JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

×

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

箱根一泊旅行 (その5… New! オジン0523さん

2026年5月 京都府立… New! 隠居人はせじぃさん

【椿 名前が分からぬ… Gママさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん
noahnoah研究所 noahnoahnoahさん

Comments

オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 予約時に保養所から確認の電話があるけど…
JINさん@ Re:再び大涌谷へ(05/16) Dさんが申し込んで下さいましたが、朝食を…
オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

Calendar

2019.04.24
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

更に旧東海道の蒲原宿の街並みの中を進む。



『​ 「蒲原宿」案内板 ようこそ蒲原へ! ​』⬅リンク。
蒲原宿の名所・旧跡が一つ一つ詳しく説明されていた。
江戸方面からの入口にも欲しい案内板。



うなぎ、桜えびの文字に誘われて、昼食の店に向かうこととした。
時間は12:12。



旧東海道を左折し東海道線方面に向かう。
山の頂上には蒲原城跡があるとの道標。



そして『蒲原の味処 よし川』に入る。



店の暖簾にはうなぎの『う』の字が。



「黄金丼」を注文。
サクサクの桜エビの天ぷらがたまりません。これぞ絶品のランチ。



昼食に満足し、再び蒲原宿の街並みに戻る。
『高札場跡』
蒲原郵便局の先の柵区防災倉庫の前に高札場跡の立て札のみがあった。
「高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のことで、辻札ともいわれました。
宿場や村には必ず高札場が設けけられ、民衆に法令や定を周知させていました。
正徳元年(1711)に出された五高札が有名で 
①伝馬(てんま)に関する定 
②忠孝を奨励する定 
③毒薬や贋金銀(にせきんぎん)売買禁止の定
④切支丹宗門禁制(きりしたんしゅうもんきんせい)の定 
⑤火付(放火)重罪の定 
が墨書(ぼくしょ)されて掲(かか)げられていました。
また貨客(かきゃく)運搬の駅場や人足の賃金も改定のたびに掲(かか)げられました。 」



『御殿道跡』。



「かつて、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を
慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が
東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなりました。
御殿の正確な位置はわかりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。
背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。
ちなみに、寛永十一年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました」。



更に蒲原宿を進む。



『旧五十嵐歯科医院』。




この建物は、町家を洋風に増改築した擬洋館風建築と呼ばれるもので、外観は洋風、

水道が無かった時代、井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っているのだと。



旧五十嵐歯科医院の先は昔の面影を残す宿並みが続いていた。



国登録有形文化財 志田家住宅主屋 』。



「蔀戸(しとみど)のある家 国登録文化財「志田家住宅主屋」


商家でした。安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側二階建て部分は、
「通り土間1列型」と呼ばれる町屋形式の典型です。

長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは
取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たしました」



『東海道町民生活歴史館・東海道57次 中山道67次交流館』にもなっていた。
「東海道は江戸と京都を結ぶ主要ルートとして徳川家康が慶長6(1601)年に定めた。
途中には公用の人や物資、通信物などを次の宿まで運ぶ「宿駅」を置き、当初は四十数駅が
あったとされる。その後、大坂城の再建を始めた2代将軍・徳川秀忠が、豊臣秀吉の制定した
京街道(京都~大坂)を加え、新たに4つの宿駅を置いた。
歌川広重が江戸時代後期に手がけた浮世絵「東海道五十三次」は江戸~京都間だったが、

江戸時代の「宿駅制定証文」では、元和2(1616)年に守口宿が制定されたことが記されている。」



『美しい格子戸の家(増田家)』。



「格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つです。
細い角木(かくぎ)を縦横に間をすかして組み、窓または出入口に取り付けますが、
組子の組み方にも幾種類かあり、また、組子だけで吹通しのものや、面に板を張るものなど、
気候風土に合わせた工夫がなされています。 
かっては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨(みが)き込まれた
美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でした。」 



『妙降寺』の本堂が右手奥に見えた。



格子戸の美しい増田家を過ぎて、街道が左に折れる角地に長栄寺の自然石の寺標
『長榮寺石碑』が建っていた。




長榮寺『山門』。



『本堂』。



『親鸞聖人像』。



『鐘楼』。



昔の水場?







『蒲原宿 西木戸』。



『西木戸・茄子屋(なすや)の辻』 
蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。 
もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、
元禄十二年(一六九九)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったと
される現在の地に移動しました。 

この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋(なすや))があり、「茄子屋の辻」で乱闘が
おこりました。 

承応(しょうおう)二年(一六五三)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫(じんだゆう)らが
江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで
口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒しました。
しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。 

当時の龍雲寺(りゅううんじ) 住職 が墓地に葬り、供養しました。
甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝(じほう)として、保存されています。」




『蒲原宿 西木戸』を入口側から。



『和歌宮神社』石鳥居。
西木戸跡の直ぐ先右手に和歌宮神社の鳥居があり、130mほど先に和歌宮神社社殿があった。



社殿をズームで。
永禄12年(1569)蒲原城主・北條新三郎綱重が甲斐国武田信玄との戦いに敗れ滅亡したときに
社殿や山部赤人の御神像は焼失したが、寛永11年(1634)に再建された。
ご神体は山部赤人・木花咲耶姫命であり、境内には金比羅神社・貞享3年(1686)の
庚申塔・忠魂碑などがあると。



蒲原宿を多いに楽しみ、更に旧東海道(県道396号線)を西に進む。



左側に朱色が鮮やかな『一乗院』。
本尊は大聖不動明王・三寶大荒神・如意輪観音を祭祀。



右手の山の上に『大山祇神社』、『霊光院』が見えた。



桜えびと書かれた大きな暖簾を店頭に掲げた店。



蒲原駅の手前。



そして上を走るのが東名高速道路。




                          ​ その5 ​  に戻る

                  ・・・​ つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.04.28 14:52:15
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: