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と、言うのはムックの「遺書」って曲の歌詞なのですが。なんだかなぁ・・・・紆余紆余曲曲曲曲折してなんだかここまで来たって、すごく周りに迷惑かけながら来たって思ってて感謝もしてる。そしてまぁ、親つか父親にもそれは感謝もしてるし申し訳無く思ってる。が、外野は黙っててくれや。なんつか人が前を向こうとしたところに、ほんとに毎度もれなく”心配してる”っぽい言葉でたたき落とす丁寧さには頭が下がる。頼むからもう来ないでくれ(苦笑)弟の事で俺が愚痴云われても困るねん。”家”と父親を苛むだけの害虫なんなら、俺も死んでやるからさ。要らんのならいつでも死んでやるって。弟が悪いのも俺の所為か?俺はあんたの淡ツボじゃねぇんだよ。居なくなれば満足か。だから誰も孫が広島に戻ってきて来ないんだよ。むしろ息子も半分去って行くんだよ、気付けよ。マジであの人が居てくれなかったら久しぶりにサックリいくとこだった。カウンセラーの先生とか、周りの人と、色々話して、色んな風に心の向きを定めようとして、勇気を貰って、前を見つてる所で。俺的にはそういった人達の方がいくらも大事なのに、大切なのに、正直、3等親か?離れたような俺的にはどうでも良い、血縁者の言葉にこれだけ心乱される自分が何より嫌や。ああもう最近自分が嫌になりそうな事が多い。保たねばああ、もう言えばええねんな今度は言うてみよう。「あんたの所為で胸クソわりぃ、安定剤が倍に増えそうな気分だ」と。以上、愚痴。ぶちまけたので多分大丈夫。嗚呼、もうこんな日に全く。神社で身を清めてこようかしら。胸くそわりぃ。海に向かってFuck Youって叫ぼうかなぁ。青春だなぁ。海遠いけど。久しぶりがこんなでほんまごめんなさい。
2006年03月25日
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ボクらは泥濘に堕ちたモノ今すぐにも空に還りたくて泥に塗れた翼で飛べないことをいつも嘆いてしまうけれど翼を洗い流して 洗い流して乾かせて忘れかけた翔び方を思い出しながらゆっくりと羽ばたかなければ本当は還れないだから。えらく開きました。人のPC借りて更新です。むしろ想い人のPCです。色々なのです。また落ち着いたら、感謝とか謝罪とか、事実とか感情とか望むベクトルとかぬぐいきれてないルサンチマンとか、ぶちまけるかもしれません。がなんの因果か想像もしない形で此処に居たりはするのです。
2006年03月18日
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実は昨日に既に終わっていたり。少しパートを作りたい気もして。でも無理にはしたくないので降って来るの待ち中。その間、ニーチェにはじまり実存主義や構造主義から記号論、ポスト構造主義を浅く浅く舐めつつ、世界を彷徨った挙げ句最近戻って参りましたdravenです。これで今度テレビでワーグナーのオペラ見たら前より理解出来るでしょうか。硬派、訳解らん=ドイツオペラ軟派、昼メロ=イタリアオペラなイメージを持っているのですが偏見でしょうか。少なくともプッチーニのオペラなんて、ストーリーまともに気にすればするほどアホらしくなって笑っちゃう気がするのですが。でも意味解らないと泣けない所もありつつ、でもそんな、鬼畜ヤンキーなぁ~とか、いや悩みどころが違うくない?とか色々突っ込み入れたくなるのもありますやん。ギター弾かねば。いや、何って、”力”って結局何だろうなぁとか思ってマインドジャーニーを繰り広げていたのですよ。ニーチェって別に過激じゃない気がするんだけどなぁ。超人なんていうのだって、名前ほどこう、仰々しいものじゃなくて書き方が仰々しいだけで、結構、意識するなら日常の範疇だと思うし。日常と繋がってこそ哲学は哲学たれるように思うのです。でもやっぱ本読むと別世界な気もして、こんがらがるのであります。ニーチェ無理です読めません。でも、哲学思想書(解説書も含めて)ってのは一冊読むとなんか少なくとも3,4個とても身近で身につまされるような、でも行動や認識に対する少しの勇気さえあれば、自分を良い方向に導いてくれるような文言があるように思うのです。
2006年03月10日
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自分の中で昨日降りてきたメロディーをどう、アレンジするのかっていうのは自然出てきて。今までだとこんな風にすると○○っぽいし、避けたいとか○○っぽくこうしたいとか考えてたけれど、恣意的なアレンジになればなるほど、何かは失われて行く気がして、やはりそういうのは昨日と通じるけれど、考えずに出てくるそのまま。そう思って。自分の中ではなるだけナチュラルに。でも、自分だから出来る形に。ピアノ音色でシンセの鍵盤を叩く。無論サンプリングしてあるのはとても良い音のピアノだから、悪い音はしない。打ち込むのはやめて、自分で弾こうと思った。ものすごく簡単なラインだけれど、本当に多分10年とかぶりくらいじゃないのか、鍵盤を感情込めてまともに弾こうとか考えたのは。メトロノームに合わせてきちんとしたタイミングで弾くのって昔から苦手だった。でも、今は失敗しても新しい事にチャレンジしてみたい気持ちがあるから、兎に角やってみて、とても感情も入れる事が出来る、と感じた。むしろ、本当のピアノではないから・・・シンセのピアノの音の表現力ってのの限界が初めて見えたというか・・・。もっと厳密にサンプリングしてある、サンプラーで明日は弾いてみよう。ほんとは本物弾くのが一番良いのだけれど。グランドピアノとかないし、マイク二本はさすがに持ってないしね。ドラムとか自分じゃ叩けないというか、自分のドラムの腕にも、ドラムを録音する技術と機材ってのにも限界がすごくあってそれは仕方ないから、なるだけ、なるだけナチュラルに限りなく、作れればと思って居るけれどあとは、なるだけ、自分の手、でつくりあげたいなと。今手元にベースがないのだけれど、友達に借りてくるかどうかしようかな・・・弟から奪取してくるべきかw鍵盤を弾く事に関しては紅鳩ブラザーはじめとして私の周りには私よりもすごい人はいくらでもいて、だからあまり、そういうとこさすがに、俺がギターじゃ負けねえってのの逆で、かなわねぇ、ってのはあるんだけど今日は少し自分の原点っていうか、鍵盤を押さえていて、とても気持ちが良かった。すごい事は俺は鍵盤ではできないけど、ちょっとしたことを素敵に出来るならそれも良いかなと。逆言えばギターですごい事したってそれが素敵じゃなきゃ意味ない。曲って自分の子供みたいなものだってよくなんか言う。なんていうか少なからず音は、私的なものだけれど、多分ここまでとても私的だった曲はないのかもしれない。怒りとか悲しみ、鬱とかをがむしゃらに込めた音っていうのはあるのだけれど、なんていうか、今回は分類できない何かがある。大切に形にして行けたら良いな。あの人は喜んでくれるだろうか。まだ、私の頭の中にしかない、完成形。でも頭の中にはもうあるから、あとは慎重にでも考えることなく引き出せば良いはず。ピアノの上のあの人とシンクロしてたら良いな。
2006年03月07日
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さて、胃もたたれて太田胃散でも必要そうなげっそり長い日記(しかも70%くらいコピペという)の後に、突然こんな日記です。以前、ちょっと書いたのですが、最近暫く、いや結構長い事、音楽の妖精が耳元で囁いてくれなかった、歌声を俺も聞き取れなかったのです。予感だけはあったのだけれど、今日、一気にそれは覆って、その上、3歳の頃だったか、ヴィクターの電子オルガンを滅茶苦茶に押さえていた頃から、曲がりなりにも、自分は音楽を続けて来た事に、間違いはなかったのかもしれない、何より、そのころからずっと音楽を愛して、続けていて良かったと今まで曲を書いてきた中でも特別な感慨を持って思えた。で、私にとって癒しの女神なあの人なわけですが、私が音楽書く事知って、自分も表現したかった、みたいなことを一度言わはったことがあるんです。別に今からやっても遅くないじゃないですかって言った。そしたら、昔こんな詩を書いてたことがあるんですけど・・・って控えめにいくつか詩を送ってくれていたのです。曲になりますか?って言われてええ、きっと少し言葉をいじるようになるかもしれませんが。と言ってあったのです。最初、その詩を読んでとてもその言葉には共感したのですが、”歌詞にするには歌詞っぽく編集しなきゃ曲出来ないかなぁ”と思ったからなのです。今考えると、音楽の横暴です。男が何故男らしく在らねばならない?とか思っているような私が、歌詞が歌詞らしくないと、等という事を思ったのです。なんたる愚かさ。前のカウンセリングでも先生と少し話した事で、今日の胃もたれ12000文字日記でも書いたように、ジェンダーなりなんなり社会の”常識”の枠に収まるのがものすごくいやな俺なのに、音楽、詩、そういう、自分のクリエイトするものを枠に入れる、常識に納めようとするなんて、なんて事だろう、恥ずかしい。と思ったのです。自由でいいじゃないか。形式なんてクソ食らえでも良いじゃないか。そう気付いたのです。そんな私をカウンセラーの先生はとても楽しそうな顔で”目が輝いてる”と仰って下さった。昨日までの日でちょっと思いついたギターリフを発展させて、”形式的”なインスト曲を一曲作った。AメロがあってBメロがあって、展開して戻って終わる。自分の何かを確認する為のまずは、っていう無理のない儀式。ギターの録音の仕方、自分を追いつめすぎない新しい感覚を発展させ、カンも取り戻すリハビリ。そんな大したことない曲かもしれないし好みじゃないかもしれないそれに、まだもう少し途中だけど、って言って昨日その人にあげた。今日はそれを仕上げるかなぁって思っていたのだけれど、その人の言葉を、詩を見ていたら、「ああ、俺もう、下らない枠に捕らわれずにこの言葉を音に出来る」って確信した。その瞬間から、すぐ妖精の声が戻って来て、耳元で囁くように、溢れ出すように歌ってくれて。私は、逃さないように、急いで急いで、鍵盤でそれを確かめて、急いで打ち込んで行く。コヒーメーカーで珈琲淹れてたのを忘れて煮詰まりそうになっていたのを回収して一口飲んで、また、耳を澄ませて、どんどん、打ち込んで。一時間だったかもしれないし30分だったかもしれないし、2時間か3時間だったのか自分でも解らない。けれど、兎に角、妖精の歌がその人の言葉に合うまでずっと聞き続け、鍵盤を押さえ、打ち込み、どんどん溢れる旋律に構成がどうなるとか形式がどうなるとかそんな事を考える暇も、考えるつもりもなく、それは出来上がって。兎に角、その、メロディーと、コードの響きだけが最小限、聴き苦しくないように音だけ調整し、純粋にメロディーだけを聴いてもらって、曲にジャンルのイメージを感じないように慎重に音色を選んで、録音した。妖精が耳元から離れて、私もこの世に意識が戻る。いつでも聴かせられます、とメッセージを打って、存在を忘れていた珈琲をチョコレートを食べて。映画を見てたその人からメッセージが来て、いつでも送って下さい、と。まだ、本当に最小限の骨子だけ。でも、聴いてほしくて、でも気に入ってもらえるものか、ドキドキしながら送って。素敵な曲、感動です、って来て。そこまではお世辞でも言ってくれるかもしれないのだけれど突然、「涙止まんない」って。詩を書いた時の気持ちをそのまま音にしてもらった感じだって言って貰えて。曲を聴いて泣いたのは某バンドのある曲以来だって言われて。俺もそのバンドは自分がこうやって今も音楽をやっていることに大きな影響をくれたバンドだったから、とても嬉しくて。それより何より、自分の曲で喜んでもらえたり、感激して貰えた事はあったし、それだってとても嬉しかった。けれど、今まだ私はあの人に手が届いてるわけじゃない、心開くのもその人はためらっている、自分の想いだって叶うかどうかなんて解らない、それでも自分にとって今とても大切な人が、自分の音で、涙を流してくれた事になんとも言えず胸が満ちるようで、でも締め付けられるような感覚に襲われて、私も涙が出てきて。なんか、今まで音をやってきてきっと良かったんだと。今までで一番強く想ったかもしれない。チョコ貰ったわけじゃない。そのころはまだ好きだとか想ってなかったかもしれない。けどなんか14日までに何か形にして、あの人に送れたら良いなと思ったりしている。勝手に好きになって、いつも想ったら好きだって言うし、誰にも開きたくないっていう彼女の心を開いてほしいと望んでいて、傍らに居てくれれば良いなと想っている私。かなりのラテン系変人。それでも私を嫌わず「いいですよ」「ありがとうございます」って言ってくれる彼女への、せめてものなにか。私に出来るなにか、音、音楽。大切な人に響くなら、野心や欲、形式や枠、今、必要のないものなど全て取り払って、ただ、音だけを感じ取って、それを書き留める、そのことに自信を持てる。† † † † † † † † † † † † †ぼくは地図帳拡げて オンガクきみはピアノに登って オンガクぼくはリンゴかじって オンガクきみは電車ゴトゴト オンガク待ってる一緒に歌う時 ハハ待ってる一緒に踊る時 ハハ(坂本龍一 : ONGAKU)† † † † † † † † † † † † †
2006年03月06日
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(※下の記事の続きです、上下が前後してしまうので読みにくいですすみませんっていうか、12000文字って普通に読みにくいですよね、すみません;) 長々書いてきたジェンダーもそうだけれど、人や社会から提供される型に収まるのはとても簡単だけれど、それはともあれば非常に脆く、大勢が仕立て上げただけの虚像のようなものなのに何故みんな偶像をあんなに拝み倒して、拝まない人間を変態か社会不適応者みたいに思うのかしら。 そもそも、個性を伸ばすとか言う学校教育から歪んでるから、簡単に個性なんて言うと陳腐になるけれども、結局、前のあれじゃないけど、型がないとこから、自分を一から創り上げる事、そうすると多様性(敢えてもう個性とか言わないけど)が生まれるということに不安がある人多いからこうなるんやろうか? というのは、自分が枠から外れてみたり、型を自分で模索しながら白眼視でもされたりしてみないと、自分っていう存在がどれだけ楽な型に納まって代償に何を失ってるのか、もしくは型っていうのは自分に実はあっていて失うようなモノは無いのか、はたまた、ただ不感症になっていただけなのだと、気付けるか、それは解らないものなのかもしれないけれど。自分もそうだったと思うし。 映画の「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」の主人公、草薙素子の台詞にこんなのがある 「同じ規格品で構成されたシステムは、どこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるのは緩やかな死。それだけよ。」 社会的な性、ジェンダーの画一化に俺がまぁ抵抗があるから上みたいな事書いてきたわけやけど、こんな台詞引用しちゃうと俺がずっと書いて来た事自体もある意味では”「規格品で構成されたシステム」と「特殊化」の崩壊もしくは破壊と、再構成”、というベクトルへの”特殊化”を少なからず含んだ言葉でもあり、この文章全ても当然に相対化されてしまい得る訳だけれど、その相対化された自分なりという存在が居場所を求める行為過程こそが思考で、様々な論に耳を傾け、思考判断し、最終的には自らの思考でオリジナルを再構築する事でなのではないかと思ったりもするわけです。 考えすぎると鬱なるけどね(爆) まぁ同じ攻殻機動隊のテレビアニメ版には同じ草薙素子の台詞で 「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。」 というのもあるわけです。自分を変えるっていうのが迎合出来るようになるっていう方向なら、それができりゃ一番悩みはないんだろうなぁ。まぁこの台詞は無論そういう意味ではないんだろうけれど。 とりあえず、私は色々に変化しつつ稚拙ながら耳をそばだて目を見開き常に思考の硬直化を危惧しつつなるべくオープンにと願いそれを再構築しながら、こうやってちょっとだけおそるおそる口を開いてみるのです。
2006年03月06日
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※某SNSサイトのある日の日記の一部として書いたものを加筆、修正したものです。なんか女々しいって言葉は所謂”女々し”くない女の人に失礼よね。女々しいと言われようとも私は雄々しく(もしくは男々し?)なるつもりなんてサラサラないけど。 生物学上のsex、性別以上の”男”っていうジェンダー、社会風俗的に本来流動的で無常たるはずの精神概念、社会通念を(男性が)自らの強さの拠り所、もしくはその一部にしてしまうのは、それ自体むしろ弱さだと私は思う。でもそういう男の弱さにも丁度、利害一致的に所謂”女々しく”(と、こういう場合にこそ恐らく世間で言われるような意味で使われて然りと思うんだけど)拠る女性も実際結構居て、楽な相互依存関係というか社会通念的に裏付けてもらえる確信的共犯関係が意識無意識を問わず楽に手に入る、”そうあって当たり前”な空気が雰囲気として流れてそれを許す以上そもそも意識する人自体少なくても仕方無いのかもしらん。 ただ、よくフェミニスト(のような人)ってのは専業主婦を批判するけれど、そういうこともきちんと認識した上での主婦なのであれば私はそういうマッチョイズムの共犯者とは特に思わないし。ただ、主婦が許されるなら、主夫も認知されて然るべきであろうし、男女の雇用機会が真に(厳密にいうと最小限の性別性差の範囲での区別保護、それは男性に対してもおなじ事だけれど、は踏まえた上で)平等であることが出来れば、役割の在り方は多様で在れるだろうと思う程度で。その選択肢の一つとしての専業主婦っていうのは何も批判されるべき対象ではなかろうと思う。まぁ、ギリギリの経済の中でさらに国民にギリギリを強いて、年収300万円時代の云々なんて本が売れる日本で、完全な専業主婦ってのも今はなかなか難しいのかもしれないけど。逆に言うと、そういう中で(経営側として楽な事じゃないのは解るんだけど、ぶっちゃけ男共の給料削ってでも、そういうのを上手くやるのが本来のリストラ=リ・ストラクションなんちゃうかと。・・・すみません自分でも方策とか思いつかないのに出来ない事偉そうに言いました:汗)女性出産育児後の再就職(パート、バイトではなく)っていうのが選択したければ出来るのが理想なのだろうけれど、まぁ普通に就職は難しい今日日、とかぼやいてもま、それはまた別の話。 本来、それに対してもっと理性的に疑問を投げかけて、啓蒙なりをする目的だったはずのフェミニズムは今やとても奇妙でおかしな方向に走ってるし。まぁフェミニズムっていう名前からして(femmeが女で、ismが主義なら、女性主義って事になるわけで、男女、彼らには女男か?wどっちでも私は良いのだけれどその両性の平等を目指すなら最初からしてこの名前ってのは)オカシいといえばおかしかったわけだから仕方ないけど。女性優遇がやりたいのか、男女同権を目指したいのか、一般にはもうオカシなフェミニストと本来的フェミニストって区別が付かないのかもしれないし、むしろ、女性優遇をヒステリックに叫ぶのがフェミニストと思われちゃってるかもしれない。 少し、セックスとジェンダーに唐突に戻って言えば、例えば、民法に母性の保護っていうのは謳われてる。現在の内容はともかく、基本的概念っていうのは性別(セックス)の保護であって社会的性役割(ジェンダー)の押しつけではない。そのへんすら区別できてないんじゃないかっていう人(法学な人も含めて)ってもしかして多いんじゃないかって危惧が私にはある。或る程度法が時代に敏感に左右されすぎずに保守的である事の必要性ってのも理解するけれど、それを考慮したとしても、商法改正とかしてるくらいなんだし、そろそろ時代に見合った見直しを本格的されるべきだと思う。だからといって母性保護のような概念、っていうのはアレルギー反応起こして否定するようなものでは無くて。民法自体が今、結局まだジェンダーに或る程度捕らわれてるのも確かだけれど、それと生物的性差の保護を一緒くたに考えて論じてしまうのは浅はかやと思う。けど、たぶんそう言っても、解ってくれないリベラル系のお方っても結構居るのかもしらん。解っててわざと論じない事で女性優遇をそこまでしたいのか、それとも、そのへんさえまともに区別して論じられない人が多いのか。 興味とか問題意識のそもそもあまりない人に対して、(問題提起と情報を与え、判断を促すのがそもそも啓蒙、啓発なんだろうけど)ボーっとしてても、メディアに露出して、お茶の間に届いてくるのはテレビタックルになんかによく出てた(まだ出てるのかしらん)法政大学かどこかの某・田島陽子みたいな感じのばかり。たぶんテレビ的には道化として茶化し易くオイシイんだろうけど、フェミニストっていうより結局、あれは女性を意識しすぎた故に男根コンレックスにトラウマの如く捕らわれてヒステリー起こすオカシなおばちゃんってだけだと思うんだけど。舛添要一に笑われてもあれは仕方ない。田島陽子自体がメディアの道化に使われてる事さえも(田島陽子はまぁ商売やから自覚してるかもしれないけど)解らずにあの浅はかな論に共感してしまう人(なんか偏見だったら申し訳ないけれど、主婦の人が多いように思う)にわかフェミニスト擬きってのがまた出てきて、突如変に目覚めちゃって身近の男達に妙な事を叫び始めるっていう、草根・プチ・ジェンダーテロ的な事なんかがあろうものなら、さらに一般的な”フェミニスト”ってものの認識は混迷を極めてしまう。むしろ悪印象さえ持たれかねない。本来ああいうのはフェミニズムなんかじゃないだろう。けど、そんなしか茶の間、世間に届かないからそんなものだと思われてしまう。”自称”フェミニストやフェミニスト”擬き”が結局、同権を目指すフェミニストやひいてはフェミニズム全体の、足を引っ張ってるって気がする。もうおかしな方向っていうよりフェミニズムの亜流、我流、邪道、偽物によって浸食されてフェミニズム自体が自壊しかけなのかもしれない。 私は、理性的に同権主義を目指しているフェミニズムにしても、まだ成熟しきっているとは思っていなくて。フェミニズムっていう名前自体はどこかの時点で変わるかもしれないし、そうなる方がよいのかもしれないけれど、同権思想そのものがもっと体系的に整理されて成熟し、”一つの”思想、主義として、もっと在るべきポピュラリティーを持ちたいのなら、今の状態は由々しいものだと思うし、下にも少し書くけれど、ラディカルな女性優遇への反動が女性を傷つけかねないと思う。つまり、2種類のフェミニストもどき(ジェンダーとセックスの違いを無視する、特に女性優遇主義者)と、本来的なフェミニスト(ジェンダーとセックスの違いを踏まえたまともな男女同権主義者)の区別が一般的に付きにくいのを良い事に、”雄々しい”思想(苦笑)にすがる男性の方々の一部が、(上記のようにメディアがそもそも悪いんだけど)フェミニストっていうのをまともであろうと変であろうと、どちらも一緒くたに田嶋陽子のようなイメージにまとめあげ「フェミニスト=ヒステリックで浅はかな思想の女性優遇主義者」っていうレッテル、イメージを掲げて、揚げ足取りをして、鬼の首を取ったような満足そうな笑みでもって、で男根主義、男尊女卑的懐かしの(苦笑)風土復活を夢を見て”論らしきもの”を展開してるようなのも一部居るわけで。まともな同権主義者も居るっていうことを知っていながら、その存在をスルーし、自分の論の中では隠して、ああいうことを言ってるなら、とても、恣意的でアンフェアなやり方だと思うのだが、その辺はあの人達は”男らしく”ないとか思わないのか少し疑問に思う。(笑)知らずにやってるならただただ、浅はかな懐古主義というか、化石的脳みそまで筋肉マッチョメンなわけでw それはそれで救い様がないように思うけどね。 ただ、まぁフェミニズム自体の問題としてどうしてもリベラル程度ならともかく、サヨクと結びつく傾向がある。マルクス主義フェミニズムっていうジャンルもあったりするくらいではあるし。俺は政治的な考えは確実に保守的でそういう論っていうのには雑誌なんかよく目を通すのだけれど、そういう論者の中に男女同権主義をまともな観点から見てると思える人は居ない気がする、むしろサヨクへのトラウマの如く裏では嫌悪してる人も多いかもしれない。結局、まともな思考能力を持っていても、保守のサヨクアレルギーがサヨクと結びつきやすいフェミニズムを敬遠させるんじゃないかと思ったりする。慎重な論者はそもそもあまり触れないけれど、小林よしのりとかは(個人的に嫌いなわけじゃないんだが)見事にそういう構図にハマってまともなサヨク叩きを展開出来る一方で、トラウマでもあるんちゃうかっていう位、雄々しい男の幻影に捕らわれちゃってる。 どのみち田島陽子如きのようなレベルの論者の揚げ足取った所で今更明治時代みたいには戻れないのにね。大体が、ああいう今に繋がる男尊女卑的価値観自体、平家以降の、武家的思想(性差として男の方が主に武士=戦力になりやすい故に尊ばれる、大河ドラマなんかで”お喜び下さい、殿、元気な男の子(おのこ)に御座ります”とかあるっしょ?w 姫君が生まれた時に武家で”お喜び下さい”とかはあんま聴いたことないわけで。娘は武家社会の繋がりを保つ為、嫁として”家”から出てしまい、跡目を継げない。ちょっと古い”結婚”=主に嫁入りの概念とか、それこそ端午の節句に男児の為に鎧を飾り、”力強く”という願いでもって鯉のぼりを上げる。そういうのもまた名残といえば名残だし。)に拠るものであって、そんなに歴史がある訳でもないのに。 今、男性にしろ女性にしろ、田嶋陽子のような論者に反感(てのはなんかレベルが低いけど)、疑問、問題意識を持ったとしても、結局の所、民俗学的な見地なり思想的な見地なり歴史的な見地なりを俯瞰した上で、”では新しくこういう考え方で男女互いの在り方を創り上げたらどうか”っていうクリエイティブな形で、論を返すならその内容がどうあれ、多少の好感、共感は持てる。けれど、ああいった極論者に対して、こともあろうに、「お前は違う、じゃぁどうする?そりゃぁ昔みたいに男が~」とか自分で思考し論を組み立てる事を放棄して、懐古主義と、今や干からび掛けた昔の価値観の借用でもって、”論”のつもりになって、あまつさえ、父権復活の夢に思いを馳せたりしてどうするんだ、それじゃ結局あんたも極論だし同レベルや、とか思うわけです。 こんな事をつらつらと思い綴ったからとて、でジェンダー系の研究者になろうとか言うわけでもない私がここに、こうやって事書いても力は非常に小さいのかもしれない。けれど、考えとして賛同なり、問題意識や疑問、反論(反感は持ってもしゃぁないけど言葉にするとそれは全く論じゃないので勘弁)のような思考を誰かが少しでも持つきっかけになるならちょっと、男ってジェンダーに収まるのにものすごく抵抗のある俺としては嬉しいのかもしれない。
2006年03月06日
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私のこのHPのトップの写真や、私のHN、dravenの元になっているのが、アメコミ系のちょっとマイナーな映画、「The Crow(日本語では~飛翔伝説~って副題が付いてる)」なのです。私のように、コアなファン(大体、ゴシック風味の好きな人や、ロックな人なんか)は居て、LinkinparkのVo.チェスター・ベニントンは、この映画を愛するあまり、息子にDravenと名付けて居たりします。(主人公の役名がEric Dravenなのです。私のHNもそこから。別のHNでも~the crowと名乗っていたりします。)長らく、DVD化されて居らず、私もレンタル落ちのVHSを大事に見ておったのですが、どうやら昨年、知らない間にDVD化が叶っていたようでして、一も二もなく買いに走りました。なんか、おすぎのコメントが付いてました。”「クロウ」は大好きな映画です。映画を超えている映画です。”ビックリww つか意味分かるようでで分かんねぇ(苦笑)最近テレビは全然見てないのですが、前、土曜の夜にやってる香取慎吾の番組内で、おすぎさんが新作映画の評論してた時は、ミーハーな香取くんと違って(苦笑)話題作でもチャラチャラしたのはバッサリけなして、地味でも内容の良い作品は高得点付けていたりして”ああ、ピーコのファッション評論と違って(爆)この人の映画を見る目って素敵だわ”と思った事があります。なんとなく、(まぁ仕事やから当然なのかもやけど)おすぎさんが自分の好きな映画(しかもハリウッド映画あまり好きじゃない方なんで)を見てた事と意外な所でコメント(まぁ頼まれたんだろうけどwそれにしても)寄せてた事にへぇ~って思ったり。なんつか、この映画、語ると長くなってしまうんですが。(特にミクシーで同じ題名の日記見た人は被ってしまいますのでwまぁこの文章はコピペじゃなくて書き下ろしなんだけどw)とりあえず、恐らく、B級って言われる類に足を突っ込みかけちゃうような作品ではあります。けれど、モノクロでゴシックな雰囲気だけでも結構楽しめます。主役をやっていたブランドン・リー(ブルース・リーの息子)は、演じていた主役、エリック・ドレイヴンと同様、結婚を間近に控えて、撮影途中に亡くなります。空砲が装填されていたはずの小道具の44マグナム(※注1)に”誤って装填されたと言われる”実弾に撃たれるのです。無論事故として処理されたものですし、証拠もありませんが、(※注2)ユダヤ人社会のハリウッドで当時とんとん拍子に主役を張って階段を上って行って居たアジア系のブランドンに対して何か思う人が居なかったとは言い切れないでしょう。ねたみ説などの疑惑は残っているなんとも歯切れ悪く哀しい事件なのです。(※注1:確かアメリカって日本と違って銃社会やから日本のモデルガン〔ちなみにさらに余談ですけど、BB弾が撃てるような発射を目的とした奴はあれは厳密には”モデルガン”とは言わず、本物の銃の構造を限りなく再現し、なおかつ実弾の発射が出来ない程度に銃自体のマテリアルの強度を下げてあるものの事をモデルガンって言います。面白くないじゃん、って感じですが、モデルガンは火薬の装填が出来まして、弾が出ない変わりに、その火薬によって本物に近い銃のアクションを楽しめる、という所に醍醐味があるのだそうです。〕みたいに、”本物に見える”模擬銃禁止されてて、赤に塗らなければいけないっていうのがあったと思うんです。向こうのレンジャーなんかの実弾を使わない訓練なんかでは赤い弾の出ないニセ銃ってのが使われていたように思います。だから小道具も赤い銃使うわけにもいかないですから、小道具でも本物を空砲で使うのじゃないかと。)(注2:日本のメディアが某一部の勢力に偏向していたり、フランスではカルト指定され日本では最近某保守政党にすり寄ってきている某宗教団体に対して問題視するような報道が事が決して表に出ないように〔憲法9条はよく報道されるけれど、靖国問題以外で政教分離の原則を論じられる事がない事自体奇っ怪じゃないですか?政権が靖国神社の傀儡となり靖国神社が誰か個人の傀儡となって政治を思うがままに動かす可能性は限りなく低いけれど、某政党が万一政権を取ったりしたら、池田○作という個人が後ろで糸を引くことも不可能ではなくなる。それこそメディアがよく批判するファシズムっていう奴へ、今の日本が進み得る、最短距離なのに。それを許すかどうかは国民の意思なのに、芸能界や大晦日に高視聴率を取れる某総合格闘技団体にも食い込んでいる宗教団体の圧力によって殆どのメディアはその為に必要な情報を半故意に流していない、と考えるのは邪推ではないと思うのです。〕、映画に限らずアメリカのメディアって大体ユダヤ系に掌握されてる気がするのですが。ユダヤ人社会と言われるハリウッドで、そりゃぁもう大きな評価を得ているスティーヴン・スピルバーグ監督。ユダヤ人の受難を描いた「シンドラーのリスト」はフィクションなのになんだか実話扱いされて、おいおい嘘やろ?っていうドイツ将校によるユダヤ人虐待虐殺なんかが描かれていながらも、絶賛され第66回アカデミー賞では最優秀作品賞・監督賞ほか7部門を受賞、という偉業を成し遂げたのですが、同じスピルバーグが黒人奴隷の受難を描いた、アミスタッドはアカデミー賞からそれはもう見事に何も無かったかの如くスルーされ、評論では妙に批判されたりということが以前ありまして、ああハリウッドやねぇ・・・とか思った事があります。)ん~注釈なげぇ。さて、話を元に戻して(いや注釈が長いだけなんだけど)クロウは、最近やとスパイダーマンとかバッドマンのような所謂、正義の味方ではありませんで。主人公は元はロックミュージシャンで強いわけでもなんでもなく。けれど、自分は刺され、抑え付けられ、婚約者を結婚前日に目の前で傷つけられ、犯され、自分も最後には撃たれてアパートの部屋から突き落とされ絶命するのです。けれど、あまりの哀しみと怒り故、”魂を死の国へと運ぶといわれるカラス”に”不条理を正す為、魂をこの世に戻され”るのです。が、不条理を正す事が彼の主な目的ではなく、やはり、死者となってもやりきれぬ、怒りと哀しみ、自分の愛する人を目の前で一番彼女にとっても自分にとっても残酷な方法で死に追いやった者達への、同じように残酷な死をもっての復讐こそが彼の目的です。2日間だけ魂がこの世に戻る間に、彼は残された人達と触れ合い、影響を与えながらも、一人一人自分たちを殺したギャング達を惨殺して、復讐を遂げて行きます。不条理を正すとかってのは、要はあくまで愛する人が死ななければならなかった事に対する不条理であって、彼の復讐にとって世の不条理なんてのは二の次三の次。映画が終わった時、確かに街の不条理が正され、正義が回復するわけですが、それは彼の愛する人の為の復讐の結果にすぎません。故に、主人公は(大体ギャングとはいえ平気で人を大量虐殺して行きますし)正義ではありませんし、最終的な彼の敵と彼自身というのはかなり紙一重な所もあります。殺す方も殺される方もイカれてる映画とも言えます。けれどそれが、この映画が陳腐な善悪二元論的、正義のヒーローものにせず、故に魅力的なのだと私は思っています。そんな複雑なストーリーでもなく、ある意味ではヘタすると忠臣蔵的でさえあるのですが、やっぱりそれが何の為かっていうと、正義でも忠義とか崇高っぽい他に責任を転嫁したようなものじゃなくて、ただ愛する人を死に至らしめられた怒りと哀しみっていとても個人的で自分の責任と痛みで以て行動している事が共感を誘うんではないかと思います。ま、私が共感するのは、エリック・ドレイヴンという役のヴィジュアルイメージの格好良さであったり、ロックミュージシャンであるってとこだったりという簡単な所もあるのですけどねwただ、やっぱり、ミクシにも書いた事なんですが、愛する人を自分の所為で失わざるを得なかった事があったり、救い切れなかったり、見届けきれなかったっていう経験のある人は、なんだか、エリック・ドレイヴンっていう役に感情移入して涙する事が出来ると思います。所詮はファンタジーであって、現実にはそんな風に簡単に圧倒的な力、もっというと暴力で(個人的にしろ社会的にしろ)不条理を正すなんていうことは叶いませんし、映画と違ってそんなことが出来てしまうと、やり方によっては社会に害さえ及ぼしてしまうかもしれません。悪意ではなく、良かれと思って社会を滅茶苦茶にしてしまった為政者だって歴史のステージには枚挙の暇のない程居ますし。けれど、何かやはり、私にとってこの映画は傍に愛する人を持てた時、きっと最後までその人を害しようとする者、モノから守り通す力を手に入れたい、っていう勇気をもらえる映画なのです。秋桜ちゃんは私に人を想う勇気を私がもう一度持っても良いんだと気付かせてくれた。けれど、もっと前に愛してた人、傷つけた人の記憶も、自分の力が及ばなかった人の記憶も消えはしないから。今はそんな意味も含めて、crowの力を身に纏ったつもりで、強く在りたいという、願いや意志も含めた、draven、という名、なのです。あ~語っちまった語っちまった。飲み屋のオヤジやな(苦笑)DVDのパッケージには三つの言葉。BELIEVE INANGELSそして、エリック・ドレイヴンの台詞”it can't rain all the time ”が今日は頭に刻み付けられたdravenでした。
2006年03月04日
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2週間ぶりの診察&カウンセリング。2週間の間どうだった?と、聞かれて話す事の90%くらいはもうそりゃあれです。ラテン系の私的にはそれしかない。いやまぁ、ね二つ前の日記みたいなこう、ツラ見たら殴りたくなるような出来事もあったわけですが。とはいえ、軒並みそういうのも癒し、というか「へっ、介護だろうが老人ホームだろうが勝手にしやがれ」いうくらいあの人の存在が大きかった、と。まぁ発言だけ聞くと俺が鬼畜なようですが、母方の祖母も祖母で、むしろ母親が同情するのが不思議なくらい、母親にトラウマの爪痕を深く深く残した、アレな人なので、父親と俺の同情度、関心度はゼロであります。好きにしてくれ、正直、父方の親戚は一同そう思っております。「あんたが広島に帰ってきたらねぇ、安心じゃからねぇ」と鬱バリバリ無職パッキン(当時)の俺に泣かれても、正直何が安心なんだか全くわかんなかったっす。安心を他人に任せっきりだから、お婆さまはこうなっちゃうんじゃないのか?と思いつつもまぁ今更言っても仕方ないですが。他力本願って言葉でさえ、自力を尽くして足りない範囲でのお話ちゃうのかと。自分は目の前に小さなゴミがありますと、それが気になって気になって仕方がなく、なんとしてこのゴミを片付けるべきか思案に暮れて結局ゴミが片づかなかったり、そうでなければ潔癖にゴミを跡形もなく駆除すべくアルコール消毒して回ってしまうの質なのですが、華とゴミとがあったら、どうやらゴミは適当にそのへんに掃いて捨てれば問題ねぇや、と思えるようです。とりあえず、そういうのも含めて色々話して、良い傾向です言われました。顔色もよく、前よりも目が輝いていると言われました。まだ口説き落とせているわけでもないのに、安いぞ、私。単純だぞ、私。ほとんど、貴女の事を話してしまいました、と言うと、恥ずかしいじゃないですか、と言われました。そんな事を言われて此処に書いてる私が多分一番恥ずかしい人かもしれません。まぁでも、なんか色々、自分への考え方、恋愛への考え方ってのも変わった気がします。在り方の大切さとか、裏付け、力の大切さ、自らの不足を知る事、限界を知り、焦らず、そこを踏み越えず前進すること。それを踏まえた上での自分にとって、卑屈でもなく過信でもない自信というものの範囲。焦りさえしなければ、弱さやを知る事は強さに繋がるし、不足を知ることは足りることへ繋がる。全然綺麗に繋がった文ではないのですが、あの人と話したり、今日カウンセリングで話したりして、色んな事が一つに繋がったような感覚がした今日このごろ。
2006年03月02日
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