しあわせのかたち

しあわせのかたち

2004/08/28
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テーマ: ネット恋愛(48)
カテゴリ: カテゴリ未分類
やっと仕事が一段落ついたよ。やれやれ。

さて。
ここから先は 8月25日 に書いた『「ネット友人」の普遍性と異常性』の続きとなる。前回の要旨をザッと記すと、「なぜネットで知り合った友人には、リアル社会での友人よりも短い時間で親近感や親密感を味わうのだろうか」という疑問に対する私なりの考えとなる。

前回私は 「ネット・コミュニケーション解体」 というサイトより、以下のように引用した。

>ぼくは、個人ページの掲示板へたどり着くまで、この孤独を噛み締めた。
>すべてはそろっている。何もかもがここにはある。
>でも、なにもなかった。ぼくを必要とするものは、何もなかった。

>何度も感情がプラスに、マイナスに揺さぶられた。
>でも、それを分かち合う誰も、あの完璧な帝国の中にはいなかった。
>すべては世界であり、なおかつすべては自分である完璧な帝国の中で
>ぼくはひとりぼっちだった。

ネットという媒体の特質として、基本的に「ひとりでモニターに向かい、コミュニケートする」ということが挙げられる。多くは自宅であったりネットカフェであったり。いずれにしても断絶された「わたし」という固有空間のなかでのコミュニケートだ。

「わたし」はひとりでモニターの前に座り、無限の広さを持つ電子の世界に相対するわけだ。

いっぽうモニターの中の世界には、「人間」は誰一人として存在しない。
それは掲示板だろうと個人の日記サイトだろうと同じ(チャットは少し資質が違う。これについてはそのうち別項で語ることになるだろう)。
ただただ「言葉」と「画像」が並べ立てられ、膨大な数の情報のやり取りだけがなされている。

「ならば本やテレビでも同じでは」と思う方もおられるだろうが、ネットはちょっと違うのだ。
理論的には、「わたし」はその世界でなんでもできる王様だ。javaやC言語といったプログラムさえ使えれば、望むどんなサイトでも構築できるし、どんな発言も許される。そこまでのスキルがなかったとしても、どのサイトに飛ぶか、どの情報を摂取するか、どういった「言葉」を書き込むか、それらの権限はすべてモニターの前にいる「わたし」の思うがままなのだ。


書籍やテレビは、その向こうにあるのは基本的にすべて「特別な情報」、「特別な存在」なのだ。その情報は原則的に受信者側には加工不能だし、同じものを作り出すことができない。しかしネットは違う。モニターの前でブラウザを通して見るHTMLの世界は、ほとんどすべて「わたし」にでも作成可能であり、それに対して暴君のように振る舞うことができ、しかも多くの掲示板、日記サイトで発信している声の宿主たちは、「わたし」と同じ一般人の【はず】なのである。

話を戻してネット社会である。
そこにはどんな分厚い本よりも多くの情報が詰まっている。しかし、そのモニターの先には人間だけがいない。そこは整然とし、なんでもそろっている「巨大都市」のようでありながら(「ネットコミュニケーション解体」では「帝国」という表現を使っていた)、ただただモニターの前に座る「わたし」と同じような「人間」だけがいない。

いうなればこれは、渋谷や新宿のような大都市で、ざわめきだけが響いているのにも関わらず、人間だけがひとりもいないようなものである。おお、この圧倒的な孤独たちよ!(ニーチェ風)

さらに。


少し感受性の強い人であれば、ネットにアクセスし、サイトなどを巡ってみると、しばらくすればどうしようもない寂寥感、孤独感を感じるはずだ。なぜならその無間に広がる都市で「わたし」は常にひとりぼっちであり、誰もがみな「わたし」を無視しているかのように振る舞っているのだから。

そんなネット社会において、掲示板に書き込んだり出会い系に登録したり日記サイトを始めることは、“「わたし」はここにいる”と弱々しく声をあげることに等しい。誰もないはずの都市で、その圧倒的な無関心のなかで、「わたし」はその存在を主張する。「わたしはここにいるのだ」と。

すると、姿は見えないけれども、どこか遠いところから木霊のように返ってくる声がある。「あなたを見ています」という声が届くのだ。それは砂漠のオアシスのようでもあり、神の啓示のようでもあるだろう。顔も知らない、年齢も本名も知らない、まさに「異界の住人」として、掲示板のレスやメールでのアクセスが「言葉」として届くのである。

「ネットコミュニケーション解体」ではこれを「天からの声」と書き、「これに狂わないほうがどうかしている」と分析している。

無限に広がる空間のなかで、ただひとつだけ「わたし」に向けられた声。それにすがりつき、比類なき感謝と感激と敬意を与えてしまうことは、容易に想像できる。
ウェルテルがロッテに出会ったしまった瞬間なのだから、当然だ。

これはおそらく、本名よりも「名無しさん」よりも、自らのある一面を切り取った分身である「ハンドルネーム」に対して払われた関心で、よりその効力を発揮するだろう。
なぜなら「わたし」そのものには、ネット外に友人がおり、家族がおり、恋人がいる。よきにつけ悪しきにつけ、社会的評価も獲得している。しかしその「ハンドルネーム」の分身には、上記にあげたいかなるものも存在しない、さらなる孤独のうちに閉じこめられているのだ。


私は仕事柄、始終ネットにアクセスしている。某チャットソフトが入っているから(自動で立ち上がる。この設定の解除の仕方がわからない(笑))、年中オンライン状態だ。しかしそれでも「ネット依存症」と呼ばれる方々ほどには、ネット社会への依存度は低い。と思う。

前回の日記で書いた通り、ネットで恋人を見つける気はまったくないし、特に友人も募集してはいない。しかし、それでも掲示板でのレスや日記へのコメントにはやはり感慨深いものがあるし、それらに対して特別な思いを寄せてしまう。

それはやはり、そのコメントたちが「無人の大都市」にたたずむ「わたし」にとっての「天の声」なのだから、だろう。

この考えの傍証として、普段の生活では言えないことや書けないことが、なぜかネットでの友人には相談できたり、web日記では赤裸々に公開できたりする、ということがあげられる。

ネットのなかには「人間」は誰もいず、ただ「わたし」しかいない。
そこに響く声、降りてくる言葉はすべて「異界の者」からのものであるのだから、当然だろう。懺悔室で、壁の向こうの牧師にならなんでも喋れてしまうのと同じ理屈である。「人」には言えないことも、「神」になら言えるのだ。

これは試しに、友人でも家族でも恋人でもよいので、横でモニターを見てもらいながら書き込んでみればよくわかる。ひとりで書き込む時の内容など、とても書けなくなるはずだ。


うーん、とりあえず考えていることはこんなところなのだが、あんまりデキがよくない気も…。あとで書き直す可能性はある。ま、探し物のひとつが見つかった気がするので、少し満足はしている。


(8月29日に微修正×2)





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Last updated  2004/08/29 05:12:00 PM


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