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亀田興毅,世界タイトル奪取。昨夜の一戦は,日本ボクシング史上に残る痛恨の悲劇として人々の記憶に残るであろうことは,間違いない。判定の瞬間。観ていたほとんど全ての観客が,専門家が,そして何より,本人自身が。信じられないような驚きの表情を,一瞬浮かべたほど。今日のスポーツ新聞や一般紙,ワイドショーは,やはり,予想通り。八百長だ!と非難する一般観客の声を紹介したり,テレビ局の視聴率稼ぎのための陰謀だと訴えるコメンテーターの意見を紹介したり,容赦のない痛烈な批判に埋め尽くされていた。その人気がすでに社会現象となっている亀田一家だけに,結果が不本意なときの世間の風当たりも人気に比例して強くなる。しかし。今回の判定結果については,一方的に審判を責めることはできないと思うよ。何よりも,採点システムが,悪い。悪すぎるのだ。ラウンド・マスト・システム。審判は,各ラウンドごとに,どちらが優勢だったかにより,あえて強引にでも差をつけることを余儀なくされる採点方法。このルールの下では,ときに審判が正直に良心に従って判定すると,「見た目」と「結果」に大きな乖離が生じてしまう。その絶好の一例が,昨夜の試合だ。たしかに,第1ラウンドでダウン。最後の2つのラウンドも劣勢。途中,バッティングにより,眼の上を切る。ボクシングを知らない人が見たら,明らかに,亀田の完敗。ボクシングをよく知っていて,採点方法はラウンド・マスト・ルールだということをすっかり忘れている専門家が見ても,亀田の完敗。しかし,「見た目」には全くこだわらず,ラウンドごとのパンチのヒット数だけを考慮すれば,亀田のほうが手数が多かった分,ポイントが優ることも十分にありうる『微妙な判定』だった。決して,かっこよくはない。しかし,こういう勝利もある。亀田興毅でなければ,それで許されたかもしれないが。世間が亀田一家に期待しているのは,結果とか,単なるカッコよさではない。すっきりとした心からの感動なのだ。最後の最後まで,努力の天才が歯を食いしばって耐えたせっかくの名試合を,歴史に残る迷試合にまで貶めた,採点システム。「見た目」と「判定結果」が,これほど大きく乖離してしまうルールを採用したボクシング協会こそ,大いに反省すべきだと思う。昨夜の試合結果を受けて,今後,亀田一家は,痛烈かつ残酷な,そしてときに陰湿なまでのメディアや世間からの妬みや誹謗中傷に襲われることだろう。しかし。亀田興毅には,今回の大きな挫折を跳ね返して,再び,真のヒーローとして,がむしゃらに,相変わらずクソ生意気に,突き進んでほしい,と心から思う。 “あらゆる出来事は、もしそれが意味を持つとすれば、矛盾を含んでいるからだ。” ―― ヘンリー・ミラー
Aug 3, 2006
言葉では、語りつくせないものがある。しかし、それらを言葉で語ろうとすることで。人間は、生きる意味を知る。科学では、解明できないことがある。しかし、それらを科学で解明しようとすることで。人類は、生きる手段を知る。愛では、解決できない問題がある。しかし、それらを愛によって解決しようとすることで。人は、生きる目的を知る。 ------------------------------ <イーサの法則 その2>一平ちゃんとアレグリア2の費用対効果(単位価格あたりの満足度)は、ほぼ等しい。 ------------------------------ ちなみに、僕は、自他ともに認める大の太麺党(細い麺より太い麺が好きな人)である。どのくらい太麺が好きかというと、この間など、直径3センチほどのうどんを作ろうと企てて、小麦粉をこねて麺の形にしたまではいいけれど、それを40分茹でても50分茹でてもなかなか芯が煮えないので、電子レンジに数分入れてから、もう一度煮直してみたけれど、ぜんぜん中は煮えなくて、外側だけ溶けて汁がどろどろになっていくものだから、最後にはとうとう諦めて芯が粉っぽくて固いままで我慢して全部食べたというくらい、太麺が好きだ。そんな僕が。心から、「う、うまいっ!」と、すっかり感心させられてしまった細麺がある。それが、「明星 一平ちゃん 夜店の焼きそば」。麺類に限定せず、最近、食べたものの中で最も美味しいものは何か、と聞かれても、頭の中で真っ先に候補の1つに上がることは間違いないほど、おいしい。しかも、価格がなんと、108円!! (近所の東急ストアにて 11月11日現在)感動的なまでの、お買い得感である。 こういう、ささやかな「得した気分」の積み重ねが、少しずつ、人生を豊かにしていくのだろうな、と思わず哲学的な感慨に浸ってしまうほど、このインスタント焼きそばは優れた食品である、と僕だけ(?)は思う。 -------------------------- アレグリア 2。これについては、もはや何も語るまい。と、いうか。これを観た人は、内容については、他人に語るべきではない、と、思うよ、実際。実は、この超一流のエンターテイメントを観て、僕が何を後悔したかと言えば、観る前にインターネットで、つぶさに詳しくどんな演目が行われるかを調べてしまったこと。それはまるで、ストーリーを隅々まで聴かされてから、映画「スティング」や「シックス・センス」を観たようなもので。次々と展開される超人的な演舞はどこまでもすばらしいはずなのに、それらがことごとく想定の範囲内に収まってしまっていたために、本来、味わえるはずの感動がどことなく希薄になってしまったような気がしてしまう、という、漠然とした喪失感。それでいてなお、「一平ちゃん」と同等の費用対効果があったことは、確かなのだけれど。 -------------------------- と、ここまで書いて思うのだけれど、人間の感じる満足度は、前もって期待する度合いが小さければ小さいほど、高くなるものなのかもしれない。ふむ。。。いや、何だかんだと言っても、「一平ちゃん」、しょせんは、インスタントだし。初めて食べる人は、それほど、というか、まったく、期待しない方がよいであろう。と、個人的には、思うわけである。 “僕は、誰にも何にも、全く期待しない。だから、幸福なんだ。” ―― アインシュタイン
Nov 11, 2005
それはそうと、世の中の電化製品メーカー各社は、どうしてこんなにも電子音を鳴らしたがるのだろう。ピ、ピ、ピ、、、という、小さな、しかしちょっと不快で、場合によってはとても耳障りな、あの機械音。携帯電話、電子辞書、キッチンタイマー、炊飯器、電子レンジ、デジタル腕時計、ストップウォッチ、洗濯機、、、このうち携帯電話と電子辞書以外には、そもそも「音を鳴らさない」という設定が選択肢にない。たとえば、朝、家族が寝ている間に料理をすると、電子レンジからは全く無用な「チン!」というやたら大きな音がする。炊飯器や電子レンジのタイマー等の設定をしようとすれば、小さく甲高い耳障りな音を何度も鳴らさなければならない。そもそも、タイマーや炊飯器を使うときに、ボタンを押すたびに確認音を鳴らさなければならないという必要性が、僕には、さっぱり理解できない。図書館や自習室では、試験勉強などをする際に、音が鳴らないストップウォッチや腕時計を必要としている受験生が、どれだけ存在することだろう。そのような消費者の需要や、小さな不快音が使用者に与える迷惑などメーカー側は全く考えようとせず、音が鳴ることをほとんどの消費者が当然のようにありがたがっている、と勘違いしているのかもしれない。騒音と言えば、現在使っているデスクトップ・パソコンは、部屋を閉め切ってしーんとした状態でなければハードディスクの作動する音が聞き取れないほど、静かなマシンだ。数年前に買ったノートパソコンをたまに使うと、ほとんど気にならなかったはずのハードディスクの音がとても耳に障ってしまうほど、現在のパソコンは作動音が静かになっている。なのに。なのに、である。どうして、キーボードの方だけは、最新のモデルでも、相変わらず、こんなにガチャガチャとうるさい音を立てるまま、改善しようとしないのだろう。キーを叩いている本人はそれほど気にならなくても、同じ部屋で読書をしたりテレビを見たりしている人がいれば、大迷惑である。速く打ってもほとんど音が出ないように改善されたキーボードが開発されれば、爆発的に需要があると思うのだけれど。電車のなかや図書館、あるいは教室などでノートパソコンを使う人が、周囲に遠慮せず思いっきりキーを叩けるようなパソコンが開発されれば、大ヒット間違いなしだと思うのは、僕だけだろうか。ボタンの確認音にしても、キーを叩く音にしても、あったほうがよいという人は、当然いるだろうから、そういう人は、従来の製品を使えばいい。僕が素朴に疑問に思うのは、こんなにも技術が発達し、こんなにも便利になった日本において、どうして音についての選択肢だけは狭く、「音を鳴らさない」という選択肢を与えられないまま、我慢して使い続けなければならないのだろう、ということ。本当に、不可解。“静かな暮らしの単調さは、独創的な頭の持ち主を刺激してくれます。” ―― アインシュタイン 宇宙の真理について瞑想するアインシュタインでなくても、この世界のあらゆる生産的な活動をする人にとって、「確認音」よりも「静寂」の方が、はるかに重要な場合の方が多いと思う。
Nov 8, 2005
“ いいかげん、目覚めなさい。 人生に不安があるのは当たり前です。 大事なのは、そのせいで自信を失ったり、 根も葉もないうわさに乗ったり、 人を傷つけたり、しないことです。 ” ―― ドラマ「女王の教室」より 先日、最終回を高視聴率で飾ったTVドラマ「女王の教室」。社会に対する痛烈なメッセージが込められている、非常に興味深い傑作だったと思う。「自由 vs 規律」「本音 vs 建前」「不安 vs 自信」などといった教育において避けて通れないテーマを扱い、独特の緊張感をはらんだまま、社会の縮図を風刺的に描いていく巧みな演出。成績や能力や美醜による徹底した差別主義、いじめ、告げ口、体罰、言葉による精神的虐待、親の懐柔、同じ言葉を繰り返すことによる刷り込み、、、、学校という場で起こりうる様々な問題を赤裸々に描くと同時に、教室という小世界での一教師によるファシズムが、最終的に生徒全員に(そしておそらく多くの視聴者にも)受け入れられ、徐々に説得力を帯びていく過程の描き方は、実に見事。強くて、頭がよくて、かっこよくて、しかも、冷徹に見える顔に隠された心の底には、生徒1人1人に対する限りない熱意と愛情が満ち溢れている。そんな指導者が、自分の信念を貫き続けることによって、最終的には生徒全員から熱烈な支持を受ける、という構図。まさに、ヒトラー政権が誕生した際の、熱狂的なドイツ社会を風刺した戯曲を見ているような気分になった。しかし、、、折りしも今日、小学生の校内暴力が過去最多、というニュースを目にして。少なくとも現代の日本のように、極端な自由偏重主義によって甘やかされすぎている子どもたちに対しては、こういう指導方針も「あり」なのではないかと多くの人が共感するであろうことも、想像に難くない。現代の子どもたちにとって、親も教師も恐れるに足りない存在であることは、ある意味、大きな不幸であるのかもしれない、と。ともかくも、問題提起のきっかけとして、とても価値あるドラマだと思う。僕自身、最終回では、涙が止まらなくなるほど感動してしまった。 ところで、このドラマが始まってすぐに、「見ていて不愉快だから、放送を止めろ」という視聴者の投稿が相次ぎ、降板を考慮したスポンサーもあったという。そんな圧力にも屈せず、最後まで内容の過激さを少しも減少させることなく、表現の自由を貫き続けた放送局の勇気に、拍手。 “自由にとって最大の危険は、それを少しずつ剥ぎ取る『合理的な理由』に他ならない。” ―― エドマンド・バーク
Sep 22, 2005
渋谷の、とある歩道橋の手すりの上には、ときどき、空き缶が立てて置かれていることがある。空き缶がこちら側に倒れて落ちれば、何事もない。歩くのに邪魔なゴミが1つ、増えるだけ。しかし、もし空き缶が向こう側、道路側に倒れて落ちれば、数メートル下を走る自動車やバイクなどに当たり、事によっては大事故につながる危険性もある。空き缶を置いた人間は、もちろん、そんなことはじゅうぶんに承知しているはず。それでも、遊び半分で置きつづける人間が、後を絶たない。まあ、事故にはなったりはしないだろう、でも、事故が起きても、自分のせいだとは誰にもわからないだろう、と。その程度の悪意しかないのかもしれない。そして、その空き缶を目の端に入れながら、足早に通り過ぎていく、何千、何万という人間がいる。まあ、事故にはなったりはしないだろう、でも、事故が起きても、自分のせいではない、と。その程度の悪意しかないのかもしれない。 多くの場合、救えていたかもしれない命を死に至らしめるのは、そんな何千、何万という僕たち、顔をもたない大人たち。 ----------------------- 映画「誰も知らない」を観た。そして、心が、たいへんなことになった。おとなたちの愚かさと身勝手さと無関心さと、子どもたちの強さと弱さと危なっかしさと。観ている間じゅう、自分の心のいろんな部分が針で突かれるように痛くなった。登場する子どもの一人一人に、いつしか過剰なほど感情移入させられている自分に気づいた。優しかったはずの母に裏切られた淋しさ。もう自分たちのもとに戻ってはこないという絶望感。昼も、夜も、部屋の中だけで暮らす、終わりのない退屈。電気もガスも水道も止められ、食べるものも買えなくなっていく不安。大人に見つかれば、兄弟が離れ離れになるかもしれないという恐怖。観終わった後、さりげない1つ1つのシーンを思い返すたびに、涙が溢れた。 “文学は、芸術は、飢えた子どものために、何ができるのか。” ―― サルトル この映画自体、じゅうぶんに切ない。けれど、もとになった実際の事件は、はるかにもっと醜く、残酷で、なんとも後味が悪く、哀しいものだった。しかし、映画は、これでいいのだ、と思う。芸術作品というものは、現実の世界から、表現者が伝えたい部分のみを切り取って表現すれば、それでいいのだと思う。すべてをありのままに見せつけなくても、この映画に登場する子どもたちの強く透き通った目が、必要なことのすべてを僕たちに語ってくれている。 “ 生まれてきて限りない青空にみつめられたから きみたちは生きる 生まれてきて手をつなぐことを覚えたから きみたちは寄り添う ” ―― 谷川俊太郎 学校にいけないことよりも、寒さで凍えることよりも、食べる物がないことよりも。離れ離れに生きていくことの方が、この兄弟にとっては、はるかに辛いことだった。 だから、子どもたちは、大人には助けを求めなかった。そして、大人は、そんな子どもたちの存在を、そのままにしておいた。寄り添って生きる子どもたちの弱さに、気づかないふりをした。知っていても、誰も知らないことにしておいた。
Mar 11, 2005
「21グラム」、結局、監督の意図にまんまと乗って、2回観てしまった。そして、それぞれのシーンの持つ意味を完全に理解できる2回目のほうが、はるかに多くの涙が出た。やられた。。。それにしても、この映画。凝った構成やら脚本やら演出やらよりも、何よりも、俳優たちの圧倒的な演技のおかげでもってるという気がする。過剰なまでに斬新さを狙いすぎた手法は、やはりこの映画の場合、作品の魅力を下げることにしか寄与していない気がする。時間や場所を激しく行ったり来たりするという発想自体、新しいわけでは全然ないのだし、やはり、奇をてらわずに、ふつうの構成にしていた方が、映画としては成功していただろう、と思う。それにしても、2回観れば、ひょっとしてひょっとしたら、シンプルなタイトルに込められた、もっと深い意味が理解できるのかな、と淡い期待をしていたのだけれど、その点では、期待はずれだと言われてもしかたがない映画だとも思う。あるいは、自分の理解力と想像力が乏しすぎるのか・・・・。 ------------------- ところで、昨日、ラーメンやご飯などを一気に大食いした後の自分の腹筋を見て喜んでいた自分。ただのアホだった。「筋肉量の増大にともなう基礎代謝量の向上により、とうとう自分も『大食いしても太らない体質』ってやつを手に入れたのか!?」と。ひとり、悦に浸っていた自分は、全くの勘違い野郎だった。今朝、起きたら、割れた腹筋など影も形も消え失せ、見事にぷよぷよのぜい肉で覆われていた。(泣)なんのことはない、食後3時間では、食べたものは脂肪に変わらない、という単純かつ明白な事実を忘れていただけだった。(爆) そりゃ、そうだよね。世の中、そんなに甘くないぜ。自分。 まだまだ、身も心も、未熟。 “自分の未来に限界をおいてはいけない。しかし現在の限界を無視してもならない。” ―― 山本鈴美香「エースをねらえ!」
Feb 19, 2005
映画「21グラム」を観る。こういう映画なら、最初からそう言ってくれー、と思わず言いたくなった映画。とにかく、場面や時間が意図的に激しく行ったり来たりする。手法は同じでも、そのわかりにくさは「メメント」や「パルプ・フィクション」の比ではない。もちろん、ストーリーの大筋は容易に追えるのだが、1つ1つのシーンに込められた意味を理解しようとしたら、最低2回以上は観なければいけませんよ、と監督に言われているような、そんな気分になる。で、そうなると、意地でもその手には乗るもんか、という気にさせられる。内容も、タイトルや宣伝のイメージから、まっすぐ素直な純粋感動映画を期待していたのだが、実は相当かなり、屈折し、不純で、不条理な、どろどろの人間劇。あっさり素朴な和食を楽しもうとして店に入ったら、コテコテの中華料理を出されたような。濃厚な味を覚悟し、それを求めているときなら、存分に堪能できたのだろうけれど。あるいは、観る前に、これでもかというくらい技巧的な構成をした映画だということを知らされていたら、これはこれでインパクトのある良い映画だとなんだと思うけれど。。。その中で、1つ、印象に残ったシーンがあった。--------一家団欒の食事の場面。小さな男の子が妹と口ゲンカになり、彼女の左腕を殴って、泣かせてしまう。母親が男の子を叱ろうとすると、妄信的なクリスチャンである父親がそれを制止する。そして、殴られた妹の腕を強くつかんで、「今度は右腕を殴らせなさい。」と命じる。同時に、兄には、「妹の右腕を殴れ」と命じる。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と聖書が言っているから、という。もちろん兄は嫌がるが、父親に高圧的に命じられて、しかたなく、兄が妹の右腕を思い切り殴ってしまう。さらに大声で泣き出した妹を抱き上げ、母親が「最高の父親ぶりだわ!」と怒りを込めた皮肉を言いながら、部屋を出て行く。その後、しばらくの沈黙の後、父親は息子の頭を力いっぱい殴り、「この家で暴力は許さん!」と大声で怒鳴りつける。--------多くの場合、子どもの育て方を大きく誤ってしまうのは、信念を持たない親なのではなく。自分の中の確固とした信念や価値観を、(ときに無意識に)子どもに押し付けてしまっている親なのではないかと思う。 “私に従おうとすれば、あなたは自分を見失うだろう。 自分の良心に従いなさい。そうすれば、私を見出すことができるだろう。” ―― イエス・キリスト ある道徳に妄信的にしたがうことで、最悪に不道徳な結果を招いてしまうことは、実に多いと思う。 ------------------------- あらゆる生き物は、通常、自分の「美しい」部分をできるだけ見せようとし、自分の「醜い」部分を隠そうとする。たとえば、花は、花弁の部分をもっとも目立つ場所に咲かせて昆虫を惹き寄せようとし、根っこの部分などは、見えないように土の中に隠す。たとえば、ほとんど動物は、骨や内臓を隠し、見栄えの良い羽毛や鱗や毛皮や皮膚で全身を覆う。たとえば、ほとんどの場合、人間は、排泄器官などは隠し、顔や手足のみを他人に見せる。しかし、「美しい」とか「醜い」とかいう言葉の定義は、それが『通常』の場合か『非常』の場合かによって、180度、転換することもある。通常は「醜い」部分が、特別な場合にだけ、最高に「美しい」もの見える瞬間がある。たとえば、花の根っこは、ある動物にとっては、最高のご馳走に見える。たとえば、肉食獣は、はじめは獲物の美しい外観に食欲をそそられるが、いったん仕留めた後では、その骨や内蔵こそが、最高に美味しく見える物体に変化する。たとえば、人間の排泄器官も、性的な行為を目的とする際には、ほとんどの人が最も惹きつけられる美しい物体に変化する。 要するに、何が言いたいかというと。「通常、ふつうに、美しいもの」を期待していたときに、「非常の場合にのみ、最高に美しいもの」を見せられた、というのが、映画「21グラム」の率直な感想。いずれにしても、インスピレーションをくすぐられる、すごい映画であるらしいことには、ちがいないが。
Feb 16, 2005
蕩々とながれゆく日々。この上なく充実した身心。恵まれた環境。もしも、日々の感情の起伏や、客観的な生活状況等を総合的に数値に換算して「幸福指数」なるものをはじき出すことができたとすれば。おそらく、ここ数か月の自分は、過去のどの時期の自分よりも指数が高くなるのではないかと思う。そんな日常。 ---------------- キム・ギドク監督の映画「悪い男」を観た。良くも悪くも、凡庸でない作品だ。心と体を堕とし貶めることでしか愛情を表現できない男の、深い心の闇。社会の底辺へと堕とされた、無垢で清楚な一人の女性。閉ざされた世界に生きる人間たちの、疎外感、哀しみ、屈辱、怒り、痛み、、、冒頭からラスト・シーンまで、自分の想像力の卑小さを嘲笑われるように、心地よく期待を裏切られ続けた映画だった。しかし。何よりも度肝を抜かれたのは、映画を観終わって、解説を読んだとき。「上映時間103分間のうち、たったひとことの台詞で観客を魅了した<悪い男>ハンギ役チョ・ジェヒョンは、、、」とある。そんな、ばかな。彼は、あんなにたくさん、しゃべってたじゃないか。・・・・と、よく思い出してみると、たしかに、主演の俳優が言葉を発した場面は1回だけだった。なんという、表現力。まったく言葉を使わないまま、あれだけ多様な感情を、観る者に伝えていたのだ。いや、言葉を使わずに感情を表現できる俳優はいくらでもいるだろう。しかし、台詞がないことを全く不自然に感じさせないどころか、台詞がなかったことにすら気づかせないような俳優には、初めて出会った。 “「あの映画に君が出ていたなんて、ぜんぜん気づかなかったよ」と言われることほど、 俳優にとって光栄なことはないね。” ―― トム・ハンクス まさに、天衣無縫。
Dec 10, 2004
昨日に引き続き、恍惚状態のままキーを叩く指は、疲れを知らず。腰が固くなってきたら、腹筋などしつつ。無理のない時間に、休憩をはさみながら。カーテンを締め切った薄暗い部屋で、集中。集中。。。ひたすら、集中することに、集中。夜。とりあえず完成した原稿を、メールで送信。一日が、終わる。 “人が芸術や科学に向かう最も強い動機のひとつは、 うんざりするほど粗野で、自分自身の日常的な欲求にしばられて、 どうしようもなく味気ない日々の暮らしからの逃避です。” ―― アインシュタイン -------------- 昼間、テレビをつけると、ちょうどワイドショーで島田紳助が、泣いていた。同じ会社の人間が、自分が尊敬する会社のトップの人間を呼び捨てにしたり、自分に対して気安く口答えなどを続けたことに対し、腹を立てて暴力を振るってしまったとのこと。彼は、おそらく現在の日本のタレントの中で、平均すると現在最も高い視聴率を取っている芸人なのではないかと思う。会見では、一切、自分の行為を弁解することなく、恥も外聞もなく正直な気持ちを語っていた。(少なくとも、僕にはそう見えた。)そんな彼を、前後の見境もなくなるくらい激昂させるほどに挑発した被害者の女性は、本当に誰が見ても憎たらしいと感じるような不快な態度を取っていたのだろう、と思う。しかし、暴行を受けた被害者が、それを犯罪だと認識した限りは、犯罪になる。警察に被害届を出せば表沙汰になり、検察を通して裁判所に告訴をすれば、さらに相手の地位を落とすことができる。暴行傷害事件というのは、被害者本人の受けた痛みによって、罪の重さが決まるものだ。屈強なプロレスラーを殴ってもまず犯罪にはならないが、小さな子どもを殴れば犯罪になる。怪我をしやすい、傷つきやすい人を殴れば、それだけ罪が重くなるべきなのは、当然だ。しかし、、、それは、ある意味タテマエであって。たまたま、お金を受け取って満足するような被害者が相手だった場合は、同じ暴行行為をして(大怪我を負わせれば別だが)多少の怪我を負わせても、告訴をされないかぎり、罪にならずに済んでしまう。逆に、今回の事件のように、示談に応じないような頑固な被害者、あるいは気の強い被害者が相手だった場合には、負わせた怪我が軽い場合でも、立派な犯罪者になる。おかしなシステムだな、と思うのは、僕だけだろうか。もちろん、女性を半監禁状態にして、暴行を加えた島田紳助の行為は、悪い。犯罪行為である。(少なくとも物理的には)無抵抗の女性に対して一方的に暴行を加える行為は、倫理的にも道徳的にも、許されない。しかし、彼をそこまで駆り立ててしまうほど、言葉の暴力によって挑発した「被害者」の女性は、果たして今、どれだけ心や体が傷ついているのだろうか。「人をカンカンに激怒させるほどの失礼極まりない態度を取ってはいけない」という法律はないから、もちろん彼女は全く罪にならない。殴られたことに対する悔しさから、意地でも示談には応じず、あくまで告訴するというのも法的に認められた被害者の選択肢である。しかし、なにか、どうにも吹っ切れない不条理を感じてしまう。あるいは、本当に被害者の女性は取り返しのつかないほどの心の傷を負ったのかもしれない。あるいは、単に腹が立って、示談金を引き上げるために告訴をしただけなのかもしれない。真実はわからない。今回の事件に限っては、加害者と被害者の主張が食い違っているので、真相がわからない限り、本当にどちらが正しいと一概に決めることはできない。しかし、少なくとも、暴行事件に対する被害届から告訴への一連の流れが、現在のシステム自体のおかしさが、自分にはどうしても納得できないことは、確かだ。 “法律は、大きなハエが通りぬけ、小さなハエが捕まる蜘蛛の巣である。” ―― バルザック
Oct 29, 2004
最近観て、よいと思った映画。「My Life without Me」(死ぬまでにしたい10のこと)お金はないし、母は全世界を呪って生きているし、父は十年以上刑務所にいるし、夫は不安定なとび職だし、自分はすぐに死んでしまうことがわかっているのだけれど、少なくとも、夫や子どもと接しているときの主人公は、頭の先から足の指先まで愛情と幸福を全身で表現している。アメリカ映画には貧困の象徴としてトレーラー・ハウスがよく登場するが、そこでの生活がこんなにも幸福そうに描かれているのを見たのは、初めてかもしれない。あるとき、妻の病気のことを知らない夫が、妻にしみじみと言う。"You know, tonight, I realize how lucky we were to meet that night.I mean, in spite of everything....in spite of living in a shit hole, in spite of never having anything new, in spite of never going on a vacation, you never complained once....Not once.I would....I would like to be better for you."主人公の女性は、夫や子どもにウソをつき続けたまま、日々を送る。つかのまの幸せな時間を、真実によって邪魔されないために。主人公の言動は、必ずしもすべてが美しくないし、善良なことばかりでもないし、むしろ、僕には、まったく理解不能な振る舞いも多かった。しかし、そういう心の弱さや醜さや不条理さを全部ひっくるめて、人間をあるがままに描こうとしている映画なんだろうな、と思った。 “ごく普通の人間から 人生の嘘を取り上げてごらんなさい。 それは同時に 幸福を取り上げてしまうことですよ。 ” ―― イプセン 本当にそのとおりだ、と思う。
Oct 27, 2004
一人、街を歩く夏。 天へと抜けるような青空。建物の間を抜けていく心地よい風。心待ちにしていた電話。目に飛び込んでくる全てのモノが、自分を祝福する夏の午後。 ----------------- ところで、クリントン元大統領の自伝が、爆発的に売れている。彼は、本当に強い人間だと思う。不倫行為の一部始終が(子どもには聞かせられない内容まで)こと細かに公開され、それを隠そうとしたウソまで完全にばれて、アメリカだけでなく世界中の笑い者、晒し者になった。事件後のテレビ番組で、なぜあんなことをしたのか、と聞かれ、"Just because I could."(単に、できたから)という迷言まで残してしまった。大統領として選ばれながら、人格は最低の男だったと誰もが知ることになった。しかし、クリントンは大統領を辞任した後も、エイズ撲滅に関する講演等、公の場で活動を続けている。そして今度は、過去の過ちとその後の私生活や自分の心境を告白する本まで出してしまうというのだ。『恥』を乗り越えるその精神的な強さは、一体どこからやってくるのだろう。クリントンは幼少時代、自分や母親にすぐに暴力を振るうアル中の義理の父親に、激しい怒りを抱きながら育った。「その時、酔った義父の手には銃があった。彼はそれを撃った。弾は廊下に立っていた私と母の間を抜け、壁を貫通していった。」と回想する。そんな子ども時代を過ごしたクリントンは、「太っていて、ださくて、女の子にもてない」少年だったと言う。実際、補助車なしで自転車に乗れるようになったのは、オックスフォード大学に入学してからだったというほどの不器用でもあった。そんな彼が、アメリカ合衆国の大統領になり、身に覚えのない収賄疑惑に関して検察官に激しく糾弾される中で、子ども時代の「怒り」と「自分の中に巣食う悪魔」がよみがえってしまったのだと、クリントンは自分自身を分析する。彼は言う。「人々が自分の過ちとか、抱えている問題とか、不安とかをもっとオープンに語れるようになれば、人々はもっと自由になれると思うんです。私は(この本を書くことによって)人々を解放しようとしているんです。」そう、この、マイナスをプラスに転換してしまう発想。これが、彼の底知れない強さの原点だ。公的な立場にあり、大なり小なり、クリントンと同じような過ちを犯した人間はたくさんいる。彼らの多くは、自らの犯した過ちを恥じて、公の場から隠れようとする。小さな過ちのために、せっかくの能力を社会のために生かすことを簡単に断念してしまう人間は多い。(最近の年金騒動であっさり辞任していった日本の政治家たちも然り。)しかし、過ちを過ちとして然るべき罰を受けた後は、社会に対して償いこそすべきであり、決して社会から逃げたり隠れたりすべきでないのだ。この「すべきこと」を実際にできてしまえるクリントンの精神的強さが、僕には「すごい」と思えてしまうのだ。 “自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ。” ―― 村上春樹「ノルウェイの森」 一度、紳士の仮面をはがされた後で、真に紳士的な振る舞いをするというのは、並み大抵の覚悟でできるものではない。
Jun 29, 2004
“人は、大きな幸福を目の前にすると、臆病になる。 それを乗り越えて幸福を手にすることは、不幸を生き抜くよりも勇気がいること。” ―― 映画「下妻物語」より ここ数日は、本当に何事もない平穏で幸福な日々であった。別の言い方をすれば、暇で退屈な日々だった。(爆)やること為すこと中途半端な気がして、何だか物事が思うように進まないので、今日は一日中、何も考えず思いっきりのんびりしてしまうことにした。 -------------- そういうわけで、午前中いっぱい朝寝坊を決め込もうと肚を括っての爆睡中。弟からの電話で起こされる。「相談、っつーか、実は、ちょっと頼みごとがあるんだー」「あーはぁ?」(←イーサ@寝起き。)聞くと、酒気帯び運転で警察に捕まり、罰金の督促状が送られてきた、とのこと。姉さん女房の妻には捕まったことを内緒にしておいたらしく、自分の小遣いでこっそり払い込んでおこうと思っていたところ、督促された金額を見てびっくり。弟の1か月分の給料が丸々ふっ飛んでしまう金額だった。「次の給料が入るまで、何とか半分だけでも貸してもらえませんか?」と、こういうときだけ、敬語を使ったりする。「いいよ、返さなくてもいいよ。振り込んどくよ」と、つい、いつもの調子で言ってしまった直後に、少し後悔した。罰は罰なんだから、本人にきちんと受けさせた方がよかったか。。。これまで、二人の弟と両親には、事故や病気や冠婚葬祭等、まとまったお金が必要になる度に快くサポートしてきた。その時たまたまお金を持っている人間から、その時たまたま困っている人間に必要な分を流すのは、ごく当然のことだと思っている。それに、お金は血液と同じで、一箇所に留めておくより流した方が「巡り」がよくなるという特質もある。(少なくとも自分の場合は、出費が多い時期の後には、なぜか必ずそれに伴なって収入もよくなった。)だから、家族から困っているという相談を受け、確かにやむをえないと納得すると、すぐに送金を快諾してしまっていた。しかし、今回の件は不可抗力による困窮ではなく、自分の犯した過ちだ。やはり、自分自身で罪を償わせるべきだったかもしれない。まあ、でも、「返さなくてもいい」と僕が言った後、弟の口調が少しマジメになり、しかも、何か考えている風になり、あえて最後まで礼も言おうとしなかったので、もしかしたら、後できっちり返すつもりでいるのかもしれない、とも思った。「絶対、返せよ」と言われて返すより、「返さなくてもいいから」と言っているのに自ら進んで返してこそ、人間性が評価されるというものだ。弟よ。というわけで、いま君は、兄から人間性を試されているらしい。それにしても、しかし、やはり自分も結婚したら、こんなふうに寛大な気分ではいられなくなるんだろうな、と、ふと思う。限りなく運命を楽観できるのは、「独身貴族」でいる間の特権かもしれない。 ------------------------ 午後は代官山に行き、以前から一度食べてみたいと思っていた刀削麺(とうしょうめん)を食べた。料理人が独特の包丁を使って、生地から麺を直接、鍋の中へ切り落としていく製法のラーメン。さすがに本場、中国仕込みの料理人の手捌きは鮮やかで、生地を削るごとに麺が放物線を描きながら50センチくらい飛んで次々とリズミカルに鍋の中に吸い込まれていく様は一種の芸術だった。ただ、肝心の味の方は、、、、微妙。あまりに期待が大きすぎたためか、麺もスープも格別「うまい!」というほどの感動はなかった。店の看板商品である激辛のやつを注文したのだが、スープの半分近くが脂分。極端な「こってり」系で、僕にはちょっと苦手なタイプだった。また、麺も確かに独特の柔らかい歯ごたえはあるが、もう少し太くてコシの強いものを想像していたので、少し拍子抜けしてしまった。この店は、せっかく料理人に素晴らしい技術があるのだから、客にアンケートを取るなどして、より多くの日本人の好みに合うように工夫を重ねると、もっともっと成功する可能性があるのではないかという気がする。----------------------- その後、渋谷で映画「下妻物語」を観た。この物語の舞台であり、ロケ地でもある茨城県下妻市は、僕が生まれ育った町の隣の市。「市」とは名ばかりで、人口密度が非常に低く、延々と田圃が続くド田舎だ。そんな場所が、「美しい田園風景」として映画の舞台になってしまうのだから、まったく長生きはしてみるものだ。(←意味不明)地元民のひいき目もあって、(というか最初からひいき目でしか見ていないので)映画は最初から最後まで面白かった。冒頭の場面で、高校のとき自分が毎日自転車で片道50分通っていた道を、深田恭子がロリータ・ファッションのままバイクで爆走する。もう、そのシーンだけで、僕はこの映画が気に入ってしまった。(爆)懐かしい風景の連続だった。物語の内容は、というと。ロリータ・ファッションを購入することだけが生きがいで、毎週末、片道3時間かけて下妻市から代官山まで通う内向的で無感情な高校2年生の女の子と、短気で粗暴で垢抜けない、同じく17歳の暴走族の少女の交流を軸に、ちょっとばかり社会からはみ出した人間たちが繰り広げる爽やかで痛快なコメディ。よ~く考えると、とても不幸な性格で、可哀相な境遇にある登場人物たちなのだが、それぞれが、あっけらかんと人間らしく自分の人生を歩んでいる姿に安心させられる。きちんとどんでん返しもあったりして、心地よく予想が裏切られていく展開もいい。それに、コテコテ、ベタベタなギャグやコントが大好きな僕にとって、小気味よく挟まれる小ネタが、ことごとくツボにはまってしまったのだった。(爆)ところで、映画館のチケット料金の表示に「ロリータ割引」というのがあった。「幼い女の子が好きだ」と宣言した男は割引してもらえるのか!?と一瞬、思ったが、そうではないらしい。(←当たり前だ)実は、この映画の主人公のように、ロリータ・ファッションで観に来ている女の子のための割引のようだった。というわけで、観客席には、ヒラヒラとした赤ちゃんのようなコスチュームの女の子がちらほら。この世の中には、こんな格好で街中を歩く勇気がある人々が、こんなにもたくさんいるのだという現実に、僕は今日、何よりも驚かされてしまったのだった。ちなみに、観客の大半は、20歳未満か20代前半の女の子たち。 そんな中、34歳のオジサンが一人でちょこんと座って観ている勇気にも、驚かされた人は少なくあるまい。(爆) ---------------------- 夕方は、例によって水泳教室(初級コース)。今日は、練習の合間のインストラクターの無駄話が、必要以上に多かった。楽しく習いたい人とか、厳しくてもいいから効率的に上達したい人とか、クラスに来る人たちの目的は様々だし、熱心さも様々だから、まあ、これもしかたがないかもしれない。事実、奥様方は雑談をたいへん面白がって喜んでいらっしゃった。しかし、できるだけ速く上達したい僕のような人間にとっては、ちょっと不満なレッスンであるのは確かだった。これが続くようなら、多少割高な料金を払ってでも、誰かに個別レッスンを頼んで教わった方が、はるかに効率がいい気がした。でも、まあ、1つでも、2つでも、自分では気づかない欠点を指摘されたのはありがたい。『非効率』は、必ずしも『全くムダ』を意味しない。Anything is better than nothing.とりあえず、コース終了まで続ける価値はありそうだ。
Jun 17, 2004
レーガン元大統領が亡くなった。93歳。その人格、功績ともに、アメリカの歴代大統領の中でもトップ5に入る偉大な政治家だったと、僕は思う。彼は、史上最高齢の69歳で大統領に就任した。『強いアメリカ』の回復を唱え、ソ連を「悪の帝国」と呼び、一貫して対ソ強硬路線を通した。その国粋主義的な発言は多くの知識人の眉をしかめさせたりもしたが、しかし、彼のそんな政治スタイルのおかげで、世界が冷戦時代を抜け出すことができたのも事実だ。そう。彼が人類に残した最大の功績は、弱りかかったソ連にとどめを刺し、冷戦を終結させたことだった。その決め手となったのが、核ミサイルをアメリカ本土到達前に衛星から迎撃して撃ち落とすというSDI(戦略防衛構想)、通称「スターウォーズ計画」。この途方もない予算がかかる「スターウォーズ計画」構想を彼が打ち出したとき、軍事専門家は「実現は到底不可能」と鼻で笑い、政治評論家は「お金の無駄遣い」とこき下ろした。しかし、そんなことはお構いなしに、レーガンは熱意を込めて、「これで核兵器は無能なものになるのだ」とその有効性を主張した。核兵器は無数の人間の命を奪うが、SDIは無数の人間の命を救う。彼は、一貫して核兵器廃絶の推進者でもあったのだ。核戦争で全世界の人間が死んでしまうことを考えたら、福祉その他に予算を回すことよりも、まず、防衛に必要なだけ予算を投じて、人類が生き延びることを確保することの方が大事だろう、というのが彼の信念だった。自信満々にテレビでSDIの重要性を国民に訴えるレーガンを見て、ソ連の高官や軍人たちは青ざめた。核兵器は量産できても、SDIを真似できる技術も予算も、ソ連にはなかったからだ。レーガンの「大はったり」に、ソ連側は震え上がったのだった。その後、数年に渡る米ソの駆け引きの末、1989年12月、レーガンの意志を引き継いだブッシュ(パパ)とゴルバチョフのマルタ会談で、ついに冷戦は終結した。 “ゴルバチョフ書記長、この壁を叩き壊しませんか!” ―― ロナルド・レーガン(ベルリンの壁の上で) レーガンのSDIに賭ける無邪気なほどの熱意と信念がなかったら、僕たちは現在も冷戦の真っ只中、常に全面的核戦争の脅威に怯える日々を過ごしていたかもしれない。 ところで、レーガンはアメリカという国の矛盾と繁栄を象徴的に生きてきた人物でもあった。彼の父はアル中であり、貧しい靴のセールスマンだった。大統領になってからも、「11歳のとき、泥酔して玄関で寝ていた父をベッドまで引きずっていったときのウィスキーの臭いを、今でも覚えている」と回想する。子どもの頃は、父の仕事の都合で、各地を転々と引っ越した。到底、学費を払える経済状態ではなかったが、フットボールと水泳が得意だったことで、スポーツ奨学金で大学に入ることができた。学生時代は、皿洗いのバイトで生活費を稼ぐ。卒業後、ラジオアナウンサー、俳優を経て、政治の道へ進む。レーガンの最初の妻は、レーガンの政治好きについて行けず、離婚した。その後、52年間生活をともにすることになるナンシーと出会い、結婚。“彼にはエゴというものが全くありませんでした。 そして、ありのままの自分にとても満足していました。 だから、彼は誰に対しても、何も見せつける必要を感じなかったのです。” ―― ナンシー・レーガン レーガンは就任直後に暗殺未遂に遭った。入院中のある日、老体に銃弾を受けて体が弱っていたはずのレーガンが、四つん這いになって床掃除をしているのを、警護の人間が発見する。「大統領閣下、何をなさっているのですか!?」「ああ、洗面器の水をこぼしてしまったのでね、、、看護婦に迷惑をかけるといけないから。。。」 憲法で定められている最長8年という任期を務め上げたレーガンは、あるとき、記者団に「あなたが国民に支持される秘密は何だと思うか?」と聞かれて、こう答えている。“アメリカ国民は、たぶん、私の中に自分自身を見ているんだと思う。 私は、彼らと同じ普通のアメリカ人だから。” ―― ロナルド・レーガン
Jun 14, 2004
久しぶりに、とても面白い本に出会った。「THE ANSWER」 鈴木剛介 著 (角川書店)文字通り、筆者が気が狂うほど自分の頭で考え抜いた哲学。高校生でもスイスイと読み進められるように配慮された軽快な文体。ユーモアと、伏線と、読者への心地よい挑発を交えた「娯楽小説」としての工夫。最後まで読んで、個人的に非常にびっくりさせられることもあったり。「理屈好き」な人間にはたまらない、中身の濃い、パワーに溢れた本だ。一週間ほど前に出版された全く無名の著者による本だが、いずれベストセラーかロングセラーになるのではないか。あるいは、著者の今後の活躍次第では、ひょっとしてひょっとすると、著者自身が「思い込んで」いるように人類史に名を残す作品になるかもしれない。・・・この筆者と自分は、同い年。本好き、映画好き、格闘技好き、、、などという共通点も多々あって、すっかり魂が共鳴させられた一冊だった。実際、読んでいる途中で、自分自身が書いた文章を読み返しているかのような錯覚に陥ったくらいだ。(笑) --------------------- このところ、ジャック・ダニエルにはまっている。この間、久しぶりに飲んで「この酒、こんなに美味かったかぁ・・・」と感動してしまった。ワイルドターキーの刺激的な味に慣れた舌にとって、ジャック・ダニエルのなめらかな口当たりは新鮮だったのかもしれない。ギスギスした心には、「刺激」よりも「癒し」が必要ということか。 ----------- それにしても、最近の自分は、好きなこと、得意なことばかりやっている。公私ともに、文句なく充実している。楽しんでいる。しかし、このままだと何だか人間がダメになる気がしたので、あまり得意でないことにも挑戦してみることにした。まず、水泳。 いちおう、僕は、泳げと言われれば体力の限りいつまででも泳ぎ続けることができる。しかし、まったくフォームもなってないし、速くもない。疲れてくると、クロールがほとんど「犬かき」になってしまう。そこで、水泳を「得意科目」にしておこうと思い立ち、近所のYMCAのプールで無料体験ができるというので、数年ぶりに一泳ぎしてみた。午後8時ごろの、最も人が多い時間。あまり人がいない端のほうのコースを選んで遠慮がちに泳いでいると、僕の後ろで泳いでいた明らかに70歳を超えているご老人が、僕に近寄ってきて、言う。「真ん中の(初心者用の)コースで泳いだら。」「・・・・・(泣)。」しかし、こんなことでは、めげないイーサ。早速、水泳教室(初級者用)に通い始めることを決心したのだった。(爆) --------------------- 仕事は、乗りに乗っている。「飛ぶ鳥を落とす勢い」と言われたのも今は昔。現在の自分ならハレー彗星だって撃ち落とせるのではないか。(爆)先日、スタッフの何人かが、機会あって受講生の方たちと飲みに行ったそうだ。そこでは、3時間半に渡って、すべての受講生から「絶賛、絶賛、また絶賛」の声に包まれ、その宗教じみた崇拝のしかたに、スタッフの方が逆に心配するほどだったという。「簡潔明快」「テンポの良い解説」「どんな疑問や質問にも即答」「パワフルで熱のこもった講義」等々、、、、自分のいないところで称賛されているということを聞くのは悪くないものだ。しかしもちろん、自分の不勉強さを一番よく知っているのは自分自身。生(なま)の自分は、底知れず無知で怠惰だ。だから、それらをさらけ出さないように、これからも誠意と工夫で臨むのみ。 “お世辞とは、タバコの煙のようなもの。それを実際に吸い込まない限りは、全く無害だ。” ―― アドレイ・E・スティーブンソン
Jun 7, 2004
自分でやろうと決めたこと。しかし、誰からも義務付けられていないことを続けるというのは、意志の弱い僕のような人間にとっては、本当に難しい。特に、始める前。いざ、取り掛かってしまえば、多少たいへんでも面倒でも苦しくても、それなりに楽しんで進めて行けると頭ではわかっているのに、体がぐずぐずと拒否して動こうとしない。 “ 始めなきゃ 始まらないから ” ―― 浜崎あゆみ「Fly high」 そうなんだ。それは、本当にそうなんだ、けど。。。 ----------------- 先日、映画「ラスト・サムライ」の DVD レンタルが開始したので、借りて観た。なるほど、大感激をする人と批判的な感想を抱く人との賛否が激しいのも頷ける気がする。個々のシーンだけ取り出すと、伝えたいテーマやメッセージが胸を打つものがあるのだが、セリフ回しやストーリー展開は、ところどころ、不自然さや荒削りさが目につく。また、ある場面で設定があまりにも滑稽で仰々しいので、その演出に大笑いしてしまったら、どうやら登場人物たちは至ってシリアスであり、実は観客を泣かせたいところらしかった、などというシーンもいくつかあった。映画館で観ていたら、たいへんなことになっていたかもしれない。しかしそれでも、サムライ魂には大いに感化されるものがあった。不用意にアドレナリンが分泌してしまったため、映画を観た後、久しぶりに空手の自主稽古などする気になった。順突、逆突、前蹴、回蹴、足刀、、、、突きや蹴りのキレは、十年前とほとんど変わっていないのではないか、などと自己満足。(爆)そこまではよかったのだが、やはり翌日、全身筋肉痛になった。翌々日は、さらにひどい筋肉痛になった。(爆)いけない。これでは、いけない。最近も、腕立てや腹筋などの筋トレは怠ったことがなかったし、時々サンドバッグを叩いたりして鍛えていたつもりだったのだが、やはり、素突きや空蹴りのとき最高速度で手足を動かすために使う速筋は、全く違うらしい。物事は、「これだけやっていれば安心」と信じて続けているときが、最も危険だったりする。様々なことを、バランスよく織り交ぜる方がいい。これを機会に、ちょっと体を鍛えなおそうと思った。 "From the moment they wake, they devote themselves to the perfection of whatever they pursue."“日本人は目覚めた瞬間から、目指すものが何であれ、完璧さを追求してそれに没頭する。” ―― 映画「ラスト・サムライ」より
May 18, 2004
“強く心に決めれば、何だってできるんだぜ。” ―― エミネム「Lose Yourself」 映画「8 Mile」を観て以来、エミネムの強烈なパワーにすっかり魅了されてしまった。彼の半自伝的なこの映画自体にも大いに感動したのだが、僕が特に最も衝撃を受けたのは、DVD 特典映像でのフリー・ラップバトルのシーンであった。オーディションに勝ち上がってきた腕に自信のあるラッパーたちと、エミネムとの一騎打ち。映画とは違い、脚本なし、ヤラセなし、正真正銘の口喧嘩バトルだ。しかも単に相手を言い負かせばいいというわけではなく、いかに言葉がリズムと調和し、いかにユーモアが巧みかということも同時に競われる。その台本のない真剣勝負は、超一級の格闘技を観ているような面白さがあった。エミネムの口からは、たった今出会ったばかりの相手に対して、正確無比かつ辛辣で、爆笑を誘うユーモラスな毒舌が、ラップ・ビートと見事に調和し機関銃のように後から後から飛び出してくる。彼の作品には賛否両論が激しいものが多いが、とにかくも、その圧倒的な才能には惹かれてやまない。というわけで、エミネム語録。 ~「エミネム / ライフストーリー」より~ “俺のツアーには、何百万という白人や黒人が、共通の目的を持ってやって来る。 みんなヒップホップを愛して、それだけのためにやって来るんだ。 俺たちは、いま、世界を変えつつある。 人種なんてものを、まるで意味のないものにすることによって・・・。” 黒人が支配するラップ界にあって、白人であることのハンデをうんざりするほど味わってきたエミネムの言葉には、何ともいえない重みがある。 “失敗。それは常に、俺を突き動かす一番の原動力だった。 初めてラップのステージに上がった日から、 俺が負けて、最後に誰かが笑っていることへの恐怖が、 あの惨めな敗北を二度と繰り返したくないという気持ちが、 今まで俺のすべてを支えてきた。” 最初のステージで、彼は緊張のあまり一言も発せないまま負けてしまったのだった。 “俺にとって音楽はセラピーみたいなものなんだ。 胸の中にあるものを全部吐き出してる。 人は俺がいつも何かに怒ってばかりだと思っているけれど、実際は違うんだ。 俺は、ほとんどいつもハッピーなんだよ。 歌の中で怒りを全て吐き出してしまう。 だから、スタジオを出るときは、「ひゅうーっ」ってな感じさ。” これは自分自身、詩や日記を書いていて同様の誤解を受けることがあるので共感できる気がする。自分が文章によって表現していることは、自分の心のほんの一部分でしかない。しかし、それを表現することで、それが現在の自分が考えていること、感じていることの全てだと思われてしまうことがある。人にもよるだろうが、芸術においては、作者の心の中のほんの一部を、あえて極端な形でえぐって表現している場合が多いのではないかと思う。激しい感情を作品にぶつけた後では、作者本人は意外にケロッとしてたりするものだ。 “お金は問題じゃない。 もし俺が1億枚のレコードを売って世界中のお金をつかんだとしても、 それでも、俺は喜んで今と同じことをやってるだろうと思う。” 一生続けてもいい、と自信を持って言えるような好きなことを仕事にできることは、最高に幸福なことだろう。 (少年少女へ何かアドバイスは、と訊かれて) “ドラッグはダメだ。 避妊具なしのセックスもダメだ。 暴力もダメだ。 そういうことは、俺だけに任せておけ。” どれにも一度は痛い目にあっている彼の言葉だけに、説得力がある。ちなみに、恋人が妊娠したと聞いたときには冷酷にもあっさり別れてしまったエミネムだったが、その時に生まれた現在7歳になる娘と過ごす時間を、彼は今では他の何よりも大切にしている。 “俺の歌詞の多くは、ただ皆に笑ってもらうためだけのものなんだ。 半分でも脳みそがある人なら、俺が冗談で言ってるのか、本気で言ってるのか、 わかるはずなんだけどな。” エミネムの歌詞は、しばしば同性愛擁護団体などから、激しい抗議を受ける。しかし、世界で最も尊敬されている同性愛者の一人でもあるエルトン・ジョンは、エミネムのアルバムを聴いて、最初から最後まで大笑いしたという。「あいつは大丈夫だ。あの男は天才だ。放っておけ。何の制限もしちゃいけない。」後に、エミネムは、エルトン・ジョンと共演ライブをして周囲をあっと驚かせた。 そう。人種や性的志向の違いのために怒ったり争ったりするのは、ばかばかしいことなのだ。あらゆる確執は、芸術に昇華して笑い飛ばしてしまえばいいのだ。
Mar 4, 2004
今日の読書:「奇跡をさがして」「勇気をください」の著者であり、重度の顎関節症のため、ペンを握りものを書くときでさえ全身の激痛に苦しむという吉武祥子さんが、自分の分身である一匹のネズミに託した心のメッセージ。絶望とともにあり、幸せを求めつづけている人に、ぜひ読んでほしいと思う。何度でも、読み返してほしいと思う。「お母さんネズミ」が気づいたことに、心から気づくことができるようになるまで・・・・。“ 昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。” ―― ニーチェ夜の闇の本当の深さを知っている著者だからこそ、こんなにも美しく透明に輝く物語を生み出せるのかもしれない。バッハの楽曲を最初に聴いた人は、驚きと感銘のあまり、「これは、音楽でないなにかのような気がする」とつぶやいたという。この絵本を、≪童話でないなにか≫と呼んでも間違いではない気がする。
Oct 16, 2003
今日の読書: 「“It”(それ)と呼ばれた子」筆者が、幼年期の体験を綴った実話だ。------------“裏庭で、母さんが泣いているのに気づいた。どうして悲しいの、とたずねると、母さんは答えた。本物の家族がいて、とっても幸せだから泣いているのよ、と。”愛情と思いやりにあふれる、優しい母親だった。しかし、ある日とつぜん、考えられる限りの残忍な方法で、子どもを虐め始めるようになる。暴力、飢え、火、薬品、汚物、刃物、罵り、学校への根回し・・・あらゆる手段で、無力な子どもに、極限の恐怖と苦痛を与え続ける。新聞で知った残忍な虐待の手段を、片っ端から自分の子どもに「試す」。子どもが、自分の不満の「はけ口」だけの存在になる。。。------------子どもの頃、「ただ、他の人たちと同じようになりたい」と、そう願っていた筆者だった。そんな筆者が、大人になった今、「自分にしかできないこと」をしようとしている。自分の心と体に刻まれた「取り返しのつかない傷」を、この世界にあるさまざまな「憎しみの循環」を絶つために、生かそうとしている。“子どもは、とても乗り越える見込みなどなさそうな状況にあっても、最後には打ち勝って見事に生き抜くことができるのだ” -----デイブ・ペルザー今、この瞬間も、人の心を持たない親の下で、逃れられない陰湿な虐待に、苦しんでいる子どもたちがいる。僕たちがそれに気づいてあげるだけで、苦しみから救われる子どもたちがいる。
May 9, 2003
~「権利のための闘争」について、その2~「自然権」と「人権」について。フランスやアメリカ、日本の憲法では、自分の生命、自由、財産等を国家や他人から不当に侵害されない権利を、人間である以上生まれながら当然に持っている、ということが大前提となっている。この誰もが当然にもっている権利を「自然権」という。「自然権」は「人権」よりも上位の概念であり、普遍的な「自然権」に基づき、時代の価値観に合わせて個々の「人権」が派生する。自然権はちょうど、「心」のようなもので、新たに発見されたり創造されたりする必要がなく、人間の中に“当然に”存在しているものだと考えられている。それに対して、人権は「感情」のようなもので、愛とか悲しみとか喜びとか怒りのように、人間がその場その時に合わせて、心の中に発見していくものだとされている。つまり、「自然権」は新しく生まれたり滅んだりはしない、絶対的な権利だ。それに対して「人権」は、プライバシー権や嫌煙権のように、時代の変化とともに生まれ、形を変えていく相対的な権利だ。そのような「人権」レベルの「権利」は、その場その時の人間が社会の中でよりよく生きていくために創造し、発見し、発展させ、守る努力をしていく必要がある。しかし、人間が人間である以上、生まれながらにして持っている侵すことのできない「自然権」は、どんなに強暴な国家の中にあっても、決して消滅したり形を変えたりすることはない。一人一人の人間の命にかけがえのない価値があるという事実は、国家制度や時代の価値観とは無関係なのだ。イェーリングが、「法=権利」のために闘争すべし、と言う時の権利が、天賦普遍の自然権のレベルではなく、上でいう「人権」レベルの権利であるなら、それは人が闘争を通じて守りつづけない限り、人格までもが脅かされる危険がある、と考えることは、正しいと思う。しかし、「権利」というものが、自然権も含めて、すべて闘争によらなければ蹂躙される危険性のあるものであるかのように一括りに論じられているとしたら、そのような世界観は、僕にとっては「窮屈」と思えてしまう。社会に生きる人間がみんな、人間存在の根本に関して懐疑的になる「義務」があると考える必要はないではないか。心の持ち方次第で、人生は快楽にも苦痛にもなる。法とか制度とかいう表層的な「約束事」に振り回されず、不可侵な個人の尊厳を信じて、泰然自若として生きていけばいいではないか。「心」の存在を疑う哲学者に、誰もがなる義務も必要もない。“自らの才能にうぬぼれたダイダロスは、天の摂理に逆らい、翼を作ったことで、愛する息子イカロスを失った。” ---ギリシャ神話
Apr 28, 2003
今日の読書: イェーリング「権利のための闘争」<要約>権利が侵害されたとき、自分の権利を主張するのもしないのも自由だ、とみんなが思っているようだけど、それは違う。自分の権利を主張し、権利を守っていくのは、我々の義務だ。人が権利のために闘わなければ、法は存在価値を失う。働かない者にはパンが与えられないのと同様に、権利の侵害に対して闘わない者には、法は権利を保障しない。<感想>とりあえず、そういう考え方も「あり」なんだろうけど、、、でも、何だか窮屈な世界観だな、と思ってしまった。「法」とか「権利」とかいうものは、とりあえず人間が社会生活を営んでいく上で便宜上みんなが守ろうということになっている仮の「約束事」でしかない、と僕は思っている。たしかに、「約束」を相手に守ってほしければ、自分も努力して約束を守ろうとしなければならない。約束を守るためには、それなりの努力が必要だ。この「それなりの努力」のことを、イェーリングは「闘争」と呼ぶ。そして、約束を守る努力をすることが、社会に生きる人間の当然の「義務」である、と言うんだけど・・・それはちょっと、押し付けすぎでないかな、と思った。偏見、盲信、利己、不安、臆病、独善、疑心暗鬼、、、様々な理由で人が人を苦しめ、傷つけ合う世界。人間はたしかに、放っておくと様々な「悪」に簡単に支配されてしまう弱いものだから、「思い込み」でも「幻想」でも何でもいいから、これなら守れる、という約束が、"とりあえず"必要な生物なのかもしれない。だけど、その「とりあえず」を超えたところでは、幻想を打ち破る意志の力と、自分の「思い込み」次第で無限の可能性が開ける、と思うんだけどな。「むか~し昔、人間は法とか義務とかいう約束事に縛られなければつい悪事に走ってしまう弱い生き物でした」なんて言える日が、(ずっとずっと先の将来だろうけど)きっと来るはずだと思う。“面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり” ----高杉晋作
Apr 27, 2003
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