JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.04.13
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カテゴリ: 大和市歴史散歩
【大和市の神社仏閣を巡る】目次

小田急線「高座渋谷駅」前から国道467号に出る。
このあたりは道路脇には桜並木が続いているが、1週間以上先のようであった。



国道467号を渡り東に進むとあったのが「南大和病院」。周囲には大きな駐車場が。
ここから「左馬神社」へと向かう。



「南大和病院」のすぐ側の雑木林の中に「左馬神社」の境内が石段の上にあった。



石段を上り石鳥居を潜り境内へ。



「鐘楼」が右手に。



「梵鐘」。



「左馬神社」の「拝殿」が正面に。







「本殿 内陣」。



無人の「社務所」?の壁には「左馬神社」の案内書が貼られていた。



「特集 左馬神社(さばじんじゃ) ~境川流域に密集するサバ神社について考える~
はじめに
南大和病院のすぐ側の雑木林の中に『※1左馬神社』という古びた神社があります。
この"サバ”という名に珍しさを感じ、調べてみると、大和市、藤沢市、横浜市の
瀬谷区・泉区に「左馬」「左婆」「左波」「鯖」と"サバ”という名付け十一社、
引地川に一社、計十ニ社密集していることが知られています。
祭神は鎌倉幕府を開いた源頼朝とNHK大河ドラマの主役となる源義経の父※2源義朝であり、
この義朝を祭神としている神社は全国的に観ても珍しいのだといわれています。
更に、近年までそのサバ神社を七社巡る「七サバ参り」という信仰もあったそうです。
.今回、この珍しい神社について、サバ
の名称「左馬」「鯖」、祭神の義朝、七サバ参り、そして、なぜ「サバ」なのか調べようと
思います
※1左馬神社・・・寛文十年(一六七〇)十ニ月建立。
※2源義朝(一一ニ三~六〇)平安末期の武将。詳しくは「1左馬と源義朝」参照。
1 左馬と源義朝 
源義朝は平安時代末期に起こった※3保元の乱での活躍で「※4左馬頭」となりました。
やがて平清盛の出世に不満を抱き※5平治の乱を起こし、敗れます。
この時生き残った従者の平賀四郎、鎌田正清、金王丸の三名と※6尾張国知多郡の鎌田正清の
義理の父である長田忠致を頼りましたが、忠致の裏切りにあい、金王丸を除いて殺されてしまい
ました。生き残った金王丸はこの主人を弔うため出家し、土佐坊昌俊となりました。
この金王丸(土佐坊昌俊)の兄というのが渋谷重国で、いまの川崎から綾瀬付近、現在の高座渋谷
一帯を治めていたといわれています。もちろん、その領域は、サバ神社の建てられた場所も
含まれており、この地域は渋谷氏が治めていたことにより、義朝を弔う土壌があったと
思われます。
更に「極めつけに江戸時代初頭に領主としてこの地域の住民の仇とも言えるあの長田忠致の末
裔である長田忠勝、白政兄弟が治めることになります。
恐らく、この地域の住民に反感情があったものと思われます。それにより、義朝の役職の
「左馬」を用いて「左馬神社」と名付げたのではないでしようか。
そして祭神として源義朝を祀ったのではないかと思われます。
ただ「左馬」という名称を用いる前
の「サバ神社」は大半「鯖」と名付けられた社名が多かったようです。
この「鯖」は一体どういうことでしょうか。
※3保元の乱・・・保元元年(一一五六)後白河天皇が藤原通憲(信西)を参謀とし平清盛・源義朝を
          使って崇徳上皇を破った戦い。
※4左馬頭 ・・・平安時代の律令制で諸国の牧場の管理していた役職の長。
※5平治の乱・・・平時元年(一一五九)後白河上皇のもと権力を握った信西を藤原信頼と源義朝が
          殺し、その後平清盛が両者を滅ほした戦い
※6尾張国 ・・・現在の愛知県。
2 「鯖」の字について
病院の裏手の「左馬神社」もかっては「鯖明神」でありました。境内の古い石燈に「鯖明神社」と
刻まれており『※7新編相模国風土記稿』においてこの左馬神社はもちろんのこと、大半は
「鯖明神社」と記録されています。
この地域で魚の鯖が多く水揚げされるようになったのは昭和の時代に入ってからだと聞いています。
マユツバと思いますが、この付近の伝承に「大雨による洪水が発生した後、水が引いて、木に鯖が
たくさん引っ掛かっていた」から祀ったといわれています。
一説には、初穂の魚を神仏に備える全国的な風習に鯖を用いていたからだとも言われております。
サバ神社とは異なる鯖稲荷を紹介してみます。
この稲荷は、東京・日比谷神社で別名「鯖稲荷」であり、ご利益は虫歯封じといわれております。
虫歯封じとサバにどのような繋がりがあるのかけんとうもつきません。
江戸時代の「※8本草書」といういわゆる民間療法の書籍に鯖の"薬効”が書かれています。
それによると整陽作用があるそうです。はたして効果はあるのでしようか、謎です。
ともかく「鯖」の字が恐らく痛みに対して何らかの効果があったようです。
しかしなぜ「鯖」なのか?「あて字」という説には持って行きたくはなかったのですが
結局のところ何も見出せませんでした。
では「サバ」とは一体何なのでしようか。
※7新編相模国風土記稿・・・天保十二年(一八四一)に成立した地詩。林述斎が編集。
※8本草学・・・本草とは、薬になる草を意味しており、古代よりそのような研究のため、
         書籍が作られていた。初めて何かを食べて効果を見出した人ってすごいと思う。
3 では「サバ」とは

いました。
まず、境川が神聖な信仰の境界であったという説です。
猟師言葉に「サバワケ」という言葉があります。これは獲物を均等に分ける」という意味で、
この「サバ」は境をつける意味合いであったそうで、東側は※9庚申信仰、西は※道祖神信仰の
境界とし、両岸に沿って社を建てたとする説です。
この説は境川に関してはこの説は通用しますが、その他河川にはあてはまりません。
もう一つは、農耕との関係から、「サワ」っまり沢もしくは田の神であったのではないかという
説です。
東南アジアの言語では水田のことを「サワ」「サバ」と呼んでおり、水に関連するのは確かな
ようです。歩いて回ってみると、大体のサバ神社は川を見下ろす高台に位置し、その下に水田や
現在の住宅地が拡がっていました。
沢の神だけで見てみますと、高台に位置し、神社が河川を見下ろすという配置は、水害を恐れて
いたことに繋がるかもしれません。それに加えて、サバ神社十ニ社中、六社に「稲荷社」、
ニ社に「宇迦之魂神」が祀られ、双方とも農耕神であり、田の神です。
恐らく、沢の神と田の神として、サバの神は存在していたのではないかという結論に到りました。
※9庚申信仰・・・庚申の日に帝釈天・青面金剛・猿田彦などを祭る。
          見ざる・聴かざる・言わざるの「三猿」で有名。
※10道祖神信仰・・・民間信仰のひとつ。道端に祭られ、五穀豊穣・子孫繁栄を祈った。
           男女の神様が仲睦ましく寄り添う姿がかわいい
4 七サバ参り
今日確認できるサバ神社で「七サバ参り」伝承が残されているのは、このルートです。
①境川左岸~和泉川沿いに下ったルート
 上和田~瀬谷~上飯田~神田~中の宮~下飯田~鍋屋
②境川沿いに両岸を下るルート
 瀬谷~上和田~下和田~上飯由~高倉~下飯田~今田
このルート以外にも石川(引地川沿い)のサバ神社を含む場合も伝えられているので、自分の
出発地点よリ一日工程で巡ることが出来る神社を選び、お詣りしていたように思われます。
実際②のルートを歩きましたが、約三時間ニ〇分で踏破できました。
しかし明治・大正時代に盛んであった頃に比べ、道路事情の事を考えれば五時間ほど掛ったのでは
ないかと思われます。
「七サバ参り」は明治時代の日清・日露戦争に対する先勝祈願や子供が疱瘡・百日咳、はしか
などの流行病にかからないように子供を背負ってお参りしていたそうです。
現在は、この七サバ参りも衰退していますが、天明年間(一七八一~八九)に盛んになった
"七福神参り”の影響を受け、幕末以降に行なわれるようになったようです。
新年あたりに”七サバウォーク”でも皆さんしてみてはいかがでしょうか。
おわりに
境川流に密集するサバ神社。郷土史の研究者にも注目されている神社でありました。
ます、水の神と田の神が合わさり、鯖の字を当て、そして源義朝を祀み事となり、ご利益を求めて
七社のサバ参りを行なうようになったのだろうと思います。
今年の初詣も鯖神社に"さくらぷらざ”の利用者様を連れて、健康を祈願したいと思います。
(文責桜井)
みなみやまと
平成17年1月25日の記事を再録したものです。」
なんとか転記しました。またまた勉強になりました。文責桜井さん、ありがとうございます。



「こんなにあった左馬神社」



「境川流域 サバ神社分布図」。



そして、再び「南大和病院」の前を通り新幹線の跨線橋を渡る。



右手の梅林?にはすみれのような鮮やかな紫の花・オオアラセイトウ(大紫羅欄花)が一面に。



別名「ダイコンバナ」、ハナダイコン(花大根)。



そして見事な手入れの「カイズカイブキ( 貝塚伊吹) 」の生垣。



その先、路地の角、左手のフェンスの奥にあった2基の石碑。




「南無阿彌陀佛」碑。



駒型 庚申塔」。
天保7年(1836)8月
月日(陰刻)・「庚申塔」・三猿・道標
右側面「天保七申年 相刕高座郡
     八月吉日   上和田村
            四ッ谷講中
            世話人藤左エ門」


「上和田団地西」交差点の先、ローソンLTF大和上和田団地店」裏にあった小さな神社。



更に「大瀬戸稲荷神社」に向けて北に進む。







そして「大瀬戸稲荷神社」の鳥居の前に着いたが、参道は工事中であった。



別の道を廻り込んで「大瀬戸稲荷神社」の社殿に着く。
稲荷神社のようであった。



次に訪ねたのが浄土宗の寺・「生養山 薬王院 信法寺」。
正面に「山門」。
大和市上和田2710。



寺号標「浄土宗 信法寺」。



「市指定文化財(有第22号)木造何弥沱如来立像
指定年月日 平成十六年七月ニ十九日
法量 像高四十九・五センチメートル
寄木造で玉眼嵌人、肉身部は漆箔、着衣部は金泥で仕上げられています。
その造形には、南北朝から室町期にかけて全国的に流行した宋風の衣文表現や人間味あふれる
面相などを留めています。
仏教彫刻史の観点からも注目される市内屈指の貴重な古仏といえます。
大和市教育委員会」



「山門」を潜り境内に。



「本堂」。
今から400年以上前の天正19年(1591年)、徳川家康から上和田の地(現在地)を拝領した
石川永正公が開基となり存蓮社源譽空閑上人によって開山された。
墓地には上和田村の地領、石川家歴代の墓所があり大和市指定重要文化財に指定されている。
またご本尊である阿弥陀如来立像も同じく市指定文化財に指定されている。



唐破風(からはふ)。
破風の先のむくり屋根の先に曲線を連ねた形状の破風板がつけられたもの。



境内の「阿弥陀如来坐像」。



お顔をズームで。



扁額「信法寺」。



「本堂 内陣」。



「本堂」前の「十三重塔」。



手を合わせる稚児僧もマスク姿で。
「なむなむ」の文字が。



歴代上人墓地。



法然上人幼名「勢至丸さま」像。



次に直ぐ近くにあった「上和田信法寺別院薬王院」を訪ねた。



寺号標「生養山 薬王院」。



「大和市指定重要無形民族文化財(民無第3号) 薬王院の双盤念仏
念仏にあわせて演奏される仏法音楽で、太鼓と鉦で行われます。その音は単純ですが、
それを聞けば正念増上するといわれ、今昔物語にも阿弥陀の聖が金鼓を打って念仏したと
されています。
この信法寺の別院薬王院の双盤念仏は鎌倉光明寺の流れと伝えられています。
「亨保元丙申稔極月吉日 粉河市正作」の銘が陰刻されている鉦があるので、この頃には
(1716年)既に演奏されていたことがわかります。この念仏を9月8日の薬王院縁日に行えば、
無病息災・家運隆昌の利益を授けられるとされています。また、農耕行事の虫送り、風祭り、
氷祭りにもこれを唱えて、豊穣を祈って今日に至っているといいます。
また、南西方向にある信法寺には市指定重要文化財の旧石川家墓地があります。
石川家は江戸時代に上和田村を知行地としていた家の旗本で、村内に屋敷を構えていて、
付近は御蔵屋敷と呼ばれています。
大和教育委員会」



同様な内容の別の「案内板」。



境内への石段を上る。



境内ではゲートボールを楽しむ老人の姿があった。
「本堂」。



扁額「薬王院」。



「本堂」横には多くの庚申塔が並んでいた。



後ろの列の右側は笠塔婆の付いた大型の阿弥陀如来立像庚申塔。
三猿は正面と両側面に彫られていた。
正面に「延宝」と。
中央も笠塔婆のついた大型の庚申塔。宝永元年の帝釈天立像庚申塔とのこと。
左は馬頭観音。



「藥師如来縁起
抑當山に安置し奉る薬師如来は行基大士の御作と稱し往古より靈驗あらたなること世人の
すべてに能く知る所なり 夫れ藥師如來は諸病悉除の願あリ中古三浦大助のニ男和田小太郎
義盛は当村の地頭なりし時眼疾を患ひて尊像を祈る事一七日ついに平癒する事を得たり
其後誓って云わく「若し擁護を蒙りて待所の別當たるを得ば一院を創せん」恚と志願空しかず
し其職に任ずる事を得たり因って一院を創建す即ち藥王院是なり
亦元和年中石川家祖先の内室眼病にて醫藥効なきを以て乃ち尊像に祈念する事一七日晝夜
速やかにに明眼を得たり故に再建す今の伽藍是なり
夫れより以来毎年九月八日をトしイ会日とし寅年を以て開扇し普く平等大悲に結綠せしむる
事となり大正十ニ年九月一日の大震災は關東一圓の堂塔佛寺の大半はは倒潰せしも當藥王院の
伽藍は幸にも其難を免ることを得たり之偏へに藥師如來の諸難悉除の靈險なり
此のあらたなる尊像を安置し奉る是藥師如来の縁起なり
神奈川縣髙座郡澁谷村上和田 藥王院信徒一同」



                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.09.05 06:02:27
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