パン-成形 (白神酵母) 0
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と言っても私は病気じゃない。実は母が今月から入院中でその入院先病院から、別の病院に外来でかかる必要があり1日付き添い。家族が付き添わなきゃ、外出させてもらえないんだって。そういうもんなんだ・・・(付き添えないなら退院しろと言われた)そんなわけで朝8時半すぎから夕方7時ごろまで普通のビジネスタイムをどっぷり全部費やす。もちろん今月は他にも幾度となく。こういうのって・・・・・どうなんだろう・・・・・・・・こうやって仕事を怠けてのうのうと私用にかまけていても無責任な第三者ならもれなく 偉いわねぇ~とか言うものなのだろうな
2010.12.21
定期的に母を病院に車で送り迎えしている。ある程度仕事でバタバタしていても、それなりに工面していつも上手い具合に時間を確保しているのだが・・・どうにも手一杯で、今日はそれもままならなくなった私が送り迎えしなければタクシーを使えば良いだけのことだが病院に行くのに医療費以外にいちいち3~4千円をタクシー代に使わせるのはやりきれない。タクシー代に費やすぐらいなら、何かおいしいものでも食べて贅沢したほうがよい。なので出来る範囲で私がデバってやっている。。出来る範囲でやることなので、こんな日があってもいい。しょうがない。でもなぁ。あーあ。私は生きるために送り迎えをするのではなく生きるために仕事をしなければならない。。。のだから しょうがない。
2009.11.24
なんと昨日お見舞いに行ったばかりのいとこは今日亡くなってしまったと知らせが来た。容態が悪かったのでその日は案外近いのかなとは感じたがまさか、昨日の今日とは・・さすがに想像しなかった。変な言い方かもしれないけど昨日、無理してでも行っといてよかったよもし軽い気持ちでお見舞いを1日2日先送りにしていたら。来週行こう、なんて言ってたら。会えずに終わってしまったことになる。父とは古くからの付き合いがあったようだが私などは慶弔行事で顔を会わせる程度だったので別にいとこは死ぬ前に私と母に一目会えて幸せを感じたりするわけは絶対にないんだけど。要するにこっちの気持ちの問題か。自己満足か。。去年父のお見舞いにすぐ駆けつけてくれた恩義も感じていたし。父の墓参りをせっせとする私も自己満足なら病床の親戚を見舞う私も自己満足。でもそれでいいんだよな、きっと‥言い方によっては世の中の小さな親切とかなんかも、相手のためよりもほとんど自分自身の自己満足のためなのかもしれないし。あ~話がぐちゃぐちゃになったがとにかくその時その時で悔いの無いようにやれることをいっぱいいっぱいにやっといたほうがよい。改めてそう思った本日であった。。もちろんいとこや父の、死に方というか死に至る生き方というかそれについては「もっとこうしていたら」とか思うことはいろいろある。でもそれをも含めて生き方なのだと言っちゃえばきれいごとかもしれないが、でもそう思うしかないし‥ ウン、そういう生き様なんだろうな。。そんなわけで“ビニール詰め放題キュウリ5割増し”状態(cf 7/15))の今日この頃。なんでこんなにめまぐるしいんだろ。詰めろ詰めろ!状態。いや自分で詰めてるからめまぐるしいんだ‥ 詰めなきゃ余裕ができるんだけど‥ つい詰め込んでしまってる。。中川翔子風に言えば「ギザ☆貪欲」みたいな(笑)中川翔子風に言わなければ 貪欲。みたいな(要は時間に対する貧乏性。)
2009.07.17
昨日の夜、突然連絡が入り今日は急遽、いとこのお見舞いへ。いとこと言っても私より30歳ぐらい年上だ。去年父のお葬式で会った時は老けてるなとは思ったがまあまあ元気だった。突然倒れて入院したらしい。行ってみると狭い病室は家族と 知らせを聞いて駆けつけた親戚でごった返し‥しゃべれず動けない病人本人をそっちのけでベッド際でキャーキャーと近況話に花咲かせるオバサンがた(但しほぼ皆70代)の様子は、あたかも 先日与野で見たアンドゥ家 の光景をリアルにしたような感じだった・・病床のいとこはなんとなく背格好がアンドゥ先生にも似ていていやそれ以上に昨年父が悪化した頃の状態に何から何までそっくりで(顔も当然似てるし)痛々しくてデジャビュのようでもあり去年父が倒れてからの思いもしない現実を次々と突きつけられ 展開が速い中でどうしようもなくいろいろ大変だったけど泣いてる暇なんかなくて気が張りつめて頑張ってた日々の情景などが、初めてリアルにドッと込み上げてよみがえり思わず泣いてしまった
2009.07.16
あまりに劇的なぶっつけ本番みたいな1日だったよなあ。去年。今日みたいに晴れてて太陽が照りつけ暑いぐらいの日だった。1周忌の法事はすでに済ませたが今日もいちお、お墓参り。お墓を洗ったり、手を合わせておがんだりしても「霊」とかが無いものならば死人にそれが伝わるはずもなくじゃあ何のためにそんなことするのかというときっとそれは私の自己満足であり。「今日こうして参って手を合わせたりしてる自分がエラいと思う」とかいうような自己満足なんだよ結局は。なら生前もっと何かできることがいろいろあったんじゃないのかとかも思ったり。じゃあなにゆえ死人に手を合わせる? と考えるとやっぱり故人を偲ぶ中で、故人が生前私に教えてくれたことやメッセージを思い出して受け止め、気持ちを新たにすること。それがきっと、亡き人が私の中で生き続けること人は死んでしまえばその人が持っていた独自の「気持ち」や考え方、長年にわたり獲得・蓄積してきた知識やノウハウ、技能など、その人が持っていた「文化」そのものが全てその人とともにあっけなくこの世から消えてなくなってしまう。でもそのひとかけらでも残された者がしっかりもらって大事に持ち続けること、学ぶこと平たいコトバで言えば、故人から何かを「受け継ぐ」ことそれがいわゆる「○○さんは私の中にずっと生き続けています」的なことなんじゃないのかな。最近そう思うようになった。お墓に向かい合いながらほんとは自分の内面と向かい合う。自分を謙虚に省みるひとつの機会‥
2009.05.22
清志郎の告別式だそうだ。そっかー。うちでは父の一周忌法要だぜベイベー。
2009.05.09
父が死んで、もう2ヶ月だ。早い・・・あっという間に2ヶ月も過ぎてしまった。この2ヶ月、一体私は何をしてたんだろうか?父が入院していた期間がちょうど、約2ヶ月間だった。いろんなことがありとてもとても とてもとても長く感じられた2ヶ月だった。入院中、または亡くなった時点で、3月に救急車で運ばれて入院した日のことを振り返って思い起こすととてもはるか遠い昔の日のことに思えていた。たった2ヶ月なのに。不思議だ。急激な変化の量と、時間の長さの感じ方は比例するのかな。平和な日常生活は光陰矢の如しだ~
2008.07.22
ほんの少し早いが四十九日の法要を済ませた。そして納骨。骨壺‥つまり「中身= 父・現物」が長年見慣れたお墓の、石の下の空間に本当に入れられてしまったという現実があらためてなんだかとても違和感‥だったさらにもう来週が すぐにお盆なので新盆のお経も一緒にあげてもらった。これでまた一区切り。こうしてひとつひとつ経て生きてる人間は前に進んでいくんだな。とても暑い夏の日だった‥
2008.07.05
祖母の月命日なのだ。私の現在の住居が、偶然、お寺のすぐそばだったことから特別ほかに用事がない限りこれまで、毎月この日に参って 軽くお掃除したりしてきていた。来月には父の納骨だ。だからこの日付に来るのは今月が最後だよ。今度からは父の月命日に来るから。そう告げてきた。
2008.06.20
備忘録1 から続く‥父の病状を我々家族が受け入れた段階で、次は父に知らせるかどうかの検討にうつった‥家族でケンケンガクガクの末、父の性格から考えてありのままを伝えたほうがよいだろうという結論を得た。残された命が限られているのであればあるほど本人がいいように過ごすこと -例えば言いたい事を言い残す、等 -ができるようにしてあげたほうがよいだろうと。そして家族同席のもと、先生から本人への病状説明をしてもらった。家族に診断が告げられてから、ここまで2週間を費やした。主治医は忙しく、説明のための時間を確保してもらうのも前もって「予約」が必要であった。入院から1ヶ月弱が過ぎていた。父は、自分の病気が癌である事を知った。しかし、我々家族が最初そうだったように手術など、治療の可能性についての望みを持って前向きだった。「ただこうして寝ながら死ぬのを待っていてもしょうがない。」これが父の思いだった。手術でも何でも、やってみなければ分からないじゃないか。そう考えて手術への覚悟を決めていたように思う。しかし手術の内容 -- 前回 にも書いたが、胃と小腸をつなげるバイパス手術-- というのは癌を直して生きるための手術ではない、というのが本当だ。(また次回へと‥)
2008.06.08
(たぶんこれを読んでくれる大多数の人は興味が無いとは思うが)改めて父の病気のことを。闘病の渦中にいるときは語る気にもならなかったが少しずつ この場を借りて振り返らせてもらおうと思う‥父は、十二指腸の癌だった。3月中旬に入院した当初の診断は「消化管出血」「(急性の) 腎不全」「貧血」だった。消化管の内視鏡検査では、胃カメラが胃から十二指腸へと進めなかった。十二指腸の潰瘍がひどく、消化管としてすっかり閉塞してしまっていた。胃カメラがだめならCT。しかし腎不全の症状があるとCTはできないらしく数日後に腎不全の状態が改善するのを待って、ようやくCTスキャン。一体どこがどう悪いのか、なかなか分からなかった。診断が付いて家族に知らされたのは、入院から2週間近く経った3月末だった。「十二指腸癌、癌性腹膜炎」。細胞を取っての生検はできず、血液検査の項目のひとつ「腫瘍マーカー」がものすごく高い値を示していることからあくまで「~の『疑い』」という診断だ。十二指腸が通り道として塞がってしまっているので胃と小腸を直接つなぐバイパス手術という手が、あるにはある。しかし、父の体力を考えると手術は難しい。手術に挑戦する事で、今時点での健康状態をむしろ悪化させてしまうことも大いに考えられる。抗がん剤も体力的に無理。栄養を点滴で補給して体調を保っていくことしかできない。「打つ手が無い」というのが先生の見解だった。この、想像もしないひどい診断内容の現実に我々はショックを受け、なぜ手術もできないのかを、なかなかのみ込めなかった。もし本人が、「手術をしたい、危険性が高くても手術して生きる可能性に賭けてみたい」と言ったら手術させてあげるという選択肢もあるんじゃないのかな? とか考えた。そういった疑問点について先生に何度かお電話で質問したり、ネットで調べたりもしながらようやく「そうなのか‥やはり『手術をしない』選択肢の方が父にとってベストなのだ」と受け入れるに至った。父の現実を我々家族が受け入れた段階で、次は父に真実を知らせるかどうかの検討にうつった‥(長くなりそうなので、別枠につづく‥) → 備忘録2へ
2008.05.29
今日は水曜日。先週の今日のことをどうしても思い出す。いつも通り夕方、「じゃあまた明日ね~」と父に声をかけ病院での見舞い(というか付き添い)から 実家に帰宅し夜はのんきに「ためしてガッテン」を視てそれから「その時歴史は動いた」の奥州平泉の回を母と一緒にだらだらと視て..いつもと同じように。だって少なくともあと2~3ヶ月以上は続いていく日々のうちの1日だと思っていたから.で私はいつもと違い、パソコンに向かって夜更かしした。必要なメールをいくつか送信しずっと迷っていたプリンタを、ついに決心してネットショップに注文し2時頃ようやく寝た。*病院から電話があったのはたぶん寝入りばなの午前2時半から3時近くのことだったと思う。「すぐ来て下さい!」という電話ではなく「血圧が下がり気味で状態があまりよくないので、念のためお知らせしました」というようなニュアンスだったので、このときもまだ私たちはのんきなものだった。母と寝ぼけながら「行くー?」「どうする?」「うーん、そうだねー、一応行ってみるー?」と緊張感も無くだらだらと服を着替えてタクシーで出掛けた。*病室に着いて父に会ってもまだのんきだった。苦しそうではあったがここ数日の普段の様子と比べて激変しているわけではなかった。痛みで眠れないようなので励ましていろいろと話しかけてでも父の意識や意思表示ははっきりしていて、いつもの父だったのでそれでもまだ私たちはのんきだった。家族の、昔の懐かしい話をしたりして「ねえ、その時のこと覚えてるー?」などと父に話しかけながら付き添った。明け方、点滴の薬が効いたか、父の様子が少し落ち着いてきた。私たちもほぼ徹夜状態だったので父がうとうと眠ったら、その間に私たちも座って仮眠を取ろうね、などと話していた。すこし仮眠を取ったらさ、私か母のどちらかが一度タクシーで家に戻って朝のタイマーで炊けちゃってる炊飯器のスイッチを切って来ようよ、雨戸も開けてきたらどう? そうだね、そうしよう‥父に「もう朝になっちゃったよ…少し眠れるといいね。 あさってぐらいには弟もこっち来てくれるかもしれないからね、 今のうち、睡眠とって、英気を養っとこうね」などと話しかけた。でもここでも、励まさなければ2~3日持たないんじゃないかというような切迫感は持っていなかった。ただ、弟が来ると言うことで少しでも張り合いを持ってほしいという程度だった。私たちはベッドぎわからはなれて椅子に座ってひと休み‥*そんな時だった。父の息が、数秒途絶えた。え? あれ?ここへ至るまで、父がこのタイミングで死ぬなんて想像も心づもりもしていなかった。父は自分で一度、文字通り「息をふきかえし」てくれた。「あー! びっくりしたぁー!」「やだぁ!もう! だいじょうぶ?」ここでも、まだ父が死ぬような気はしていなかった。その直後、父は静かに、二度と息をしなくなってしまった。夜中じゅう、何度も看護士さんが様子を見てくれていたし急変に私たちが気付いたときも、ナースコールですぐに駆けつけてくれたがあまりにあっという間で。・・・そんな、先週の水曜日の夜~ の怒濤のような急展開だった、な。*それからは夜中から朝への静かな時間とうって変わって亡くなったと診断を受けた直後から、いろんなとこに連絡したり葬儀屋さんを探して手配して遺体をいつ運び出すとか決めなきゃならなかったり病室内に置いてあったいろんな荷物を急いで片さなきゃならなかったりそして父が運び出されて自宅にもどりそしてお通夜と葬儀の打合せ、お墓のお坊さんへのお経のお願い、なんだかんだとずーっとばたばたしてやることがいっぱいで‥今日、久しぶりにリアルに思い出したのだ。先週の今日のこと。*今日 自宅で「ためしてガッテン」の放送がテレビで始まったのをみて、とてもつらかったから。(だって先週の今ごろの時間は、こんな展開を想像もできず、本当に本当にのんきだったんだもん)
2008.05.28
なんとかここまで無事とどこおりなく切り抜けられた。こっち(遺族)は やることがたくさんあって いっぱいいっぱいででも、それ以上に葬儀屋さんの、分業された沢山のスタッフの皆さんが入れ替わり立ち替わり仕事とはいえそれぞれの持ち場で連携して動いてくれていて‥なんと作業の膨大なことか!そんな いろいろがうまくつながりあって結集して(ほとんど葬儀屋さんにおんぶにだっこで)とりあえず 今日で 一区切り・・・父は炉で焼かれて もう本当に 目の前からいなくなってしまった.今日は「お葬式」というより「父が火葬された日」という印象のほうが実感により近い‥
2008.05.26
「家族を亡くした当事者は 葬儀やら何やらの事務手続きや実務などで忙しくて 悲しむ暇もない」とかいう話を聞いたことがあるがまさにその通りだ‥本当に息つく暇も無い‥このお通夜の晩も、斎場に泊まり込んでくれた親戚にご奉仕、ご奉仕で くったくた‥でもさこうゆうことも含めて故人への供養なんだよね、きっとね
2008.05.25
突然逝ってしまった。もちろん病気で入院中だったので いつかは‥と覚悟してはいたけどこんなに急だとは思っていなかった。ショックだ。昨日まで 亡くなることなんて現実としてあまり考えていなかった。それが 日付が変わりあれよあれよの急展開の渦にのまれたような あわただしい1日だった。七十八歳だった。3月に突然入院してからのこの2ヶ月あまりというもの、父を含む我々家族にとってすっごい怒濤のような変化に次ぐ変化の日々だった。一番大変だったのは父本人だろうと思う。長くて苦しい2ヶ月だったかな。本当におつかれさま。本当に本当におつかれさま。亡くなり闘病中に鼻から通していた管など一切を取り除いてもらった父はすっきり こざっぱりした いい顔をしている。私たちは今日は ほぼ徹夜に近い状態だったこともあり 変に神経の興奮が続いていて夜になっても妙にハイだ。まだ頭の中がまとまらない。‥そんな今日、5月22日だった。P.S.父の入院中に、私への励ましやアドバイスをいただいた皆さま、ありがとうございました。とても心強く、ほんとうにほんとうに励まされました!改めまして、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。‥しかしながらとても勝手なのですがしばらくの間、メッセージを頂戴することをご遠慮させていただきたく思っています。私からブログにアップしておいて何なのですがなにしろ突然のことだったのでしばらく 気持ちが整理できるまでどうぞ そぅっと放置(笑)していただけましたら‥闘病中のことをこれまでブログにあまり書いてこなかった分これから少しずつ、ふりかえってアップすることもあるかと思います。そうしてある程度気持ちに区切りがついたらブログのトップページの「メッセージを送る」欄もまた再開します。どうぞよろしくおねがいいたします☆ ゆ~かりptus
2008.05.22
その1先月の事。弟に「ねんきん特別便」が届いた。記録が怪しい人向けの便で「◎年×月~△年◎月のみ、未納という事になってますが、ご確認ください」てなことを伝える内容だったらしい。その2そしてまさに今日、親の年金から話題の渦中、『後期高齢者医療保険』の保険料の天引きが始まった。テレビを付ければその話題、テレビを付けなくても、親が口を開けばその話題。・・なんという、時事問題たっぷりな家族なんだろう (これで安心!知ってよかった年金Q&A)
2008.04.15
今日はいろいろあった。ある意味一区切りでもあるしこれから、でもあるし気合いを入れて約1週間ぶりに禁止されていたコンタクトレンズを入れた。(まぶたの腫れも、ほぼおさまってきた)今日から父は個室の病室に移った。8人部屋はやはりいろいろ気を使う。個室になったことで話したいことを話したり父が欲しいと言った物を身の回りに揃えたりできる。よかった。
2008.04.12
声がガラガラになってついに出なくなったのには「のど風邪」以外の原因もある。・・・入院中の父、耳がすごく遠い。耳の遠い父にいろいろ話しかけたり説明したりするのに8人部屋の部屋中に、もしくは廊下中にもとどろき渡るような大声をはりあげなくてはならない。大声で、しかもイントネーション&滑舌明瞭に(笑)しかも、幸か不幸か父が入院してから、それまでになく沢山、父に話しかけたり会話したりするようになった。別に昨日今日で耳が遠くなったわけではないので大声でハッキリ話す事をそんなに苦にも思ってなかったがどうやら、弱っていたのどには大きな負担だったようだ。今日はさすがに病院へ行っても一言も声を出せなさそうなので私は付き添いを欠席させてもらった。「じゃあ寝てな。」と言って母は出掛けて行ったがついつい実家のあちこちを片付けしたり掃除し始めたりしてしまい結局、寝るのを忘れて没頭してしまった。だめだなー休む時は休む。けじめをつけなきゃ。
2008.04.06
ブログをやめるわけじゃありませーん(笑)‥そう、以前「ここに書いていこう」と一度決めた父の入院にまつわることを。 → cf : blog 3/18当初は、メモがわりに、父がどうした、こうなった、とかその都度おおまかなことを書いていこうと思った。でも私にはできないと分かった。う~んなんというか父の、個人的なことを本人にいちいち断りもなく世間に公表することへの抵抗感。ていうか‥記していくことがいいことなのか、それともあんまりにもプライベートでごたごたしたことなので書かない方がいいことのなのか、そんなことはどっちでもよく、私にはできないと分かったんだ。うまく説明できないけど父本人の許可もなしに、ゆ~かりのblogでペラペラいろいろ書けないなー.そういう感覚が一番近いかなー。・・・お騒がせしました。また、今まで通りの「ふわふわ生活記録」で行きます。ただ、それにまつわる私自身の行動とか思いとか、そういうことは、やはりこれまで通りアップすることが十分ありうるのできっと漠然としてわけのわからないことになるだろう(汗)ま いっか.あ、今年度も終わり。いろいろあったなー.
2008.03.31
仕事にせいを出さねば。しかしどうしても頭がぼーっとし生産性が上がらない。言葉にするなら「あー、もう、やだーー」という感覚ばかりがぐるぐる。何がいやだ、という具体的な感覚ではなく漠然と、「あ"ーー」が続く。何も手につかない。無理してやりはじめても「あ"ーー」ってなって、1分と持たない。もしかしてこうゆうの「うつ状態」気味って言うのかな。始まったばかりなのに、いきなりウツかよ!ていうかウツって確か、根が生真面目な人がなりやすいんじゃ?(だから私には無縁だと思ってたんだけどぉ・・意外に繊細な自分に驚いた。
2008.03.26
突然だが、ブログには真実を全てありのまま書いては、いない。別に嘘はないけど‥誰でもそうだと思うが真実のうちの都合のいいことだけをピックアップして書いているようなものだ。そりゃそうだ。ありのまま全部書き留めるなら、日記帳か手帳に書くもんね‥これはブログだから. ‥というわけでなんでこんなことを突然言いだしたかというとブログに書こうかスルーしようか迷っちゃって。身内の病気のことを。以前にも一度、身内が心臓の緊急手術をした。その時はブログに書いている(→ blog 2005/4/7 )。それは 大変な手術ではあったけれど、極端な言い方をするなら手術を受ければ、「ハイ、おしまい。お疲れさま♪」で済んじゃう話だったからブログでも割合、気楽にふれて、それでその話題はおしまいだった。でも今回はなんだか長そうだ。まだ検査の全容も見えない。逐一ブログに書くか?書き始めるといろいろ記録したくて、そのカテゴリのエントリが増えそうだ。・・なんだかなぁ。一応「食べ物」がテーマの当ブログ、趣旨が変わっちゃうよ。じゃ、ブログでふれずにスルーしとこうかな。でも、今スルーしといてもこの先、ことあるごとに「なかったような顔」して他の話題でフツーにブログしていくのもきっと、やけに疲れるよなーだったら、ややっこしいからもうブログなんかやめちゃおっかな。そう思ったがまぁ、飽きっぽい私がここまで続けてきたことだからそんな動機でやめるのももったいないなーって気もするしじゃ、このブログはこのまま続けて別人としてもういっこ楽天のID取ってブログ開設してそっちに書き込むことにしようかな。でも面倒くさいよー!私にはそんなの続きっこない。・・・。・・・。(←黙考)ま、いっか。書いちゃおう。って、一応の結論を出した。 ‥というわけで本日、父が入院。今後、これにまつわる事柄も全てありのままじゃなく、差し障りの無い範囲で取捨選択して書いていくことだろう。それは今までと同じ。でも極めて個人的なメモなのでちょっと心苦しい。でも書いちゃうことに。釈然としないながらも。。(←まだ迷いが、、)
2008.03.18
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