JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.04.11
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カテゴリ: 大和市歴史散歩
【大和市の神社仏閣を巡る】目次

そして漸く「藤沢市」と「大和市」の市境・「大和市」側に建つ曹洞宗の寺「雲栄山 宗昌寺」に
到着。ここから漸く「大和市」に入ったのであった。
大和市福田1544。



寺号標「曹洞宗 宗昌寺」。



「本堂」。
本尊は元禄14年( 1701年)銘の釈辺如来座像。
慶安元年(1648年)に北条氏直の家臣・鈴木宗昌によって建立された寺。



扁額「宗昌寺」。



「本堂 内陣」。



「萬霊殿」、永代供養塔であろうか。



「地蔵堂」。







そして「宗昌寺」を後にすると「大和市」の「汚水マンホール蓋」に気がつく。
大和市の市の花「のぎく」をデザイン。「やまとし」「おすい」の文字。



「宗昌寺」の裏手を北に向かって進んで行くと「​ 飯都社奮趾(飯戸明神跡) ​」👈リンク と
刻まれた石碑(左)があった。
明治四十二年(1909)、正面:飯都社奮趾 明治四十二年 一月建立
「飯都社」とは廃寺となった「飯戸明神」のことであるとのこと。
そして庚申塔(右)
天明三年(1783)正面:庚申塔 右面:維時天明三癸卯□ 左面:[  ]久保邑講中



更に北上し左折して西に進み「引地川」に架かる「福田橋」を渡る。



途中、農道横にあった産直野菜販売所。




民家の庭の桜も咲きだして。



そして前方に見えて来たのが「福田山 蓮慶寺(れんけいじ)」。
大和市福田1279。



「山門」。



寺号標石「福田山 蓮慶寺」。




真言宗大覚寺派の寺。
「福田開拓九人衆の一人で、修験者とも医者ともいわれる小林大玄は、諸国を出歩き、やがて
帰宅しなくなった。大玄の妻・イトはこれを悲しみ、山に籠って村人に危害を加えるようになる。
困った村人は花見の宴を催してイトに毒酒を飲ませ、亡き者としたが、やがてイトの怨霊に
悩まされるようになる。そこでイトの霊を慰めるため村人は鎌倉の建長寺から姥像を勧請し、
一堂を建立してこれを安置したと伝えられる。その後この像は子供の百日咳などに霊験あらたかで
あるとして崇敬されるようになった。」とウィキペディアより。



「寺務所」。



境内の隅には石仏が。



二体の石仏が仲良く並んでいた。



左側に「唐破風笠付角柱 庚申塔

地蔵菩薩(合掌)・一猿?(痕跡)
右側面「爲庚申供養之也 寛文九己酉天 九月吉日」
左側面「請願成就皆領満足 願主 廿[五人]」
そして右側には「文字庚申塔」。



裏側から見る。



「市指定重要文化財(有第十号  木造優婆尊尼(うばそんに)坐像  案内板
指定年月日 昭和五十六年八月一日
形状 像高四〇・八cm
構造は寄木造で、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)、肉身部は漆箔(しつぱく)、衣部は彩色と
なっています。
髪を中央で左右に分けて長くたらし、ロ・両眼とも大きく開く一種の憤怒相(ふんどそう)であり、
歯や舌も克明に刻んでいます。
露出した胸部には肋骨と、しなびて垂れさがった乳房が写実的に表現され、面部とともに妖しげな
老婆の雰囲気を巧みに表しています。右手は膝上で握り第二指のみ伸ばし、左手はスカーフの
ような布を持っています。
造像時期を示す銘文などは残されていませんが、作風から室町時代後期に造像されたものと
考えられます。
また、福田地区にはこの像にまつわる「姥山」(うばやま)伝説が残されています。
平成九年三月 大和市教育委員会」



「木造優婆尊尼坐像」をネットより。


  【http://www.city.yamato.lg.jp/bunnka/hyakka/art_archives_bunkazai_18.html】より

「​ 慰霊五輪塔 ​」👈リンク
正面から右塔より
「海軍二相空特幹普通科練習生殉職者諸霊」
「海軍六期飛整予備学生戦死者二十七名之霊」
「昭和十八年二月八日遭難龍田丸一四八一名之霊」

裏面:
「施主 名誉住職 渡辺全龍 平成十二年三月吉日」
「篤志者 高橋和殿(檀家) 金拾万円也 六期追浜会有志殿」
「施主 渡辺全龍(龍田丸船長 木村庄平 次男)」
大東亜戦争で戦没、殉職された方々の慰霊のための五輪塔であり、平成12年3月に建立された。
・右手の五輪塔は、第二相模野海軍航空隊における普通科練習生殉職者の慰霊塔である。
 この航空隊は昭和18年に開隊した航空整備員の教育訓練部隊である。なお、刻字中、特幹と
 あるがこれは陸軍の特別幹部候補生のことと思われる。なぜここに書かれているか不明である。
 蓮慶寺の住職によって建立された。
・中央は、飛行機整備予備学生の戦没者の方々の慰霊塔である。第六期は、追浜海軍航空隊
 に昭和18年頃に入隊されたものと思われる。
・左手は、昭和18年2月8日に沈没した龍田丸の乗員の慰霊塔である。龍田丸は昭和5年に就役した
 日本郵船の遠洋客船で、太平洋戦争中は海軍に徴用され、トラック島への兵員輸送中、米潜水艦
 ターポンの魚雷攻撃により撃沈され、乗組員198名、乗船員1283名の計1481名全員が死亡した。
 碑文から判断すると、住職は龍田丸船長の次男であると ネットより。
塔高175cm、台石10cm。



「本堂」を斜めから。



そして「蓮慶寺」の横にあったのが「山王社」。
ここも「蓮慶寺」の境内なのであろう。
大和市福田1279.



小さな「社殿」。



「内陣」。



「石祠」。



「山王社」の社殿前から「蓮慶寺」の屋根、墓地を見る。



更に北に向かって進むと、民家の屋敷の中にも神社が。
子供の頃は、我が実家の屋敷内にも神社があったことを想い出したのであった。



そして東海道新幹線のガード下を通過。



「第2引地Bv 42K718M」の表示プレート。
 Bvとは「架道橋」のこと。BはBridgeの略。
鉄道が道路を渡る橋である。高架式の鉄道でよく見られるほか、地平を走る鉄道でも道路が
線路の下を通っている場合は、架道橋と呼ばれるのだと。
逆に道路が鉄道を渡る橋は跨線橋(Bo)であるが、これは道路橋の範疇である。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.09.05 06:01:27
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