完成度の高い大ヒット作を発表していながら、その後のアルバムにおいて守りに入るということをせず、新しいチャレンジを続けていったことにあるでしょう。「ニューヨーク52番街 52nd Street」(1978年)では、マイケル・ブレッカー、デイブ・グルーシン、フレディー・ハバード、マイク・マイニエリなどを起用することで、ジャズ・テイストを導入。「ビッグ・ショット」、「オネスティー」、「マイ・ライフ」などのヒットを生みました。「グラス・ハウス Glass Houses」(1980年)では、それまでのAOR路線からニューウェーブ系のパワフルなロックにチャレンジ。「ロックン・ロールが最高さ」、「ガラスのニューヨーク」、「真夜中のラブ・コール」、「ドント・アスク・ミー・ホワイ」がヒット。「ナイロン・カーテン」(1982年)では、それまで取り上げたことのなかった社会問題、それもベトナム戦争と帰還兵の問題、それに右よりレーガン政権の愚かな政策にスポットを当て、彼のもうひとつの傑作として記憶に残る作品となりました。このアルバムからは、「プレッシャー」、「グッドナイト・サイゴン」、「アレンタウン」などのヒットが生まれています。「イノセントマン An Innocent Man」(1983年)は、前作とは気分を一新、彼にとってのルーツ・サウンドでもあるフォー・シーズンズやリトル・アンソニーらのオールディーズ・ポップスをアカペラも交えて展開してみせました。このアルバムからは、「あの娘にアタック」、「イノセント・マン」、「ロンゲスト・タイム」、「アップタウン・ガール」などのヒットが生まれました。「ザ・ブリッジ The Bridge」(1986年)では、レイ・チャールズ(ビリーの娘の名はレイといいます、これは彼が尊敬するピアノ・マン、レイ・チャールズにあやかっています)、シンディー・ローパー、スティーブ・ウィンウッドらとの共演を実現させ、その後彼にとって最も重要なライブとなったソ連ツアーをライブ・アルバム「コンツェルト」(1987年)として発表。この時の体験から生まれた曲「レニングラード」を収録したアルバム「ストーム・フロント Storm Front」(1989年)では、これもそれまでなかった自分自身の心情を表現するということを積極的にし始めた。これは以後の作品で、さらに明確になって行きました。 そんな彼の90年代を代表する傑作アルバムが「リバー・オブ・ドリームス River Of Dreams」でした。このアルバムの収録曲「見えない真実 Shade Of Grey」にこんな歌詞があります。「若い頃は、世の中が完璧にクリアーに見えたものだ 疑いも恐れもなく、真実のみを追究していた 近頃じゃ、自分が何を相手に戦っているのかさえ確かじゃない 僕の信念は揺らいでいくばかり もう確かなものは何もない・・・」 対訳:山本安見<路上の観察者から心の観察者へ> ニューヨークの街の「路上の観察者」としてスタートした彼ですが、人生は観察者でばかりはいられません。かつては、彼とともに人生を歩んでいた妻のエリザベスとの離婚訴訟やその後彼のマネージャーとなった義理の弟による使い込み事件などは、特に彼の人生観に影響を与えたようです。自分の中にある大きな心の不安という巨大な川の存在に気づいた彼は、しだいに「心の観察者」へとなっていったのですが、それは多くの大人たちも同じように気づいて行くことなのかもしれません。<成長し続けるアーティスト> こうして、自らの人間的成長とともに、彼はその音楽性も変えていったわけですが、こういうタイプのアーティストは、考えてみると以外に少ないのかもしれません。もしかすると、これはもの凄く困難な道なのかもしれません。 ぱっと思い浮かぶのは、ブルース・スプリングスティーン、それにボブ・ディラン、日本なら佐野元春。彼らは、未だにパワーが衰えないだけでなく、その音楽スタイルや歌詞の内容は常に変化し続けています。ジョン・レノンも、もし1980年に暗殺されなければ、きっとそんなアーティストたちの仲間入りをしていたでしょう。そうそう、ニール・ヤングもいました。でも、彼の場合は、年をとるごとに若返り続けている特殊な例かもしれません。 もちろん、他にもいっぱいいますが、こうして変化を繰り返して行く中でも、けっして変わることのないそのミュージシャンならではの確固たる個性が存在するかどうか。それこそが、天才の天才たる所以なのかもしれません。そうそう"Just The Way You Are"です!<追記> 2002年6月28日の新聞にビリー・ジョエルがアルコール依存症治療のための病院から退院したという記事が載っていました。相変わらず、彼は心の中の川と悪戦苦闘しているようです。
2007.09.20
コメント(0)

BobbyCaidwell/ Cat In The Hat1980年 曲目1 Coming Down From Love 2 Wrong Or Right 3 To Know What You've Got 4 You Promised Me 5 It's Over 6 Open Your Eyes 7 Mother Of Creation 8 I Don't Want To Lose Your Loveぶっちゃけ俺が洋楽LPレコード買ったかなり思い出のアルバム!正直当時テープにいれて聴きまくってた作品ですね!収録時間短すぎてテープが余って1と3曲目はヘビーローテー!A面4曲!1曲目の美しさ!3曲目の哀愁感!俺的に一番好きな作品のひとつですね! ボビーコールドウェル 1978年「イブニング・スキャンダル」とそこからのヒット曲「風のシルエット」で突然頭角を現した謎の人物。そのお洒落なサウンドと、謎に包まれたシルエットのアルバム・ジャケットで、静かなブームを呼んだ。 日本では翌79年に発売され、ちょうどカフェ・バーが流行り出した頃でもあり、都会の夜の雰囲気によく合うボビーのサウンドは、たちまち大ヒットして、毎晩のように店で流れていた。 ボビーの姿は、当初このファースト・アルバムのシルエットのイラストと、雑誌で見かける、ハットを深くかぶりサングラスをした写真しかなく、黒人なのだろうかとも思わせるソウルフルな声のため、まったく謎の人物だった。しかし、つづくセカンド・アルバムの顔写真アップのジャケットで、すべてが明らかになった。日本では、このアルバムが発売になったのが、まだ衝撃デビューの興奮醒めやまぬ80年(ファースト・アルバムの翌年)だったこともあり、もちろんのことよく売れ、つづく3,4枚目のアルバムも好調なセールスを記録していった。 本国アメリカでは、このセカンド・アルバムがリリースされた直後にレコード会社(T.K.)が倒産。新人にして2年という長いインターバルを開けた末、満足なプロモーションもできないまま世に出てしまったのこのアルバムは、当然売れ行きも鈍く、作品の出来の良さから考えると不運な結果となってしまった。ボビーにとっても、それだけ時間をかけた力作で、仕上がりも申しぶんのない自信作だっただけに、かなりがっかりしたことだろう…。 ポリドールに移籍してリリースした、つづく3作目(82年)と4作目(83年)は、自らプロデュースし、バックにTOTOのメンバーを加えるなど、ますます気合い十分でAORサウンドに磨きをかけ、日本での人気を不動のものにしたが、やはりアメリカではパッとせず、ボビーは失意のまま、シンガーとしての活動を停止してしまう。 その後ボビーは、85年頃からコンポーザーとして多くのアーチスト達に数々の名曲をプレゼントしている。コモドアーズ、ピーター・セテラ&エイミー・グラント、シカゴ、ボズ・スキャッグス、アル・ジャロウ、ジェームス・テイラー、マイケル・センベロ、ニール・ダイヤモンドなどなど、数え上げたらきりがないほどだ。中でもネクスト・タイム/ピーター・セテラ&エイミー・グラント(全米1位)、ホワット・カインド・オブ・マン・ウッド・アイ・ビー/シカゴ(全米5位)は大ヒットを記録したが、ボビーをシンガーとして再起させるきっかけとなったのは、ボズ・スキャッグスに贈ったハート・オブ・マインの大ヒットであった。同じAORシンガーとしてのボズ・スキャッグスの復活は、大いにボビーを勇気づけたようだ。 そして89年、6年ぶりに自らのアルバム「ハート・オブ・マイン」をリリースし、ミュージシャンとしてカンバックを果たした。 しかし、このアルバムはほとんど全曲、そのコンポーザー時代のものを自分でセルフ・カヴァーしたものの寄せ集めだったので、次にリリースした「ソリッド・グラウンド」が内容的には実質の復帰作と言えよう。 91年にリリースしたこの通算6枚目のアルバムは、昔と変わらずソウルフルな声と名曲の数々が収録されていたが、1曲だけ「スタック・オン・ユー」という異色のジャズ・ナンバー(自作)を入れたところ、これが全米ジャズ・チャートで大ヒット! これに気をよくしたボビーは、その後サウンド路線を変え、ジャズ・シンガーとしての道を歩み始める。90年代にリリースした以降3枚のアルバムは、いずれもフランク・シナトラ風のビッグ・バンド・ジャズが中心の内容だった。 彼の生い立ちを知れば、この成り行きも納得できるのだが、「ミスターA0R」がロックシーンから消えたのはたいへん残念だ。今後また気が変わってAOR路線に戻ってくれることを願いたい。(抜粋)
2007.09.19
コメント(0)

渡辺 香津美/TO CHI CA1980年 曲目1 リキッド・フィンガーズ 2ブラック・カナル 3 トチカ 4 コクモ・アイランド 5 ユニコーン 6 ドント・ビー・シリー 7 サヨナラ 8 マンハッタン・フルー・ダンス NYに渡りM・マニエリプロデュースの最大のヒットアルバムNYのバリバリミュージシャン対等に張り合うタイトなサウンドと研ぎ澄まされたギターソロが一つになった理想的なギターフュージョンアルバムの形ですね!たしかベースはマーカス・ミラーじゃなかったかな?渡辺香津美(ギタリスト・コンポーザー・プロデューサー) 1953年東京渋谷生まれ。弱冠17才でデビュー作『インフィニット』をリリースし、天才ギタリストの出現と騒がれる。今田勝、渡辺貞夫、鈴木勲など国内のトップ・グループに在籍し、79年には坂本龍一、矢野顕子、村上秀一等と伝説の「キリンバンド」を結成。更に同年秋には「イエロー・マジック・オーケストラ」のワールドツアーに参加し、「Kazumi」の名は一躍世界的なものとなった。80年代には大ヒット・アルバム「トチカ」を皮切りに、「Mobo」、「Spice Of Life」といったフュージョン史上に残る伝説的作品を次々と レコーディング。自己のグループで全米&アジア・ツアーも行い、トップ・ギタリストとしての地位を確立する。90年代からはアコースティック・プロジェクトに力を入れ始め、ジャズ/クラシックの境界線を乗り越えて世界中で活躍。91年バルセロナ、ローマ、95年ブルガリア、リスボン、97年のパリなど、ヨーロッパ各地で絶賛を浴びた。21世紀に入り《ギター生活30周年集大成》として発表されたギター組曲『ビヨンド・ザ・インフィニット』では、インプロヴァイザーとしての側面を活かした作・編曲で独自の世界を展開し、ギタリストとしての可能性をさらに極めていった。2003年2月にはキャリア初の完全ソロ・パフォーマンス・アルバム『ギター・ルネッサンス』をリリース。バッハの「無伴奏チェロ組曲」やラベル、スカルラッティなどのクラシック作品、ビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」等を取り上げ、幅広い層から大きな反響を得たことは記憶に新しい。さらに同年5月にはNYでNew Electric Trio(ベース:リチャード・ボナ、 ドラムス:オラシオ・エル・ネグロ・エルナンデス)による 『Mo’Bop』をレコーディング。 8月のリリース記念に「東京JAZZ 2003」のステージでワールド・プレミア・ ライヴも行い、全国のエレクトリックギター・ファンに強烈にアピール。 2004年からはこの2つのアルバムを軸としたツアーも行い、2005年にはそれぞれの第2弾となるアルバム、ライブDVDもリリース。2006年に入り活動はさらに密度を増す。2本柱のアルバムはそれぞれ第三弾をリリース、その合間をぬってローマ~パリでのソロ・パフォーマンスと現地ミュージシャンとのコラボレーション、さらには自らのアイデンティティーに根ざした新プロジェクトとして韓国のジャック・リー、香港のユージン・パオと共に【エイジアン・スーパー・ギター・プロジェクト】を立ち上げ、マレーシアの国民的打楽器奏者ルイス・プラガサムも加えた4人で8月より日本、韓国を皮切りにアジア各地のジャズ・フェスティバルに参加。アルバムもアジア各地でリリース。これらはかねてより、ジャズというコミュニケーションツールを活用し日本はもとよりアジアの伝統楽器、さらに世界中の民族音楽とのコラボレーションを展開することを目指した21世紀の文化交流の一環としてジャズ・フュージョンの分野におけるアジアのコラボレーションを模索したもの。一方、ギターコンチェルトのフォーマットをクラシックから解放することを目指した活動として2006年金聖響指揮による大阪シンフォニカー交響楽団とオリジナル【ギター組曲/ビヨンド・ザ・インフィニット】オーケストラヴァージョン(猿谷紀郎・編曲)を初演するなど、その創作エネルギーは留まることを知らない。 2007年5月から6月にかけては、アトリエダンカン・プロデュース公演『血の婚礼』(白井晃/台本・演出、森山未來/主演)において音楽プロデュースと38公演にわたる生演奏で参加。『大地の熱さ、血の暗さがたぎる音楽と巧みな演奏』と絶賛され読売演劇大賞・スタッフ賞にノミネートされる。先駆けて4月には劇中のサウンドスケープを含むスペイン(アンダルシア)へのオマージュをテーマにしたアルバム『ギタールネッサンス4~響』もリリースし、自己のソロ公演においてもギターにおけるジプシー精神溢れる自由奔放かつ縦横無尽な演奏を展開する。 2003年にはNHK教育テレビ《アコースティックギター入門》の講師を務め『いち国民いち楽器』構想で音楽文化の草の根運動を展開。2005年より2007年春までNHK FM 《ジャズ・トゥナイト》のパーソナリティー としても活躍。洗足学園大学ジャズコース客員教授。全ての音楽ファンに評価される実力と人気でギタリストとしてのみならず音楽文化に貢献
2007.09.15
コメント(0)

大滝 詠一/ALongVacation1981年 曲目1 君は天然色 (キリン生茶 「春」篇 CM曲(2004年 )) 2 Velvet Motel 3 カナリア諸島にて 4 Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語 5 我が心のピンボール 6 雨のウェンズデイ 7 スピーチ・バルーン 8 恋するカレン 9 Fun×4 10 さらばシベリア鉄道 11 君は天然色(Instrumantal) 12 Velvet Motel(Instrumantal) 13 カナリア諸島にて(Instrumantal) 14 Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語(Instrumantal) 15 我が心のピンボール(Instrumantal) 16 雨のウェンズデイ(Instrumantal) 17 スピーチ・バルーン(Instrumantal) 18 恋するカレン(Instrumantal) 19 Fun×4 (Instrumantal) 細野晴臣、松本隆、鈴木茂ら4人で結成されたバンド、“はっぴいえんど”を解散後、ソロ活動を開始した大瀧詠一。今作は、邦楽のCD化リリース第1号の大名盤が、発売20周年を記念して再リリース!全編リマスターな上に、なんとボーナス・トラックとして一万枚のみの限定発売だった幻のインスト・アルバム『Sing A Long Vacation』をまるごと収録。今で言うカラオケ・アルバムが幻になる程の有り得ない大名盤ってこと。1981年に発売されたこの『ロング・バケーション』のセールスは、これまでの記録を打ち破るもので、このアルバムのヒットにより、大瀧詠一の音楽活動が以後も続いたと言われています。それまでの日本にはなかったドライでクールな情感を漂わせるメロディ、素晴らしいジャケのイメージ通り精密に構築されたカラフルな音作り、松本隆の手によるファッショナブルな歌詞が生みだすサウンドイメージは当時センセーショナルに受け入れられました。それまでマニアックな知識を総動員しながら、ポップスを構築していた大瀧氏が、他言もあり、王道ポップスの製作を軽い気持ちで始めた結晶が今作。なお、70年代のはっぴいえんど以降、彼の多数ある関連作品はどれもがきらめくメロディーとおもしろい仕掛けサウンドが楽しめる最高傑作ばかりです。ちなみに1982年には世界初CDとして今作が選ばれている(ビリー・ジョエルと一緒に)。今作は日本ポップミュージック史の歴史的名作! 大滝 詠一20世紀の日本ポップス史に名を残すアーティスト、大瀧詠一。フジテレビ系ドラマ『ラヴ・ジェネレーション』の主題歌として起用された‘幸せな結末’(1997年)で復活し、ファンを喜ばせてくれた。またモデル出身の市川実和子へ提供した‘ポップスター’(1998年)など、プロデュース活動も記憶に新しい。 大瀧の音楽活動全盛期であった70年代~80年代当時は、そのサウンドを批判するリスナーが多くいたのも事実であり(セールスも芳しくなかった作品もある)、キャロル・キングから幕を開けた伝説のラジオ番組『Go Go Niagara』を、楽しみにしていたリスナーがいたのも事実。情報が豊富な今と比べ、当時の情報量を考えると、『Go Go Niagara』は、一部の洋楽ファンのツボにはまったのは間違いないであろう。 また大瀧詠一という存在を知らず、幼い頃に‘出前一丁’や‘三ツ矢サイダー’などのCMソングを口づさんでいた、という人も多いはずだ。 細野晴臣、松本隆、鈴木茂ら4人で結成されたバンド、“はっぴいえんど”を解散後、大瀧はソロ活動を開始する(このソロ活動が、はっぴいえんどの解散にも繋がっている、という説もある)。そしてその後、『ナイアガラ・レコード』を立ち上げ、そこから、シュガーベイブ(山下達郎、大貫妙子らが在籍していたバンド)の“Songs”を第一弾としてリリース、以後、大瀧のソロ・アルバム、プロデュース作品などをリリース。中でも、1981年に発売された“ロング・バケーション”のセールスは、これまでの記録を打ち破るもので、このアルバムのヒットにより、大瀧詠一の音楽活動が以後も続いたと言われている。 ちなみに、1982年には、世界初CDとして、大滝詠一 “ロング・バケーション”が選ばれている(ビリー・ジョエルと)。 以後、1973年から74年までのコロンビア時代、1980年からのソニー時代の音源がCD化され、以後、大瀧のサウンドは、ナイアガラの生き字引との異名を持つ萩原健太ら評論家筋や、山下達郎を筆頭にするフォロワーらにより、次世代へと語られているのである。それはよく、「再評価」と言われるが、そんな事はどうでも良いのだ。単純に、‘幸せな結末’に感動したという、現代のリスナーの率直な反応が、大瀧詠一の素晴らしさを物語っているから。 作曲家、プロデューサー、ヴォーカリスト…と、どの肩書きも彼には物足りない。しいて言えば…とも言えないまでの、どれに至ったても多彩な魅力があるのだ。シリア・ポールの“夢で逢えたら”や、沢田研二の“あの娘に御用心”、小林旭の“熱き心に”、森進一の“冬のリヴィエラ”…と、その提供した楽曲は、どれも日本の音楽史に残る名曲である。 幅広い裏方仕事はもちろんだが、ヴォーカリストとしての大滝詠一(歌手)というのも絶対に捨てられない部分だ。彼は作家、歌手、により名前を使い分けている。大瀧詠一は作家としての活動を表すときに、そして大滝詠一は歌手としての活動を表すのに用いている(その他、多羅尾伴内などもある)。以下からは、ヴォーカリスト大滝詠一と記す。 1977年に発表したアルバム“ナイアガラ・カレンダー“の名曲‘青空のように’や‘五月雨’でも感じられるが、決定的にスタイルを確立したのは、恐らく“ロング・バケーション“(1981年)であろう。”ロング・ヴァケーション“以降の彼のヴォーカル・スタイルは、澄んだ柔らかな声質からしっとり&ネットリと歌い上げ、全編に施されたリッチなリバ-ブ処理により、そのネットリ感が強調されたとてもソフトなもの。 “A面で恋をして”(1981年)で聴ける、優しさ溢れる、弾むようなヴォーカル、 “君は天然色” (1981年)、“ハート仕掛けのオレンジ”(1982年)、“カナリア諸島にて”…と、楽曲の良さもさることながら、そのしっとり&ネットリとした声に惹かれて聴き入ってしまうのだ。丁寧に正確な音を拾い、優しく、…まるで、花を摘むように歌う…。軽くさえも感じるCDの綺麗なサウンドではなく、彼の歌声は深く温かみを帯びた、丁度、レコードから流れ出る響きに例えたい。深く温かく響くのだ。 これに比べて 、‘三文ソング’や‘ロックン・ロール・マーチ’などで聴ける『ナイアガラ・ムーン』あたりの初期の頃は、ドライな感じ、楽曲についても同様のリズムを重視したヴォーカルと言えるかもしれない。 “ロンバケ”以降のソフトなヴォーカル・スタイル、そんな、彼のヴォーカルが最大の魅力に感じてならない。2001年には、20周年記念として”ロング・ヴァケーション-20th Anniversary Edition”として現在のテクノロジーによって全編リマスターされて復活、ヒストリー完全本All About Niagaraも発売され、ファンにとっては嬉しい年となった。
2007.09.14
コメント(0)

角松 敏生/Wekend Fly To The Sun 1982年 曲目1 Office Lady 2 Rush Hour 3 Brunch 4 Space Scraper 5 Friday To Sunday 6 Crescent Aventure 7 I’Ll Never Let You Go 8 4 A.M.角松敏生の2枚目のアルバム!山下達郎と並ぶ、リゾート&アーバンな作品ですね!俺当時24歳でこの手の音がすきで1曲目5曲目はめちゃ聴きましたね。その当時バックが誰かなんて気にもしてませんでしたが、EW&Fのアルマッケイにクインシーの愛のコリーダに参加してたジョンロビンソン(ルーファスのドラマー)とルイスジョンソン(ブラザースジョンソン)にクインシーのツアーでギター弾いてたカルロス・リオス(Sルカサーの替わりを努めてた)それにドン・グルージン!それにEW&Fのアレンジ等で有名なトムトム84!まじですげーメンツ!今聞くとボーカルはまだ若いので??ですが楽曲のレベルはかなり凄いですね!さすが角松敏生すごい音楽に対する造詣の深さ感じますね! 角松敏生日本大学文理学部哲学科在学中に、ギタリストとして作成したテープがきっかけで、ボーカリストとして1981年にシングル「YOKOHAMA Twilight Time」ならびにアルバム『SEA BREEZE』でデビュー。デビュー当初のスタイルは当時流行していた大瀧詠一・山下達郎直系のリゾート・ポップスであったが、その後渡米し、NYファンク/ヒップホップをリアルタイムで取り入れた独自のダンスミュージックへと発展させ、日本のAORの先駆者的存在となり都会的で洗練されたサウンドでOLを中心とした熱烈に支持するファン層を生み出してゆく。しかし、自己の体験を切り出す様な創作スタイルを続けてきたため、1990年代初頭の作品から徐々に内省的な作品が増え、インタビューでも思想的・哲学的な内容が多くなっていった。そして自身の音楽に対する絶望感を訴え、1993年をもって歌手としての活動の「凍結」を宣言し、休止してしまう。休止中はベスト版のリテイク&リマスタリング作業をはじめに、ビデオ音楽の担当、作曲・プロデュース活動、新人ボーカリスト発掘のレーベル「vocaland」の立ち上げ等の活動を行う。中でも際立つのは長万部太郎名義ユニットAGHARTA(アガルタ)として1997年に発表した「WAになっておどろう~イレアイエ~」である。NHKみんなのうたにて放送され、当時のNHK番組プロデューサーに絶賛され、平和を象徴するメッセージ性から翌年に開催された長野オリンピックでテーマ曲として抜擢される。閉会式ではAGHARTA(アガルタ)としてライブ演奏を行い、世界へ配信放送された。なおこの閉会式は天皇・皇后が観覧して挙行されていたため、非常に貴重な「天覧演奏」となった。この演奏は「アフレコではなく生演奏」であったが、あの寒さの中の演奏クオリティーとしてはまさに突出していた感があり「聴く人が聴けば分かる・・」素晴らしさであった。 また当時ノルディック複合の代表選手であった荻原次晴氏は「角松敏生」のフリークである事が広く知られており、この日の演奏を聴いてどれ位感激したかは想像に難くない。 後に植竹公和氏による作品「Jumper(フジテレビSKITVテーマ曲:角松敏生:歌唱)」に繋がって行ったことは容易に想像できる。 同曲はV6によってカヴァーされる。凍結時は「活動中」よりも多忙な活動を続けていた。そして、1998年に5年間のブランクを経て「解凍」を宣言、自身の歌手しての活動を再開。その後はほぼ年に1作のペースで新作をリリースしている。近年の作品は、以前のような内省的なものを含みながらも、より前向きで明るい作風へと変貌している。また、沖縄音楽やアイヌの民族楽器トンコリを取り入れるなど、民族音楽とのフュージョン(角松本人は「音楽的交易」と表現)といった実験的な作品にも取り組んでいる。2004年発表の「Fankacoustics」は、スタイルの異なる2種類のバンド構成での2枚組CDという形で、各バージョンでのLive Tourを全都道府県で敢行するなど、新しい試みを続けている。こうしたひとつの枠にとらわれない試みは古くからのファンの賛否両論を巻き起こしているが、若い世代のファンへの継承や音楽ファンの発掘、なにより音楽的なチャレンジにどん欲でありたいという角松自身の強い意志によるものである。ファンクラブ会員の増加やチャートへのランクインなどセールス面は順調で、この世代のミュージシャンとしては十分に健闘しているといえるが、決定的なヒット作には恵まれておらず、一般的な認知度という意味では未だ「知る人ぞ知る」といったところである。角松の大きな特徴として、自身のミュージシャン活動以外に、他アーテイストへの楽曲提供や編曲など音楽プロデューサーとしての活動があげられる。杏里の「悲しみが止まらない」(プロデュース・アレンジを担当。作曲は林哲司)のスマッシュ・ヒットを皮切りに、中山美穂、ジャドーズらをプロデュース。1988年2月には、オリコン・アルバム・ランキングにて、フルプロデュースした中山美穂のアルバム『CATCH THE NITE』が1位、自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位と、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成している。その他にも元BARBEE BOYSのKONTAや布施明、岩崎宏美、ジャッキーチェン、西城秀樹(『TWILIGHT MADE』)のプロデュースなど、新人・ベテラン、海外有名人問わずに積極的な活動を行っている。また、ミュージシャンに対するリスペクトを常に標榜。名うてのミュージシャンを起用すると同時に、若い世代のミュージシャンも発掘し、ミュージシャンシップの紬手としての活動も行っている。スタジオミュージシャンでもあるトランペッター数原晋が中心となって結成したフュージョンバンド「トーキョー・アンサンブル・ラボ」のデビューアルバム「BREATH from THE SEASON」(1988年7月21日発売、既に廃盤)の作曲・プロデュース、 ジンサク(JIMSAKU)の作曲・プロデュースなど、フュージョン系での活動も行っている。角松自身も過去2枚、インストゥルメンタルアルバムも発表しギタープレイヤーとしての才能も発揮し、同アルバムがインストゥルメンタル(フュージョン系)であるにもかかわらずオリコンベスト10以内にランクインするのは大変稀である。(SEA IS A LADY 1987/7/1 最高位4位、Legacy of You 1990/7/25 最高位4位)デビューして20年以上経つがデビューアルバムから、発売されているアルバムは一枚も廃盤になっていない。但しシングル及び12インチシングルはCDが普及する以前に発売されたEP盤(ドーナツ盤)は一枚もCD化されておらず、尚且つ全てが廃盤となっている。 シングルでもアルバムに収録されている事もあるが、シングル盤とアルバムに収録されている曲とではバージョン違いも多数あり、シングル盤、12インチシングル盤がネットオークションなどで高値で取引されることも多々ある。 シングルCD(8センチCD)は全てが廃盤となっている。いまや主流となったマキシシングル盤であるが、「OKINAWA」(1990年発表、現在は廃盤)をリミックスバージョンとしてマキシシングル盤スタイルをいち早く取り入れた。角松敏生のライブはターンテーブルなどをいち早く採用したことでも有名だが、一流ミュージシャンによる完成度の高さも特筆すべきであろう。なお、自己の思想信条に悪口雑言を交えつつ延々語り続けるMCは、時には観客との口論になってしまうこともあった程だが、これもまたある意味、彼のファンにとっては楽しみの一つであったりする(もっとも、最近では長いMCは見られなくなったが)。25周年記念として発表したシングル【SMILE】(2006/05/10)では、沖縄で活動を拠点としているグループ【しゃかり】のボーカル千秋とデュエットしスマッシュヒットを記録。後にしゃかりのアルバム【ゆるり】(2006/10/26)で角松自身のシングル曲Always be with youをカバーをしており、英語詞部分を沖縄方言で歌っている。1982年よりツアーはもとより、殆どのアルバムに参加しているベースの青木智仁が2006年6月12日、急性心不全のため死去、享年49。これに関連して、この年に発売されたアルバム【Prayer】(2006/07/26)では、青木智仁への追悼の意を込めて「初恋」のライブバージョンが収録された。また、2007年4月20日には、同じく長年サポートを努めてきたギタリストの浅野祥之が死去。盟友を2人続けて失った角松の今後の活動が注目される。フジテレビ系水曜日PM10時放送オリキュン(MC:オリエンタルラジオ)の1コーナー胸キュン東京タワーのコーナー説明の際、Tokyo TowerがBGMとして流れていた。 フジテレビが河田町からお台場に移転する際、河田町最後のフィラー映像でRamp Inが流れていた。放送作家の植竹公和と親交がある
2007.09.13
コメント(2)

山下 達郎/ForYou 1982年 曲目1 Sparkle 2 Music Book 3 Interlude A Part1 4 Morning Glory 5 Interlude A Part2 6 Futari 7 "Loveland, Island" 8 Interlude B Part1 9 Love Talkin'(Honey It's You) 10 Hey Reporter! 11 Interlude B Part2 12 Your Eyes 13 あまく危険な香り-Bonus Track 14 あまく危険な香り(Tv用インスト1)-Bonus Track 15 あまく危険な香り(Tv用インスト2)-Bonus Track 16 Every Night-Bonus Track あの夏、街で海で山でこの音が流れない日はなかった。「スパークル」から「ユア・アイズ」まで怒涛の40分!達郎サウンドのエッセンスが凝縮された永遠の名盤!まさに日本ポップス史における最高峰の一枚。今作はRCA時代でのラスト・アルバムとして、1982年1月21日に発売された山下達郎ソロ8枚目のアルバム。「あまく危険な香り」のヴァージョン3種と、竹内まりやへの提供曲だった「Everynight」をボーナス・トラックで収録。好きなだけ時間とお金をかけて作られたというアルバムでもある。心地よく開放感にあふれたポップスの集大成ともいえる仕上がりになっている。鮮やかな色彩のジャケットイラストは鈴木英人氏。※自筆ライナー&曲解説付(1982年作品)。デジタル・リマスター&ボーナストラック4曲*まさしく日本のシティポップスの最高傑作!アルバムから街が見え、風がふきますね!7曲目まさしく夏”いい曲満載!たしか10曲目は、しつこいレポーター(Nさん)を皮肉った歌だと思いますが!クリスマスイブしかしらない人!”クリスマスイブ”は1983年この作品の次のアルバム”メロディーズ”の10曲目で当時シングルカットされた訳でもない曲だったの知ってました?このCDは聴きましょう! 山下 達郎日本のポップス史上、名実ともに最高のミュージシャンであり、シンガーソングライターである山下達郎。彼の描き出す珠玉のメロディーに、ハイトーン・ボイスなのに湿り気があり、流れるような歌声と絶妙なコーラスワークが溶け合う楽曲の多くは、私たちに至福の時間を味わわせてくれます。リスナーの年代によって、思い出深い曲は十人十色だと思いますが、達郎の最も代表的な(セールス的にも)最高傑作といえば「クリスマス・イヴ」になるでしょう。JR東海のクリスマス・キャンペーンのCMソングとして1989年に起用され、爆発的な大ヒットを記録してから、以降クリスマス・シーズンの定盤曲になっていることは、誰もがご存知のことでしょう。2000年のミレニアム・クリスマスにこのCMが復活したとき、勿論CMソングは達郎の「クリスマス・イヴ」で復活したことも話題となりました。山下達郎は1953年、東京に生まれ、中学時代にベンチャーズに影響を受けて音楽活動を開始しました。そして、大学在学中に大貫妙子らとシュガーベイブを結成したのが1973年。この年、はっぴいえんど解散コンサートに参加した彼は、大瀧詠一と運命的な出会いをし、伝説の名盤「Songs」を制作することとなりました。今作は達郎のR&B~ソウル趣向と、大瀧のフィル・スペクター~アメリカン・ポップス趣向との融合されたサウンドを生み出し、「ダウン・タウン」や「すてきなメロディ」など、今もってエヴァーグリーンな名曲の数々が収録されています。しかし発表した翌年、マスコミから黙殺された形となった今作を残し、解散してしまいました。けれども、今作は間違いなく日本のポップスの歴史上に残る名盤であり、原点であったことは今日の評価からも明らかです。シュガーベイブ解散後、1976年に大瀧詠一と伊藤銀次とともにシュガーベイブの延長とも言える素晴らしい楽曲が収録された「ナイアガラ・トライアングルVol.1」を発表。同年「Circus Town」でソロデビューすることになりました。今作ではニューヨーク・セッションによる完成されたクオリティーの高さが海外でも絶賛され、日本ポップスの指標となったのです。1977年にはポップ色が増した「Spacy」、78年の「Go Ahead!」、79年の「Moonglow」と意欲的にリリースしていきました。彼の転機となったのは、1980年にシングル「Ride On Time」がCMソングに起用され、一気に大ブレイクして音楽シーンの中核へと踊り出たことであり、それによって同タイトルのアルバムが初めて好セールスを記録、ポップな楽曲と伸びやかな歌声が旋風しました。そして82年、彼の人気を決定的にした最高のポップチューンが散りばめられた「For You」、続く83年「Melodies」は海外のソフト・ロックに引けをとらない素晴らしいハーモニーを紡ぎ、前述の「クリスマス・イヴ」が収録された傑作盤としてリリースされることになりました。その後も、アメリカン・ポップスを昇華した良質なポップソングをリリースし続ける一方、様々なシンガーへの楽曲提供やプロデュースを行なっています。代表的なものとしては竹内まりやなどニューミュージック系のシンガーへの楽曲提供が多いが、アイドル時代の近藤真彦の大ヒット曲「ハイティーン・ブギ」や、最近では同じジャニーズのKinki Kidsに提供した「硝子の少年」、「ジェットコースター・ロマンス」で彼のポップセンスの健在をアピールしました。そして最近では7年ぶりとなった新作「Cozy」をリリース、作詞に松本隆を起用したことでも話題となりましたが、その普遍的な珠玉のポップソングは和製ポップスの最高峰といえるでしょう。2002年2月には、名盤「For You」などを含む一挙7タイトルがデジタルリマスターされて再発!これはボーナストラックをそれぞれのアルバムに追加収録しているもので、全ての作品がビックヒット!改めて達郎の素晴らしさを確認できる出来事でもありました。2002年のもうひとつのビックリリースは、10月リリースの裏ベスト盤とも呼べる「Rarities」。シングルオンリーの曲や、シングルのカップリング、未発表セルフカバー、新曲など未アルバム化レア音源を集めまくったファン待望作品です。「デリ!スマ」テーマソング「LOVE GOES ON~その瞳はGODESS」や、シングルのみの発売だった「君の声に恋してる」(初回限定生産のため、現在は入手困難)など、気になる曲が多数収録されています。 2003年には木村拓也主演のドラマ「GOOD LUCK!!」の主題歌としてRide On Timeが23年の時を経て待望のシングルカット。続いて2000トンの雨が映画「恋愛寫眞」(堤幸彦監督:広末涼子、松田龍平)テーマ曲としてリリース。世代を越え新たなるファンを増やしつづけています。
2007.09.12
コメント(0)

高中 正義/JollyJive 1979年 曲目1 BLUE LAGOON 2 RADIO RIO 3 EXPLOSION 4 珊瑚礁の妖精 5 TAJ MAHAL 6 BAMBOO VENDER 7 パラレル・ターン 8 RAINY DAY BLUE パイオニアのCMソングなどに使用され大ヒットとなった代表曲「Blue Lagoon」が収録されたアルバム。当時、山下達郎らとともにリゾートミュージック、一家に一枚のアルバム、ラジカセをビーチに持ち出させた男などなど、 数々の公衆名言を世に作り出した、まさに高中ブレークアルバム。 高中 正義ギターを愛するミュージシャン・或いはプレイヤーに詳しいリスナーであれば、日本を代表するギタリストとしてまず名をあげるのが高中正義でしょう。ギターに触れたことが無かったり、プレイヤーにそれほど詳しくない人でも、彼の奏でるフレーズには馴染みが深いはずです。なぜなら、彼の数え切れないほどの作品がバラエティー番組の効果音、BGMなどに使用されているからです。その実力は世代を問わず多くのプレイヤーにリスペクトされ続けています。 高中正義は1953年3月27日生。ビートルズの影響を受け、12才の頃よりギターを弾き始めました。そして18歳にしてフライドエッグのベーシストとしてデビュー。1971年、ギター:成毛茂、ドラム:角田ヒロ(現つのだ☆ひろ)、ベース:高中正義で結成。1972年 ドクター・シーゲルのフライドエッグマシーン、1972年 Good Bye FRIED EGGの2枚のアルバムを発表して、1973年解散。1997年の「虹伝説IIライブ」で、ほぼ四半世紀ぶりに3人揃っての演奏が行われました。 1973年にサディスティック・ミカ・バンド結成。Vo&G:加藤和彦、Vo:加藤ミカ(加藤和彦氏の妻)、G:高中正義、B:小原礼、Dr:高橋幸宏、Key:今井裕で結成。1975年、ベースの小原礼に代わり後藤次利が参加。日本のポップスを代表する名曲となった「タイムマシンにお願い」を含むSadistic Mika Band、黒船、Hot! Menu、Mika Band Live in London、Best! Menuの5枚のアルバムを残して1976年解散。1989年、オリジナルメンバーの加藤和彦・高中正義・小原礼・高橋幸宏に、ボーカルに桐島かれんを向かえて再結成。アルバム 天晴 & ライブアルバム 晴天 を発表。こちらでもギタリストして参加。サディスティック ミカバンドが解散した後、G:高中正義、B:後藤次利、Dr:高橋幸宏、Key:今井裕でサディスティックス結成。1976年の高中氏のソロデビューや、高橋氏のYMOへの参加等、各メンバー個人の活動が忙しく、バンドとしての活動は少なく自然消滅のような形で解散してしまいました。Sadistics、We Are Just Talking Off、Live Show、Last Show、Bestをリリース。今から4半世紀前となる1976年、キティレコードより1stアルバムSeychellsで遂にソロデビュー。そして1977年にTakanaka、Insatiable High、1978年にBrasilian Skies、オン・ギター、1979年に Cha Cha Me、All Of Me、Jolly Jive、1980年にライヴ盤 Super Takanaka Live!、T-Wave、Finger Dancin'と年間2~3枚のハイペースで作品をリリース。高中氏の作品の中で最も注目すべきは、1981年作の 虹伝説でしょう。イタリアの画家ウル・デ・リコ氏の絵本をモチーフにしたこちらの作品は、インストアルバムとしては異例の30万枚を売上げ、1981年の日本レコード大賞企画賞を受賞しています。そのサウンドは今もなお色褪せず輝きを放っています。1982年にはOcean Breeze、Saudade、1983年にはCan I Sing?、1984年には 夏・全・開を発表。 東芝EMIに移籍後もペースは衰えることなく新作がリリースされます。1985年 Traumatic 極東探偵団、1986年にはJungle Jane、Santa-Claus Is Coming To Townをリリース。1987年には Rendez-vouz、Sweet Noiz Magic、1988年には Hot Pepper、1989年にはGaps!、1990年には Nail The Pocket、O'Holy Night、1991年には Ballade、1992年には Fade To Blue、The Lover、1993年にはAquaplanet、Richarad Meet Takanaka、1994年にはWoodchopper's Ball、1995年にはColors、シングルベスト盤 Singles、1996年には Guitar Wonder、リミックスアルバム TAKANAKA Remix The Best、そして1997年には16年振りの第2弾となる 虹伝説 2が登場!同年のライブではフライドエッグのメンバーと共演。ライヴ盤 虹伝説 2 Live At Bdokan 過去へのタイムマシンもリリース。 2000年に自社レーベル『Lagoon Records』を設立。今もバハマ&軽井沢に拠点を置き、精力的に活動中。アルバムH unplugedでは、20年ぶりにリー・リトナーと競演果たしました。そして2001年 デビュー30周年記念アルバム GUITAR DREAMがリリース。ゲストミュージシャンとして、後藤次利・林立夫・斎藤ノブ・EVE・Big Horns Beeが参加。 2001年末にリリースされたリミックスアルバム Remix Lagoon -高中正義remixesのように、近年新たな視点から高中サウンドを評価する動きもあり、世代を越えた幅広いファンが彼の作品に期待を寄せています。テクニカルなギタープレイ、クリエイティヴな音作りは、他の誰にも到達できない高中正義だけのサウンドとして求められ続けていくのでしょう。
2007.09.11
コメント(0)

Char/Char 1976年作 曲目1 Shinin′you, Shinin′day 2 かげろう 3 It′s Up To You 4 視線 5 ネイビー・ブルー 6 Smoky 7 I′ve Tried 8 空模様のかげんが悪くなる前に 9 朝 Charは6歳でピアノ、8歳でギター、15歳ですでにスタジオミュージシャンとして活躍する早熟少年であった。そのため、21歳でリリースされたこのファーストアルバムは、いわばベテランが満を持してリリースした作品といえる。メンバーはCharが渡米して集めた3人に、幻のグループ・スモーキーメディスン時代の仲間、佐藤準が参加。スピーディーでよどみなく湧き出すフレーズ、シャープなカッティングプレイなど、Charのギターはすでに素晴らしい。もう一言で”かっこいい”デビュー当時原田真二と世良公則とロック御三家と言われましたが、まちがいなく前の二人とは明らかに違う匂いがしてましたね!チャーのギター聴いてるとすげー凜としたものを感じますね! Char(竹中尚人) フェンダー・ムスタング」。友人は突然Charに憧れ、一週間もしない内に同じ型のものを買った。いつの時代でも、彼は永遠のギターヒーローであり、かっこいい男である。そしてチョーキング一発でロック・ギターの醍醐味を表現する天才的センスの持ち主でもある。 類稀なる音楽センスと熟練された(彼は若いときから熟練されていた)テクニックにより、76年のデビュー以来、幅広い活動を通して数々の名演を残している。それはストーンズのキースと同じ、いやそれ以上に彼にしか出せない音として、いまなお活躍している。 Char(本名:竹中尚人)が生まれたのは1955年6月16日。東京で生まれ、ギターを弾き始めたのは5~6歳と、かなり早い。早ければいいというものではないが、やはりそこには資質と親の影響というものも見え隠れする。すでにピアノを習い音楽的素養は培われていたが、エレクトリックギターへの憧れは、先にギターを手にしていた5歳上の兄の影響が大きかったらしい。初期の彼のレパートリーは当時のエレキブームの中心的存在でもあった、ベンチャーズ。間もなくヤードバーズ、ドアーズにも興味を向け始め、11歳の頃にクラスメイトと共にロックバンド「フォックス/FOX」を結成。コンテストに入賞するなど、すでに早熟な彼の資質が開花し始めているといえる。その後も、クリーム、フリー、レッド・ツェッペリン、マウンテンなどから影響を受けながら、バンド遍歴を重ねることで腕に磨きを懸けてきた。 中学生にしてスタジオ・ミュージシャンとなりまさに順風満帆に時代を重ねる。そして転換期ともなる伝説のバンド、スモーキー・メディスンへと繋がる。スリー・ドック・ナイトやジェフベック・グループのカバーを十八番にしながら、15ビートのリズムやテンション・コードを効果的に配したファンキーなロックサウンドを打ち出して、黎明期にあった日本のロック・シーンのなかでは独自の個性をアピールした。 そんなスモーキー・メディスン解散後、Charは新たなるバンドメンバーを求めて、渡米する。そこで見つけてきた3人と、フリー・メディスンの佐藤準を加えた日米混合編成で、Charの柔軟な音楽性をきっちり具現化するテクニックを兼ね備えたメンバーを遂に揃えた。Charの持つそれまでの日本にはないスター性と実力、常に何か新しい感覚を与えてくれる彼の存在は、すでにファーストアルバムCharから開花しているといえる。SmokyやShinin'You,Shinin Dayといった代表曲を含む今作は、その後のHAVE A WINE(77年) THRILL(78年) といったコーマシャリズムも含んだ名作に繋がりながらも、その実、芸能界化されてきた自分の存在への違和感から、休養期間を必要としてしまう。その闇から立ち上がった彼が再び姿を見せたのが、79年の日比谷野外音楽堂で開催された伝説的フリーコンサート”FREE SPIRIT"だった。ジョニー吉永、ルイズ・ルイス加部と結成したトリオバンド:ジョニールイス&チャーの誕生である。その後同メンバーで活動しながらKUTKLOUD(82年)を境にバンド名をピンククラウドに改名する。さらに87年には自身の江戸屋レーベルを設立し、同レーベルからソロアルバムPsyche(88年)Psycho2(88年)をリリース。さらにそれに伴うツアー時に集めたバンドを母体に、外国人プレイヤーを揃えたサイケデリックスを結成。さらに石田長生とのアコースティック・デュオBAHOを始動させる。94年ピンククラウドを解散してからは、サイケデリックスでの活動がメインになるが、96年11月に実現した武道館でのデビュー20周年記念ライブ以降はソロ名義が中心になっている。 そして近年、98年のソロシングルToday、Let it Blowでも変わることのない彼のスピリットを提示し、01年の楽器屋で偶然見つけたというアコースティックのシタールギターにインスパイアされて創られたBAMBOO JOINTSをリリースするなど、いまなお現役で活躍する。そこには、完璧にクールに決めたギターワークを披露する彼がいるし、一段とエモーショナルな歌声を聴かすせてくれる姿もみることができる。とにかく小賢いテクニックには頼らず、あくまでロックギター本来のかっこよさを表現しようとするCharのプレイは、時を経ても失わない普遍的なかっこよさに満ち溢れている。
2007.09.10
コメント(0)

鈴木 茂 BandWagon 1975年作 曲目1 砂の女 2 八月の匂い 3 微熱少年 4 スノー・エキスプレス 5 人力飛行機の夜 6 100ワットの恋人 7 ウッド・ペッカー 8 夕焼け波止場 9 銀河ラプソディー はっぴいえんどの名ギタリストからキャラメル・ママ~ティン・パン・アレイのメンバーとして活躍した彼の満を持してのソロ・アルバム。その後のフュージョンともいえる要素を感じさせながら、スライドギターの絶妙な音色、タイトかつグルーヴィーなリズム隊、そしてはっぴいえんどの流れを汲む、甘酸っぱい歌声が音楽の素晴らしさを伝えてくれる。名曲「砂の女」「微熱少年」「100ワットの恋人」をはじめ、インスト曲の「スノー・エキスプレス」や「ウッド・ペッカー」は、現在でもクラブプレイされたり、サンプリングのネタになったりと、昨今のアーティストからのリスペクトも熱い。渡米してリトル・フィートやヴァン・ダイク・パークスとのセッションの影響が多大な、和製ソフト・ロックの最高峰リトルフィート・タワーオブパワー・スライ&ファミリーストーンに元サンタナのメンバー集めてギター1本で(スライドギター)グルーブした作品!そのときはバックがそんなにすごい人達だとはぜんぜん気づいてませんでしたが、やっぱりすごい!バックコーラスにユーミンも参加してますよ!後に原田真二のティーンズブルースをアレンジャーとしてヒットさせたのも彼ですね!俺的には、1978年作の”Caution”の1曲目レイニー・ステーションの軽いタッチも好きです! 鈴木 茂1968年、林立夫、小原礼らとともにスカイを結成。1969年に細野晴臣に誘われはっぴいえんどに加入しギターを担当、「花いちもんめ」などの楽曲ではボーカルを勤め、バンドの解散後に細野晴臣らとキャラメル・ママを結成、ティン・パン・アレーへと発展させる。1975年にはハックルバックを結成し、初めてのソロアルバムBAND WAGONを発表。1992年には尾崎亜美、小原礼らとともに「桃姫BAND」を結成。阪神・淡路大震災の復興チャリティユニットとして声優の神谷明の呼びかけで結成されたWITH YOUに、尾崎・小原らとともに協力ミュージシャンとして参加。1997年に発売されたチャリティCDにも参加している。2000年には細野晴臣、林立夫と「ティン・パン」を結成した。鈴木が他の日本のギタリストと比較して明確に異なる点は、複雑なコード進行を身上とする70年代の日本のニューミュージックに、リトル・フィートのローウェル・ジョージらの影響を受けたボトルネックプレイを展開したことである。その演奏は前述のBAND WAGONだけではなく、荒井由実の『COBALT HOUR』などでも耳にすることができる。ピックだけではなく、指で弦を弾き、つまむ、独特なピッキングスタイルが、他のギタリストにない、粘り気とパーカッシブな響きをもつ音を生んでいる。
2007.09.07
コメント(0)

荒井 由美/14番目の月 1976年作 曲目1 さざ波 2 14番目の月 3 さみしさのゆくえ 4 朝陽の中で微笑んで 5 中央フリーウェイ 6 何もなかったように 7 天気雨 8 避暑地の出来事 9 グッド・ラック・アンド・グッドバイ 10 晩夏 (ひとりの季節) オリジナルは1976年11月20日にリリースされた4thアルバム。荒井由実時代はどの作品ももちろん名盤揃いで、甲乙つけがたいのですが、今作は特にアルバムとしてのまとまりの良い好盤。大ヒットとなった「中央フリーウェイ」をはじめとしたナンバーを収録した76年作品。ユーミンはこの作品で満月になって欠ける前の月である14日目の心境を歌っています。独身最後のアルバムとしてもその想いがタイトルと重なっているのかもしれません。ほか、諫山実生がしっとりとカバーした「朝陽の中で微笑んで」、日本的な詩が美しい「晩夏」、自然風景を切り取った「さざ波」、アルバムタイトルでもある「14番目の月」は、満月になる一歩手前。恋が満ち満ちてくる悦びや期待感が最高潮に達する瑞々しい気持ちを描いた傑作。メロディが美しい作品が多いことで今作が好きなファンも多い作品です。 ユーミンのアルバムでどれが一番いいかを語るのは愚問だと思いますが、これはあくまで個人的な趣味で”俺的には5曲目が入ってるって事でこのアルバムです山下達郎一派のコーラス陣に松任谷さんはティンパンアレーの一角を持ち込み、ベースとドラムにLAの腕利きミュージシャンを起用!今までどとらかと言えば私小説的な彼女の詩の世界をポップのフィールドに引き上げた作品でしょう!アーバンでメロウって言葉(少し古臭いですが)がまさしくあてはまる作品!”中央フリーウェイ”名作ですね! 荒井 由美 松任谷 由美■プロフィール 1954年1月19日 東京・八王子にて誕生 ユーミンの作品を聴くと何故かほっとする、という方は多いのではないだろうか。それはゆっくりと彼女からろ過されたメッセージに強さと愛を感じるからかもしれない。そしてどんな作品にもユーミンを感じるフレーズやメロディーがそこここに散りばめられているからなのである。 特に女性は恋愛の歌詞におもいきり共感できるし、失恋した時にはおもいきり涙が流せる。もちろんそれは人間関係においてだけだなく、ユーミンの歌には春・夏・秋・冬そしてそれぞれの時間、空間という情景が浮かび上がる楽曲が見事に創りだされ、その音楽にただただ身をまかせるだけで良いのである。 スタンダードを創り続けるユーミンは非常に知性豊かな女性であるとともに情緒豊かな感受性も持ち合わせている表現者でもある。恋愛詞については、女性ソロシンガーとして中島みゆきともしばしば比較されるが両者の場合、中島みゆきの描く女性は、一見強いけど実は弱い。そしてユーミンの描く女性は一見弱い、だけど強いという人間像が見え隠れしている。 1973年リリース作品のデビューアルバムひこうき雲では、タイトル曲ひこうき雲を始めとする、瑞々しいソングライティングと、細野晴臣、のちのパートナーとなる松任谷正隆、鈴木茂といった面々が提供した表情豊かなサウンドは、非の打ちどころがない美しさを備えている。キャラメル・ママからティン・パン・アレイの人脈による作品のひとつの金字塔的アルバムである。 続くMislim、コバルトアワー、ユーミンブランド、14番目の月など続々アルバム作品をリリース。これらの中にはやさしさに包まれたなら、卒業写真、中央フリーウェイなど初期の名曲が収録。 紅雀、流線形80、 悲しいほどお天気、時のないホテル、Delight Slight Light Kiss 、Frozen Roses などなどアルバムを多数リリース。 ドラマ主題歌等、ヒットソングをリリース。爆発的なブレイクはないものの、どの作品にも聴く人によって様々な感情を想起させ、親しまれるハイクオリティの楽曲を創作し続ける。 そして1998年、Neue Musik - Yumi Matsutoya Complete Best Vol 1 をリリース。松任谷由実、全251曲から選ばれた究極の28曲。書き下ろし新2曲はティン・パン・アレーによるバック。涙なしでは聴けない作品、全音楽ファンに所有して欲しいコンプリート盤となった。 2000年、ベストアルバムSuper Best Of Yumi Arai をリリース。初期の名曲を30曲収録したスタンダード盤。 2001年、Sweet Bitter Sweet - Yuming Ballad Best をリリース。荒井由実~松任谷由実までの楽曲からセレクトされたオールタイムベストを発表。全作品320曲からバラードを中心にセレクトした初のバラード・ベスト2枚組。2002年、Wings Of Winter, Shades Of Summer をリリース。デビュー30周年を迎える記念すべき年に、32枚目のアルバムをリリース。ユーミンがもっとも得意とする冬の季節感溢れる作品に仕上がっている。 この年、J-Pop界を代表するアーティスト達がリスペクトを込めてトリビュートしたQueen's Fellows - Yuming 30th Anniversary Cover Album がリリースされた。時代を超えて愛されてきたユーミンの名曲の数々がスピッツ、井上陽水、鬼束ちひろ、椎名林檎、クレイジー・ケン・バンド、Aiko、フェイ・ウォンなど豪華アーティストによってカバーされた。 新しいことに自然体でチャレンジし、繊細な観察眼を持った芸術的な作品を創りつづけるユーミンは、まさに日本を代表する女性アーティストの名に相応しい。
2007.09.06
コメント(0)
全13件 (13件中 1-13件目)
1
![]()

