JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2019.05.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次


日本橋からの距離は243.4km。



『三本松御旅所』。
御旅所は神輿巡航の際、神輿が休む場所です。見付天神裸祭や祇園祭の神輿は

また裸祭の道中練りもここで折り返します。 




『三本松橋 別名なみだ橋』
かつてこの先の街道筋に遠州鈴ヶ森(三本松)刑場があり、罪人を見送る縁者が
ここで涙を流し見送ったのであろう。



見付東坂上にある大正4年(1915年)建立の『秋葉山 常夜燈』。
この灯篭は大正時代に建てられたものだが信仰の厚さが見受けられます。



見付東坂を下る。



左手に『東海道と愛宕山』の案内板が。
「見付宿を一望できる愛宕山には、愛宕神社が鎮座し火防の神として人々の信仰を
集めました」とあります。
この付近は秋葉神社といい、愛宕神社といい火防に関する神様が信仰を集めるようです。



『愛宕神社』への階段を登る。



『愛宕神社』社殿。
社殿の左側、山の上に石碑が見えたので更に道なき斜面を登る。



『阿多古山一里塚跡』の石碑。



磐田市指定史跡 『阿多古山一里塚』
「関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、東海道の整備を進め、慶長9年(1604)には1里塚に
距離の目安として小山(塚)を築きました。これが一里塚で、磐田市内には宮之一色と
見付にありました。見付の一里塚は、愛宕神社が鎮座する愛宕山にあったことから、
愛宕神社の旧名から「阿多古山一里塚」と呼ばれます。
一里塚は5間(9m)至宝の土台に高さ2~3mの円形の小山を築き、塚の上には
榎や松などを植えました。
明治時代に也多くは壊されてしまいましたが、阿多古山一里塚は見付地区の財産として
街道の両側に残され、昭和42年11月3日に旧磐田市の史跡に指定されました。
阿多古山一里塚は、江戸から62番目にあたり、北の一里塚には、椎、南の一里塚には
松が植えられたと言われています。」



愛宕神社の境内からは、見付宿の宿場町を眼下に見ることが出来た。



愛宕神社をあとにし見附宿中心に向かう。
ここには川があったのでしょうか?橋がモニュメントとして架けられていた。



道路右手奥に『見付天神社』の石鳥居が
正式には矢奈比賣神社で、「裸祭り」が8月の中旬に行われると。
この神社は訪ねず、ここからの写真のみ。



『祈 幸せをもたらす元号でありますように』と店の窓に早くも『令和』の元号が。



現代版道標も。



旧東海道『見付宿場通り』を更に進む。



『見付宿史跡』案内図。


          【 http://www.asa1.net/siseki-meguri/mituke/index.html 】より。


整備された歩道には見付を代表する「見付宿」の当時の姿や磐田市の花、鳥などがタイルに
埋め込まれていて見事。かなり道路は広く旧道とは思えないのであった。



『見附十七小路』という表示も歩道路面に。
寺院・神社・史跡等の位置が記されており、史跡巡りには便利であろう。
「小路の奥に明治中頃にできた浜松市始審裁判所見付出張所(後の法務局)があったことから
小路の名称となりました。現在は住宅地となり、その面影はありません。」



『JA遠州中央 見付支店』が右手に。



その前に『東海道・見付宿』の当時の地図が。



『東海道分間絵図』
道中図(どうちゅうず)は、江戸時代に作成された陸路や海路を記した絵地図で、
今日の道路地図と観光案内を組み合わせた要素を持つ。
元禄3年(1690)に遠近道印(おちこちどういん)が「見返り美人図」で知られる
菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)と共に製作した「東海道分間絵図」は、
代表的な道中図のひとつであり、1/12,000の実測図上に河川や橋梁・宿場町・一里塚
名所旧跡などが師宣の絵によって詳細に描かれている。
江戸時代に描かれた見付宿/東京国立博物館所蔵。



『東海道見付宿案内板』
こちらは現代の地図のようであった。



『天神の木 東坂梅塚』。
梅塚というのは、見付天神の祭りの夜、怪物に娘をさしだした家の前にそのしるしとして
植えたものだといわれていると。鎌倉時代の話であると。



『丸中 大橋商店』
屋号丸中は江戸時代に浜松にて中兵衛という米屋を営んでいたことに由来。
明治10(1877)年に酒屋を始め、現在四代目。店の裏には今でも当時のトロッコが働くと。



『曹洞宗 宣光寺』。
地蔵堂内には日本三代地蔵の一つとされる高さ1.4mもある平安時代作の
木彫り座像「延命地蔵菩薩」があると。
この地蔵は、徳川家康が追っ手から逃れるために見付の街に火を放った時、
幼児の姿になって、やけどを負いながらも火を消して回ったという言い伝えがあり、
身がわり地蔵さんとも呼ばれていると。
そのほか、境内には、徳川家康寄進の梵鐘もあると。



『地蔵小路』。
「小路の奥手には延命地蔵をご本尊とする宣光寺があります。
昔からお地蔵ご開帳の日には大変なにぎわいを見せていたことから
地蔵小路とよばれてきました。」



今之浦川に架かる橋が前方に。



『今之浦川』、
火の見櫓であろう。鉄骨造 (アングル),櫓型,4本脚,むくり屋根,銅板葺きの
火の見 櫓の頭頂部とユニークな形状。



『中川橋』。



『大見寺』の案内板と『東海道見付宿』石碑。



旧『寺小路』と刻まれた石碑。



見事な灯籠。



山門。



『大見寺の文化財』。
「見付端城(みつけはじょう)
中世には、境内に今川氏によって築かれた城がありました。
江戸時代の絵図には、大見寺を取り囲むように見付端城の土塁が描かれています。
現在もこの土塁の一部が西と南にわずかに残っています。

良純法親王供養塔(墓)
法親王は、107代後陽成天皇の第八皇子で、万治2年(1659)頃縁あって見付に滞在
しました。弟子だった大見寺第11代住職によって供養塔が建てられた。

鳥人・幸吉の墓
岡山県出身で江戸時代中頃に、日本で初めてグライダーのような翼で空を飛びました。
晩年、見付で暮らしたといわれている」



大見寺の境内の桜も満開。



『三界万霊供養塔』。



本堂。
『日照山 光明院 大見寺』



『日照山』と書かれた扁額。



『浄土宗歌 月かげの いたらぬ里は なけれども 心にぞすむ』。



芍薬の花も終わりか。



様々な石碑、石仏が境内に。



境内社。



境内から山門を見る。



『寺小路』。
「大見寺に通じることが小路名称の由来です。また大見寺境内には、三代将軍徳川家光の
休憩所「御茶屋御殿」があったことから「御殿小路」ともよばれていました。」 



静岡銀行前に『問屋場跡』。
残念ながら説明案内板は見当たらなかった。



『御証文屋敷、安間平治弥邸跡』
「平次弥は本名弥平次。名は禮、字は伯啓、号は九渕と称し、漢字の素質があって
詩文もよくした。
徳川家康から代官に任命され、甲州武田軍を退去させた功績で家康に平次弥と改名させられ、
名字帯刀を許されて、見付に住むように申しつけられた。
庭には清水が湧出し年中枯れる事が無く、之を家康に薦めたので「御清水」というようになった。
家康の休息場として利用されたといい、今も清水が中川に流れ込んでいる。
町名もこれにあやかって、清水町という。
安間家には代官からの証文が残され、「御証文屋敷」と呼ばれていた。」



更に旧街道を進む。



反対車線側にも隠れるように。



『遠州見付宿 脇本陣跡』。
説明案内板はここにもなし。



『酒の無いよな極楽よりも落ちて地獄の鬼とのむ』と。



懐かしい手押し井戸ポンプの姿が。




                               ​ その8 ​  に戻る。

                                                      ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.05.01 11:59:14
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