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春も足踏みのようですね、元弘の余話もトボトボと5回になりました。細かい話になるとまだまだありますが余話の横道となって限りがありません。それはまたの機会に譲ることとして、最終回にあたってどうしても記しておかないことを思い出し、もう一回を書いて最終回とすることにしました。郷土の英雄のこと?(戦前のことなんですが・・) 三木一草(さんぼくいっそう)の一人、名和長年でこのシリーズはしめくくりたいと思います 三木一草とは、鎌倉幕府倒幕の際に後醍醐天皇側として活躍した者の中で、特に功績の大きかった4人の忠臣を指します。楠木(き)正成、伯耆(き)長年(=名和長年)、結城(き)親光、千種(ぐさ)忠顕です。※千種忠顕は隠岐島で後醍醐天皇の身辺の世話をした公家です。「太平記」では隠岐から脱出した後醍醐天皇が伯耆国名和湊に到着しました。千種が「この辺りに名のある武士はいないか」と里人に尋ねると、「名和又太郎長年と申す者こそ、その身さして名のある武士には候はねども、家富み一族広うして、心がさある者にて候へ」と返事が返ってくる場面で歴史にデビューとなります。名和長年は歴史上では特に有名ではありませんが、裕福で一族が繁栄しており、度量があると地元では評価されていたんですね。一説では山陰沖の漁業権、海運権を得ており鰯屋(いわしや)とあだ名されていたとか・・・・ で、この話を聞いて長年を訪ね、「天皇に味方せよ」と下命するのです。少しおかしいな?と思いませんか用意周到な計画で隠岐を脱獄!した後醍醐天皇には北条政権倒幕の青写真が出来ていたはずです、だからこそ複数の協力者がいたと思いますね・・・・名和港に護送した後は「はい、さようなら」ではあっても次の担当にバトンタッチするべき手筈があってこそだと思いますがね・・・千種忠顕は東奔西走して協力者を探すなんて・・・泥縄!です。脱出が目的ではありません、「六波羅、鎌倉を攻めて倒幕する」のが最終目的だからすこし間が抜けていると思いませんか?長年は、一族を集めて親族会議を催きます。 会議で、弟の長重が“たとえ屍を軍門に曝すとも、一天万乗の天子のために戦ったなら、その名を後の代に残し、生前の思い出、死後の名誉たるべし”と意見を出したのです。※今流でいえば「カッコイイッー」ということでしょうか(笑)一族も同意したので「名和一族の名を後世に残そうと」と長年は天皇を擁して船上山で挙兵となりました。その決意として長年一門は屋敷に一斉に火を放ち家財諸共焼き払ったのです今でも屋敷跡を掘ると「炭化した米が出てくる」と子供の時先生から教わったことがあります。何ゆえに、勿体ないですね・・・そこが長年の決意表明という非凡なる所以です。全てを焼き尽くしたら何も未練はない、帰るところもないのです、目的はただ一つ勝利あるのみです全てを失ってこそ命がけになれる事を解っていた人物と思われます早急な決断なので輿もなく、長年は、後醍醐天皇を背負って船上山に登りここを拠点として戦うことになりました。人夫を雇って1日で5千石の玄米が船上山(650m)に運び上げられました。この話を聞きつけて先ず出雲の塩冶高貞が駆けつけます、次々に支援の豪族が終結します、圧巻ですね。勿論天皇も四方八方に「綸旨」の連発です。さて面目を失った隠岐の判官佐々木清高は兵2千の兵で怒涛の如く隠岐から追ってきました男坂、女坂では大激戦が行われました。このときのエピソードのひとつとして、名和七郎の意見を取り入れて、白い500反ほど使って旗を作り、周辺の武士の家紋を描いて立て、実際よりかなり多くの兵がいるようにカムフラージュしたと・・・・この戦いの経過を血眼になって全国の武将が注目しました。勝てば官軍です、後醍醐天皇は「倒幕命令」を全国に向かって発信します。笠置山でのリターンマッチ(船上山の戦い)は約70日にわたりましたこれに呼応して赤坂では楠木正成が再起し、摂津では北条方の足利尊氏が篠村八幡宮で寝返り一気に京都の六波羅探題を攻め、新田義貞が破竹の勢いで鎌倉に乱入して北条時高はじめ家臣400人は東光寺で切腹、北条政権は壊滅してしまったのです。6月には堂々と都入りした後醍醐天皇の胸中は如何なものだったでしょうか?「延喜、天暦の公家社会の政治に戻す」とした後醍醐天皇は「朕の審議は未来の先例たれ」と意志の固いところを示します※これからは自分の発する言葉が今後の法律になるのだ!すざましい覇気ですね、古代でもあるまいに、この政策は全国の武士の反感を買ってわずか3年ほどで建武の中興は頓挫してしまったのは周知の如くです有名な<二条河原の落書>ですこのごろ都に流行るもの、野党強盗?綸旨(にせりんじ)・・・・・幕府が倒れたといっても、新政の経済的、社会的基盤は弱く、現実から浮き上がっていてここに新政の根本的弱体があったのです。足利尊氏がその頭目に仕立てられ敵対関係になりました最後まで忠君だった三木一草も湊川の戦い等で敗れて名和一族郎党も京都で戦死してしまいました。弟長重が云ったように「桜の花の散る如く」パッとイサギよく散って後世に名を残したのでしょう。その後、足利尊氏は室町幕府を開くのですが天皇家は60年間にわたり北朝、南朝に別れるという異常な時代が続いてしまいました ・ ・ ・ 再び安養寺に帰ってきました。2回目のUPには桜も固かったのですが見ごろになっていました5回にわたりダラダラと書いてきました、3回でまとめてしまおうと思ったのですがあれも、これもと思いが多くてついつい長くなってしまいました。まだまだ面白い逸話がありますが縁があったらその時にでも・・・※一説に因れば船上山の戦いは後醍醐天皇の影武者がいたと専らの噂ですが、その証拠も存在しているのです・・・では一体何処に雲隠れしていたんでしょうか?)瓊子(たまこ)さん、また懐かしい季節(隠岐配流)がやってきましたね 元弘の頃の騒乱時代は去りました。生まれた時代が悪かったですね・・安心して ごゆっくりお休み下さい。吉野山は桜の名所、お父上もきっと桜のもとでお花見をなさっておられることでしょうね(後醍醐天皇は吉野山中に葬られています) 合掌 最後までお付き合いありがとうございました
2010/03/31
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まだまだ寒い毎日ですね・・いったいどうしたのでしょうか待ちきれず、藪の鶯もすでに何回も鳴いて春を告げています今回も元弘の乱の余話としてもう少しありますので我慢して下さい。 ★再び安養寺の話題になります★今から約20年前、平成元年が瓊子(たまこ)内親王没後650年でした。町おこし、村おこし運動が全盛期だった頃ですね安養寺周辺の有志が集まって稚児行列をやろうという事になりました。目的はあくまでもこの哀話の継承をこの稚児に委ねて50年後の「没後700年祭」を盛大にやってくれるのを期待しての事でした。がその噂がだんだんと他地区に広まって県内は勿論のこと島根県、隠岐、岡山・・・・建武の中興ゆかりの方々まで広まってしまったのです。稚児行列で終わらないで自分たちも参加させてもらって「建武の中興」行列にして盛大なイベントをしようと言い出したのです最初からその目的でスタートをすればよかったのですが7月頃からの思い付きでしたので実行委員長、役員はさぞかし大変であったろうと思います市長さんも乗り気でしたし予算も付き、また横の連絡もとってくれました。瓊子内親王、後醍醐天皇、塩冶高貞、名和長年、千種忠顕、結城親光、三位の局廉子、佐々木道誉、児島高徳、近藤、相見、金持、村上、藤井、王身代・・・面々をみれば建武の中興に関与した人物はまだ大人物が(護良親王、足利尊氏、新田義貞、楠木正成、赤松則村・・・・)関与して北条幕府を倒したのですがこの行列は隠岐脱出、船上山の合戦に関わる人物に限定していたようですね。衣装は全て京都からの借り物です(有償です)この白黒写真が当時の地方紙の記事として残っているのみです<当時を伝える記事>平成元年11月5日実施500m歩いた行列は安養寺で終結、「エイエイオー」と勝ちどきを挙げそこからバス2台で6km先の米子の商店街を行進したのです沿道にはたくさんの見物人が・・・・・手軽なデジカメのない頃でした、撮影なんてとんでもない・・・・猫の手でも借りたい・・・私は会場設営班でしたのでそんな暇はまったくありませんでした。 ・ ・ ・あれから22年が経ちました。先日大森委員長から電話がかかってきて学校教材用の紙芝居が出来た、有志でこれやVTRを見ながら「話そう会」を企画したので来ないかという。都合をつけて30人程度の有志が集まってきました。当時の大森実行委員長の挨拶、実行班のT書店社長、懐かしいお顔が見えます。当時の45分のVTR(CDに編集しなおしてありました)を見たり、初めて披露される紙芝居をみて往時を懐かしく思い出した次第です ※隠岐配流中に美作国(院の庄)・・・岡山県において児島高徳「十字の詩」の有名な場面です次の節目までまだ25年ありますねそれはそれとして、このように冷え切ってしまった世の中・・・・なにか明るい情報、企画が無いものか・・夕飯を囲みながら楽しい懇談会となりました<瓊子内親王坐像>木製・・・安養寺蔵<発行図書>T書店発行<漫画もあります>漫画「瓊子内親王」より
2010/03/28
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隠岐の島に流布になった後醍醐天皇は何処でお暮しになったのであろうかというのが今回のテーマですそんなこと、何処だっていいではないか、1年後には島抜けして建武の中興を成し遂げたのだから・・・という結果論でみてしまっては歴史は面白くありませんね2説ありますが私がこれを論評する気は全くありません、古文書を手にして一つもよんだことすらないのです(汗)ですから外野席から紹介をしてみようと思います<隠岐島とは>大小180の島々、左(西):島前 右(東):島後都を発ち500人の警護に囲まれて、帝は北条幕府の打倒を計画した重要犯罪人という立場であった。京都六波羅探題では残党狩りも行われたが各地に発起する反北条方も天皇を奪われても倒幕活動を依然として継続中であった。スキあらば「天皇奪回」を警戒しての護衛であった、決して後醍醐天皇をお衛りするという立場ではなかったのである。行在説のことなのですが現在2つあるのです.....一つが島後の国分寺跡、もう一つが島前の別府・・・どうしてこんなことに「天皇の行在所」の伝承が最初から二箇所であったわけではなく、長い間、全島民あげて「島前西ノ島、別府」にある「黒木御所」と伝えられていて誰も信じて疑うものはなかったのである。<島前説>黒木御所この別府には数多くの伝承記録もあるし後世伝承を元とした数多の書画の類も作成されていて至極当然の判断であったしかし、中央の記録「増鏡」には「海ずらより少し入りたる島後の国分寺といふ寺をよろしきさまにとり払いておはし(在し)まし所とさだむ」と記されていた。 ※おわしまし所:行在所<島後説>国分寺跡しかし、これは本土で記録された歴史書で土地感を知らない人の作り事であると思ったのも無理もなかった、伝承のない島後の人でさえ行在所ここではないと思っていたのであるところがである。近年(日露戦争頃)になって島根県平田市の鰐淵寺から1枚の辰韓が出てきたのである。鰐淵寺の勤皇の僧「頼源」に後醍醐天皇が宛てた古文書(願文)で「敬しく曰す発願の事、右心中所願速疾に成就せしむれば、根本薬師堂の造営急速にその功を終え顕蜜興隆致す可きの状件の如し」 元弘二年八月十九日 花押となっていた。注釈:北条氏を討ち果たし王政復古の所領を祈られて大願成就なれば根本薬師堂を寄進してやろう。という天皇直筆の約状であるが、この辰韓は島後の国分寺から頂戴したものであると注釈が書かれてあったというのだそれによって文部省は昭和9年3月13日(後醍醐天皇建武中興600年)に国分寺を国の史跡に指定してしまった。決め手になったのは以上の2つによるものであった(増鏡、願文)しかし島前別府の黒木御所の伝説、諸説の資料もあるため、これも否定すべきものではないとして、昭和33年、島根県の史跡として指定したのである。ところがその後になって「頼源」文書の一部に張り紙がしてあるのが判明したという真実は一体どちらであったであろうか? <吉川先生は>昭和33年から毎日新聞小説「私本太平記」を書き初めた吉川英治氏はこの喧々囂々たる中で「折衷案」をとられたのであろうか、前半は島後、9月以降は島前説を採用され隠岐脱出は島前を中心とする村上水軍の入念なる計画の下に決行されたと小説では記されている「折衷案」としてしまったのだが、古来流刑の犯罪人に対しては(特に政治犯)長くはそのまま定住させておくことは危険であったそこが連絡伝達拠点となる恐れがあり、為政者にとっては土地変え、転封を行ってその芽を遮断する必要があったのです。さすがに吉川先生は偉い方だと思いますねたしか小説家では第一番目の文化勲章を受章なさったはずです。現在はどうかというと仲良く2つの説が共存してパンフレットも発行されておりますが、伝説が圧倒的に多い「島前、別府説」の方が旗色がいいようですね島民の方はそれで喧嘩をしている訳でもなく却って私のような第3者がああだのこうだのと酒の肴にしているようですね結論は冒頭で記した方が一番賢いかも知れませんね ★今回は「赤勝て、白勝て」の外野席応援団からのお話でした★ お疲れさまでした。
2010/03/24
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終日の春雨では格好良く「濡れて行こう」とはまいりませんね昨日ブラリと安養寺に出かけてみました自宅から2km弱の近いところに在ります。固い桜の蕾がまだ小さいですね<安養寺正門>・・・・簡素な門構えは何となくホッとします。<本堂>内親王木造尼仏像が祀ってあります<瓊子内親王廟>瓊子内親王没後650年祭が盛大に行われました(平成元年)<歯形クリ>正面に伯耆大山が見えますよ!秋に栗の実がなりました。村人が「内親王さま、どうぞ召し上がってください」というと一口かじりかけたその栗の実には内親王の歯形がついた。「これを植えて芽が出たらお父上もきっと大願成就なされることでしょう」・・とすると次の春には発芽したのです、そしてこの年の早春の元弘3年閏2月、後醍醐天皇は密かに隠岐を脱出し船上山の合戦後、凡そ1年足らずで奇跡的に帝位と帝都奪回(六波羅探題陥落)に成功したのです。「京都に帰って来い」という父帝の要請を断り一宇の庵主として僅か24歳で亡くなったいうから一層哀れですね桃栗3年、その栗が数個実をつけましたところが、その全ての実には内親王がかじったと同じ歯形がついていたのです。不思議なことがあるものだとこれ以来この栗を「歯形クリ」とよんで大切に育てました。なにせ数百年前の出来事ですから栗の木も世代交代です。戦後(太平洋戦争)まで3代目の大木には薄っすらと「歯形」があって学童は拾って食べたのですがこの4代目にはその面影はないみたいです。もっと大きくなって歯形が現れたら嬉しいのですけどねえ・・・・30分ほど元弘時代の物思いにふけって写真を撮っていたら2,3名の方がお参り(見学)に来られていました なんとなく、ホッとして我にかえりました ★ 今回は写真の披露でした ★
2010/03/23
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毎年この時期になると密かにある日本史の断片を空想する癖がついていますわが鳥取県は西に大山、東に鳥取砂丘という自然美に恵まれた風光明媚なところなのですが(といっておきましょうか・・・)こと日本史上においては何も際立った事件はありません。それがけっして不満ではありません、嬉しいことですなぜなら平和が一番尊く波風がたつのは御免蒙るのは誰しも同じことだと思います。ところが、わが鳥取県中部地方(伯耆の国)で僅か70日間ほどですが中世期において全国からその戦況を釘ずけとした事件(船上山の戦)があったと聞いて皆さん驚かれますか一口に言うと歴史小説「太平記」の時代にまつわるわが校区の悲話を書きたいのが主題ですがその背景を前段として書きますので辛抱して読んで下さい。拾い読みでもよろしいですからね※あれだけ内乱が「太平記」なんて奇妙な表現ですね太平記とはきっと世相に辟易し平和を願って太平記と題名にしたに相違ありません。中世の14世紀といえば、日本史上まれにみる内乱の時代でありました。政権奪取の攻防戦が彼方此方で発生し多くの武士や民衆が亡くなりました、鎌倉幕府の執権北条政権も14代執権「高時」頃にはその終焉が近づいていたのです。<余談ですが>今年は大河ドラマ「竜馬」を放映していますがペリー来航以来幕末動乱の世の中でたくさんの人々が非業のうちに死んでいくのはこれからのストーリーなんでしょうが太平記の頃と戦国時代(下克上)織田、豊臣時代はこの比ではありませんね。正中の乱、元弘の乱(今から670年ほど前)その後の南北朝時(60年)のことで鎌倉時代の終わり頃の時代のお話をします。王政復古の世の中の再来をと「政権奪還」の野望に燃える後醍醐天皇はこの二つの倒幕事件に関与して失敗に終わりました。首謀者のなかから密告者が出たというのが正説となっていますね元弘2年(1332年)正月、笠置山で北条幕府の囚われの身となり先例(承久の乱----後鳥羽上皇)に倣って隠岐島流罪となりました。3月7日、北条幕府方五百騎に警護され輿で京都を出発、季節がちょうどこの頃であったと思います(昔の暦は陰暦で書かれていますので現在の太陽暦とは約一ケ月遅いと思ってください) 陰暦3月→太陽暦4月ほぼ今の中国自動車道+米子道(正確には違うのですが大まかなルートを想像していただく為です)経由で島根半島の東突端の美保関の仏谷寺に到着、10日間の風待ちとなりました。春の追い風の南風を待ったのでしょうか<逸話があるのです>以下、吉川英治先生の「私本太平記」の文章を拝借しますあわれな、その一挿話というのはこうである後醍醐天皇のあまたな御子のうちに瓊子(たまこ)内親王という姫君があった。おん母は藤原為子。かの土佐に流布された尊良(たかなが)、讃岐に流布された宗良(むねなが)も、このおん母であるから二皇子の妹にあたるわけで御年16歳であったというから都に置き去りとなった。「島とやらへわが身も行きたい。島へ行きたい、父君のところへ・・・」母の為子は既に亡い方であったから、姫は孤独に耐えられなかった。次女にせがんで、父皇のおあとを慕い、ついに都を抜け出てしまったかよわい足で、しかもはるかな旅を、どんな人々に付き合わされて来たろうか。とにかく表向きは、「先へ行った三位の局(阿野廉子)の女童です」という態に装って、ひたすら父の帝のあとを追い、やっと米子の辺は、この美保関に来て、追いついたといわれている。しかし、もとより姫のいたいけな願いが、かなえるはずもないまた親しく、父帝に会って、最後のお別れを遂げたらしい記録もない。伝説として残っているのは、米子市福市の「安養寺」にある五輪の塔だけである。諸伝によれば、身の孤独と、世の荒びに全てを見失った十六の乙女は、この地で黒髪をおろして一宇の庵主(あんじゅ)としてついに果てられ(24歳)たというのである。「新葉和歌集」には、この妹へ、兄なる尊良(たかなが)の皇子から--------------元弘の初め、世の乱れ侍りしに思ひわび、様など変えけるよし(黒髪をおろして一宇の庵主となった)聞いて、瓊子内親王へ申しつかはしけると題していかでなお 我れも浮世に そむきなむ羨ましきは すみ染めの袖と贈られたのに対し、瓊子からの返歌は君はなほ 背(そむ)きな果てそ とにかくに定めなき世の定めなければと、こたえられた二首などが見えるが、果たして、いつ何処でというようなことまでは明確でない。ただはっきり云えることは、その朝四月初め、美保関を離れた船上における父皇の万感のうちには、瓊子の面影も、ふとお胸には浮んでいたには相違あるまいということだ。しかし、その父皇には、余りに、かえりみる恨事や未来夢が多すぎている。いたいけな一姫ぎみだけにへ、そのおん涙は灌(そそ)ぎきれない。むしろ、霞み行く出雲の岸や、伯耆大山のかなたを見て、「きっと、還るぞ・・・・リターンマッチで政権奪取を成し遂げてやるぞ」とひそかな誓いを、その眼(まなじり)に、睨(ね)め捨てておられたのではあるまいか。「大船二十四艘、小舟共は、数も知らず、遥かに押し出すほどに、いま一霞、心細う、まことに二千里の外の心地もする・・・・<増鏡>※二千里とは恐れ入りますね約8,000kmということになりますがそれほど中央の人は遠方だと感じたのかもしれません(実際は18里-----70km程度なのです)かくて後醍醐天皇は絶海の孤島へ追いやられた。前置きが長かったようですね・・・・この前後は皆さん方は学校で学んだことではないでしょうか? 建武の中興前のあの騒乱なんです。長くなりましたので次回になります。次回は地区内の瓊子内親王廟の安養寺の写真でもUPさせようと思います。お疲れ様でした、次回をお楽しみに3/20から書き始め本日22日にUPしました。20の日記になっていますがご承知下さい(訂正の仕方が解かりません・・汗)
2010/03/20
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すでに3月中旬、年度末になってあわただしくなってきました。わが公民館の「蔬菜同好会」は全国的にも珍しい県内の「鳥取県農業大学校」の視察研修に出かけてきました開校は昭和4年財団法人山陰国民高等学校として開校、農村中堅人物の要請を目的に設置され81年の歴史があるというから驚いた研修課程も世の変遷に伴って改名、今にいたっている。現在では教育課程は養成過程農業課程を5つの専攻コース(果樹、野菜、花き、作物、畜産)のコースとなっている。主として高校を卒業した生徒を中心とした2年制をとっているが短期養成コースもあるらしい。研修生の私たち23名はどちらにも属さない「見学者」なのだといっても90分の座学を受けた。1.野菜に適した土壌とは2.苗づくり3.春、秋野菜の植え付け4.元肥、追肥について5.連作障害について内容の濃い講義であったが面白かったのは次のことだ(連作障害について)野菜名でもって連作障害と定義しないということだ?どういうことかというとキャベツ、カリフラワー、ブロッコリー、カブ、コマツナ・・・(科名:アブラナ)たまねぎ、ワケギ、ニンニク、ラッキョウ・・・(科名:ユリ)パセリ、せるりー、セリ、あしたば、ミツバ・・・(科名:セリ)・・と科名分類してあってアブラナ類を毎年同じ場所で作ると連作障害を起すのだが科名を変えれば(例えば次年度玉ねぎを作る)連作障害ではないということらしい。少しは気持ちが楽になった気がしてきた。がしかし、と追記がつく出来るだけ接木苗を使って下さい、しかも定植時には接木部分が土面より上になるよう(浅植えすること)※下になると雑菌が混入するのが怖いという。2,3の質問で後は施設を見学させていただきました。もう既にスイカ(トンネル栽培)が定植されているのを見てびっくりです・・・ここから実習棟が続きます既にトマトがここまで生長して・・・勿論夜半は暖房管理です3時間ばかりの視察研修をうけて後は会員で懇親会バスに揺られて随所でお土産タイムでした同じ県内で約往復80kmの工程は楽しかったです。帰宅したら足音に気が付いたのか元気になった「さくら」の手荒い歓迎を受けました急いでUPしましたので内容が薄いものになってしまいました
2010/03/17
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早春だというのに雨ばかり降って滅入ってしまいます農作業(畑作の床)の時期なのに畑にも入れず作業室に入って電気回路の組立てで遊んでいました愛犬「さくら」もじっと行儀よく見学すればいいのですがウロチョロして落ち着きがありませんこの柴犬・・・個性が強いですね単独行動が多く落ち着きがなく散歩につれて出ても飼い主の前に出かかり「わんウェイ」なんです。そして道端のものは何でも嗅いでみなければ気がすまない性質なんです。ドッグフードだけでは食べないので仕方なくご飯にどっぐふーどをMIXして与えていますそれでも性格は変りなくなんでも探し出ては口にするんです。塩気が足りないのか金鎚の握り部分、スリッパ、下駄の後ろ足の部分、揚句の果ては作業用皮手袋、ペットボトルの先端のキャップ部分まで(甘みがあるのでしょうね)をかじっています電気回路を組み立ての作業中は線クヅ、半田クヅまで犬舎に持って入って齧っているんですねコリャア・・まづいと思いました。アルミのペットボトルの蓋が2,3個潰れて入っていました。所詮、犬は繋いで飼育するものと相場は決まっていますが我家は四方が建物に囲まれた空間地帯があって(20畳ほどですが)花壇を作っています。その地帯が「さくら」の遊び場となっています。たとえそんな空間があっても人間が出入りしますのでヒョイと外に出たら手が付かないため不要には放せません。先週の木曜日の夜はちゃんと夕食はとりましたが金曜日の朝になって吐き下しとなってしまいました。医者にも連れて行ってレントゲン、点滴注射で少しは元気になったようですがイマイチです。約1週間になりますが元気になったり、そうでなかったりです。そんな日々を過ごしているうちにだんだん春めいてきましたね梅は既に散って椿が盛んに咲いています。染井吉野が南国では開花とか・・春の到来は一足跳びで早いですね。畑の耕運をして春物、夏物野菜の床つくりの時期になりましたが3,4日の降雨で圃場には入れません
2010/03/12
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今年度最後の「男の料理」です。出席は9/11だからまあまあでしょうか・・・今回はすしのオンパレードのいっても「巻き寿司」です。昨年、この巻き寿司を習ったのですが殆んどの人が「ご飯が手に付いて・・・」どうにもこうにも厄介なものであった印象をもっています先生のレシピでは<本日の献立> ・ 太巻き寿司 ・カリフォルニア巻き寿司 ・細巻き寿司 ・アサリの潮汁カリフォルニア はてさて一体どんな寿司なんだろう? 写真付きで下手な解説でも・・・<材料>・寿司飯、アボカド、海老、レタス、青じそ、寿司のり1枚1.アボカドは種を取り縦に切り分け、川をむく。レタスは洗って大きめの繊切り海老は背わたをとって串を刺して伸ばし、塩入熱湯で2分ゆでて水で冷やし串を抜いて皮をむく。2.巻きすに海苔を縦において寿司飯200g位を全体に広げる。3.別の巻きすにラップを敷き2の寿司飯を海苔が上になるように乗せる。 ※ひっくりかえす・・・ヨイショと4.海苔の中心に(アポカド、海老、レタス、シソ)を乗せて巻きすで巻き取る。出来上がりなんです、なんだ・・これは☆外国人が海苔の黒い色を嫌うので裏返しにしてすし飯を外側にしたとも云われている。☆カリフォルニア地方の産物(オレンジ、アボガド、海老)などを巻き寿司の具にして巻き寿司にしたものが発祥だそうです。折角の「カリフォルニア巻き寿司」でしたが外側がしっかりと巻かれた本来のものがビシッ!と決まっていたし食べ易かったですカリフォルニア巻は本日の一例です、本巻きの手法を数本練習して大分上手になりました。試食は両端を切った物がたくさん出来ましたのでこれで満腹となりました。本体は自宅へ「お持ち帰り」となりました。
2010/03/04
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