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全4件 (4件中 1-4件目)
1
放課後になって島野に呼び出された。彼に連れられて教室を出ようとするときに後ろを振り返ると、例の3人組がにやけながら手を振った。 この前は夏の面影を残していた屋上は、すっかり肌寒い場所になっていた。学校のどこも温かいわけではないけれど、風を遮るものがなくただ吹き抜けるだけのここは、最初に冬が訪れそうな気配だった。わたしと島野は透明な匂いのするフェンスの側に、自然と寄り添うようにして立った。 島野はわたしを忘れたようにして、遠くに沈もうとしている夕陽を眺めていた。一日が終わろうとしている時間で、フェンスの向こうには昔と変わらない様子でサッカ-をしている人たちが薮蚊のように散っていた。なにも変わらないようで、わたしを押しやる確かさをもって季節は流れていた。「朝岡って、俺のこと好きなの?」 急に切り出した島野の素直さに、わたしは小さく笑って見せようとして、喉がひきつるのを感じた。笑みにはならずに、わたしを押し流そうとした動きは消えていった。島野の鈍さにわたしは苛立っていた。それなのに、わたしは自分の感情すら知らなかった。「島野はわたしのこと好きなの?」 首を振ったように見えて、「わからない」 深く尋ねようとは思わなかった。島野があっさりとわたしを好きと言ったなら、悲しかっただろうから。けれどどうしてか、望んでいたはずの島野の答えにも頷けなかった。それきり言葉は途絶えて、しばらくしてから島野は思い出したように、わたしを抱きしめた。 わたしと島野は、恋人のようなものになった。島野は八重草を忘れたように見えたけれど、わたしたちの間で一言も八重草の話が出なかった。そうしたことがわかるはずもなく、死んだ恋人を裏切ったように見える島野に、同じクラスの女の子たちは近く遠くに悪口を囁くようになった。島野は気にしないようだったし、わたしも元々から彼女たちと疎遠だったから、たいした問題ではなかった。 わたしたちは街の至るところでデートを重ねていった。わたしは八重草の日記に出てくる場所を街の地図の上に赤いペンで印をつけ、そしてわたしと島野がデートした場所に青い印をつけていった。そして八重草と同じように、わたしも島野に関する日記をつけ始めた。卒業するまでの間にわたしは1冊のノートを島野のことで埋めた。 島野が東京の大学に通うために引っ越しをする日、わたしは八重草のノートとわたしのノートを島野に渡そうとした。島野は最初の数ページを適当にめくって眺めてから、わたしに2冊のノートを返した。わたしも、あえて島野に渡そうとは思わなかった。わたしには最後まで、島野が八重草を忘れたかどうかはわからなかったから。彼はわたしを見ているようで、向こう側に八重草を見ていたような気がする。わたしは生きているのだから、ある場所では八重草は消えていったのかもしれない。けれど、わたしはそのことで島野を問い詰めるほどには、幼くはなれなかった。言うことのできなかった問いを残したまま、島野は東京に行き、わたしは小さな街に残った。 別れてから2年目の秋に、島野もまた死んでしまった。友達と飲みに行った店で、他の酔っ払いと喧嘩して頭を打ったらしかった。ひっそりと行われたお葬式に、わたしは母から借りた黒いスーツを着て出かけた。とても退屈な式だった。わたしは笑うことも泣くこともできず、花で埋められた祭壇に飾られた島野の写真をぼんやりと見つめてばかりいた。 わたしにはそのとき既に新しいボーイフレンドがいたけれど、島野の死は身体の奥深いところで確かな痛みを与えた。わたしはそのときまで島野のことをあまり思い出さなかった。新しい恋人ができてからは、たまに彼の言葉や行為に島野の影を重ねることはあったけれど、すぐに消えていった。島野は過去の人間になっていたはずだった。 島野の葬式から帰ってわたしはすぐに部屋に篭もり、1週間の間、水だけを飲んで暮らした。そんなことをしても島野が生き返るわけでもなかったけれど、わたしにはどうすればいいのかわからなかった。わたしは2冊のノートを何度も読み返し、読むのに疲れると、腹筋運動を繰り返した。不思議と、空腹は感じなかった。わたしの部屋の天井はとても薄暗くて、夜になると、わたしごと地面の深いところに埋められてしまったようだった。 1週間たっても、なにも変わらなかった。わたしは相変わらず生きていて、島野は相変わらず死んでいた。2人の立場が逆転することはなかった。わたしは夜中に部屋から出ると、ポタージュスープを飲んでから、ボーイフレンドの家に出かけた。そして何度もセックスを繰り返した。食事の足りないわたしの身体は眠ったままで、なにをしているか良くわからなかった。ただ、意識だけがひどくはっきりしていて、身体を動かしている彼の顔を丁寧に見ていた。 わたしは彼が眠りについたのを見届けてから、シャワーを浴びて外に出た。涼しげな風が通りぬけて、わたしの髪を乾かしていった。わたしはどこかの喫茶店が店の外に並べているテーブルの椅子に腰掛けると、人の姿が絶えた通りを眺めた。こんなことをしていても、なんにもならなかった。大学もいつまでも休んでいるわけにはいかなかった。決して、どこかへ旅立ちたいなんて思わなかった。 わたしは椅子の足をいくつか浮かせて空を見上げながら、これからのことを考えた。わたしは大学を卒業すると、あまり大きくない会社の事務員になる。数年して結婚し仕事を辞め、二人の子供を産む。夫ではない何人かの男性に心ひかれるけれど、全てが小さな遊びのまま消えていく。子供は大きくなっていき、わたしはそれに小さな悲しみの混じったたくさんの喜びを感じる。毎日は何度も繰り返していく。大きな事件もなく、子供たちはそれぞれの人生を選んでいく。わたしと彼らの生活は時に交じり合い、それでも一つになることはない。わたしは少しずつ老いていく。砂の城が少しずつ、風に流れるように。そして静かに消えていくだろう。 わたしは目をつむると、街の中に広がる音を聞こうとした。闇はその深さを何層にも重ね、わたしを包んでいる。その中を貫くようにして、わたしは聞こえないはずのものを聞こうとしていた。わたしが愛した人は、壊れやすくできていた。島野に消えることのない傷をつけたのは八重草なのだろう。わたしが気にすることはないのかもしれない。それでもわたしが掴んだと信じようとしたものが壊れてしまったことは。どうしてだろうか、機械的な水の冷たさを頬に感じた。指の流れをたどると、眼の縁が柔らかな温かさに濡れていた。目はつむっているはずなのに、その冷たさは消えることはなかった。わたしは彼が壊れた音を聞き集めようとしていた。けれど朝になっても、わたしには生きた世界の音しか聞こえてこなかった。
2005.06.12
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そして結局、わたしはなにも言えなかった。やすい方をわたしは選んだ。言葉は難しく、島野の手に自分の手を重ねることは簡単だった。島野の指が優しいことが、わたしを苛立たせ、そして悲しかった。島野は八重草ではない数多くの女性をこれから抱いていくのだろうと、薄い汗が匂う島野の喉へ頬を寄せながらわたしは考えていた。せめて島野が壊れた鍵のように荒れていたなら、わたしは名前を持つことができた。けれど島野は優しくて、わたしの方が彼を必要としていた。わたしはわたしではなく、八重草ではない女として島野に抱かれようとしていた。それは終わりではなく、始まりだった。ゆっくりと傷を癒していくだろうね、とわたしは痛みとともに胸の中で島野に言った。 わたしは長いあいだ島野に抱かれていた。ベッドで、わたしはゆっくりと動けなくなっていった。もちろん、わたしの身体だけが勝手に。わたしもなにかをやろうとしたけれど、足がうまく動かなかった。ただ、島野が唇を重ねてくることには応じることができた。島野がなにかをするたびに、わたしは水に濡れていった。島野には欲望の気配がなくて、ゆっくりとわたしを愛撫するその手は、まるで墓を掘る人のようだった。わたしの身体は狂いそうだった。熱を帯びる肉体の中で、わたしの言葉は閉じ込められていた。 長い時間をかけて1度目が終わって、わたしはトイレに行って黙ったまま涙をこぼした。それは嬉しさでもなく悲しみでもない、名付けられることのない感情がわたしを動かしたにすぎなかった。涙は便器に溜まっている青い洗浄水の中に、音もなく混じっていった。上を向くと、白い電燈が綿のようにぼやけて見えていた。頬から喉へと涙は流れ落ち、薄い胸までもその涙は落ちていった。わたしは自分に涙を流せとも命じなかった。手のひらでそれを擦ってなかったことにすると、わたしはベッドに戻った。 わたしたちは島野が用意した紅茶と苺ジャムを塗ったクッキーを食べ、再び身体を重ねた。それは朝まで何度か繰り返された。わたしは乾くことを知らなかったし、島野も絶えなかった。そしてカーテンの隙間が白じむころになって、わたしたちは抱き合ったまま眠りに落ちた。そして、それぞれ違う夢のなかにわたしたちは吸い込まれていった。 目覚めた時に、わたしはべっとりと汗をかいていた。シーツが肌にはりつき、カリカリと音をたてながらわたしはそれを剥がしていった。白い光が床を埋めて、熱が厚く部屋に篭もっている。わたしは窓を開けるためにベッドから降りようとして、島野の指が手首に絡んだ。それを振り払って、「八重草さんが書いてたのは本当だったんだ。島野はこういうとき、優しいね」まぶたが落ちそうになるのを堪えた。八重草のノートにはそんなことは書いてなかった。彼女が残したノートには島野が書かれていたけれど、このことだけはすっぽりと抜け落ちていた。もしかして恥じらいが、たぶん書ききれないということが、彼女のペンを止めてしまったのだろう。島野は黙ってわたしを見つめ、それから光を支えきれないカーテンへと眼差しを移した。わたしはベッドから降り、カーテンを大きく開いた。落ちていきそうな青い空が広がっていた。「もしかして、それを言うために?」それを言うために? しばらくして島野がぽつりと言ってきたことがなにを指しているのか、わたしにはわからず、ゆっくりと記憶をたどった。こういうとき島野が優しい、とわたしは言ったのだった。わたしはこれを言うために? 島野はどういう表情を浮かべていたのだろうか。(しっかりと思い出せ、という声がどこかから聞こえてくる。だけど、人の表情はとても曖昧で、そして嘘をつくことができる。)島野が笑っていたなら、わたしは怒ることができたかもしれない。そして、見下すことができて、やっぱり馬鹿な男だったと終わらせることができたはずだ。けれど、わたしがそのときのことを思い浮かべると、どうしても島野は笑っていることができない。島野はたぶん、思いついたままに問いを口にしたのだ。わたしはなにも否定せず、そして認めなかった。 夕方になって島野から離れた。家に帰ったわたしを、両親は咎めはしなかった。わたしにはいつのまにか、友達の家に泊まったというアリバイが作られていた。知らないところで増えていく借りに薄く笑いながら、ぼんやりと島野の身体を思い出していた。何気なくソファーの上の弟を抱いて、彼は小さな塊が溶けるように激しく泣き始めた。そんなことは今までなくて、母に弟を任せて自分の部屋に帰ると、鏡の前に立った。わたしのどのような小さなところも、昨日となにも変わっていないように見えた。少なくとも、自分では見つけることができなかった。
2005.06.12
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誰が言ったわけではないけれど、不意に帰る時間になった。わたしたちはそれぞれ島野に適当な別れの挨拶をして、部屋を出た。広がっている街は、薄暗い煙の中で暮らしている老人のようだった。闇を編んでいる粒がわたしたちをほぐしたのだろうか、帰りの道は誰とも身体がぶつからなかった。自然と話が途切れるようになって、わたしは小さく呟いた。「忘れ物したから、戻る」「島野の家? それじゃ、戻ろうか」と誰かが言って、3人が道を引き返そうとするのをわたしは押し留めて言葉を重ねた。「1人で行くから」 その言葉の意味を探るように3人は黙り込むと、お互いに顔を見詰め合った。わたしの言葉に含意を読み取るのは容易かったし、わたしも特に隠そうとしていたわけではなかった。既に決めていたのだし、3人がなにを言おうと変えることはもうなかった。「1人じゃないと駄目なの?」 頷いたわたしに、3人はなにも言わずに再び歩き始めた。わたしも、彼女たちとは逆の道へと引き返していく。少ししてから、彼女たちの1人が走ってきてわたしを呼び止め、「私も彼氏いるから」と言うと、小さな箱をわたしに手渡してまた走り去っていった。街灯の下でその箱を開けてみると、中にはコンドームが入っていた。外装には12個入りと書いてあり、残っていたのは8個だった。わたしは不思議な生々しさを感じた。口の中に苦い草の味が広がり、その箱を投げ捨てようとした。けれど、指が離れなかった。わたしはなにかを道に捨てることに慣れていなかったし、島野とセックスをするならそれが必要だった。 わたしは島野の家へ戻って、なにをするつもりだったのだろう? そのときのわたしは、なにも準備をしていなかった。そもそも島野の家へ行ったことも、偶然だった。ただ、わたしの中でずっと溶けないで残っていたもの、剥がれ落ちた爪のような朗らかさと痛みの混じったもの、その部分、それがわたしを静かに引いていた。どこへ? それはわからなかった。ただ、島野になにかを言わなければならないという感触だけがわたしを包んでいた。 引き返す道は、わたしの中で言葉をまとめるには短すぎた。そして、一度でも躊躇すればその道は長すぎるということもわたしは知っていた。なにかを考えようとして、電灯の光が届かぬところで静かに声を立てる闇のように、すぐに思考は不定形になり、霧散し、湧きあがった。オートロックのインターホンへ呼びかけるときに、その闇は明確な形をとった。忘れ物をした、というわたしの言葉に、島野は素直に扉を開いた。1人には広いエレベーターには、さっきは気づかなかったかび臭さが漂っていた。 島野はソファーにもたれかかり、テレビの画面へと目をやっていた。二人組みのお笑い芸人が、透明なコップを手にして、よくわからない会話をかわしていた。わたしは黙ってテレビの画面を見つめた。ときおり、笑い声がどこからか聞こえては、場面が次々と移り変わっていく。わたしはしばらく気づかれなかった。ニュースへとうつったところで、ようやく島野はわたしを振りかえった。わたしはその間に、言葉を無くしていた。「来てたのか。なにを忘れた?」わたしは目を細めて、ゆっくりと考えた。そして、「なにも」と答えた。わたしの中でしっかりとした形を持っていたものは、すぐに壊れていった。たぶん、島野が好きだ、と言うことはできた。けれどなにも言わずに、彼の隣に座った。ソファーに二人並んで、わたしは島野を見ることができなかった。唇を開くことさえ、熱い鉛に包まれたような重さを感じた。自分の吐息が熱く、それが自分が野蛮なものであることの印のようで恥ずかしく、島野に気づかれないように鼻の裏でそれを押し殺した。言うべきことを決めていたつもりでそれは簡単に消えてしまい、ただわたしの身体だけが残っていた。死んだ人だって、身体は残るというのに。
2005.06.07
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夏はいつまでも続くわけではなく、白いブラウスの袖が、手首まで細く覆うようになった。その上に紺色のブレザーを重ねるには早く、ある人はまだ夏の名残を引きずって二の腕までを見せていたし、日差しの陰にふとした風を感じる人たちは腕を隠した。健康ではあるけれど寒さに弱いわたしは、早々と長袖に衣替えしていた。たぶん、四季の狭間に休符のように訪れるこうした数日だから、わたしは島野に愛することが可能だった。半袖のブラウスは軽すぎるし、長袖のブレザーは重すぎた。たぶん、愛することができたのだから、愛さないこともできたと思う。正直に言えば、愛していたと言うことすら不安だ。4つの海に対してその中で泳ぐ人魚ぐらいには、無関心に愛が混じっていたのかもしれない。突き動かされていたけれど、情熱ではなかった。一番近い言葉を選ぶなら、義務、なのだろう。果たすべき約束を果たそうとする、義務だ。けれど誰が与えた義務なのかを、わたしは知らない。 その日、としか今になっては思い出せない。数日に渡って続いていたテストが終わり、ぽっかりと空いた午後を、例のグループの3人とわたしは、街を遊び歩いていた。日差しは柔らかく穏やかで、誰もが幸福そうに見えた。テストの結果がどうであれ、わたしも息を吐いて楽しんでいた。次の日は休日だったし、なんの心配もなかった。そのなかで、不意に書店に入っていく島野をわたしたちは見つけた。彼が店に入っている間に、3人の間に奇妙な目配せが交わされ、誰からともなく島野の家に行こうと言った。出てきた島野をつかまえて、あっさりと願いは叶えられた。両親は今日は帰ってこないから、と言った島野に、それなら泊まりだね、と3人は騒いで見せた。島野はわたしの方を見て、小さく苦笑した。わたしものんびりと微笑みかえした。いくらか綿の飛んだタンポポの湿り加減がわたしたちを包んでいた。ぬるま湯のような微笑、深く思考することができなくなってため息をつくことができない時間のなかにわたしたちは落ち込んでいた。手を伸ばしても肌は麦穂色のヴェールに包み込まれるだけで、歩くことさえ緩慢になっていく。わたしたちは野良犬の胃で溶かされるのを待っている羊肉のように身体をぶつけ合いながら道を歩いた。同じ匂いをみなで擦りつけあっているようだった。 島野の家は街の中心から少し外れたところにあった。マンションの6階で、その高さに慣れないわたしは伏目がちに下を見た。落ちたら死ぬだろう遠さだった。こうしたところに生きるためには死を忘れているか、常にそれを意識していなければならないように思えた。うっかり転がり落ちていきそうな手すりの高さだったけれど、それでもわたしの胸まであって、乗越えるためには少しぐらいの意図が必要だった。静かに眺めていたわたしの腕を、島野がゆっくりと引いて部屋のなかへ導かれた。わたしたちは綺麗に透明な水槽に手のひらをあてて中の金魚を見つめてみたり、ソファーの上に置かれた週刊誌を手に取ったり、テーブルの椅子に座ってキッチンでなにかを探している島野の背中を見つめてみたりした。島野がお盆の上にジュースとお菓子を載せて戻ってくると、わたしたちは特に面白いわけでもない話を始めた。その脇では、島野のお母さんがコレクションしているアクション映画のDVDを文句を言いながら見ていたし、週刊誌の袋とじのページを覗きこもうとしていたりした。金魚は水の中をゆっくりと泳いでいるし、細く開いた窓からは秋風が柔らかく吹き込んで髪を揺らしていた。わたしが知らない外国人の俳優の白黒のポストカードがソファーの下から出てきたし、冷蔵庫の中には色々なチーズがぎっしりと詰まっていた。島野の部屋に入っていって見つけた薄い革のアルバムにはやはり八重草の写真が多くて不意に沈黙を運んだし、ベランダにはアロエの鉢植えが幾つか並んでいた。夏みかんはわたしの唇に冷たいのだ。わたしたちは島野の家で、あるなにか、わたしが今でも名付けることができないそのなにかの周りを、ゆっくりと回りながら色々なことをしていた。中心になにかがあることに気づいたとしても、それがなんであるかは語ることができなかった。わたしはテーブルの話に笑いながら自分の笑顔がつまらないと感じたり、話から外れて黙って金魚を眺めながらなぜか満ち足りた。その充足の思いはまた空しくなった。どこにも行くことができない、とわたしは感じた。生まれてからなにひとつ満足できることをしてこなかった、と考えたときに、島野が頼んだ宅配ピザが届いて、チキンの脂に唇を濡らしてわたしは満足した。とりあえず、わたしはでたらめだった。悲劇を歌い続ける張り詰めた喉は、きつい匂いのワインによって潤うのだ。なにも必要としないのは、死人だけだった。
2005.06.05
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