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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

吉田城の豊川沿いに石垣の下を歩く。
『北御多門跡』。
北御多門は本丸の裏手側に設けられていた門。そばには鉄三重櫓が建っていた。
鉄櫓の石垣は、池田輝政が築いたといわれる吉田城最古の石垣。
そして隅櫓に向かって階段を上る。
櫓とは思えない復興三重『鉄櫓(くろがねやぐら)』。
本丸跡の一角に三層の『鉄櫓』・入道櫓が昭和29年に再建され、櫓脇の『武具所跡』から
眺める豊川の流れが美しかったのであった。
吉田城の城主は牧野古白に始まり、徳川家康の三河統一により酒井忠次の配置、
家康の関東移封による池田輝政の入城と続き、江戸幕府成立後は9家22代の譜代大名が支配し
中期以降は松平(大河内)氏が城主となった。
時間は9:52、鉄櫓の開場は10時からと。
続日本100名城スタンプを頂くために暫し待つ。
『武具所跡』から豊川の流れを楽しむ。
鉄櫓と北御多門の間にあった建物。
豊川は、愛知県設楽郡設楽町の段戸山・鷹ノ巣山の麓を水源とする、延長77Kmと、
そう長くはない川だが、この河口にそして吉田城に近いエリアは、雄大に大きく湾曲して
緩やかに流れていた。
右奥の方から流れてきた豊川が、大きく左側に湾曲し、写真には写っていませんが、
右の方から朝倉川が合流する地点。
豊川の下流側。
左手に、この後に渡った『吉田大橋』が見えた。
豊川では白鷺が羽を休めていた。
『鉄櫓』を『武具所跡』から見上げる。
そして10時になり『鉄櫓』が開門。
正面に『ようこそ吉田城へ』の文字の下に『廣重 東海道五十三次「吉田 豊川橋」』。
画面の左側に大きく描かれている吉田大橋は、豊川に架かっている橋で、江戸から京都までの
間にある四橋の1つ。豊川から伊勢へ行く早船が出ており、陸路を行くよりも三日も早く着くと、
いつも満船だったといわれています。戦国時代に、この地に今橋城が築城されて城下町になり、
後に譜代大名の努力もあって栄えました。
櫓の改装中の吉田城。足場が組まれ、職人たちが壁を塗っています。
入場料無料で資料館を見学できます。スタンプは入り口に置いてありました。
続日本100名城のスタンプを頂きました。
本丸跡は広場となっており、北西隅に『鉄櫓』が再建されていた。
吉田城『本丸御殿』碑。
築城当初のこの城の命名について、「牛窪記」には吉田城とあり、後の成立である「牛窪密談記」・
「宮嶋伝記」には今橋城となっており、また「今橋物語」には峯野城や歯雑城(おかさわじょう)と
古名を紹介していて、今橋城の城名には諸説がある。
大永 2
年( 1522
年)、城主であった牧野信成(古白の子)によって吉田城と改められたというが、
『宗長手記』では、大永 4
年( 1524
年)に「十日に今橋牧野田三一宿」、大永 6
年( 1526
年)、
「三河国今橋牧野田三」とある。
また、明治 42
年( 1909
年)発行の『豊橋志要』(豊橋市参事会)には、天文年中に、今川義元が、
今橋から吉田に改称したとしている。
『吉田城復元模型』。手前右側の鉄櫓だけ再建されているのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%9B%BD)
】
より
『豊橋公園のイスノキ』。
暖地に自生するマンサク科の常緑高木。別名、ユスノキ、ユシノキ、ヒョンノキ。
樹高 16m
目通り幹囲 3.6m
推定樹齢 300年以上
樹形が美しく、樹勢も良いのも大したものだが、何と言っても、大きく力強い根張りが
素晴らしい。根元回りの姿には、目を釘付けにする魅力があるように思われる。
本丸跡広場より『鉄櫓』を再び。
『吉田城』案内板。
『吉田城略史』
吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。
以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、
天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の
整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は
譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
この城の縄張りは背後に豊川をひかえ、本丸を中心に、二の丸、三の丸を前面と側面に配した
半輪郭式の「後ろ堅固の城」といわれるものである。
『石垣と刻印』
大規模に拡張された吉田城も、石垣のあるのは本丸とその他数カ所だけで他は土塁であった。
本丸石垣の壁面は、内側・外側合わせると約50面になる。野面積み(自然石を砕いて、
そのまま積んでいく)である鉄櫓(復興)下北面と西面の石垣は、後世の手直しの跡のない
池田輝政時代の石垣だといわれている。
さらに、石垣の石のうち花崗岩に色々な印が彫られてるが、これがいわゆる「石垣刻印」と
呼ばれているものである。刻印は、大阪城や名古屋城などにもみられ、築城工事を分担した
大名と家臣などの印であるといわれ、現在まで50以上確認されている。
因みに、吉田城の石垣に使われている花崗岩は名古屋城創設用の石材を使用したものである。
『吉田城跡』石碑。
『南御多門跡』碑。
この先で枡形構造になっていたので、おそらく一の門が冠木門、
本丸側の二の門がこの『南御多門』だったのであろう。
吉田城は大規模な城郭ではありますが大半は土塁で、石垣が築かれているのは
本丸周辺のみとなっているのだと。
『城の石垣刻印とは』。
『石垣刻印』-1
『石垣刻印』-2
『空堀』。
『冠木門跡』。
吉田城を後にして『豊橋市役所』を見る。
『カトリック豊橋教会』。
そして訪ね忘れていた『豊橋ハリストス正教会』に戻る。
戦災で市街の中心が焼けた豊橋において、豊橋市公会堂と共に残る数少ない近代建築である。
葱坊主にも玉葱にも例えられる、ロシア正教特有のドーム飾り。
『豊橋ハリスト正教会聖使福音者馬太聖堂』
豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂は、大正2年12月に竣工した。
平面は、西から東へ、玄関、啓蒙所、聖所、至聖所を一直線に並べる、ハリストス正教会聖堂に
共通する形式である。
豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂は、ハリストス正教会聖堂の定型的な平面構成を
もつとともに、我が国における木造ハリストス正教会聖堂の完成型の建築構成と細部意匠を
もつことで、高い歴史的価値がある。
また本聖堂が、我が国ハリストス正教会の司祭建築家河村伊蔵の設計と推測できる点においても
重要である。
木造、建築面積182.03m2、一階建、正面八角鐘楼付、銅板葺、聖障付。
正面。函館は煉瓦造だが、豊橋は木造である。
設計は日本ハリストス正教会の聖職者で建築家の河村伊蔵(1866~1940)。
そして豊橋市公会堂前の歩道橋を上って行く。
国道1号線に架かる歩道橋。
歩道橋より愛知県 豊橋警察署方面を見る。
・・・ もどる
・・・
・・・ つづく
・・・
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