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May 5, 2026
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邪馬台国畿内説のキモになるのは、
魏志倭人伝で陳寿が「東を南だと勘違いした」と言う仮定である。
従って、これがちゃんと説明できなければ、
近畿に有る纏向遺跡は「魏志倭人伝には載っていない邪馬台国」と言うことになる。

魏志倭人伝によれば、冒頭には「倭国にはもと百余国が有った」と書かれており、
そのうち三十余国は中国(魏)と交流が有ったと言うことになっているが、
残りの七十余国は中国(魏)とは交流が無いので、
たとえ邪馬台国よりも大きな国であったとしても、その様子は分からず、
もし魏志倭人伝で陳寿が「東を南だと勘違いした」と言う仮定が否定されれば、


例えば国譲り前、神武東征以前の出雲かもしれないのである。

古代から中国では「風水」と言う概念が有る。
これは約5000年前から始まったとされているが、
後漢の時代には方位に関する研究は既に一定の域に達していたらしい。
それは文献にもたくさん書かれており、
例を挙げると(ちょっと怪しいかもしれないが)後漢よりも少し前のことになるが、
紀元前4世紀頃に書かれたとされる「鬼谷子」を見ると、
「鄭の人は玉を取りに行く時には道に迷わないように指南器を持って行く」と書かれている。
またその頃には「指南杓(司南之杓(しなんのしゃく)とも書く)」が作られており、
この盤面には方位を示す八つの文字が記されていた。
指南杓はその名前の示すように四角い板の上にスプーン状の磁石を置いた物で、

天文官がこれを用いたとされている。
つまり倭人は方位を知る術は持っていなかったかもしれないが、
少なくとも風水の知識を持つ中国の人達は何らかの道具を持っていたのだと思われる。
指南杓はこんな形をしていたらしい。


絵の中に書き忘れたので追記すると、

古来大熊座=北斗七星は「ひしゃく星」と呼ばれたからである。念の為追記。

要はこれが既に1世紀には有ったのだから、
航海や測量に用いられていたかは根拠資料が無いので確かとは言えないが、
少なくとも占いの分野では使われていたのだから、
賢い人間、特に兵法を勉強していた人間は使っていたと思われる。

その他にも例えば指南魚は既に3世紀には実用化されており、
航海に用いられたと言う記録は残念ながら残ってはいないが、
占い等には活用されていたらしいので、
風水を信じていた古代中国人が「南と東」を間違えることはあり得ないと思う。
風水を論じるには、方位を知る道具がなければ、そもそも風水は語れないからである。
指南魚はこんな形をしていたらしい。


上の方の指南車は少し資料に乏しく、実在がハッキリとしないが、
指南魚の方は様々な書物に記されており、
こちらは3世紀つまり魏志倭人伝の時代には確実に存在したようである。

そこで、邪馬台国畿内説の方に、
「古代中国では風水が重要だったのではないですか?
 風水を考える際にはどのようにして方位を知ったのですか?
 それを考えれば南と東を間違えるのはとんでもない話ではありませんか?」
と聞いてみたい。
一般的に文献史学者は、自分達の得意な文献を暗記することにはたけているが、
他の分野については全く知識が無い人が多い。
ひどい話であるが、歴史を語る上では、両輪の輪ともいえる考古学についてさえ知らない。

例えば纏向が邪馬台国の都だと考古学的に証明はされていません。
纏向遺跡の有る桜井市の教育委員会でさえも、「可能性が有る」程度にしか言っていない。
これは高校の教科書で習う写像や集合と言う部門ではっきりと誤りだと証明されている。
論理的にはA→Bが正しくてもB→Aは正しいとは限らないからである。
高校の教科書には「逆は必ずしも真とは限らない」と書かれている。

魏志倭人伝には邪馬台国や卑弥呼が居た時代は確かに3世紀半ばだと書かれている。
しかし、その逆命題である3世紀半ばの都市遺構だから邪馬台国の都だとは言えない。
極端な例で申し訳ないが例を示すと、
「お姉さんは女である」は正しくても、
その逆命題である「女だからお姉さんである」と言うのは成立しない。
この程度の初歩的な理論が何故文献史学者には分からないのかなと思うと残念である。

魏志倭人伝には邪馬台国が有った時代の倭国には約100余りの国が有ったと書かれている。
そして纏向はその百余国のうちのどの国の都でも構わないのだから、
纏向が邪馬台国の都である確率は1/100つまり1%の可能性しかない。
1%ではとてもではないが、証拠とは言えないと思います。
よく学者先生が主張する、大きな古墳が有るとか鏡や土器が出土する等に至っては、
まずその古墳や土器や鏡が邪馬台国の物であると言うことを証明しないと証拠にはならない。
それらは狗奴国の古墳や土器及び鏡かもしれないからで、
狗奴国の古墳や土器や鏡がいくらたくさん有っても、
邪馬台国である証明とはならないからである。

つまり邪馬台国近畿説の学者先生が「陳寿が東を南だと勘違いした」と主張するのは、
陳寿が間違えているのではなく、単に彼らが勉強不足なのだと思う。

と言うか、文献史学的にもおかしいことはたくさんある。
例えば、魏志倭人伝以降に書かれた史書を読むと分かる。
もし魏志倭人伝が間違っていたならば、
後世の史書を書く際に修正したはずではないか?と言う疑問である。

良い例が後漢書である。
後漢書は「魏よりも前に存在した後漢について書いた本なのに、
     後漢魏志倭人伝を含む三国志よりも後に成立している。」
そのせいで、魏志倭人伝を参考にしていると思われる部分が多い。
でも明確に魏志倭人伝をふまえて、それを検証し、
間違えていると考えた場合にはそれを修正し、また加筆している。

例えば以下の部分である。
 建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
これは有名な記事で、建武中元二年(AD57年)に奴国の使者が光武帝の元を訪れて、
九州の福岡で発見された「漢委奴国王」の金印を授けられた際のことを書いたものである。
ここで安帝永初元年(AD107年)に倭國王の帥升が生口(奴隷)百六十人を献上したと分かる。
この記事は魏志倭人伝には載っていない。
つまり編纂者である南朝宋の范曄は、魏志倭人伝では不足していると考えて、
より深く倭国のことを掘り下げて加筆しているのである。

もう少し直接的に修正していることが分かる部分も有る。
 自女王國東度海千餘里至拘奴國
と言う部分である。
魏志倭人伝の中には女王国の南に狗奴国が有ると読める部分が有る。
(この部分に関しては僕はちょっと違う解釈をしているが、
 女王国の南に狗奴国が有ると言うのが通説である。)
後漢書ではこれを修正している。
狗奴国は東に有り、しかも海を越えて千里の場所にあると書いている。
これを見て、「東を南だと勘違いした」と学者先生は勘違いしたのかもしれない。
でも、狗奴国は修正しているけれども、女王国に関しては全く修正していない。
つまり女王国はやはり南に有るのである。

道は横にそれるけれども、
狗奴国が女王国の「海を越えた東側の千里行った場所」と言うのは、
もし女王国が九州に有ったのならば、海を越えた東側の千里行った所とは出雲では?
つまり神武東征以前に、邪馬台国と出雲(狗奴国)は戦って出雲が勝ち、
出雲は越とも手を結んで国を広げて、近畿の纏向遺跡付近を手に入れて都を築いた。

その後、一度は負けたけれども、勢力を回復した邪馬台国が、
崇神天皇(多くの学者先生にも神武天皇と同一人物と言われている)の時代に東征して攻め上り、
近畿の纏向遺跡付近を征服した時に、和解して合同で大和王権をつくったのでは?
それが「国譲り」なのでは?
日本書紀には崇神天皇は出雲の事代主命の娘をお嫁さんにもらい、
事代主命を可愛がったと書いているし、
また大国主命は殺されたのではなく、生まれ故郷の島根の出雲に大きな館を作ってもらい、
そこで引退後の余生を過ごしたと考えれば、出雲大社が島根に有る意味が分かるから。
(大国主命は自分が引退して崇神天皇に位を譲るのを条件に息子の事代主命や家臣を守った。)
古事記や日本書紀には「出雲を滅ぼした」とは書いておらず、
国を譲ってもらったと書いてあるから。

話は戻って、もっと重要なのは次の部分である。

 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 
 國皆稱王世出傳統
 其大倭王居邪馬臺國
 (案今名邪摩惟音之訛也)
 楽浪郡徼去其國萬二千里
 去其西北界狗邪韓國七千餘里
( )の中は唐の高宗のとき、章懐太子李賢が学者を集めて施した注釈である。
これについては色々な解釈が有るが、以下の解釈が通説である。
概ね、訛は言葉が誤って変化したことを表す文字なので、
より古い邪摩惟(ヤバユイ)音の伝承があり、
(「惟」は中古音では「ユイ」で魏志倭人伝に書かれた「邪馬壹」と「邪摩惟」は似ている。)
それが変化して今名(唐代)のヤバダイ(邪馬臺)になったのだと注釈を書いているのだと。

でもこれは異論が多く定まっていない。
それは「臺」は元の時代以降は近古音であり「タイ」なので「惟」と同じ音であるが、
唐の時代には上古音であるから「ダイ」であって両者の間には関連が無いからである。

なので、僕は全く別の解釈をして、
魏志倭人伝に書かれた「邪馬壹國」は陳寿が倭人に聞いて書いたもので、
当時の倭人は自身の文字は持たず漢字を使っており、
これを倭人の固有の言葉を書き表す際に、
現代の訓読みと同様に意味は漢字で表して、その音は倭人の音とした、
いわば漢音や呉音と同じような「倭音」を開発しており、
「邪馬壹國」は「ヤマトゥ國」と読んでいたと考えた。
邪馬台国はどこにあったのか?(その85)「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのか?その2
その証拠に現代でも「豆」の入った漢字は、
「電燈の燈(とう)」や「登攀の登(とう)」や「頭(とう)」などのように「とぅ」と読む。
また後漢書を編纂した范曄も同様に倭人に聞いて書いたのであるが、
目の前の倭人の発音が、どう聞いても「やまとぅ」あるいは「やまたい」なので、
魏志倭人伝を修正して「邪馬臺國」と書いたのである。
(陳寿は倭人の発音が「やまとぅ」なのは分かっていたが、
 その倭人が「邪馬壹國」と書いたので、それを尊重してあえて「邪馬壹國」と書いた。
 つまり陳寿は「倭音」と言う自分達とは違う漢字の読みを尊重したのである。)

もし現代の文献史学の先生が言うように「書写の際に間違えた」のであれば、
李賢が注釈を加える際に修正するはずではないだろうか?
でも修正はせずに、「訛った」と書いているのであるから、
「書写の際に間違えた」のではなく、元々「邪馬壹國」だったのである。

そう考えると魏志倭人伝で陳寿が「東を南だと勘違いした」と言う仮定はあり得ないのだと思う。

<後日追記>
ここまで考えると、どうしても「ヤマト王権」とは何かと言うことを考えてしまう。
現在の所は何も証拠が無いので、答えは出せず、想像するしかないけれども、
邪馬台国(やまと國)=ヤマト王権では無いような気がする。
多くの学者はそう考えているせいで、纏向遺跡を邪馬台国の都と考えてしまうが、
調べてみると、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国や女王国は纏向遺跡にまったく結び付かない。
むしろ残っている伝説や地名から考えると出雲の方が纏向遺跡に結び付きやすい。
ただ、出雲大社のせいで島根の方を出雲と、どうしても考えてしまうので、
纏向遺跡を出雲と考える人はいないが、
古事記にはちゃんと島根の出雲から纏向へ至る経緯を書いている。

古事記によれば大国主命は兄神達に2回も殺されそうになり、
母親から「木の國(紀ノ國)へ逃げなさい」と言われて逃げ出す。
しかし兄神達はそこまでも追いかけて来て殺そうとしたので、
さらに奥(恐らくは吉野)の須佐之男命の国まで逃げる。
そこで大国主命は須佐之男命の試練に耐えてこれをクリアーして、
須佐之男命の娘のスセリヒメをお嫁さんにもらい、新しい国を作る。
古事記にはそこまでしか書いていないが、吉野の奥と言えば纏向だと思う。
纏向遺跡は昔は「太田遺跡」と呼ばれていたが、これは出雲の太田田根子が居たからである。
このことは日本書紀に書かれている。崇神天皇の時代である。
また、三輪山は出雲の事代主命を祀る山であり、付近には「出雲村」が地名として残っている。
その前に有る箸墓は事代主命の奥様であるやまとももそ姫のお墓である。
国譲りに際して、
大国主命は(生まれ故郷の)島根の出雲に大きな社を作ってもらい、そこに隠居して、
息子の事代主命は崇神天皇の王権に参加して、家臣たちもそれに従ったのだと思われる。
日本書紀には「崇神天皇は事代主命の娘を嫁にもらった」とか、
「崇神天皇は事代主命を可愛がった」と書いているからである。

なので、大和王権は邪馬台国が大和王権になったのではなく、
邪馬台国と狗奴国(出雲)が一度は戦争して狗奴国が勝ち、
狗奴国は丹波や越とも連携して西日本統一を果たして纏向に都を作ったのだと思う。
しかし、一度は負けた邪馬台国も復活して、
崇神天皇の時代に東征して大国主命に国譲りを迫り、
両者は大国主命の引退を条件に結び付き、
邪馬台国と狗奴国(出雲)が合同して「ヤマト王権」になったのではなかろうか?
これが「東征」と「国譲り」真実だと思う。

そう考えると、
高円宮家の次女・典子さまが、
出雲大社の宮司・千家尊祐氏の長男である千家国麿さんの元に嫁いだのは、
とても意味が深いと思うし、めでたい事だなぁと思うのである。

<さらに後日追記>
後漢書が狗奴国の位置を修正しているのは、時間の経過によるのかもしれない。
それは日本の古事記や日本書紀の神話から想像できる。
僕は卑弥呼=天照大御神、狗奴国王(卑弥弓呼)=須佐之男命と考えているのだが、
卑弥呼の死後、男王が立つと書いているのは、
説明もなく男王と書いているので狗奴国王であり、
それを受けて、「国中が服さず」「お互いに殺しあって千余人が死んだ」と書いているので、
須佐之男命は認められなかったのだろうと思う。
古事記等では財産を没収されて、ひげや手足の爪を剥がれて、
高天原から追放されている。(朝鮮半島に逃げたらしい)

なので、狗奴国は須佐之男命が居た頃は熊本から大分付近に有ったが、
須佐之男命が追放された時に、出雲にその拠点を移したのだと思う。
つまり卑弥呼は最初は福岡県あたりに居たのだと思う。
ところが倭国大乱により、身の危険を感じて鹿児島の隼人の先祖達を頼って南九州に逃げた。
魏志倭人伝が書かれたのはこの頃だと思う。
なので、卑弥呼は邪馬台国に住んでいると書いた後に、
以降は女王国と言う言葉を使い始めて、以降全て女王国と書いているのだと思う。
卑弥呼が南九州に疎開しているので、
「帯方郡より1万2千里」で「水行10日陸行1月」の位置にいるのである。

しかしその後、須佐之男命は追放されて、壱与の時代には元通り福岡県付近に戻ったのだろう。
但し、卑弥呼は独身だったので壱与は卑弥呼の娘ではない。宗女(親戚の娘)である。
彼女は名前から想像するに「豊の國」を根拠地としていたのに違いない。
(僕は「邪馬壹國」は倭人が自分の国の説明時に書いた字で、
 「壹」は中国では数字の「壱」のことであり「タイ」とは読まないので、
 呉音や漢音があるように、倭人としての読み方「倭音」が存在し、
 後世の訓読みと同様に「とぅ」と読んだのだと考えている。
 つまり「邪馬壹國」は「やまと國」である。
 豆を部首に含む漢字は日本では頭や登や燈のように「とぅ」と読む場合が多いが、
 この時代には既にその読み方が倭人の間に有ったのだと思っている。
 従って壱与(魏志倭人伝では「壹與」と書かれている)は「豊」であり、
 彼女の名前が後の天皇や皇族の名前に「豊」がつく人が多いことにつながっていると考えた。)

なので、後漢書では狗奴国は島根県の出雲の位置に修正されているのだとおもう。







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最終更新日  May 22, 2026 11:59:49 AM
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