歌 と こころ と 心 の さんぽ

歌 と こころ と 心 の さんぽ

2025.08.21
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 きのうは途中、下山してくる人何組かと声を交わしたが、考えてみればきのうは日曜日で土日をかけて入山している人が多かったわけだ。今日は月曜日で、ひょっとすると誰にも会わないかも知れない。このドンドコ沢にいるのは自分一人だけかもしれない。捻挫とか腹痛とか不慮の事故で動けなくなっても誰にも助けてもらえない。3~4日一人で誰かが通るのをジッと待っていなくてはならないかも知れない。甘い考えは捨てて確実に一歩一歩下って行くしかない。

 再び下り始める。この辺りはきのう登ったところだと、その時の記憶が鮮明によみがえってくる。やっとここまで来たかと、その場所の石の組み具合とか根っ子の出っ張りの様子とか、登って来た時の事を思い出す。この辺りで道に迷いかけたとか、あまりに急勾配なのに驚いた事、下りはどうやって下りるんだろうとか、登る度に新鮮な発見と驚きがあった。そういう思いをたどりながら下って行くのも悪くないものだ。そういう意味では下りは登りよりも気が楽かも知れない。まったく先が見えず予測も出来ない、すべてが初体験の連続の登り。前ばかり上ばかりしか見ておらず、後ろを振り返るような余裕もない。次から次からやって来る難関を突破する事ばかり考えていて、それが精いっぱいで他に何かを考える余地がない。
 下りは気分的に少しは余裕がある。視界も広く開けている。登る時は登る道の壁しか見えないが下る時は前方の景色を眺めることが出来る。注意深く足元を見ながら、必死になって急な段段を下りながらふと前方を見ると、富士山が見えたりする。登る時にまさかこんなところで富士山が見えるなんて思いもしないし、後ろを振り返る余裕もなかった。下りには登りとは違う発見がある。鳥の声も良く聞こえる。時間帯の違いもあるのだろうが、立ち止まって鳥の姿を探す気持ちのゆとりが聞く耳を持たせるのだろう。一度通った道には安心感がある。状況や距離がつかめ、先が読めるし計算が立つ。同じ道を引き返しているという安心感。
 そうは言っても下りはやはりキツイ。肉体の方はとうに限界を越しているはず。下る時に使う腿の筋力は登る時の倍は必要だ。勢いが付くと制動が利かなくなる。勢い余って崖から転落なんて事にもなりかねない。登山の事故はこういう状況で起こる。そうならない様に使うエネルギーは登りのそれとは比べ物にならない。注意力も怪我をしないための用心も、登りの時には必要なかったものが要求される。登る時はただただ一歩ずつ足を運んでいれば良かったものが、下り一歩ずつという訳にはいかない。どうしても勢いがついて二歩三歩と動いてしまう。そうなると一歩分の制動力ではなく三歩分の力が要る。それだけ余計に疲れることになる。

 一番下の滝に着くころの足は、とうへんぼくのデクノ棒状態。右足のくるぶしの治り切っていない傷に靴のヘリが当たって痛い。登りの時と違って体重が足にもろに掛かるため靴が食い込んで来るし、つま先にも体重がかかるため痛くてしょうがない。ジョギング・シューズでは体重が支えきれない。下る時はまともにつま先に体重が掛かるため、底の厚いキャラバンシューズのような靴でないと指先が負けてしまう。
 南精進ヶ滝の看板の下にベンチがあり、そこで靴を脱いで横になり、足を休める。この場所には登山中に事故で息子を亡くしたのか、両親の名入った碑が立っており、何か痛々しさを感じて落ち着けなかった。
 ここからの下りが、また思ったよりキツかった。今までの階段状の登山道から変わって、砂泥のそれもかなり急な下りはどうしても歩くというより走る感じになってしまう。ゆっくり歩こうと思っても地面が斜めに下がっているため、後傾になると滑る。前傾姿勢で爪先に体重が掛かると痛いので、ついつい走るような形になるのだ。下ったと思ったらまた上がり、上がるとまた直ぐに急な下り。爪は痛いし、腿はビンビンに痛いのを通り越して、感覚が鈍くなって力が入らず、その分余計につま先に負担がかかる。この辺りではほとんど悲鳴を上げながら、歩くでもない走るでもない中途半端な変な格好で下って来た。泣きながら、独り苦難に耐え、息も絶え絶えの難行苦行の数時間。まるで拷問だ。どうしてこんな変な道を作ったのか、どうして下ったと思ったらまた登ったりするのか。何でこんなに急なのか。階段の様に段が付いていればまだ歩き易いのに。後半はもうほとんどギブアップ状態。1分歩いては休み、ジグザグの折り返しのたびに休む。爪が痛くてもどうにもならない。休んでも治らない。行くしかない。下りるしかない。

 遠くの方に見覚えのある沢が見えて来た。青木鉱泉が近い。ここまで来れば着いたようなもの。気を取り直して、一気に下ってしまおうかなどと思ったりする。しかし、そうはいかない。なかなか近づかない。歩けど歩けど、沢が近づいてこない。確かに水音は聞こえる。音が少しずつ大きくはなって来ている。しかし、なかなか沢が見えてこない。道は相変わらずアップ・ダウンを繰り返している。いい加減に頭に来た。もう動けん。休憩だ。クソ。
 青木鉱泉に10時10分に辿り着く。所要時間4時間10分。コースタイムは3時間半と書いてある。まあまあだ。それにしてもキツかった。クタクタのガクガク。ベンチで横になり、死んだ様に休む。一瞬死んでいたかもしれない。青木鉱泉のおかみさんに駐車料を払う。1,000円也。風呂に入りますか?と聞かれ、料金を聞くと800円という。高いんだねえと言うと、こんな山の中にはもったいない色白の品のいい美人のおかみさんは、心も優しい女神だった。駐車料金と共で1,500円にまけてくれた。
 「ここは沢の水をそのまま引いて沸かしているので、この料金は決して高くはないはず」と言う。地図を見ていて鉱泉の意味が分からなかったが、温泉と名乗るには条件があり湧出温度が何度以上という決まりがあるというのを思い出した。或る成分を含んでいて、冷たいままのものを鉱泉と呼ぶのだろう。おかみさんに聞くと、鉄分を多く含んでいて胃と貧血に良いとかで、飲んでもよろしいとの事だった。客は他に誰もおらず、たった一人沸かしたての風呂に入る。身も心も洗われる思い。拷問から解放されて自由の身になった、奴隷のような心境。
 良い気分だ。幸の一字。他に何もない。一人は良い。登山は独りが一番だ。誰にも気兼ねなくマイペースで自分の思うままに、思い通りに行動できる。

 9へ続く
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最終更新日  2025.08.21 11:19:21
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◆2006年5月8日よりスタートした「日歌」が千首を超えたのを機に、「游歌」とタイトルを変えて、2009年2月中旬より再スタートしました。
◆2011年1月2日からは、楽歌「TNK31」と改題しました。
◆2014年10月23日から「一日一首」と改題しました。
◆2016年5月8日より「気まぐれ短歌」と改題しました。
◆2017年10月10日より つれずれにつづる「みそひともじ」と心のさんぽに改題しました。
◆2019年6月6日より 「歌とこころと心のさんぽ」に改題しました。
「ジグソーパズル」  自作短歌百選(2006年5月~2009年2月)

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