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「学校へ行きなさい」「勉強しなさい」「先生の言うことを聞きなさい」と言われて素直に、やる気が湧く子どもはいません。湧かない方が健康だと思います。 これらは、子どもにとって、すべて命令です。命令で人はやる気を起こすことは無いのです。それでも動くのは、アメとムチによってです。これは、副作用があります。今の子どもたちに、権威者へ無条件に従うという文化を期待するのは、無理というものです。大人は、命令すれば人は動くとおもっています。しかし、実際は動かないので、親も保護者もイライラします。そのイライラは子供に移り、事態はさらに悪化します。 しかし、大人は他に動機の育て方を知らず、命令を繰り返すか、進路へのオドシか、またはソフトにわかりやすさ、または、学校生活の楽しさに救いを求めます。 しかし、どんなにソフトに迫っても、その底には、命令か、脅しがあることを子どもは敏感に感じます。 教育の8割は、学習の動機を育てることに使われるべき時代なのです。「命令」をやめることです。命令を禁じ手にしてこそ、技術革新が生まれます。 学習動機は、問題意識がスタートです。大人は、教えるよりも、かわりに「質問」をするのです。または、仕事を依頼するのです。ここで、注意しなければならないのは、いかにも、こっちは解答を知ってるんだという立場で、子どもをテストする気持ちではいけません。 常日頃から、問題意識をもっていると、ある時、テレビや、本の中で、そして、授業中にその解決のヒントが出てきたとき、子どもは「あっ」と気づきます。フィルターにひっかかったのです。 これこそ「好奇心」です。 さらに、友達や大人と問題解決の予想をして、意見が違っていれば、最高です。なおさら、問題意識が生まれ、好奇心が高まります。 要は、大人が教えてもらうべきなのです。で、大人は、問いかけるに足る、面白く、かつ意義の深い問題を投げかけることに全勢力を注ぎます。 教えられるより、教える方がはるかに身に付くし、面白いものです。このことを忘れ、こっちが「教えてやろう」「覚えさせよう」「勉強させよう」と力むところに、「勉強しなさい症候群」の愚かさがあります。 「お父さん、○○の答えわかったよ!」と、子供が勇んで帰ってきたなら、「おお、いまはどんな解き方するのか、お父さんに教えてくれないか」と言って、子供の方を先生にしてしまうぐらいがの意気込みが大切です。 そして、習ったことは、必ずいろんな面で役立ててやるのです。そこに智恵を使いましょう。そして、感謝するのです。子どもに。そして、学問に。 もともと、科学のすごさは、一度その法則を理解するとこちらの思惑に関係なく、いつでも、どこでも、その通りに成り立つところにあります。いろんな場面で役立つことを実感してはじめて、勉強する意義を体感するのです。 「ありがとう、助かったよ。それにしても、科学ってすごいね」 こちらがこのような態度を貫けば、少なくとも「勉強しなさい」を連発するよりはすすんで勉強するようになるでしょう。勉強することが人の役に立つという実感を得れば、バッチリです。教えようとするから反抗されるのです。 「勉強すると人の役に立ててうれしいなぁ」 この実感こそ、子供にとって最も大切な勉強の動機です。 私の実験教室で、そ大人の人には、そんなところのヒントもつかんでもあらったら、いいなあ、と思ってやっています。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.09.30
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安部首相の演説した教育改革の方向が、共感する力の育成に向いているようですね。特に、伝統文化に。これ自体に異を唱えるわけではありません。しかし、もう一つの「創造性の育成」のためには、共感とは、別のベクトルが必要だと思います。 それは、学校が何でもしゃべれる自由な雰囲気になることと教科書も堂々と批判できる子どもを育てることです。 昔から、創造的な科学理論は、教科書を批判することから始まりました。 古代・中世を通じて、天文の教科書というより、バイブルだったプトレマイオスの「アルマゲスト」は、コペルニクスも持っていました。プトレマイオスの天動説は、天体の動きを、ほぼ正確に説明していました。ですから、批判する余地はないように見えます。 しかし、コペルニクスは、バラバラな個別の天体の説明でしかなかったものも、地球も動くという一点を入れれば、全体が統一をとって説明できることを発見したのです。それで、「教科書」に異を唱える「天球の回転について」を発表しました。 医学では、中世まで、古代ローマ最大の医学者ガレノスが、「教科書」でした。中世の大学では、解剖の授業のとき、一段高いところで、教授が、ガレノスの解剖学書を読み上げ、それに沿って、下の方で学生が解剖を行うのが慣わしでした。つまり、単にガレノスの学説を確認するための解剖なのです。もし、文献の内容と人体の構造が食い違った場合には、文献の方が正しいとされました。 それに対し、ヴェサリウスが自分の目でみた通りの絵を出版したのが「ファブリカ」で、これによって、医学は大きく進歩しました。 これは、中世までの笑い話ではありません。科学の発展は、間違いの発見と同じです。間違いを指摘できた分だけ、進歩してきたのです。 そこで障害となるのが、「権威」です。「権威」は、人間の思考を停止させてしまう毒をもっています。原理主義の宗教と根は同じです。 共感する心は大事です。 ただこれを、権威に対する共感を押しつけると、日本の健全な発展を阻害します。何でも言える風土、間違ったことも言える風土づくりこそ、急務だと思います。 (共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.09.30
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先生の研究授業には、お偉い大学の先生が来ます。接待されて、授業を見た講評をし、講話を話されて高い講師料をもらって帰ります。 え~、寅さんは、自分の守備範囲から、はみ出すことは、できるだけ謙虚に?、発言しないようにと思うのですが、(これまで、これで、手を広げすぎて、痛い目にあってきた)先の投稿への自己レスだけ許してもらいます。(さっきの投稿も、逸脱だったよな) 教育学者は、自分で授業のシナリオを書いているのだろうか?先生方が、忙しい中、四苦八苦して授業を作ったものを批評するわけですが、学者は、自分の理論に基づいた授業シナリオを作って、それを先生方に試してもらうのが、本筋です。 で、研究授業は、本来、大学教授の理論の検討会になるべきです。あの先生のシナリオは、ここがおかしい。こういう問題点が出てきたと。 先生方は、特別、学者の研究に協力してやるのです。それで、有効が実証されれば、みんなで使いましょうということになります。授業のシナリオは、現場の先生しか、書けないというのは、幻想です。逆に、現場の先生は、毎日、毎授業、別のことをしなければならないので、一つの授業を、追い続けることは、不可能です。一つの授業を完成させるのは、学者の仕事です。その実証を先生に依頼するわけです。 先生方は、俳優なのです。俳優としての、技術は試されます。しかし、シナリオの欠点は、シナリオ・ライターの非なのです。 これは、一つのシナリオを多くの先生に試してもらうことで実証できます。8割方の授業で、成果を上げれば、有効としていいとか、2割で成果を上げなければ、それは「役者の問題」だとか特殊事情があるんじゃないかとか、分析できるわけです。 でも、もう、こんな寅さんに関係ないことを書くことはやめよう。もっと、自分の実になることを書くことにします。 (共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.09.30
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学校で研究授業の大会が開かれます。 先生方が、忙しい中、あえてプレッシャーに耐えて、一つの授業を完成させていくことは、素晴らしいことです。 大きな学校では、他のクラスで何度も「練習」を繰り返してその上で、より良いものにしていくようです。その意味で、子どもたちの協力を求めなくてはなりません。もしかして、こういう事業の効果は、生徒と教師の一体感を作るところにもあるのかな? うん、たしかに。 さらに、普通なら、こんな面倒な事業をやりたくないだろうに、それを推進する校長先生の指導力やPTA・市の協力体制などパワーを統合する象徴みたいなものがあります。 しかし、ヒネクレ者の寅さんは、こと「研究」の効果に絞ってみれば、このセレモノニーを包む雰囲気に危惧を感じます。 来場者をランク付けをして、接待をすること準備段階での先生方の緊張感協力するPTAに対する説明会での、言葉遣いに私は「科学的な自由」とは縁遠いものを感じてしまいます。 だいたいにおいて、先生たちは、何を評価されるんだろう?「良い授業」を作って、学力向上を図るということですが、学力向上の効果は、何で計測されるんだろう? 子どもたちが立派な態度で授業を受け、まとまりのある元気な姿で評価されるんじゃないだろうか?子どもたちから、本音を聞き出す仕組みはあるように思えない。 だいたい、先生たちが、普段できない、大胆な仮説を立て実験する場には、できないと思われます。 授業の進歩のためには、大胆な仮説が必要です。それが、当たっていようが、ハズレであろうが、反面教師にもなる論理が必要なのです。 そして、その効果は、冷静に数字で評価されるべきです。それで、良かった・悪かったが問われます。 どの授業も素晴らしい研究授業なんて、失敗の無い研究授業なんて、研究の名に値しないと思います。 この寅さんの説は、現実には、到底無理だということを承知で言っています。あえて、失敗を覚悟で、「実験」をしてみる先生批判の嵐が来るであろうことを予期しながら、挑む先生を 現状の先生を取り囲む環境で期待する方が、アタマがおかしいと言わざるを得ません。 でもね、学問や科学というのは、自由が空気と同じくらい生命線なんです。科学を教える学校が、自由の(精神の)殿堂であって欲しいものです。思い切った挑戦を許す学校が、一つや二つあってもいいじゃないですか。 (共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.09.30
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午前中に、高清水公民館にて、館長さんと兵藤博行さんとお話する機会をもてました。兵藤さんは、町の地域づくりグループ「高清水ソフトウェアカンパニー」の代表で、高清水に住んでいることに自信と誇りを持ち、民間としての自立性を大切にした「住民自らがおこなう町づくり」を実践しています。 会の活動は高く評価され、「宮城地域づくり大賞」も受賞しました。高清水ソフトウェアカンパニーでは、子供からお年寄りまでの幅広い住民が、様々な目線で地域を見つめ直し、住民が一体となった地域づくりを心がけています。 古川の隣町に、こんなにステキな人がいるんですが、交流のいかに乏しいことか。 実は、今回の訪問には伏線があり、先日、武田和浩さん、(牧場フリースクール 代表)が私を訪ねて来られたのです。今度企画する青少年のための市民会議(栗原市高清水地区)の研修会の講師の話です。まだ、決定ではありませんが、いつでも喜んでご協力させていただきたいことです。この武田さんは、クリスチャンですが、私は、本当のイエスキリストがいるんじゃないか、と思える常識を越えた、体当たりの活動をされています。全く、素晴らしい人が身近にいるもんです。 で、本日、健全育成談義をしてきたのですが、兵藤さんや武田さんがおっしゃるには、直線上に子どもを並べて見ないということと、理解しました。(寅さん流解釈) 直線からはずれても、別のベクトルをもっていても、良いという暖かい、複眼的な見方を地域に作ることとの思いです。 こういう考え方をはっきりもっている地域は珍しいと思います。なおさら、ご協力したくなりました。私は、私の科学実験を大人の方々に体験してもらう中で、その考えを、あらためて納得してもらいたいと思い、ご提案してきたところです。 だいたいにおいて、人生は直線じゃありません。ある価値観においては、遅れてビリになっても、そういう時は、かえって横道にそれちゃえばいいのです。横道にそれて、そこに、お宝を発見すれば「ここにお宝があるぞ!」って大声で叫べば、みんなバックしてきて、見に来ます。そしたら、あっという間に、トップに立っているじゃないですか。 実は、科学寅さんなんて、これそのものです。(トップかどうかは別ですが) これから、古川第一小学校へのご協力と古川中学校のPTA運営委員会です。行ってきます。
2006.09.29
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私の実験教室を見られた学校の先生に、よく「参考になりました。」と言われます。 また、管理職の先生が、「寅さんを見習わなくちゃ」、そして、「もっともっと研究しなくちゃ」、とおっしゃることもしばしばです。もちろん、リップサービスもあるでしょうが、文字通りの思いも一部はあるでしょう。 しかし、私の本音は、「無理をしないでください。」ということです。 先生方と寅さんとは、土俵が違うのです。ハンデが違うのです。アメフトとサッカーが試合をするようなものです。 だって、先生方は、毎日、何時間もその都度、新しい授業をしなければなりません。それに対して、私は、同じことを何度も何度も、検証しながら改善していくことができるのです。 教育が科学化できないことの大きな理由は、法則を研究する時間的な余裕が無いからだと思います。 教育は、教える内容によって、方法も変わります。体育の授業の法則と数学の授業の法則が同じと考える方が非科学的です。同じ理科でも、力学と植物では、授業の法則も当然変わるはずです。 教育一般の法則を求めるなんて、昔のアリストテレスの宇宙論みたいなものです。神学みたいなものです。 今は、まだ、一つ一つの教える内容ごとに授業の法則を仮説を立て、検証していくことを積み上げる段階です。 しかし、先生方は、毎日、授業をしていても毎日、内容が違うわけです。せめて、一年に一度同じ場面が巡ってくるだけです。それも、同じ学年をもったらの話です。 ですから、私が素朴に思うのは、先生方に、授業の本格的な研究は無理ではないか、ということです。 先生方の後ろに、専門の研究チームを控えさせ、スタッフ機能として、研究をさせ、この通り授業をすれば、ほぼ間違いないというシナリオを作ってあげるべきです。 私は演劇部出身ですから、シナリオの重要性と、それを演じる俳優の役割とをすぐ考えてしまいます。 それから、もと、流通業ですから、店舗の店長の役割と商品開発のスタッフの役割の違いもすぐ思い浮かびます。 産業としてのスーパーチェーンは、店長が商品開発までやるような、そんな中途半端なことでは成り立ちません。 同じ仕事の分類は、まとめてそれ専門にしなければならないのです。私は、現場の先生は、俳優であり、店長だと思うのです。 先生方に、授業のシナリオ作りを押しつけるのは、無理だと思います。マジメな先生ほど、ノイローゼになるのは、当然だと思います。当然、妥協の連続でいかなければならないんですから。
2006.09.29
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「健全育成」が叫ばれています。寅さんは、娘の中学校の健全育成委員長。今晩も、役員と活動計画を打ち合わせてきました。 しかし、寅さんは、今さらながら違和感を抱いてしまいます。「健全」ってどんな状態を言うのでしょう?非行に走らないこと?非行って、どういう状態のこと?反抗しないこと?ヒネクレないこと? どんな更正活動が有効なのでしょうか?それは、実際に検証されているの?そのためには、非行に走る原因を特定しなければなりません。複数の原因があったら、それぞれ対策が必要でしょう。 非行の予防策は何が有効なんでしょう?それは科学的に検証されているんでしょうか? これらが、専門の学者さんも、科学として研究されてるとは思えません。 「健全育成の不毛」とタイトルを書きましたが、実は「教育の不毛」も同じようなものです。 教育とは何なのかという議論が欠如しているのです。それぞれの大人の価値観で、勝手に自説を言うのは自由です。でも、それはみんなが詩人になったのと同じで芸術性や文化は高まるかもしれませんが「成果」は期待できません。 少なくとも、私には「真剣な」取り組みとは思えません。もし、本当に腰を据えて、現状を変えたいと思うなら、全面的な改善は求めずに、局部的に確かな一歩前進を狙うべきです。的を絞って、仮説を立て、検証できるような調査をするべきです。それが有効でないとわかったら、それはそれで、貴重な財産です。どんなに小さくてもいいですから、確かな実証的な積み重ねが明日の子どもの幸せを築くのです。 この教育界の後進性は、大人の無責任さによるものです。自分の説に、いつも言い逃れを用意しているのです。もし、成果が上がると主張したりすると結果がおもわしくなかった場合、責任をとらなくてはならなくなります。ですから、様々な要因、ごちゃごちゃをあえて黙認しているのです。 ですから、結果があいまいになるように、または、結果がわからないように確信的にしているとしか思えません。 川島教授の読み書きに理論は、医学界から提出されました。たとえ、あの理論が間違っているとしても、理論として主張されなければ、反論も、それに基づくさらなる理論構築の進まないのです。 そもそも教育は、科学に適さないのでしょうか?そんなことは無いはずです。範囲があまりにも広く、複雑ですから、条件設定をしっかり設けて限定的に検証していけば、科学になります。自分から、泥をかぶる腹で、自説を主張すれば良いのです。 そうじゃなければ、これまで不当な教育環境に泣いてきた子どもたちや親の涙は、浮かばれません。
2006.09.28
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理科の実験が面白くないのは、実験の後に、いつも「なぜ?」と追求されるからでもあります。普通、科学的思考能力をつけるためには、子どもたちに「なぜ?」と問わせる訓練が必要だと考えられ、その問いに答えるために、子どもたちは、ウーンとうなって、いやになってしまうわけです。 私は、一つや二つの実験で、その背後にある法則の結論を出すなんて、その方が、科学的でないと思います。実験結果の現象からは、いろんな解釈が可能なのです。それを、結論先にありきで、それに強引に結びつけるために実験をしますと子どもたちは、「押しつけ」を感じます。これで、サーっと、本当の興味・関心が引いてしまうのです。 それに、科学的センスを殺してしまいます。 じゃ、どうしたらいいのか?実験結果が出たら、すぐ次に進むのです。その実験の変化バージョンに。 議論は、次の実験の予想の中で活かされていくのです。いくつも、それを重ねていくと、次第に予想と結果がピッタリ合ってきます。その感激を、結論を早めに出してしまうことにより奪ってしまっては、申し訳ないのです。 そういうプロセスを通して、この世の現象面から、法則を導き出して生活改善やコントロールをしていく方法を見いだしていく力を養わせたいものです。
2006.09.28
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知識の寄せ集めは、生きる力を生まない知り合いの女子高生が、不登校になっています。「勉強する意味がわからない」とやる気自体を無くしています。その子を寅さんは、とても非難する気にはなれません。たとえ、何か別の原因の言い訳だとしても、そういう気持ちが実際になければ、そういう言葉は出てきません。これに対して、大人は何と言って説得するのか? 今のところ、学校の先生も、親も失敗しています。親御さんが嘆いていました。「私には、『微積分なんか、日常生活で使わないじゃない』、という娘の問いに返す言葉が無い。せいぜい、『卒業して、良い就職を見つけるためだ』、という言葉しか出ない。」と。 私は、これは、父兄の問題というよりも、明らかに、日本の教育、率直に言って、明治以来の文部省の失敗だと言えますね。 知識をいっぱい拾い集めたところで、実際、何の役に立つでしょうか?ほとんどの子は、本心では、何の役に立つかわからないから、こんなの勉強したくない、と思いながらも、周囲の流れの中で、仕方なく、自分を殺して勉強しているのです。本当の科学教育こそが、生きる力を育む 寅さんは、本当の科学教育こそが、この地獄のような世界から生徒も先生も救い出してくれると考えています。 それは、今の勉強は、知識の寄せ集めなのに対して、科学は、過去から現在までの現実から、どう有効な法則を見いだして、未来を切り開いていくのかを、教えてくれる、とっても頼りになる希望を与えてくれる考え方だからです。 科学的な考え方こそ、未来を切り開く「生きる力」です。科学するためには、知識を身につける必要はありません。そして、ジャンルが違っても、応用が利きます。自分が切り開きたい未来のための道具を、よりシャープにするためある時は、社会科学でケーススタディをし、ある時は、自然科学で、ケーススタディをするのです。 その意味で、理科と科学は違います。自然観察からは、遺伝子改良の考え方は生まれません。 そして、小学生から、科学は十分教えられます。目に見えない法則の意味も、感動的に体感させられます。 科学は、すべてがNHKのプロジェクトXみたいなものです。科学の意味を知ってこそ、学習する意味を、小さいときから、理解するのです。
2006.09.27
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科学寅さんのエネルギーの素これまで、科学教育の意義とか、固いことを書いてきましたが、実は、科学をすること自体は、とっても楽しいことです。 その楽しさは、子どもたちの目の輝きを見ればわかります。また、科学寅さんがここまで、ド素人ながらやってこられた訳でもあります。 科学はそもそも、趣味・道楽が基本ですから、それ自体が楽しいのですが(それを無理に楽しくない教科書にしている)実は、その何倍も、人に教えて、人を楽しませることにその魅力があります。 寅さんのエネルギーは、子ども達の笑顔です。あの目の輝きです。これを見せたら、どんな顔をするだろう、と思うと少々の苦労は吹っ飛んでしまいます。 同じように、子どもたちに「この問題は、きっとお父さん・お母さんもできないから、お家に帰ったら、このようにやって見せて問題を出してごらん」と言うとあきらかに子どもたちの集中力はバクハツします。 科学は、とっても社会的な活動なんですね。多くの人にどうPRするか、に半分はかかっているのです。 よく大人は子どもに、「自分のためだから勉強しなさい。」と言いますがそれだと、かえって、自分のためなら苦労する必要がない、と思ってしまいます。ところが、何人もの楽しい笑顔が、自分の勉強にかかっていることを知ると苦労がとっても小さくなります。先生が尊敬されるには昔は、父兄の学歴が低かったですから、学校が地域の文化センターでした。学校で教わったことは、ほとんどお家で自慢できました。 ところが、今は、学校で習うことは、お父さん・お母さんはお見通しです。変に報告しようものなら、やぶ蛇で、「まだそんなことしかわからないのか」と言われてしまいます。 当然、先生を尊敬する気持ちも減ります。 自慢する意味では、サラサラ無く、寅さんのことを、子どもたちは、お家の人に「とっても偉い先生なんだよ」と紹介してくれることがあります。これなんか、子ども自身が実験を通して、偉くなれたからなんですね。私は、単なる紹介人に過ぎないのですが。 ですから、教えることが決まっている学校の先生は、苦労の割に不当な評価しか得られないのです。 テレビ番組ではないですが、あるある大辞典とか、みのもんた、のように何か、お家の人に自慢できるおみやげをもたせてあげることその楽しみを体験させてあげることです。 そのためには、学習指導要領を飛び越えることも必要です。大人にとっての発見が必要なんですから。そういうのは、先生方にとって苦労でしょうか?いえいえ、そうは思いません。確かに研究する労力は増えますが、その苦労は、何倍にも報われるのです。まず、子どもたちのワクワク。そして、それを聞いたお家に人たちの拍手。そして尊敬・感謝。一気に走馬燈のようにめぐるじゃないですか。 先ほど、人の目を気にしない科学的態度の必要性を書きましたが、こと、成果のPRについては、人の目をもっともっと意識すべきだと思います。だって、楽しいことは、より多くの人と分かち合いたいですもん。
2006.09.27
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人の目を気にする子どもたち科学教室に参加してくる子どもたちの中には、自分の科学の知識を自慢したい子が必ずいます。 そういう子は、ほとんど私の実験教室では、予想をはずし、面目を失います。「絶対そうだよ。俺知ってるもん。」って公言するんですから。 で、本当に科学の才能があると思われる子は、「わかんない。」と悩んだ末に言います。 でも、結局は問題点を整理して、どれかに予想してもらうんですが。 そういう子は、どちらかと言うと、ちょっとぼーっとしている子です。目から鼻に抜けるタイプではありません。科学の才能は、実は、「わからないことを見つける能力」です。わからないことを見つけたら、8割方、問題解決したようなもんだと言われています。 しかし、普通の授業では、「わからない」と言うのは恥になります。人の目を気にするからです。そういう教育を知らず知らずにしています。ですから、手を挙げて、「どうもわかりません。」ということを「よい子」「素直な子」は言えません。 「わからない」と言うことは、自分はバカだということになります。また、一生懸命教えている先生に恥をかかせることになります。先生の「わかりましたか?」という問いは、大きな圧力です。 子どもに科学力を身につけさせるためには、まず、この圧力を取らなければなりません。日本社会の場合、普通にしていれば、圧力をかけてしまいます。ですから、意識的に、解いてやる仕掛けが必要です。 それの一つが、「みんなで間違う」ことです。ボクだけが間違うと恥になり、トラウマになります。しかし、大勢で間違うと、特に優等生でいつも自慢している彼も間違うとみんな、とっても安心します。 さらには、担任の先生にまで間違ってもらうと、効果はテキメンです。それだけで、みんなの集中力が格段にアップします。そして、はじめて自分のノーミソが使われ始めるのです。 それまでは、誰はどんなことを言うだろう、とか、先生はどんなことを期待しているだろうか、ということにノーミソが使われていたのです。 これらの基本的なことを、私は板倉聖宣先生の本から学びました。そして、ザックリと真似させてもらっています。良いことを真似することも、恥ではない、と先生はおっしゃっています。私は、もともと、科学の専門家ではありませんから、良いものは、こだわりなく、何でも取り入れられると自信をもっています。そして、自分が感動したことは、人に伝えたくなります。これも、私が基本的に素人だからでしょう。自分勝手ですが、そこに私の社会的役割を見いだしています。実は、私はマルチ人間で、何にでも好奇心をもってしまい、すぐに行動してしまいます。 ですから、いろんなことにエネルギーを使っています。自分では、どの活動も、意義のある大切なものだと思っています。しかし、社会が認めてくれるかどうか、というとほとんどの場合、(リップサービスは別として)引き合いが強くないことを実感させられます。 もし、私に財力と名声があり、余裕をもって自分の信念を貫けるのでしたらそれに投資し続けてもいいのですが、いかんせん、寅さんは、フーテンの身です。 スーパーマンでない限り、どれかに絞らざるを得ません。社会的要請が大きいもの、これに集中するのが私のためにも、社会のためにもなるはずです。 実は、科学研究のテーマもそういう性質があります。科学研究は、すぐれて社会的な要素があります。 で、私の思いだけでなく、地域の皆様から、確実に支持を受けていると確信をもてているのが、この実験教室であることに、最近気づいたのです。あらためて、この意義をまとめておこうと思って、こうのように、ブログをノート代わりにしています。 長々おつきあいありがとうございました。
2006.09.27
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子どもたちは、自然にのびのび育てば、科学的思考能力を身につけられるのでしょうか?いえいえ、それは、ほとんど不可能です。最低、本で科学者の伝記や、発展の歴史を学ばなければなりません。だって、科学は、自然を「あるがままに見ない」ことに特徴があるのです。表面には見えないものの中に、何か法則があるのではないか?常に考えを裏にするというか、切り口を複数もち、その中で、どれがもっともらしいか、仮説をたてられなければなりません。素直な子に育てばいいと一般には思われています。しかし、素直な子には、物事の表面ばかりが見え、自分独自の大胆な仮説までは到達できないのが普通です。 科学の歴史はヒネクレ者が作ってきました。または、先人のヒネクレ者に反論するために、発達してきました。 ということで、科学教育は、意識的に行わなければ、普通の教育では、育てられないと思います。よい子の集まりを目指す学校教育では、もともと目指せないものかもしれません。 そういう訳で、世の科学実験教室の意義があると思うのです。しかし、最近流行の科学実験教室は、往々にして、マジックショーや知識の寄せ集めであることが多いように思えます。ヒネクレ者に本領発揮させる場面を作ってこそ、意義があるのです。 そういう科学教室にしていきたいと、研究と準備を今日もしております。
2006.09.26
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ただ今、古川第四小学校 三年生 12名が国語の授業の取材で、醸室(かむろ)に来られました。寅さんがお出迎えさせていただきました。2年前、古川第二小学校で、補助として教えた子も混じっていたのに、気づかなかった! 大きくなっちゃったんだもん。一生懸命にインタビューしていきました。大人になったなあ。
2006.09.26
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寅さんの科学教室は、そもそも我が子と、我が家に遊びに来ている近所の子ども達が、いかに、勉強が嫌いか、ということが直に接してみて、ヒシヒシとわかったからスタートできたと言えます。 普通、そういう子どもたちには、学習塾を開こうと考えが進むんでしょうが、実は、私は勉強嫌いな気持ちに、大いに共感してしまったのです。私は、現状の学校教育体制の中で、勉強を自主的にする子の方がどこか異常なのではないか、と思っちゃうのです。 「これを勉強しなさい」と言われて、素直に勉強をする子は、私はかえって心配です。自分のためになる、と理解していればいいのですが、通常、電気分解や原子番号などを覚えても、解の公式を覚えても、何がどう生活改善に役立つかなんて、わかりません。そして、その意味や動機を教えられることも、ほとんどありません。 子どもたちが、勉強する動機は、親や先生から、「ほめられたい」または、「怒られたくない」、「恥をかきたくない」、「進学をして有利な就職をしたい」てなとこです。 純粋に好奇心、どころか、自分の役にたつから、とか、社会の役に立つから、という意識もほとんど無いのです。 マイペースで自分で興味をもって、勉強してきた私は、彼らを批判して、彼らの態度を直すよりもまず、興味が湧く世界を体験させてあげたい、という思いがムクムクと生まれてきたのです。 そして、「勉強」に心を開かない彼らこそ、最も厳しく愛情深い「先生」でした。また、偶然知った「仮説実験授業」の板倉聖宣先生の著作が全くピッタリ、ドカーンと入ってきたのです。大人や教師は、子どもに「わからせよう」とします。わからせるための研究をいっぱいしています。しかし、それより先に、その何倍ものエネルギーで興味・関心を涌かせる研究をすべきだと信じます。 なぜ、ボクはこれを勉強すべきなのか、なぜ、この技術を身につけておくといいのか、これには、人に自慢できるっていいうのも、いいでしょう。 良い教育を受けた子は、きっと今日習ってきたことを親に吹聴したくなるものです。親に自慢したくなる勉強こそ、本来の姿です。 なぜか、わからないけど、指導者が「やれ」と言うから「やる」ということを日本の社会は、いつも暗に求めます。こういう子ばかり育成して、本当に日本の将来は大丈夫なのでしょうか? 自分の疑問や自分の問題意識を大事にして、独自にいろいろ試していく子どもを育成することこそ、急務なはずです。 私は、勉強したくない、とハッキリ言える子こそ、健全な精神をもっており、彼らに、支持されることこそ、本当の勲章だと思っています。そして、その興奮と感激が、私をこの道にドンドン引っ張ってきてくれました。その意味で、我が子とその素晴らしい友達に、心から感謝しています。
2006.09.26
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わからない生徒は、バカ?日本の科学は、明治以来、官製のお上から指導された科学です。少なくとも、教育界では底に流れています。そこには、これがわからないのは、お前が悪い、という意識がついています。 「はい、この実験をすると、こうなります。」「もし、うまくいって当たり前です。もし、失敗したら、よく聞いてなかったことになりますよ。」と、脅されてする科学実験が楽しいはずがありません。 しかし、本来、科学は、誰に頼まれたのでもなく、好きで研究して、その成果を、みんなに分かってもらいた、というのが原点です。もし、ヘタな説明をして、みんなを納得させられなかったら、自分の説が正しいことを認めてもらえないのです。ですから、必死で、わかりやすい解説に努めました。 ガリレオやニュートンやダーウィンの書いた本は、現代の教科書より、よっぽど面白く、そしてわかりやすいのは、そのためです。 科学の一つの側面として、自分の考えをどうやって、わかりやすく伝えるか、というものがあります。これは、教室で異なる意見の友達と討論することで、磨かれます。 たとえ、実験結果が違っていても、立派な仮説を堂々と言えることは、本人にとっても、それを聞く友達にとっても、気持ちの良いものです。 実験結果は違ってもいいのです。だって、この世への解釈はいろいろあり得るのです。でも、一定条件でのこの世界からの解答には、誰もが謙虚に従って、それに基づいて、次の仮説に取り組まなければなりません。「ゆとり教育」の狙うべきだったところ日本の教育界に、科学の知識をいかに詰め込むかではなく、科学する精神、学問する姿勢こそ、大切だという風土を植え付けられたらその効果は、ニート対策、再就職対策、社会起業家育成対策など、多くの費用対効果でトクをするはずです。 悪名高い?「ゆとり教育」も、本当はこういう意識であったはずです。でも、これは教育界の根本的意識改革ができなかったので、脱線転覆してしまったのですね。科学寅さん流に言えば、名前を「刺激たっぷり教育」とか「何でも言えるのびのび教育」にすれば良かったのに。 でも、日本の教育の伝統を考えると、流れを変えるのは、すんごい大変なことだと思わざるをえません。せめて、科学寅さんの実験教室くらいでは、実現させてやりたいと思うのです。
2006.09.25
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ファンダメンタリズムは、基本的に知性的で合理的オーム真理教の走った若者が、高学歴だったことは有名です。その教義は、知性と合理性に貫かれ、「科学的」な衣をまとっていました。 合衆国でも、ファンダメンタリズムの宗教が驚くほど勢力を伸ばしています。南部バプテスト派、モルモン教、セブンスディ・アドベンティスト派は、聖書の無謬生を主張します。ギャラップ調査によれば、米国人の44%が、「神は人間をかなりの程度、現在の形で、1万年以内のある時期に造った」ということに同意しています。いわゆる「創造説」が、これほどまでに先進国に生きているということを私たちは、笑えるでしょうか? 彼らは、自分たちの信念の合理的な証明を求めて、その手段として、宗教や信念を作り直して科学に合うようにする代わりに、科学を作り直して、宗教に合うようにしているのです。あのナチスだって、「科学的」だったのです。先導者は、科学を自分の都合の良いように使います。科学と「真理」は、実は遠く離れているのです。 間違ってはいけません。科学的とは、いつも私が正しいと主張することではありません。科学が持っている大事な権利は、間違える権利なのです。必要ならば、いつでも心変わりする権利をもっていることなのです。 科学は、絶対確実ではありません。複雑で神秘的な世界を、ある一面から表す、ひとつの「たとえ話」なのです。科学は自由な研究に基づいています。真理の探究は、疑うのも、意見を異にするのも、研究するのも、また、間違えるのも自由でなければならないのです。 すでに真理を発見した、という態度は、進歩の可能性を否定する最も非科学的なものです。 それに対し、宗教や信念は、神秘の世界からの理性を飛び越えた「啓示」です。その「真理」への信仰を要求するものは、そもそも「科学」とは調和できないのです。 だからと言って、宗教や信条を軽視するものではありません。ただ、それらが、科学の衣を着ようとするとき、脱線が起きるのです。そして、私たちは、そういう脱線の危険性にいつもさらされています。そういう科学的でない「科学」を見抜く「科学的な目」をより多くの子どもたちに持たせてあげることこれこそが、日本の平和と安定に必要なことだと思うのです。
2006.09.25
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先日、ストローのなぞを探る実験をしました。写真は、どのくらいの長さまで、ストローは水を吸い上げられるのかを予想して、試しているところです児童センターの低学年の子どもたちです。だったら、これではどうか、だったら、これではどうか…と、どんどんエスカレートするのが、ポイントです。真空状態での動きも、こうも考えられるのではないか、いや、こうも、と想像をみんなでぶつかり合わせるからみんな集中しているのです。
2006.09.25
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現代は、本当に科学の時代か?今の日本の文化は、果たして「科学的」でしょうか?たしかに科学技術の恩恵をものすごく受けています。しかし、機械が発達しても、私たちの考え方が「科学的」だとは言えません。ほとんどの機械は、科学について何も知らなくても、十分に使うことができます。 実際、ほとんどの日本人は、科学については、驚くほど情報不足です。文系の学生が、古代ギリシャ人と討論して、納得できる説明ができるとは思えないでしょう。 社会のリーダーさえ、政治家、裁判官、役人、教師も、ほとんどが「文系」出身であり、古典か、経済か、法律を学んで社会に出てきたのです。彼らは、科学については、たいていマスコミやSF映画からの又聞きで学ぶのです。ほとんどの議員や議会は、科学のことは知りません。地方議会ならなおさらです。お題目として、「科学は大切だ」と言えます。しかし、科学の、本当の価値や的確な政策を立案できているとは、到底、考えられません。 科学の価値は、現代、経済的リターンでしか、計られていないのではないでしょうか?現代、科学は、科学技術のこととイコールにとらえられています。応用科学と基礎科学の違いは、単に、金になる時間の差だととらえられているのではないでしょうか? こんな社会で育っている子どもたちが、科学離れを起こすのは、当然です。科学の真の価値、意味を、まずハッキリと教えるべきです。もちろん、最初に教育界で、科学と社会の関係を認識し直す必要があります。科学は元々、とても社会的なものであり、社会の健全化のバロメーターです。科学は、一般の学生には、細分化して教えるよりは、総合して、あらゆるものとの複雑な関連性の中で教えるべきです。総合という意味は、歴史・社会制度・宗教・文化などのすべての科目を含むということです。科学を他と分離した話題として教えてはいけません。その上で、日常生活と関連させるようにしたいものです。 現代の科学は、あまりにも高度化してきて、一般の人には、理解するのが難しくなってきました。特に物理学は、非常に抽象的で、高度な数学が必要で、しかも常識とはあまりにも相容れなくなってしまったのです。このまま、放っておくと、科学は一部の特殊な専門家の独占物になり、文化の主流となることはなくなってしまうでしょう。 しかし、これからの日本、いや人類が難問を解決していくには、科学への理解や、科学的思考能力がいかに大切かは、論ずるまでもありません。自分勝手な主観でなく、自然や宇宙の実体を謙虚に確かめて、間違いを真摯に変えていく態度は社会の健康を維持する生命線です。 私は、科学こそ、総合学習の中心となると思います。
2006.09.24
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「学力」への疑問ノーベル賞を取ったような科学者は、子どもの頃、あまり成績は良くなかった人が多いです。特に、記憶することが苦手な人が多い。きっと、知能テストを受けたら、ごく普通かそれ以下だったのではないでしょうか。 なぜでしょう。それは、通常のテストでは、論理の道筋をたどっていけば、必ず一つの答えが出てくるような問題ばかり取り上げられ、無数の答えを出すことのできるような問題は、含まれないからだと思います。「疑問力」を育てる授業を しかし、本当に有用な科学的知能とは、新しい解答を無限に引き出せる能力をさすものでしょう。または、何も問題がないような平凡なものに、新たな疑問や問題を見いだす能力でしょう。 逆に、子どもに知識を詰め込みすぎると、創造性や直感力が低下することがあります。(川嶋教授が唱える脳味噌の鍛え方とは、別の意味です。) もともと、小学生には、まだ論理的な追求は、無理なことが多いのです。それに対して、直感力や創造力は、子どものときこそ、発揮しやすいものです。子どもは本来、創造的エネルギーの塊です。いわゆるイタズラのエネルギーを活かしてやることこそ、発達段階に応じた教育だと思います。 子どもは、繰り返しが好きだと言われていますが、少なくとも、単純な繰り返しは喜びません。ちょっとずつでも、その度に、いつも新しいことを試みようとします。子どもは好奇心に燃え、疑問・質問の嵐が当たり前なのです。 それが、どうして、教室では、質問の手が上がらないのでしょう。これは、あきらかに、教育環境の設定の失敗だと言わざるをえないでしょう。 積極的に問題を開拓する能力は、科学者の大事な資質のひとつです。「問題の所在がわかれば、大半が解決してしまったのと同様だ」と言っている科学者もいるのです。 子どもによくわからせる努力は、学校教育では、懸命になされています。しかし、本当にわかるということは、与えられたことがわかるということの連続で得られるものではありません。一つのことから、いっぱい疑問を持って、はじめて立体的に理解がすすむのです。 しかし、だからこそ、疑問をもつ能力を発揮させるのは、難しい。初心者には、疑問のガイドを用意して、どんなステキで面白い疑問がありえるか、を指導していく必要があります。それを、みんなで討論することによって、科学的才能が磨かれるのだと思います。
2006.09.24
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易しいことから教えるべきか、難しいことから教えるべきか?学校教育の基本は、簡単なことから教え始めて徐々に難しいことに挑戦させていくことです。確かに、理解させるための学習には、ステップ・バイ・ステップが必要です。しかし、好奇心や探求心を養うためには、違う角度からのアプローチが必要であることは、自分をふり返ればわかることです。 まず、やる気は、イチロー選手や松井選手を見て大リーグを目指すように、「あこがれ」によるものがあります。それと同じように、未開拓な分野、未知の世界、人類にとっての困難な問題等、フロンティアを見据えることによっても喚起されます。 科学には、いろんな側面がありますが、こと、教育にとって、本質的なことは、冒険への旅立ちを促すことだと思います。 学校教育や受験勉強の弊害の一つは、子ども達に既に社会には、こんなにいっぱい覚えるべきことがあるんだ、と思わせて今ある知識を自分のものにすれば、成功できると感じさせるところもあると思います。 実は、科学は、進めば進むほど、わからない問題に直面する世界なのです。地理上では大航海時代は終わって、冒険の旅は、もう無いかもしれませんがこと、科学上では、大海原がやっと見えてきたばかりなのです。その先に、大陸があるのかさえ、はっきりしていません。 「わからないことが、いっぱいある」ことを教える科学の一つの側面は、世界を「解釈する」ことにあります。この世界観の変遷を教えていくことも、とても大切だと思います。地球が宇宙の中心にあって、地上の物体と天上の物体とは基本的に異なるものだ、という古い宇宙観を、いかに科学が破壊してきたか。 デカルトから19世紀の終わりまで、科学は物理世界について、常識的な機械論的哲学の立場に立った説明をしてきました。しかし、20世紀になってから、この哲学の限界がわかりはじめたこと。常識は、原子や素粒子の世界を理解するには役には立たず、私たちが見たり触ったりできるものの日常的経験は、話のほんの一部にすぎないこと。今では、ものが「本当は」何であるのかということが、知ることができないこと。天文学では、宇宙がそれまで思い描いていたよりも、はるかに巨大で豊かで素晴らしいこと。とにかく、機械論では、想像も出来ないくらい、奇妙な世界であることを子どもたちに伝えておくべきだと思うのです。 わからないことだらけ、ということを教えることも必要だと思います。そして、それがいかに実用にも関係していくのか、さらには、社会をどう変えていく可能性があるのか。 夢と冒険への誘いこそ、科学教室の基本だと思っています。
2006.09.24
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あなたは、科学教育は、「科学的」に行われていると思っていませんか?ところが、実際は、科学者を育てているのは、中世的な徒弟制度、それも、職人のシステムから根本的に踏み出していません。科学が学校教育に取り入れられたのは、この100年くらいであり、でも、それは単なる知識教育に過ぎなかったのです。しかも、日本では戦前は、原子論が単なる「仮説」の一つとしか扱われていなかったくらい「鈍かった」のです。科学的研究方法や、科学的とは何か、ということの理解は現在でも、教育現場で啓蒙されているとは言えません。ですから、寅さんのように、エンターテイメント中心の講座が学校教育の中で取り入れられてきているのです。そもそも、「科学」が市民権を得たのは、人類の歴史からすれば、つい最近も最近、誕生したばかりなんです。だいたい、「科学者」という言葉が発明されたのは1840年にウィリアム・ヒューエルが唱えてからのことです。科学者や技術者の教育を真剣に取り上げた最初の国はフランスでした。1794年、科学技術の重要な学校 エコール・ポリテクニクが設立されまた、一般に学校で、ある程度の科学が教えられるようになりました。ドイツもそれほど遅れませんでした。すなわち、最も成功した化学教室が、1826年、ギーゼン大学に設立されます。イギリスは、科学の立ち上げに、とても貢献した割には、科学教育では遅れをとりました。ケンブリッジとオックスフォードは、科学に実際の関心を払っていませんでした。古典教育が文化の本質的基礎であるという考えに、すっかり浸っていたのです。さらに、教育が聖職者によって管理されていて、非国教徒を排除していたのですがこの非国教徒の方がおおむね科学に関心をもっていた人々であったのです。科学は、上流階級の尊敬すべき趣味であるとは見なされていましたが、淑女は言うに及ばず、紳士の職業としてはふさわしくないと考えられていました。科学の公認の教育は、ドイツの大学が導き役を務めてきました。ですから、第二次世界大戦までは、科学の学生はドイツ語を読むことを要求されたのです。この300年くらいの間、科学のパワーは幾何級数的に増大しています。ということは、逆算するとつい先まで、今とは比べものにならないくらい社会的なパワーが小さかったのです。結果論としての科学の成果に対して、教育システムはついていっっていません。これは、科学というものの、本来、実利的成果と直接結びつきにくい性質それなのに、最近の発達が、経済的・軍事的意識がなど、実利が引っ張って巨費が投入されてきたことが影響しています。でも、科学的意識を育てるのは、実利志向とはちょっと違うのです。技術者としての側面も確かにありますが、好奇心開発や、問題意識の持ち方が、その核にあるからです。寺田寅彦が「アタマが良い人は科学者になれない」と言ったことが象徴しています。科学は、人生観や世界観、社会の理念と密接に関係しているのです。本来の科学教育は、そこから説き起こすべきだと思われます。私は、そんな気づきを起こす実験講座を創りたいものだと思っています。
2006.09.23
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もし、ヨーロッパの中世初期にタイムスリップすることができたなら、きっと、学問の世界が、いかに本に圧倒されていたかにびっくりすることでしょう。学者たちは、古い本にある字句を解釈したり、比較したりばかりしていました。科学の場合は、自分たちの読んだものをアリストテレスやガレノスといった古代の権威者の著作とうまく融和させることに多くの時間を費やしていました。現実と観念の接触はごくわずか。議論は、事実を観測することから出発せずに権威に基づいた信念から出発する方が多かったのです。多くの中世の学者にとって、科学の実践は、未知へ踏み込む大胆な冒険ではなく、すでに知られていて、昔書き留められていたものを図書館の中で探すことにありました。今から思えば、バカげたことでしょうが、現代の学生の皆さんや、学校教育はこれを笑えないでしょう。学問全般と言わなくても、理科教育の中で、科学的探求心を養う教育がどれだけ行われているでしょうか?私の実験教室は、知識を教えたりマジックのネタを教えたりするのもだけでは終わりたくありません。あくまで、未知への探求の冒険の旅であり、その旅立ちの意欲と心構えを養うものでありたいと願ってプログラムを組んでいます。ですから、当然、子どもたちが知っていること習っていることは扱いたくありません。小学生なら高校生にならなければ習わないこと、または、すでに習ったことでも、切り口を変えればよくわからなくなることに焦点を当てていきたいと思います。さらに、できるならば、学校では習わないこと先生方も知らなかったり、間違ったりしやすいものこそ最も良い教材だと思われます。
2006.09.22
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フーテンの科学寅さんです。全く、全くご無沙汰をいたしてしまいました。教育支援のNPO活動も手一杯なのですが、お陰様で、科学実験教室の依頼をジャンジャンいただくようになりました。昨年は、古川市内の全部の小学校にお邪魔させていただきました。また、地区公民館もすべてお呼びがかかっています。もちろん、児童センターも。今年になって、近隣の町へも出向かせていただいています。箟岳小学校のコラボスクールでは、年間継続して科学クラブを指導させてもらっています。今度は、中新田小学校の1年から6年までに2時間の科学講座をさせていただくことになりました。NPOとして、教育環境づくりに走り回っている寅さんですが、このままでは、私のアタマの内部も整理がつかなくなると思いまして、科学実験教室の内容をさらに充実し、子どもたち、そして主催者の方々によりご満足いただけるものにするべく、このブログを科学実験教室専門の内容に統一することにいたしました。過去の様々な資料は、保管場所を他に用意するまでは、ここに置いておこうと思います。ところで、私はよく、「宮城のデンジロウ先生です。」と紹介されることが多いのですが、うれしいような、申し訳ないような気がします。それより、私はデンジロウ先生とは、ちょっと違ったアプローチを心がけています。その違いこそ、私の教室のテーマでもあります。そこのところを、これから説明していけたらと思っています。
2006.09.22
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