JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.08.09
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カテゴリ: 海外旅行
そして次に訪ねたのが、『水师营会见所(水師営会見所)』。

営とは軍の駐屯地のことであった。
日露戦争の旅順要塞攻囲戦は、明治37(1904)年)8月19日〜明治38(1905)年1月1日まで、
約4ヶ月半にわたって行われた要塞戦であった。
この戦いで、日本は戦死が約1万6千名、ロシア側も約1万人を失ったと。
1905年1月5日、水師営会見(旅順停戦条約)が旅順水師営のあるこの農家で締結されたのだ。
ここ会見所は、旅順から北西四キロばかりに地点、水師営の一民屋なのであったと。
附近の家屋という家屋は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていたと。

屋根に大きな赤十字旗をひるがえしていたからであるのだと。



『水师营会见所』入口。入口の上には「會見所」と書かれた板が。



乃木大将(司令官)、ステッセル中将(司令官)を中央に、ロシア人4名、日本人7名の
総勢11人の記念写真が撮影されたという場所。
角に植えられているのは棗(なつめ)の木の子孫であろうか?
文部省唱歌「水師営の会見」の二番には、
「庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木 弾丸あともいちじるく・・・」とある。
ステッセルが会見場に着いたときに、馬の手綱をかけた木だという。
司馬遼太郎は「坂の上の雲」に、「「水師営の会見」の歌の歌詞にあるように、
門を入って左の泥塀に沿って棗の木がある。」と書いていると。
まさにそのあたりに位置する木である。

放置されていた。この辺りが、この日露戦争の歴史に対する中国人の感覚なのであろうかと。



『水师营会见所』外観。
もともとは地元の農民の家を夜戦病院として利用していたものだと。
当時の建物は文化大革命で破壊され、今の建物は後に復元されたものだと。
屋内には当時の写真と文章が展示され、また会見で使われた机や椅子の復元や

屋根の一部には草が生えていたが、この建物は1996年に復元されたものであると。
これらの場所を見ると、こんな遠いところに当時の日本人の生活があったことが
不思議に感じられたのであった。



『水师营会见所』案内板。



ズームで。何故か日本語での説明文は書かれていなかった。
旅順龍河の北岸に位置し、清朝時代には清軍水師の駐泊地であったことから、水師営の故名が
付いたことから始まり、1905年1月5日の日露の終戦会見が行われ、戦後の1906年に
日本当局により、『水師営会見所』の碑が置かれたことなどが説明されていた。



屋根は丸太を使った茅葺。



入って右側の203高地の戦場写真の前で、無料で女性ガイドが説明してくれた。



水師営の会見は、旅順降伏文書の調印が行われた3日後の1月5日午前11時過ぎから行われた。
10時30分、ステッセル将軍は参謀長のレイス大佐、マルチェンコ、レブレスコイ両少尉と
6人のコサック騎兵を連れて水師営に到着。
一方、乃木将軍ご一行はやや遅れて11時15分に会見場に入った。
乃木将軍に同行したのは、伊地知参謀長、津野田、安原、松平の三参謀、それに川上書記官の
計5名で、会見は両将軍が双方の軍隊の健闘を称え合い、先日までの激戦が嘘のような
和やかな雰囲気の中で行われたという。
まさに昨日の敵は今日の友なのであったと。
水師営会見の様子は「​ 水師営の会見 ​」👈リンク という文部省唱歌に描かれているのだと。
♪♪♪♪♪♪
1.旅順開城(かいじょう) 約成(やくな)りて 敵の将軍 ステッセル
  乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営
2.庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木 弾丸あとも いちじるく
  くずれ残れる 民屋(みんおく)に 今ぞ相(あい)見る 二将軍
3.乃木大将は おごそかに、 御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の
  大(おお)みことのり 伝(つと)うれば 彼(かれ)かしこみて 謝しまつる
4.昨日(きのう)の敵は 今日の友 語ることばも うちとけて
  我はたたえつ かの防備 かれは称(たた)えつ わが武勇
5.かたち正して 言い出でぬ 『此の方面の戦闘に 二子(にし)を
  失い給(たま)いつる 閣下の心如何にぞ』と
6.『二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門(ぶもん)の
  面目(めんぼく)』と 大将答(こたえ)力あり
7.両将昼食(ひるげ)共にして なおもつきせぬ物語
  『我に愛する良馬(りょうば)あり  今日の記念に献ずべし』
8.『厚意謝(こういしゃ)するに余りあり 軍のおきてに従いて
      他日我が手に受領せば ながくいたわり養わん』 
 9.『さらば』と握手ねんごろに 別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり)
     砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に ひらめき立てり 日の御旗(みはた)
♪♪♪♪♪♪

壁には多くの歴史的な写真が展示されていた。







『在203高地建子弾形塔』
203高地山頂の「爾霊山」と書かれた建立当時の「爾霊山塔」。



旅順戦蹟 旅順港口閉塞隊の記念碑。
この記念碑が建てられている土地、第3回閉塞作戦時に没した31名をロシア軍が
葬っていた場所であったと。



『1905年1月5日・乃木希典同斯特塞尓在水師営会見所合彰』のタイトルがあった写真。
後列左から、川上外務書記官、安原大尉(参謀)、マルチェンコ中尉(参謀)、
松平大尉(副官)、渡辺少佐(管理部長)、
中列に、レイス少将(参謀長)、乃木大将(司令官)、ステッセル中将(司令官)、
伊地知少将(参謀長)、
前列には、ネベルスコーユ中尉(参謀)、津野田大尉(参謀)と、
以上、ロシア人4名、日本人7名の総勢11人が写っていると。
会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセルが祖国のため
力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じたのだと。
よって従軍記者からの再三の要請があっても、乃木大将はロシア軍人の名誉を重んじ、
この写真1枚だけの撮影しか認めなかったのだと。
そしてこの時、乃木将軍はロシア軍人としての名誉を重んじてステッセル将軍の
帯刀を認めたと。
こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され
賞賛されたのであったと。



水師営会見所の外で撮影されたロシア軍兵士と馬。そしてステッセル将軍達に随行した兵士。



『水师营会见所』。入口の石垣は大きく崩れて。



『东鸡冠山北堡塁』。



『东鸡冠山北堡塁』の坑道作業をする日本軍の姿。



そして入口の左の部屋に向かう。
ドアの上には内部「撮影禁止」の文字が。



入口手前からズームで。



右手が会見の机。



乃木希典の『金州城下の作』の七言絶句は、中国の専門家からも高く評価されている漢詩と
紹介されていた。
山川草木轉荒涼  十里風腥新戰場
征馬不前人不語  金州城外立斜陽
現代語訳は、
山も川も草も木も、荒れ果てて見る影も無い。
戦があったこの場所では、十里にわたって風が血なまぐさく感じられる。
軍馬は進まず、将兵たちは押し黙っている。
夕陽が傾く金州城外に、私はただ立ちつくす。
希典の長男、勝典が戦死した戦いであったとのこと。



左手には『乃木希典』像があった。



廃屋の如き姿であったが。



庭の片隅にあった石碑。



展示館内は土産屋の如くであった。



中国の人にとっては自分たちの土地で日本とロシアという外国が勝手に戦争をして「
取った、取られた」と言っていたのは迷惑至極のこと。
この場所は中国人にとって決して愉快な場所ではないはず。
特にここ水師営の会見所は日本人しか訪れることのない場所とのことで、
地元の方々にもあまり知られていない場所であると中国人の添乗員から。

この日の昼食は、会見所の横にある海鮮料理店で。



入口には料理メニューの写真がズラッと。



中華料理もさすがに飽きてきたが。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2019.11.02 00:08:26
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