JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.10.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次


向かって進む。
国道1号線を進み、島田金谷バイパスの新大井川橋を渡る。



そして、途中折れる道を間違ったが何とか『諏訪原城ビジターセンター』に到着。
時間は12:08。
続日本100名城に選定された国指定史跡諏訪原城跡。今年の3月23日に、ガイダンス施設
「諏訪原城ビジターセンター」がオープン。
施設には諏訪原城内の杉やヒノキを一部使用している。



ところがこの日は『休館日』。
続日本100名城スタンプを頂きに訪ねたのだが・・・・。



『諏訪原城ビジターセンター』横に『屋外の城内入口にもスタンプあります』の表示板を
発見する。



あったあ!!



スタンプを何とかGET。



『国指定史跡 諏訪原城跡』。
この場所は今年の4月3日に訪ね『​ ブログアップ済み ​』👈リンク。



そして次に訪れたのは、これも続日本100名城の『高天神城』のスタンプの置いてある
静岡県掛川市下土方267−1にある『大東北公民館』へ。



『ようこそ 高天神城へ 続日本100名城 公式スタンプはこちらです』



高天神城の絵図。
この高天神城跡も今年の5月22日に訪ね『​​ ブログアップ済み ​』👈リンク。



スタンプを押す旅友。



スタンプを頂きました。



掛川市二の丸美術館にて、展覧会『難攻不落の山城 高天神城と 江戸の華 横須賀城』が
行われていると。
「掛川市内に古代から近代にかけて作られてきた様々な城のうち、戦国時代から江戸時代にかけて
重要な役割を果たした高天神城と横須賀城を紹介します。
高天神城は、徳川と武田が雌雄を決するまで攻防が続けられた戦乱の城です。
横須賀城は高天神城攻略を目的とした徳川の付城として築城された後、江戸時代には横須賀藩を
治める政治の中心として明治時代までその役割を全うした城です。
平成30年度展覧会「掛川城と高知城 山内一豊と歴代城主ゆかりの遺品」より継続し、
郷土の戦国から江戸時代に焦点を当てた展覧会です。
また、駿府城・掛川城・横須賀城出土瓦も特別展示します。」と。



そして次に急遽『横須賀城跡』を訪ねることに。



県道38号線を進む。



掛川市 大須賀浄化センターの風力発電装置であろうか。



そして『横須賀城跡』に到着。



戦国時代末期、この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いた。
天正6年(1578年)徳川家康は家臣の大須賀康高(初代城主)に命じて高天神城攻略の
拠点として横須賀城を築かせた。天正9年(1581年)高天神城は落城と共に廃城となり、
横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられた。
以後、明治維新で廃城となるまでの288年間20代の城主を数える。
明治元年(1868年)20代城主西尾忠篤は明治維新の動乱のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に
移され、横須賀藩は静岡藩に含まれることとなった。横須賀城は明治2年8月に廃城。
さらに明治6年には城内の土地、建物、石垣、樹木まで民間に払い下げられたが、
城跡消滅の危機に住民から保存の声が上がり、昭和56年5月8日付けで国の史跡に指定された。



『国史跡 横須賀城跡』。
「初期段階の横須賀城の主郭部分と考えられる松尾山と本丸は、小笠山丘陵の先端部に山城として
築かれ、近世中期までに二の丸等の平城部分が拡張付加されて、現在の横須賀城が完成したと
考えられている。近世中期までは城の手前まで海が深く入り込み、三方が入江と沼や深田に
囲まれた天然の要害の地であった。また、この入り江には横須賀湊(みなと)があり、
物流の拠点にもなっていた。
築城当時、この入り江は同じ市内にある掛川城の外堀となっている逆川の河口だったと
考えられており、当時、横須賀城と掛川城は船で直接行き来することができたと考えられている。
掛川城が陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は小笠山の南を通る浜筋道の
押えであると同時に海上交通の押えであったと考えられる。」と。



横須賀城(別称松尾城)は、平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を備え、
中世城郭と近世城郭のふたつを併せ持っている。
また、普通ひとつしかない大手門が、この横須賀城には東西にあり「両頭の城」といわれたほか、
「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣も、特徴としてあげられると。



天竜川より運ばれた玉石垣を用いた築城法である。



見える場所は全て「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣。



『本丸南下門跡推定値の遺構』。
「この区域は、天守台方面へ至る玄関のような重要な部分に当たり、自然の尾根や谷を
巧みに利用して門や塀などの施設により厳重に固められていた。一帯は平成3年度と
4年度に発掘調査が行なわれ、その成果と当時の絵図などの資料を基に、平成7年度か
ら平成8年度にかけて、復元整備工事が行われました。」



全て発掘済みの後、埋め戻されたのであろう。
西の丸方向。



天守台・土塁・城跡碑。



再び風力発電をズームで。



『本丸跡土坑群』。
土坑は様々な用途で使われる穴で、発掘調査では17~18世紀の陶磁器が出土したと。



『横須賀城阯』碑。



『天守台跡』。
江戸時代には三層四階の立派な天守があったようだが、1707年の東海地震で崩落してからは
再建されなかったのだと。



『天守台の遺構』。
「横須賀城の天守は建て坪40坪余、4層の建物と記録されています。ここからは礎石と礎石を
抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられます。
天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあります。
建物跡東側には、砂利敷きされた平滑面があり、北側には防御のため土塁がありました。
天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が、
南側からは尾の部分が出土しました。」



『天守台の遺構』。
「横須賀城の天守は建坪40坪余、4層の建物と記録されている。ここからは礎石と礎石を
抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられます。
天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあります。
建物跡東側には、砂利敷された平坦面があり、北側には防御のため土塁がありました。
天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が
南側からは尾の部分が出土しました」
天守は残っていませんでしたが、天守台から天守の規模を実感できたのであった。



史跡・横須賀城跡復原模型。



本丸周辺。



二の丸、西大手門側。



『横須賀湊と横須賀城』。
「江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘から深く入り込む入江があって、
横須賀城を天然の要害としていました。入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し
水上交通と物流の拠点となっていました。また、この入江と外堀を区切る形で中土居と
呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていました。
小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は
海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられます。
城前のこの入江は、宝永4年(1707)の宝永大地震による地盤隆起によって干し上がり
横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で
大打撃を受けたと考えられる。湊が使えなくなった以後は西方の太田川河口の福田湊まで
運河が造られて小舟が行き来しました。」



『演習横須賀城歴代城主』。



『横須賀城の大きさなど』、
『横須賀城の歴史』。
「戦国時代末期この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いて
いました。天正2年(1574)遠江国の要である高天神城が武田氏の手に落ちました。
天正8年(1580)徳川家康は、家臣の大須賀康高に命じ高天神城を奪還するための拠点
として横須賀城を築かせた。康高が初代城主となり、以後、明治維新に廃城となるま
で288年20代の城主を数えました。」



『本丸南斜面中断の遺構』。



遠くに遠州灘が。




この二の門は城内で最も大きな櫓門であったと推定されている。
さらに発掘調査では、門の台座石垣の基礎となる石の列や虎口につながるスローブ状の
石段が出土したと。



丸石の石垣は他でも見た記憶が無いのではと。



黒い石垣の石は発掘されたものであろうか?



こちらは天守への階段。



彼岸花が咲いて。



見事な玉石垣。本丸の東側の斜面。
河原石だけで作られている、他の城跡では見られない石垣の形状。
日本の城ではないような錯覚を。



『三日月池北側中断の遺構』。



本丸南側の遺構。




暗渠(あんきょ)が設けられていた。その上にある赤茶色の石は発掘調査で出土した石らしい。
現在は危険防止のため暗渠の口を扁平な石で閉じられていた。



それにしても、この『横須賀城』も続日本100名城に選ばれても良かったのではとも。


                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 15:05:59
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