JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.04.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧東海道・静岡県沼津市の浅間寺交差点を左折する。



50m程進むと左手のあったのが『臨済宗 醫王山 東方寺(とうぼうじ)』。
山門。
山号は「醫王山」とあるが、 本尊が薬師如来である為か、400年前より「
清明丹東方寺目薬」と称する漢方薬が伝えられ、切疵、胃潰瘍、云々塗ってよし、
飲んでよしの萬病に効能ある薬が製造された。
寺の運営もこの「目薬」の売り上げにての時代あり。このことにより幕府より
「薬師田」の賞典を受けたと。昭和50年頃をもって新薬の多出、薬事法の改正、
(現行法は昭和35年制定)又、処方の薬物高騰により、流れに添いて製造を休止せりと。



本堂。
創建は不詳だが、明暦元年(1655)天岫雲(てんしゅううん)和尚再興、
依って天岫雲和尚を開山第1世とすと。
本尊に東方薬師瑠璃光如来〔伝、天竺毘首竭摩天(てんじくびしゅかつまてん)作〕を祀る
事により創建時は真言宗と思われる。後、鎌倉圓覚寺派となり、更に興津清見寺末となり、
妙心寺派に帰属すと。



『二?花庵雪翁居士之墓』。



境内には天福壇/庫裡があったが狛獅子の替わりに沖縄の「シーサー」が。
沖縄戦没者舎利塔があり、沖縄戦争の際に沖縄で亡くなった方をお祀りしていることから
「シーサー」が鎮座しているようです。





そして東方寺の前の千本浜道の対面にあったのが『乗運寺(じょううんじ)』。
山門。



美しい境内の奥にあるのが本堂。
沼津の松原を愛し移住した歌人・若山牧水の菩提寺としても知られていると。



『鐘楼』。



境内の石仏、石碑。



『若山牧水(妻・喜志子、長男・旅人)の墓』。
左手に牧水、右手に妻・喜志子の作の短歌が詠まれています。
「聞きゐつつたのしくもあるか松風の今は夢ともうつつともきこゆ 牧水」
「古里の赤石山のましろ雪わがゐる春のうみべより見ゆ 喜志子」



「牧水略譜
明治十八年八月二十四日宮崎県東臼杵郡東郷村字坪谷一番戸に医師若山立藏仝じく

故郷の母マキ並に庭前の坪谷川への追憶に由來せるものなり明治四十五年二十七歳に到り
太田喜志子と結婚以后九年の間に旅人岬子眞木子富士人の二男二女を挙げ東京に於て
その短歌の作風に一家を成せしも大正九年に到り年來の希望たりし田家の生活を志して
沼津在楊原村上香貫に居を撰み次で大正十三年千本浜に移りてよりはその四囲環境を愛して
終生こゝを離れず昭和三年に到る その年七月よりにはかに健康すぐれず九月上旬より
臥床仝月十七日永眠す 時に年四十三歳なりき その一生は芳醇純乎としてたゞ自然の憧憬と
讃美に終始し 生を享けて四十年余その途をあやまたざりしもの 此処にその三十三年忌を
迎えて之を誌す」と。



本堂。
創建は天文6年(1537年)、浄土宗京都知恩院の末寺。
北条と武田との争いで千本松原が切り払われ潮風の害に苦しんでいる土地の人々を見て、




『増誉(ぞうよ)上人像』。

「沼津 乗運寺」の画像検索結果

永代橋通りを進むと左手の果物屋には三角スイカそして四角スイカが。



右手にあったのが幸町にある『大聖寺』。
付近には真楽寺や永明寺、乗運寺、東方寺があり、古くは正見寺や本光寺もあって
寺町を形成していたのだと。




『是より南一町半六代松』の石碑。



住宅街を進み突き当りを右に折れると左手に平家物語ゆかりの地「六代松碑」が。
この六大松の碑は、公園とも墓地ともつかない場所に建てられていたが、
実はここはこの後訪ねた妙傳寺の墓域であるのだと。



六代とは、平清盛の孫である三位中将・平維盛の遺児である平家六代目を継ぐ御曹司のこと。
源頼朝の家来・北条時政により捕らえられ、千本松原で処刑される際、これを知った源頼朝の
政治顧問であった文覚上人の命乞いにより赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり
処刑された。この処刑で平家の血筋は途絶えたのであった。
従者が六代の首を千本松原の松の根元に埋め、弔ったと伝えられると。



石碑と説明板。



「六代の松碑(平家物語ゆかりの地) 
六代は、平清盛を三代とし、重盛、惟盛、六代と続く平家の頭領となる血を受け継ぐ
御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符合する。
元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると捜し出され、鎌倉に下る途中の
千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。
平家の末路を語る上で最も人々の心に残る場面の一つである。その後、出家し妙覚と名乗り、
文覚上人の謀反に連座し、謀せられ、その首を共の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと
伝えられる。
江戸幕府の命を受けて、道中奉行井上美濃守藤原利恭(としやす)らが文化三年(1806)に
完成した『東海道分間延絵図』にも、千本松原の中にある一際大きな松が描かれており、
六代御前旧林の文字がある。
民間では、学識の深い俳人秋里離島が寛政九年(1797)に板行し好評を博した
『東海道名所絵図』には、文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって
掲載されている。
平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人達に親しまれた巨木の六代松であったが、
枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保十二年(1842)碑が建てられた。
撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。」と。



『献木 六代松』と刻まれた石柱。



右手には忠魂塔も。



次に『法華宗 妙傳寺』を訪ねた。
山門。



「妙傳寺」と書かれた扁額。



本堂。
法華宗で、大本山光長寺の末寺である。慶長9年(1604年)の創建で、開基は日典という。
日典は俗名を市川七郎左衛門家吉といった。 当時の三枚橋城主大久保治右衛門忠佐は
あつく法華宗に帰依し、自ら当寺を大久保家の菩提寺と定め、慶長9年12月19日、
寺領として田畑2反5畝18歩を寄進した。慶長10年には本堂・庫裡が建造された。
境内に忠佐の墓碑が存すると。



見事な本堂の彫刻。



法華宗 光栄山 妙傳寺(こうえいざん みょうでんじ)本堂の扁額。



『大久保忠佐墓』。
天文 6 年( 1537 年)、大久保忠員の次男として三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれる。
父や兄・忠世と共に松平広忠、家康に仕えた。武勇に優れ、元亀 3 年( 1572 年)の
一言坂の戦いでは本多忠勝と共に殿軍を務めている。天正 3 年( 1575 年)の長篠の戦い、
天正 12 年( 1584 年)の小牧・長久手の戦いにも参加して武功を挙げた。
天正 18 年( 1590 年)に家康が関東に移ると、上総国茂原において 5,000 石を与えられた。
慶長 5 年( 1600 年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従ったが、真田昌幸・信繁親子に
足止めされている。慶長 6 年( 1601 年)、家康から駿河沼津 2 万石を与えられて大名となった。
居城は沼津城(三枚橋城)。
嫡男・忠兼は早世していたため、当時幕府旗本であった八弟の忠教を養子にして家を
相続させようとしたが、忠教は「自分の勲功ではない」として固辞した。
慶長 18 年( 1613 年) 9 27 日に忠佐が 77 歳で死去すると、沼津藩は無嗣断絶で改易となったと。



そして新中川に架かる『間門橋(まかど橋)』を渡る。



新中川。
新中川は愛鷹山(標高1,187m)にその源を発し、松沢川、谷戸川、中沢川、西久保川、
西川の支川と合流して駿河湾に注いでいる。
昭和10年代より沼津市が農業排水路として整備を始め、昭和25年に完成した。
昭和46年沼津市から県に移管されて、二級河川新中川となったと。



蘭漢堂は鍼灸院。



「和漢法 排泄の醫術」と。
お世話にならないようにと。



「間 門
昔、この地南の浜で閻魔大王像の首が網に掛かり、首の後ろに「天竺摩伽陀国」と
彫られていた。村人は、堂を建て胴体手足を造り像にして安置し、お祀りしたとの言い伝えから
地名が付けられたといわれる。また、アイヌ語では「マカ」とは開く「ト」とは湖水を
意味するが、間門(マカド)の地名は、往古の地形なり、土地の役割に由来しているのではないかと
いう説もある。」と。



西間門交差点で旧国一通り(県道380号)に合流。



更に進むと右手に下半分が無くなっている『沼津藩領境榜示』が。



「安永六年( 1777 )水野出羽守忠友 は、二万石の大名として十代将軍徳川家治 から沼津に
城地を賜り、築城を命ぜられました。翌安永七年、韮山代官江川太郎左衛門 から城地を引きつぎ、
沼津藩創立と共にこの榜示杭を設置しました。牓示 とは江戸時代、天領や私領の入り組んでいる
ところでは、人々に領域の所在をはっきり知らせる必要があり、そのため街道の傍らに
立てたものです。この榜示杭は当時沼津藩の西境に立てられたものですが、明治末期頃に折られて、
下半分が失われています。
下石田には「従是西沼津領」と刻まれた高さ二、一二メートルの榜示杭が完全な形で
現存していますので、「従是東沼受領」と判断できます。
石質、字体、寸法等すべて同一ですので、同時に立てられたものであると考えられます。」と。



その先にあったのが『間門八幡宮』。



この八幡神社だが、ごく平凡な神社のように見えた。がここの由来書きがすごいもので
3mくらいあるもので気合いが入っているが、神社自体は小さく質素。



手水舎。



拝殿。
この八幡様は武田氏が沼津を支配した時代に甲斐国から移住してきた人たちが連れてきた
八幡様であると。
ご祭神は八幡様ですから誉田別命
明治に金山神社、神明神社が合祀されたと。



旧東海道・間門八幡前を原宿を目指して歩き続ける。



夢舞台東海道道標『沼津藩領境』。



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                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.04.28 14:37:35
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