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幼い生徒が帰った部屋で、わたしは一人で静かだ。テーブルは彼が帰る間際に元通りに隅へ折り畳まれ、この部屋にわたし以外の誰かがいたという記憶を部屋は失っていく。少年は清潔な匂いがしていた。彼が身につけていた服に溶け残る洗剤、それとも髪に洗い流されない石鹸の匂いだろうか。どちらにしろ、わたしはもう、その匂いを思い出すことはできない。綺麗に洗い流されたものはいつも力を失う。清潔な匂いはわたしを震わせない、だから彼に勉強を教えるのは夕方なのだろう。直人に与えられたものに、幾重にも砂をかけるための儀式の一つとして。 夜の窓は冷たくわたしに触れる。首筋が濡れるようだけれど、それはわたしの汗ですらない。カーテンを閉じようとして、夜が目に入る。夏は日が暮れるのが遅いはずなのに、ベランダから手を伸ばせそうな木々の茂りには、太陽の陰は既にない。 わたしは不意に、「おひさまは、もうねむってしまいました」と呟きたくなる。その言葉がどこから飛び出してきたかを、わたしは闇の中に探る。部屋の明かりを映えて、硬く尖った葉が集まって人の指のように光を包んでいるのを見つめる。しばらく考えて、わたしはその塊に指を伸ばす。ベランダの手すりで身体を支え、下へ落ちる水に抗う人のように腕は硬くなる。触れようとしたところで、わたしの指はとまる。薄い葉が重なった小さい塊は、触ろうとするわたしの指に硬いように思える。けれど、夕方に流れていた大気は、夜になって立ち尽くしている。額に落ちた前髪さえも撫でようとしない、その穏やかさの中でそれはわたしの前にあった。わたしはなにも残さずに、その指の形をした葉に触れられるだろうか。 わたしは指を折り曲げて、そして腕をへその上に被せるようにしてしまった。風が吹くまで待とうと思った。指の形をした葉から、奥になって次第に闇が濃くなる木々の根元へと眼差しを落としていく。下の階、そしてその下の階の部屋と続いて漏れている光に、木は肌を照らされている。根から土へ、土から土を囲っている赤レンガの囲いへと目で探っていく。わたしは闇を探していた。小さく、確かな暗さをもった闇だ。けれど、わたしが求めているものは見つからない。幼いわたしが見ていた闇はもっと深く、そして冷たかった。そうした闇は、ここには近づいてこないらしい。 顔をあげた時には、指の形をした葉は消えていた。どの葉たちがそれを形作っていたかさえもわからなくなっていた。風が吹いただろうかとわたしは薄い闇へ向かって腕を伸ばしたが、手のひらにはなにも触れなかった。一足に部屋に入ると、窓を閉めて両側から引いたカーテンを強く合わせる。ひじの裏がすっかり冷えていた。 クローゼットの隅に押し込んでいたダンボール箱を引きずり出すと、ひとつずつ中のものを出していく。お菓子のおまけやジュースに付いてきた小さなキャラクターグッズ、高校の時のアルバム、使い忘れていた目覚し時計、そうしたものが次々と床に並んでいく。奥の方に、わたしが探していた本が横たわっている。めくったページの最初に、「おひさまは、もうねむってしまいました」と大きな文字で書かれていた。わたしは、「もうねむってしまいました」と繰り返した。
2005.03.07
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夏の夕暮れは足が重くて、わたしは倒れそうになる。手の届く所に頼るものがなくて、ゆっくりと立ち尽くす。そして空を見上げる。伸びた首筋から背骨の方へねじれながら、柔らかな無為が流れていく。それを直人がなぞった唇のあとだというには、わたしの身体はもう冷たすぎる。降り積もった苔のような奥深い山の裾へと落ちていく夕日は、わたしを刺し通して散っていくけれどなにも残さない。汗ばむことなく、風は流れている。夏の風は空を高く吹き上げて、そしてまた朝には落ちてくる。わたしが昼の間にすごしたことを、夕暮れは奪ってしまうのだ。だからわたしが直人と身体を重ねるのは、いつも日が沈まない時間で、そして直人の部屋だ。わたしは眠れない夜に直人の匂いを持ちこみたくはない。幸福であったという記憶は、鮮やかであればあるほどわたしの夜を長くする。 空はシーツに残ったわたしの血のように赤い。それは肌から零れてすぐの、わたしを掻きまわし眩暈を起こさせる鮮明さではなく、乾いた柔らかさの色だ。だから、わたしは眺めていられる。熱は散ってわたしの肌を飾る甘さは溶けていく。その甘さが誰を味わったものかを、わたしは忘れてしまう。少しずつわたしは記憶を失う。もっと正確にいえば、まだ形を持たない塊に似た記憶の予感を、わたしは一つずつ奥深い庭へと飾っていく。そしてゆっくりと目を閉じる。まだわたしは、直人によって奪われていない。直人と重なっているときは、離れようとは思わない。けれど、こうやって離れてしまうと、少しずつ直人が怖くなる。だからわたしは律儀に約束を守っている。わたしの夜を直人に与えてはいけない。 部屋の灯りをつけると、そこに直人の匂いがないことに安心する。鍵は開けたままにしておく。6時になれば、わたしは2時間の間、直人を考えないための理由を与えられる。小さな生徒がわたしの部屋にやってくる。少年は幼いけれど、わたしを決して退屈させない。 わたしはなにも敷かずに床に座ると、窓に背中を押し付ける。そして掛け時計の振り子が鳴らす音を聞きながら、じっと玄関の扉を眺める。6時から5分と違わずに、少年は姿を現す。「こんにちは」と、扉を開いたままに窓辺のわたしへ彼は挨拶する。わたしは小さく頷くと、彼がきちんと靴を揃えて近づいてくる様子を眺めている。彼は小学生にふさわしくない機能的な革の鞄を壁に立て掛けると、部屋の隅に折り畳んである小さなテーブルをわたしの前に広げる。そうして、わたしの家庭教師としての時間は始まる。 授業は1時間半ほどで終わり、残りの30分はだいたいお喋りとなる。彼は間違えるべきところで間違えるので、わたしはいつも微笑みを押し殺すのに苦労する。わたしがペンを操って彼の解答を正していくその筆跡を彼は真面目に見つめているが、彼は解答をというよりわたしの指を眺めている。ただ、それを気づかせないほどには、彼は年齢を重ねていない。わたしじゃなくて、もっと教えることに熱心な人間なら騙せたのだろうけれど。彼は家庭教師に教えるべきところを教え、わたしはそれを彼が既に理解していると知りながら教えていく。それはおそらく、あまりに囁かれすぎた愛の告白に似ている。 授業のあとのお喋りでも、彼は前日から煮込んでおいた野菜料理のような告白を、コンビニエンスストアの気軽さで打ち明ける。クラスメイトの女の子と夏祭りに行くのだけれど、二人きりで上手く話せるかどうか不安だ、というような。わたしは彼に、からかいと注意と期待と悲しみの混じった言葉でアドバイスをする。つまり、わたしは彼にアドバイスを与えているつもりで、彼にわたしを教えている。未経験な少年を導こうとする言葉には、いつも自分がやり損なったことへの後悔が含まれているものだ。
2005.03.01
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