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『お疲れ様』という日本語を、日本語がわかるアメリカ人に英語に翻訳してもらった。You must be tired.「お疲れになっているに違いありませんね」I appreciate your hard work.「頑張ってますよね~」後者に、1票。
Aug 31, 2006
不完全性定理で有名なゲーデルが、アメリカの永住権を得るためのテストを受ける準備をしていたときのこと。勤勉なゲーデルは、合衆国憲法を隅から隅まで研究し、アメリカが独裁政治へと合法的に移行しうる論理的な可能性を発見した。テストの当日、裁判官との面接で。裁判官: 「出身国は、ドイツですか?」ゲーデル: 「いえ、オーストリアです」裁判官: 「いずれにしても、独裁国家でしたな。しかし、わがアメリカ合衆国では、 決してそのようなことは起こりえませんからね」ゲーデル: 「それどころか、私は、いかにしてアメリカが独裁国家へと合法的に 移行できるか、その可能性を理論的に証明できるのです」そう話し始めたゲーデルに、保証人のアインシュタインとモルゲンシュテルンは、あわてて一般質問に話を戻したそうだ。 -------------------------- 「億万長者になりたい人は、投票しよう!」最新号の「クーリエ・ジャポン」で、こんな記事を見かけた。アリゾナ州で11月に行われる住民投票で「投票者懸賞金法」という法案が成立すれば、投票した有権者のうち抽選で1名に100万ドル(約1億円)が当たることになるそうだ。提案者は、州知事に立候補した経験もある眼科医、マーク・オステロ。懸賞金は、同州の宝くじで当選者がいなかった場合の余剰金が当てられるとのこと。選挙のたびに行われる「投票に行こう!」という呼びかけキャンペーンに費やす数百万ドルという税金も節約できるし、投票率も上がるのだから、いいこと尽くし。の、はず。しかし、この前代未聞の提案に対して、新聞やテレビで激しい批判が巻き起こる。「選挙をえげつない金儲けにしてしまってはならない」「どうかしている」「卑しい」「民主性の過程をないがしろにするやり方だ」・・・・。そんなふうに批判されるたびに、提案者のオステロは嬉しくてたまらないそうだ。「滑稽だと思いませんか?」と彼は言う。「選挙の投票率を上げることが民主主義を侮辱するというのだから。そんな矛盾した話は聞いたことがありません」 さて。もし、万一、このシステムがアリゾナ州で可決されて。世界中に真似をする国が、次々に現れて。日本でも、『宝くじ付き投票制度』が導入されたりしたら、どうなるのだろうか・・・。 ------------------ ちなみに、僕自身は、いままで一度も投票というものに行ったことがない。20歳で選挙権を得て以来、地方選挙や国会議員の総選挙も含めて、一度も。何かの折にこんな話をすると、相手の反応は、おおむね次の3通り。(1)一般的な相手の場合「イーサさん、行かなきゃダメですよ~」と言われて。「えへへ」と、苦笑い。(2)正義感の強い人、または政治に関心が高い相手の場合「投票は、行ったほうがいいよ。選挙権というのは、歴史上、多くの人間が命を犠牲にして、ようやく人類が獲得した貴重な権利で、その恩恵を当然のように思って行使しないでいると、少数の指導者に自分たちの意のままに政治が動かされることになって、、、、」とか説教されて。「いや、それは、わかってるんだけどね」と、反論しようとして。「だったら、行くべきだよ。投票したい人がいないんだったら、白票でもいいから投票して、自分の意思を表明すべき。投票に行かないというのは権利の放棄でもあり、国民としての義務の怠慢でもあり、、、」などと熱を込めて語られたり。(3)僕が政治に大いに関心があることを知っている相手の場合「え~~!? どうして??」と、とりあえず、理由を訊いてくれる。この場合、僕の回答は、だいたい以下のとおり。 --------------------- そもそも、投票率が低いことは、民主制にとって嘆くべき状況ではない。特に、現代の日本のような政治状況では。スイスのような人口が少ない国なら、棄権に対して罰金を課すなどして投票を国民の義務にしてしまっても、まあ、うまくいくのかもしれない。しかし、日本のような人口の多い国では、むしろ、棄権する自由や、政治に対して無関心でいる自由も含めて、国民の多様性を重視する方が健全な社会であり続けられるのではないか、というのが僕の考えだ。「民主主義」と称しながら実際は独裁国家であったヒトラー政権下でのドイツでは、投票率が100%に近かった。「民主主義」「人民」「共和国」という象徴的な3つの言葉を正式国名に入れている北の某国でも、選挙のたびに投票率は99%以上になるけれど、国家の実情は、タテマエである正式国名とはまるで真逆。前回の日本の総選挙でも、「何だか面白そうだな」という理由で投票に行った人が増えたおかげで、投票率は非常に高くなったけれど、結果はやはり、小泉首相の思惑通り。つまり、投票率が高くなったからと言って、必ずしも、少数派の人々の多様な意見が反映されるわけではないのだ。むしろ、全く逆に、大衆が「大きな政局の流れ」や、歯切れがよくて見栄えもいい政治家に乗せられて投票し、その結果、指導者の権威に、さらに大きな裏づけを与えてしまうことも多いのだ。ところで、言うまでもなく、民主主義では、多数決によって最終的には全てが決まる。ということは、少数派の意見や希望は、多数派に抑圧されるものだということが、システムとしての前提になっている。『自由主義』でもあるはずの社会で、なぜ、そんなことが許されるのか。それは、国民が、1つのフィクションを(無意識に)信じているからだ。「自分たちが選んだ政治家が決めたことだから、自分たちに対する自由の制限も、義務や禁止も、許容すべきなのだ」という、フィクション。投票という行為は、その民主主義フィクションに参加しています、という国民の無意識の意思表示でもある。フィクションを受け容れます、という儀礼的な手続きでもある。だから、民主主義の敬虔な信仰者は、棄権という行為を何か非道徳的な行為のようなものだと(無意識にせよ)信じてしまっているのだ。 僕に言わせれば、無党派層や政治に無関心な有権者というのは、いわば、車のハンドルの「あそび」のようなものだ。この「あそび」がなければ、権力者や大衆扇動者がちょっとハンドルを切っただけで、国全体があっちに行ったりこっちに行ったり、非常に危なっかしくてしかたなくなるのではないか。「宝くじ付き選挙」なんてものが実施されたら、それに釣られて、政治に全く関心もない有権者や、ワイドショーの言うことを鵜呑みにするような有権者が、こぞって投票に行くような社会になることだろう。たしかに、投票率は異常に高い数字になるかもしれない。しかし、それに比例して、民主制度自体が自滅する危険率も、異常に高まっていくのではないだろうか。“民主主義は、どうやら最悪の政治形態であるようだ。 これまでに試された、すべての政治形態を別にすればの話であるが。” ―― ウィンストン・チャーチル どんなシステムにも、欠点はある。その欠点を大きくするか小さくするかは、システムを利用する者のバランス感覚次第だ。
Aug 24, 2006
心の中に入り込んだ、毒素分解し、害がないものに変質させ、体外に排出できる人分解できずに、有毒なまま、慢性的に体内にとどめてしまう人分解できるのに、あえて体内に常在させ、自分の糧にしてしまう人しようと思えば、いつでも適度に分解できる人にとって毒素は、心地よく脳をうるおす刺激剤 ------------------- 今日の読書: 新谷弘実 「病気にならない生き方」70歳になるこの本の著者、医師になってからの45年間、一度も病気になったことがないそうだ。さらに、胃腸内視鏡の専門医になって以来40年間、第一人者として日常的にガンの切除手術などしながらも、一度も死亡診断書を書いたことがないとのこと。患者に正しい食生活をアドバイスすることによって、「ガン再発率ゼロ%」を実現してきたと言う。 筆者によると、人の寿命を決めるのは、体内で物質を化学的に変質させるのに必要な触媒であるエンザイム(酵素)の総量なのだそうだ。 “市販の牛乳というのは、大切なエンザイムを含まないだけでなく、 脂肪分は酸化し、タンパク質も高温のため変質しているという、 ある意味で最悪の食物なのです。 その証拠に、市販の牛乳を母牛のお乳の代わりに子牛に飲ませると、 その子牛は四、五日で死んでしまうそうです。” ―― 新谷弘実 / 「病気にならない生き方」4、5日で死んでしまうって・・・・。ほんまかいな、とも思ったが、読めば読むほど、この本、非常に説得力がある。脂肪が均質化(ホモジェナイズ)された、いわゆるホモ牛乳(市販の牛乳)は、撹拌する時に牛乳に空気が混じり、脂肪が過酸化脂質(いわば、錆びた脂肪)に変化してしまうそうだ。48度以上の熱でエンザイム(酵素)は破壊されてしまうから、低温殺菌牛乳でも、体に有益なエンザイムは全て死滅してしまって残らない。学校給食での牛乳の導入が、アトピーや花粉症を急増させたのではないか、とまで、この筆者は推測している。しかも、この著者、ヨーグルトを常食としている人の腸の状態は、決まって悪くなっている、30万例の臨床結果から、自信をもって言える、と断言。ヨーグルトを食べると便秘が解消することがあるのは、単に乳糖を分解できずに下痢を起こすからであって、決して腸の調子が良くなったからではないとのこと。これがベストセラーになっているのだから、それは、酪農業界も困窮するはず。今年、北海道で牛乳が大量に余って廃棄されてしまった遠因、この本にあるのかな、と思った。しかし、この本を読んで僕が何よりも驚いたのは、減量作戦を開始して以来の自分の食生活が、著者自身のそれとあまりにも似ていることだった。水を1日に2リットル以上飲む。食事は、野菜、果物、穀物が8~9割。動物性タンパク質はあまり摂らない。朝食は、納豆、玄米ご飯、海苔、めかぶ、というメニューになることがほとんど。毎晩、寝る直前まで酒を大量に飲んでいることと、3日に1度くらいはヨーグルトをたっぷり食べていることを除けば、ほとんど著者が奨めている食生活に一致している。自分が最近、心身ともに最高の状態が続いているのは、無意識に自然と、体が必要としているものを必要なだけ摂取しているから、ということも大きな原因としてあるのかもしれない。ちなみに、この本では、酒の常飲を「百害あって一利無し」のごとくに否定している。しかし、僕の場合、学生時代に空手部で先輩から死ぬほど飲まされ鍛えられて以来、人一倍の量を常飲していることで、アルコール分解に必要な酵素(ALDH)が、すでに体にたっぷり備えられているのではないかと思う。ヨーグルトや牛乳も、実は、20歳前後の頃には、摂取するとすぐに腹の調子が悪くなって、かなり苦手だった。が、今は、まったくそんなことはなく、乳糖を分解する酵素(ラクターゼ)も増えているようだ。本来、自然界においては、乳糖を分解する酵素を必要とするのは赤ん坊だけだから、歳とともにラクターゼが減少するのは当然、と筆者は論じる。その辺りは、僕自身の実感とは違うかな、と思った。人は、あるものを食べ続けたり飲み続けたりすれば、自然と、そのものの有害部分を分解できる酵素を体内に備え始める。有害物質の分解等のために体内の酵素が消費されれば、その分、必要量を摂取すればいいだけのこと。ある食物の適度な摂取量、過剰な摂取量というのは、人によって大きく違うはずだ。ところで、筆者によれば、腸内における「善玉菌」とか「悪玉菌」という呼び名は人間の身勝手な分け方だそうだ。実は「悪玉菌」も、不消化物を異常発酵させることで有毒ガスを発生させ、腸を刺激してガスや便の排泄を促しているという意味で、体の役に立っているという。「増えすぎると問題なだけ」で、必要があって体内に常在しているとのこと。それを敷衍すれば、活性酸素などの有害物質も、増えすぎると問題なだけであって、ある程度の量の常在は、体を刺激して新陳代謝等を促すことで、生命活動に有益な部分もあるのかもしれない。「毒」も、適度な量なら有益になりうる、というのは、心の場合も、体の場合も、同様に言えることなのではないか。 “心は、それ自身が密かに抱いているものを引き寄せる。 環境は、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体である。 ―― ジェームズ・アレン
Apr 28, 2006
日々是平穏。日々是充実。日々是飄々。やると決めたことを目の前にしたとき、自分の中に本気で『やる気』が起きるのを待っていたら、いつまでかかるかわからない。重要なのは、やる気なのではなく、実際に、やるか、やらないか、だけだ。やる気がなくても、やり始める。やり始めたら、アホみたいに愚直に、続ける。何も考えない。無想。 夢や目標までの最終的な距離が遠いときほど、日々の達成感は、小さく刻んで目の前に見える形にしておくほうがいい。小さな達成感を積み重ねることで、無意識に、成功の悦びの感覚がヤミツキになる。一種の、『達成感』中毒。この快感を味わうためなら、多少の苦労や面倒は何とも思わなくなる。そして、そんな状態が続くと、脳内ホルモンが心地よく頭の中を駆け巡っているあいだに、いつの間にか、一歩、一歩、遠かったはずのゴールに近づいている。ポイントは、「小さく刻む」こと。小さな心地よさの連続が、最終的に大きな達成感をもたらす。“私は、すばらしく尊い仕事をしたいと心から思っています。 しかし、私がやらなければならないのは、ちっぽけな仕事をも すばらしく尊い仕事と同じように立派にやり遂げることなのです。” ―― ヘレン・ケラー
Apr 19, 2006
昨日のヤフーの記事で、喫煙が心疾患のリスクを最大4倍も高めるという研究を紹介していた。「なぜ今さら?」と思ったのでよく読んでみると、「喫煙と発症リスクに関する大規模調査は初めて」とある。なるほど。日本で4万人を対象という規模の研究は初めてらしい。しかし、タバコに害がある、という今ではみんなが知っていることを改めて確認するために、そんなに大金をかける必要が本当にあるのかな、と思う。それに、タバコを大量に吸う人は、そもそも食生活や睡眠、ストレス・コントロール等、全般的な面で、健康にそれほど注意しない人が多いはず。だから、この調査が結論付けているように、「タバコ2箱吸う人は心疾患の危険率が最大4倍」だなんて、短絡的にタバコのみに病気の発生と因果関係を結びつけることができるかどうかも、怪しいと思う。 “木の板のいちばん薄い個所を探して、穴を開けやすいところに、たくさん穴を開ける 科学者には、とても我慢できない。” ―― アインシュタイン それはそうと、最近のタバコの広告は、すごい。以前までの「健康を損なうおそれがある」という控えめで小さな表示から、警告のためだけのスペースをしっかり割いて、「肺がんや心筋梗塞の危険性を高める」ということを明確に警告している。マルボロの広告のように、字がない写真だけの広告を見ると、害悪の警告表示だけが目立って、まるでタバコの逆宣伝をしているかのようだ。そんな社会風潮の中、天邪鬼な僕は、久しぶりに、ちょっとだけタバコを味わってみたくなった。引き出しの奥のジッポを探し出して、オイルを補給。数本だけ残したまま、ずっとほったらかしにしてあったマルボロの箱を見ると、「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」という懐かしい表示。最後に吸ったのがいつだったかは、完全に忘れた。相当に古いので、ものすごく不味くなっていることも覚悟しながら、火をつける。うん。。。普通に、うまい。これだけ強力に健康への害悪が叫ばれている中、愛煙家という人種が社会から絶滅しないのは、彼らが天邪鬼だったり自己破壊的だったりするからだけではなくて、単にタバコがこれほどまでに美味しいから、ということもあるのだろう。久しぶりに吸ったので、吸った後に口の中に残るヤニの感触には違和感があるが、まあ、これからも1か月に1本くらいは吸ってみようかな、という気になった。 ------------------------ ところで、僕は快楽主義者であると同時に、どうやら禁欲も好きなようだ。小食に慣れてくると、今までスーパーであれほど目移りした食品類にも全く惹かれなくなった。近所に美味しそうなラーメン店がオープンしたのだが、行こうという気が全く起こらない。あれほど大好きだったラーメンなのに、特に我慢しようなどと思うこともなく、無意識に、減量という目標の達成を自分の本能的欲求に優先させることができているようだ。というより、すでに減量達成が自分の中で『本能的欲求』になりつつある。食べなくても空腹をほとんど感じない。ふと、何も食べずに生きられる人間がこの世界に実在することを思い出した。以前、「世界まる見え!テレビ特捜部」という番組で、水も食事もまったく摂らないで生きているロシア人女性を取材していた。何日間かに渡って彼女の生活を24時間撮影しているテレビカメラの前で、水も1滴も飲まず、何も食べず、寝て、起きて、日光を浴びるため散歩して、驚くことに、それで、彼女は普通に生活できているのだ。数年前に事故で家族を失って以来、ショックで食事が喉を通らなくなり、数日寝込んだ後、目が覚めて以来、何も飲まず、何も食べていないそうだ。学者の説明によると、おそらく、空気中の水分を呼吸を通じて効率よく体内に吸収する仕組みができたのだろう、とのこと。さらに、体内の微生物が、日光エネルギーと水分から必要栄養分を作り出しているのではないか、とのこと。そんなバカな、と最初は思ったけれど。生命は、不思議に満ち溢れている。60億人に1人か2人くらいは、そんなことができる人間がいない方が逆に不思議なのかも、とも思う。結果に誰も驚かないタバコの研究などにかけるお金があったら、こういう奇跡的な人間の研究にこそ、本格的に予算を割くべきではないか。話は逸れるけれど、生命の不思議といえば、ディスカバリー・チャンネルでのパラサイト(寄生虫)の特集も、すごかった。腸内に寄生するコウチュウには、ぜんそくや花粉症アレルギーを治す力があるという。花粉症アレルギーがひどかった医者が、腸内にコウチュウを飼い始めたら完全に花粉症が完治したそうだ。その医者は、カメラの前で、わざわざ花弁に鼻を近づけ、思いっきり花粉を吸う、というパフォーマンスをしてみせた。しかし、くしゃみも咳も出ず、平然としてる。コウチュウは腸内で血を吸うが、サプリメントで鉄分やたんぱく質を補えば貧血になる心配はなく、健康上、何の問題もないそうだ。どうして、寄生虫が体内にいると花粉症や喘息が治るのか、その理由は医学的には全くわかっていないそうだ。この世界には、科学で説明できないことがたくさんあるから、面白い。
Apr 12, 2006
忙しいときほど、逃避。締め切りまで、もうあまり時間がない。と、言いながら。今日もうららかに、河岸をジョギングなどしてる。ブログの更新などしてる。一昨日は、例によって同僚と朝まで飲んだり。しかし、こんなふうに他のことにエネルギーを使う、ということが、実は、自分にとって非常に重要なのことなのかもしれないな、と、最近思う。パワーは、パワーを生む。仕事とプライベート。感性と理性。脳と体。相手と自分。陰と陽。シナジーの心地よい連鎖が生まれる。負のエネルギーが強い人間に自分が無意識に惹かれてしまうのは、『陰』の部分が深い人間ほど、そこから生まれる『陽』のパワーが大きいことを同時に感じ取ってしまうからかもしれない。光が強ければ強いほど、それが生み出す陰は濃くなる。闇の部分が深ければ深いほど、対比される光は輝きを増す。 “ はじめに、闇だけがあった 闇はところどころで、かたまり、あつまっては、わかれた 神の霊が、水のおもてをうごき やがて神はいわれた 光あれ ” ―― アメリカ・インディアン ビマ族の神話 この世界には、光と闇しかない。それぞれが居場所を求め合うのに、理由は要らない。
Apr 4, 2006
人はどうして、真実を求めたがるのだろう知らないほうが幸せなのに知ろうとしないほうが楽なのに知りたいと思わなければ苦しまなくてすむのに心地よい嘘と空虚に埋もれて満足するよりも哀しい事実に向き合って涙することを選ぶ不確かだけれど希望に溢れた未来に目を向けるより確かだけれど悔悟にまみれた過去と現在に拘泥するそんな愚かしい選択をしつづけるのは、なぜだろう真実なんて、いつも突然目の前にやって来て近寄ろうとすれば逃げてしまう幻なのに -------------------------------- 慢性的な、飢餓感の欠如。平穏でありながら、退屈でない日常。将来に対する、ぼんやりとした楽観。人間というものへの、根拠のない信頼。孤独と不満足を慈しむ、心の余裕。そんな曖昧なバランス感覚が、徐々に崩れた数日間。一度バランスが崩れると、つい自分の『趣味』に浸ってしまい、猪突猛進になってしまうのがいけない。その時になってみなければ本当にはわからないことを、自分ならこうするなどと簡単に宣言するべきではないね。自分に酔っているときは、理想の自分と、現実の自分とを混同してしまいがち。曖昧なはずの物事を、安易に断定してしまいがち。自分の判断力を過信すべきではない。常に、他人に意見を求めよう。立ち止まって、一呼吸、間をおいて。もっと周りを見ないと。相手を見ないと。自分自身を、客観視しないと。 " It's a tricky situation Hard to say just what the outcome will be If you solve the riddle you can save your soul or Chase love's shadow till the rivers run cold " -- Ned Doheny / "Get It Up For Love" ----------------------友人が、興味深い心理テストを紹介してくれた。
Mar 23, 2006
“人のために生きてごらん。楽だよ。” ―― 水谷修 「“夜回り先生”の講演」 人が自分のために何をしてくれるか、を考えて生きるよりも。自分が自分のために何ができるか、を考えて生きるよりも。自分が人のために何ができるか、を考えながら生きる方が、生きやすい。 そう、それは確かにそのとおりなんだけれど。そう言い切ってしまえるだけの生き方を実際にしている人を、ぼくは心から尊敬してしまう。偽善者だと思われることを恐れず、人間に対する愛を素直に純粋に、言葉や行動で表現できる人たちを・・・。--------人のために生きる、というのは、しかし、程度の問題でもある。雑誌 TIME で2005年の「今年の人」に選ばれたゲイツ夫妻とボノは、その莫大な富や名声や影響力を大いに生かして、世界中の何千万人という人々の命や生活を直接的・間接的に援けてきた。彼らが慈善活動に費やしてきた時間やエネルギーは、自分たちの本業にかけてきたそれと比較すれば、ほんの何分の1かだろう。しかし、それでも現実に、彼らの強力かつ効率的な支援方法のおかげで、病気や飢餓で死んでいたはずの数千万の途上国の子どもたちが、大人になることができている。重要なのは、他人のためにどれだけ自分の時間を費やしたかではなく、実際に、人の命を救えるか、救えないかだ。 ------- 特に、一介のミュージシャンでしかないボノの活躍が、すごい。世界中の君主や宗教指導者、財界のリーダーといったキーパーソンたちに持ち前の気さくな人柄と明晰な頭脳で働きかけ、途上国の負債を帳消しにさせたり、困窮支援プログラムに膨大な予算を割くよう説得してしまう。その政治的手腕は、幕末の浪人、坂本竜馬を髣髴とさせるものがある。 ------- ある意味で、彼らとは対照的な慈善活動家の代表が、マザー・テレサ。38歳のとき、ローマ法王に修道会の除籍を申請し、所持金もほとんどもたず、着の身着のままでカルカッタのスラム街に移住。その後、87年にわたる生涯の大部分を、困窮する人々の命と心の救済のために費やした。“富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合うのです。”“恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。 世の中で誰かに必要とされているという意識なのです。 見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけて くれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。”と、彼女は言う。幸福か不幸かを決めるのは、環境なのではなく人の心なのだとすれば、貧困の中にあっても、愛と幸福をもたらすことも可能だろう。-------現在の日本のパチンコ流行の基礎を築いた立役者でもあるマルハン会長の韓昌祐(ハン・チャンウ)は、会社の利益の1%を社会のために貢献することをモットーにしている。100億円稼いで、1億円寄付する。自分のために、99%。人のために、1%。それはそれで、ありなんじゃないかと思う。(ちなみに、彼の在日韓国人に対する考え方や国家観には大いに共感するところがあるのだけれど、その話は、また別の機会に。)-------で、ぼく自身は、と言えば。収入の3割程度を両親に送り、1割程度を将来の自分のために投資し、1%程度を途上国や被災地に寄付。いまのところ、自由な時間の大部分は、将来の自分のために使っている。しかし、今この瞬間、このお金や時間は自分のために使っているとしても、それは結局、長い目で見れば、人類全体のためになることだから、そして身近な愛する人のためになることだからと、そんなふうに考えると、俄然、やる気と自信も湧いてくる。働きアリが、仕事をサボっても何の刑罰も受けないはずなのに、せっせと巣にいる仲間のために身を犠牲にして働き続けるのは、そうすることが、本能的な快楽をもたらすからだ。人間の場合も、少なくとも人生の何%かを他人のために使うことで、人生を『美しく』輝かせることができ、何よりも、自分にとって生きることが気持ちいいものになる。 本能的に、そんなふうに感じてしまう生き物なのではないか、と思う。 “ぼくの心の中には、本当にたくさんの愛があるんだ。 人に与えるための愛があるんだ。 ただ、それをどこに持っていけばいいのか、わからないだけなんだ。” ―― 映画「マグノリア」より 愛の与え方を学ぶために、ぼくは生きているのかな、と思うこの頃。
Dec 28, 2005
幸せというものは脆いバランスの上に成り立っているそんなことにも気づかないでいつもぼくは ---------------------- さて、いよいよ年の瀬も近くなり、吐く息も白くなり、熱燗がとてもおいしい季節になった。僕はといえば、とことん、ヒキコモリな毎日。仕事がない日は、本と映画とテレビに溺れ。ジョギングや筋トレに明け暮れて。なんだかなー。10年前の自分が今の自分を見たら、こんな生活ありえないよ、と驚くだろな。 それほど堕落してるわけでも不幸せなわけでもないんだけど。何か、足りないよ、人間として。うん。 まあ、そんな感じ。 ---------------------- ところで、世の中には、こうなった方が絶対いいのに、そしてそれが簡単に実現できるはずなのに、なぜか、誰もが何となくあきらめている慣例がある。たとえば、小説。最初から文庫版で出版した方が、安いし、持ち運びも格段に便利。でも、出版業界の陰謀により、文芸作品は数年後でないと文庫化しない慣例になっている。たとえば、DVD。最初から映画館でなく DVD で観られれば、安いし、手軽。でも、映画業界の陰謀により、映画館で暫く上映したあとでなければ、DVD化しない慣例になっている。たとえば、女子トイレ。男子用と同じように、多少プライバシーを犠牲にして、スピードと手軽さを追求した小用トイレがあれば、非常に便利なはず。イベント会場や学校などで、休憩時間に無意味な行列を作らなくて済むはずなのに。でも、トイレ業界の知恵不足により、女性は当たり前のように不便さを我慢させられる慣例になっている。たとえば、国公立大学。建物や設備をあんなに豪華にするお金があるなら、その分、授業料をもっともっと安くせえって。その方が、優秀な学生が、たくさん集まるはず。家庭が貧しく、しかし奨学金をもらえるほどには優秀でない学生にとって、私立大学とほとんど変わらない授業料を払い続けるのは、きつい。でも、貧富の格差を問題視しない教育界の配慮不足により、貧しい家庭の子女は当然のように可能性を狭められるのが慣例になっている。 “エロ本を置いてください。 / ご要望ありがとうございます。大学生協は 学生さんや教職員の方をはじめとした組合員の勉学研究支援および生活 支援に取り組んでおりますが、煩悩の分野は支援できません。 あしからずご了承下さい” ―― 白石昌則「生協の白石さん」 世の中、こうなった方がいいのに、という、淡い望みは、しょせん、常識とか慣例とかいう魔物に邪魔されて、言いくるめられて、かなえられることがない。そんなものなのかな。 と。 いや、でも、もしかしたら、それでいいんじゃないのかな。と。
Dec 23, 2005
負のエネルギーを全身に、分散正のエネルギーを全身から、集中60兆個の細胞が1つの均衡に向かうこの大いなる宇宙に --------------------------- 日記を書くというのは、日々、年々、移り変わる自分の思いを記録し、確認する作業でもある。と、同時に。Web 日記というのは、他人に対して、自分の内面を表現する場でもある。ときには、外面を、表現する場でもある。そんなこともあり。自分のこの、矛盾だらけで、中途半端で、自意識過剰かつ自己満足で、恥さらしで、自堕落な、精神生活において。それでも、なおいくばくかの真理とか美とかが、少しでも垣間見れるものなら。何かを残しておく意味は、あるかもしれないと。 -------------------------- ところで、『意味』って何?と、いう根本的な疑問は、とりあえず、おいといて。 -------------------------- 頑張っているときの自分の何がコワイかと言えば、頑張っていなかったときの自分のものの見方を簡単に否定してしまう、傲慢さ、である。そのとき、その場で、必死に考えて出した結論を、未熟な考えと一蹴してしまい。今の自分の考えの方が、なにかしら、『優れている』とか、無意識にせよ、思う。そんな。 -------------------------- 謙虚さを失った自分は、危うい。努力すること自体が自己目的化してしまい、努力のもたらす充実感のみに満足する。 いま、ここでこうしている、自分に。たとえば10年後の自分が何と言おうと。今の自分には、これしかできないよ。と。 -------------------------- というか。こんなふうに、日々をあがいて。運命に向かっていくことを選んでいる自分が、今の自分。んーーー。そうなのかな。 “猿は病気にかかっても、いま自分に何が起きているのかわからない。 なぜ、それが起きたのかもわからない。 同様に、人間には、なぜその運命が自分に訪れたか、わからない。 しかし、一段上の存在にとっては、意味も原因もわかっている。” ―― ビクトール・E・フランクル
Nov 24, 2005
賞味期限が切れた白菜キムチを数片ふと思いついて植木鉢に埋めてみたら土の中の微生物がたいへん元気になったらしいさすが、発酵食品 -------------------------- 同じ言葉を発しても、その受け止め方は、人によって違う。同じ人に対して、同じ言葉を発しても、時と場所によって、その受け止め方は変わる。自分にとっては何でもない軽口が、時と場所を間違えると、人を怒らせたり傷つけたり不快にさせてしまったりする。だから、言葉に対して過敏になっている人には、できるだけ無難な言葉を、できるだけ少なく用いる方が、僕のような不器用な人間にとってはベストなのだろう。特に、お互いの間に、それなりの確固とした信頼関係が成立する前には。 たとえば、「こん○○は」という表現を初めて見たときは、なんと気をまわしすぎた書き方だろう、と思った。たしかに、その文章を昼間に読んでも夜に読んでも、『正確な』挨拶にはなるわけだが。何もそこまで、と。しかし、人が言葉を用いるときは、そんな過剰なほどの気の遣い方が必要になる場合もあるのかもしれない、と、今は思う。お互いとの距離が見えにくいネット上などでは、自分が相手に向かって発する言葉に、気を遣いすぎるということはない。 ウサギは、ある一定の場所で個体数が増えすぎると、個体間に生じるストレスのせいで出生率や免疫力の低下、異常行動などが見られることが知られている。人間の場合も、人口密度が高い社会で生きていれば、いやでもストレスが生じる。ストレスが過剰に高まれば、ヒトの場合も、総合的な生命力は低下するはず。だから、できるだけストレスを緩和して、誰もが快適でスムーズに生きられるような社会にすることが、お互いにとって最善な生き方なのだろう。 “下手な運転手も、相手がよけてくれるから車にはぶつからない。 もうひとりの下手な運転手と出くわすまでは。” ―― フィツジェラルド「グレート・ギャツビー」 ----------------- オフィスにて。「あぁ~、まいったなぁ・・・」 どうも、思ったように事が運ばないことがあったので、つい愚痴が声に出る。すると、隣にいた新人の同僚が、「あの言い方は、ないですよねえ」と同情するように言う。「?」僕が怪訝な顔をしていると、彼が続ける。「いや、○○さん、あんなキツい言い方をしなくっても・・・・」なるほど。。。さっき、○○氏と他愛もない軽口の応酬をしていたのだが、それを口論だと勘違いしたらしい。「あー、あれは、何でもないよ。いつものことで、、、あの人は、あれでいいんだ。というか、僕らの会話は、いつも、あんなんだから。(笑)」気心の知れた人間と、お互いの仕事ぶりに関して考えられる限りの皮肉と毒舌で痛烈に批判しあうことは、一種のカタルシス的な快感をもたらしてくれる。そんな建設的な批判のやりとりも、事情を知らない他人には、喧嘩に見えたのだろう。今回は、最後に僕が押し切られる形になって苦笑いして終わったものだから、それを気にしているのだと勘違いしたらしい。------------------------- <イーサの法則 その3>仲間どうしの皮肉や毒舌の痛烈さは、信頼関係の2乗に比例する。
Nov 14, 2005
哀愁の秋。雲ひとつない、快晴。部屋に、独り。ありふれる日常に。溢れる幸福に。感謝。 ------------------------ <イーサの法則 その1>昼間の腕立て伏せ50回は、夜のウィスキー・ダブルと同等の刺激と快感を肉体にもたらす。 ------------------------ 人生において、ある選択をするということは、つまり、別の選択肢を捨てるということだ。ある行動をしようと決定するということは、当然ながら、「他の行動をしない」という決定を意味する。いま、ここでこうして『文章を書く』という選択をしている自分は、『文章を書く代わりにこの時間を使ってできる、何か』を放棄していることになる。それは、考えてみると、ちょっとコワイことだ。そして、怖い、こわい、と言いながら、36年間、生きてきた。逃げようと思えば、いつでも逃げられる。そういう場所にしか、行こうとしなかった。少しでも、他の選択肢に変更できる可能性の高い選択肢ばかりを、選んできた。引き返せない道には、自ら進んで踏み込もうとはしなかった。しかし、最近ふと思う。『選択をしない』という自由を選んできたことによって、自分は、『選択をする』という自由を放棄してきたんだ、と。そして、そのことによって、失ったものの方が大きいのか、失わなくて済んだものの方が大きかったのか、それは、結局は誰にもわからないんだ、と。 ----------------- ある実験によると、115ドルのジャケットと15ドルの電卓を買おうとした客のうち、自動車で20分先の店で電卓が10ドルだと聞かされると、68%の客が遠い店まで買いに出かける、と答えたそうだ。そして、115ドルの電卓と15ドルのジャケットを買うとき、自動車で20分先の店で電卓が110ドルだと聞かさると、買いに出かけると答えた客は29%だったそうだ。同じ価格分の値下げでも、価格が安い商品の値下げ額を大きくする方が、価格が高い商品の値下げ額を大きくするよりも、客の心理に大きく作用する。 だから、賢く要領がいい店は、安い商品を大幅に値上げして客を寄せ、高い商品を売って利益を上げる。“男は、本当に必要ならば、千円のものにも二千円払う。 女は、二千円が千円になっていれば、必要でなくても買う。”という諺もあるように。商品を買うときの客の価値観や満足感は、必ずしも商品自体の品質や価格には比例しない。何を『お買い得』と思うか、何を『騙され損』と思うかは、買う人が決めること。同様に、どんな人生が『得』で、どんな人生が『損』なのかも、結局は、個々人の意思が選択し、決定するものでしかない。 “私は「一番」よいとか、好きだとか、この一つ、ということが嫌いだ。 なんでも五十歩百歩で、五十歩と百歩はたいへんな違いなんだと私は思う。 たいへんでもないかも知れぬが、ともかく五十歩だけ違う。 そして、その違いとか差とかいうものが私にはつまり絶対というものに思われる。” ―― 坂口安吾 『違い』があるからこそ、人は、選ぶ。しかし、量の違いは、必ずしも、質の違いを意味しない。大きいほうが勝ち、とか、多い方が幸せ、とか、人生は、そんな単純なものじゃない。そして、質の違いも、ただちに選択の良し悪しを決定したりない。質が「良い」ものを選ぶのが、常に「善い」ことになるとは限らない。物事の本当の『価値』を決めるのは、いつにおいても、人間自身以外にありえないのだ。
Nov 10, 2005
昼下がり。ベランダから見上げる、曇り空。部屋から漏れ聴こえる、やわらかな音楽。遠くの丘の上で遊ぶ、子どもの声。薄く淹れたコーヒーの、芳しい香り。至福のひととき。 -------------------------- 美術指導の第一人者であるベティ・エドワーズが、まだ新米教員だった頃のこと。彼女は、「絵を描く能力は生まれつきの才能次第」という意見に真っ向から批判的だった。むしろ、『誰でも、描き方のコツさえつかめば、うまく描けるようになるはず』というのが、彼女の信念。しかし、どんなにがんばって指導しても、そして学生自身がどんなにがんばっても、どうしても絵をうまく描けないという学生は、大勢いた。そのことに、エドワーズは深く悩んでいた。「あなたの絵では、花瓶と果物の位置が同じに見えるわ。よく見て。果物の方が手前にあるでしょう」「はい、わかっています。でも、、、どうやって描いたらいいかわからないんです」「目の前のものをよく見て。そして、見えるとおりにそのまま描けばいいのよ」「私はよく見ています。でも、それをどう描けばいいかわからないんです」そんなふうに、「よく見て」「よく見ています」の繰り返しばかりが続いていた、という。しかし、ある日。ふと衝動的な思いつきで、ピカソの絵をさかさまにして、それを学生に模写させてみた。すると、驚いたことに、絵の出来映えは、これまで試したどんな方法とも比較にならないくらい、すばらしいものになったという。「逆さまにしただけで、どうしてこんなにうまく描けるようになったの!?」と、エドワーズは思わず学生に尋ねる。「逆さまだと、自分が何を描いているか、わからないんです」と答える学生。その答えに、エドワーズ自身も、ますますわけがわからなくなったそうだ。 ―― B. エドワーズ「脳の右側で描け」より --------------------- ヒトが、独りでは決して言葉を習得することができないように。美に対する感性というものも、独りでは決して習得できないものなのかもしれない。 “芸術とは、真実を伝えるための嘘である。” ―― パブロ・ピカソ 正方形を6個つなげて描いても、決して立方体には見えない。しかし正方形の代わりに、端の方が少しずつ狭くなっていく歪んだ平行四辺形を3つくっつけて描くと、見事なサイコロ形に見える。ニワシドリ(庭師鳥)という鳥のオスは、メスをひきつけるために、柱や屋根もあり、しかも色違いの木の実などで美しく装飾した庭まで付いた、巨大で壮麗な巣を作る。けれど、年上のニワシドリたちの巣を見て造り方を学習するまでは、粗末で魅力のない巣しか作れない。他のオスの巣を見て『美の基準』を学習するまでは、何が美しく何が美しくないか、また、自分の巣をより美しくするためにどうすればよいか、等が、わからないのだ。しかし、いったん他の鳥の巣を見て『美の基準』を学習した後は、自分の創造力を自在に働かせて、巣をより美しいものに改造していくことができるようになる。いわば、ニワシドリのオスの美的感性は、遺伝ではなく「文化」によって個体から個体へと受け継がれていることになるわけだ。 “トマトを食べるときは、他の人と変わりありません。 ただ、トマトを描くときになると、別の見方をするんです。” ―― アンリ・マチス 『美』それ自体は、この世界に、あるがままに存在するものである。しかし、それを人に伝えようとするときは、自分の頭の中で「見えて」いると思っているものをそのまま表現しても、真の姿が全く伝わらないこともある。ちょうど、正方形をそのまま6個つなげて描いても、立方体の真の姿が全く伝わらないように。 見えているものや感じているものの姿を、ほんの少しだけ『ゆがめて』表現することで、『正しい』姿が伝えられることもある。
Nov 7, 2005
寝室を吹き抜けるひときわ冷たい風に目を覚まし、秋の訪れを感じる。そろそろ窓を開け放して寝ていると風邪を引く季節かもしれない。先日までの、じっとしているだけで汗の滴るような夏の暑さも好きだが、秋の涼しさも、また快適。ぼんやりと布団に身を沈めたまま、タオルケットを通して感じる自然な涼風が、心地いい。 “ 涼しさを我宿にしてねまる也 ” ―― 芭蕉 (口語訳)こんなに涼しいと、まるで我が家にでも居るように、くつろげることだなあ。 句の趣旨とは違うけれど、旅に生きた芭蕉にとっても、無意識の深層心理では、やっぱり「我が家」が一番快適な場所だったということなのかな、、、などと、つい穿った読み方をしてしまうのは、自分自身、あまりにも今の生活に自己満足しすぎているせいかもしれないな。 -------------------------- というわけで、今日はとても気分のよい夢を見ていて、目が冷めたら14時を回っていた。昨夜寝たのが2時ごろだから、なんと12時間も眠り続けていたことになる。夢の中では、実在の場所や人物が、架空の場所や人物とともに、過去と現在という時の流れを交錯しながら登場しては消えていった。夢の中の自分は、そういう状況設定を何の疑いもなく受け入れて、現実の自分がするであろう言動と同じ言動をしている。睡眠という行為は、コンピューターで言えばハードディスクのデフラグみたいな作業なのかもしれない。夢を見るということは、いわば脳のデフラグの過程を覗いていることになるから、時や空間を超えた記憶や経験の交錯が自然と可能になるということなのだろう。 -------------------------- 人間の脳というものは仮説立証型に造られていて、あるものを正しいと信じることによって、最大の能力を発揮することができるそうだ。逆に、どれが正しいのか全く不確定なあいだは、理解不能に陥り、思考停止状態になる。少なくとも一部でも理解可能な部分があり、何かしらある部分のつじつまがあっている限り、それを理解しようと無意識に複数の仮説を立てる。そして、そのうちの1つが正しいことを証明するために全力を尽くしてしまう傾向を持っているということらしい。夢の中で、全く非現実的なシチュエーションを何の疑いもなく受け入れて、理解してしまうのも自分の脳であり。現実世界において、ときに、まったく不正確な物事を正しく理解してしまうのも脳である。まったく不正確なものを完璧に理解できると言えば、例えば、以下のような例がある。Believe it or not, you can read this:I cdnuolt blveiee taht I cluod aulaclty uesdnatnrd waht I was rdanieg. The phaonmneal pweor of the hmuan mnid aoccdrnig to a rscheearch at Cmabrigde Uinervtisy, it deosn't mttaer in waht oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoatnt tihng is taht the frist and lsat ltteer be in the rghit pclae. The rset can be a taotl mses and you can sitll raed it wouthit a porbelm. Tihs is bcuseae the huamn mnid deos not raed ervey lteter by istlef, but the wrod as a wlohe. Amzanig huh? yaeh and I awlyas thought slpeling was ipmorantt. 「誤り」であるかどうかということと、「理解不可能」であるかどうかということとは、全く別のことだ。誤っている部分や理解不可能な部分はとりあえず括弧に入れて、自分の脳にとって共有できる部分を手がかりに、共有できない部分を推測する能力を『想像力』と呼ぶのだろう。“空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。” ―― アインシュタイン
Sep 16, 2005
昼間に、カレーを作る。出来上がった後、ずいぶん迷ったが、食べずに我慢してそのまま数時間寝かせておくことにした。夜。皿に盛り、レンジで温める。ビール、赤ワイン、焼酎を楽しみながら、カレーをつまみ。文句なしに、旨い。申し訳ないくらいに、美味い。今まで、どこで食べたカレーよりも、おいしい。最高の自己満足感。(爆) <材料>横浜舶来亭 黒カレー辛口(6皿分)カレーシチュー用豚肉260g鳥ひき肉120gたまねぎ2個(1個みじん切り、1個ざく切り)ベビーキャロット150g(100gそのまま、50gみじん切り)なす1個乾しシイタケ少量チキンコンソメ3個ハーブ・ミックス1パックおろしニンニク大さじ1杯ガラムマサラ少々 ---------------- 何かを「やらなければならない」と思い込むから、できない自分に絶望する。「できるけれど、やらない」ということは、やっぱり自分には「できない」ということだ。できないことは、しなくてもいい。できるようになったら、すればいい。この世界に、「自分がしなければならない」ことなんて、何ひとつ存在しないんだ。 “人間は、自分自身の存在をあまりにも重大に考えすぎている。” ―― オスカー・ワイルド --------------- ついでに言うと、「絶対に、してはいけない」ということも、存在しない。「これをすると、あとで自分が損をする」「こうしておけば、あとでいいことがある」という自然法則や社会規範があるだけであって、決して「してはいけない」ものがあるわけではない。あらゆる決断には、「行為と結果の(ときに不公平な)交換」がともなうというだけのことだ。『すべきでない』とされていることを行うと、自然の因果、法律、社会的非難、良心の呵責などによる制裁を受ける。しかし、そういう制裁が待っているからといって、「絶対的にしてはいけない」ということを意味しない。罪と罰の(不)等価交換。それは、『強制』や『禁止』と同義ではない。然るべき結果を覚悟するのなら、したいことをすればいい。 “道徳は人間のためにつくられたのであって、人間が道徳のためにつくられたのではない。” ―― ツワングウィル 何かをすることが「絶対に悪いこと」とだれかに言われて、何も疑わずに無条件にしたがうことができるのは、幼い子どもだけに許された特権なのだと思う。 ----------------- そんなことを言うからといって、僕は決して信仰や宗教の存在意義を否定しているわけではない。偉大な宗教には、人間について、社会について、この世界のあらゆる仕組みについて、先人たちが考えに考え抜いた哲学がある。本質的に弱い存在である人間を、破滅から救う力がある。ただ、偉大な宗教が世界的に繁栄してきた理由は、信徒たちに宗教独特の行為の強制や禁止をしてきたことにあるのではないと思うのだ。むしろ、信徒の人間的な迷いや悩みに対して、宗教指導者たちが巧みなまでに寛容な態度で接し、心から納得できる形で導いてきたからこそ、これほど多くの人々に受け入れられてきたのだと思う。逆に、妥協を許さない極論のみを主張する宗教やイデオロギーは、ことごとく短命のうちに歴史の舞台から姿を消してきた。 “そして午後には、チャペルで小さな集まりが行われ、詩の朗読の後、参加者たちは キリスト教、ユダヤ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教それぞれの祈りを捧げた。 私たちのキャンパスでは簡単に実現するこんなひとときが、なぜ世界規模では 無理なのかと考えずにはいられない。” ―― 岡崎玲子「9・11ジェネレーション」 愛と寛容。人間の生存と繁栄にとって必要な哲学は、究極的にこれだけだと言ってもいい。
Nov 22, 2004
大の旅行好きなのに、旅先では1枚も写真を撮ろうとしない知人がいる。理由を聞くと、「経験が“違うもの”になってしまうから」と言う。それを聞いたときは、「写真を見るたびに旅先での経験が記憶としてよみがえることはあっても、“違うもの”になってしまうということはないだろう」と反論したのだが、、、、今は、その気持ちが理解できる気がする。写真にしても、言葉にしても、本当は「形」にできない経験というものを、無理やり長期保存可能な「形」として閉じ込めてしまうことで、何か二次的で間接的なものに歪められてしまう気がするのだ。時の経過とともに、自分の記憶の中で、言葉や写真として保存された経験と、保存できずに捨てられた経験とのあいだに「価値」の差が開いていく。あらゆる経験は、言葉として語られることによって、事後的な主観に支配され、二次記憶、三次記憶、になりさがり、ときには完全に虚偽の記憶にすりかわってしまうことさえある。それが嫌だから、ほんとうに大切な想い出は、写真にしたくない、言葉にしたくない、という気持ちになるわけだ。これは、料理の冷凍保存に似ている気がする。 ご飯やうどんのように冷凍して長期保存してもおいしく食べられるものもあれば、カレーのように冷凍するとまったく別のものになってしまうものもある。記憶や経験も、多少、『風味』を損なってもいいから長期保存しておきたいものと、長期の保存には適さない、淡くて微妙なものとがあるのだと思う。特に、解凍して味わった後で、また冷凍しなおしたりということを繰り返すと、全く違う味に変わってしまうこともあるし。。。(←こちらも“経験”あり。爆) ところで、脳科学の第一人者、松本元博士によると、長期記憶として一度脳のなかに蓄積された記憶は、(アルツハイマーなどで物理的に脳が破壊されない限り)生まれてから死ぬまで、完全にすべて(!)記憶されているのだそうだ。時間とともに、意識の下、潜在記憶のほうに移っていくため記憶が取り出しにくくなり、「完全に忘れた」と思い込むけれど、実は、何かのきっかけがあれば、走馬灯のように丸ごと思い出すことができるらしい。 だから、単に経験を記憶として残すためだけなら、無理に言葉にしなくても、広々とした非言語の領域に、そのまま漂わせておけばいいのだ。 “意識の地平が広がると同時に、無意識の地下層も拡大する。” ――フロイト むしろ、「同時に」というよりも、無意識の地下層のほうが、はるかに高速にあらゆる情報を処理することができるに違いない。コンピューターだって、モニターに出力しながら情報を処理するよりも、バックグラウンドで処理する方が、はるかに速いのだから。 -------------------- 最近、感心したもの: 絵本「あらしのよるに」シリーズ 全6巻 / 文・木村 裕一 絵・あべ 弘士 ・嵐の夜に芽生えた、狼と羊の不思議な友情。 ・子ども向け絵本ながら、いろいろな解釈が引き出せるお話。 ネスカフェ「香味焙煎 柔らかモカブレンド」 ・楽天ブックスで本を買ったら、サンプルが同封されていた。 ・最初は、試供品のために特別においしいのを使っているんじゃないかと おもったくらい、びっくりするほどおいしかった。 呉羽化学「レンジでつくるスパゲティ」 ・1~2人分なら、鍋で茹でるよりはるかに便利で、おいしくできる。 ・ドンキホーテや楽天市場なら300円台。安い。 ・姉妹品の「レンジでつくる温野菜」も欲しくなった。 乾燥ネギのふりかけ( http://www.hamaotome.co.jp/shohin.html ) ・ほんの少量で、納豆や冷奴、味噌汁の風味が変わる。手軽。 ・ドンキホーテで160円くらい。安い。 ・意外に長持ちする。 業務用おろしにんにく ・ほんの少量で、炒め料理やカレーの風味が変わる。手軽。 ・ドンキホーテで600円くらい。安い。 ・意外に長持ちする。 ・たくさん食べると、とても元気になる。
Nov 16, 2004
この数日間。 言葉にすると、どこかに消えてしまいそうな。あるいは、何か別のものに変わってしまうような。淡くてはかない幾多の感動があった。言いたいことをすべて言い切ってしまった後に、言葉にできずに残るような。弱くて小さな何かがあった。そんな日常。
Nov 15, 2004
ディスカバリー・チャンネル「ヒトの本能」シリーズで生殖本能を特集していたのだが、これが、なかなか興味深かった。最も驚いたのは、ヒトが自分に合う異性を選ぶ際、意外に大きな役割をしているのが嗅覚である、という事実だった。ヒトを含めた生物一般は、本能的に、自分の持つ免疫とは、できるだけ異なる免疫を持った異性をパートナーとして選ぶことで、より広範な免疫を備えた、病気に強い遺伝子を子孫に残そうとする。そして、異性の免疫の遺伝子情報は、嗅覚を通じても伝わるのだという。実験では、女性が2日間身につけ続けたTシャツを冷凍保存して実験室に集め、男性の被験者がその臭いを1つずつ嗅いでいき(!)、自分の好みに合うもの、合わないもの、どちらでもないもの、に選り分けていた。すると、なんと、驚くほど正確に、男性は自分と免疫の遺伝子情報が異なる女性のTシャツを好み、遺伝子情報が似ている女性の臭いを嫌ったのだ。あまりにも見事に遺伝子情報と臭いの好みとが一致するので、番組のためのでっち上げなのではないかと疑ったくらいだ。・・・しかし、これは、自分自身も思い当たるかもしれないかな、とも思った。外見その他の特徴が同じくらい「好みのタイプ」の女性だったとしても、実際にそばで接してドキドキする相手と、それほどでもない相手と、近づくと何となく異性としての関心は薄れてしまう相手とがいる。これが、遺伝子情報を伝えるフェロモンを嗅覚が感じ取ったことによる生物学的な反応が原因なのだとすれば、うまく説明がつく。また、別の実験では、大学の構内で、ルックスのよい男と女が、それぞれ見ず知らずの異性に声をかけ、相手がどう反応するかを調べていた。「今晩、私/僕と寝ない?」という、ストレートなカジュアル・セックスの誘いに対して、当然ながら、YESと答えた女性はゼロだったのに対し、男性の4分の3が即座にOKと答えていた。しかも、それが、「いっしょにお茶でもいかが?」という誘いになると、女性はOKする人が多くなったけれど、YESと答えた男性は、なんと半分の8分の3に減ったそうだ。いや、自分だったら、どちらにもYESと答えるけど、、、ということはおいといて(爆)、女が男を誘う場合に、お茶に誘った場合には、セックスに誘う場合の半分にもなってしまうという結果には、同じ男としてちょっとショックだった。まあ、でも、これはヒトの本能を試す実験というより、アメリカという国に限っての若者の行動パターンを調べる実験だったという気がしないでもないけれど。他に、コンピューター・グラフィクスを使って、女性が選ぶ理想の男性の顔と排卵期との関係を調べる実験というのがあった。すると、排卵期ではない女性のほとんどが、線が細くて優しい感じの男を好みのタイプとして選んだのに対し、排卵期の女性のほとんどが、男性的で強い男を「理想のタイプ」として選んでいた。これも、「ほんとかよー!?」と思わずツッコミたくなった実験だったけれど、その後の生物学的な説明を聞くと、そんなものかな、と納得させられてしまう。女性の排卵期の前後には、より強い遺伝子を残そうとする本能の方が、男性に癒されたいなどという本能(あるいは理性)を上回ってしまうことが多いそうだ。だから、女性の浮気は排卵期をはさむ4日間に多い、などの調査報告もあるという。日常生活で自分の心を満たしてくれる男性のタイプと、自分の遺伝子が本能的に求める男性のタイプが食い違った場合、たしかに浮気は起こりやすくなるんだろな。。。ん、、、ということは、僕みたいに、心優しい紳士キャラ(爆)と、マッチョなキャラという2つのキャラクターを持った男は、相手の女性の排卵の時期によって、それぞれキャラクターを使い分けるべきだということかな、、、、あ、でも、顔のタイプまでは変えられないからダメか。(爆)他にも、身なりや持ち物だけで、異性から見た印象が180度変わってしまうという実験や、体形と異性の関心度などの関係の話があったりした。今回の特集では、生物学的な要因と文化的・社会学的な要因とを混同しているのではないかな、と思われるような部分や、少なすぎるサンプルからインパクトのある大胆な結論を強引に導いているような部分もあったけれど、全体としては、かなり説得力があった方だと思う。「人間は本能が壊れた動物である」と岸田秀は言っていたけれど、なかなかどうして、調べれば調べるほど、人間はまだまだ本能に支配されている生き物だということが判明するのかもしれない、と思った。 “ニワトリとは、卵が卵を産むための、手段に過ぎない。” ―― サミュエル・バトラー 言い換えれば、ヒトとは、ヒト遺伝子が自己をより多く複製するための「手段」としての存在でしかないということになるわけだ。 これで、人生というもの自体に根源的な「目的」を見出すのがこれほど難しい理由が、うまく説明できてしまうわけなのだが・・・・。
Oct 22, 2004
古代ギリシャの哲学者ゼノンは、「アキレスと亀」をはじめとして、多くのパラドクス(何だか変だぞ、と感じる話)を考えたことで有名だ。そのうちの1つに、「飛ぶ矢のパラドクス」というものがある。空中を飛んでいる矢の、ある一瞬を取り出して見ると、その瞬間、矢は静止している。そして、次の「瞬間」も、その一瞬だけは、矢は静止している。同様に、その次の「瞬間」も、矢は静止している。そのように無限に小さな「コマ送り」を続けると、どの瞬間も矢は静止していることになる。ということは、飛んでいる矢は、空中で静止する矢の無限の連続であるということになる。つまり、結局、そんなふうに理詰めで考えていくと、「飛んでいる矢は、静止している」ということになってしまう、というのである。・・・しかし、ここで、「一瞬間だけ、取り出してみると、、、」というところが、曲者である。 すべての物事が、そんなふうに部分的に分析的に考えることで、論理的に解決できるとは限らない。 ------------------ トロントに住んでいたとき、あるカナダ人に、英語をやたら誉められたことがある。そこで、「声だけ聴いたら、僕をカナダ人と間違えたりするかな?」と聞いてみた。すると、「いや、それは、ない」と、きっぱりと否定された。(爆)「じゃあ、どうすれば、僕の英語がもっとカナダ人らしく聞こえると思う?」と、質問してみた。 すると、少し考えて、"Your English sounds too correct."「君の英語は、正しすぎるんだ。」という答えが返ってきた。なるほど!と感心したものだった。特に、アメリカ英語(カナダ英語)は、イギリス英語(インド英語)と比較して、1つ1つの単語をはっきりと発音することよりも、語句としてのつながりを重要視するところがある。(そう言えば、アパートを探していたときにインド人の大家と電話で話していて、実際に会うまでは僕がインド人だと思われていた、という経験がある。当時は、それはそれで歯痒いような嬉しさを感じたものだったが。。。)例えば、Get out of here! なども、「ゲットゥ、アウトゥ、オヴ、ヒァ」と1語、1語を“正確に”発音するよりも、「ゲラーウリァ」と発音した方が、アメリカ英語らしく自然に聞こえるし、すんなりと相手に通じる。(ちなみに、イギリス英語でも実際には1語、1語を切り離すわけではなく、「ゲターウトゥヴィャ」という感じにはなるが。)日常言語では、文法や単語ごとの発音は、状況に合わせて多少乱れた方が、より自然に聞こえることが多いのだ。日本語でも、こういうことはある。ある言葉を話すとき、たとえば、朝の挨拶をするとき、「お、は、よ、う、ご、ざ、い、ま、す。」と区切りながら、速く“正確に”発音すると、まるでロボットのような話し方になる。むしろ、「おはょざぃあっす」と省略気味に“不正確に”発音した方が、はるかに自然に聞こえ、日本語として理解されやすくなる。 状況によっては、「ざーす!」と言うだけで、じゅうぶんに日本人らしく聞こえる。 ------------------ 部分的には確かに正しいのだけれど、全体としてみると不調和で正しくない、ということがある。逆に、部分的に“間違える”ことによって、全体としては完璧に正しくなる、ということがある。“科学は存在するものの『部分』を扱い、哲学はその『全体』を扱う。” ―― ハイゼンベルク 一部分だけが正しく美しいものよりも、全体として見たときに正しく美しいと感じるものの方が、心地いい。そういう世界に僕たちは生きているのではないかと思う。
Jul 26, 2004
ふだんより早く目覚める夏の朝。たまった仕事を一気にかたづけるカタルシス。ほてった脳をやわらかくいやす缶コーヒー。新たな一日へのぼんやりとした期待。生きている実感。 -------------------- 少しずつ、努力が結果として現れる。眠くても、疲れていても、とりあえず続けてさえいれば、何事かは成せるもの。そのために犠牲にした時間、犠牲にした生活、犠牲にした人間関係もある。得たものと、失ったもの、どちらが価値があったのかは本当にはわからない。人生においては、どう決断することが正しかったかなんて、わからないことの方が多い。 不確かな前提は、とりあえず棚上げしておけばいい。逡巡したまま何かを失いつづけるよりも、信じた道を歩んで何かを失う方がいい。 “必要なのは、自由ではなく出口である。” ―― カフカ --------------------- 先週末、さゆさんのサイトの54321番目の訪問者だったということで、記念に唄のアルバム・ファイルを頂いた。彼女の唄には、虹やオーロラのような、淡くやわらかに人の心を包む美しさがある。強くアピールしたり押しつけたりするところがない、自然体のままの歌詞、曲、唄声。母胎の中にいるような安心感。ラ・サグラダ・ファミリアのような、人の心を癒す芸術。(←行ったことないけど。爆)週末以来、書斎ではほとんど流しっ放しのBGMとして、何度も繰り返し聴いている。才能の赴くまま、人のため世界のため自分のための活動を次々に自分のペースでこなしていく彼女のライフ・スタイルとも重なり、静かな感動を与えてくれる音楽に、すっかり優しい気持ちにさせられてしまった今日この頃。 “美は、それを認めない者に対しても働きかける。” ―― コクトー
Jul 1, 2004
水泳教室(初級コース)、初日。たいへん御高齢の奥様方の間に混ざって、クロールの基本を習う。最初は、「けのび」や「バタ足」で25m泳ぐことから始まったので、やはり中級者コースから始めた方がよかったかな、と思ったりもした。しかし、徐々にステップ・アップするにしたがって、予想していた以上に充実した内容になったので、感激。これまでは、ただ素早く腕を回して足をバタバタさせればそれなりに進んでしまうのでフォームなどほとんど気にしなかったのだが、今回、少し形を修正されただけで、断然、泳ぐのがスムーズで楽になった。とりわけ、すでに泳げる人向けにインストラクターが解説した「S字プル」は感動ものだった。泳いでいる間、自分の体の周りの水は、自分と平行にタテに動いている。だから、その水の動きに合わせて腕を真っ直ぐに動かすよりも、常に斜めに動かしS字を書くように水を掻く方が、水の抵抗を最大限に活用でき、より大きな推進力が生まれる、というのだ。しかも、真っ直ぐに動かしたときよりも腕が一回に水を掻く時間と距離も長くなるから、一石二鳥というわけだ。まったく理にかなったテクニックである。おそらく小中学校の体育で誰でも習う「常識」なのかもしれないが、こんな技術が存在することさえ、自分の記憶には全く残っていなかった。実際にマスターするには時間がかかりそうだが、この知識だけでも、実に大きな収穫であった。 ----------------------- ところで、僕がこれほど「S字プル」に感動したのには、もう1つ理由がある。この「テクニック」は、どこか人生のアナロジーでもある気がしたからだ。最近の自分は、楽しいこと、得意なことをしつつ、流れにしたがって真っ直ぐに全力で「水をかいていた」つもりだったが、実は、「体全体」はあまり前に進んでいない気がすることがあった。何かの目標に向かうとき、自分の心の一切をそれに集中させ、その目標の方向だけに向かって必死にもがいるときは、空回りしているだけで、あまり前に進まないことがある。しかし、ふと足下を見たとき、あるいは、横にあるものに目を向けたときに、壁を打開する大きなヒントを見つけることができたりするものだ。物事を動かす原動力は、ときに、進む方向とはまったく別の方向に動いている何かだったりするものなのではないか。 “言葉のなかに、動かすことのできない「根源的な意味」があるわけではない。 言葉の「意味」は、言葉が発せられる度に、絶えず、「ずらされて」いるのだ。” ―― ジャック・デリダ ある言葉の意味は、それを発する時や場所とともに変わり、人とともに変わる。例えば、ある人の言う「幸せ」という言葉の意味と、別の人の言う「幸せ」という言葉の意味は、まったく同一ではありえない。人により、時により、場所により、文脈により、ある言葉の意味は、千差万別の「差異」をもつ。 だから、実は存在しない言葉の「本質的な意味」などを探ろうとして汲々とするよりも、人それぞれ、その時その場の、「差異」を楽しんでしまう方がいい。物事の「意味」や「目的」についても、同様だ。「物事はこうあらなければならない」というような常に変わらない同一の意味や目的を求めて齷齪するよりも、刻々と移り変わる状況、刻々と移り変わる人間関係と『戯れて』生きる方が、生きやすい。無理に周囲と同一化しようとしたり、他人を自分と同一化させようとするよりも、それぞれの「違い」を受け入れて生きる方が、生きやすい。 “ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。” ―― 鴨長明そんなことを考えながらの水泳クラス終了後、プールから上がって満足そうに微笑んだ僕を見て、インストラクターも満足そうに微笑み返したのだった。 (そのとき僕が心の中で「方丈記」の一節をつぶやいていたことなど、彼には知る由もない。)
Jun 10, 2004
僕は、占いというものを、神や霊や宇宙人やその他の超常現象と同じくらいに信じている。つまり、あるいはもしかしたら本当かもしれない、という程度に。占いによると、僕にとって今年は天中殺だそうなので、「新しいことは始めない」のが鉄則だそうだ。というわけで、ひねくれ者の僕は、片っ端から新しいことを始めた。そして、どんな不運がやってきてもハネ返せるだけに、魂を鍛えておくことにした。今のところ、すべて不思議なほど、うまくいっている。投資した株が順調に値を上げている。会社との契約更改は恐縮するほど好条件。書いた本はそこそこに売れ、心身ともに充実し、仕事にも私生活にも不満はない。 まあ、後で、どっと不幸が襲ってくるのかもしれないが。。。 ------------------- ふと、立ち止まって、『生きる意味』を求める自分がいる。いま、自分は何をしたいのか。この世に生を受けて、自分にできること、本当に自分がやりたいことは何か。世俗的な成功。内面的な自己修養。この2つは両立できるものだし、また、完全な相関関係があるわけでも全く無関係なわけでもない。社会的な成功など眼中になくても偉大な人間はいるし、逆に、成功によって内面をより大きく成長させていく人間もいる。かつて、哲学者のディオゲネスは、アレクサンダー大王に「何か、私があなたにできることはないか」と訊かれて、「日向ぼっこの邪魔だから、そこをどいてくれ」と言った。そんな人生に憧れたこともあった。人によって人生に求める意味は、さまざまである。自分自身という一個の人間でさえ、時期によって人生観や世界観は常に変わりつづけている。最近の自分は、社会的に認められることに、たまらない充実感とやりがいを感じる。しかし、自分がずっと今のままの生活では満足できないだろうことを、自分自身が一番よく知っている。 心理学者のマズローは、人間の欲求を5段階に分けた。1.生理的欲求 (食欲、排泄、睡眠、性欲などの欲求) 2.安全の欲求 (安心、安定、依存、保護などの欲求) 3.愛と所属の欲求 (他人からの愛情、家族や団体への所属を求める欲求) 4.自尊と承認の欲求 (他人から認められ、賞賛されたいという欲求) 5.自己実現欲求 (自分の能力、可能性をより開花させたいという欲求) 経営学などにも応用されるこのモデルは、確かに、人間のある一面の真実をとらえているかもしれない。しかし、世に出回っているほとんどの「成功のための本」等が、どうしても底の浅いもののように感じられてしまうのは、この5段階の欲求を満足させることを最終目標にしているような人生観に基づいているからだ。生活が安定し、他人から愛され、認められ、能力を開花する。そう、それだけで、確かにすばらしい人生が送れるだろう。しかし、これだけで『満足』してしまっていいのだろうか、と、絶えず問いつづける自分がいる。人生の意味は、自分が「何かをしたい」という欲求など、超越したところにあるのではないだろうか、と。。。 “欲望が小さいほど、人生は幸福である。” ―― トルストイ ああ、そのとおりだ、とつくづく思う。
Mar 26, 2004
飢餓感の欠如。これは、ここ数年間、自分自身の最大の欠点だと認識してきたことだ。才能もなく、家も貧しく、学歴も低い僕は、過去にはそれなりの努力と苦労もした。挫折があった。堕落した日々があった。もうどうでもいいや、と虚無感に浸った日々もあった。前に進もうと必死でもがく日々と、壁にぶつかって諦めてしまう日々の繰り返し。そして、現在の自分に辿り着いた。今の仕事は楽しい。周りの人間も、いいやつばかり。自分の得意なことをしている、という実感がある。やりがいがある。充実感もある。興奮もある。まだまだ通過点でしかないこの場所に、少しばかりの満足感を抱いてもいる。しかし、、、、このままでいいのか、と、絶えず問いかけ続ける、もう一人の自分がいる。たとえば、このまま、お山の大将として、日々、今と同じ仕事を続けている10年後の自分自身を想像すると、背筋がぞっとする。違う。こんなことをするためだけに、自分は生まれてきたのではない。そう叫びつづける自分がいる。少しずつ、少しずつ、前に進んでいる。それはいい。ただ問題は、どこで、どう転んでも、人生は何とかなるという、根本的な部分での根拠のない自信だ。僕は、困難に直面しても、逆境の中でも、心のどこかでは無意識に運命を楽観してきた。だから、自分から積極的に運命に逆らうことをして来なかった。頑張ってさえいれば、結果は、後から着いてくる。失敗を繰り返しながらも、そう信じて、目の前のことに集中してきた。しかし、時として、こういう打たれ強さは、人生においては大きな欠点にもなりうる。人生は、いつからでも、どんな状況からでも、取り返しがつく。これは、事実だ。しかし、その信念が、今のぬるま湯生活の口実にもなっている。もう少し、この甘美な日々を続けてもいいではないか、後でまた走り出せばいいじゃないか。そして、ずるずると堕落した生活に嵌まり、脱け出せなくなる恐怖。。。今日、ふと我に返った。自分の心の中で、小さな炎が再び燃え上がるのを感じた。静かに、しかし、力強く。走ろう。また新たな夢に向かって。全力で。 そう。今からでも、遅くはない。 “最後の一句を、ぼくはぼく自身に向けて綴る。 ぼくは十分に速くあったろうか。” ―― 浅田彰「構造と力」
Mar 11, 2004
なんだか、さっきからずっと、胸が、苦しい。。。。(爆)今日は、久しぶりに、「悔しい」という感情が心に湧いた。しかし、それを顔に出して目の前にいる相手に悟られるのは絶対に避けたかったので、心拍数を無理やり自分でコントロールしようとした。おかげで、顔が不用意に紅潮することは避けられたかもしれないが、代わりに、ちょっと心臓の様子がおかしくなった。数時間たった今も、冠状動脈が収縮したままになっているような、ぎこちない違和感が続いている。帰宅後。何気なく鏡を見上げて、ぎょっとした。より正確には、ゾッとした。ふだんとはあまりに違う自分自身の顔と向き合い、一瞬、戦慄が走る。鳥肌が立つ。鋭い、、、というより、気味が悪いほど危険な眼光が、そこにはあった。そうか、不機嫌なときの自分は、無意識に、こんなにもアブナイ眼で周囲を睨んでいたのか。。。典型的な『三白眼』というものを、こんなに近くで見たのは、初めてのことかもしれない。ふむ。。。。油断すると、やはり内面がそのまま外観に現れてしまうものなのだな。男たるもの、自分の表情には責任を持つべきだ。すなわち、自分の心の在り方には、責任を持つべきだ。 “明晰と良心は、手をたずさえてやって来る。” ―― プラトン
Mar 8, 2004
「そんな当たり前のこと、わかってるよ。」そう言われてこそ、本望だ。真実は、とてもシンプルなものだ。しかし、最も大切なことは、その簡明な真実に気づいて、忠実に実践しているかどうかということなのだ。 “「理解」とは、何をすべきかを知ることであり、 「知恵」とは、次に何をすべきかを知ることであり、 「徳」とは、実際に行うことだ。” ―― トリスタン・ギルバード ------------------ 怒らなければいい、というものではない。不機嫌そうな顔をみせなければいい、というものではない。「嫌な顔一つせず、、、、」というのは、本当に嫌がっていない人だけができる特権だ。見せかけだけ繕っても、ダメだよ。 ------------------ 友人のS―― が本社の人間から誘われて、来月からシリコンバレーで働くことになったそうだ。短くて数か月、長くて数年。せっかく週末に気分転換のための良きパートナーができたと思っていたのに、今回は何とも短い接点だった。少し淋しい気もするけれど、彼女のキャリアにとっては喜ばしいことだから、大いに祝ってあげた。日・韓・英語が堪能、米国で修士号を取得後、超一流企業を転々とし、年に数回の出張で世界各地を旅したり、ハイテク産業のメッカでマーケティングの経験を積んだり、、、、次々と自分のやりたいことを実現していく彼女は、うらやましいほど輝いている。輝いている、はずなのだが・・・・そんな彼女も、先週の日曜日など、ビデオを10本(!)連続で観て、「あ~、退屈な一日だった」などと、のたまったりする。出張があると、「もう~、ほんと、めんどくさいんだよー」などと、不平を言い出す。そして、「仕事ばっかりしてるうちに、どんどん歳を取って私の“市場価値”が低くなってくのが悲しいわ~」と、ぼやいたりする。根本的に、怠惰で、後ろ向きで、愚痴っぽい性格は、相変わらず。。。。しかし、ともかくも“放浪”を続けている限り、彼女は彼女自身であり続けることができる。 次に会うのが何年後になるかわからないが、再会する時の彼女の成長ぶりが、今から楽しみだ。 ------------------ 刑事訴訟法を改正して、捜査段階の被疑者にも公費で国選弁護人がつけられるようにする法案が今国会に提出されるそうだ。大賛成。これまでは起訴されて被告人になってからでないと国選弁護人は付かないシステムだったから、アメリカなどとは違って、私費で弁護士を雇えない人は、わけのわからないまま孤独に警察の取調べに耐えなければならなかった。しかし、今度の法案が可決されれば、収入が低くて弁護士を雇えないことを証明すれば、起訴される前でも、国費で弁護人がつく。こんなふうに、お金持ちと貧乏人の不公平を埋めていく制度は、どんどん取り入れていくべきだと思う。さらに言えば、罰金制度も、フィンランドのように収入によって罰金額を変えるようなシステムにした方が、公平になるのではないだろうか。例えば、生活が苦しい人にとって数十万円の罰金は死活の問題であるのに、裕福な人にとっては、痛くも痒くもない金額だ。同じ罪を犯したのに、刑罰が与える「苦痛」の度合いが人によって大きく異なるというのは、明らかに不合理で不公平だと思う。罰金額を税額と対応させて、誰にとっても、それなりに「痛い」金額にした方が、正義は全うされるのではないか。“刑罰がその効果を上げるためには、犯罪者にとって刑罰による損失が 犯罪による利益を上回れば十分である。” ―― ベッカリーア 犯罪を犯すことで「失うもの」の大きさは、できる限り平等であるべきなのだ。
Feb 19, 2004
運がいいときも、ピンチのときも、ぬるま湯のときも、ぜんぶ、自分の人生。ヨコから、ああだこうだと言われたくないよ。チェスや将棋をしているときに、わかった風な顔をして横から「アドバイス」をされることほど、鬱陶しいものはない。こんな生き方で申し訳ないけど、自分は、自分の人生を精一杯、生きているんだ。あなたのような達人でなくても、いや、達人でないからこそ、こんなにも人生が楽しくて切なくて苦しくて哀しくて面白いのかもしれないよ。え?それじゃ、「勝てない」って?だから、そんなことは二の次なんだ。人生の終わりに何があるかではなくて、今、どんなふうに自分を生きているかが問題なんだ。あれ。 ところで・・・・。これって、どうなったら、「勝ち」なんだい? ------------------- プロとアマの差は、能力の差というよりも、根性と執念の差なのではないか。自分の夢や目標のために、それまで、何を犠牲にしてきたか、の差であると言ってもいい。馬鹿馬鹿しいほど退屈な作業や、当たり前すぎる基本的な仕事を、手を抜かず反復継続できたかどうかの差なのだと思う。そのために、どれだけ膨大な時間を惜しまずに注ぎ込んできたか、の違いだと思う。 “他人が自分より多くのものを持っている限り、人は自分の運命に不満を感じるものである。 そしてこの羨望感は、その人が身近であるほど強く働く。” ―― ガルブレイス その「多くのもの」を手に入れるために、その人がそれまで何を犠牲にしてきたかを、人は知らない。 -------------------- レンタル・ビデオ店で。ビデオを選びながら、店内に流れるBGMに合わせて微妙に踊っている女の子がいた。その至福に満ちた表情につい気をとられていたら、棚のDVDを取り損ねて落としてしまった。DVDのケースは、棚にぶつかって回転しながら落ちた。そして、右の手の甲にケースの角がぶつかった時には、相当の遠心力が加わり、尿管結石の時以来の激痛が、脳天まで走った。うぉっ。。。つぅぅ・・・・。不覚にも、声が出てしまった。しばらく、右手がまったく動かせなかった。それでも、、、女の子は、幸せそうに踊り続けていた。 -------------------- 受話器の向こうで、君が笑う。その声を聞けただけで、君が心底おかしそうに笑う、その声を聞いただけで、どれほど僕が元気になるかきっと君には、想像もつかない。 -------------------- アメリカで、ケーブル・テレビを解約したにもかかわらず、ケーブル会社のミスにより、そのまま無料で番組を見ることができたというラッキーな人がいた。しかし、その男は昨年、ケーブル会社相手に「慰謝料を払え、さもなければ訴訟を起こす」と脅した。その理由が、すごい。「私がタバコを吸い続けたり酒を飲み続けたり、妻がどんどん太っていったりしたのは、私たち二人がこの4年間、毎日、無料でケーブル・テレビの番組を見続けることができてしまったからだ」 しかし、こんな呆気に取られる言い分でも、弁護士さえ優秀なら、訴訟に勝ってしまったり、高額の和解金が取れたりしてしまうのが、アメリカの司法システムの素敵なところだ。 “法の精神とは、論理ではなく経験である。” ―― ホームズ判事 真の正義とは、知性によるものでも感性によるものでもなく、実践理性によってこそ実現されうるものだと、カントは言った。 どんなに完全無欠な理論で固めてその場にいる人を説き伏せることができたとしても、その結論が多くの人にとって心から納得できるものでなければ、正義とは呼べないのだ。
Jan 21, 2004
ゴールに辿り着く前に倒れてもいい。何度、倒されてもいい。前のめりに倒れよう。たとえ、その場で力尽きても倒れると同時に、ゴールに届く可能性がある。後ろ向きに倒れてしまったら奇蹟は決して起こらない。 ---------------------- 人間のタイプを「農耕民族」「狩猟民族」「放浪民族」に分けるとすれば、自分は間違いなく狩猟民族に属するだろう。短期集中、一撃必殺型。目の前に餌が見えていないと、自分から動く気になれない。逆に、おいしそうな獲物が逃げていくのを見ると本能的に全力で追いかけてしまう。待つときは気長だが、いったん動き出したら、わき目もふらない。そして、自分の目の届かないところに逃げてしまった獲物に対しては、諦めが早い。・・・・要するに、最も単細胞な人種ということだ。そんな僕が、これまで魅力を感じたことのある女性は、ことごとく「放浪民族」だった。彼女たちは、定期的に世界中を飛び回っていないと落ち着かない性格だった。だから、同じ場所にとどまって獲物を待つだけの僕とは、所詮、点と線の交わりでしかなかったわけだ。どちらかが生き方を変えない限り、関係が続くことはない。 ・・・・と、いうのは、しかし、口実であって。実際、「民族の違い」を乗り越えるだけの吸引力が、二人の間には存在しなかったというだけのことだろう。関係が、人間を決めるのではない。人間が、関係を決めるのだ。 人には、運命を受け入れるか、拒絶するかの自由が与えられている。今思えば、運命を拒絶することを選ばなかったのは、自分たちの意思だった。 “ 愛情には一つの法則しかない。それは、愛する人を幸福にすることだ。” ―― スタンダール 僕という人間は、自分自身が幸福にできない女性を、本気で愛することはできないのだろうか。 ---------------------- 29日に、弟2人が、それぞれ妻子や恋人を連れて泊まりにくることになっていた。だから、張り切って大掃除をしたり、人数分の座布団を買ってきたりした。しかし、今日、2番目の弟から連絡があり、急に仕事が入ってしまい来られなくなったとのこと。残念。何だか急に力が抜けて、ムダになった5枚の新しい座布団を日向に並べて、寝転んだ。これはこれで、なかなか気持ちがよかった。 “ 休憩が喜悦ならば、それをもたらしたのは勤労である。” ―― カント
Dec 27, 2003
「打てば響く人」というのは、まさに、こういう人のことを言うのだろう。いつもと同じ事をしていても、相手次第でこんなに変わるものか、と感心してしまった。客観的に考えると、どこをどう見ても切羽詰っているはずなのに、言動がことごとくユーモラスで、笑いが絶えない。自分の置かれた状況を内側からも外側からも見ることができて、それを笑い飛ばしながらも誠実に真摯に、やるべきことに取り組む姿勢。求められている物事の本質が、本能的にわかってしまう人なのかもしれない、と思った。かつて、島田紳介が、駆け出しの頃のダウンタウンを評して、「こっちから球を投げてやっても、ゆるい球しか返して来ない若手連中ばっかりの中で、あいつらだけは、いつもズバッと気持ちのいい速球を投げ返して来た」と、言っていたのを思い出した。そう言えば、僕なんか、いつも小ざかしい変化球の投げ方ばかり考えてる気がするな・・・・。今日のこの人は、間違ったことを言うときでも、自信を持って堂々と間違う。そして、訂正すべきところは、素直に訂正する。直球勝負だから、気持ちがいい。空振り三振をするときでも「絵」になったという長島茂雄のプレーを観ているような、何とも爽やかな気分にさせられてしまった。 “西郷隆盛は、大鐘のような人物だ。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。” ―― 坂本竜馬 大人物というのは、ちょっと接するだけで、その大きさを嫌でも感じさせてくれるものだ。 --------------------- ところで、僕の携帯の迷惑メールが異常に多かったのは、メールアドレスがシンプルすぎるためだったようだ。なるほど・・・・。迷惑メールを作成する業者は、コンピュータで無作為に綴りを選んで送りつけるわけだから、それを避けるには、アドレスは複雑な方がいいわけだ。それにしても、、、、、カメラのシャッター音の自主規制の件もそうだが、一部の悪質な人間の迷惑行為を防止するために、その他の実に多くの人々の便利さが犠牲にされるという現実には、どうも、納得がいかない。 犠牲を強いられるべきなのは、善良な使用者の方ではなく、悪質な犯罪者の方ではないか。 “完全に最適な配分は、すべての構成員の全員一致によっては変更することができない。” ―― パレート 人の感じる「便利さ」や「不便さ」というものは、数値化しにくいから、厄介だ。 だから、何が最適な配分か、どうすれば効率を最大化できるかを計算することは、困難だ。 しかし、、、、1つの小さな犯罪が、社会全体の便益を大きく減少させてしまうことを、許したままでいいのか、人類。たった一度のテロ行為のために、世界中の人々が震撼し、航空会社や旅行業者が致命的なダメージを被ってしまうという世の中の仕組みは、どう考えても、おかしい。犯罪や迷惑行為によって自らの権利や幸福を追求しようとする人間が得をして、その他の多くの人々が損をするような社会のままでは、いけないのだ。「悪いことをするのは、割に合わない」ような社会にすることが先決だろう。 法的にも経済的にも心理的にも宗教的にも、ともかくあらゆる面で、「悪いことをしたら、損をする」社会にしてしまえば、打算的な動物である人間は、そうそう犯罪などしなくなるものだ。 “ 20%の商品が、総売上の80%をもたらす。” ―― パレート しかし、社会の80%の人の行動を、20%の悪人が決定することを許す社会であっては、いけないのだ。
Dec 10, 2003
あまり詳しいことは書けないが、かつて、2度ほど、それぞれ別の人から、ある犯罪をしてくれないかと強く依頼されたことがある。いずれの場合も、本人たちは後がない崖っ淵に立たされたような状況で、人生的に切羽詰っていた。「ご迷惑はおかけしません。相当の報酬はお支払いします。」いや、、犯罪を唆している時点で、すでに十分に迷惑かけてますが、、、、と言いたくなったが、もちろん本人は必死であり、真剣そのものだったから、僕は黙って聴いていた。そして、発覚する可能性が極めて低いことや、発覚した場合は依頼者である自分が全面的に責任を持つことを強調された。「どうか、人助けだと思って、お願いします。」・・・・・・。この言葉に弱い僕は、そのとき、ちょっと打算的な思考をしてしまった。「法の遵守」と、「人間の幸福」を天秤に掛ければ、一人の人間の幸福の方が大事に決まっている。良心が咎めるような違法行為というわけでもない。破っても、誰にも迷惑がかからない法律だった。一度目は、発覚するリスクがやはり小さいとは言えなかったので、それを口実にして、すぐに断った。しかし、二度目のときは、発覚のリスクは確かに小さいかもしれなかった。自分がちょっとだけ危険を冒すことで、この人の人生が救われるのなら・・・・どうせ失うものは何もない自分だった。現在の地位や財産など、命ある限り、どうとでもなる。人の心さえ失わなければ、そして、人の道さえ踏み外さなければ、他のことは、どうにでもなる。万一、自分が刑罰を受けるような事態になったとしても、それで自分の良心が大いに満足するなら、それも1つの生き方かもしれない、とも思った。心が動いた。2日間くらい、迷っていただろうか。急に、怖くなった。恐怖が襲うと同時に、突然、全身に鳥肌と震えが走った。自分には、「失うもの」があることを思い出したのだ。・・・・そのとき自分の心に浮かんだのは、両親の顔や、親しい友人たちの顔だった。彼らの失望に満ちた悲しい表情だった。彼らの信頼を失うのは、何よりも、怖かった。結局、依頼した人には、誠意を込めて自分にはできないことを説明することにした。あるいは、、、、そのとき、その行為をしていたら、今の自分は存在していなかったかもしれない。あるいは、そのとき、その行為をしていたとしても、その後の自分の人生には何の変化も起こらなかったかもしれない。どちらが、本当に「正しかった」のかは、よくわからない。しかし、今では、感謝している。自分が愛する人々の存在を。自分を愛してくれる人々の存在を。法も、道徳も、良心も、理性も、その時の僕の行動を止めてくれるものが何も自分の中にはなかったときに、自分の愛する人間たちの顔が、それを許してくれなかったことを、心の底から誇りに思う。 “ 刑罰の本質は応報であり、その内容は苦痛である。 そして、目的は社会秩序の維持である。” ―― 瀧川幸辰刑罰には、止めることができない犯罪もある。 人の愛だけが、止めることのできる犯罪もある。 ---------------- あの時、自分が何もしなかったことは、長い目で見れば、依頼した彼らのためにもなったのだと、信じたい。そのとき、その場で、苦しんでいる人間の困窮を和らげることだけが、「人助け」ではないこともあるはずだ。
Dec 5, 2003
夜のラッシュ時。発車前の、静まり返った電車に、携帯電話で話しながら乗り込んできた女の子がいた。僕自身は、それほどマナー違反は気にしないほうなのだが、周囲の人が不愉快に思うことに対して同情してしまう性格なので、ちょっと心配しながら、女の子を見ていた。(←こういうのを「気にする」とも言う)女の子は、延々と数分間、それほど小さくない声で、話しつづけていた。そして、扉が閉まり、電車が走り出したとき、慌てて言う。「あ、電車が動き出したから、切るね」電話を切る女の子。・・・・・・。ちょっとだけ、違うと思うぞー。 --------------- 新人研修があった。今日は、かなり、べた誉めされてしまった。それにしても、この人は、やはり、話がムダに長い。僕がこれまで確立してきたメソッドが、いかにこの分野で「草分け」的な意味を持っているかということを、延々と、数十分かけて話してくれる。今回の研修では、すべて彼の希望どおりのペースで進めることにしていたので、とりあえず、素直に相槌を打ちながら聞いていた。しかし、彼が伝えたかった気持ちは、最初の方の二言、三言でじゅうぶんに伝わっていた。だから、彼がそれを敷衍して説明するだけの数十分間は、僕にとっては単なる忍耐になった。それに、、、、「最初に創った」などと言われて、うぬぼれる僕じゃないよ。この宇宙の創造主でもない限り、すべてを一から創り出すことなんて、できるはずがない。 " If I have seen further, it is by standing on the shoulders of Giants."“もし、私が人より遠くを見ることができたとすれば、 それは巨人たちの肩に乗せてもらっているからだ。” ―― アイザック・ニュートン 過去の先人たちの偉大な業績があったからこそ、そして、それらが確固とした土台になっているからこそ、僕たちは、先人たちよりも高い場所に立つことができるのだ。
Dec 2, 2003
連日、同じ人間とばかり顔を合わせながら仕事をする日々が続いていた。和気藹々と仕事が進む途中、ある時、ちょっとした意見の食い違いが起きた。こっちは、相手が悪いと思っている。相手も、こっちが悪いと思っている。気まずい沈黙が流れるまま、時が経過する。そんなとき、両者の共通の敵が、ふいにその場に登場する。一瞬にして、今まで対立していた二人は、手を結ぶ。これほど、「敵」の存在を感謝したことは、今までなかった。 ------------ 週末が終わり、台風一過。・・・と、期待していたら、来週もまた、休日がなくなることが判明した。帰宅すると、途端に疲れが出た。少し寝転ぶ。疲れが取れない。どうして疲労というのは、事が過ぎ去った後にどっとやって来るのだろう、、、、、と、考えてみて、ふと思った。実は、仕事をしている時は、今よりはるかに疲れていたはずなのだ。しかし、それでも休めないので何とか頑張ってしまっていたか、あるいは、それに気づかないほど夢中だっただけなのだ。だから、家に帰って「頑張らない」ことに決めた瞬間、疲労感に負けてしまうのだ。ためしに、家でも「頑張る」ことにした。すると、ちょっと疲れが飛んだ。単純なやつだ。------------- 朝、出勤するときに気づいたのだが、昨夜は部屋の鍵をかけ忘れていた。それでも何事もなく一夜明け、平和な日本に、感謝。 ------------- 以前、働いていた職場で、いつも客に対しては非常に物腰の丁寧な同僚がいた。しかし彼は、仕事仲間に対してはある意味ぶっきらぼうな口調で接するので、その変わり身ぶりに驚いたことがあった。が、ある時、この人と初めて食事に行った時、さらにびっくりさせられた。彼がウェイトレスを呼び止めるときの「すいません!」が、やけに声が大きく、しかも、なぜか露骨にカドがあり、何とも不快な響きがしたのだ。そして、ウェイトレスがやって来ると、空のコップをテーブルに、ごつんとぶつけて、「水がないよ」というジェスチャーをする。無言で。ウェイトレスは、あわてて水を取りに行く。その一部始終を見て僕が首をかしげているのに気づいた彼は、言い訳するように言った。「俺は、気が利かないヤツは、大っ嫌いなんですよ」ますます、首をかしげた僕だった。なぜ、「客」になったからといって、そんなに急に尊大に振舞う必要があるのだろう。いくらかのお金を払って「客」という身分を買った途端に、「威張る権利」を手に入れたことになるとでも、考えてしまうのだろうか。買主と売主の関係は、主人と奴隷の関係か何かだと勘違いしているのだろうか。 ------------- そんなことを思い出したのは、最近、近所にオープンした新しい理容店の前を通りかかったからだ。一度、その店に入ったことがあるが、そこの店主は、仕事ぶりや客に対する態度はとても丁寧だが、助手に対しては、終始、あまりにも傲慢で不遜な態度で接していた。不機嫌そうに助手にあれこれ叱りながら、溜め息をつきながら命令する口調が耳について、こっちまで不愉快になった。その理容店には、二度と行く気がしなくなった。 “古代法から近代法への変遷の歴史は、「身分」から「契約」への変遷の歴史である。” ―― H. J. S. メーン 売主と買主、雇用者と従業員、上司と部下、、、、これらを未だに「身分」関係だと考えている人々は、資本主義が発達した現代においても、驚くほど多いのだ。
Nov 30, 2003
「長時間、ただひたすら話す」というだけの作業に心身ともに疲れたので、今日は、いつもよりテンションを下げることにした。すると、早口が、驚くほど直った。ボードに何か書くときも、話のテンポを意識せず、ゆっくり丁寧に書いた。すると、当然のことながら、いつもより見やすい字になった。しかも、何よりも重要なことに、自分自身が、今までより疲れなかった。なんだ、これでいいのか、と、今日はとても大切なことを学べた気がした。何事においても、自分だけ空回りしていては、ムダにエネルギーを消費するだけなんだな。 ------------- サントリー ボス「仕事中」に、はまっている。ネーミングのうまさのせいか。初めて飲んだとき、これほどうまい缶コーヒーを飲んだことはなかった、という気にさせられた。人は、名前に簡単にだまされるものだな。 ------------- 尊敬する先輩がいた。僕がまだ駆け出しのひよっこ講師だった頃、会社を辞める直前に僕の授業を見て、コメントをくれた。彼は、授業の途中で抜けて、置手紙のように紙片にコメントだけを残し、去っていった。それ以来、7年近く、会ってない。紙片には、こんなふうに書いてあった。「ところどころに経験を生かした説明、いいんじゃない。あとは、自分のスタイルのフォーマット化だね」そう、この「自分のスタイルのフォーマット化」という言葉に、僕はどれほどインスピレーションを与えてもらったか知れない。現在、僕のスタイルがこの分野で教祖的な扱いを受けているとすれば、その発想の原点は、この先輩が残してくれた、一枚の紙片にある。“偉大な人物はいるだけで光を放ち、まわりの人の心を照らす。 そして、消えたときにどうしようもなく重い影を落とす。” ―― 吉本ばなな ------------- 素朴な疑問: パスタにはいろいろな形があるのに、どうしてラーメンには、細長い形態しか存在しないのだろう。 マカロニやラザニアのような形をしたラーメンがあれば、食べるよ。(たぶん) ------------- それにしても、どうしてこう忙しいときになると皆、後から後から仕事をくれるのだろう。仕事が喉から手が出るほど欲しいときには、くれないのに・・・・。 それでも、断れない性格の自分がいる。 というより、何となく、片っ端からすべてこなせるという根拠のない自信を抱く自分がいる。 “人生において何より難しいのは、「自分の嘘を信じない」ということだ。” ―― ドストエフスキー
Nov 27, 2003
たった数時間で、げっそりと疲れる日々。休みながらだと何度でも簡単に繰り返すことができることでも、休まずに連続して行うことは、不可能なこともあるのだと、痛感。そう言えば、あるテレビ番組で、逆立ちで100メートル進むのに挑戦していたのを思い出した。たった100メートル歩くという簡単なことが、逆立ちでするとなると、オリンピック選手も、中国雑技団のメンバーも、どんなに体力自慢の人間も、誰一人として成功できなかったのが、興味深かった。今やっている仕事も、簡単に見えて実は、逆立ちで休まずに歩こうとしているようなものなのかもしれない、と、今日初めて、その大変さを実感したのだった。 ------------- 人があるものを心から愛しむことができるのは、それがなくなったときの悲しみを知ったときなのではないかと思う。喪失感を知ったとき、はじめて執着心が生まれる。失ってからでないと何も気づかない、自分のような人間の場合は、特に・・・。“ 生きることへの絶望なくして、生きることへの愛はない。” ―― カミュ ------------- ある受講生が、試験直前に個別指導をした際、「練習ではだいたいこんな正解率ですが、本番では今よりもっと集中力が上がると思うので、正解率も、もう少し上がると思うんです」と言っていた。僕は不思議に思って、「え?・・・なぜ本番のほうが集中力・正解率が上がると思うんですか?」と尋ねてみた。すると、「その日は強力な栄養ドリンクを飲んで、朝食はバナナで即効の炭水化物を摂取したりするのと、プレッシャーがかかるからいつもより本気になるので、集中力も今とは全然違うはずだからです」という答え。その人は、結局、本番では散々な結果に終わってしまった。やはり、大事な本番だからといって、いや、大事な場面だからこそ、普段の練習と違うことをすれば、普段の実力以上を発揮できるどころか、実力が空回りするだけになるのではないか、と思う。実際、試験で受験者が「大崩れ」するのは、疲労による集中力欠如よりも、興奮状態による知識の空回りが原因であることの方が、圧倒的に多い。だから、特に本番のプレッシャーに弱い人には、カフェインや炭水化物の過剰摂取よりも、普段どおり適度な食事と適度な水分を摂取し、体調の調整のために「特別なことは何もしない」ことを奨めている。『練習は本番の如く、本番は練習の如く』が、理想なのではないか。 -------------- ところで、今日は、新調したスーツの裾の部分の固定糸を取らないまま会社に行ってしまい、スタッフに指摘されて、はじめて気づいた。ハズカシイ。。。以前も、クリーニング店の札を取らないままのズボンに気づかず、危うくそのまま授業に出るところだったということがある。その時もやはり、スタッフに指摘されて「命拾い」をした。というより、しかし、クリーニング店の札がついたまま、あるいは糸がついたまま電車で会社に行った時点で、すでにかなり恥をかいていたことになるのだが。。。 ------------- 働かない「働きアリ」が巣の中に存在する方が、存在しない巣に比べて仕事の効率がよい、という観察結果があるそうだ。研究によると、「優秀な個体だけでは、集団の生産性は最大にならない」という。短絡的な類推だが、こういうことは、人間社会にも十分あてはまるのではないかと思う。小さな組織や集団なら、ある一定の価値観から「優秀」とみなされる人間だけを集めて生産性を最大にすることができるかもしれない。しかし、国全体、世界全体という視野で考えると、「優秀な働き者」ばかりでは、飛躍的な進歩や創造性は生まれないだろう。常軌を逸した「はぐれ者」や、社会に依存する「怠け者」がいるからこそ、この社会は進歩や革新を遂げることができるのではないか。労働が生み出した剰余価値を一部の人間に集めず、労働者にそのまま還元しようと試みて失敗した例に、ソ連をはじめとした共産主義国家がある。個々人の差異に応じて、実質的な平等社会を目指すのは、いい。しかし、だれもが「優秀な働きアリ」になろうとする必要は、本当はなかったのではないか。汗水流して人のために尽くす人、濡れ手に粟で甘い汁を吸う人、何かをする気力も野心もない人、人々に夢を与える人、人々の夢を食べる人、、、、多種多様な人間の存在を許すからこそ、何だかんだと矛盾を抱えながらも資本主義社会はうまく機能しているのではないだろうか。生物界全体においても、そうだ。この世界は、「優秀」とみなされる個体と、そうでない個体とが共存するからこそ、バランスよく繁栄することができるのではないか。もし「下等」な生物がこの世界に不要な存在なら、魚類やミミズやバクテリアは、とっくに絶滅しているはずだ。「高等」な生物だけでは生きていけないからこそ、この世界には、実に多様な生物が存在するのだ。 “世界には、何もいけないことはない。いけないのは、僕らが世界を見るその見方だ。” ―― ヘンリー・ミラー
Nov 26, 2003
渋谷駅前のストリート・ミュージシャンたちの音楽が、耳に心地よく響く今日この頃。いつも通り街を歩いていても、不思議と微笑ましい光景が目に飛び込んでくる。 家の近くの駅で。階段の下のほうから、何度も振り返りながら上の方を見上げていた女性がいた。一歩、降りるたびに、上を向く。明らかに、挙動不審だった。しかし、しばらくすると、思いついたように走って駆け上っていき、上にいた小さなお婆さんに、「荷物、お持ちしますよ」と声をかけた。どうやら、お婆さんが、1人で持って降りられないほど買い物をしてしまって立ち往生していたのを、心配して見ていたらしい。いえ、いいですよ、だいじょうぶですよ、と遠慮するお婆さんに構わず、「下に置いときますから」と言って、女性は大きな荷物を運んでいた。とても魅力的な人間に見えた。 ------------- 渋谷の歩道橋で。目の前を歩いているお婆さんが、捨ててあった雨にぬれた空き缶を1つ、拾い上げた。どうするのかと思って見ていたら、一番近くの(しかしかなり離れた場所にある)ゴミ箱まで運んでいったのだった。お婆さんは、当然のように空き缶をゴミ箱の中に落とし、雨の中を去っていった。とても魅力的な人間に見えた。 ------------- 昨日は、初めての経験ばかりだったので疲れたが、今日は、体も慣れてきたのか、意外に疲労感が少なかった。何だか、自分で思うほど(そして他人に思われているほど)、今の自分は忙しくないのではないか、という気がしてきた。“苦悩する感情は、我々がその感情の姿をはっきりと正確に 描写できた時点で、苦悩することを止める。” ―― スピノザ -------------- アメリカ、カンザス州の小さな町で銃と弾薬の所持を義務付ける条例が可決されたそうだ。銃を持たなければ、10ドルの罰金を科せられるという。(10ドルって・・・)しかも、この人口210人の町の議会は、議員が5人。3対2の多数決で、条例は可決されたそうだ。・・・・・・。アメリカという国は、世界中の人々を笑わせるために存在しているのではないかと思うことが、時々ある。 “いいよね~、アメリカは、バカで。” ―― ビートたけし (シュワルツェネガー知事当選を聞いて) ともかくも、僕たちを呆れさせることに関しては、超一流の才能を備えている国であるということは確かだ。 ------------- しかし、そういえば、わが国の小泉首相も、「故郷の島根県松江市は、治安がいいため、玄関に鍵をかけていない家が、今でも多い」などと、自慢気に言っていたっけ。そして、「そんなことを総理が言ったら、全国の泥棒が松江市に集まってしまうではないか」と叱られ、反省していた。おバカさ加減では、日本の首相もアメリカに負けていないので、安心だ。(安心なのか??) ------------- 人間関係というのは、歯車の噛み合いみたいなものだな。相手との歯車が噛み合うまで、相手のスピードに合わせてスロー・ダウンしないと、自分だけ独りで空回りしてしまい、余計なエネルギーを使うだけでなく、摩擦熱で焼け散ってしまうかもしれない。独りだけでものを考えていると、視点が鋭角的になる。噛み合わないものを無理に噛み合わせることが正義だという思い込みに陥る。 “人の悟りをうる、水に月のやどるがごとし。 月ぬれず、水やぶれず。” ―― 道元
Nov 25, 2003
(昨日のつづき) 冷凍庫の場合、一部を「空」にしておくよりも、ぎゅうぎゅうに食品を詰めておく方が、消費電力が小さくなる。逆に、冷やすべき物が少ないほど、消費する電力量が多くなる。こんなふうに一見すると矛盾した現象が起こる秘密は、「空気」にあった。食品が少ない方の冷凍庫では、「空」に見える部分が、実際には「空気」で満たされている。一定量の空気を氷点以下に保つ方が、同じ量の食品を氷点以下に保つよりもより大きなエネルギーを必要とする。だから、食品で冷凍庫内を満たして空気の量をできるだけ少なくした方が、電力の消費は少なくて済むわけだ。(ちなみに、冷蔵庫の場合は空気の対流によって庫内を冷やすため、内部にゆとりがあった方が冷却効率がいい。) ------------ 目に見えるもの、形あるものだけに目を奪われて物事の大小を判断すると、ときに大切なことを見失ってしまうことがある。目に見えないもの、形のないものの方が、より重い意味を持つこともある。 “建物が存在する意味は、屋根や壁にではなく、その内部空間にある。” ―― 老子 そうか、うちの母は、老子の教えを忠実に実践していたわけだ。(↑絶対に違うと思う)
Nov 22, 2003
少し前に、わが父の恐るべき金銭感覚について書いたが、わが母の経済感覚にも、別の意味で、驚愕させられることが、しばしばある。簡単に言うと、母は、ドケチ、、いや、実に、たいへんな倹約家なのである。<事例1>僕が、コーヒーを飲もうと、やかんでお湯を沸かそうとした。すると、母は、「コーヒー1杯のために、そんなにたくさんお湯がいるのかい!?」と、わざとらしいくらいに目を丸くして、驚いてみせる。たくさんって、、、3~4杯分しか入れてないのに。しかたないので、僕はコーヒーカップで1~2杯分程度の分量を計り、温め直した。<事例2>日本酒を熱燗で飲んでいた父が、コップに半分くらい酒を残す。すると、母は、なんと、すでに熱燗にしてしまった酒をもう一度、一升瓶に戻して「再利用」してしまうのだ。(もちろん、僕は、実家に帰ったときは日本酒を勧められても、それが新品でない限り固く遠慮することにしている。)ちなみにウィスキーは、シーバス・リーガルの瓶に、ニッカ・ウィスキーを何度も詰め替えて、「お客様用」にしているようだ。<事例3>母は、余ったおかずだけでなく、小皿に残った醤油でさえも、次の食事のためにラップをかけて取っておく。もちろん、他の家族はそんな再利用の醤油は嫌がるから、母だけがそれを使う。あるとき、僕が使い残した醤油を見て、母が、「それ、ラップして取っといてな」と言うので、そのとおりにした。すると、「ああ~、また、ずいぶんと気前よく切るもんだなー」と言う。どうやら、僕が使ったラップが長すぎたらしく、母は、ひきつった苦笑いを浮かべていた。もう、わけがわからなくなる。<事例4>そんな母だから、スーパーで買い物をするときなどは、できるだけ量が多くて割安なものを買い込む。そのため、実家に3台もある冷蔵庫は、常にどれも食品がぎゅうぎゅうに詰まっている。先日、帰省した時に冷凍庫を空けたら、ぎっしり詰まった食品の中に、なんと、カチカチに冷凍された納豆が混ざっていた。間違えて入れたのかと思って尋ねてみると、「凍らせとけば、賞味期限に関係なくいつまでも食べられるんだ」と、満足げな母。・・・・・・・。そういうのって、ほんとうに経済的なのかあ、、、と、僕は、ただ呆れるしかなかった。“倹約は、たやすく成り易き筋に力を尽すべし。 むつかしく成りがたき筋に心を労すべからず。” ―― 上杉鷹山 --------------- ところで、事実、冷蔵庫の場合と違い、冷凍庫の場合は、母のやり方のようにぎっしりと食品を詰め込んだ方が、一部を空っぽにしておくよりも、通常は消費電力が少なくて済む。「冷やすべき物が多いほど、電力が少なくて済む」という、一見矛盾した現象が起こるのだ。その理由は、、、、 (つづく)
Nov 21, 2003
ところで、僕は、よい本とおいしいラーメンがあれば、それで満足な人間だ。いや、よい本とおいしいラーメンがなくても、とても満足な人間だ。独りでいるときも、人といるときも。人生の儚さに思いを馳せているときも、目の前の事で頭がいっぱいのときも。虚しさや憂鬱や悲しみや気だるさや絶望を、心の友として生きている自分がいる。単調な快楽が続く日常は退屈だが、単調な虚無感に襲われる日常には、少なくともそれに抵抗する楽しみがある。“ 淋しさこそが、創作の魂だ。” ―― 魯迅かつて、ずっと以前働いていた職場に、ほとんど毎日のように癇癪を起こしているとても短気な同僚がいた。彼は常に不機嫌で、他人に対しても、物事に対しても、自分に対しても、些細なことで怒っていた。彼の言い分が正しいことも多かったが、しかし、それほど怒るべきことでもないということが、実に多かった。こんな人生を続けていたら、疲れるだろうな、不幸だろうな、楽しくないだろうな、と思いながら、毎日、僕たちは、この怒る同僚に同情していた。しかし、あるとき、彼を観察していて、ふと気づいた。この人は、怒っているときが、実は「楽しい」のだ、と。怒っても意味がないことに対して怒ることに、ある種の快楽を感じる人だったのだ。確かに、怒ることが自分にとって不快なことなら、とっくに止めていただろう。人間は、虚しさも鬱も怒りも寂しさも痛みも苦しみも、人生の楽しさの一部に変えてしまうことができる生き物なのだな、と感心したものだった。"That will make everybody happy.""It won’t make ME happy.""....Maybe you’re incapable of being happy."「そうすれば、みんなハッピーになる」「私はハッピーにならないわ」「・・・たぶん、君にはハッピーになる能力がないんだね」 ―― 映画「ハンニバル」よりそう。人が幸せになるには、明らかに才能が必要だ。---------------話は変わって、小学2年生のときのこと。下校時に、校門の前で日本語のうまい外国人宣教師が紙芝居をしながら熱心に布教活動をしていた。「なぜ、キリストは水の上を歩いたり、病気の人を治すことができたのでしょう?」「神さまだから」と1人の子どもが答えた。「はい。そのとおりです」と宣教師。「え!?」と、僕は思った。さっき、「キリストは神の子」って言ってたのに、、、「キリスト=神さま」??もちろん当時は、「三位一体」なんて概念を知ってるはずもなかった。素朴な疑問を糺そうと思って、「どうして、キリストが神さまなの?さっき、、、」と言いかけた。すると、質問をさえぎるように、「キリストが神であることを疑ってはいけません。キリストが神であると信じる人だけが、天国に行けるからです」と言う。いや、そこが聞きたいんじゃなくて、、、と思ったが、その答えに、また別の理由でびっくりした。「正しいから、信じる」のではなくて、「信じることが正しいから、信じる」と言うのだ。前提と結論が、学校で習う順序とはまったく逆だったことに、子どもながら無意識に衝撃を受けたのだった。“この絶対的な自信、動くことのない確信は何よりも私たちを圧倒してしまう。” ―― 遠藤周作「イエスの生涯」しかし、今では、そういうのも十分、「あり」なんじゃないかな、と思う。何もかも、その「正しさ」を証明する必要なんてないのではないか。いや、むしろ、人間に何もかも証明できるなんて考える方が傲慢だ。------------------たとえば、とても晴れた日に。待ち合わせ場所で、V.E. フランクルの「生きる意味を求めて」を読みながら、ふと目を上げると、遠くに彼女が現れる。時間に遅れたわけでもないのに、僕を見つけて小走りにやってくる彼女。その瞬間。その姿を見るだけで。僕は人生的な幸福感で満たされる。“人間に求められているのは、無意味な人生を我慢する能力なのではなく、 意味に満ちた人生に気づかない自分の無能さを我慢する能力なのだ。” ―― ヴィクトール E. フランクル
Nov 18, 2003
少しばかり忙しい時期に入った。おかげで、今週と来週は丸一日休める日がなくなった。それでも、準備が必要で厄介な仕事は昨日で終わり、気分がだいぶ楽になったところだ。新しいことに挑戦する時はエネルギーが必要でなかなか大変だけれど、やっぱり終わった後の充実感は、何物にも変え難いものがある。不慣れな話をするときは、僕も少しは緊張したりするものだが、そんなとき、ふと、俳優マット・デイモンの言葉を思い出す。"I decided not to be intimidated by anything, or anybody."「何事にも、誰に対しても、ひるまないことに決めたんだ」そう。ひるまないことに決めれば、心が、すーっと軽くなる。100人でも1000人でも、矢でも鉄砲でも何でも持ってかかって来い、という凛とした気分で壇上に上ると、肚が据わって不思議と話がうまくいく。1人1人の表情から、聴衆が何を求めているのか、どのくらいまで話せばよいのかまで、読めてしまうような気分になる。時間の経過とともに、話し手と聞き手の間で、『呼吸が合う』という現象が起こる。自分が言いたいことを話すのではなく、相手が聞きたいことを話す。自分が心から納得していることだけを、何ら出し惜しみをせずに話す。あっという間に、与えられた時間が過ぎていく。「ご清聴ありがとうございました」という言葉の後、自ずと湧く満場の拍手。ああ、準備に時間をかけた甲斐があった、何もかも、この瞬間のためにあったのだ、と感慨一入。--------------ところで、マット・デイモンと彼の親友のベン・アフレックは、下積み時代、何度も映画やドラマのオーディションを受けては、落ち続けたという。エキストラ同然の役柄ばかりが回ってくる日々、「その時にお金を持っているやつが家賃を払う」という約束で安アパートをシェアし、何年もチャンスを待っていた。しかし、いくら待っても自分に合う役が向こうからはやって来ないと悟ったある時、自分たちのキャラクターにぴったり合う登場人物を自分たちが作ってしまえばいい、と気づいた。そうして、2人で書いた脚本が、名作「グッド・ウィル・ハンティング」だった。“君は、完璧な男じゃない。彼女も、完璧な女じゃない。 しかし最も重要なのは、君たち2人の関係が完璧かどうかってことだ。” ―― 映画"Good Will Hunting"よりアカデミー賞脚本賞も受賞し、一躍、世界的な人気俳優になった2人だったが、そんな彼らが、常に細心の注意をもって心がけていることがある。それは、「どんなに人気が出て有名になっても、偉そうな態度をとらない」ということだった。謙虚さを忘れれば、自分が自分でなくなることを、彼らは知っているのだ。そういうわけで、いまやハリウッドで押しも押されもしない俳優となった2人、「アルマゲドン」「パール・ハーバー」で主役を演じたベン・アフレックと、「レイン・メーカー」「ボーン・アイデンティティ」主役のマット・デイモンが、今でも事務所では2人で1つの机を共有して仕事をしているそうだ。--------------「偉そうにしない」と言えば、昨日のイベントは社長と同行したのだが、この社長がまた、とても謙虚で気さくな人だ。秘書の女性が重そうに引いていたカートを見て、僕が代わりに引き受けた瞬間、「俺が持つよ」と言って奪い取り、代わりにぐいぐい引っ張って行く。ダンディなスーツに身を包み、リチャード・ギアに雰囲気の似たこの40過ぎの社長が、タクシー乗り場までダンボール箱を積んだ荷車をぐいぐい引いていく姿は、あまりに場違いすぎて、かっこよすぎるくらいだった。仕事の後、別れ際なども、一介の非常勤講師である10歳年下の僕に、「今日はどうもお疲れ様でした」と言いながら、深々と頭を下げる。僕も頭を下げたが、彼よりも低く体を折ると頭がぶつかってしまいそうだったので、諦めて軽いお辞儀を返さざるをえなかったほどだ。会長や社長をはじめ、この会社の人間はみな、時々びっくりするほど、気さくで謙虚でいい人たちだ。 「いい人」たちが経営するこの会社、誰もが快適に働きながら、それでいて急成長しているのだから、大したものだ。 “徳を以て人に勝つ者は栄え、力を以て人に勝つ者は亡ぶという理あり。” ―― 「源平盛衰記」・・・というわけで、これからますます、忙しくなりそうな予感がしている。
Nov 8, 2003
とある NPO でボランティアをしている親友が、「最近の自分は、なんだかすっかり偽善者になっているみたいだ」などと言う。他人に対してまったく共感していないのに、共感しているようなふりをして話を聴いてたり、行動したりしている自分に気づいた、と言うのだ。例えば、ある深刻な悩みを持つ友人から真剣な相談を受けたときなど。本心では、「日本に住んで、好きなときに好きなものを食べ、病気をしてもすぐに診療が受けられ、寒いときは暖房がある環境に生活してるだけで幸せではないか。世界中に大勢いる恵まれていない人たちに比べたら、そんなの悩みでも何でもないだろう」などと思いながら、しかし、真剣に同情している顔をしながら目の前の友人の相談に乗っている自分が、偽善者に思えてしかたがない、と言う。それを聞いて、ああ、これは一種の同情疲労というやつだな、と思った。あまりにも悲惨な生活や不幸な境遇の人々に心を痛めつけられすぎたり、長期的に同情を続けると、一時的に(あるいは長期的に)、他人に対する同情や共感という感覚が麻痺することがある。それが極端になると、例えば、片足を切断しなければならないことで悩んでいる人を目の前にしても、「そんなの、両足を切断された人に比べたら、まだ幸せだ」などという思考回路に陥り、ココロの方は完全に眠った状態になってしまう。彼の場合はまだ症状は軽いが、しかし、そんなときは意識して無理にココロを働かせようとする必要はないさ、と言っておいた。人がココロを閉じるのは、一種の防衛本能であることも多い。無理に感情を揺さぶり起こそうとしても、ココロは、ますます休もうとしてしまう可能性が高い。だから、感情が自然に元に戻るまで、休ませておけばいい。心が疲れていて、他人の感情に本心から共感できない時は、客観的な立場から理性的にコメントしたり、振舞ったりすればいいだけのことだ。同情心や共感をむりやり奮い立たせて何かを言っても、真実でない言葉になり、また、偽善も生まれるかもしれない。人の心は、そう簡単には永眠したりしないから、だいじょうぶだ。休みたいときは、休ませておけばいい。 “ どろのなかから はすがさく。 それをするのは はすじゃない。 たまごのなかから とりが出る。 それをするのは とりじゃない。 それにわたしは 気がついた。 それもわたしの せいじゃない。 ” ―― 金子みすゞ「はすとにわとり」
Oct 28, 2003
適度な運動、適度な食事、適度な読書、適度な忙しさ、適度な娯楽、適度な酒、適度な幸福感、適度なストレス、適度な悩み、、、、、体調が非常によく、仕事がとてもうまくいき、私生活も十分に充実した日々が続いている。良いことも悪いこともひっくるめて、あらゆるものに、感謝したくなる。---------------ところで、僕自身はビジネスには全く興味がないのだが、仕事で接する人には、商社や証券会社、銀行などで働く人が圧倒的に多い。もちろん彼らの全てがそうではないのだが、ときに、お金や数字に振り回されて齷齪してばかりいる人生が、哀れに見えてしかたがないことがある。人が数字を利用すべきなのだ。数字が人を決めつけているとしたら、本末転倒ではないか。“貨幣は人間に仕えるべきであって、その逆ではない。” ―― ケインズ二流のビジネスマンは、物の『価格』は知っているが、物の『価値』を知らない。そこが、一流との大きな違いだ。---------------ウォルト・ディズニーは、超一流のビジネスマンだった。そして、飽くことを知らない野心家でもあった。彼は、ある事業が成功して莫大な財産を得ると、そのお金のほとんどを利用してすぐにまた新しいプロジェクトを実行しようとしたため、会社は常に赤字の危険を抱えていたという。それでも、ウォルトは、次から次へとアイディアを出し、新事業のためにお金を湯水のように使っていった。そんなウォルトが、生涯をかけて追い求めていたものとは、何か。その答えの1つが、ディズニー・ランドを訪れたときに自慢気に言ったという、こんな言葉に表れている。“ 見てごらん。 こんなにたくさんの嬉しそうな顔を今まで見たことがあるかい? こんなに大勢の人間が、何もかも忘れて心から楽しんでいるところをさ。”ウォルトは、小さい頃から家計を助けるために新聞配達などをしなければならなかったため、おもちゃで遊ぶ時間などもほとんどなかった。子どものころ、遊ぶ機会をほとんど与えられなかったウォルトが、空想の中だけで思い描いていた『楽園』を再現したのが、ディズニー・ランドだったのだ。期待と不安の混ざるディズニー・ランド開園の初日、小さな女の子の一言を聞いて、ウォルトは、涙した。「お母さん、これって夢だよね?」-----------------人生にとって、大切なものは何か。人間にとって、必要なものは何か。1枚の写真を見て、ふと、考えさせられた。 Earth at Night (夜の地球) Credit: C. Mayhew & R. Simmon (NASA/GSFC), NOAA/ NGDC, DMSP Digital Archive (クリックすると NASA のサイトの拡大写真が見られます。)
Oct 23, 2003
苦しみから逃げようとしているときの自分は、弱い。逃げることで、より大きな苦しみを味わう。いやなことを避けようとしているときの自分は、甘い。避けることで、より大きな不快を味わう。酷いことから目を背けているときの自分は、醜い。目を背けることで、世界はますます酷い場所になる。嫌いな人間から離れようとしているときの自分は、小さい。離れることで、ますます人が嫌いになる。 -------------Condemn the offense, but pity the offender.「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉があるが、やっぱり自分は、人を憎んでいるんだと思うことがある。同じことを別の人がしたのなら許していただろう、ということも、その人がしたから許せなくなる。「罪」自体ではなくて、「人」を非難している自分に気づく。そして、そんなふうに人を非難する自分を、無意識に非難している自分に気づく。・・・・他者嫌悪と自己嫌悪の悪循環。憂鬱は、神様が疲れた心に与えてくれる甘いお菓子だと言うけれど、このお菓子、食べ過ぎてよいものかどうか。 “ 人ひとりが幸せになるか 不幸になるかを決めるのは そばにいる人の ちょっとした優しい言葉だったりすると思うんだ。” ―― 尾崎 豊
Oct 21, 2003
今日も、「新人」研修があった。この方の話の長さ、回りくどさに慣れるまでには、もうちょっと時間が必要だということが改めてわかったが、しかし、じっくり話した中から、またしても大切なことを教えられた。" Being underpaid is like cutting the legs off the bed. "「自分の能力以下の報酬で働くことは、ベッドに合わせて足を切るようなものだ」製造にたずさわる企業は、世界中から原料を集め、物を作り、それを世界に再び還元することで利益を得、同時に世界に利益を与えている。より良い物を作れば、より高い価格がつく。同じように、教育産業は、世界からさまざまな知識や情報を集めて、それを適切な時機、適切な場所に再分配することで、利益を得、同時に世界に貢献している。より価値のある情報を提供することができるなら、それを得るためにかかった時間やコストとは無関係に、世界への貢献度に応じて報酬が与えられるべきだ。教育産業においては、cost-based pricing(コストに応じた価格設定)ではなく、value-based pricing(価値に応じた価格設定)を貫くべきなのだ。そうした個人の利益追求の結果、自分が得た利益以上の利益を世界に還元することは、世界から少ししか受け取らず、世界に少ししか還元しないよりも、自分のためにも世界のためにもなる。ビル・ゲイツの収入を時給に換算すると普通の人が一生かかって稼ぐお金に匹敵するらしいが、しかし彼が世界にもたらした利益に比べたら、はるかに小さい報酬ということになるだろう。「報酬」というものは、ヒトの細胞にとっての血液や栄養分みたいなもので、人体の細胞や器官も栄養というご褒美を与えれば、一生懸命、体全体のために働いてくれるように、個人も報酬を与えられることによって全力で世界に貢献しようとする。その「報酬」は、お金に限らない。人気、名誉、尊敬、愛情、自己満足、心の豊かさ、心の平安、幸福感、、、、個人がこれらの報酬を得ようと頑張れば頑張るほど、世界は豊かになっていく。一人の人間に集約された知識や情報は、世界を動かす原動力にもなる。“ こっつん、こっつん 打たれる土は よい畠になって よい麦生むよ。 朝から晩まで 踏まれる土は よい路になって 車を通すよ。 打たれぬ土は 踏まれぬ土は 要らない土か。 いえいえそれは 名のない草の お宿をするよ。 ” ―― 金子みすゞ「土」この世界に、必要のない人間などいない。だからこそ、だれもが遠慮なくこの世界から恩返しをしてもらうべきなのだ。 そして、再び、世界に恩返しをすればいいのだ。
Oct 17, 2003
“ 言葉は、人を殺すことができる。言葉は、人を生かすこともできる。” ―― トルストイどうもこの言葉というものは、いまだに手に負えない。言葉を発するべきときに、適切な言葉が自分の口から出てこない。発すべきときでないのに、つい口をついて言葉が溢れ出る。コトバが先走っているとき、ココロが死んで、アタマだけでものを考えている自分に気づく。場の雰囲気を読めない挨拶をし、人がされたくない質問をし、期待されている返答をしない。自分の何気なく発した言葉によって人は傷つき、自分の何気ない沈黙によって人は傷つく。「ヒトは言葉を発明して以来、無意味に耐えられない存在となった」と言われるが、言葉というものは、それを発しないときにさえ、“意味”を持つ。自分が適切なときに適切な言葉を発しないことに、「裏切られた」と感じる人がいる。“ 述べて作らず。” ―― 孔子作りものではない真実の言葉を述べてこそ、心が伝わる。しかし、人は時には、「相手が望む自分」を演じる必要があるのかもしれない。
Oct 10, 2003
修理に出していたパソコンが戻ってきた。1週間ほど代替機として使っていたマシンも悪くなかったが、使い慣れた愛機の圧倒的な速さと快適さに、改めて感激。ここで、ふと考えた。僕が今感激しているのは、このパソコン自体の速さや快適さではなく、代替マシンと比較したときの「違い」に対してなのではないか。もちろん修理の前にも、このパソコンを気に入っていたが、これほどの感激が生まれたのは、代替機の存在があったからだ。もしかすると、ものの価値というのは、それ自体にあるのではなく、他のものとの関係において、初めて生まれるものなのかもしれない。“ 関係は、実体に先行する。” ―― ソシュール人の愛憎や信頼も、他の人間との関係があって初めて生まれる。ある人が、恋人にとっては世界で一番愛すべき人間だとしても、別の人にとっては何の興味もない人間でしかなかったりする。ものの価値も、人の価値も、評価する人によって変わるし、比較されるものによっても変わる。だから、人に対して「絶対的」な価値を求めようとしても、所詮、無意味なことなのだ。----------------------「言葉」も、そうだ。例えば、僕がここで僕の父の顔をどんなに言葉を費やして説明しても、父の顔を正確に読者の頭の中に再現することはできない。しかし、駅で待ち合わせしたときに、父を知らない人が、他人と父とを区別できる程度には、説明できるだろう。人が「説明がうまいから、よくわかった」というときは、ある言葉が『正確な』意味をもって伝わったわけではない。せいぜい、そのものと他のものとを区別できる程度に意味が伝わったということを意味するにすぎない。つまり、言葉の本質的な機能は、あるものが何かを定義する「同一化」にあるのではなく、あるものが他のものとどう違うかを説明する「差異化」にあるのだ。ある言葉に、絶対的な意味はない。言葉ができることは、相対的な意味づけでしかないのだ。----------------------人間は太古の昔から、人にも、ものにも、言葉にも、絶対的な意味を求めようとしては、裏切られてきた。しかし、「裏切られた」と思うのは、絶対的なものの存在を人間が勝手に仮定し、期待し、信じようとしているからだ。世界の一切は、相対的な関係によって成り立っている。空間が物体を生成・破壊するのと同時に、物体は重力によって空間を曲げ、ときに破壊する。世界が人を変えることもできるし、人が世界を変えることもできる。人が自分を変えることもできるし、自分が人を変えることもできる。さらに重要なことに、自分が自分を変えることさえできる。「絶対に変わらないもの」など仮定しなくても、人間は他人や世界と問題なく共存できる。人間にできるのは、「絶対に正しい生き方」をすることではなく、「よりよい生き方」をしようとすることだけなのだ。“ 正義とは、各人がそれぞれの分を尽くすことである。” ―― プラトン -----------------------とか言いつつも、「止まらない、狂わない、壊れない」というキャッチコピーに惹かれて G-SHOCK の最新モデルをあっさり衝動買いしてしまう自分には、永遠なもの、絶対なものへの憧れが心の中に無意識に存在しているのかもしれない・・・・。
Sep 30, 2003
先日,スカパーのディスカバリー・チャンネルで催眠療法の特集をしていた。ある精神科医が,心身症や神経症の原因を探るため患者を催眠状態にして,過去の記憶を探る。それはいい。しかし,問題なのは,催眠中の誘導的な精神科医の質問により,患者はありもしない虚偽の記憶を作り出されてしまうことがある,ということだった。ある女性は,祖父に強姦されたり,儀式の生け贄として辱めを受けたりした記憶が催眠療法でよみがえり,家族を告訴してしまった。家族がどんなに説得しても,催眠療法で「よみがえった」記憶が深く心に傷をつけ,家族全員が信じられなくなった。その女性は,まもなく夫とも離婚し,家庭は崩壊した。そのような家族への告訴や「悪魔の儀式」に対する訴えが,ある地域で急激に増加したことを不審に思った警察が詳しく調査してみると,実は「被害者」は全員,催眠療法の経験者だったという。つまり,催眠療法によって,ありもしなかったトラウマを作り出され,患者の心が治療されるどころか,彼らの家庭までも破壊してしまったのだ。家庭が崩壊した前述の女性は,4年間セラピーを受け続けた後,お金が尽きたため診療を続けられなくなった。すると,精神科医に自分が話した「記憶」が,実はまったくの妄想であったことに気づき,ぴったりと人格障害も治ったという。------------------「診断」や「分析」が得意な精神科医が,必ずしも「治療」が得意だとは限らない。しかし,診断も分析も治療も,すべてデタラメな精神科医を信じた患者ほど不幸な者はない。------------------それで,思い出したことがある。僕には弟が二人いるが,すぐ下の弟とは6歳離れている。その弟が,実家で思い出話をしているときに,ふと言った。「お兄ちゃんには,小さい頃,よくいじめられたっけな」「いや,いじめたっていうか,ふつうに遊んでただけだよ」「今だから言えるんだけど,,,3歳のとき,燃えてる焚き火のまん中に裸足のまま投げ入れられて,大火傷をしたこともあったんだよなあ・・・・」え!?そ,そ,,,そんなひどいことをした覚えはないぞ!しかし,弟は「これが証拠だ」といって火傷の痕を示しながら,あの時は本当に熱かった,などと言う。3歳の頃の記憶が,しかも「熱さ」という感覚の記憶が,そんなに鮮明に残っているわけがない。「誰がそんなこと言ったんだ?」「誰にも聞いてないよ。自分ではっきりと覚えてる」じゃあ,その話を今まで家族の誰かとしたことがないか,と聞いてみると,母親とは話したことがある,と言うので,僕はすべて納得した。-------------当時,彼が3歳で,僕は9歳。いっしょに家の前の畑で遊んでいたとき,弟が突然,狂ったように大声で泣き出した。そのときは理由がわからなかったが,家に戻ると,足が水ぶくれで大きく腫れ上がっていたので,畑に燃え残った灰を踏んで火傷をしたのだとわかった。当時,収穫後の枯れ草を焼いた燃えかすの灰が畑のあちこちに残っていた。僕も弟も,灰のやわらかい感触が楽しくて,裸足でいくつもの灰の山を足で踏みつけながら,畑の中を無邪気に走り回っていたのだ。なのに,僕だけ何ともなく,弟は両足に見るも無残な大火傷を負った。そこで,母は,「兄がふざけて,まだ煙のくすぶる灰の上で弟を抱え上げたとき,うっかり熱い灰の中に両足から落としてしまったのだ」という確信に近い推理をしたのだった。まだ熱かった灰は1つだけしか残っていなくて,弟は不運にも偶然,その上を踏んでしまったのだ,という当時の僕の説明は,母にはまるで信じてもらえなかったらしい。小さい頃の僕は,ちょっとしたことで口から出まかせを言っては,ばれて叱られたりしていたので,しかたのないことかもしれない。弟は母の無責任な推理をそのまま信じただけではなく,「燃え残りの灰」が「燃えさかる焚き火」に変わり,「うっかり落とした」が「投げ入れられた」という『記憶』に変わっていった。そして,兄に対する小さな心のわだかまりとして,幼い頃からしっかりと記憶に植えつけられてしまっていたようだ。もちろん,弟からその話を聞いた直後に母に猛抗議をしたが,どうやら弟にそんな「推理」を話したことを母もすっかり忘れていたほど,ずっと昔のことらしい。----------------「小さい頃の記憶」というのは,案外,実際の経験によるものではなく,親などによって(そして時には自分自身で)後から作られた話も多いのかもしれない。まことしやかな話を聞けば,「確かにそんなこともあった気がする」という気になり,後に,自分自身の想像も交えながらその記憶を夢の中で追体験する。そして,夢の中での追体験を重ねるうちに確信に満ちた「記憶」ができあがる。今では弟もアタマでは納得してくれているようだが,長年の間,深層心理に刻まれた兄への小さな恨みが心から晴れるのには,もう少し時間がかかるかもしれない。そういえば,弟の家に遊びに行くと,僕はいつも甥に執拗にいじめられるのだが,もしかしたら弟は遺伝子を媒介して僕に復讐をしようとしているのかもしれない,と思った。“脳が意識を作り出しているのではない。意識が脳を利用しているのだ。” ―― ベルグソン「物質と記憶」
Sep 26, 2003
運動不足を解消しようと思って始めた散歩と石段登りだったが、最近は散歩自体が楽しくなった。散歩がジョギングになり、ランニングになることもあるが、やはり一番楽しいのは、のんびりとした散歩だ。締め切りのある仕事が一段落して、久しぶりに丸一日休みになったので、鶴見川のほとりを散歩することにした。道を歩いていると、意識が解放され、無意識の発想に自分をゆだねることができる気がする。言葉を使わずにものを考えている自分に出会える。毎日必ず、同じ時間に同じ道を散歩するカントの姿を見て地元の人たちは時計を合わせたというが、すっかり哲学者気分になった僕も、2時間程度、川の土手を歩きながら、奔放な思索を楽しんだ。何だか手段が自己目的化してしまった感じだが、それはそれでいい。“ 人間的な願望から、人並みのあこがれから、 魂よ、つまりお前は脱却し、そして自由に飛ぶという。” ―― ランボー「永遠」途中、橋の下に2羽のアヒルを見つけた。 生き物は、人の心を癒す。しかし、人は美しい生物には近づき、愛でるが、醜い生き物は反射的に遠ざけ、憎む。アヒルには近づくが、カラスからは逃げる。小さい頃、トンボの尻尾を切って遊んでいたら「可哀相なことをするな」と叱られたが、そう言った大人も、ゴキブリは躊躇なく叩き殺す。「生き物」というコトバで括られる存在の中にも、人にとって価値のあるものと、そうでないものがある。つまり、「生き物は、人の心を癒す。」という文は、正しいと同時に、誤っているのだ。----------------同じ言葉で表されている「同一」のはずの概念も、本当はどこまでも「同一」ではありえない、という矛盾が、ここにはある。この矛盾は、「自分」とか「世界」といった概念にも当てはまる。1年前の自分と現在の自分は、肉体の細胞がすっかり新しいものに交換され、顔も体型もまったく同じではありえないが、どちらも真の自分としての同一性を持つ。生きること、人と結びつくことを願う自分と同時に、それでもなぜか死を見つめつづけ、人を避けて一人になりたいと思う自分も存在する。自分を誉め、自己を肯定する自分も真の自分であり、自分を叱り、自己を否定する自分も真の自分である。「生」「性」「社会」「愛」「表現」「努力」への執着と、「死」「殺」「孤独」「憎悪」「沈黙」「逃避」への執着とが『自分』の中には混在する。-----------------だから、人は「世界」に対しても、「自分」に対しても、不可避的な絶対矛盾を受け入れつつ、取捨選択しながら存在して(=生きて)いくしかない。太陽がなくては我々は存在できない。しかし、太陽を直視しつづければ、やがて失明してしまう。生きるためには死を考える必要もあるが、死を直視しつづければ生きる力を失う。不快な現実を正面から受け止めるのは、麻酔を拒否して手術を受けるようなもので、何の益もないことがある。痛覚神経が不要なこともあるように、想像力が不要なこともある。「自分」が同一性を維持するため(=生きるため)には、自己の分をわきまえつつ、自分にとって価値のあるものを手に入れ、自分にとって価値のないものは遠ざけていく必要があるのだ。ベジタリアンである環境活動家の知人に肉を食べない理由を聞いたとき、「動物は植物に比べて有害物質の含有量が圧倒的に多いから」という答えが返って来て、少し驚いたのを思い出した。動物を食べるのは悪だから、とかいう倫理的な理由ではなく、自己の生命を第一に優先するため、という極めて現実的な目的があったのだ。美しいもの、醜いもの、快いもの、不快なもの、どれだけの矛盾を取捨選択しながら包摂できるかが、実在としての人間の強さ、大きさを決定するのかもしれない。絶対矛盾的自己同一とは、意識(=言葉)に邪魔されない、直観的な生への意志そのものなのだ。-----------------“ 言葉は何も語りえない。” ――ヴィトゲンシュタイン人間は真実を知りえないのではなく、真実を知っても正確な言葉に表すことが不可能なだけだ。人間の思考が生み出す世界は、あまりにも大きい。それに比べて、自分の存在は、あまりにも小さい。しかし、だからといって、自分の存在が小さいことを虚しく感じる必要はない。この世界が僕たちの想像をはるかに越えて大きいように、実は、自分自身も、さまざまな矛盾が渦巻きあう、想像を絶するほど大きな存在なのだ。“個人とは意識の中の一小体系に過ぎない。” ―― 西田幾多郎 ------------------そんなことを考えながらの帰り道、ラーメン博物館の前で、入ろうか入るまいか思い悩んでいた姿は、悩める哲学者というよりも、もの欲しそうな無職男にしか見えなかったことだろう。結局、ラーメンは我慢してそのまま帰宅し、絶対矛盾的自己同一としての主体的な自己否定に成功したのであった。(爆)
Sep 19, 2003
昨夜は、なぜか午後7時ごろ、麻酔を打たれたように急激に眠くなり、電気を付けっ放しのまま朝の4時くらいまで寝てしまったので、月と火星の接近を見逃した。残念。その代わり、今朝は日の出前に散歩と石段登りをしたことで、ちょっとした発見があった。人間が空気を汚す前の早朝は、違う匂いがするのだ。さまざまな植物が放つ微かな匂いに、いつもは同じ道を歩いていても全然気づかなかった。日が高くなってからのジョギングよりもカロリー消費は少なかったが、爽やかな気分になったので、よしとしよう。----------------話はまったく変わるが、先日、ニュースを読んでいて思わず感心させられたことがある。ディスカウント・ショップのドン・キホーテでは、テレビ電話を使って薬剤師が客の相談に乗り、医薬品を無料提供している。それに対して、「薬剤師が店舗にいない状態での医薬品の提供は違法になる可能性が高い」として、先日、都の健康局が立入り査察をしようとした。しかし、その直前、石原知事が「医薬品の提供、大賛成」と発言したため、都の健康局は、急遽、立入り査察を中止し、合法とみなす法解釈を検討し始めたそうだ。知事の一声で、違法なものを合法に「解釈し直す」のが可能になってしまうというところが、スゴイ。「解釈」という言葉の万能さに改めて感心してしまった。この調子なら、例えば自衛隊が核兵器を配備しても憲法違反にならずに済んでしまいそうだ。「正当防衛のため、相手国と対等の実力を備えることは許される」などと憲法9条を解釈し直すだけでよいのだから。-------------そもそも、法解釈学は、神学から様々な解釈技術や手法を取り入れてきた歴史がある。神学では、聖書は絶対に否定できないということを大前提に、世界のあらゆる現象を説明、解釈しようとする。聖書の間違いや論理矛盾を実証しようと、千年以上の昔から数多くの人々が一生をかけて(多くの場合、命を犠牲にして)取り組んできたが、それでもキリスト教はびくともしない。例えば、旧約聖書と新約聖書とで神が事物を創造した順序が異なっているのは有名だが、そのように一見すると明らかに矛盾するような記述でも、「実は○○のような状況が存在していて、△△のような視点から記述していたため時系列が逆のように見えるが、実は××と考えれば、まったく矛盾はないのだ」等々、神学はありとあらゆる反論を用意している。法律学においても、とりあえず法が無矛盾だと仮定した上で、現実の政策や社会常識に即して不合理がないように「解釈」する。「自衛隊は“武力”ではなく“実力”だ」「殺意を抱いて何もしなかったとしても、殺人とみなせる場合がある」(乳児にミルクを与えず餓死させる、等)「酔うと暴力を振るうことが自分でわかっていて人と酒を飲み、相手を傷つけた場合には、行為時に判断能力を失っていても心身喪失とはみなされず、傷害罪で罰することができる」・・・等々、法律に書いていない文言を、解釈によって「補う」のだ。もちろん、法律学の場合は、法典に書いてあることだけが絶対に正しいと仮定する必要はないから、解釈に無理や不自然が生じる程度に法と現実の間に乖離が生じた場合は、法律の方を変えていくべきだ。しかし、ちょっと現実に合わないからと言ってコロコロと法律を変えると社会が混乱するので、解釈によって適応可能な場合は、なるべく言葉の意味を拡張したり縮小したりして現行法のまま現実に合わせていこうとするわけだ。---------------というわけで、先日まで「禁ラーメン」を自分に課していたが、焼肉屋に行ったとき、「冷麺はラーメンではない」と勝手な縮小解釈をして、結局、冷麺のスープを全部、飲み干してしまった。その後、法と現実の乖離に気づいた自分は、潔く、「禁ラーメン」を全面解除することにしたのだった。(爆) “主観的価値観を客観的真理に置き換えて正当化しようとするのは、 人間のもつ根深い欲求であり、「有用な嘘」でもある。” ―― ケルゼン
Sep 10, 2003
すでに終電もなくなった時刻、渋谷の、とある深夜営業の喫茶店。「自分なりにがんばった。がんばったけれど、いつも、どうしてもうまくいかない。何をやっても中途半端だった。すべて、失敗ばかり。人生は、努力だけではどうにもならないことばかり・・・」と、彼女は言った。そう。彼女の人生は、挫折と、失敗と、トラウマに満ちていた。しかし、、、、それが、何だというのか、と僕は言った。今までの歴史や環境だけが、これからの人生を決めるわけではない。1000回失敗しても、1001回目で、今までの失敗をすべて帳消しにするような大成功をすることは、いくらでもある。過去はどうでもいい。いま、この瞬間に、何をするか、どう生きるかが、問題ではないのか。-------------多くの人が、過去の「実績」や「経験」をもとに、自分の限界を自分で決めてしまっている。確かに、過去のデータや経験だけをもとにして自分の限界を決めてしまおうとするのは、動物としての人間の本能的な心理なのかもしれない。小さな箱に長い間入れられた蛙は、箱から出された後も、箱の高さ以上に跳べなくなるという。インド象は、人に飼い慣らされるため、子どもの頃に鉄球を足に結ばれる。すると、大人になって鉄球など軽がると引きずれる力がついてからも、鎖の長さ以上を動こうとしなくなる。水族館で長く育ったイルカは、広い海に放たれても深く潜ることができず、すぐに人間のいる船の近くに戻ってきてしまうという。動物も人間も、ある環境で長いあいだ生活すると、自分がそれ以上の能力を持っていることをすっかり忘れてしまうものなのだ。--------------しかし、同時に、人間はそれら記憶や経験に刻まれた限界を打ち破ろうとする強烈な意思も持っている生き物だ。“多くの人間は、精神的ブレーキの犠牲者になってしまっている。” ―― ジャック・マイヨール映画「グラン・ブルー」で有名になった自然児、ジャック・マイヨールは、医師が口を揃えて、素潜りで人間が可能な深さは40メートルが限界だと言っていた中で、56歳にして素潜り105メートルという驚異的な世界記録を達成した。あらゆる事において楽観的でありながら、最悪の事態に対しても常にさりげなく備えを怠らなかったというマイヨールは、他人が勝手に決めた人間の「限界」など気にかけることなく、様々な工夫をしながら自分の限界に挑戦した。小さな頃からイルカと遊んで呼吸法を学んだという彼は、「人と争いたかったわけではない。人間の能力の限界を試してみたかっただけだ」と言う。---------------先日、結石の診察で病院で医者の話を聴いていたとき、言葉の端々に表れる「~するしかない」という断定的な口調がやたらと耳についた。「~するしか方法がない」というのは、現時点での西洋医学(のうち、その医者がもっている知識)の限界を意味しているに過ぎない。病院の医師の指示にだけ従っていると治るのに数か月から半年はかかってしまうと直観した僕は、病院の帰り道、東洋医学の助けも借りることにした。そして、漢方の総合的な処方を受けた2日後に、結石が流れて完治した。---------------「限界」とか「不可能」という言葉は、せいぜい現代の医学や科学や論理学に基づいて、現時点での人間がとりあえず勝手にそうだと決めている仮説でしかない。人間が『希望』あるいは『信念』という言葉を口にするとき、現代の未熟な科学や論理学が出る幕はないのだ。“わが武術に秘伝などない。ヘソを食い抜いても勝てばよい。” ―― 関口柔心武道にも、人生にも、王道などない。「こうしなければ、うまく生きられない」などという決まったマニュアルなど、存在しないのだ。
Aug 28, 2003
10年近く前のこと。当時、同棲していた女の子に、「あなたは、外と家で、ぜんぜん違う人になる」と不平を言われたことがある。そのときは、それは当然のことだと思っていた。二人きりになったときと、大勢の中で話すときとでは、「自分」を使い分けるのは当たり前だと思った。言葉の使い方も、性格も、使い分けるのが当然だと思った。家では、「心を許せる人にしか見せない自分」というものがある。外では、「誰にでも見せられる自分」がある。どちらも、偽りの自分ではなく、本当の自分。相手によって使い分けている「自分」だ。英米人と話すときは英語を使い、日本人と話すときは日本語を使う。キリスト教徒と話すときは神がいることを前提として、仏教徒と話すときは魂の輪廻を前提としなければ、話が前に進まない。ごく自然な「使い分け」だ。恋人同士だけで話すときと、公の場での恋人に話しかける時とでは、態度や話の内容が変わるのは当たり前だ、と当時の自分は反論した。しかし、、、、今は、当時の彼女の気持ちが、よーっくわかってしまう。人に「裏表」があるのは、いい。しかし、自分が信頼する人が、表の顔と裏の顔とで言動に嘘や矛盾があることに気づいたときの失望と不信感は、やはり抑えようがない。映画俳優が自分と異なる人物を演じる場合とは違い、実生活で全然ちがう人格で振舞っている人に、「どちらも、本当の自分」と言われると、違和感を通り越して、不快感になることがあるのだ。People can become what they are in the eye of the others.人は、他人の目を通してのみ、本当の自分になる。人間関係を求める以上、自分が自分を信頼してさえいればいい、という問題ではないのだ。
Aug 27, 2003
ある夜、いわゆる一流企業と呼ばれる会社の人事部で採用を担当していた人と飲んだときのこと。「最近の若い奴は、夢とか野望ってものを、持ってないんですよね。みんな、変に大人になっちゃってるって言うか、おとなしすぎて・・・」と言う。確かに、そう感じることはあるかもしれない、と思って、続きを聞いた。「俺たちが会社に入った頃は、みんな、それなりにでっかい夢を実現しようと思って、仕事を始めたもんですけど、最近の若い奴は、何だか、今さえ楽しければいい、って感じで、、、ただ無難に、仕事こなせばいいと思ってる。無茶や無鉄砲をしようとしないから、面白みもないんですよ。飲みにもあまり付き合おうとしないで、定時で家に帰っちゃう」なるほど、そういうことは、あるかもしれない。「だから、仕事も遊びも、中途半端。『野心』がない人間には、覇気がない」そこで、ふと興味をそそられて、尋ねてみた。「で、、、○○さんは、どんな夢とか野望を持ってたんですか?」「え、、、オレですか!?」と、一瞬、固まる。「はい」「ああ、、、いろいろですよ、例えば、入社して10年後には、ロールス・ロイスくらい乗り回していたいな、とか思っていましたし・・・」「え・・・。」と、今度は、僕の方が、固まった。あの、、、それ、『夢』とか『野望』って・・・・。「あ、いや、、たとえば、たとえば、ですよ! 今、入社して10年目で、まだ自分はロールス・ロイス乗れる身分になってませんけど、、、でも、、、」これがこうで、あれがああだ、といろいろ説明(=言い訳)を始めた。ふむ。。。どうやら、この人は、「ロールス・ロイス=でっかい夢」と、冗談ではなく本気で言っているようだった。彼が卑下する若者たちの、「今さえ楽しければいい」という考え方と比べて、この「10年後にロールス・ロイス」という考え方の、どこがどう優れているというのだろう、と考え込まされてしまった夜だった。-----------------昨日、長野県でバスジャックをして捕まった犯人は、会社を辞めさせられ自暴自棄になって事件を起こしたそうだが、その自供の一部を聞いて、しばらく、あっけにとられた。「何か大きなことをして、警察に捕まりたかった」・・・・。大きくない。バスジャックは、ちっとも、大きくないよ・・・。------------------一人一人の人生は、それ自体、かけがえもなく、大きい。少なくとも、ロールスロイスやバスジャックなどを夢や目標とするために与えられているのではないことは、確かだ。家族と仕事を同じように大事にして、無茶や無鉄砲などせず、日々、現在の幸せを大切にする「最近の若い奴」の生き方のほうが、むしろ、はるかに人生的な『夢』に満ち溢れている、と思う。“途方もない大きなプライドを、とんでもないケチな人間が持っている。” ―― ボルテール
Jul 29, 2003
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