JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.04.28
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​ ​ 『旧東海道を歩く』ブログ 目次 ​





『東海道 興津宿』のモニュメント。



『興津の歴史』、『東海道について』、『興津宿の規模』、『興津宿の旅館分布図』
『興津宿の名所案内』について説明されていた。
「興津の歴史
興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち十七番目の宿場町として栄え、
興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名はかつて「奥津」「息津」
「沖津」とも呼ばれていました。 
興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置する
ことから、古代より清見寺山下の清見関は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を
果たしました。 
鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに
居館を構え、薩埵山に警護関を設置しました。 
慶長六年(1601)東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。
興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。 
江戸時代中~後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は
明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。 
  
東海道五十三次について
慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いで天下の覇者になった徳川家康は、東海道、中山道、
甲州街道、日光街道、奥州街道など街道の整備を行いました。 
なかでも特に東海道は、朝廷のある京都と政治の拠点である江戸を結ぶ重要な幹線道で、
家康は、ここに宿駅をもうけ、東海道伝馬制度を実施しました。宿駅の数は次第に増え、
寛永元年(1624年)に五三を数えるようになりました。東海道五十三次の誕生です。 
以来、東海道五十三次は、参勤交代制度の大名行列や庶民の旅、商人の通行などによって
飛躍的な発展を遂げました。

興津宿の規模
東海道一七番目の宿場ですが、東の由比宿には二里十二町(9.2km)の
距離があります。
その過程に親知らず子知らずの難所「薩埵峠」があり、西に至る旅人は峠を超えて
ほっとするのが興津宿であり、東に旅する旅人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を超え
由比宿に至ります。 
また、西の江尻宿には一里ニ町(4.2km)ですが、川や山の難所とは異なり平地である
ことから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。 
興津宿の宿内、町並みは東西に十町五十五間(1.2km)人馬継門屋場一ヶ所、問屋二軒、
年寄四人、帳附四人、馬指五人、人足差三人、宿立人馬百人百匹 
天保十四年(1843)宿内家数三百十六軒、うち本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠三十四軒、
人数千六百六十八人(男八百九人女八百五十九人)でした。」



『興津宿の名所案内』。



興津の地図。



『清見ヶ関跡』。
白鳳時代、東北の蝦夷襲撃防備の為に、大和國、山背國と共に、駿河國清見崎に
設置された関所跡。関所鎮護として開寺されたものが清見寺であると。
「跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中( 673 年 - 686 年)に設置されたとある。
その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河の国や
京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。
清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりと
いわれている。 1020 年、上総国から京への旅の途中この地を通った菅原孝標女が後に記した
更級日記には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも
柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが伺える。
その後、清見関に関する記述は吾妻鏡や平家物語の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、
鎌倉時代になると、律令制が崩壊し経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み軍事目的と
しての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった。
設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、
廃れた後もこの地を表す地名として使用された。」とウィキペデイアより。



関所の建物の柱の礎石。
「往古、この付近に関所あり。白鳳年間の(680)設置と言ふ。警護の兵駐屯し、
往来を監視し、治安の維持に努めた。永禄年間、其の必要をなくし、撤廃せられた。」



説明が書かれている支柱は朽ちて。ネットで調べてみると
「徳川時代、興津代官領と、清見寺領の境に、又、濁沢秋山領と、清見寺との境に
榜示杭があった。この礎石は、興津代官領との境のものなり。」と。



こちらが東側の入口、裏門(手前清見ヶ関跡)。
こちらの門の先には、JR東海道線の歩行者専用の踏切があった。



裏門右側には「河村孫太郎墳 元和三年」と。
この人物は誰?ネットで調べてみたが辿り着かず。
元和元年には大坂夏の陣、元和二年には徳川家康死去そしてその翌年であるが。



『大正天皇在東宮海水浴御成道』
明治22年に東海道線が開通してから、大正天皇が嘉仁皇太子殿下時代に電車で来られ
清見寺に滞在され清見潟で海水浴を楽しまれたと。
この事から、興津清見潟は海水浴場として全国に知れ渡るようになったと。



左から本堂と鐘堂、庫裡がが見えた。
清見寺は、静岡市清水区興津の山の中腹に位置。
境内からは清見潟の海が少し見えたが、かって前面には「袖師海水浴場」の広い砂浜があり、
JR東海道本線の「袖師駅(そでしえき)」(廃駅)は多くの海水浴客が利用したのだと。



「白鳳時代(7世紀)天武天皇のとき、鎮護の関寺として清見ヶ関とともに法堂が
建立されたのが創建と伝えられ、東海道屈指の名刹です。
徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられていました。清見寺には家康が愛した
清見寺庭園(江戸時代初期の作)や家康手植えの臥龍梅、宗版石林先生尚書伝、梵鐘、
山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの指定文化財もあります。
その他五百羅漢像はそれぞれ違った表情をしており、島崎藤村の「桜の実が熟する時」の
一節にも登場します。琉球王国の親善使節の一員だった琉球王子は駿府で急死し、
当時外交的役割を果たしていた清見寺に葬られています。
平成6年には境内全域が朝鮮通信使関係の史跡に指定されるなど、歴史の宝庫と
なっています。」



『清見寺 見学の案内』。



『清見寺 案内図』。



階段上に清見寺『総門』が。
「総門は、広大な寺院の敷地への入口に当たる門で、旧東海道から階段で導かれています。
前面に袖壁が張り出しているのは、地形的にみると門の高さで左右に塀が伸びていたのでは
ないかと考えられます。鉄道が通るために、進入路を跨線橋で山門に導くため、擁壁により
道が急勾配でかさ上げされ、門の裏側を通ります。このため、当時の伽藍配置に想像を
働かす必要があります。全体の姿は、石垣の上に忽然と現れた感じに見え、非常に違和感を
覚えます」と。



総門の扁額には「東海名區(とうかいめいく)錦谷居士(朝鮮通信使随行員)筆」と。



『清見寺跨線橋』
清見寺の境内を東海道線の線路が横切っていた。
明治22年(1889年)2月1日に鉄道開通の際に古刹たる清見寺境内を通過。
時の住職は政府から見舞金を払下げられるも国益の為と政府に寄付したと。



JR跨線橋への坂の途中から清見寺を見る。



東海道線の興津駅方面。
東海道線の建設により境内が分断されたことが理解できたのであった。



昔の『清見寺の鐘樓 汽車』の写真。
蒸気機関車が白煙をモウモウと上げて。



跨線橋を渡り右折して進むと左手正面に清見寺『山門』が。慶安4年(1651年)竣工。
虹梁上に見事な彫刻が。山門は釘を一本も使っていないのが特徴だと。
山号は、巨鼇山(こごうさん)清見興国禅寺 。
徳川家康は、幼い頃に今川家の人質として駿府に居住して、当寺の住職・「太原雪斎」に
師事し勉学に励んだため、後に清見寺は徳川幕府から特に庇護されたのだと。



中央にある彫刻は左甚五郎の弟子の作と伝えられていると。



山門前には供養塔:石造二層塔とその背後に六地蔵が。



『六道地蔵尊』。



石造二層塔の供養塔。



供養塔は『田中清左衛門 逆修塔』。
『逆修』とは生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。
そのために建てる石塔婆を逆修塔というのだと。
父親は田中傳左衛門尉長名。田中吉政の家臣で、
関ヶ原の合戦で石田三成を捕縛する大功をあげたと。



『仏殿』。
白鳳時代(7世紀)天武天皇のとき、鎮護の関寺として清見ヶ関とともに法堂が
建立されたのが創建と伝えられ、東海道屈指の名刹です。徳川家康が幼少の頃、
今川の人質として預けられていました。
清見寺には家康が愛した清見寺庭園(江戸時代初期の作)や家康手植えの臥龍梅、
宗版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの
指定文化財もあります。その他五百羅漢像はそれぞれ違った表情をしており、
島崎藤村の「桜の実が熟する時」の一節にも登場します。琉球王国の親善使節の一員だった
琉球王子は駿府で急死し、当時外交的役割を果たしていた清見寺に葬られています。
平成6年には境内全域が朝鮮通信使関係の史跡に指定されるなど、歴史の宝庫となっています。
天保年間(1830~1843)に改築され。正面に釈尊、迦葉、阿難の三尊を奉安し、背後に
三開山の木像と足利尊氏の木像が安置されいます。



清見寺『由緒』
「当山は禅臨済宗て、古来より景色の美しさで名高かった。寺の始めは古く奈良朝時代此地に
関所が設けられ其の守護として傍に仏堂が建立せられたのが始めと伝えられる。
而し寺として基礎の固ったのは鎌倉時代(一二六四)後足利尊氏此の寺を再興(一三四二)
徳川時代を経て今日に至った。
その間、幾度か戦渦を受けたるも再建復興してきた。

境内概観
山 門   慶安四年(一六五一)建立
仏 殿   天保一三年(一八四四)建立
大玄関   元和ニ年(一六一六)建立
大方丈   文政十一年(一八二八)建立
鐘 楼   文久三年(一八六二)建立
五百羅漢  天明八年(一七八八)彫造
観音胴像  昭和十三年(一九三八)彫造
臥龍梅   徳川家康手接
名勝庭園  江戸初期作庭​」

寺宝 は宋版石林先生尚書伝(重要文化財)、朝鮮通信使遺跡清見寺境内(国の史跡)
庭園(国の名勝)



『室町時代の清見寺』
「室町幕府を開いた足利尊氏公は、深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔を建立して
戦死者の霊を慰め、天下大平を祈りました。又室町幕府は清見寺を官寺と定め、
日本を代表する寺ということで「全国十刹」の中に置き保護しました。
室町時代に駿河を領せし今川氏は、足利氏と祖を同じくする関係により、常に清見寺を
外護しました。六代将軍足利義教、駿河富士遊覧に下伺せし時には、今川範政これを迎えて
清見寺に来り和歌などを詠じて清遊しました。
この時代、画僧雪舟も清見寺に来り、後年富士・三保・清見寺の景色を画いています。」
海が山門の手前まで迫っていた事が理解できる。



『五重石塔』。
山門左側にあるのは白隠禅師撰文の五重塔。白隠禅師が撰文したという庵原平四郎物語
(庵原平四郎(山梨了徹居士)の得道の因縁の物語)の一部が記されていると。
白隠禅師は「駿河には過ぎたるものが2つある。富士の高嶺に原の白隠」と詠われた。



『国指定史跡 朝鮮通信使遺跡』。
これも日本語、英語、ハングル語で併記されていた。
清見寺は慶長12年(1607年)から朝鮮通信使の宿泊場所や接待場所になって来たと。
「江戸時代における平和的な日朝交流の象徴であった朝鮮通信使は、豊臣秀吉による
文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復するために徳川幕府側が
提案した外交政策のひとつです。
清見寺は、徳川将軍の代替わりのたびに派遣された使節(朝鮮通信使)の休憩場所として
何度も利用され、慶長12年(1607)に派遣された江戸時代最初の朝鮮通信使(当時の名称は
回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし))は、江戸からの帰路に清見寺で宿泊しました。
書画や漢詩に優れた朝鮮通信使と地域の人々との文化交流の場となった清見寺には、
朝鮮通信使が書いた漢詩や、それを木に彫り写した扁額が多数残されています。
清見寺は、当時の遺構が良好に残っていることから、鞆福(ともふく)禅寺境内(広島県福山市)、
牛窓本蓮寺(うしまどほんれんじ)境内(岡山県瀬戸市)とともに平成6年10月11日に,
国の史跡に指定されました。」



『海會塔』。
「大正4年、東京の実業家町田徳之助氏により建立された。18世宗詮和尚の遺骨が
初祖として納められ、川の水が全て海に集まるごとく、死ねば皆同じところで会うのだと
いう意味をこめて、納骨堂は『海會塔』と名付けられた。」



再び近づいて『仏殿』を。
正式には「巨鼇山 清見興国禅寺」と称し、仏殿に「興国」の文字が見えた。
仏殿の扁額「興国」は1655年の朝鮮通信使・趙翠屏の揮毫。趙翠屏は詩文も残していると。



仏殿の真正面に『興國(こうこく)』と書かれた扁額が。



仏殿内部。
床の四半瓦敷が特徴であると。仏殿正面には木坐像が祀られていた。



『聖観世音菩薩銅像』。
江戸時代中期の天明年間(1781 - 1788年)の彫造で作者は不詳。



与謝野晶子はこの尊像を拝して 
「清見寺 海を仰ぎて うろくづも 救はれぬべき 身と思ふらん」と
御慈徳を讃して詠じたと。



多くの五百羅漢石像が境内の小山の斜面に並んでいた。
五百羅漢の石像は、江戸時代の中期・天明年間(1780年代)に制作されたものと。



「五百羅漢石像
釈迦如来の御弟子で仏典の編集護持に功績のあった方々です。
江戸時代中期(天明年間)の彫像にして作者不詳形相悉く神異非凡の作であります。
此の羅漢尊者の群像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっています。



一体一体ユニークな顔立ちの五百羅漢石像。



苔むした石像に長い歳月を感じるのであった。
知人の顔に似ている石像はいないかと。



卒業した会社の同僚に似ているような・・・。



後生車(輪廻車、手車石、禊石)と「島崎藤村著「桜の実の熟する時」の小説の一節」の
説明板が五百羅漢石像と向かい合うように。
この羅漢尊者の群像は、島崎藤村の小説・「桜の実の熟する時」の最後の場面に登場すると。



「島崎藤村著「桜の実の熟する時」の小説の一節。
興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを
見せた青苔の蒸した五百羅漢の石像があった。起ったり坐ったりして居る人の形は生きて
物言ふごとくにも見える。誰かしら知った人に逢へるといふその無数な彫刻の相貌を見て行くと、
あそこに青木が居た、岡見が居た、誠之助が居た、ここに市川が居た、菅も居た、と数える
ことが出来た。連中はすっかりその石像の中に居た。捨吉は立ち去りがたい思をして、
旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆とを取出し、頭の骨が高く尖って口を開いて哄笑して
居るやうなもの、広い額と隆い鼻とを見せながらこの世の中を睨んで居るやうなもの、
頭のかたちは円く眼は瞑り口唇は堅く噛みしめ歯を食いしばって居るやうなもの、
都合五つの心像を写し取った。五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌を偲ばせる
やうなものもあった。磯子、涼子それから勝子の面影をすら見つけた。」



『向井氏 供養塔』
向井氏墓塔3基(向井正重・政勝・政綱)が五百羅漢に包まれるような形で
通路沿いに並んでいた。




                                ​ その1 ​に戻る

                  ・・・​​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.04.28 14:54:52コメント(0) | コメントを書く


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