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ちょっと諸君に話しておくがいやしくも蝉と名のつく以上は、地面の上に転 がってはおらん。 地面の上に落ちているものには必ず蟻 がついている。 吾輩の取るのはこの蟻の領分に寝転んでいる奴ではない。 高い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中を捕 えるのである。これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。 人間の猫に優 るところはこんなところに存するので、人間の自 ら誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答が出来ないならよく考えておいたらよかろう。もっとも蝉取り運動上はどっちにしても差 し支 えはない。ただ声をしるべに木を上 って行って、先方が夢中になって鳴いているところをうんと捕えるばかりだ。これはもっとも簡略な運動に見えてなかなか骨の折れる運動である。 吾輩は四本の足を有しているから大地を行く事においてはあえて他の動物には劣るとは思わない。 少なくとも二本と四本の数学的智識から判断して見て人間には負けないつもりである。しかし木登りに至っては大分 吾輩より巧者な奴がいる。 本職の猿は別物として、猿の末孫 たる人間にもなかなか侮 るべからざる手合 がいる。 元来が引力に逆らっての無理な事業だから出来なくても別段の恥辱 とは思わんけれども、蝉取り運動上には少なからざる不便を与える。 幸に爪と云う利器があるので、どうかこうか登りはするものの、はたで見るほど楽ではござらん。のみならず蝉は飛ぶものである。 蟷螂君 と違って一たび飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずと何の択 むところなしと云う悲運に際会する事がないとも限らん。 最後に時々蝉から小便をかけられる危険がある。あの小便がややともすると眼を覘 ってしょぐってくるようだ。 逃げるのは仕方がないから、どうか小便ばかりは垂れんように致したい。 飛ぶ間際 に溺 りを仕 るのは一体どう云う心理的状態の生理的器械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。あるいは敵の不意に出でて、ちょっと逃げ出す余裕を作るための方便か知らん。そうすると烏賊 の墨を吐き、ベランメーの刺物 を見せ、主人が羅甸語 を弄する類 と同じ綱目 に入るべき事項となる。これも蝉学上|忽 かせにすべからざる問題である。 充分研究すればこれだけでたしかに博士論文の価値はある。それは余事だから、そのくらいにしてまた本題に帰る。 蝉のもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は陳腐 だからやはり集注にする。――蝉のもっとも集注するのは青桐 である。 漢名を梧桐 と号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉は皆|団扇 くらいな大 さであるから、彼等が生 い重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだ蝉取り運動の妨害になる。 声はすれども姿は見えずと云う俗謡 はとくに吾輩のために作った者ではなかろうかと怪しまれるくらいである。 吾輩は仕方がないからただ声を知るべに行く。 下から一間ばかりのところで梧桐は注文通り二叉 になっているから、ここで一休息 して葉裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて、飛び出す気早な連中がいる。 一羽飛ぶともういけない。 真似をする点において蝉は人間に劣らぬくらい馬鹿である。あとから続々飛び出す。 漸々 二叉 に到着する時分には満樹|寂 として片声 をとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見廻わしても、耳をどう振っても蝉気 がないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと、叉 の上に陣取って第二の機会を待ち合せていたら、いつの間 にか眠くなって、つい黒甜郷裡 に遊んだ。おやと思って眼が醒 めたら、二叉の黒甜郷裡 から庭の敷石の上へどたりと落ちていた。しかし大概は登る度に一つは取って来る。ただ興味の薄い事には樹の上で口に啣 えてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時は大方 死んでいる。いくらじゃらしても引っ掻 いても確然たる手答がない。 蝉取りの妙味はじっと忍んで行っておしい君 が一生懸命に尻尾 を延ばしたり縮 ましたりしているところを、わっと前足で抑 える時にある。この時つくつく君 は悲鳴を揚げて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振う。その早い事、美事なる事は言語道断、実に蝉世界の一偉観である。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年07月26日
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紙袋 を頭へかぶせらるる事――これは苦しいばかりではなはだ興味の乏 しい方法である。ことに人間の相手がおらんと成功しないから駄目。 次には書物の表紙を爪で引き掻 く事、――これは主人に見付かると必ずどやされる危険があるのみならず、割合に手先の器用ばかりで総身の筋肉が働かない。これらは吾輩のいわゆる旧式運動なる者である。 新式のうちにはなかなか興味の深いのがある。 第一に蟷螂狩 り。――蟷螂狩りは鼠狩 りほどの大運動でない代りにそれほどの危険がない。 夏の半 から秋の始めへかけてやる遊戯としてはもっとも上乗のものだ。その方法を云うとまず庭へ出て、一匹の蟷螂 をさがし出す。 時候がいいと一匹や二匹見付け出すのは雑作 もない。さて見付け出した蟷螂君の傍 へはっと風を切って馳 けて行く。するとすわこそと云う身構 をして鎌首をふり上げる。 蟷螂でもなかなか健気 なもので、相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるから面白い。 振り上げた鎌首を右の前足でちょっと参る。 振り上げた首は軟かいからぐにゃり横へ曲る。この時の蟷螂君の表情がすこぶる興味を添える。おやと云う思い入れが充分ある。ところを一足 飛びに君 の後 ろへ廻って今度は背面から君の羽根を軽 く引き掻 く。あの羽根は平生大事に畳 んであるが、引き掻き方が烈 しいと、ぱっと乱れて中から吉野紙のような薄色の下着があらわれる。 君は夏でも御苦労千万に二枚重ねで乙 に極 まっている。この時君の長い首は必ず後ろに向き直る。ある時は向ってくるが、大概の場合には首だけぬっと立てて立っている。こっちから手出しをするのを待ち構えて見える。 先方がいつまでもこの態度でいては運動にならんから、あまり長くなるとまたちょいと一本参る。これだけ参ると眼識のある蟷螂なら必ず逃げ出す。それを我無洒落 に向ってくるのはよほど無教育な野蛮的蟷螂である。もし相手がこの野蛮な振舞をやると、向って来たところを覘 いすまして、いやと云うほど張り付けてやる。 大概は二三尺飛ばされる者である。しかし敵がおとなしく背面に前進すると、こっちは気の毒だから庭の立木を二三度飛鳥のごとく廻ってくる。 蟷螂君 はまだ五六寸しか逃げ延びておらん。もう吾輩の力量を知ったから手向いをする勇気はない。ただ右往左往へ逃げ惑 うのみである。しかし吾輩も右往左往へ追っかけるから、君はしまいには苦しがって羽根を振 って一大活躍を試みる事がある。 元来蟷螂の羽根は彼の首と調和して、すこぶる細長く出来上がったものだが、聞いて見ると全く装飾用だそうで、人間の英語、仏語、独逸語 のごとく毫 も実用にはならん。だから無用の長物を利用して一大活躍を試みたところが吾輩に対してあまり功能のありよう訳がない。 名前は活躍だが事実は地面の上を引きずってあるくと云うに過ぎん。こうなると少々気の毒な感はあるが運動のためだから仕方がない。 御免蒙 ってたちまち前面へ馳 け抜ける。君は惰性で急廻転が出来ないからやはりやむを得ず前進してくる。その鼻をなぐりつける。この時蟷螂君は必ず羽根を広げたまま仆 れる。その上をうんと前足で抑 えて少しく休息する。それからまた放す。 放しておいてまた抑える。 七擒七縦 孔明 の軍略で攻めつける。 約三十分この順序を繰り返して、身動きも出来なくなったところを見すましてちょっと口へ啣 えて振って見る。それからまた吐き出す。 今度は地面の上へ寝たぎり動かないから、こっちの手で突っ付いて、その勢で飛び上がるところをまた抑えつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだから蟷螂を食った事のない人に話しておくが、蟷螂はあまり旨 い物ではない。そうして滋養分も存外少ないようである。 蟷螂狩 りに次いで蝉取 りと云う運動をやる。 単に蝉と云ったところが同じ物ばかりではない。 人間にも油野郎 、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蝉にも油蝉、みんみん、おしいつくつくがある。 油蝉はしつこくて行 かん。みんみんは横風 で困る。ただ取って面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て来ない。 八 つ口 の綻 びから秋風 が断わりなしに膚 を撫 でてはっくしょ風邪 を引いたと云う頃|熾 に尾を掉 り立ててなく。 善 く鳴く奴で、吾輩から見ると鳴くのと猫にとられるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。 秋の初はこいつを取る。これを称して蝉取り運動と云う。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年07月18日
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あの渺々 たる、あの漫々 たる、大海 を日となく夜となく続けざまに石炭を焚 いて探 がしてあるいても古往|今来 一匹も魚が上がっておらんところをもって推論すれば、魚はよほど丈夫なものに違ないと云う断案はすぐに下す事が出来る。それならなぜ魚がそんなに丈夫なのかと云えばこれまた人間を待ってしかる後 に知らざるなりで、訳 はない。すぐ分る。 全く潮水 を呑んで始終海水浴をやっているからだ。 海水浴の功能はしかく魚に取って顕著 である。 魚に取って顕著である以上は人間に取っても顕著でなくてはならん。 一七五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛込めば四百四病|即席 全快と大袈裟 な広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。 猫といえども相当の時機が到着すれば、みんな鎌倉あたりへ出掛けるつもりでいる。 但 し今はいけない。 物には時機がある。 御維新前 の日本人が海水浴の功能を味わう事が出来ずに死んだごとく、今日 の猫はいまだ裸体で海の中へ飛び込むべき機会に遭遇 しておらん。せいては事を仕損 んずる、今日のように築地 へ打っちゃられに行った猫が無事に帰宅せん間は無暗 に飛び込む訳には行かん。 進化の法則で吾等猫輩の機能が狂瀾怒濤 に対して適当の抵抗力を生ずるに至るまでは――換言すれば猫が死んだと云う代りに猫が上がったと云う語が一般に使用せらるるまでは――容易に海水浴は出来ん。海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り極 めた。どうも二十世紀の今日 運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。 運動をせんと、運動せんのではない。 運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。 昔は運動したものが折助 と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做 されている。吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。 吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲 とくると真逆 かさまにひっくり返る。ひっくり返っても差 し支 えはない。 物には両面がある、両端 がある。 両端を叩 いて黒白 の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。 方寸を逆 かさまにして見ると寸方となるところに愛嬌 がある。 天 の橋立 を股倉 から覗 いて見るとまた格別な趣 が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。 偶 には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに云う者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるく云った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来をあるき廻ったって一向 不思議はない。ただ猫が運動するのを利 いた風だなどと笑いさえしなければよい。さて吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を抱 く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。 御承知のごとく不幸にして機械を持つ事が出来ん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。 次には金がないから買う訳 に行かない。この二つの源因からして吾輩の選んだ運動は一文 いらず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいは鮪 の切身を啣 えて馳 け出す事と考えるかも知れんが、ただ四本の足を力学的に運動させて、地球の引力に順 って、大地を横行するのは、あまり単簡 で興味がない。いくら運動と名がついても、主人の時々実行するような、読んで字のごとき運動はどうも運動の神聖を汚 がす者だろうと思う。 勿論 ただの運動でもある刺激の下 にはやらんとは限らん。 鰹節競争 、鮭探 しなどは結構だがこれは肝心 の対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると索然 として没趣味なものになってしまう。 懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。 吾輩はいろいろ考えた。 台所の廂 から家根 に飛び上がる方、家根の天辺 にある梅花形 の瓦 の上に四本足で立つ術、物干竿 を渡る事――これはとうてい成功しない、竹がつるつる滑 べって爪が立たない。 後 ろから不意に小供に飛びつく事、――これはすこぶる興味のある運動の一 だが滅多 にやるとひどい目に逢うから、高々 月に三度くらいしか試みない。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年07月17日
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いくら待っていても、うんとも、すんとも、云わないので、最後に寒月が「それぎりですか」と聞くと主人は軽 く「うん」と答えた。うんは少し気楽過ぎる。 不思議な事に迷亭はこの名文に対して、いつものようにあまり駄弁を振わなかったが、やがて向き直って、「君も短篇を集めて一巻として、そうして誰かに捧げてはどうだ」と聞いた。 主人は事もなげに「君に捧げてやろうか」と聴くと迷亭は「真平 だ」と答えたぎり、先刻 細君に見せびらかした鋏 をちょきちょき云わして爪をとっている。 寒月君は東風君に向って「君はあの金田の令嬢を知ってるのかい」と尋ねる。 「この春朗読会へ招待してから、懇意になってそれからは始終交際をしている。 僕はあの令嬢の前へ出ると、何となく一種の感に打たれて、当分のうちは詩を作っても歌を詠 んでも愉快に興が乗って出て来る。この集中にも恋の詩が多いのは全くああ云う異性の朋友 からインスピレーションを受けるからだろうと思う。それで僕はあの令嬢に対しては切実に感謝の意を表しなければならんからこの機を利用して、わが集を捧げる事にしたのさ。 昔 しから婦人に親友のないもので立派な詩をかいたものはないそうだ」「そうかなあ」と寒月君は顔の奥で笑いながら答えた。いくら駄弁家の寄合でもそう長くは続かんものと見えて、談話の火の手は大分 下火になった。 吾輩も彼等の変化なき雑談を終日聞かねばならぬ義務もないから、失敬して庭へ蟷螂 を探しに出た。 梧桐 の緑を綴 る間から西に傾く日が斑 らに洩 れて、幹にはつくつく法師 が懸命にないている。 晩はことによると一雨かかるかも知れない。 七 吾輩は近頃運動を始めた。 猫の癖に運動なんて利 いた風だと一概に冷罵 し去る手合 にちょっと申し聞けるが、そう云 う人間だってつい近年までは運動の何者たるを解せずに、食って寝るのを天職のように心得ていたではないか。 無事是貴人 とか称 えて、懐手 をして座布団 から腐れかかった尻を離さざるをもって旦那の名誉と脂下 って暮したのは覚えているはずだ。 運動をしろの、牛乳を飲めの冷水を浴びろの、海の中へ飛び込めの、夏になったら山の中へ籠 って当分霞を食 えのとくだらぬ注文を連発するようになったのは、西洋から神国へ伝染しした輓近 の病気で、やはりペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていいくらいだ。もっとも吾輩は去年生れたばかりで、当年とって一歳だから人間がこんな病気に罹 り出した当時の有様は記憶に存しておらん、のみならずその砌 りは浮世の風中 にふわついておらなかったに相違ないが、猫の一年は人間の十年に懸 け合うと云ってもよろしい。 吾等の寿命は人間より二倍も三倍も短いに係 らず、その短日月の間に猫一疋の発達は十分|仕 るところをもって推論すると、人間の年月と猫の星霜 を同じ割合に打算するのははなはだしき誤謬 である。 第一、一歳何ヵ月に足らぬ吾輩がこのくらいの見識を有しているのでも分るだろう。 主人の第三女などは数え年で三つだそうだが、智識の発達から云うと、いやはや鈍いものだ。 泣く事と、寝小便をする事と、おっぱいを飲む事よりほかに何にも知らない。 世を憂い時を憤 る吾輩などに較 べると、からたわいのない者だ。それだから吾輩が運動、海水浴、転地療養の歴史を方寸のうちに畳み込んでいたって毫 も驚くに足りない。これしきの事をもし驚ろく者があったなら、それは人間と云う足の二本足りない野呂間 に極 っている。 人間は昔から野呂間である。であるから近頃に至って漸々 運動の功能を吹聴 したり、海水浴の利益を喋々 して大発明のように考えるのである。 吾輩などは生れない前からそのくらいな事はちゃんと心得ている。 第一海水がなぜ薬になるかと云えばちょっと海岸へ行けばすぐ分る事じゃないか。あんな広い所に魚が何|疋 おるか分らないが、あの魚が一疋も病気をして医者にかかった試 しがない。みんな健全に泳いでいる。 病気をすれば、からだが利 かなくなる。 死ねば必ず浮く。それだから魚の往生をあがると云って、鳥の薨去 を、落ちると唱 え、人間の寂滅 をごねると号している。 洋行をして印度洋を横断した人に君、魚の死ぬところを見た事がありますかと聞いて見るがいい、誰でもいいえと答えるに極っている。それはそう答える訳だ。いくら往復したって一匹も波の上に今|呼吸 を引き取った――呼吸 ではいかん、魚の事だから潮 を引き取ったと云わなければならん――潮を引き取って浮いているのを見た者はないからだ。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年07月14日
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そんな顔をしないで、早く傑作でも朗読するさ。しかし東風君この捧げ方は少しまずかったね。このあえかにと云う雅言 は全体何と言う意味だと思ってるかね」「蚊弱 いとかたよわくと云う字だと思います」「なるほどそうも取れん事はないが本来の字義を云うと危う気にと云う事だぜ。だから僕ならこうは書かないね」「どう書いたらもっと詩的になりましょう」「僕ならこうさ。 世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢の鼻の下に捧ぐとするね。わずかに三字のゆきさつだが鼻の下があるのとないのとでは大変感じに相違があるよ」「なるほど」と東風君は解 しかねたところを無理に納得 した体 にもてなす。 主人は無言のままようやく一頁をはぐっていよいよ巻頭第一章を読み出す。 倦 んじて薫 ずる香裏 に君の霊か相思の煙のたなびき おお我、ああ我、辛 きこの世に あまく得てしか熱き口づけ「これは少々僕には解しかねる」と主人は嘆息しながら迷亭に渡す。 「これは少々振い過ぎてる」と迷亭は寒月に渡す。 寒月は「なああるほど」と云って東風君に返す。 「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日 の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。 全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。 註釈や訓義 は学究のやる事で私共の方では頓 と構いません。せんだっても私の友人で送籍 と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧 として取り留 めがつかないので、当人に逢って篤 と主意のあるところを糺 して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。 全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡 に送籍君を打ち留めた。 東風君はこれだけではまだ弁じ足りない。 「送籍は吾々仲間のうちでも取除 けですが、私の詩もどうか心持ちその気で読んでいただきたいので。ことに御注意を願いたいのはからきこの世と、あまき口づけと対 をとったところが私の苦心です」「よほど苦心をなすった痕迹 が見えます」「あまいとからいと反照するところなんか十七味調 唐辛子調 で面白い。 全く東風君独特の伎倆で敬々服々の至りだ」としきりに正直な人をまぜ返して喜んでいる。 主人は何と思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半紙を持って出てくる。 「東風君の御作も拝見したから、今度は僕が短文を読んで諸君の御批評を願おう」といささか本気の沙汰である。 「天然居士 の墓碑銘 ならもう二三遍拝聴したよ」「まあ、だまっていなさい。 東風さん、これは決して得意のものではありませんが、ほんの座興ですから聴いて下さい」「是非伺がいましょう」「寒月君もついでに聞き給え」「ついででなくても聴きますよ。 長い物じゃないでしょう」「僅々六十余字さ」と苦沙弥先生いよいよ手製の名文を読み始める。 「大和魂 ! と叫んで日本人が肺病やみのような咳 をした」 「起し得て突兀 ですね」と寒月君がほめる。 「大和魂! と新聞屋が云う。 大和魂! と掏摸 が云う。 大和魂が一躍して海を渡った。 英国で大和魂の演説をする。 独逸 で大和魂の芝居をする」 「なるほどこりゃ天然居士 以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。 「東郷大将が大和魂を有 っている。 肴屋 の銀さんも大和魂を有っている。 詐偽師 、山師 、人殺しも大和魂を有っている」 「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」 「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。 五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」 「その一句は大出来だ。 君はなかなか文才があるね。それから次の句は」 「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。 大和魂は名前の示すごとく魂である。 魂であるから常にふらふらしている」 「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。 「賛成」と云ったのは無論迷亭である。 「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。 誰も聞いた事はあるが、誰も遇 った者がない。 大和魂はそれ天狗 の類 か」 主人は一結杳然 と云うつもりで読み終ったが、さすがの名文もあまり短か過ぎるのと、主意がどこにあるのか分りかねるので、三人はまだあとがある事と思って待っている。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年07月10日
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「ところへ花道から俳人|高浜虚子 がステッキを持って、白い灯心 入りの帽子を被 って、透綾 の羽織に、薩摩飛白 の尻端折 りの半靴と云うこしらえで出てくる。 着付けは陸軍の御用達 見たようだけれども俳人だからなるべく悠々 として腹の中では句案に余念のない体 であるかなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生|大 に俳味に感動したと云う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木 を入れて幕を引く。――どうだろう、こう云う趣向は。 御気に入りませんかね。 君|御宮 になるより虚子になる方がよほどいいぜ」東風君は何だか物足らぬと云う顔付で「あんまり、あっけないようだ。もう少し人情を加味した事件が欲しいようだ」と真面目に答える。 今まで比較的おとなしくしていた迷亭はそういつまでもだまっているような男ではない。 「たったそれだけで俳劇はすさまじいね。 上田敏 君の説によると俳味とか滑稽とか云うものは消極的で亡国の音 だそうだが、敏君だけあってうまい事を云ったよ。そんなつまらない物をやって見給え。それこそ上田君から笑われるばかりだ。 第一劇だか茶番だか何だかあまり消極的で分らないじゃないか。 失礼だが寒月君はやはり実験室で珠 を磨いてる方がいい。 俳劇なんぞ百作ったって二百作ったって、亡国の音 じゃ駄目だ」寒月君は少々|憤 として、「そんなに消極的でしょうか。 私はなかなか積極的なつもりなんですが」どっちでも構わん事を弁解しかける。 「虚子がですね。 虚子先生が女に惚れる烏かなと烏を捕 えて女に惚れさしたところが大 に積極的だろうと思います」「こりゃ新説だね。 是非御講釈を伺がいましょう」「理学士として考えて見ると烏が女に惚れるなどと云うのは不合理でしょう」「ごもっとも」「その不合理な事を無雑作 に言い放って少しも無理に聞えません」「そうかしら」と主人が疑った調子で割り込んだが寒月は一向頓着しない。 「なぜ無理に聞えないかと云うと、これは心理的に説明するとよく分ります。 実を云うと惚れるとか惚れないとか云うのは俳人その人に存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。しかるところあの烏は惚れてるなと感じるのは、つまり烏がどうのこうのと云う訳じゃない、必竟 自分が惚れているんでさあ。 虚子自身が美しい女の行水 しているところを見てはっと思う途端にずっと惚れ込んだに相違ないです。さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめているのを見たものだから、ははあ、あいつも俺と同じく参ってるなと癇違 いをしたのです。 癇違いには相違ないですがそこが文学的でかつ積極的なところなんです。 自分だけ感じた事を、断りもなく烏の上に拡張して知らん顔をしてすましているところなんぞは、よほど積極主義じゃありませんか。どうです先生」「なるほど御名論だね、虚子に聞かしたら驚くに違いない。 説明だけは積極だが、実際あの劇をやられた日には、見物人はたしかに消極になるよ。ねえ東風君」「へえどうも消極過ぎるように思います」と真面目な顔をして答えた。 主人は少々談話の局面を展開して見たくなったと見えて、「どうです、東風さん、近頃は傑作もありませんか」と聞くと東風君は「いえ、別段これと云って御目にかけるほどのものも出来ませんが、近日詩集を出して見ようと思いまして――稿本 を幸い持って参りましたから御批評を願いましょう」と懐から紫の袱紗包 を出して、その中から五六十枚ほどの原稿紙の帳面を取り出して、主人の前に置く。 主人はもっともらしい顔をして拝見と云って見ると第一頁に世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢に捧ぐ と二行にかいてある。 主人はちょっと神秘的な顔をしてしばらく一頁を無言のまま眺 めているので、迷亭は横合から「何だい新体詩かね」と云いながら覗 き込んで「やあ、捧げたね。 東風君、思い切って富子嬢に捧げたのはえらい」としきりに賞 める。 主人はなお不思議そうに「東風さん、この富子と云うのは本当に存在している婦人なのですか」と聞く。 「へえ、この前迷亭先生とごいっしょに朗読会へ招待した婦人の一人です。ついこの御近所に住んでおります。 実はただ今詩集を見せようと思ってちょっと寄って参りましたが、生憎 先月から大磯へ避暑に行って留守でした」と真面目くさって述べる。 「苦沙弥君、これが二十世紀なんだよ。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年07月03日
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