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ほどには、私はもう若くはないのかもしれないな。若かった頃には、次の日に自分で読むのさえ気恥ずかしい文章を書いていたような気がする。成長したのではなく、私の情熱はあらゆる既知によって串刺しにされてしまっているのか。 昨日の日記を(というか妄想の羅列を)読み返してみた感想。どこかで読んだ文章をまた読まされたという感じ・・・自分が書いたんだから既読感はあるはずだが、そうではなくて他人の文章を書き写した感触。 それは、私が普通の人間たちの一人であることの証明なのだろうから、悪くはないはずなんだけれど。それこそ正に、自分が交換可能である予感を抱かせる。どのような人も、自分を交換可能ではないが。 自分の考えていることを全て書き出そうとしてみること。自分の記憶、自分の思想、知っている名前、その他全て。それは自分を書き記すことにはならないけれど、自分の心を書き記すことに近い行為なんじゃないかと思った。言葉にできない感情はある。しかし言葉にできない感情なら、具体的な行為に移しえない。不安は、ここでないどこかへさ迷うことを導くのかもしれないけれど。けれどそれを不安と名付けた時には、既に立ち止まっているのではないか。怒りを喜びと名付けたならば、人は嬉々として他人を殴りつけるのだろうか? それはともかく今日の日記。雨が降っている。冬の雨は嫌いだ。冷たくて寒い。夏の雨はそんなに嫌いじゃない。濡れても寒くない。 プールになんて数年来行ってないけれど、ある情景を思い出す。水の中に潜っているときに、水面を見上げる。水面には雨が作り出す点描が散っている。水の中には音がない。 これはこれで他愛のない記憶だ。しかし人が生き延びるためには、世界が美しいと自分が信じた記憶が必要なのかも。幸福であったという記憶ではなく。それは悲しいことなのかもしれないけれど。
2005.01.29
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言ったような気がするし誰も言ってないような気もする。聞いたことはあるけれど、誰が言ったのかわからない。というわけで、たまには日記をつけてみる。 久しぶりに、というか、激しく調子が悪い。気を抜くとそのままどこかの世界に飛んで行きそうだ。こういう時に精神を安定させる方法がないのが残念だ。長い長い日記をつけてみようと思う。といっても、楽天日記は半角で10000字までらしい。全角で5000字、原稿用紙にすれば12枚ぐらい。書き切るのも無理ではないはずだ。(現在午後1:11) というわけで、とりとめもなく書いてみようと思う。日記というか妄想の羅列になるかもしれないが、気分が悪くなる前に読むのを止めて置いたほうが懸命だろう。そのうちに眠くなって、目覚めたら自分の愚行を笑うかもしれない。ただ、こういう狂った夜も私には必要なのかもしれない。 人の命は地球より重い、というけれど、私が死んでも世界は変わることはない。もちろん、私を知っている人たちは悲しむのかもしれないけれど、それをカッコに入れておく。私が死んでも世界は滅びない。(当たり前だが)だが、私の世界は無くなる。私はどのような神も(現在のところ)信じていない。死後の世界というものも、信じていない。死んでしまえば、無だと思う。暗闇ですら、無いはずだ。それは無なのであり、私はそれを想像できない。そうだとしても、私が死んでも世界が滅びないことは重要だ。気休め、というか、それは救いだろう。私が死んで人々が悲しむにしても、人々の世界は私がいないという形で続いていく。 ちなみに、この文章は順序が崩壊しているはずだ。思いついたままに書いていく。段落ごとに一応まとまるかもしれないが、たいして重要ではない。読む必要すらないのかもしれないが、私と、あと1人ぐらいは読んでくれるだろう。 自分が狂っているのかもしれない、と考えたことがある。しかし最近では、自分はまだ狂っていないと思っている。もちろんいつそうしたところへ引き寄せられるかわからないし、今もいい感じに調子が悪い。だが、狂気は秩序の混乱ではない。たいていの人々が持っているのとは違った秩序を手に入れることが狂気なのだろう。混乱は不安ではあるけれど、不安は狂気ではない。 ちなみにこの文章に書かれることの科学的な裏づけは全くない。よって科学的な知識は専門家に聞いてみよう。ただ読んでなにかしら得るものがあれば幸いである。 というか、他人の文章に影響を受けやすい人は読まない方がいいかもしれない。こんな注意書きを入れるなんて、気弱な私。 最近読んだ本のこと。もう誰かには話したけれど、書いてみよう。本の題名は『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』。構造主義の入門書としても良いが(と言いつつ、私は完全には理解していないと思うし、構造主義を良く知っているわけでもないが、あれです。構造の主義)、一番気になったのは「無意識は説明概念である」ということ。どういうことか? 無意識は実在するかもしれないし、しないかもしれない。ただ、外部からは観察できないし、無意識を言葉にすることもできない。(意識が及ばないところだから無意識なのだろう)。外部から観察できないもの(ここでいう外部は単に外ではない。科学的に、ということ)があるかどうかを問題にすることはできない。だが、無意識という概念はある。それはなぜか? それは、観察できるものをうまく説明できるためである。本当は12人の小人が脳の中に住んでいて脳を叩いたり削ったりして意識を操作しているのかもしれないが、それは問題ではない。無意識という概念を心理学に…というか、精神医学に導入したのはフロイトだが、それは単に無意識という概念を導入することで、様々な問題行動を一括して説明できたからだ。だから、無意識があるかどうか、ということは問題ではない。それはおそらく確かめ得ない。 私はこの本を読むまで無意識を漠然とではあるが、実在として想定していたような気がする。(もちろん、実在というよりは構造としてだろうが。)それは重力や位置エネルギーにも言える。重力がなんであるかは問題ではなく、それを仮定することで現象が説明されるにすぎない。 派生として。すると、心も説明概念にすぎないのだろうか。哲学者にヒュームというのがいるが、彼は、「心とは比較的まとまった志向性の束にすぎない」と言った。つまり現象に対してある反応をする選択肢の束の集まりが心、ということだ。おそらく、外から観察したらそうなのかもしれない。心は説明概念として? 養老猛という脳生理学者がいるが、彼は上のように考えるのかもしれない。彼は大脳一元論だろうから、全ての心的なことを脳によって説明するはずだ。確かに、脳が部分的に破壊されると、感情を失うということがありうる。そうすると、脳が我々の心(のように見えるもの)を作ることに関与しているのも本当なのだろう。足を切断しても意識はありうるが、脳を切断したなら意識は消滅するだろう。 生命とは、意識とはなにか。我々は父親の精子と母親の卵子の結合によって誕生した。しかし、精子や卵子は最初からあったわけではない。父親や母親の体内である時点で物質的に作られたもの、それらの結合がわれわれを誕生させる。そこには物質から生命への飛躍がある。(これを単純に神の意志だー、と言ってしまうのは悲しいような気がする。我々にわからないことは多いけれど…) ある形式。詩と小説の違い。詩は天才にしか書き得ないのではないか? 詩は散文を飛び越える。散文は冗長にある一点を描き得るが、詩はある一点において無限なる物を書く。 私は私の手を見る。皮膚は赤く、肌の下には血管が走っている。女性用の雑誌に載っている化粧品のモデルは、その肌に染みの一点も無い。(コンピューターで画像を加工しているのだろうが。)それが美であるならば、男は正方形を愛するべきであろう。正方形は美しい。人間に存在する脈絡のない凹凸がなく、その面は一様であり、歪むことを知らない。 目をつむるべきである。世界には見えない物が存在している。 コーンポタージュスープが自動販売機に売ってある。おしるこもある。おでんもどうやらあるようだ。味噌汁、味噌汁の自動販売機は? またはジャガイモのスープ。私はお腹が減ってきているのかもしれない。 地球は丸い。私が地面に立っている。私の足元から地球の裏側に抜けたところに、誰かが立っているとする。私と彼は、足を向かい合わせている。私は地面に立っている。すると、彼は地面にぶら下がっているのか? そうではなく、私も彼も地面に立っている。私が地面にぶら下がっていて彼が地面に立っていると考えるよりは、2人とも地面に立っていると考える方が優しい。 2歳以前の記憶は、成長すると無くなるようだ。幼児性健忘と言うらしい。私がもっとも昔にさかのぼったと信じる記憶。私は父と大きな滝の縁に立っている。それは実際にどこかにある滝なのか、私が記憶の中で作り出した滝なのかはわからない。だがそれは、大きく深かった。 夕日の記憶。夕日は悲しい。そういえば、私は太陽を見ることはできるけれど、太陽に触れることはできない。熱いらしいし。だから悲しいのだろうか。だが、昼間の太陽は特に悲しくない。手は届かない。 バナナにしょうゆをかけるとウニの味というが(違ったかもしれない)、私はうにを好まない。メロンは好きだ。メロンにハムで、メロンハム。(やはりお腹が空いているようだ) 本当は、という言葉には悲しい響きがある。 今になって思い返すと、運動会の行進の練習、あれはなんだったのだろうと思う。よく逃げ出さなかったものだ。私がもっと素直だったなら、仮病を使って休んでいただろう。 そういえば、ノストラダムスの大予言というものが20世紀の終わりに流行っていた。確か、「恐怖の大王が7の月に大きな器で味噌汁を人々にかぶせるだろう」とかそうした内容だった気がする。だが、世界は滅びず、こうして私は日記を書いている。子どもだった私は…おそらく小学校の低学年から中学年ぐらいだと思うが、真剣にノストラダムスの大予言を信じて恐れていた。眠ることが怖かった。眠っている間に、世界が滅びるのではないかと恐れていた。 朝方に眠り目覚めると2005年1月28日の午後2時辺りになっていた。世界は私が眠る前と変わっていない。少なくとも、私の部屋の様子は変わっていない。私の知らないところで世界は変わるにしても、目覚めたら乾いた砂の上に寝ているよりはましだ。 自分が死ぬ理由を、人が納得する必要はない。もしくは、人が納得する理由で自分が死ぬ必要はない。私の死は儀礼によって人々のものになるだろうけれど、私が死ぬまでは私だけのものだ。私の死は、他人の死とは決定的に異なる。数十億という単位で他人が死んだとしても、そしてそれを私がどれもを粒やかに知っているとしても、私は自分の死を知ることはできない。知ることができないものを恐れることは不合理である。だが、私は死を恐れる。知ることと体験することは違う。知っていることは言葉にできる。体験されたことは、言葉にできないものを含む。 単純に生物の進化論を信じるならば、人間もいずれは新しい生物によって克服されるはずである。それは救いであるか。私は支配されることを受容するか。理論が現実に適用されたならば、それは私の生活を変える。その未来を想像できなければ、私はどうなる? 特異な体験をしたものが、必ずしも新しい眼差しを獲得するわけではない。どのように特異な体験をしたとしても、それを自分にオリジナルな眼差しで見ることができるものは少ない。(もっともオリジナルなものがあるかどうかということは問題である。比較的にオリジナルな、と言い換えても良いだろう。)もしくは、その体験を受容できない。特異な体験をオリジナルな眼差しによって見ることができるのは、天才だけだ。(人々の多くは凡人であるし、天才は極めて少数だ。この割合が逆になったとすれば社会はうまく続かないだろうし、天才は多くは必要ない。)だから普通の人々にとっては、他人に理解されない言葉というものはない。誰も私を理解しない、ということはない。理解されない、ということは語る言葉が少ないか、語りかける相手が少ないということだ。 自分らしい、ということはどのような意味を持つか。それは決してオリジナルなものを自分が作るということではなく、ある選択肢から自分が望むような選択肢を選ぶことにすぎない。人は生きている場所から、突出することはできない。選択肢は既に用意されている。 その選択肢は選択肢であるが故に、隠された選択肢を探すことへ注意を向けることを妨げる。ある場所において、たいていの人が選んできた選択肢がある。それは常識と呼ばれるのだが、そうした常識は場所によって異なる。ある場所にない選択肢を、他の場所から借りてくることはできる。 二つのうちのどちらかを選ぶこと、そうした選択は拒否しなければならない。二つの選択肢のどちらかを選ぶ、その選ぶことには選択するものの意志が関わっているように見えるだけになおさら悪い。二つしかない選択肢、というものは我々の行為においてはない。もちろん、「明日、郵便局に行く」ということに関しては、行くか行かないかの二つしかない。けれど、「明日行かないけれど、明後日に郵便局に行く」ということと「明日行かないで、ずっと郵便局には行かない」ということは異なる。二つの選択肢のうちのどちらかを選ぶにしても、その二つの選択肢にはどちらにも様々な濃度がある。「明日行かないけれど、明後日には郵便局に行く」ということは、「明日、郵便局に行く」ということとほとんど同義であることもある。(10日後までにハガキを出さなければならないような場合。) 結構あっさりと全角5000字に近づいてきた。所要時間は3時間半ぐらい。ここまで読んでくれた方、ありがとう。まぁ、いるとしたらだが……自分でも読み返したくないな(笑)
2005.01.28
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逢いたい人を指折り数えて、という言葉が某歌う人の歌にあります。逢いたい人に逢えない時にあなたはどうするのでしょうか? 現代なら電話するなりメールするなり、離れていても連絡することができるわけですが…それでも連絡できない時はあって、じっと耐えたり耐えることができずに窓ガラスの掃除をしたり。ガラスは透明になるけれど、わたしの思いは透明にはならないのるるる。 それはさておき。そうした時にあの人からもらったピアスを耳に下げてみる。そのシルバーの冷たさがわたしにあの人の指を呼び起こす、ということがあったりなかったり。ある物がある人を思い出させる、ある物がある物を思い出させるということ。 思い出させるということとの関連のある物として。亡くなった人の遺品を継承する、形見ということ。物理的なモノとしては数あるのだけれど、それだけが特別な意味をもって自分に迫ってくる。例えば、亡くなった父親が愛用していたティッシュカバー。そのティッシュカバーは父の手作りというわけではないけれど、特別なものだとわたしが感じる。 (物)-(物の意味)、の繋がり。 (物)の分類。 直接性(ある人と直接に関連しているものであるかどうか。直接性のあるものは、ある人がそれを使用した、それがある人から生じたというような関連を持っている。⇔直接性のないもの。それがある人に似ている、というような物の意味を決定するのがわたしであるような場合) 直接性の分類。1、使用(例として、ある人の形見)。2、生起(例として、ある人の匂い、体温などが残っているもの)。←多くの場合、使用によってありがたい物が生じるのではないか。 幾つか例を出して考えてみる。 ある芸能人のサイン。これはその人によって書かれたという直接性があり、かつ生起されたものである。(筆跡という形で、本人の跡が残っている)。では、サイン会に自分で行って手に入れたサインと、ネットオークションかなにかで間接的に手に入れたサインは同じ意味を持つか。前者と後者の違いは、目の前で本人にサインを書いてもらったかどうか、ということ。目の前で書いてもらったサインは、目の前で書いてもらったという過去を想起させる。それは直接性とは異なる。 芸能人のサインと関連させて。ある人が母親の使っていたライターを形見としてもらったとする。その人が母親がそのライターを使っている場面を知らなければ、それは形見として機能しないか? 直接に知っている必要はないが、使っているところを想像できなければ意味は失われる(のかもしれない)。 更に関連させて。ある人が父親から大きな宇宙船を受け継いだ。その人の父親は実は宇宙の治安を守るパトロール隊の一員だったのだ。(ある人は父親がスーパーを経営していると思っていた)。その宇宙船は形見として機能するか? 形見と遺産の違い。交換されることを前提とした貨幣は、形見として機能するか? (父親の心臓めがけて放たれた銃弾を受け止めた500円硬貨は形見として機能する。しかし父親の財布に残っていた1万円札は形見として機能しない)。(おそらく明日へ続く)
2005.01.15
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あなたは劣等感を感じたことがあるか、と問われる経験。駐車場の隅で、コンビニの肉まんケースの前で、人通りの多い交差点で、あなたの胸の中で。(ここまで頻繁に問われることはないか…)わたしは劣等感を感じたことがあるか? あの人は自分より頭が良い、あの人は自分より美しい、あの人は自分より運動ができる、あの人は自分よりお金を持っている、と感じたことはある。そうした時にある劣等感を感じる、ということはあったように思う。(…あの人は自分より優しい、あの人は自分より謙虚だ、ということでは劣等感を感じたことはないと思う。劣等感は自分の中の価値を明白にする?) ただ、そうした劣等感の萌芽が、持続し、強いものになったことはなかったと思う。事実として自分より頭の良い人、自分より美しい人がいることは確かだ。そうした事実と、劣等感は異なるのだろう。劣等感には、自己否定が伴うのではないか。 レストランに行った時に、いつも自分より100円高い定食を注文する友達には劣等感を感じるかもしれないが、ビル・ゲイツ(マイクロソフトの創設者。個人資産では世界一で、産総額は推定で480億ドル)には劣等感を感じないのではないだろうか。比べる気にもならなければ、自分が劣っていると感じることもない。 わたしが劣等感を感じない理由は比べる気にならないからなのかもしれない。だが、比べる気にならない理由は、差が大きすぎることだけにあるわけではないと思う。 例として自分より頭の良い人のことを考えてみる。その人が自分より頭が良い、とわたしが感じる。劣等感が形成されるとすると、自分よりその人は頭が良い→自分はその人より自分は頭が悪い→だから自分は駄目だ、という流れになるだろう。わたしは自分より頭の良い人を知っているが、そのことから自分が駄目だと思うことはあまりないように思う。(少なくとも自己嫌悪の海に陥る強さまでにもは) 劣っていることによって自分が否定されるには、その劣っていることの分野において、すぐれているものが良いものであり、劣っているものが悪いものだ、という判断をしなければならない。逆にいえば、そうした判断が成り立たないところでは劣等感は生まれない。 例えば、某野球団体の巨人軍。巨人の一軍メンバーを何人言えるだろうか。わたしが思い浮かぶのは、(たぶん)上原…あとは、松井はもういない、清原は…移籍したのかな、というぐらい。だが巨人ファンにとっては、一軍メンバーを全員言えなければ劣等感を感じるのではないだろうか。だがわたしは、そのことでは劣等感を感じえない。 わたしが(自己嫌悪まで強まる)劣等感を感じないのは、そうした理由からではないだろうか。劣等感を感じるためには、その優劣の基準が自分にとって大事なものでなければならない。わたしにはそうした基準を強く信じる力が欠けているのだろう。誰よりも頭が良く美しく運動ができ財産があるならば、それはそれでいいことだと単純には思うけれど。そうした価値を生の目標に据えることができるのは、目標を見失うよりはいいのかもしれない。 あなたは劣等感を感じたことがあるか、という問いへの答え。感じたことはあると思う、けれどそれが自己嫌悪にまでは高まったことはないかな。(自己嫌悪することはあるけれど) ある価値を信じることは大事だよね…それが今は達成されていないにしても、達成された時には幸せになれるはずだし。(それが達成されないので自分を苦しめることはあるだろうけれど) たぶん俺はそれが達成されて本当に幸せになれるのか、と考えてしまうのかもしれない。たいぎぃことですわ。
2005.01.13
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善と悪が存在するためには? 一つの方法として。一本の棒を想像する。片方の端に善を、他方に悪を置く。善と悪がそうしたものであるならば、中間においては善と悪の混合がある。例として、黒と白をそれぞれの端に持ち、中間において灰色のグラデーションが存在している。…(1) もう一つの方法。ある一点に最高の善がある。それから遠ざかることを悪と呼ぶ。例として、太陽に近づくこと。近づくほど熱く、遠ざかれば寒い。熱がないことを寒いと呼ぶ。 (1)の場合…色ならば、黒、白、灰色、そうした色のある一点に決定される。しかし人が善と悪(と呼ばれるような相反する2つの性質)を持つとして、善人には悪の可能性がないのか。人が行う実際の行動には、以下のパターンがあるのではないか…1.大善をしか行わない人、2.小善をしか行わない人、3.大善と大悪を行う人、4.大善と小悪を行う人、5.小善と小悪を行う人、6.小善と大悪を行う人、7.小悪をしか行わない人、8.大悪をしか行わない人、9.なにも行わない人。 善と悪が色のようなものであるならば、3.と5.は同一の濃度になる。多くの黒と多くの白を混ぜたものと、少しの黒と少しの白を混ぜたものは、同じ程度の灰色になる。しかし実際には、3.であるものは英雄、5.であるものは小市民と呼ばれ区別される。 数を例としてみる。善を+1~+100、悪を-1~-100の幅をもつと考えてみる。人は善と悪を連続して行い得るのだから、ある固定した性質に留まることはできない。行為の幅として、+100~-100を持ちうる。 善をしか、悪をしか人が知らないのなら導かれる答えは単純なのだろう。だが人は天使でもなく、悪魔でもない。 罪とはなにか。悪だけが存在するならば、罪はありえない。善を前提として初めて罪は可能となる。悪はそれ自体では罪ではなく、善へと向かう意志が悪を罪と呼び、そして嫌う。嫌うことは、罰へと繋がりうるか?
2005.01.06
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吐き終わると楽になる。だが、洗面台の底に詰まった嘔吐物はHを気落ちさせる。指でそれをすくい水が流れるようにするけれど、更に水にさらわれずに残ったのは余計な物を洗われて剥き出しになった食物のかけらだ。Hはそれをそのままにして、シャワーを浴び、その湯で口の中をゆすぐ。やはり苦く、Hは目を細めるが、吐き気はすっかり去っている。浴槽から出てタオルをとり、身体を拭く。さきほどまでタオルを動かすのさえ億劫だったのをHは思い出す。吐くことは集中を要する。 薄い服をかぶり蒲団へ寝転がる。眠気はない。だが、腹部でにじんでいる痛みをHは感じる。胃、というものを漠然と想像する。肉体の内部に深い興味を持たないHには、それは胃腸薬のCMにおける細部を切り落とされ単純化されたイメージでしかない。その単純化された胃が、空である。Hは外に出る、そこは寒い。震えながら近くの自動販売機で、オレンジジュースを買い、プルタブを開ける。空の胃は、そこにオレンジジュースが滑り落ちたことを知らせる。Hは満足して空き缶を側のゴミ箱に捨てるが、部屋に帰って腹の底から漏れた吐息、その嘔吐物の匂いに気が滅入る。口の中の匂いは簡単に消すことができるけれど、肉体の中の匂いは変えるのに時間がかかる。 頭の痛みは残っているけれど、吐き気は無くなっている。酒を飲まなければ良かったと悔やむ。(だがHはすぐにまた飲み始める。Hは反省せずに、再び二日酔いに落ちていく。)蒲団に転がる。眠気はないけれど、まぶたを下ろしているうちに思考と外界の刺激が混ざっていく。Hはいつのまにか眠っている。
2005.01.05
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