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夏の、というよりは7月の太陽はうっとうしい。もともとわたしは、太陽に照らされることが嫌いだった。小さな頃からずっとそうだったし、だから小さな頃の写真を見ても、わたしはいつも置き去りにされた犬の腹のような白さの肌をしている。それはこの年齢になっても変わらない。そしてこの年齢になると、逆に日に焼けていないことが羨ましがられる。わたしは大学生になってやっと、自分が日に焼けたことのないことを悔やむようになった。その肌を日にさらしたことのない人間は、やはりどこか大切な部分を崩していくのだ。太陽は労働であり、健康であり、幸福であり、ゆっくりと伸びた地平線であり、清浄だった。わたしは太陽をうとましいものと思いながら、それゆえに憧れる。 そうだ。いつも太陽はわたしの側をすり抜けて地へと落ちる。それはこのベッドの上でもそうだ。窓を覆ったカーテンはうまく太陽の光を受け止めて、色の抜け落ちた陰だけを部屋の中に広げている。その陰の中でわたしは絡め取られる。この部屋はあの部屋のようには暗くない。わたしは肌を撫でる直人の指の形を見てとれるし、わたしの瞳を覗きこむ直人の瞳の揺れさえ見抜くことができる。けれどわたしは、この部屋ではなにも見ていない。直人の指はわたしを濡らすのがうまい。もちろんわたしの性器だけをではなく、わたしが彼を見つめようとするその瞳や、直人を受け止めようとする肌が濡れる。そしてそれが悲しいのは、わたしは濡れすぎるために直人を知らないからだ。わたしの瞳は世界のすべてを折り曲げて、直人を忘れさせる。わたしの肌は直人のすべてを滑らせて、わたしに残るのは熱だけだ。 わたしは見つめられて目を覚ます。始まりを知らないように、終わりすらわたしにはわからない。わたしはたいてい、直人の腕に抱かれている。直人の腕は硬く、わたしの枕にするには金属的すぎるのだけれど。わたしが目を開くと、天井か、直人の顔が見える。その目は優しく、わたしが目覚めたのに気付くとゆっくりと微笑む。それはゆっくりと大木が朽ちてできあがった、柔らかく濃い匂いのする大地の層に似ていると思う。わたしはすべてを直人に預けていたことに、満ち足りて快楽を知ったことに気づく。そして、それはとても悲しいのだ。直人の前では、わたしはなにも言うことができない。わたしはあまりに自分の不幸せを語る言葉に慣れているので、うまく自分が満足していることを伝えることができない。 だからわたしは、直人の微笑みに合わせるように微笑み返す。その笑顔に含まれている嘘にわたしは気づいている。わたしの幸福は笑顔の中にあるのではなく、別のものによって伝えられる。それがなんなのか、わたしにはわからない。ただわたしが微笑むと、直人は「喉、乾いてない?」とだいたいは訊ねる。わたしは喉が乾いていない時でも「乾いている」と答える。直人はわたしの頭の下から腕をゆっくりと抜くと、寝室から出ていく。わたしはその間に下着をつけてシャツを羽織り、ベッドの縁に座って彼を待つ。しばらくすると直人は十六茶のペットボトルとグラス2つを持って戻ってくる。そして、わたしの隣に座り、わたしにグラスを渡す。十六茶は綺麗な色をしている。わたしは、こういう色の宝石を耳に通したいと思う。「昨日の夕方、どこに行ってたの?」と直人が訊ねた。わたしはグラスの縁から唇を離し、シャツの袖で水気を落とす。わたしは直人の瞳を見つめた後、「うちに来た?」と訊ね返した。直人は首を振ると、「うちの近くで見かけたから」と言った。「朝倉が紹介してくれた、セラピスト、みたいな人のところに行ってた時だと思う。そういえば、直人の家の近くだし」「そうなんだ」と直人は言うと、ゆっくりとグラスのお茶を飲んだ。わたしには、直人がなにを考えているかわからない。だから、じっと直人の言葉を待つ。直人はお喋りではなく、わたしは枝を折るようにして待っている。直人は太陽の匂いがする。それはわたしにも移っているのかもしれない。ただ、直人の匂いは揺らぐことなく強いので、わたしはその匂いに染まっていないのだと思う。同じ匂いを分かち持っているならば、それは消えてしまうはずだ。
2005.02.23
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その部屋はわたしを凍えさせる。だから、わたしは不器用に扉を閉めてしまった。扉が噛み合って耳障りな音が響いたけれど、その音がどのくらい続いたのかさえわからなかった。暗い部屋、音のない部屋。窓はなく、わたしが通った3つの扉は閉じている。男の人の匂いが乾いた部屋に僅かに匂っていた。 暗闇は少しずつわたしを受け入れるのだけれど、部屋の中にはわたし以外の人はいない。少なくとも、わたしは見ることができない。本当は、暗闇に彼がいるはずだけれど。わたしは部屋の中にいる誰かに向かって声をかけようとして、喉が乾いているのを感じる。ぎこちなく、開いた唇を閉ざす。唇は柔らかく、わたしは乾いていない。本当は喉は乾いていず、すらすらと喋ることができる。暗闇はわたしを狂わせようとしているのだろうか。 わたしは手のひらを目の前にかざす。影が黒の中に白く浮かび上がるはずなのに、なにも見えない。かろうじて、わたしの息が手首を撫でる。それだけがわたしの手を教える。全ては闇に溶けている。 珍しい人だね。 わたしは声が響いた方へ顔を向けた。わたしが頭の中で作り出した声じゃなかった。わたしの聞いたことのない、男の人の声だ。彼なんだろう。 これまで僕が会った人たちは、だいたいはすぐになにか言ったから。なにがいるかわからない部屋で、ただ黙っているのは辛いよ。 わたしはなにを答えていいかわからずに、扉に背中を押し付けて部屋の奥を見つめる。なにも見えないけれど、彼の周りの闇が動いているような気がする。気のせいかもしれない。世界の闇はわたしによって動くのだから。 人間は視覚に頼るところが大きいからね。ライトの光の色を変えるだけで、料理が美味しく感じたり不味く感じたりする。もちろん明るすぎるのも駄目だけれどね。なにをするにも、それに応じた明るさというものがある。 この暗闇は、どんなことにふさわしいんですか? 多くのことにふさわしくないね。伝票計算するのも駄目だし、走り高跳びをするにも暗すぎる。薔薇の模様を刺繍するには手元が見えないし。テレビは画面が明るいから見れるだろうけど、そうするとこの部屋はこの部屋じゃなくなるからね。 わたしは自分がこの部屋で伝票計算をしたり、走り高跳びに挑んだり、薔薇の模様を刺繍するところを想像してみる。確かに、この部屋でそうしたことをやるのは難しいだろう。 ただ、どんなに暗くても話すことはできる。逆にいえば、話すことしかできない。だけど、見えないとしても僕はここにいる。それが電話とは違うところだね。それなのに、僕はどこにもいないようだ。電話でしばらく黙ったとしても、相手が本当はいなかったとは思わないだろう? 電話では沈黙にも意味がある。この部屋で相手が黙ってしまえば、本当は自分は一人で喋ってたんじゃないかと思えてしまうんだね。 そう、でしょうね。 わたしは彼の言ったようにすぐにもなっていくのを感じる。明るいところでは世界を見ることができるけれど、この暗闇の中では世界を確かめることができない。だから、たやすく自分を見失う。闇はいつのまにかわたしの中にしのび込んで、わたしと世界の関係を奪ってゆく。わたしは自分がここにいることさえも忘れてしまいそうになる。わたしは小さく笑った。 だから、ここを僕と話す場所というよりは、自分の暗い部分を自分へと語りかける場所と思った方がいい。これは誰にでも言うんだけれどね。王様の耳はロバの耳、って知ってる? 王様がロバの耳を持っているのを美容師が知ったけれど、誰に言うわけにもいかないから、それをどこかの穴に話すんですよね。だけど、その穴が美容師の言葉を国中に聞こえるように大きく叫んで。ハッピーエンドだったと思いますけど。 その話だね。きみは暗闇に向かって話したいことを話す。暗闇からなにか言葉が返ってくるかもしれないし、ただ暗闇に消えていくかもしれない。それで少しは楽になるならまた来ればいいし、つまらないなら来なくていい。きみの友人は一回で来なくなったしね。 朝倉は流行ってるから来ただけみたいですから。それで、問題児のわたしのところに回ってきたんです。クラスの女の子のみんなが納得して。 そこで彼は小さく笑った。わたしも笑おうとしたけれど、形にはならなかった。この部屋では、誰もわたしが笑っていないことに気づかない。それはとても悲しいことなのかもしれない。とても楽しいことなのかもしれない。まだ、よくわからない。 それから少し話をして、わたしはその部屋を出た。テレビのニュースで話題になっていることをたわいもなく話しただけだった。彼は自分のことを話さず、わたしも自分のことを話さなかった。ただ、わたしが部屋を出ようとした時に彼は一言だけ、彼自身に関係しているように思えることを言った。僕を見ようとしないでね、と。わたしは暗闇に向かって頷くと、今度はゆっくりと静かに扉を閉ざした…『暗い部屋』(2)へ続く…
2005.02.17
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わたしが伸ばした手を、冷たい手が掴んでいる。見なくても、誰の手かはわかる。そして、その手の冷たさが意味することもわたしは知っている。その手にわたしは少しだけ時間をあげる。目をつむったままでも、朝になっていることはわかった。下ろしたでもまぶたの向こう側は、明るい。それはわたしが生きている証だ。そしてわたしが握っている手の冷たさ、それは彼が生きていない証、だ。 わたしは天井を見上げる。白くて、硬い。たぶん、硬い。触れたことはないけれど。天井に手を触れるには、わたしの背は低すぎる。わたしが触れられるのは、冷たい彼の手ぐらいだ。それぐらいなら、しっかりと握ることができる。 エアコンは動いていない。だから、部屋は冷えている。それは、死んだ人のための冷たさだ。人が生きているためには、冷たすぎる。ベッドの脇のテーブル、その上に置いたリモコンのボタンを押す。すぐに暖かいものが部屋に広がっていく。それは作られた暖かさで、彼の温もりとは違う。そして彼の温もりは、わたしを温めない。彼は冷たくなったのだから。 睡眠薬は溶け残るようにして、頭の奥に小さな粟立ちを残している。それは目覚めることを拒否するように、重く鈍い。もしかして、わたしは風邪を引き始めている。だけど、それはたいしたことじゃない。わたしが自分に与えた時間は昨日まで、そして+今日なのだから。今日を終わらせるのは、わたしだ。 わたしは彼の手を離すと、ゆっくりと身体を起こした。そのまま身をよじって、彼の顔を眺める。綺麗な顔をしていると思う。青ざめた頬、血の色を失った唇、僅かにも動かない喉。清潔な人なんだと思う。最後の夜に、わたしを抱こうとしなかった。それはわたしに裏切りを許した。もし彼がわたしを抱いていたなら、わたしは幼い青葉のように彼に全てを託しただろう。 昨日の、とわたしは呟くようにして声には出さない。昨日の夜は、遠い。やり直しがきかないことは、ずっと遠い。わたしがまず、白い錠剤を飲んだ。人を死に追いやることだけを目標にした、揺るぎのない薬、のように見えるもの。わたしはそれを摩り替えている。ただの睡眠薬、眠り、そして次の朝に目を覚ますためのものへ。だからわたしは目覚め、彼は目覚めない。 彼はわたしを信用していた。わたしが裏切るとは思わなかったのだろうか。その信頼は半分当たり、そして半分外れていた。わたしは1日だけ、彼より生き延びることを選んだ。カレーが食べたかった、のだ。できれば、チーズの溶けた、とろとろのカレー。彼は死のうとする夜にカレーを食べるには、清潔で、そして真面目すぎた。 わたしは彼の額に落ちていた髪を指で梳いた。柔らかくて、癖がない。彼が死んでも、その髪には変わっていることがなかった。わたしは彼の髪が好きだった。そしてそれは、彼の頭を抱きかかえることを意味していた。彼の背はわたしよりずっと高かったけれど、わたしは胸に彼を抱くことが好きだった。けれど、今はそうする気分じゃない。死んだ人間の身体への恐怖じゃない。死んだのは彼なのだ。ただ、彼が美しく死んでいるのを乱したくなかった。だから、抱きかかえる代わりに、わたしは彼に唇を重ねた。彼の唇からは、それでも死んだ人の香りがしている。 わたしは薄い毛布で彼の肩に揃えると、ベッドから足を下ろした。床は裸足のわたしに冷たい。立ち上がって足を伸ばす。ふくらはぎが溶けるようにして、ゆっくりとその冷たさに馴染んでいく。やがて、わたしは自分の足を忘れる。わたしの足、を忘れて初めて、わたしは歩くことができる。歩き始めたなら、それはもうわたしの足ではなくなる。 喉が乾いていた。わたしが飲みこんだと正確に覚えていたのは、彼の唾液だった。わたしたちのキスは肌に歯の跡を残すようにしっかりと始まって、そして短かった。目を細めて、わたしは彼のまつげの形を見ていた。彼のまつげは色濃く、わたしの好きな色をしている。見ているだけで、それに絡め取られてしまいそうだ。けれど、彼はしっかりと目を閉じて、わたしを見なかった。だからわたしは、ゆっくりと逃げることができた。 わたしは立ち止まる。寝室のドアは開きかけている。きちんと閉じていなかったのかもしれない。ベッドを振り返る。彼は死んでいるようには見えない。だからわたしは彼の唇を確かめる。ふやけた色。それは言葉を紡ぐには柔らかすぎる。わたしは俯いて目を閉じると、ゆっくりと顔をあげる。彼のまぶたを確かめる。閉じているかどうかではなく開いているかどうか。開いていないのだから、彼はわたしを見ていない。 わたしは首を振ろうとして、喉がぎこちないのに気づく。この部屋は生きているにはやはり冷たい。そして、ベッドには彼が眠っている。永遠の、とわたしは呟きかけてやめる。わたしは永遠を知らない。永遠の誓いだけではなく、永遠の眠りも。永遠の回転、永遠の振動、永遠の落下、永遠の孤独。永遠に、言葉を繋げる。どれもしっくりと来ない。わたしはなにかを言おうとして、やはり言葉は止まる。わたしは素早く寝室から出て、ゆっくりと背中でドアを閉ざす。消えていった言葉の代わりにわたしは新しい言葉をなぞる。永遠の、カレー。 テレビをつけると、ソファーに沈み込む。画面には、古びた2階建ての家が写っている。マイクを持ったアナウンサーがこちらに向かってなにかを言っているけれど、その声は聞こえない。ぼんやりとそれを見つめたまま、カレーのことを考える。じゃがいもと玉ねぎは多めに、牛肉とにんじんは少なく。そして刻んだチーズ。
2005.02.01
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